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2012.03.07

軍歌、戦時歌謡の研究 未完

2004年08月29日から
軍歌、戦時歌謡の研究
 
   一 はじめに
    
 大学受験勉強を始めています。
 論文の練習をしたいと思います。
 最初に手をつけるテーマは「軍歌、戦時歌謡は、日本国民をどこに導こうとしたのか」です。
 明治元年以来の、「天皇の御代」の軍歌、戦時歌謡です。
 日本は、世界の主要な独占資本主義国の一つになっていきましたが、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)がしかれ、国民から権利と自由を奪うとともに、農村では重い小作料で耕作農民をしめつける半封建的な地主制度が支配し、独占資本主義も労働者の無権利と過酷な搾取を特徴としていました。この体制のもと、日本は、アジアで唯一の帝国主義国として、アジア諸国にたいする侵略と戦争の道を進んでいました。
 日本帝国主義は、ロシア革命と中国革命にたいする干渉戦争、中国にたいする侵略戦争にを開始しました。朝鮮、台湾を植民地にしました。
 こうした中、軍歌、戦時歌謡も明治元年以来、作り続けられ、歌い続けられてきました。
 そして、日本帝国主義の侵略の拡大とともに、その数も増え、歌われる回数も増えていきました。
 日本帝国主義は、一九三一年、中国の東北部への侵略戦争を、三七年には中国への全面侵略戦争を開始して、第二次世界大戦に道を開く最初の侵略国家となりました。
 この過程で、どのような軍歌、戦時歌謡が作られ、歌われたでしょうか。
 四〇年、ヨーロッパにおけるドイツ、イタリアのファシズム国家と軍事同盟を結成し、四一年には、中国侵略の戦争をアジア・太平洋全域に拡大して、第二次世界大戦の推進者となりました。
 この過程で、軍歌、戦時歌謡は、どうだったでしょうか。
 侵略戦争は、二千万人をこえるアジア諸国民と三百万人をこえる日本国民の生命を奪いました。
 この戦争のなかで、沖縄は地上戦の戦場となり、日本本土も全土にわたる空襲で多くの地方が焦土となりました。
 四五年八月には、アメリカ軍によって広島、長崎に世界最初の原爆が投下され、その犠牲者は二十数万人にのぼり(同年末までの人数)、日本国民は、核兵器の惨害をその歴史に刻み込んだ被爆国民となりました。
 ファシズムと軍国主義の日独伊三国同盟が世界的に敗退するなかで、四五年八月、日本帝国主義は敗北し、日本政府はポツダム宣言を受諾しました。
 軍歌、戦時歌謡と、こうした過程を重ねながら、「軍歌、戦時歌謡は、日本国民をどこに導こうとしたのか」、そして、それが、どういう結末だったかを追求します。
 以下、順不同、資料の手に入った項目から始めます。
 最終的に並べ替え、整理して、一貫した論文にしたいと思っています。
   二 「お山の杉の子」
    
 「お山の杉の子」は、一九四四年十一月制定の「国民合唱曲」です(作詞・吉田テフ子、補作詞・サトウハチロー、作曲・佐々木すぐる)。
 四四年、少国民文化協会の少国民歌の懸賞募集の一位入賞歌です。
 作詞者の吉田テフ子は二〇年、椎材の産地、徳島県宍喰町の素封家に生まれました。子どものころ、木材の供出が多く禿山が増えていったことを回想しての詞であるといわれています。
 一、
 むかしむかし そのむかし
 椎の木林の すぐそばに
 小さなお山が あったとさ あったとさ
 丸々坊主の 禿山は
 いつでもみんなの 笑いもの
 これこれ杉の子 起きなさい
 お日さまニコニコ 声かけた 声かけた
 二、
 一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いい)、六(むう)、七(な)、
 八日(ようか)九日(ここのか) 十日(とうか)たち
 ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上
 小さな杉の子 顔出して
 はいはいお日さま 今日は
 これを眺めた 椎の木は
 アッハハのアッハハと 大笑い 大笑い
 ここまでは、かわいい歌ですが……。
 三、
 「こんなちび助 何になる」
 びっくり仰天 杉の子は
 おもわずお首を ひっこめた ひっこめた
 ひっこめながらも 考えた
 「なんの負けるか 今に見ろ」
 大きくなって 国のため
 お役に立って みせまする みせまする
 四、
 ラジオ体操 一二三
 子どもは元気で 伸びてゆく
 昔々の禿山は 禿山は
 今では立派な 杉山だ
 誉れの家の 子のように
 強く 大きく 逞(たく)ましく
 椎の木見おろす 大杉だ 大杉だ
 五、
 大きな杉は 何になる
 兵隊さんを 運ぶ船
 傷痍(しょうい)の勇士の 寝るお家 寝るお家
 本箱 お机 下駄 足駄
 おいしいお弁当 食べる箸
 鉛筆 筆入れ そのほかに
 嬉しや(楽しや) まだまだ 役に立つ 役に立つ
 六、
 さあさ負けるな 杉の木に
 勇士の遺児なら なお強い
 体を鍛え 頑張って 頑張って
 今に立派な 兵隊さん
 忠義孝行 ひとすじに
 お日さま出る国 神の国
 この日本を 守りましょう 守りましょう
 
 「誉れの家」は、戦死者の出た家のことです。戦死をした家の人には「誉れの家」という表札が配られて張ってありました。
「忠義孝行」というのは、戦争の責任者、大元帥である昭和天皇への忠義孝行です。
「神の国」は、日本で、当時は、日本は万世一系の天皇が治める神の国とされていました。
 「お山の杉の子」は、子どもたちに「体を鍛え 頑張って 頑張って 今に立派な (天皇のための)兵隊さん」になりなさいという歌でした。
 戦後は、三番以降は、()のように改作されています。
 三、
 「こんなちび助 何になる」
 びっくり仰天 杉の子は
 おもわずお首を ひっこめた ひっこめた
 ひっこめながらも 考えた
 「なんの負けるか 今に見ろ」
 大きくなって 国のため(大きくなったら 皆のため)
 お役に立って みせまする みせまする
 四、
 ラジオ体操 一二三(ほがらかに)
 子どもは元気で 伸びてゆく
 昔々の禿山は 禿山は
 今では立派な 杉山だ
 誉れの家の 子のように (誰でも感心 するような)
 強く 大きく 逞(たく)ましく
 椎の木見おろす 大杉だ 大杉だ
 五、
 大きな杉は 何になる
 兵隊さんを 運ぶ船(お船の帆柱 はしご段)
 傷痍(しょうい)の勇士の 寝るお家 寝るお家(とんとん大工さん たてる家 たてる家 )
 本箱 お机 下駄 足駄
 おいしいお弁当 食べる箸
 鉛筆 筆入れ そのほかに
 嬉しや(楽しや) まだまだ 役に立つ 役に立つ
 六、
 さあさ負けるな 杉の木に
 勇士の遺児なら なお強い(すくすく伸びよう 皆伸びよう)
 体を鍛え 頑張って 頑張って(スポーツ忘れず 頑張って 頑張って)
 今に立派な 兵隊さん(すべてに立派な 人となり)
 忠義孝行 ひとすじに(正しい生活 ひとすじに )
 お日さま出る国 神の国(明るい楽しい このお国)
 この日本を 守りましょう 守りましょう(わが日本を つくりましょう つくりましょう)
   三 「海行かば」
 
 天皇の侵略戦争のために死のうではないかと呼びかけたのは一九三七年の「海行かば」(作詞・大伴家持、作曲・信時潔)です。
 海行かば
 水漬(みづ)くかばね
 山行かば
 草むすかばね
 大君の辺(へ)にこそ死なめ
 顧みはせじ
 つぎのような意味です。
 海のたたかいでは
 水に浸ったしかばねとなり
 陸のたたかいでは
 草生すしかばねとなって
 天皇陛下のお傍で死のう
 後悔はしない 
 一九四三年十二月、文部省と大政翼賛会が、この歌を儀式に用いることに決めました。
 天皇政府の国民にたいする要求に、背筋が寒くなる思いです。
   四 子どもたちへの檄
    
 大阪府堺市の小宮征夫さんが、太平洋戦争中の経験を書いています。
 <ラジオは毎日、大本営発表の帝国陸海軍の戦果を流していた。新聞には日本軍が占領した中国や東南アジアの版図が描かれ、そこに日の丸の旗が立っていた。太平洋戦争中の一九四二年、鹿児島県の大きな川沿いのまち、川内市に住んでいた私は、五歳だった。
 菓子も配給制になり、幼稚園の遊戯にも兵隊さんが登場した。「♪兵隊さん兵隊さん旗を立てて 今日はどこへ行きますか お国のために 強い兵隊さんになれる子どもを呼びにいく」(題は不明。歌詞は、こうだったと思うが…)。私たち園児が木銃をかついで行進しながら合唱するのだった。
 「♪肩を並べて 兄さんと きょうも学校へ ゆけるのは 兵隊さんのおかげです…」(「兵隊さんよありがとう」)。そんな歌とともに川内国民学校一年生になった。
 校門をくぐると、まず、天皇の写真をまつったほこら・奉安殿に最敬礼。朝礼では直立不動の姿勢で皇居の方向にまたもや最敬礼。訓話の最中はトイレにいってはならない。何人もの児童が立ったまま「おもらし」をした。私も、その一人で上級生に付き添われ、汚れた服のままとぼとぼと家に帰った。母の顔を見るなり「わっ!」と、泣き出してしまった。
 四五年、二年生。授業そっちのけで防空壕への避難訓練だ。「♪イヤな所だよ 軍隊は 金の茶碗に 金の箸 仏さまでも あるまいに 一ぜん飯とは情けなや…」(「軍隊ストトン節」)。ひそかにはやっていた歌をうたっていたら、母がくちびるに手を当てて「しっ!」と、私をにらんだ。
 そして川内空襲。家を焼かれ、米軍機の銃爆撃にさらされて家族が逃げまどった日々。空襲で私を除く家族全員が負傷。五歳の妹は左足を切断された。
 叔父四人のうち三人は白木の箱で帰国した>(「しんぶん赤旗」日刊紙、二〇〇四年八月六日付、「終戦59年目読者の手記 いま語る平和の誓い」)。
 
 「兵隊さんよありがとう(皇軍将士に感謝の歌)」(一九三九年二月、朝日新聞社選定、作詞・橋本善三郎、作曲・佐々木すぐる)は、こんな歌詞です。
 一、肩をならべて兄さんと
   今日も学校へ 行けるのは
   兵隊さんのおかげです
   お国のために
   お国のために戦った
   兵隊さんのおかげです
 二、夕べ楽しい 御飯どき
   家内そろって 語るのも
   兵隊さんの おかげです
   お国のために
   お国のために 傷ついた
   兵隊さんの おかげです
 三、淋しいけれど 母さまと
   今日もまどかに 眠るのも
   兵隊さんの おかげです
   お国のために
   お国のために 戦死した
   兵隊さんの おかげです
 四、明日から支那の 友達と
   仲良く暮らしてゆけるのも
   兵隊さんの おかげです
   お国のために
   お国のために 尽くされた
   兵隊さんの おかげです
   兵隊さんよ ありがとう
   兵隊さんよ ありがとう
 大元帥・昭和天皇に動員されて、侵略地で中国人などにむごい仕打ちをしていた天皇の軍隊への賛歌です。
 昭和天皇の機関紙の一つ、朝日新聞の柔らかい子どもたちの頭脳を狙った攻撃です。
 朝日新聞社が、一九三九年二月に「皇軍将士に感謝の歌」に選定した歌は、もう一曲あります。「父よあなたは強かった」(作詞・福田 節、作曲・明本京静)です。
 一、父よあなたは 強かった
   兜(かぶと)も焦がす 炎熱を
   敵の屍(かばね)と ともに寝て
   泥水すすり 草を噛み
   荒れた山河を 幾千里
   よくこそ撃って 下さった
 二、夫よあなたは 強かった
   骨まで凍る 酷寒を
   背をもとどかぬ クリークに
   三日も浸(ひた)かって いたとやら
   十日も食べずに いたとやら
   よくこそ勝って 下さった
 三、兄よ弟よ ありがとう
   弾丸(たま)も機雷も 濁流も
   夜を日に進む 軍艦旗
   名も荒鷲の 羽ばたきに
   残る敵機の 影もなし
   よくこそ遂げて 下さった
 四、友よわが子よ ありがとう
   誉(ほまれ)の 傷のものがたり
   何度聞いても 目がうるむ
   あの日の戦(いくさ)に 散った子も
   今日は九段の 桜花
   よくこそ咲いて 下さった
 五、ああ御身(おんみ)らの 功(いさお)こそ
   一億民(たみ)のまごころを
   ひとつに結ぶ 大和魂(だま)
   いま大陸の 青空に
   日の丸高く 映えるとき
   泣いて拝(おがむ)む 鉄兜
 
 「強かった」と、過去形であることに注意。
 天皇の指揮下で侵略に参加した多くの日本人が侵略者として非業の死をとげました。
   五 「蛍の光」の意図
 「蛍の光」(原題は「蛍」)は、一八八一年に出された日本で最初の音楽の教科書『小学唱歌集』に収められました。作詞は、東京師範学校の稲垣千頴(いながき・ちかい)、曲はスコットランド民謡です。
 一、ほたるの光、窓(まど)の雪。
   書(ふみ)よむ月日、重ねつつ。
   いつしか年も、すぎの戸を、
   明けてぞ、けさは、別れゆく。
 ニ、とまるも行くも、限りとて、
   かたみに思う、ちよろずの、
   心のはしを、一言(ひとこと)に、
   さきくとばかり、歌うなり。
 三、筑紫(つくし)のきわみ、みちのおく、
   海山(うみやま)とおく、へだつとも、
   その真心(まごころ)は、へだてなく、
   ひとつに尽くせ、国のため。
 四、千島(ちしま)のおくも、沖縄(おきなわ)も、
   八洲(やしま)のうちの、守りなり。
   至らん国に、いさおしく。
   つとめよ わがせ、つつがなく。
 一八七二年十月十六日、琉球国王・尚泰を琉球藩主とし、華族としました。
 一八七三年一月十日、徴兵令を発布しました。
 一八七四年二月六日、閣議、台湾出兵を決定(五月二十二日、台湾上陸)。
 一八七五年五月七日、樺太・千島交換条約を締結しました。
 同年九月二十日、日本の軍艦が朝鮮の領海をおかし、江華島の守備隊が砲撃しました(江華島事件)。
 一八七六年二月二十六日、江華島事件を口実に朝鮮政府をおどして日朝修好条規を調印(江華条約)、日本は、朝鮮にたいして治外法権をおしつけました。
 一八七九年四月四日、琉球藩を廃止し沖縄県を設置しました。
 こうした他国侵略の機運のなかで、この歌は生まれました。
 一八八二年一月四日、軍人勅諭を発布し、天皇の統帥権を明示しました。
 その後、天皇制政府は、清朝中国と朝鮮の支配を争った日清戦争(一八九四年-九五年)では、中国から台湾や遼東半島を奪いとり、これを植民地としました。そして、日本の朝鮮支配に反対していた朝鮮の王妃・●「門」の中に「文」●妃(びんひ)を殺害しました。その後、帝政ロシアとのあいだで中国東北部と朝鮮の支配権を争った日露戦争(一九〇四年-〇五年)をひきおこし、一九〇五年には、「韓国保護条約」で外交権をとりあげて朝鮮を日本の「保護国」にしました。
 こうしたころには、「蛍の光」の四番の歌詞も、つぎのように変更されました。
 四、台湾のはても 樺太も
   八洲(やしま)のうちの、守りなり。
   至らん国に、いさおしく。
   つとめよ わがせ、つつがなく。
 戦後生まれの私などは、一番、二番しか知りませんでした。
 三番、四番のことを知ったのは一九八二年のことでした。
 同年三月二十四日、東京都北区の毛利順男・教育委員会指導室長が区内の四十六の小学校の校長に出した「卒業証書授与式における式歌について」という事務連絡のなかに、三番、四番のことがあったのです。
 <3月25日に行われる卒業証書授与式について、日常の指導の成果が発揮されるようお願いいたします。尚、これにつき次の二点についてご配慮くださるようお願いいたします。
   記
 1、国歌斉唱について
   式次第に「君が代斉唱」とある場合、「国歌斉唱」と呼称してください。
 1、ほたるの光について
   1、2番のみならず、3、4番についても今後ご配慮願います。>
 「参考」として「ほたるの光」の三番、四番の歌詞も印刷されていました。
 この曲そのものは小学校五年生の音楽教科書に出ていましたが、教育芸術社、東京書籍、音楽之友社、教育出版の教科書を見ても、歌詞は一番、二番しか載っていませんでした。
 なぜ、しかも、卒業式の前日に…。この事務連絡は教育現場からの強い反発を受けました。
 (この北区の経過については、「しんぶん赤旗」日刊紙、一九八三年二月十六日付、十七日付、十九日付、二十日付、二十二日付の連載「教育を考える」に載っています)
   六 「いざ来いニミッツ マッカーサー」
    
 ついに軍歌は、ここまできたかと思わせるのが「比島決戦の歌」(一九四四年三月、作詞・西條八十、作曲・古関裕而) です。
 一、決戦かがやく 亜細亜の曙
   命(いのち)惜しまぬ 若櫻
   いま咲き競う フィリッピン
   いざ来いニミッツ マッカーサー
   出て来りゃ地獄へ 逆落とし
 二、陸には猛虎(もうこ)の 山下将軍
   海に鉄血(てっけつ) 大河内(おおかはち)
   みよ頼もしの 必殺陣
   いざ来いニミッツ マッカーサー
   出て来りゃ地獄へ 逆落とし
 三、正義の雷(いかづち) 世界を震わせ
   特攻隊の 往くところ
   われら一億 共に往く
   いざ来いニミッツ マッカーサー
   出て来りゃ地獄へ 逆落とし
 四、御陵威(みいつ)に栄(さか)ゆる 同胞(はらから)十億
   興亡岐(わか)つ この一戦
   ああ血煙の フィリッピン
   いざ来いニミッツ マッカーサー
   出て来りゃ地獄へ 逆落とし
 軍部の依頼で、読売新聞社が作詞を西條八十に依頼したものです。
 当時のアメリカ軍の指揮官が、マッカーサー(陸軍総司令)、二ミッツ(海軍総司令)の両将軍でした。
 歌の目的は、フィリピン(比島)の決戦を機に、さらに国民の士気をふるいたたせ敵がい心をたかめるためです。
 歌と平行して「いざ来いニミッツ・マッカーサー、出てくりゃ地獄へさか落し」と記した大きな長い垂れ幕が、東京の丸ビルや有楽町駅の近くのビルの屋上や屋根に出されました。
 日本軍は、反抗を開始したアメリカ軍によって、一九四二年のミッドウェー海戦に敗れ、それ以後、つぎつぎと敗北と退却をつづけました。
 この歌は、こうしたなかでつくられたものです。
 アメリカ軍は、一九四四年七月から九月には、サイパン、グアム、テニアンのマリアナ諸島を占領し、ここに日本本土を爆撃する基地をつくりました。
 この年の十月二十日、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸。同月二十四日、日本海軍は、レイテ沖海戦で敗れ、連合艦隊の主力を失いました。
 そして、一九四五年二月にはフィリピンのルソン島をアメリカ軍に奪われ、三月には硫黄島(いおうとう)の守備兵二万人が全滅します。
 中国でも、この年の春から八路軍(はちろぐん)の反抗が強まり、日本軍の退却がはじまりました。
 西條が、戦後、軍歌について書いています。
 「ぼくは流行歌、軍歌の如き歌謡は、もとから芸術品ではないと考えている。だが、芸術品でなくとも、これらには政治、産業などと同じく、百万人、千万人の人間を動かす力があるのだ。そういう点で、男子が一生を賭ける仕事として価値があると信じるのだ」(『私の履歴書 第十七集』、日本経済新聞社)
 「流行歌、軍歌の如き歌謡」と流行歌、軍歌をひとまとめにしたずるいいいかたで、軍歌をつくったことの「価値」を論じている文章です。
 西條は、同じ文章で「いざ来いニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄へ 逆落とし」のところは自分の創作ではなく、レコード吹き込みに立ち会った参謀本部の軍人たちの創作だと他人の弁を借りながら弁明していますが、この部分があってもなくても、一億に必勝を呼びかけた「比島決戦の歌」の本質は変わりません。
   七 靖国神社賛歌
    
 東京の靖国神社は、“天皇のために”戦死した軍人、軍属らを「祭神」とする、特異な神社です。西南戦争の西郷隆盛ら「賊軍」や、空襲などの戦争犠牲者は祭られていません。
 天皇中心の国家体制の中で、天皇の靖国神社参拝、天皇のための死を称揚する学校教科書や軍歌や戦時歌謡などによって、靖国神社で神と祭られることが最高の名誉と教え込まれた国民を、侵略戦争にかりたてる役割を担いました。
 靖国神社の前身は、戊辰戦争の官軍戦没者をまつるため、一八六九年に創設された東京招魂社です。
 天皇制政府が全国の神社や祭神を序列化し、国家神道の体系を作り上げていく中で、一八七九年に靖国神社となり、一八八七年から、神職の任命権も含めて全面的に陸軍省・海軍省の管轄となります。
 だれを祭るかも軍が決定し天皇の裁可を仰ぐ、軍事的宗教施設として、相次ぐ侵略戦争の戦死者らを「祭神」にしてきました。
 靖国神社を讃えた歌がたくさんあります。
 「靖国神社」(一九一二年、『尋常小学校唱歌』第四学年用)は、大正元年の尋常小学校四年生用の唱歌です。
 一、花は桜木人は武士
   その桜木に囲まるゝ
   世を靖国の御社(みやしろ)よ
   御国のためにいさぎよく
   花と散りにし人々の
   魂(たま)はここにぞ鎮まれる
 二、命は軽く義は重し
   その義を践(ふ)みて大君に
   命さゝげし丈夫夫(ますらお)よ
   銅(かね)の鳥居の奥深く
   神垣(かみがき)高くまつられて
   誉は世々に残るなり
 靖国神社は「御国のためにいさぎよく/花と散りにし人々の/魂(たま)はここにぞ鎮まれる」所だよ、「命は軽く義は重し」ですよ、靖国神社は「その義を践(ふ)みて大君(天皇)に/命さゝげし丈夫夫(ますらお)」がまつられていますよ、天皇のために戦死した人々は「銅(かね)の鳥居の奥深く/神垣(かみがき)高くまつられて/誉は世々に残」りますよと歌っています。
 こういうことを尋常小学校四年生に歌という形で教え込んだのです。
 商業新聞も、侵略戦争推進の歌をつくりました。
 「父よあなたは強かった 皇軍将士に感謝の歌」(一九三九年二月、朝日新聞社選定、作詞・福田 節、作曲・明本京静)は、「あの日の戦(いくさ)に 散った子も/今日は九段の 桜花/よくこそ咲いて 下さった」と歌います。
 一、父よあなたは 強かった
   兜(かぶと)も焦がす 炎熱を
   敵の屍(かばね)と ともに寝て
   泥水すすり 草を噛み
   荒れた山河を 幾千里
   よくこそ撃って 下さった
 二、夫よあなたは 強かった
   骨まで凍る 酷寒を
   背をもとどかぬ クリークに
   三日も浸(ひた)かって いたとやら
   十日も食べずに いたとやら
   よくこそ勝って 下さった
 三、兄よ弟よ ありがとう
   弾丸(たま)も機雷も 濁流も
   夜を日に進む 軍艦旗
   名も荒鷲の 羽ばたきに
   残る敵機の 影もなし
   よくこそ遂げて 下さった
 四、友よわが子よ ありがとう
   誉(ほまれ)の 傷のものがたり
   何度聞いても 目がうるむ
   あの日の戦(いくさ)に 散った子も
   今日は九段の 桜花
   よくこそ咲いて 下さった
 五、ああ御身(おんみ)らの 功(いさお)こそ
   一億民(たみ)のまごころを
   ひとつに結ぶ 大和魂(だま)
   いま大陸の 青空に
   日の丸高く 映えるとき
   泣いて拝(おがむ)む 鉄兜
 息子を天皇の侵略戦争に奪われた母親にも靖国神社の歌が用意されました。「九段の母」(一九三九年五月、作詞・石松秋二、作曲・能代八郎)です。
 一、上野駅から 九段まで
   勝手知らない 焦(じ)れったさ
   杖を頼りに 一日がゝり
   倅(せがれ)来たや 逢(あ)いに来た
 二、空を衝くよな 大鳥居
   こんな立派な 御社(おやしろ)に
   神と祀(まつ)られ 勿体(もったい)なさよ
   母は泣けます 嬉(うれ)しさに
 三、 両掌(りょうて)合わせて ひざまづき
   拝むはずみの 御念仏
   はっと気付づいて うろたえました
   倅許せよ 田舎もの
 四、鳶(とび)が鷹の子 生んだ様で
   今じゃ果報が 身に余る
   金鵄勲章が 見せたいばかり
   逢いに来たぞや 九段坂
 「靖国神社の歌」(一九四〇年十二月、陸軍省・海軍省選定、作曲・帝国軍楽隊)は、「あゝ大君の ぬかづき給う」と靖国神社を賛美しています。
 一、日の本の光に映えて
   尽忠の雄魂祀(まつ)る
   宮柱 太く燦たり
   あゝ大君の ぬかづき給う
   栄光の宮 靖国神社 
 二、日の御旗 断乎と守り
   その命 国に捧げし
   ますらおの 御魂鎮(しず)まる
   あゝ国民(くにたみ)の 拝(おが)み称(たた)う
   いさおしの宮 靖国神社
 三、報国の血潮に燃えて
   散りせまし 大和乙女の
   清らけき 御霊安らう
   あゝ同胞(はらから)の 感謝に薫る
   桜さく宮 靖国神社
 四、幸御魂(さちみたま) 幸(さち)はえまして
   千木(ちぎ)高く 輝くところ
   皇国は永遠(とわ)に 厳たり
   あゝ一億の 畏(かしこ)み祈る
   国護る宮 靖国神社
 一九四一年四月から尋常小学校が国民学校になりました。侵略戦争要員をつくる学校になったのです。
 この年七月の「そうだその意気」(一九四一年七月、読売新聞社選・国民総意の歌)も靖国神社を歌いこんでいます。
 一、なににも言えず 靖国の
   宮のきざはし ひれ伏せば
   熱い涙が こみ上げる
   そうだ感謝の その気持ち
   揃う、揃う気持が 国護る
 二、雁(かり)鳴きわたる 月の空
   今夜いまごろ 戦地では
   弾丸を浴びてる ともがある
   そうだ済まない その気持
   闘う、闘う気持が 国護る
 三、戦に勝つにゃ お互いが
   持場職場に いのちがけ
   こんな苦労じゃ まだたりぬ
   そうだその意気 その気持
   揃う、揃う気持が 国護る
 四、かがやく勲 皇軍に
   まけず遅れず がっちりと
   共に戦う 銃後軍
   そうだ進めば 盛りあがる
   凱歌、凱歌あかるい 大アジア
   
 一九四一年十二月八日、日本軍がハワイ真珠湾を攻撃、マレー半島に上陸。昭和天皇が開戦の詔勅、アメリカ、イギリスに宣戦布告。太平洋戦争の開始です。
 翌日、政府は、日本共産党員の作家・宮本百合子ら三百九十六人を検挙、拘束しました。
 日本軍は、一九四二年一月二日、マニラを占領。二月十五日には、シンガポール占領(占領直後、五、六万人の住人を虐殺。マレーシアでも約九千人を虐殺)。三月二日、ラングーンを占領しました。三月九日には、ジャワ島のオランダ軍を降伏させました。
 こうしたなかでつくられたのが「進め一億火の玉だ」(一九四二年二月、防衛情報部選定、作詞作曲・大政翼賛会)です。
 
 一、行くぞ行こうぞ ぐわんとやるぞ
   大和魂 だてじゃない
   見たか 知ったか 底力
   こらえ こらえた一億の
   かんにん袋 をが切れた
 二、靖国神社の おんまえに
   柏手うって ぬかずけば
   親子 兄弟 夫らが
   今だたのむと 声がする
   おいらの胸にゃ ぐっときた
 三、そうだ一億 火の玉だ
   一人一人が 決死隊
   がっちりくんだ 此の腕で
   守る銃後は 鉄壁だ
   何がなんでも やりぬくぞ
   進め一億 火の玉だ
   行くぞ一億 どんと行くぞ
 明治以来の天皇の侵略戦争でたくさんの戦死者が出ていましたが、靖国神社にまつったその戦死者「親子 兄弟 夫ら」を利用して、新たな侵略戦争へ動員しようとしたのです。
 学校の子どもたちにも、新しい靖国神社の歌がつくられました。
 太平洋戦争開戦の翌年の国民学校初等科二年生の音楽の教科書に載った「靖国神社」(一九四二年、国民学校『初等科音楽 二』)です。
 一、あゝとうとしや大君に
   命さゝげて国のため
   たてしいさおきとこしえに
   光かがやく靖国の神
 二、あゝかしこしや桜木の
   花と散りても忠と義の
   たけきみたまはとこしえに
   国をまもりし靖国の神
   八 「われは海の子」と軍艦
    
 「われは海の子」(文部省唱歌)の歌詞を読んでいて驚きました。その七番に「いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の国。」というのがあるのです。
 というより、六番までは、七番をいうための前ふりのようになっているのです。
 この歌は、一九一〇年七月の『尋常小学読本唱歌』です。
 すでに前年の七月六日、閣議で韓国併合の方針が決定されていました。
 そして、この歌ができた翌月、一九一〇年八月の二十二日、日本軍の圧力のもとで韓国併合条約が調印されました。同月二十九日には朝鮮総督府が設置されました。
 天皇制政府が海外侵略を拡大するなかで「われは海の子」も生み出されました。
 一、我(われ)は海の子白浪の
   さわぐいそべの松原に、
   煙たなびくとまやこそ
   我がなつかしき住家なれ。
 二、生まれてしおに浴(ゆあみ)して
   浪(なみ)を子守の歌と聞き、
   千里寄せくる海の気を
   吸いてわらべとなりにけり。
 三、高く鼻つくいその香(か)に
   不断の花のかおりあり。
   なぎさの松に吹く風を
   いみじき楽(がく)と我は聞く。
 四、丈余(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて
   行手(ゆくて)定(さだ)めぬ浪まくら、
   百尋千尋(ももひろちひろ)海の底
   遊びなれたる庭広し。
 五、幾年ここにきたえたる
   鉄より堅きかいなあり。
   吹く塩風に黒みたる
   はだは赤銅(しゃくどう)さながらに。
 六、浪にただよう氷山も
   来たらば来たれ恐れんや。
   海まき上ぐるたつまきも
   起こらば起これ驚かじ。
 
 七、いで大船(おおぶね)を乗出して
   われは拾わん海の富。
   いで軍艦に乗組みて
   我は護らん海の国。
   九 「爆弾三勇士」 一
 「爆弾三勇士」(一九三二年五月、大阪毎日新聞・東京日日新聞募集当選歌、作詞・与謝野寛、作曲・辻順治)という、ひどく説明的な歌があります。
 一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
   われの友隊(ゆうたい)すでに攻む
   折から凍る如月(きさらぎ)の
   二十二日の午前五時
 二、命令下る正面に
   開け歩兵の突撃路
   待ちかねたりと工兵の
   誰か後(おくれ)をとるべきや
 三、中にも進む一組の
   江下(えした) 北川 作江(さくえ)たち
   凛(りん)たる心かねてより
   思うことこそ一つなれ
 四、われらが上に戴(いただく)くは
   天皇陛下の大御稜威(おおみいつ)
   後(うしろ)に負うは国民(くにたみ)の
   意志に代われる重き任(にん)
 五、いざこの時ぞ堂々と
   父祖の歴史に鍛えたる
   鉄より固(かた)き忠勇の
   日本男子を顕(あら)わすは
 六、大地をけりて走りゆく
   顔に決死の微笑あり
   他の戦友に遺(のこ)せるも
   軽(かろ)く『さらば』と唯一語
 七、時なきままに点火して
   抱(いだ)き合いたる破壊筒(はかいとう)
   鉄条網に到りつき
   我が身もろとも前に投ぐ
 八、轟然おこる爆音に
   やがて開ける突撃路
   今わが隊は荒海の
   潮(うしお)のごとくに躍(おど)り入る
 九、ああ江南の梅ならで
   裂けて散る身を花となし
   仁義の軍に捧げたる
   国の精華の三勇士
 十、忠魂清き香を伝え
   永く天下を励ましむ
   壮烈無比の三勇士
   光る名誉の三勇士
 以下、この歌の背景などを探ります。
   十 「爆弾三勇士」 二
    
 一九三二年一月十八日夜、中国の上海で、日本人法華宗僧侶、信徒ら五人が中国人に襲われ、二人が死亡、三人が重傷を負うという事件が発生しました。これにたいして、二十日、日本人居留民の青年が報復し抗日運動の拠点を襲って放火、日中双方に死傷者を出しました。
 戦後になって明らかにされたことですが、この「二人死亡、三人重傷」の事件は、中国に展開していた日本軍、関東軍が仕掛けた謀略でした。
 関東軍の板垣大佐、花谷少佐が、上海駐在武官補佐官・田中隆吉に謀略の実行を命じました。
 田中は、中国人を買収し、日本人の僧侶が托鉢で回っているのを、狙撃させました。
 この事件を待ち構えていた日本青年同志会員三十余人が犯人が隠れていると主張して、ナイフと梶棒で、三友実業社を襲って放火し、帰路、警官隊と衝突して、死傷者を出しました。
 この事件を口実に、関東軍は中国で軍事行動をおこします。
 一月二十八日からの上海事変です。
 日本海軍陸戦隊の兵力は約二千人。相手の第十九路軍は、抗日意識に燃えておて、日本軍は苦戦しました。
 あわてた陸軍中央部は白川義則大将を司令官とする上海派遣軍を急きょ、増援しました。金沢の第九師団と久留米の第十二師団より編成した混成旅団の総兵力は約一万七千人にのぼりました。
 二月二十日から、日本軍は上海市北郊の廟行鎮の第十九路軍の陣地に攻撃をかけました。しかし、戦死者二百二十四人を出し、廟行鎮の陣地を攻めあぐねていました。
 二月二十二日の明け方、二四旅団の小隊長が強行破壊を命令し、伍長が部下三十五人に事前に爆破筒(竹で造られた即製のもの)を点火して持っていき、それを鉄条網の下へ突っ込んでくるよう命令しました。工兵である江下武二一等兵、北川丞一等兵、作江伊之助一等兵も、爆破筒を抱いて、第十九路軍の陣地の前に敷設されている鉄条網へ突入して突撃路を開きましたが、三人とも爆死。江下は塹壕内まで吹き飛ばされ、虫の息でしたが、兵士に抱かれて死にました。北川は身体が真二つにされ土の上に坐りました。この作戦で、ほかに四人の兵が戦死しています。この突撃路を確保した日本軍は一挙に攻勢に出て、第十九路軍の陣地の占拠に成功しました。
 なぜ、江下、北川、作江が爆死しのでしょう。
 三人が持っていた爆破筒の導火線は、通常のものより短かいものでした。途中で引き返そうとした三人を上官が怒鳴りつけて、仕方なく突入した三人は鉄条網の破壊には成功したものの、離脱が遅れて爆死しました。予定より早い爆発による事故死の原因は、上官が計算を間違え導火線の長さを半分にしてしまったためでした。
 日本軍は、この江下、北川、作江の事故死を「美談」にしたてあげていきます。
   十一 「爆弾三勇士」 三
    
 こうした背景の中で、爆弾三勇士は出現します。
 三勇士の記事は、二月二十四日にいっせいに掲載されました。
 「大阪朝日」は、第一面に四段で「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した三勇士」の見出し。
 <〔上海特電二十三日発〕二十三日午後四時〇〇団司令部発表=二十二日〇〇団は独立で廟行鎮の敵陣地を突破し友軍の戦闘を有利に導いたが、その際、自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ身をもって深さ四メートルにわたり鉄条網中に投じ、自己もろ共にこれを粉砕して、勇壮なる爆死を遂げ歩兵の突撃路をきり開いた三名の勇士がある。
 廟行鎮の防御陣地には鉄条網を頑丈に張りめぐらし、塹壕深く後にひかえて、さすがのわが軍もその突破に悩んでいた際、わが〇兵隊の〇兵三名は鉄条網を破壊して敵陣の一角を突き崩すため自ら爆死して皇軍のため、御国のために報ずべく自ら死を志願し出たので、〇兵隊長もその悲壮なる忠心を涙ながらに『では国のため死んでくれ』 と許したので右三人は今生の別れを隊長はじめ戦友らに告げ身体一杯に爆弾を捲付けて帝国万歳を叫びつつ飛出して行き、鉄条網に向って飛込んで真に壮烈なる戦死を遂げた。
 これがため鉄条網は破れ、大きな穴が出来、敵の陣地の一部が放れ、これによってわが軍は、ここより敵陣に突入するを得、廟行鎮に攻め寄せてまんまとその翌朝陥れることが出来たもので、これを聞いた〇団長、はじめ戦友らは涙を流して、その最後を弔った。満州事変以来第一の軍事美談とし聞くものをして感泣せしめている。>
 「東京朝日」は、「 帝国万歳 を叫んで我身は木端微塵、三工兵点火せる爆弾を抱き、鉄条網に躍りこむ」の見出し。
 「東京日日」は、「世界比ありやこの気塊、点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す、廟行鎮攻撃の三勇士」の見出し。
 「大阪毎日」は、「肉弾で鉄条網を撃破す、点火した爆弾を身につけ、躍進した三人の一等兵、忠烈まさに粉骨破身」の見出し。
 各新聞は、これ以降、爆弾三勇士キャンペーンを始めます。
 このキャンペーンのなかで各新聞社は「三勇士の歌」を懸賞募集しました。
 二月二十八日、「朝日」、「毎日」は、に懸賞募集をする一面に社告を出しました。「朝日」は「世界歴史上に類い稀なる三勇士の悲壮なる殉国の精神を一層深く国民に印象せしめ、かつこれを永久に記念するため」とし、「毎日」は「本社はこの忠烈な犠牲的行動を永く後世に伝うべく広く募集する」としました。
 「朝日」は「肉弾三勇士の歌」、「毎日」は「爆弾三勇士の歌」です。賞金はいずれも一等五百円。
 「報知」、「国民」も懸賞慕集しました。
 三勇士の歌は、三月十五日に「朝日」、「毎日」とも入選作を発表しました。
 この「毎日」の懸賞募集に当選したのが冒頭の与謝野寛(鉄幹)の歌です。「あの」与謝野晶子の夫です。
 「爆弾三勇士の歌」は同月十七日夜、大阪中央公会堂で発表演奏会が開かれました。
 この発表に先立って、「大阪毎日」本社前から、正午にスタートし、大阪駅前、阪急前、天満橋、大阪城内師団司令部などを戸山学校軍楽隊がパレード。会場の中央公会堂は約六千人が殺到し、超満員で、入り切れなかった人もいました。
 (この原稿の資料は、おもにサイト上の静岡県立大学国際関係学部教授・前坂俊之さんの『兵は凶器なり』 11 15年戦争と新聞メディア-1926-1935- 爆弾三勇士の真実=軍国美談はこうして作られた!>を利用させていいただきました)
   十二  「どうせ生かして還さぬ積り」
    
 一八九四年、日本、清に宣戦布告(日清戦争)。
 一八九五年四月十七日、日清講和条約調印(下関条約)。遼東半島、台湾、澎湖列島(ほうこれっとう。台湾海峡の台湾寄りに位置する島嶼群)の日本への割譲という内容です。
 この日清戦争の最中の一八九五年、「雪の進軍」という軍歌が生まれています。
 作詞・作曲は、永井建子(ながい けんし)です。
 この歌の中に「義理にからめた恤兵真綿(じゅうぺいまわた)/そろりそろりと頸締(くびし)めかかる/どうせ生かして還さぬ積り」という所があります。
 恤兵は、兵士の苦労をねぎらって物品を贈ること、慰問袋です。
 「義理にからめた慰問袋が真綿のようにそろりそろりと兵士の首をしめにかかる。どうせ国家は、われわれを生かして帰さぬつもりだろう」ということでしょうか。
 だとすれば、すごいことを歌いこんでいることになります。
 一九三七年七月、日中戦争が始まると「どうせ生かして還さぬ積り」が軍部の命令で「どうせ生きては還さぬ積り」と直されました(『軍歌と日本人』、加太こうじ、徳間書店)。だれか自分とは別のものの意思が、自分に意思に変えられたわけです。
 一、雪の進軍氷をふんで
   どれが河やら道やら知れず
   馬は斃(たお)れる捨ててもおけず
   此処(ここ)は何処(いずこ)ぞ皆敵の国
   ままよ大胆(だいたん)一服やれば
   頼みすくなや煙草が二本
 二、焼かぬ乾物(ひもの)に半煮え飯(めし)に
   なまじ生命のある其のうちは
   こらえ切れない寒さの焚火(たきび)
   煙(けむ)いはずだよ生木が燻(いぶ)る
   渋い顔して功名談(ばなし)
   すいというのは梅干し一つ
 三、着の身着のまま気楽なふしど
   背嚢(はいのう)枕に外套かぶりゃ
   背の温(ぬく)みで雪解けかかる
   夜具の黍殻(きびがら)シッポリ濡(ぬ)れて
   結びかねたる露営の夢を
   月は冷たく顔覗き込む
 四、命捧げて出てきた身ゆえ
   死ぬる覚悟で突喊(とっかん)すれど
   武運拙(つた)なく討死せねば
   義理にからめた恤兵真綿(じゅうぺいまわた)
   そろりそろりと頸締(くびしめ)めかかる
   どうせ生かして還さぬ積り
 永井建子(一八六五年ー一九四〇年)は、日清戦争のさい、大山巌が司令官である第二軍の軍楽隊に属して従軍しました。この歌は、みずからの軍隊生活をもとに作詞・作曲した、リアルな記録的軍歌です。当時駐屯していた清国山東省の冬季の戦闘の模様を歌ったものだといわれています。
 メロディーは明るく愉快であるのにたい、歌詞は、軍隊生活の皮肉めいたものをありのままに歌いあげています。
 永井建子は、軍楽家・作曲家。広島県(現・広島市佐伯区五日市町)生まれ。一八七八年、上京。陸軍軍楽隊幼年軍楽生となり、一八八〇年、首席で卒業。同軍楽隊に勤めてルルーの指導を受けました。
 永井建子は、一八九二年に「元寇(げんこう)」という軍歌を作詞・作曲していますが、従軍の体験を踏まえた「雪の進軍」は、これとはずいぶん違う感じのものになっています。
 「元寇」
  
 一、四百余州(しひゃくよしゅう)をこぞる
   十万余騎(よき)の敵
   国難(こくなん)ここにみる
   弘安(こうあん)四年夏の頃
   なんぞ怖(おそ)れんわれに
   鎌倉男児(だんじ)あり
   正義武断(ぶだん)の名
   一喝(いっかつ)して世に示(しめ)す
 二、多多良浜辺(たたらはまべ)の戎夷(えみし)
   そはなに蒙古勢(もうこぜい)
   傲慢無礼(ごうまんぶれい)もの
   ともに天を戴(いただ)かず
   いでや進みて忠義に
   鍛(きた)えしわがかいな
   ここぞ国のため
   日本刀(にほんとう)を試(ため)し見ん
 三、こころ筑紫(つくし)の海に
   波おしわけて往(ゆ)く
   ますら猛夫(たけお)の身
   仇(あだ)を討(う)ち還(かえ)らずば
   死して護国(ごこく)の鬼と
   誓(ちか)いし箱崎(はこざき)の
   神ぞ知(し)ろし召(め)す
   大和魂(やまとだましい)いさぎよし
 四、天は怒(いか)りて海は
   逆巻(さかま)く大浪(おおなみ)に
   国に仇(あだ)をなす
   十余(よ)万の蒙古勢は
   底の藻屑(もくず)と消えて
   残るは唯(ただ)三人(みたり)
   いつしか雲はれて
   玄界灘(げんかいなだ)月清し
   十三 「我等がいのち 捨つるとも」
    
 一九三一年九月十八日夜、中国東北部の奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で鉄道爆破事件が発生しました。日本の陸軍部隊・関東軍が、南満州鉄道(満鉄)線路上で自分で爆薬を爆発させながら、これを中国軍のしわざだとして、近くの中国軍兵営を攻撃し、中国侵略を拡大しました(「満州事変」)。
 軍の指揮・命令権を持つ昭和天皇は、「満州事変」に際して、関東軍の軍事行動を容認し、翌三二年一月には同軍将兵を最大限にたたえる勅語を発表。天皇制政府は特別な戦費も支出しています。
 当時の日本で、この侵略戦争に反対した政党は日本共産党だけでした。
 翌一九三二年一月四日の東京大阪朝日新聞紙上に「満州行進曲」(作詞・大江素天、作曲・堀内敬三)が発表されました。この歌は、朝日新聞社が「皇軍慰問」のため作ったものです。
 同年二月十五日、ビクターからレコードが発売されました。
 そして、同年三月十日公開された映画「満州行進曲」(製作=松竹キネマ 蒲田撮影所)の主題歌になりました。
 実際は、「皇軍慰問」というよりは、「我等がいのち 捨つるとも
 なにか惜しまん」と、兵士に死を求める内容でした。
 一、過ぎし日露の 戦いに
   勇士の骨を 埋めたる
   忠霊塔を 仰ぎ見よ
   赤き血潮に 色染めし
   夕日を浴びて 空高く
   千里曠野に 聳えたり
 二、酷寒零下 三十度
   銃も剣も 砲身も
   駒のひずめも 凍る時
   すわや近づく 敵の影
   防寒服が 重いぞと
   互いに顔を 見合せる
 三、しっかり被る 鉄かぶと
   たちまち造る 散兵壕
   わが連隊旗 ひらひらと
   見あげる空に 日の丸の
   銀翼光る 爆撃機
   弾に舞い立つ 伝書鳩
 四、戦いやんで 陣営の
   かがやきさえる 星の下
   黄色い泥靴 くみとって
   かしぐ飯ごうに 立つ湯気の
   ぬくみに探る はだ守り
   故郷いかにと 語り合う
 五、面影さらぬ 戦友の
   遺髪の前に いまひらく
   慰問袋の キャラメルを
   ささげる心 君知るや
   背嚢(はいのう)枕に よもすがら
   ねむれる朝の 大ふぶき
 六、東洋平和の ためならば
   我等がいのち 捨つるとも
   なにか惜しまん 日本の
   生命線は ここにあり
   九千万の はらからと
   ともに守らん 満州を
 この歌は、当時の国策をたくみに歌詞に取り入れています。
 「一」を読んでください。
 中国東北部・満州における日本の権益(満鉄など)は、日露戦争の日本兵の尊い血潮によってあがなわれたものであるというものです。
 「六」を読んでください。
 日本の、この権益を守ることが「日本の生命線」を守ることで、「東洋平和」を守ることです。そのために「我等がいのち 捨つるとも
 なにか惜しまん」というのです。
 勝手に他国に押し入って戦争をしかけ、そこを「日本の生命線」と呼んで戦争を拡大していく、その無法は、いまのアメリカのブッシュ大統領並みの愚劣さです。
   十四  「百舌(もず)よ泣くな」
    
 「百舌(もず)よ泣くな(「もずが枯木で」)」(作詞・サトウハチロー、作曲・徳富繁)をCDで聞いています。
 一、もずが枯木で 鳴いている
   おいらは藁(わら)を たたいてる
   綿びき車は おばあさん
   コットン水車も まわってる
 二、みんな去年と 同じだよ
   けんども足(た)んねえ ものがある
   兄(あん)さの薪(まき)割る 音がねえ
   バッサリ薪割る 音がねえ
 三、兄さは満州へ いっただよ
   鉄砲(てっぽ)が涙で 光っただ
   もずよと寒くも 鳴くでねえ
   兄(あん)さはもっと 寒いだぞ
 何もかも去年と同じ冬の風景なのだが、一つだけ足りないものがある。兄が薪を割る音がしない。兄は兵隊にとられ今、満州(中国東北部)にいる。ということでしょうか。
 『CDブック 戦争と流行歌 君死にたまふことなかれ』(矢沢寛、社会思想社)に、解説がありました。以下、大要です。
 <この詩は、一九三五年十月、講談社から発刊されたサトウハチローの『僕等の詩集』に「百舌よ泣くな」の題名で発表されました。この詩集は、サトウが、講談社発行の『少年倶楽部』に一九二六年九月号から三五年まで書いた詩を集めたものです。
 三一年九月八日に満州事変が起こっているので、そんな時代を反映して、この詩は生まれました。
 作曲者の徳富繁は、武蔵野音楽学校を卒業直後、作曲の習作のため、あれこれの詩に曲をつけていましたが、『僕等の詩集』の中の「百舌よ泣くな」を見つけ、感動して付曲したといいます。
 渋谷区代々木の山谷小学校の教員になって、ここで「百舌よ泣くな」の譜面をガリ版刷りして子どもに教えました>
 徳富繁さんは、茨城県の出身。同県牛久市在住で亡くなられといいます。
   十五 「ほんとにほんとに御苦労ね」
    
 一九三九年二月、日本軍は、海南島を占領しました。
 このあとにつくられたのが、「ほんとにほんとに御苦労ね」(一九三九年四月、ポリドール、作詞・野村俊夫、作曲・倉若晴生)です。
 一、楊柳(やなぎ)芽をふく クリ-クで
   泥にまみれた 軍服を
   洗う姿の 夢をみた
   お国のためとは 言いながら
   ほんとにほんとに ご苦労ね
 二、来る日来る日を 乾麺麹(かんぱん)で
   護る前線 弾丸の中
   ニュース映画を 見るにつけ
   熱い涙が 先に立つ
   ほんとにほんとに ご苦労ね
 三、今日もまた降る 雨の中
   どこが道やら 畑やら
   見わけもつかぬ 泥濘で
   愛馬いたわる あの姿
   ほんとにほんとに ご苦労ね
 四、妻よ戦地の ことなどは
   なにも心配 するじゃない
   老いた両親(ふたおや) 頼むぞと
   書いた勇士の あの音信(たより)
   ほんとにほんとに ご苦労ね
 この歌が発売された翌月の一九三九年五月十二、ノモンハンで日本の関東軍とソ連軍が国境紛争。関東軍は、近代的装備を誇るソ連機械化部隊のため惨敗しました(同年九月十五日に停戦協定)。
 このノモンハン事件直後から、この歌がうたいつがれていくなかで、この歌のメロディーを借りて替え歌が生まれました。
 「軍隊小唄」です。
 いやじゃありませんか 軍隊は
 カネのおわんに カネ(?)のはし
 仏(ほとけ)さまでも あるまいし
 一ぜん飯とは 情なや
 ほんとにほんとに ご苦労さん
 同年七月八日、国民徴用令公布。
 同年七月二十八日、朝鮮人労働者の日本への強制連行がはじまりました。
   十六 日露戦争と反戦歌
    
 日露戦争の終わった直後から「母ちゃんごらんよ」(節は第一高等学校の寮歌「春爛漫」)という反戦歌がうたわれました(『新版 日本流行歌史 上』、古茂田信男、島田芳文、矢沢寛、横澤千秋、社会思想社)。
 母ちゃん御覧よ 向うから
 サーベル下(さ)げて 帽子着て
 父(とう)ちゃんによう似た 小父(おじ)さんが
 沢山たくさん やってくる
 もしや坊やの 父ちゃんが
 帰還(かえ)って来たのじゃ あるまいか
 昨夜(ゆうべ)も言うて 聞かせたに
 はや お忘れか 父ちゃんは
 あんなところに 居やしない
 あのお座敷の 仏壇に
 お祀(まつ)りしてある あの位牌(いはい)
 あれが坊やの 父ちゃんさ
 だって お座敷のお位牌は
 何にも物を 言わないし
 坊やを抱いても くれないの
 ほんとに おうちの父ちゃんを
 連れて帰って 頂だいな
 よってばよってば 母ちゃんよ
 また母ちゃんを 泣かすのか
 坊やは嫌よ イヤ イヤよ
 坊やのだいじな 父ちゃんは
 泣いても待っても 帰らない
 過ぎし日露の 戦いで
 お戦死なされた 父ちゃんさ
 ……………………………(以下、不詳)
 
 演歌師の添田唖然坊(そえだ・あぜんぼう、添田平吉)は、日露戦争のころ、盛んに戦意昂揚の歌を作っていました。
 しかし、一九〇五年、平民社の反戦運動に合流していきます。
 そして、こんな反戦的な「ラッパ節」を作るようになります。
 一、今なる時計は 八時半
   あれにおくれりゃ 重営倉
   今度の休みが ないじゃなし
   はなせ軍刀に 錆がつく
   トコトットットット
 二、大臣大将の 胸先に
   ピカピカ光るは 何ですえ
   金鵄勲章(きんしくんしょう)か 違います
   可愛い兵士の しゃれこうべ
   トコトットットット
 三、名誉名誉と おだてあげ
   大事な倅(せがれ)を むざむざと
   砲の餌食(えじき)に 誰がした
   もとの倅に して返せ
   トコトットットット
 四、子供の玩具じゃ あるまいし
   金鵄勲章や 金平糖(コンペートー)
   胸につるして 得意顔
   およし男が さがります
   トコトットットット
 五、倒れし戦友 抱き起こし
   耳に口あて 名を呼べば
   にっこり笑って 目に涙
   バンザイとなうのも口のうち
   トコトットットット
   十七  「名残りつきない はてしない」
    
 一九四〇年、国内では、偽りの「史実」にもとづいて「紀元二千六百年」の祭典がもようされました。
 同年二月、奉祝国民歌「紀元二千六百年」(内閣奉祝会選定、紀元二千六百年奉祝会・日本放送協会制定、作詞・増田好生、作曲・森義八郎)のレコードが発売されました。
 一、金鵄(きんし)輝く日本の
   榮(はえ)ある光 身にうけて
   いまこそ祝へ この朝(あした)
   紀元は 二千六百年
   あゝ 一億の胸はなる
 二、歡喜あふるる この土を
   しつかと我等 ふみしめて
   はるかに仰ぐ 大御言(おほみこと)
   紀元は 二千六百年
   あゝ肇國(ちょうこく)の 雲青し
 三、荒(すさ)ぶ世界に 唯一つ
   ゆるがぬ御代に 生い立ちし
   感謝は清き 火と燃えて
   紀元は 二千六百年
   あゝ報國の 血は勇む
 四、潮ゆたけき 海原に
   櫻と富士の 影織りて
   世紀の文化 また新(あらた)
   紀元は 二千六百年
   あゝ燦爛(さんらん)の この國威
 
 五、正義凛(りん)たる 旗の下(もと)
   明朗アジヤ うち建てん
   力と意氣を 示せ今
   紀元は 二千六百年
   あゝ彌榮(いやさか)の 日はのぼる
 
 「金鵄」とは『古事記』、『日本書紀』に出てくる「金色のトビ」のことで、神武天皇の東征に際し、敵の眼をくらませ勝利に導いたという伝説の鳥です。
 その年の六月、「別れ船」(作詩・清水みのる、作曲・倉若晴生)が発表されました。最愛の夫を戦地に送り出す妻の気持ちを、しっとりと歌ったものでした。
 一、名残りつきない はてしない
   別れ出船の かねがなる
   思いなおして あきらめて
   夢は潮路に 捨ててゆく
 二、さようならよと 一言は
   男なりゃこそ 強く云う
   肩を叩いて ニッコリと
   泣くのじゃないよは 胸のうち
 三、望み遥かな 波の背に
   誓う心も 君ゆえさ
   せめて時節の 来るまでは
   故郷(くに)で便りを 待つがよい
 陸軍省は、作詞者の清水みのるに威勢のいい軍国歌謡を委嘱しました。
 清水は、報道班員として中国に従軍しました。
 中国に向かう波止場で見た、出征兵士の見送り風景から、この歌は生まれました。
 軍当局は、要求したものとかけ離れているので、「これは厭戦的な亡国歌だ」といい、清水は大目玉をくらいました。
 年末の東京・浅草国際劇場の「田端義夫ショー」では、歌唱禁止の処分を受けました。
 清水みのるは、一九〇三年九月十一日、静岡県浜名郡伊佐見村(現浜松市伊左地町)生まれ。本名・實。一九七九年十二月十日、七十六歳でに亡くなっています。一九二四年、浜松一中(現浜松北高)を卒業し立教大学入学。佐藤惣之助に師事、詩を書く。一九三一年、 ポリドール蓄音機会社に入社しました。
 一九四二年九月に発売された「森の水車」(作曲・米山正夫)の作詞者でもあります。
 一、緑の森の 彼方から
   陽気な唄が 聞こえましょう
   あれは水車の 廻る音
   耳を澄まして お聞きなさい
  (*)コトコトコットン
     コトコトコットン
     ファミレド シドレミファ
     コトコトコットン
     コトコトコットン
     仕事に励みましょう
     コトコトコットン
     コトコトコットン
     いつの日か
     楽しい春が やって来る
 二、雨の降る日も 風の夜も
   森の水車は 休みなく
   粉挽(こなひ)き臼(うす)の 拍子取り
   愉快に唄を 続けます
   (* 繰り返し)
 三、もしもあなたが 怠けたり
   遊んでいたく なった時
   森の水車の 歌声を
   独り静かに お聞きなさい
   (* 繰り返し)
 戦後、一九四六年に「かえり船」(作曲・倉若晴生)を作詞しています。
 一、波の背の背に ゆられてゆれて
   月の潮路の かえり船
   霞(かす)む故国(ここく)よ 小島の沖じゃ
   夢もわびしく よみがえる
 二、捨てた未練が 未練となって
   今も昔の 切なさよ
   瞼(まぶた)合わせりゃ 瞼にしみる
   霧の波止場の 銅鑼(どら)の音
 三、熱い涙も 故国に着けば
   嬉し涙と 変るだろ
   鴎(かもめ)ゆくなら 男のこころ
   せめてあの娘(こ)に 伝えてよ
   十八 中間のまとめ
      
 しばらく明治以来の軍歌、戦時歌謡と付き合ってみて軍歌についてわかったことがあります。
 軍歌の基本は「天皇のために」ということです。
 時代によって天皇の軍事的な課題は変化していきますが、軍歌は、その課題を的確に歌詞にうたいこみ、国民に流布していったということです。いくつかの時期にわかれます。
 一 国内の敵を鎮圧せよ。
 二 国を守る気概を持て。
 三 命をかけて領土を拡大せよ。
 四 敵の侵攻から天皇を守るために命をかけよ。
 「一」の時期に属するものに「抜刀隊の歌」(一八八五年七月発表、作詞・外山正一、作曲・シャルル・ルルー)があります。
 一、吾は官軍我が敵は
   天地容(い)れざる朝敵(ちょうてき)ぞ
   敵の大将たる者は
   古今無双(ここんむそう)の英雄で
   これに従うつわものは
   共に慄悍(ひょうかん)決死の士
   鬼神(きじん)に恥(は)じぬ勇(ゆう)あるも
   天の許(ゆる)さぬ反逆を
   起こせし者は昔より
   栄えしためし有(あ)らざるぞ
   敵の亡(ほろ)ぶるそれ迄は
   進めや進め諸共に
   玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
   死する覚悟で進むべし
 二、御国(みくに)の風(ふう)ともののふは
   その身を護る魂の
   維新(いしん)このかた廃(すた)れたる
   日本刀(やまとがたな)の今更に
   また世に出ずる身のほまれ
   敵も味方も諸共に
   刃(やいば)の下に死ぬべきぞ
   大和魂(やまとだましい)あるものの
   死すべき時は今なるぞ
   人に後(おく)れて恥かくな
   敵の亡(ほろ)ぶるそれ迄は
   進めや進め諸共に
   玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
   死する覚悟で進むべし
 三、前を望めば剣なり
   右も左もみな剣
   剣の山に登らんは
   未来のことと聞きつるに
   この世に於(お)いて目(ま)のあたり
   剣の山に登るのも
   我が身のなせる罪業(ざいごう)を
   滅(ほろ)ぼすために非(あら)ずして
   賊を征伐するがため
   剣の山もなんのその
   敵の亡(ほろ)ぶるそれ迄は
   進めや進め諸共に
   玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
   死する覚悟で進むべし
 四、剣(つるぎ)の光ひらめくは
   雲間に見ゆる稲妻か
   四方(よも)に打ち出す砲声は
   天にとどろく雷(いかずち)か
   敵の刃(やいば)に伏す者や
   弾に砕けて玉の緒の
   絶えて果敢(はか)なく失(う)する身の
   屍(かばね)は積みて山をなし
   その血は流れて川をなす
   死地に入るのも君のため
   敵の亡(ほろ)ぶるそれ迄は
   進めや進め諸共に
   玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
   死する覚悟で進むべし
 五、弾丸雨飛(うひ)の間にも
   二つなき身を惜しまずに
   進む我が身は野嵐に
   吹かれて消ゆる白露の
   果敢(はか)なき最期を遂ぐるとも
   忠義のために死する身の
   死して甲斐(かい)あるものなれば
   死ぬるも更にうらみなし
   われと思わん人たちは
   一歩もあとへ引くなかれ
   敵の亡(ほろ)ぶるそれ迄は
   進めや進め諸共に
   玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
   死する覚悟で進むべし
 六、吾今ここに死なん身は
   国のためなり君のため
   捨つべきものは命なり
   たとえ屍は朽(く)ちるとも
   忠義のために死する身の
   名は芳しく後の世に
   永く伝えて残るらん
   武士と生まれし甲斐もなく
   義のなき犬と言わるるな
   卑怯者とな謗(そし)られそ
   敵の亡(ほろ)ぶるそれ迄は
   進めや進め諸共に
   玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
   死する覚悟で進むべし
 一八七八年一月三十日から九月二十四日までの内戦、西南戦争の時の天皇制政府の側の部隊、「抜刀隊」をうたっています。
 歌詞の「敵の大将」は西郷隆盛のことです。
 この歌が生まれたのは、西南戦争から、かなり後のことです。
 一八七八年八月二十三日、二十四日には天皇の軍隊の一部が暴動を起こしました。近衛砲兵隊兵士が減給などの不満で暴動を起こしたのです(竹橋事件)。
 一八八四年十月三十一日から十一月まで、秩父事件が起きました。自由党員、農民ら数千人が負債延納、徴兵令改正、減税などを要求して決起したのです。
 そして、一八八五年七月、この歌が、鹿鳴館で発表されました。
 作詞者の外山正一は、東京帝国大学教授です。「抜刀隊の歌」として『新体詩抄』に発表した詩に、フランス人の陸軍軍楽隊教師・シャルル・ルルーが作曲したといわれています。
 天皇制政府は、内戦を鎮圧しながら、一八七四年二月以来、海外侵略を開始していました。
   十九 「死んで還れと励まされ」
    
 日中戦争の開戦後、一九三八年、東京日日新聞、大阪毎日新聞は新しい軍歌を公募しました。
 第一席は本多信寿の作品で、「進軍の歌」として陸軍戸山学校音楽隊が作曲しました。
 第二席は、薮内喜一郎の作品で、「露営の歌」として古関裕而が作曲しました。
 「進軍の歌」
 一、雲わきあがる この朝(あした)
   旭日の下 敢然と
   正義に起てり 大日本
   執れ、庸懲(ようちょう)の 銃と剣
 二、祖国の護り 道の為
   大君(きみ)の御勅(みこと)を 畏(かしこ)みて
   山河に興る 胆と熱
   鳴れ、進軍の 旗の風
 三、広漠の土 咆(ほ)ゆる海
   越えゆくところ 厳然と
   天に光れり 日章旗
   撃て、暴虐(ぼうぎゃく)の 世々の敵
 四、巌と固き 軍律に
   轟く正義 その力
   千万年も 敢て往く
   これ、神州の 大和魂
 五、すでに聖戦 幾そ度
   凱歌は常に 我とあり
   貫く赤誠(まこと) ただ一つ
   知れ、万世の 大日本
 六、水漬き草むす 洵忠の
   屍にかおる 桜花
   光と仰ぐ 皇軍の
   聴け、堂々の 進軍歌
 「露営の歌」
 一、勝って来るぞと 勇ましく
   誓って故郷(くに)を 出たからは
   手柄立てずに 死なりょうか
   進軍ラッパ 聴くたびに
   まぶたに浮かぶ 旗の波
 二、土も草木も 火と燃える
   果てなき曠野 踏み分けて
   進む日の丸 鉄兜(てつかぶと)
   馬のたてがみ なでながら
   明日(あす)の命を 誰か知る
 三、弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
   暫(しば)し露営の 草枕
   夢にでてきた 父上に
   死んで還れと 励まされ
   さめて睨むは 敵の空
 四、思えば今日の 戦闘(たたかい)に
   朱(あけ)に染まって にっこりと
   笑って死んだ 戦友が
   天皇陛下 万歳と
   残した声が 忘らりょか
 五、戦争(いくさ)する身は かねてから
   捨てる覚悟で いるものを
   鳴いてくれるな 草の虫
   東洋平和の ためならば
   なんの命が 惜しいかろう
 同年九月、この二つの歌は、表面「進軍の歌」、裏面「露営の歌」でコロムビアから発売されました。
 当時の様子を、『露営の歌』の作曲者、当時、コロムビアの専属作曲家だった古関裕而(一八九九年八月十一日生まれ)が戦後に書いています(『人間の記録 18 古関裕而 鐘よ鳴り響け』、日本図書センター)。
 <発売後、約二か月たったある日、東京日日新聞の夕刊に、「前線の勇士『露営の歌』を大合唱す」との見出しで、上海戦線で兵士たちが、ポータブル蓄音器を囲んで手を振りながら合唱している写真が載っていた。そして従軍記者は次のように記していた。
 「最前線の勇士たちは『進軍の歌』が届くとさっそく、ポータブルにかけて聞いた。兵士たちは、『進軍の歌』よりも『露営の歌』を好み、何回もかけてついに聞いている兵士が全員合唱した」
 私は、その大きな写真を見、この記事を読み、この歌によって兵士が戦いの疲れをいやし、気持ちが和み励まされていることを知り、作曲した甲斐があった、としみじみ感じた>
 <それから間もなく会社では文芸部長が、
 「昨日は何百枚。一昨日も何万枚出荷。これは、レコード界未曾有のヒットになりますよ」
 と私の手を振りながら喜んでくれた。
 事実、東京市内レコード店でも、私が乗り換える新宿駅でも歓送風景には“勝って来るぞと勇ましく――”
 の合唱が渦となって私の耳に入ってきた>
 <この昭和十二年十二月十二日、ついに南京は陥落。軍部の勝報に日本中は湧きかえり、東京でも大堤燈行列が行われた。
 コロムビアからも社員も芸術家も参加し、私も堤燈行列に加わった。
 宮城前は火の海。“勝って来るぞと勇ましく”は、勝利の歌にふさわしく、どの行進にも合唱となり歩調をとった。>
 <…「露営の歌」の作詞者、薮内喜一郎は……「進軍の歌」に応募した当時は、京都市役所土木部右京区出張所に勤務していた。しかし、当選、ヒットとなると出張所から市役所土木部に栄転した。>
 むけむけの天皇の宣伝歌では国民の心はつかめませんでしたが、実情、人情を加えた歌なら受け入れらました。
 同じように天皇のために死ねというテーマをうたっているのですが……(特に「露営の歌」は、より露骨に)。
   二十 「紅の火玉と燃えて体当たり」
    
 古関裕而は、一九四五年も「大活躍」しました。
 特別攻撃隊の歌を三曲作っています。
 日本軍の飛行機が「敵」艦隊に体当たりしていく、そのことを賛美したものです。体当たりすれば、もちろん乗員は死んでしまいます。
 三曲の歌詞をじっくり読んでください。
 大元帥・昭和天皇の、そして、この歌の罪深さがわかると思います。
 「台湾沖の凱歌」(日本放送協会制定、一九四五年二月、コロムビア、作詞・サトウ・ハチロー、作曲・古関裕而)。
 一、その日は 来たれり
   その日は 遂に来た
   傲慢無礼(ごうまんぶれい)なる 敵艦隊とらえ
   待ってたぞ 今日の日を
   拳を振り上げ 攻撃だ
   台湾東沖 時十月十二日
 二、海鷲 陸鷲
   捨身の 追撃線
   あわてゝ逃げゆく 敵艦めがけ
   撃たずば かえらじと
   体当りの 突撃
   わが翼の 凱歌
 三、闘魂燃え立ち
   勝ち抜く この力
   昼から夜中へと 轟沈轟沈
   今こそ 荒鷲は
   神鷲とも 言うべきぞ
   薫るぞその誉れ 我等涙の感激
 四、沈みし 敵艦
   その数 かぞえてみよ
   五十八機動部隊 殲滅(せんめつ)だよみや
   この眼にこの耳に 報(しらせ)をうけ一億が
   兜の緒を締めて なおひたすら誓う
 五、秋空 晴れわたり
   心も 晴れ渡る
   諸人(もろびと)忘るゝな 心に刻めよ
   決戦の第一歩 輝かしき大戦果
   応えて皆励まん ただ皇国の為に
 「雷撃隊出動の歌」(一九四五年二月、コロムビア、作詞・米山忠雄、作曲・古関裕而) 。
 一、母艦よさらば 撃滅の
   翼に映える 茜雲
   かえりみすれば 遠ざかる
   蓋(まぶた)に残る 菊の花
 二、炸弾の雨 突抜けて
   雷撃針路 ひた進む
   まなじりたかし 必殺の
   翼にかゝる 潮しぶき
 三、天皇陛下 万歳と
   最後の息に 振る翼
   おゝその翼 紅の
   火玉と燃えて 体当たり
 四、雲染む屍 つぎつぎて
   撃ちてし止まん 幾潮路
   決死の翼 征くところ
   雄叫び高し 雷撃隊
 「嗚呼神風特別攻撃隊」(一九四五年三月、コロムビア、作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)。
 一、無念の歯がみこらえつゝ
   待ちに待ちたる決戦ぞ
   今こそ敵を 屠(ほふ)らんと
   奮い起ちたる 若桜
 二、この一戦に 勝たざれば
   祖国のゆくて いかならん
   撃滅せよの 命うけし
   神風特別 攻撃隊
 三、送るも往くも 今生の
   別れと知れど ほゝえみて
   爆音高く 基地をける
   あゝ神鷲の 肉弾行
 四、大義の血潮 雲そめて
   必死必中 体当り
   敵艦などて 逃すべき
   見よや不滅の 大戦果
 五、凱歌はたかく 轟けど
   今はかえらぬ 丈夫(ますらお)よ
   千尋(ちひろ)の海に 沈みつゝ
   なおも皇国(みくに)の 護り神
 六、熱涙(おつるい)伝う 顔あげて
   勲をしのぶ 国の民
   永久(とわ)に忘れじ その名こそ
   神風特別攻撃隊
   神風特別攻撃隊
   二十一 太平洋戦争開戦のその夜に
    
 一九四一年七月、日本軍は、南部仏印(いまのベトナム)に進駐しました。
 同一年十二月八日。
 午前二時十五分、日本軍は、イギリス英領マレー半島のコタバルに敵前上陸、午前三時十九分、日本海軍航空隊は、アメリカのハワイに奇襲し、真珠湾に結集していたアメリカ太平洋艦隊を攻撃しました。
 同日午前七時、ラジオが臨時ニュースを流しました。
 「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。繰り返します。大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は……」
 やがてラジオは昭和天皇の「米英両国に対スル宣戦の詔書」を流しました。
 「天佑(てんゆう)を保有し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝、有衆(ゆうしゅう)に示す。
 朕(ちん)、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦(たたかい)を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精職務を奉行(ほうこう)し、朕が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからむことを期せよ。
 抑々(そもそも)、東亜の安定を確保し、以って世界の平和に寄与するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕が拳々(きょきょ)措(お)かざる所。
 而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤くし、万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義と為す所なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已(や)むを得ざるものあり。豈(あに)、朕が志(こころざし)ならんや。
 中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構えて東亜の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。
 米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国を誘い、帝国の周辺に於(おい)て、武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。
 朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威を増大し、以って我を屈従せしめんとす。
 斯(かく)の如くにして、推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉(ことごと)く水泡に帰し、帝国の存立、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外(ほか)なきなり。
 皇祖皇宗の神霊、上(かみ)に在(あ)り、朕は、汝、有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す。
(御名御璽)」
 以下、現代語訳です。
 「天の神々のご助力を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、はっきりと忠誠にして武勇ある汝ら国民に示す。
 余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。余の陸海軍の将兵は、全力を奮って交戦に従事し、余の政府関係者・官僚・役人のすべては、つとめ励んで職務に身をささげ、余の国民は、おのおのその本分をつくし、億兆の心をひとつにして、国家の総力を挙げ、攻め戦う目的を達成するために、手ちがいのないように心がけよ。
 そもそも、東アジアの安定を確保し、それをもって世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その大いさを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、余も日頃、かたときも忘れずに心がけている事である。
 そういう理由であるから、各国との交流を篤くおこない、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要諦とするところである。今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)
 中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟であるはずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。
 米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
 余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
 このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。
 皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに英米による禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
(御名御璽)」
 同日午後八時二十分、ラジオはニュース歌謡と称して「宣戦布告」(作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)、「太平洋の凱歌」(作詞・日本詩曲連盟、作曲・伊藤昇)を放送しました。
 「宣戦布告」
 敵は米英 宣戦の 大君の詔勅 今下る 五千浬の太平洋 我等制さむ大進軍……
 「太平洋の凱歌」
 さかまく怒濤 颶風を衝いて 見よ見よ進む この電撃は アジヤがアジヤをうち建てる 太平洋の朝焼けだ 屠れ砕け米英を われらが敵を打ち砕け
 翌九日には「皇国の戦果輝く」(作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)、「泰国進駐」(作詩・島田磐也、作曲・山田栄一)が放送されました。
 「皇軍の戦果輝く」
 握る拳が感激に 燃えてふるえた大号令 臨時ニュースを聴いたとき胸が血潮がたぎったぞ
 翌々日十日は「英国東洋艦隊壊滅」(作詞・高橋鞠太郎、作曲・古関裕而)、「長崎丸の凱歌」(島田磐也、作曲・細川潤一)、「フィリピン進撃」(作詞・勝承夫、作曲・山田栄一)が放送されました。
 「英国東洋艦隊壊滅」
 一、ほろびたり ほろびたり
   敵 東洋艦隊は
   マレー半島 グヮンタン沖に
   いまぞ沈みゆきぬ
   勲し赫たり 海の荒鷲よ
   沈むレパルス沈むプリンス・オブ・ウェルズ
 二、戦えり 戦えり
   わが つわものは
   皇国の 興廃を
   いまぞ 身に負いぬ
   おごれるイギリス東洋艦隊も
   すさぶ波に 沈め去りぬ
   (以下、略) 
 この「英国東洋艦隊壊滅」の生い立ちについて古関裕而が戦後に書いています(『人間の記録 18 古関裕而 鐘よ鳴り響け』、日本図書センター)。
   二十二 ニュース歌謡は、こうしてつくられた
    
 古関裕而は、こう書いています。
 <開戦三日後(記者注・一九四一年十二月十日)の午後、私はコロムビアにいた。午後三時、廊下に急設されたラジオのスピーカーから、軍艦マーチのオープニングと共に大本営海軍部発表の臨時ニュースがあった(記者注・「午後四時二十分」という説もあります)。
 「シンガポール軍港を出発、北上中の英国の誇る不沈戦艦プリンス・オブ・ウェルズとレパルスを、マレー半島東岸クワンタン沖で発見。我が海軍航空攻撃隊は、これに雷撃と爆撃の波状攻撃を行い、ついに二艦を撃沈せり」
 我々は思わず拍手し昂奮、感激した。始まった以上、勝たねばならぬからである。
 その直後、放送局の歌謡曲、軽音楽の担当者、丸山鉄雄氏からの電話がかかった。
 「今の臨時ニュースを聞きましたか。すぐ歌を作って今夜七時のニュースで放送しますが、誰か、そこに詩人がいますか? 高橋鞠太郎さん? ええ結構ですよ。歌手は藤山一郎君と東京放送合唱団。オーケストラは放送管弦楽団。曲ができ次第、スタジオに持って来てください」
 丸山君は早口で要領よく話すとガチャンと電話を切った。
 さあ、それから大変であった。まずメロディーを作ってから高橋さんに渡し、すぐに私は編曲にかかった。当然艦の名が入るが、それは最後に入れることにした。レパルスは四つの音でよいが、プリンス・オブ・ウェルズを巧くはめ込むのは難しかった。だが、歌手の藤山一郎さんは発音の明瞭な人だから、少々難しくても十分歌えると思い、三音にまとめた。高橋さんは楽譜を見ながら詞を当てはめていく。
 普通なら、オーケストラのスコアを書き、それを写譜させるという順序だが、何しろ放送局に持参する時間も必要だから、約三時間、作曲時間があるのみ。私は頭の中でスコアを構想し、いきなりパートの楽譜を書きおろしていった。最初はハーモニーの基になるピアノから書いた。前奏は短く二小節。歌詞は四番まであるから間奏は三回、新しく書くより軍艦マーチを二分して効果的に挿入した。
 弦、木管、サックス系、ブラス等、次から次へ書いている間も、傍らの高橋さんから「この字脚は合うかな? この言葉は歌えるかしら?」などしきりに質問が入る。それに一つ一つ答えながら、ようやく全パートを書き終えた頃高橋さんも四番の歌詞を完成。
 一応歌ってみて訂正したり、歌手用の楽譜も書き上げ、内幸町のコロムビアと放送局が近かったのが幸い、すぐかけつけた。
 待機していた藤山一郎君に楽譜を渡し、合唱団には一枚の楽譜から手分けして写してもらった。……
 一度練習したきりで数分後には、ぶっつけ本番のようにして放送した>
 日本軍は、翌四二年一月二日、フィリピンのマニラを占領。
 同月十四日にはビルマに進撃しました。
 マレー半島を南下中の日本軍の一部では自転車部隊が生まれ、ジャングルを走りぬけシンガポールの対岸ジョホール・バルに到達しました。
 この時、ニュース歌謡として「ジョホール・バルの歌」(作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而)がつくられています。
 二月五日、シンガポールを陥落させました。
 三月一日、日本軍はジャワ島に上陸、オランダ軍は降伏しました。
 同月八日、ビルマのラングーンを陥落させました。
 ラジオは、以後、三月末まで、マレー半島、香港、マニラ、シンガポール、蘭印と、陥落したり制圧したりするたびにニュース歌謡を流しました。
   二十三  「夜のプラットホーム」
    
 「夜のプラットホーム」(作詞・奥野椰子夫、作曲・服部良一)も、戦争の最中に生まれた歌です。
 一、星はまたたき 夜ふかく
   なりわたる なりわたる
   プラットホームの 別れのベルよ
   さよなら さよなら
   君いつ帰る
 二、ひとはちりて ただひとり
   いつまでも いつまでも
   柱によりそい たたずむわたし
   さよなら さよなら
   君いつ帰る
 三、窓に残した あのことば
   泣かないで 泣かないで
   瞼(ひとみ)にやきつく さみしい笑顔
   さよなら さよなら
   君いつ帰る
 次回は、この歌について書きます。
   二十四 プラットホームの柱のかげで
    
 一九四二年、コロムビアは「夜のプラットホーム」を吹き込みました。
 戦後、淡谷のり子(あわや・のりこ、一九〇七年ー九九年)が、その時のことを書いています(『ブルースのこころ』、新日本出版)。
 <これはコロムビア専属になった詩人の奥野椰子夫さんの第一作であった。奥野さんは新橋駅で出征兵士を見送る万歳と歓呼の旗の波のなかに、プラットフォームの柱のかげで人目をしのんで泣いている若妻の姿をみて、万感の想いをこの詩にこめられたということである。
 曲もすばらしく、私は久しぶりに歌らしい歌をうたった気持になった。軍国調の流行歌が何十曲作られたか知らないが、これはそれらが束になってもかなわない……と私は思った>
 <だが「夜のプラットフォーム」はいつまでたっても発表されなかった。私がコロムビアに問い合わせてみると「出征兵士を送る歌にしては悲しすぎるし、反戦的な歌として検閲が通らず、陽の目をみないでおクラ入りになってしまった」という返事だった>
   二十五 「北原白秋よ。お前もか」
    
 北原白秋(きたはら・はくしゅう、一八八五年一月二十五日ー一九四二年十一月二日)という名前を聞けば、福岡県柳川の生まれで、詩人で、「城ケ島の雨」、「砂山」、「この道」、「赤い鳥小鳥」、「あわて床屋」の作詞家、詩人で「赤い鳥小鳥」、「あわて床屋」の作詞家……というのが、僕のイメージです。
 その白秋が軍歌、戦時歌謡の選考をしたり、作詞をしたりしていたというのは驚きでした。「北原白秋よ。お前もか」という感じです。
 一九四二年三年の「ハワイ大海戦」(ビクター、作詞・北原白秋、作曲・海軍軍楽隊)も、その一つです。
 一、天に二つの日は照らず
   しのぐは何ぞ 星条旗
   大詔(たいしょう)降(くだ)る 時まさに
   この一戦と 衝き進む
   疾風万里 太平洋
   目指すはハワイ 真珠湾
 二、たれか思わん 暁の
   夢おどろかす 爆撃を
   つんざく雲の 切れ間より
   見よ轟々と 攻め襲う
   必殺の雷 海の鷲
   しんしん迫る 潜航艇(せんこうてい)
 三、神か人かも 身を棄てて
   千古に徹(とお)る その命
   何をか哭(な)かん 尽忠の
   ああ荒み霊(たま) 火の柱
   地軸も裂(さ)けよ 艦(ふね)ともに
   たちまち砕く 敵主力
 ここで「潜航艇」というのは「特殊潜航艇」ともいい、一九四一年十二月八日、日本軍の真珠湾攻撃の時に使われた二人乗りの潜水艦のことです。母艦から発射され、自力で潜航し、装備した魚雷二本を「敵艦船」撃ち込むという兵器でした。
 搭乗員は、以下の十人でした。
 岩佐直治大尉。
 吉野繁実中尉。
 横山正治中尉。
 広尾章少尉。
 酒巻和男少尉。
 横山薫範兵曹。
 上田定兵曹。
 片山義雄兵曹。
 稲垣清兵曹。
 佐々木直吉兵曹。
 十人の搭乗員は五隻の特殊潜航艇に一艇二人で分乗しました。
 真珠湾口付近で、十二月八日午前三時から三分間隔で、母艦の伊号潜水艦から順次に湾口へと発進されました。
 湾内に潜入後、海底で待機、航空隊の空襲に合わせて攻撃開始、その後で、夜間を選び、ラナイ島西方7カイリに浮上し、待機している母艦の潜水艦にたどりつく計画でした。
 出撃後、日本軍に帰還した艇はありませんでした。
 うち酒巻少尉は生き残り、捕虜らなりました。
 一九四二年三月六日の大本営発表で「特殊潜航艇をもって編成せるわが特別攻撃隊は……」と、真珠湾攻撃に特殊潜航艇が使われたことが発表されました。
 そして、戦死者は「殉忠特別攻撃隊九軍神」とされ、美化のキャンペーンがされました。
 白秋の歌は、この発表を受けたキャンペーンの一環でした。
 太平洋戦争開始の当日から、こうした「必死作戦」がとられていたこと、それを軍部が推奨したことは太平洋戦争の性格を考える上でも大事だと思います。
 そして童謡などをつくっていた作詞家の無残な歌も記憶にとどめておく必要があると思います。
 この特殊潜航艇による特別攻撃隊は、続いて、翌年五月三十日のイギリス占領下のマダガスカル島ジゴスワレス港攻撃、翌日のオーストラリアのシドニー港攻撃で編成されました。前者は二隻が参加し四人が戦死。後者は三隻が参加し六人が戦死。
   二十六 小学校の教科書に載った「守るも攻むるも」
 「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」のもとになった「軍艦」(作詞・鳥山啓、作曲・山田源一郎)は、一八九三年発行の『小学校唱歌』で発表された「軍艦」という唱歌でした。
 こんな歌を小学校で教えていたのです。 
 一、守るも攻むるも 黒鉄(くろがね)の
   浮かべる城ぞ 頼みなる
   浮かべるその城 日の本の
   皇国(みくに)の四方(よも)を 守るべし
   真鉄(まがね)のその艦(ふね) 日の本に
   仇なす国を せめよかし
 二、岩炭(いわき)の煙は 大洋(わだつみ)の
   竜(たき)かとばかり 靡(なび)くなり
   弾丸(たま)撃(う)つひびきは 雷(いかづち)の
   声かとばかり どよむなり
   万里(ばんり)の波涛(はとう)を 乗り越えて
   皇国(みくに)の光(ひかり)輝(かがや)かせ
 作詞の鳥山啓(とりやま・ひらく、一八三七年八月二十五日ー一九一四年)は、田辺藩(現和歌山県田辺市)に生まれの教育者でした。
 一八六八年、藩校で英語を教え廃藩置県の後、田辺学校教師になりました。
 一八七六年、和歌山師範学校教師に。
 一八七九年、和歌山中等学校教師、県勧業御用係に。
 一八八六年、東京華族女学校教授に。
 彼の「軍艦」に、軍楽師の瀬戸口藤吉が、一八九七年、新しい曲をつけたのが「軍艦行進曲」です。
   二十七 「殉忠特別攻撃隊九軍神」
    
 「殉忠特別攻撃隊九軍神」の歌の続きです。
 北原白秋の歌のほかにも、「殉忠特別攻撃隊九軍神」を歌ったものが生まれました。
 「嗚呼特別攻撃隊」(一九四二年五月、ポリドール、作詞・米山 忠雄、作曲・若松 巌)
 一、祖国をあとに はるばると
   太平洋の 波まくら
   幾夜仰いだ 星月夜
   ああ故郷の 山や河
 二、許して下さい お母さん
   だまって別れた あの夜の
   せつない思い 必勝を
   固く誓った 僕でした
 三、我儘(わがまま)言った 僕ですが
   今こそやります 参ります
   さらば母さん お達者で
 四、師走(しわす)八日の 朝まだき
   僕は特別 攻撃隊
   男子の本懐(ほんかい) 今日の日よ
   待っていました お母さん
 五、天皇陛下 万歳と
   叫んだはるか 海の底
   聞いて下さい お母さん
   遠いハワイの 真珠湾
 「天皇陛下 万歳と 叫んだはるか 海の底」。君には海の底で死んだ人の声が聞こえたのか!!! 
 「壮烈特別攻撃隊」(一九四七年五月、コロムビア、作曲・西條八十、作詞・山田耕筰)
 一、別れの酒は 汲(く)まねども
   覚悟に胸は 火と燃えて
   乗り組む艇(ふね)に 月おぼろ
   ああ 壮烈の真珠湾
 二、指折りかぞえ 武士(もののふ)が
   待ちにし晴れの 秋(とき)は来ぬ
   光栄(はえ)ある死もて 皇恩に
   報(むく)いまつらん 嬉しさよ
 三、見よ美(うるわ)しの この艇(ふね)を
   心血籠(こ)めし 歩器にして
   誉を飾る 我が棺(ひつぎ)
   花散るごとく 波を蹴る
 四、ああ なつかしの 故郷よ
   かの森かげの 孤家(ひとつや)の
   おん父母も 見そなわせ
   わが手が砕く 敵艦を
 五、風粛々(しょうしょう)の 真珠湾
   九人の勇士 還らねど
   黒潮染めて ゆるぎなき
   亜細亜の朝日 いま昇る
 まさに、特殊潜航艇は海に潜る二人乗りの「棺」でした。
 この項は、続きます。
   二十八 「殉忠特別攻撃隊九軍神」 つづき
 「殉忠特別攻撃隊九軍神」の歌のつづきの、つづきです。
 「殉忠特別攻撃隊九軍神」の歌は、ほかにもあります。
 「真珠湾の華」(一九四二年六月、キング、作詞・南条歌美、作曲・細川潤一)
 一、七生報国 殉忠(じゅんちゅう)の
   大和魂 浄火(ひ)と燃えて
   黙々はげむ 大覚悟
   果さむ時は 遂に来ぬ
 二、決意を秘めた 九勇士
   「只今より ゆきますと」
   従容(しょうよう)笑みて 往(い)でてゆく
   嵐は叫ぶ 真珠湾
  朗詠ζいざゆかむ 網も機雷も乗り越えて
     撃ちて 真珠の玉と砕(くだ)けむ  
   
 三、大君のため 大洋に
   散りて悔(くい)なき 若ざくら
   護国の神と 仰がれる
   その名は 特別攻撃隊
 「特別攻撃隊」(一九四七年六月、コロムビア、選詞・読売新聞社、作詞・東京音楽学校)
 一、撃ちてしやまむ ますらをに
   なんの機雷ぞ 防潜網(ぼうせんもう)
   あゝこの八日 待ちわびて
   鍛(きた)えぬきたる 晴の技(わざ)
   示すは今ぞ 真珠湾
 二、神なりすでに 九つの
   生死越えたる 荒御魂(あらみたま)
   いざ皇国の 荒廃と
   史上例なき 肉薄に
   必殺ちかう 海の底
 三、轟沈(ごうちん)撃破 ときの間に
   屠(ほう)る戦艦 巡洋艦
   みよ友軍の 爆撃に
   あがる火柱 水柱
   天誅(てんちゅう)くだる 米主力
 四、襲撃まさに 成功と
   月の出潮に 打つ無電
   おゝその無電 打ち終えて
   遂に還らず 艇(てい)五隻
   還らず遂に 九勇士
 五、一億あおげ 尽忠の
   天地つらぬく その誠
   げに大東亜 聖戦の
   基(もとい)かためし 軍神(いくさがみ)
   燦たり特別 攻撃隊
   二十九 「とんとんとんからりと隣組」
    
 侵略戦争を遂行するために天皇制政府は、国民の一人ひとりを動員しようとしました。
 その機構の一つが隣組でした。
 中国侵略戦争が泥沼化した一九四〇年九月、戦争用の雑務がふえたのにともなって内務省は市区町村の補助的下部組織として農村では部落会、都市では町内会をつくることを指示し、その下部組織として十戸単位程度の隣組をつくるよう指導しました。
 日本放送協会は、国民歌謡として「隣組」(一九四〇年十月、ビクター、作詞・岡本一平、作曲・飯田信夫)を作ってラジオで流しました。
 一、とんとんとんからりと 隣組
   格子を開ければ 顔なじみ
   廻して頂戴 回覧板
   知らせられたり 知らせたり
 二、とんとんとんからりと 隣組
   あれこれ面倒 味噌醤油
   ご飯の炊き方 垣根越し
   教へられたり 教へたり
 三、とんとんとんからりと 隣組
   地震や雷 火事どろぼう
   互ひに役立つ 用心棒
   助けられたり 助けたり
 四、とんとんとんからりと 隣組
   何軒あらうと 一所帯
   こゝろは一つの 屋根の月
   纏(まと)められたり 纏めたり
 陽気なメロディーでした。
   三十 配給、貯蓄、空襲
 隣組は、生活必需品の配給ルートの役割も持つことになりました。
 報国債権の割り当も隣組の仕事でした。
 隣組を抜ければ配給を受けることができませんので、抜けることはできませんでした。
 その様子を「愉快な組長さん」(一九四一年九月、キング、作詞・清水操六、作曲・細川潤一)が歌っています。
 一、卵をかぞえて 計器(はかり)にのせて
   目盛りみながら それ百匁(ひゃくもんめ)
   くばる両手に 朝日がはずむ
   向こう三軒 両隣
   元気で明るい 組長さん
   とってもほがらか 愉快だな
 二、玉ねぎ抱(かか)えりゃ 心に浮かぶ
   生まれ故郷の 裏畠
   日本よい国 いっちょやいっちょや
   唄で近所に 割り当てる
   元気で明るい 組長さん
   とってもほがらか 愉快だな
 三、先日ジャガ芋(いも) 今日さつま芋
   受けた配給 どっこいしょ
   わける苦労も 消しとぶものは
   ふかす香りに 焼く匂い
   元気で明るい 組長さん
   とってもほがらか 愉快だな
 四、貯金をすゝめて しっかりためて
   いつもお役に たつこゝろ
   報国債権 国債買うも
   どこの誰より まっさきに
   元気で明るい 組長さん
   とってもほがらか 愉快だな
 物資の極端な不足で、こんな不自由な配給の状態になっているのに「日本よい国」もないものです。
 アメリカ軍機の空襲でも、隣組は「活躍」しました。
 「花の隣組」(一九四二年九月、コロムビア、作詞・西条八十、作曲・服部良一)は、空襲下の隣組の「活躍」を歌っています。
 一、「来たぞ」といえば
   「よいしょ」と並んだ
   モンペ姿の たくましさ
   靡(なび)く黒髪 大空にらみ
   あなたは会社で 働きなさい
   楽しい我が家は 女で護ろう
 二、「落ちた」とえば
   「それ」と駆る
   バケツ火たゝき 濡れむしろ
   意気で消せ消せ 燃えたつ焼夷弾(しょういだん)
   男は男で 働きなさい
   花の都は 女で護ろう
 三、「おいで」と言えば
   ニコリと集まる
   仲の良い良い 隣組
   夢は楽しい 共栄圏よ
   男に負けたら 昔の女
   今じゃ日本 女で護ろう
 四、「解除」と聞けば
   朗らに輝く
   空は青空 日本晴れ
   留守のお役目 立派に果たし
   モンペを脱いだら 優しい女
   坊やだっこで ねんころり
 空襲に備えての防火訓練には、一戸に一人はかならず出なければ「国賊」といわれるので、妊婦でも病人でもバケツや火たたき棒をもって出ました。
 隣組は物資の配給を武器にして住民を強制的に戦争に総動員する組織で、住民同士を相互監視させる機能も持ってていました。
   三十一 「台湾沖の凱歌」
    
 一九四四年十月から十六日まで、台湾方面に来襲したアメリカ軍のハルゼー大将隷下の部隊の空母搭載機群を日本海軍が台湾沖で捕捉して、これに痛打を与えたとする戦闘が台湾沖航空戦と呼ばれるものです。
 このアメリカ軍の部隊の空母搭載機群の空母諸隊は、四群に分かれ、正規空母九隻、軽空母八隻、戦艦六隻、巡洋艦十四隻、駆逐艦五十八隻という部隊で、支援部隊だけでも予備機を搭載した護衛空母十一隻、給油艦三隻がひかえていました。
 大本営は、次々と勝利の発表をしました。
 ○十月十二日午後五時二十分、アメリカ機動部隊台湾来襲。
 ○十月十三日午後三時三十分、台湾沖航空戦第一日目戦果。
 ○十月十四日午後六時三十分、台湾沖航空戦第二日目戦果。
 ○同月十五日午後三時、台湾沖航空戦第三日目戦果。
 ○同月十七日午後四時、台湾沖航空戦追撃戦戦果。
 ○同月十九日午後六時、台湾沖航空戦総合戦果。
 ○同月二十一日午後七時、台湾沖航空戦勅語煥発。
 十月十九日午後六時の台湾沖航空戦総合戦果は、次のような内容です。
 <我が部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及(および)「ルソン」東方海面の新機動部隊を猛攻し其(そ)の過半の兵力を壊滅して之(これ)を遁走せしめたり
 (一) 我が方の収めたる綜合戦果次の如し
 轟撃沈 航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦若(もしく)は駆逐艦一隻
 撃破 航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦若は駆逐艦一
隻、艦種不詳十三隻、其の他火焔火柱を認めたるもの十二を下らず
 撃墜 百十二機(基地に於(お)ける撃墜を含まず)
 (二) 我が方の損害 飛行機未帰還三百十二機
 〔註〕本戦闘を台湾沖航空戦と呼称す>
 ○同日午後七時、台湾沖航空戦勅語煥発。
 ○同日午後六時、台湾沖航空戦総合戦果。
 <我が部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及(および)「ルソン」東方海面の新機動部隊を猛攻し其(そ)の過半の兵力を壊滅して之(これ)を遁走せしめたり
 (一) 我が方の収めたる綜合戦果次の如し
 轟撃沈 航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦若(もしく)は駆逐艦一隻
 撃破 航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦若は駆逐艦一
隻、艦種不詳十三隻、其の他火焔火柱を認めたるもの十二を下らず
 撃墜 百十二機(基地に於(お)ける撃墜を含まず)
 (二) 我が方の損害 飛行機未帰還三百十二機
 〔註〕本戦闘を台湾沖航空戦と呼称す>
 十月二十一日午後七時、大本営発表の昭和天皇の勅語の内容は次の通りです。
 <大元帥陛下(記者注・昭和天皇のことです)には本日大本営両幕僚長を召されられ南方方面陸軍最高司令官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対し左の勅語を賜(たま)はりたり
   勅語
 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃(ようげき)シ奮戦大(おおい)ニ之(これ)ヲ撃破セリ 朕(ちん)深ク之ヲ嘉尚ス
 惟(おも)フニ戦局ハ日ニ日ニ急迫ヲ加フ汝等(なんじら)愈(いよいよ)協力戮力(りくりょく)以テ朕カ信●(かたわら)ニ副(そ)ハムコトヲ期セヨ>
 大本営の発表では、第三八任務部隊は、ほぼ壊滅でした。
 「台湾沖の凱歌」(一九四五年二月、コロムビア、日本放送協会制定、作詞・サトウ・ハチロー、作曲・古関裕而)がつくられました。
 一、その日は 来たれり
   その日は 遂に来た
   傲慢無礼(ごうまんぶれい)なる 敵艦隊とらえ
   待ってたぞ 今日の日を
   拳を振り上げ 攻撃だ
   台湾東沖 時十月十二日
 二、海鷲 陸鷲
   捨身の 追撃戦
   あわてゝ逃げゆく 敵艦めがけて
   撃たずば かえらじと
   体当りの 突撃
   たちまち沈みゆく
   わが翼の 凱歌
 三、闘魂燃え立ち
   勝ち抜く この力
   昼から夜中へと 轟沈撃沈
   今こそ 荒鷲は
   神鷲とも 言うべきぞ
   薫るぞその勲 我等涙の感激
 四、沈みし 敵艦
   その数 かぞえみよ
   五十八機動部隊 殲滅(せんめつ)だみよや
   この眼にこの耳に 報(しらせ)をうけ一億が
   兜(かぶと)の緒を締めて なおひたすら誓う
 五、秋空 晴れたり
   心も 晴れ渡る
   諸人(もろびと)忘るゝな 心に刻めよ
   決戦の第一歩 輝かしき大戦果
   応えて皆励まん ただ皇国の為に
 しかし、台湾沖航空戦についての大本営の発表は、でっち上げでした。
 実際のアメリカ艦隊の損害は、飛行機八十九機、重巡キャンベラと軽巡ヒューストンを大破。航空母艦は一隻も損害なしでした。
 「台湾沖の凱歌」は、でっち上げの大本営発表を増幅して、国民を誤り導きました。
   三十二 「同期の桜」の絶望感
    
 西條八十は、一九三八年二月号の『少女倶楽部』に詩「二輪の桜ー戦友の歌」を発表しました。
 これがもとになって生まれたのが「戦友の唄」(一九三九年七月、キング、作詞・西條八十、作曲・大村能章)です。
 海軍兵学校の生徒だった帖佐裕が、日曜下宿(民間の家に日曜昼間、ホームステイ)で、このレコードを聞き、歌詞の一部を変えてつくったのが「同期の桜」です。
 一、貴様と俺とは同期の桜
   同じ航空隊の庭に咲く
   咲いた花なら散るのは覚悟
   みごと散りましょ国のため
 二、貴様と俺とは同期の桜
   同じ航空隊の庭に咲く
   血肉分けたる仲ではないが
   なぜか気が合うて別れられぬ
 三、貴様と俺とは同期の桜
   同じ航空隊の庭に咲く
   仰いだ夕焼け南の空に
   未だ還らぬ一番機
 四、貴様と俺とは同期の桜
   同じ航空隊の庭に咲く
   あれほど誓ったその日も待たず
   なぜに死んだか散ったのか
 五、貴様と俺とは同期の桜
   離れ離れに散ろうとも
   花の都の靖国神社
   春の梢に咲いて会おう
 海軍兵学校は、海軍の将校を養成するための学校です。当時は、広島県の江田島にありました。
 ここを卒業して、「同じ航空隊」に同期で入った者同士思いを歌っています。
 「咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」「離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」がポイントです。
 ここで国というのは昭和天皇といいかえても可だと思います。
 一見ヒロイズム、昭和天皇への忠誠をうたっていますが、こういうところまで追い詰められた当時の海軍将校希望者の絶望感をも、はからずも伝えています。
  三十三 「わが皇軍は 天降る」
    
 太平洋戦争開始の翌年、一九四二年一月、二月、日本軍は、セレベス、スマトラに落下傘部隊を降下させました。
 空からの奇襲で、油田地帯を無傷のまま占領しょうという作戦でした。
 この作戦の「電撃的成功」と新登場の落下傘部隊のシーンを新聞は書きたてました。
 その記事に感動した梅木三郎が詩をつくり、それを青砥ディレクターに持ち込みました。
 青砥が作曲を高木東六に依頼して、ビクターが吹き込んで同年四月に発売しました。
 それが、「空の神兵」です。
 一、藍(あい)より蒼(あお)き 大空に 大空に
   忽(たちま)ち開く 百千の
   真白き薔薇(ばら)の 花模様
   見よ落下傘 空に降(ふ)り
   見よ落下傘 空を征(ゆ)く
   見よ落下傘 空を征く
 
 二、世紀の華よ 落下傘 落下傘
   その純白に 赤き血を
   捧げて悔(く)いぬ 奇襲隊
   この青空も 敵の空
   この山河(やまかわ)も 敵の陣
   この山河も 敵の陣
 
 三、敵撃砕(●げきさい)と 舞い降(くだ)る 舞い降る
   まなじり高き つわものゝ
   いずくか見ゆる おさな顔
   あゝ純白の 花負いて
   あゝ青雲に 花負いて
   あゝ青雲に 花負いて
 
 四、讃えよ空の 神兵(しんぺい)を 神兵を
   肉弾粉(こな)と 砕くとも
   撃ちてしやまぬ 大和魂(やまとだま)
   わが丈夫(ますらお)は 天降(あまくだ)る
   わが皇軍は 天降る
   わが皇軍は 天降る
 この歌は落下傘部隊の記録映画「空の神兵」の中で流れました。
 凶暴な侵略軍を神の兵とうたいあげています。
   三十四 ペンを奪われて
    
 一八九〇年施行の明治憲法で兵役が「臣民の義務」とされ(二〇条)、国民は常備軍に強制的に編入されました。満二十歳以上の男性全員を対象に徴兵検査(兵役のための身体検査)を受けさせ、選抜して通常二~三年現役兵として服役させ、除隊後もしばらくは予備役などに編入し、戦時には召集令状で戦争に動員するしくみでした。
 徴兵検査を受けずに逃亡したりすれば、懲役刑に加え、優先的に徴兵されるという二重の制裁を受けました。
 このような日本でも、学生などは卒業まで兵役の徴集を延期されました。
 しかし、一九四一年には、大学学部・予科、高等学校高等科、専門学校、実業専門学校などの修業年限を短縮し、卒業を繰り上げました。
 そして、一九四三年九月の閣議決定は、このような徴集延期そのものを廃止し、在学中でも兵役年齢に達すれば徴兵できるようにしたのです。
 同年十月二十一日、小雨の降る東京の明治神宮外苑で、出陣学徒壮行会がおこなわれました。
 出陣学徒の代表は「生等(せいら)もとより生還を期せず」とのべました。
 こうしたなかで、同年十一月、コロムビアは「学徒は今ぞ空へ往く」(作詞・西條八十、作曲・竹岡信幸)を発売しました。
 一、さらば別れぞ なつかしの
   母校の森よ 時計台
   決戦つづく 東亜の朝
   学徒は今ぞ空へ往く
 二、若き生命も 花の頬(ほほ)も
   ただ大君に 捧げなん
   ペン●(なげう)ちて 蒼空(おおぞら)翔(か)ける
   炎の意気を 君見ずや
 三、祖国敗れて 学理なし
   正義ほろびて 智育なし
   いま米英を 撃滅せずば
   学徒の栄与(ほまれ) いづこぞや
 四、科学の叡智(えいち) 発揮して
   醜慮に下す 必中弾
   栄光(はえ)ある学徒 あゝ高らかに
   凱歌(がいか)うたわん 大東亜
 ここでも「若き生命も 花の頬(ほほ)も」ただ、昭和天皇に捧げようというのです。
 作詞の西條八十は、当時、早稲田大学の教師で、出征する早稲田大学の学生たちを出陣学徒壮行会の会場まで引率しています。国防服といわれるカーキ色の国民服にゲートルを巻き、つばの広い帽子をかぶった姿でした。その後ろから「学徒出陣」と書いた白布のタスキをかけて行進しました。(この項、『流行歌(はやりうた) 西條八十物語』、吉川潮、新潮社)
 翌十二月に第一回学徒兵が入営しました。
 同月には、徴兵年齢を十九歳に引き下げる勅令も出されました。
 学徒出陣で、法文系などを中心に多くの学生が学業を途中で打ち切られ、二十万人近い学生が出陣したといわれます。
 「あたら青春をわれわれは何故、このようなみじめな思いをして暮らさなければならないのでしょうか。若い有為の人々が次々と戦死していくことは堪(たま)らないことです。中村屋の羊羹(ようかん)を食べたいとふっと思い出しました」
 戦後、戦没学生の手紙などを集めた『きけわだつみのこえ』には、死に直面した学生たちのさまざまな心情がしるされています。
 日本が植民地にしていた朝鮮や台湾でも一九四三年から徴兵制が適用され、一九四四年一月には、強制的に“志願”させられた四千人余の朝鮮学徒兵が入営しました。
   三十五 「かくて神風は吹く」
    
 天皇制政府は、侵略戦争に打ち勝つには「神風」に頼るしかないと思ってきたのでしょうか。それとも、国民を「日本は勝つ」と思わせておきたかったのでしょうか。「神風」頼りの歌が生まれました。
 その一つが、「神風節」(一九四五年一月、キング、日本音楽文化協会・日本音盤協会制定)です。
 一、吹けよ吹け吹け メリケン嵐
   どうせ浮き雲 迷い風
   大和島根は ゆるがぬ島根
   吹くぞ神風 敵を呑む 敵を呑む
   エイエイ エイ
 二、響け響け 癇癪弾丸奴(かんしゃくだまめ)
   どうせ外(そ)れ弾丸(だま) 迷い弾丸
   もぐらちょいと出て ちょい首かしげ
   雨が降るよな 星かいな 星かいな
   エイエイ エイ
 三、敵の自慢の へなへな蜻蛉(とんぼ)
   叩(たた)き落として 粉微塵(みじん)
   親子三代 念願賭けて
   入れつぶすぞ 鬼の面 鬼の面
   エイエイ エイ
 四、眉も動かぬ びくともせぬぞ
   何のこれしき 朝嵐
   肝の太さを 見て肝つぶせ
   昇る朝日を 見て拝め 見て拝め
   エイエイ エイ
 なんというから元気!!
 もう一つ、「かくて神風は吹く」(一九四五年二月、コロムビア、作詞・高橋鞠太郎、作曲・竹岡信幸)です。
 一、海を圧して 寄せ来る敵を
   なんで遁(の)がして なるものか
   今だ討ち取れ 力を一(いつ)に
   かくて吹くのだ 神風が
 二、敵は鬼畜だ 幼い子まで
   なぶり殺しに する奴だ
   みんな起て起て 日本男児
   かくて吹くのだ 神風が
 三、皇土日本 一足たりと
   敵の土足に 踏まさりょか
   なんの討死 死んでも護れ
   かくて吹くのだ 神風が
 四、相模太郎は 勇猛果敢
   西を睨(にら)んで 一喝(いっかつ)すれば
   老若男女もみな 起こった
   かくて吹くのだ 神風が
 五、撃てよ沈めよ 海底深く
   憎いこの敵 この寇(あだ)を
   燃ゆる闘魂 火花と散って
   かくて吹くのだ 神風は
 「敵は鬼畜だ 幼い子まで なぶり殺しに する奴だ」と国民を脅しつけ、「なんの討死 死んでも護れ」と追い詰めていきます。そのくらいにすれば「かくて吹くのだ 神風は」というのです。
 「討死」した後に吹く「神風」は、誰のための「神風」でしょうか。
   三十六 子どもたちが狙われました
    
 一九四一年十二月二十三日、情報局の主導で社団法人日本少国民文化協会が創立されました。児童文化人を総動員した団体です。
 定款には「本会は皇国の道に則(のっと)り国民文化の基礎たる日本少国民文化を確立して以(も)って皇国民の練成に資するを目的とす」(第三条。原文はカタカナまじりです)とうたっていてました。
 理事長は、小野俊一。理事には、高村光太郎、山田耕筰ら。顧問には、柳田国男、作家の吉川英治ら。
 舞踊、遊具、紙芝居、童話、演劇、音楽、文学、絵画、映画、ラジオ、出版の十一部会がありました。
 翌一九四二年二月十一日午後一時から、東京・日比谷の情報局講堂(帝劇)で同協会は発会式を開きました。
 総理大臣陸軍大将の東条英機が、祝辞をのべました。
 この発会式で「日本のあしおと」が、京橋区の昭和国民学校児童の唱歌、石井漠門下の舞踊で発表されました。
 文部省検定・情報局推薦、作詞・作曲・社団法人日本少国民文化協会の歌です。
 一、ザック ザック ザック ザック
   ザック ザック ザック
   へいたいさんの あしおと だ
   ザック ザック ザック ザック
   ザック ザック ザック
   つよい日本の あしおと だ
 ニ、ザック ザック ザック ザック
   ザック ザック ザック
   わたしたちの あしおと だ
   ザック ザック ザック ザック
   ザック ザック ザック
   そろふ みんなの あしおと だ
 三、ザック ザック ザック ザック
   ザック ザック ザック
   せかいにひびく あしおと だ
   ザック ザック ザック ザック
   ザック ザック ザック
   すすむ アジヤの あしおと だ
    
 この年の十月三日から八日まで、「軍人援護強化週間」が軍事保護院の主催で実施されました。
 その六日夜、東京の日比谷公会堂で、日本少国民文化協会と軍事保護院、軍人援護会の主催で軍人援護少国民文化大会が開かれました。
 ここで、「少国民進軍歌」が発表されました。
 この歌の歌詞は、日本少国民文化協会と陸軍省、軍事保護院と共催で公募した歌で、応募一万七千四百二十八篇の中から東京府西多摩郡大木野国民学校訓導(教師)の長坂徳治(二十二歳)の作品が選ばれました。
 そして、作曲を佐々木すぐるが担当しました。
 一、轟く 轟く 足音は
   お国の為に 傷ついた
   勇士を守り 僕達が
   共栄圏の 友と行く
   揃う歩調だ 足音だ
 ニ、響く 響く 歌声は
   戦死をされた丈夫(ますらお)の
   忠義の心 受けついで
   感謝で進む 僕達が
   歌う国歌だ 君が代だ
 三、ひらめく ひらめく あの旗は
   戦地の苦労 想うとき
   小さいながら 僕達も
   負けてなるかと 胸張って
   仰ぐ国旗だ 日の丸だ
 四、呼んでる 呼んでる あの声は
   誉(ほまれ)の遺児(いじ)と 諸共(もろとも)に
   未来を担(にな)う 僕達が
   雄飛(ゆうひ)の時を 待っている
   七つの海だ 大陸だ
 一九四二年十一月七日、日本少国民文化協会は、日本放送協会と共催で全国少国民「ミンナウタヘ」大会を開催しました。
 「放送により全国の少国民をして同一歌曲を同一時に唱和せしめ音楽を通して少国民の団結を強化し大東亜建設推進の意気を旺盛ならしめ併せて歌唱力の向上に資せんとす」(趣旨)ということでした。
 全国の各所で開催されました。東京では神田の共立講堂が会場でした。
 課題曲は「日本のあしおと」、「きたえる足」(一九四二年『初等科音楽 ニ』。作詞・片桐顕智、作曲・成田為三)、「進め少国民」(日本放送協会選定歌。作詞・園英ニ、作曲・渡辺浦人)、「朝日は昇りぬ」(文部省唱歌)、「愛国行進曲」の五曲でした。
 こうして天皇制政府と、それに追随する人々は、音楽を使って子どもたちを侵略戦争に動員していきました。
   三十七 命を奪われた少年兵たち
    
 一九四四年三月には、キングが「少年兵を送る歌」(作詞・松村又一、作曲・林伊佐緒)を発売しました。
 今こそわれら 国のため
 命捧げる 時ぞ来ぬ
 往けや 皇国(みくに)の少年兵
 特別攻撃の歌でした。
 少年も兵士として戦場に動員されていました。
 ●少年通信兵
 一九三三年十二月から陸軍通信学校で教育。一九四〇年十二月から陸軍少年通信兵学校で。一九四一年十二月から東京陸軍少年通信兵学校で。一九四三年十二月から東京陸軍少年通信兵学校、村松陸軍少年通信兵学校で。一九四五年四月から村松陸軍少年通信兵学校で。
 ●少年飛行兵
 一九三四年二月から所沢飛行学校(埼玉県所沢)で教育。一九三六年二月から熊谷陸軍飛行学校、陸軍航空技術学校で。一九三八年二月から東京陸軍航空学校で。一九四三年四月から東京陸軍航空学校、大津少年飛行兵学校で。一九四四年四月から東京陸軍航空学校、大津少年飛行兵学校、大分少年飛行兵学校で。
 ●少年戦車隊
 一九三九年十二月から千葉陸軍戦車学校で教育を開始。一九四一年十二月から陸軍少年戦車兵学校(静岡県富士郡上井出村。現・富士古市)で教育。 
 ●少年工科兵
 一九四〇年十二月から陸軍兵器学校で教育。
 ●少年野砲兵
 一九四二年十二月から陸軍野戦砲兵学校で教育。
 ●少年重砲隊
 一九四二年十二月から陸軍重砲兵学校で教育。
 ●少年高射兵
 一九四二年十二月から陸軍防空学校で教育。一九四四年六月から千葉陸軍高射学校で。
 ●船舶特別幹部候補生
 一九四四年四月から暁第二九四〇連隊。
 教育を終えた少年たちは戦場に駆り出されていきました。
 たとえば、船舶特別幹部候補生の多くが搭乗したのは水上肉迫攻撃艇です。
 一人乗り。材質はベニヤ合板。全長五・六メートル。速力二十五ノット。二百五十キロ爆雷を二個搭載しました。
 この水上肉迫攻撃艇で「敵」にぶつかっていくのです。
 (この項は、毎日新聞社の『別冊一億人の昭和史 陸軍少年兵 日本の戦史別巻七』などを参考にさせていただきました)。
   三十八 「玉砕」を、どう歌ったか
    
 「玉砕(ぎょくさい)」という言葉は、つまり「ほぼ全滅」という意味で使われていたと思います。
 フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』によると<玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争において、外地において日本軍守備隊が全滅した場合、大本営が発表する際にしばしば用いた語である。出典は北斉書元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(人間は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」><最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2600名が全滅した時である。「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くしようと、大本営によって生み出された。>
 年表をつくってみました。
 一九四三年二月一日       日本軍、ガダルカナル島から撤退開始(二月七日、撤退完了)。
 一九四三年四月十八日      連合艦隊司令官・山本五十六(いそろく)大将が戦死。
 一九四三年五月二十九日     アリューシャン列島アッツ島の日本軍全滅。
 一九四三年五月         中国人労働者の日本への強制連行開始。
 一九四三年十月二日       学生、生徒の徴兵猶予を停止(学徒出陣)。
 一九四四年二月十七日      アメリカ機動部隊、トラック島を空襲。
 一九四四年三月八日       インパール作戦を(七月九日まで)
 一九四四年三月三十一日     連合艦隊司令長官古賀峯一「殉職」(四月五日発表)。
 一九四四年六月十五日      アメリカ軍、サイパン島に上陸。
 一九四四年六月十九日から二十日 マリアナの海戦で空母、航空機の大半を失う。
 一九四四年七月七日       サイパン島守備隊三万人が全滅。
 一九四四年七月十八日      東條内閣総辞職。
 一九四四年七月二十一日     アメリカ軍、グアム島上陸(八月十日、守備隊全滅)。
 一九四四年七月二十二日     小磯国昭内閣成立。
 一九四四年七月二十四日     アメリカ軍、テニヤン島上陸 (八月三日、守備隊全滅)。
 一九四四年八月二十三日     政府、学徒動員令、女子挺身勤労動員令を公示。
 一九四四年九月十五日      アメリカ軍、ペリリュー島に上陸。
 一九四四年十月十二日      台湾沖航空戦(大本営、大戦果を発表)。
 一九四四年十月二十日      アメリカ軍がレイテ島(フィリピン)に上陸。
 一九四四年十月二十四日     日本軍、フィリピン・レイテ沖海戦で敗れ、陸・海連合艦隊の主力を失う。
 一九四四年十月二十五日     特攻開始(関大尉ら敷島隊)。
 一九四四年十一月二十四日    サイパンを基地とするアメリカ軍爆撃機B29による東京初爆撃。
 一九四五年一月九日       アメリカ軍がルソン島(フィリピン)上陸。
 一九四五年二月         日本軍、一万人を超えるマニラ住民を虐殺。
 一九四五年三月九日から十日   B29が東京を大空襲(約二十三万戸焼失、死傷者十二万人)。
 一九四五年三月十四日      大阪空襲(十三万戸焼失)。
 一九四五年三月十七日      硫黄島守備隊が全滅。
 一九四五年四月一日       アメリカ軍が沖縄本島に上陸(六月、県民二十数万人死亡)。
 たくさんの「玉砕」がありました。
 そして、その「玉砕」が歌になりました。
 一九四三年五月二十九日のアッツ島の日本軍全滅は「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」(一九四三年十月、コロムビア、朝日新聞社選定、作詞・真巽久信、作曲・山田耕筰)で、つぎのように歌われました。
 一、刃(やいば)も凍る 北海の
   御盾(みたて)と立ちて 二千余士
   精鋭こぞる アッツ島
   山崎大佐 指揮を執(と)る
   山崎大佐 指揮を執る
 二、時これ 五月十二日
   暁こむる 霧深く
   突如と襲う 敵二万
   南に邀(むか)え 北に撃つ
   南に邀え北に撃つ
 三、陸海敵の 猛攻に
   わが反撃は 火を吐(ふ)けど
   巨弾は落ちて 地を抉(えぐ)り
   山容ために 改まる
   山容ために 改まる
 四、血戦死闘 十八夜
   烈々の士気 天を衝(つ)き
   敵六千は 屠れども
   吾(われ)また多く 喪(うしな)えり
   吾また多く 喪えり
 五、火砲はすべて 摧(くだ)け飛び
   僅(わず)かに銃剣 手榴弾(しゅりゅうだん)
   寄せ来る敵と 相撃ちて
   血汐(ちしお)は花と 雪を染む
   血汐は花と 雪を染む
 六、一兵の援(えん) 一弾の
   補給を乞わず 敵情を
   電波に託す 二千粁(キロ)
   波濤に映る 星寒し
   波濤に映る 星寒し
 七、折柄拝す 大御言(おおみこと)
   生死(いきしに)問わぬ 益良雄(ますらお)が
   ただ感激の 涙呑む
   降りしく敵の 弾丸の中
   降りしく敵の 弾丸の中
 八、他に策なきに あらねども
   武名はやわか 穢(けが)すべき
   傷病兵は 自決して
   魂魄(こんぱく)ともに 戦えり
   魂魄ともに 戦えり
 九、残れる勇士 百有余
   遥かに皇居 伏し拝み
   敢然鬨(とき)と 諸共に
   敵主力へと 玉砕す
 十、あゝ皇軍の 真髄に
   久遠の大義 生かしたる
   忠魂の跡 うけ継ぎて
   撃ちてし止まん 醜(しこ)の仇
   撃ちてし止まん 醜の仇
 「遥かに皇居 伏し拝み」全滅するのが「皇軍の真髄」だといい、「撃ちてし止まん」と全国民が後に続くことを呼びかけた歌です。
 この歌を作曲した山田耕筰(一八八六-一九六五年)は、「からたちの花」(北原白秋・詩、一九二五年)、「この道」(北原白秋・詩、一九二七年)などを作曲した人です。
 彼は、日本の侵略政策のためにつくした人でもあります。
 ●一九三二年の日本のかいらい政権「満州国」建国の際には「大満州国国歌」を作曲。
 ●一九三八年、陸軍報道部の嘱託として漢口攻略戦に従軍。
 ●一九四〇年七月、警視庁と密接な関係を持つ演奏家協会を設立、会長に収まる。
 ●一九四一年九月の社団法人日本音楽文化協会創立総会で副会長に指名されます。同協会は、全日本の音楽関係者が「欧米模倣の域」を脱却して「一元的組織の下に皇道翼賛の至誠を尽すべき決心」を固めて結成されたものです(著者注・引用文の原文はカタカナまじりの文です)。
 ●一九四一年九月、社団法人日本音楽文化協会創立総会の数日後に、ナチスのKDFに範を取った演奏家協会音楽挺身隊を結成、みずから隊長になりました。この挺身隊は、銃後国民の慰安と鼓舞激励のために演奏家協会全会員を動員して作られたもので、三千の隊員を傘下に、市民慰安会、農村漁村への音楽慰安隊、産業戦士の慰労演奏などをやろうという趣旨です。
 ●『音楽之友』の一九四三年七月号には「音楽の総てを戦いに捧げん」という文章を寄せています。
 <山本元帥の壮烈なる戦死、アッツ島将士の勇敢なる玉砕、一億国民は感奮し魂の底から憤怒に燃えて必勝の誓いを固めている。
 楽壇諸君の努力については私もよく認めているけれども此の峻烈な戦局の下にあってはなお一層の反省を加え、勇猛心を振るい起こさねばならぬと信じる。楽壇から平時的な生活態度や微温的な思想傾向を除き去り、楽壇を全く戦争目的のために統一し、心を一にして邁進することが急務であると痛感するのである。
 音楽は戦力増強の糧である。今は音楽を消閑消費の面に用いてはならない。国民をして皇国に生まれた光栄を自覚せしめ、勇気を振るい起こし、協力団結の精神を培い、耐乏の意志を強め、戦いのために、戦時産業のために、不撓不屈の気力を養うことが、音楽に課せられた重要な任務である。平時的な音楽は葬られるのが当然である。
 顧みて楽壇人の生活態度はどうであろう。戦いをよそに芸術を弄ぶような考えがまだ残っているのではないか。産業戦士の中に飛び込んで真の戦時音楽を産業戦士とともに体験するというような烈しい気迫は欠けてはいないか。おさらい的な演奏会や社交的な演奏会や皇民的意識のはっきりしない演奏会が今なお街頭の立て看板に見られるのではないか。勿論楽壇の大勢は決戦意識の昂揚と戦力増強の面に向かって動いている。しかしたとえ少数でもまだ呑気な者や利己的な者が存在していることは楽壇の恥辱である。
 戦争の役に立たぬ音楽は今は要らぬと思う。皇国の光となるような永久的な文化の建設が必要なことはいうまでもないが、目前の戦争に勝ち抜いてこそ永久的な文化も考えられる。「国破れて文化あり」では仕様がない。いや国が破れたら文化も一緒に潰れてしまう。古代ギリシャの文化は古代ギリシャと共に滅び、古代ローマの文化は古代ローマと共に滅びた。日本が世界無比の古代文化を今日に伝えているのは、畏くも万世一系の皇室のこと、国家の尊厳が一ごうもおかされることなく三千年の光輝ある歴史を重ね来ったからである。日本の文化は皇国と共に栄えたのであって、皇国と切り離したら日本の文化が有るべき筈は無いのだ。今我々は此の大戦争を通じ曠古の天業を翼賛史奉っている。此の大戦争にかちぬかなければ日本の文化はない。
 我々が今日まで築き上げて来た日本の音楽は今日の戦局にこそ其の全力を捧げ、以て皇国の光輝を発揮しなければならないのだ。
 連合艦隊司令長官は最前線に進まれ御楯となって散り給うた。山崎部隊長以下二千数百の勇士は北海の絶島に十倍の敵と奮戦し全員国に殉じられた。楽壇の一人一人は山本元帥の心を心とし、一命を国に捧げる覚悟を示さねばならぬ。その覚悟を音楽の実践によって現わさねばならぬ。個人の生活などに何の思慮を費やす事があろうか。我々は戦時下の正しき皇民道に向かって誠心誠意邁進し、皇民たるに恥づる所なき力強い音楽活動を必死の努力で展開して報国の誠を効したいと思う。>
   三十九 「婦人従軍歌」とパラオの老婦人
    
 東京新聞、二〇〇四年十一月二十一日付朝刊の「特報」に西太平洋のパラオ共和国(五百八十六島からなる群島国)のことが載っていました(蒲敏哉記者)。
 <パラオの首都コロール。小高い丘の中腹に住むイバウ・オイテロンさん(87)はとつとつとながら、きれいな日本語で語りだした。
 日本は一九一四年の第一次世界大戦で、ドイツからパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を奪い、占領。二〇年に国際連盟から委任統治を認められ、第二次世界大戦中、米軍に占領されるまで約三十年間にわたり、この地域を支配した。パラオには、ミクロネシア最大の空港や南洋群島全域を管轄する南洋庁本庁が設置された。
 イバウさんは「大正六(一九一七)年、コロールで生まれ、日本政府が島民のために設けた公学校で五年間学びました」と日本語を学んだいきさつを話しながら、手を高く挙げた。
 「一つ、私どもは天皇陛下の赤子(せきし)であります。一つ、私どもは日本人になります。一つ、私どもは忠義を尽くします」
 さらに満州事変(三一年)当時、はやった軍歌(婦人従軍歌)を「ほづつの響き 遠ざかる 跡にも虫も声たてず 吹き立つ風はなまぐさく」と調子を付けて歌った。>
 「婦人従軍歌」(一八九四年、作詞・加藤義清、作曲・奥好義)は、次のような歌詞です。
 一、火筒(ほづつ)の響き遠ざかる
   跡には虫も声たてず
   吹きたつ風はなまぐさく
   くれない染めし草の色
 二、わきて凄きは敵味方
   帽子飛び去り袖ちぎれ
   斃(たお)れし人の顔色は
   野辺の草葉にさもにたり
 三、やがて十字の旗を立て
   天幕(てんと)をさして荷(にな)い行(ゆ)く
   天幕に待つは日の本(ひのもと)の
   仁と愛とに富む婦人
 四、真白に細き手をのべて
   流るゝ血しお洗い去り
   まくや繃帯白妙(ほうたいしろたえ)の
   衣の袖はあけにそみ
 五、味方の兵の上のみか
   言(こと)も通わぬあた迄も
   いとねんごろに看護する
   心のいろは赤十字
 六、あないさましや文明の
   母という名を負(お)い持ちて
   いとねんごろに看護する
   こころの色は赤十字
 近衛師団軍楽隊の楽手だった加藤義清(一八六四年━一九四一年)が、日清戦争(一八九四年八月一日、日本が清に宣戦布告)に出征する友人を見送りに新橋駅へ出かけた時、同じように戦地へ赴く看護婦たちに心を動かされて書いた作品といわれています。これに宮内省の楽師兼華族女学校の教官だった奥好義が曲をつけました。
 日清戦争では、日本赤十字社の三個班の救護班が中国大陸に派遣されました(『日赤百年』、サンケイ新聞社)。
 日本の支配地で、これほどまでの「日本人化」教育がなされていたのです。
 一九一四年、第一次世界大戦が始まると同年八月二十三日、日本もドイツに宣戦を布告、太平洋のドイツ領を目指して南進を開始しました。日本軍は、ミクロネシアを占領し、パラオは日本海軍の重要拠点となります。
 一九一八年十一月十一日、第一次世界戦争は終了し、国連によってパラオは戦勝国の一つである日本の委任統治領とされました。
ドイツ統治時代から貿易や経済活動でパラオに進出していた日本は、移住者を多数パラオに送り込む植民地政策をとりました。
 水産業、農業、鉱業などの研究所を設置、医療施設、学校なども建設しました。
 日本文化や日本語を学習させパラオ人を日本人として教育しました。
一九二二年、ミクロネシア日本領全体を統治する南洋庁がパラオに設置され、二万五千人の日本人が暮らす状況になりました。
 <「大東亜戦争前、コロールにはパラオ人約七千人に対し二万人以上の日本人が住み、ミクロネシア一の繁華街“リトル東京”と呼ばれました。多くの商店が軒を連ね、日本の商社ナンボウ(南洋貿易株式会社)がさまざまな商品を輸入して売っていた。私も天皇陛下の弟君(高松宮)がお見えになるというので、真新しい洋服を買ってもらった覚えがある。南洋神社のお祭りではパラオ人もみこしを担いだ。日本人と島民は仲が良かった」
 イバウさんは、日本人の巡査のもとで「巡警」を勤めるパラオ人のデンジャニンさんと結婚。「地元の治安を担う係で、島民がなれる最高の職。誇らしかった」と懐かしがる。>
 <イバウさんのように、戦前の日本統治時代を生きた七十-八十代のパラオ人は約二百人。次第に少なくなっているが「ご存命のうちにパラオと日本の生きた歴史を記したい」と活動する日本人女性がいる。
 愛媛県松山市出身の山本悠子さん(64)。日本カトリック信徒宣教者会(東京都港区)から派遣され、二〇〇〇年からパラオ在住のパラオ人や日本人のお年寄りから聞き取り調査をしている。「挺身(ていしん)隊」としてニューギニア戦線に送り込まれた混血の日系二世のインタビューなども紹介してきた。
 山本さんは「日本は統治下、島民に日本語を公用語として学ばせ、子どもがパラオ語を話した場合は『島語』と呼んで指を定規でたたくなどの体罰を行った。皆同じ天皇陛下の子どもだと呼びかけながら、日本人とパラオ人の通う学校も区別し、政治経済的な知識を与えないような差別的行為もあった」と指摘する。
 その一方で「優秀な子どもたちは日本の実家に招いたり、船大工などの技術で地元にとけ込んだ。後に子弟が大統領や閣僚になった日系人もいる。それぞれの実体験を紹介することで、パラオと日本の関係の光と影をあぶり出したい」と調査活動の抱負を話す。>
 <やがて真珠湾攻撃(四一年)。「日本はすごい。アメリカに勝つに違いないとみんな大喜びだったが、四四年の三月、まだ水くみにも出かけない明け方に突然、米軍機が四十-五十機来襲し、空港や基地を爆撃した。日本の兵隊さんたちに『危ないから本島のバベルダオブ島に疎開しろ』と言われ、ジャングルの中に命からがら逃げ込んだ」
 「ジャングルでは、持っていた食べ物はすぐなくなり、ペルロイと呼ばれる芋を煮て、水であく抜きして食べた。パラオ人はペルロイの食べ方を知っていたけど、日本兵は調理の仕方を十分知らなかったのでおなかを壊していた。ヘビやトカゲばかり食べ、衰弱して亡くなった方は多い」
 当時、夫はコロールの守備に残ったまま。イバウさんは二歳の長女を背負い、四カ月の二女を抱え谷間に隠れた。「忘れもしない八月八日の朝。畑仕事をしていたら米軍機が飛んできて機銃掃射を浴びた。バナナの葉っぱが飛び散りパタタタと目の前を弾が飛び跳ねた。身動き一つできなかったが、なぜか当たらなかった。私にとってアメリカ軍とはこの恐ろしい思い出でしかない」
 やがて八月十五日、日本軍とパラオ人との連絡係をしていた弟が「姉さん、天皇陛下が降参した。戦争が終わったよ」と伝えた。ジャングルから「終わった、終わった」と言いながら皆出てきたという。>

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