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2012.03.07

東京都府中市の浅間山(せんげんやま)の太平洋戦争

 【浅間山平和ツアー(二〇〇二年七月二十日)資料】

    「街かど」 ここも戦場だった
    (「しんぶん赤旗」 二〇〇一年五月六日付)

 標高七九・六メートルの山に四季を通じて登っています。東京都府中市の浅間山(せんげんやま)です。取材で市民団体・浅間山自然保護会の人にあらためて案内してもらいました。山内哲夫会長(69)が、山のくぼんだ所を指して「あれは高射砲陣地の跡です」、地滑りのような所を指して「地下壕(ごう)の崩れた跡です」。「えーっ! そうだったんですか」
 〇…前から「変なくぼ地だなぁ」「なぜ、こんな地滑りがあるのかなぁ」と思ってきました。それが…。府中市役所にいって文献をあさりました。浅間山の近くには、一九四一年四月から陸軍燃料廠(しょう)がありました。松やにから航空機用燃料を作る作業もしました。国民学校(小学校)の児童たちも近所の人たちも、ここで働かされました。浅間山も、同燃料廠の一部になっていました。
 〇…四三年から、浅間山にいくつもの横穴式の防空壕(幅約二メートル、高さ約二メートル、奥行き約三十メートル)が掘られました。四四年、四五年のアメリカ軍機の空襲の際は、多くの人が、息せき切って、ここに逃げ込みました。ここも戦場だったのです。
 〇…いま、浅間山は、ここだけに自生しているムサシノキスゲの花の盛り。人々でにぎわっています。平和です。記者も、花を楽しみながら憲法九条に「ミサイル」を撃ち込んできている小泉内閣とどう対決するか、思いを巡らせています。(義)

 ◎都立浅間山公園の戦争と平和

 都立浅間山公園(府中市浅間山四丁目、若松町五丁目、十七・五ヘクタール)にまつわる江戸時代からの歴史を、いろんな文献をもとにまとめました。

   江戸から明治、大正、昭和へ

 昔、浅間山は人見山と呼ばれ、この周辺の地域も人見村と呼ばれていました。
 幕末のころは、百八十石の御家人だった青木シン左衛門が治めていました。
 当時、人見村は、米、麦を作っていて、幕府の禁猟地でした。
 明治になると、青木氏は、品川県(当時、このあたりは東京府下ではありませんでした)から地券をもらって人見山を私有地にしていました。
 村人たちは、元名主にたいして異議を申し立て、大騒動の末、村の共有地として山を南北に二分し、南半分をもらい受けました。
 山のこの部分は、燃料として雑木を切ったり、落ち葉を集めて畑の肥料にしたりすることに利用されました。
 その後、日清戦争(一八九四年八月一日)、日露戦争(一九〇四年二月八日)のころから養蚕が盛んになり、このあたり一帯も一面の桑畑になります。

   山全体が陸軍燃料廠用地に   

 一方、一九三八年四月一日に国家総動員法が公布され戦争に向けて国民を総動員する態勢作りが本格になってきました。そのなかで、陸軍燃料廠を作ろうということになってきました。
 一九三九年五月四日、仮称「陸軍燃料廠」の設置が軍令陸乙第十一号で発令され、その要員を陸軍兵器本廠に増置することになりました。そこで、東京・三宅坂の陸軍省内の一室に仮事務所を設置。同年七月、初代陸軍燃料廠長・長谷川基少将が着任し、西照輜重兵(しちょうへい)大佐以下七、八人の技術将校が中心になり、その編成に着手しました。
 一九四〇年二月、仮事務所は、小石川造兵廠跡に移転しました。
 同時期、陸軍航空本部(経理部)は、府中の約六十町歩の敷地を買収。いまの浅間町一丁目の航空自衛隊府中基地の場所もそうですし、神社を残して浅間山全体も買収されました。
 ところで、当時の浅間山は、いまよりずーっと大きい山でした。
 浅間山付近の一九三〇年ころの地図と七八年ころの地図を比べてみると、この間に浅間山は三分の一になっています。
 三〇年ころは、周辺は桑畑と果樹園です。七八年ころの地図では、北西の部分、東の部分が削り取られています。東の部分は三井物産のグラウンドなどになっています。
 一九四〇年五月、第一陣として約十五人の技術将校が府中に移駐。陸軍燃料廠が本格的に出発しました。
 同年五月ころ、小石川造兵廠跡の陸軍燃料廠に勤めはじめ、七月ころに府中の陸軍燃料廠勤務を言い渡されて、建設中の陸軍燃料廠を見た吉野亥之太郎さん(当時は向島、いまの江東区に在住)は『戦争体験集 戦火の回想』(府中市)に、こう書き記しています。
 「向島から京成電車、市電、省線そして京王線と乗りついで、約二時間余もかかって八幡前駅に降りることができた。桑畑が道路の両側にある旧人見街道を歩いて約十五分、そこは一面の雑木林が連なる広い草原とでも言える通称人見が原古戦場、そこに庁舎の建設が陸軍航空本部の統轄下で急ピッチで進んでいた。余りの広大な土地を造成して建設の現場を見た私は、こんな田舎町に大変なものが出来上がるのだナーと驚いたものであった」
 同年七月三十一日、勅令第四百九十三号により陸軍燃料廠令が制定され、陸軍燃料廠令が正式に発足しました。それによると「陸軍燃料廠は陸軍に必要なる燃料、脂油及び其の副生品の製造、此等製品の検査燃料の購買及貯蔵並に燃料、脂油の製造に関する調査及研究を行う所とす」となっていました。陸軍の燃料関係のセンターです。
 一九四一年四月一日、長谷川少将以下の本部機構が府中に進出しました(総勢五百余人)。
 京王線東府中駅から北に約五百メートル、イチョウ並木突き当たりに陸軍燃料廠の正門がありました。
同じく四月、近くの調布陸軍飛行場(調布市、府中市、三鷹市)も完成しました。
 同年六月二十日、陸軍燃料廠は、多数の技術将校を迎えました。このなかには、京都帝大工学部卒の福井謙一さんもいました。
 同年十二月、陸軍燃料廠の整備が完了しました。

   石油奪取の作戦にもかかわる

 同年十二月八日、日本帝国主義が太平洋戦争を開始しました。
 陸軍燃料廠は、海外侵略による石油奪取の作戦にもかかわりました。
 一九四二年二月十四日、陸軍の落下傘部隊が蘭印石油の主生産地・インドネシアのパレンバンを奇襲攻撃。オランダ系のB・P・Mの精油所をほとんど無傷で、アメリカ系のNKPMを半壊の状態で占領しました。陸軍は、引き続き、三月十一日、パレンバン北方三百キロメートルのジャンビ油田を占領しました。
 陸軍燃料廠は、同年三月中旬、研究部長・勝村福次郎少将をパレンバンに派遣し、被害状況調査をしました。その報告にもとづいて中村大佐以下基幹技術者を現地に転属し、採油、送油、製油などの諸施設の復旧にあたらせました。   
 日本軍が追い込まれ石油の入手が困難になってきた一九四四年ころからは、松根油、アルコールなどの代用燃料が必要になり、陸軍燃料廠でも、装置を改造してアルコールの製造にとりかかりました。
 陸軍燃料廠でやられた研究は、以下のようなものです。
 石炭を原料として人造石油を産出する。
 動植物油から航空潤滑油を合成する。
 松根油などからガソリンを得る。
 天然ゴムを分解してガソリンや潤滑油を合成する。
 陸軍燃料廠軍属だった小峰米蔵さんの一九四一年七月の日記によると、木炭ガス発生炉取付の貨物自動車の試運転もしていました(『戦争体験集 戦火の回想』)。

   府中には兵器工場が続々と

 「国家総動員法(一九三八年四月一日公布)の制定にはじまる戦時体制の本格化は、軍需工業の展開をさかんにした」(『府中市史』 府中市)。 
 少々の繊維産業以外に工業らしい工業を持たなかった府中町に兵器工場が進出してきました。
 【日本製鋼所武蔵製作所】 一九三八年十一月に工場建設が起工され、四〇年五月に操業開始。陸軍からの同社への、東京から三十キロメートル以内の地に戦車を作る工場を作れという指示にもとづく工場建設でした。同社の室蘭製作所でやっていた中型戦車の生産が府中に移されました。軍の管理工場として成立し、相模原陸軍造兵廠の監督下におかれました。四二年には、中型高射砲の生産に一挙に転換させられ、四三年八月から生産を開始しました。同年には工場が陸軍に買い上げられ、国有民営の工場になり、大阪陸軍造兵廠の監督下に移されました。
 【東京芝浦電気府中工場】 一九四〇年九月に建設開始、四一年四月に工場の一部が操業開始。電気機関車、電気用品、電熱装置などの生産。四三年十一月、車両製造部門が分離されて東芝車輌製造所になります。四四年、東芝は軍需会社に指定され、東芝電気府中工場、東芝車輌製造所は、ともに指定軍需工場として国家の管理下に入りました。 
 【日本小型飛行機株式会社】 一九四一年二月、いまの鶴見町に工場用地七万坪を確保し設立されました。軍から、軍隊や物資を輸送するための大型グライダーの製造を要請されて作られました。軍の管理工場として大型グライダーの生産とともに飛行機部品の試作もやりました。部品の試作は、アルミニュウムの不足から飛行機の木製化が計画されたもので、MC47輸送機の尾翼、DC8輸送機の主翼が木で試作されました。ジェット機の試作もやられました。
 近隣の町にも陸軍の巨大施設が次々と作られていきました。
 一九四二年四月には、小平市に陸軍経理学校を開設。
 同年十月には、小金井市、小平市に陸軍技術研究所を開設。
 この二つについては別項の記事を参照してください。

   浅間山に横穴式の防空壕を掘りました

 東府中駅南側、いまの清水が丘二丁目の住宅営団の木造建家屋二百二十五戸が陸軍燃料廠の管理下になりました。見習士官、職員、徴用工員が住みました。
 女子挺身隊員も陸軍燃料廠に勤務しました。
 アメリカ軍機の空襲がひどくなりました。
 浅間山にも高射砲陣地も作られました。
 陸軍燃料廠整備部作業課庶務科にいた沼尾長一さんは、ここでの防空壕作りについて書きています(『戦争体験集 戦火の回想』)。
 「昭和十八年(一九四三年)末期になって各部各課において廠内各所に防空壕堀りが始まった。壕の広さは三十人位収容できる広さのものであった。これと同時に、現在の浅間山地内に在(あ)る浅間山の裾に各部毎(ごと)の防空壕堀りも始まった。壕は巾二米、高さ二米、奥行は三十米ぐらいで、二カ所から同時に掘り始め奥で馬蹄形になって接続した。毎日各部から二十名程の使役が出され、交代で壕堀りを行った」」
 一九四四年四月に陸軍燃料廠経理部調達課に入った勅使河原昭二さんも、そこでの防空壕作りについて書いています(『戦争体験集 戦火の回想』)。
 「戦火も益々(ますます)激しくなり、防衛のため燃料廠の近くにある浅間山(今の浅間町)に防空壕を作ることになった。大がかりの作業なので、大多数の人が使役に従事した。勿論(もちろん)私もその中の一人でありました。朝早く起きて直接現場へ行き、現場から直接帰宅すると云(い)う日が何日も続いた。当時は食糧も不足して栄養も補給出来ないので、体力が待たず大変つらかった。家に帰って風呂に入り夕食をしたら死んだ様に寝てしまう毎日でありました」
 『浅間山歴史散歩 第十六回文化祭参加』(府中工業高校図書委員会)には「軍は、(浅間)山の横腹にコの字型の地下壕(ごう)を作り、ガソリン、生ゴム、砂糖などを貯蔵、保管した。壕を作る作業中にシズク貝の化石がたくさん出て、子供たちがバケツを持って拾い行ったりしたという話も残っている」と書かれています。

   米軍が浅間山に焼夷弾を落下 

 一九四二年六月に陸軍燃料廠に召集された市川忠男さんは、つぎのようにのべています(『戦争体験集 戦火の回想』)。
 「十九年(一九四四年)頃から特に多くなったB29による来襲の警報が鳴るたびに、調弁課内の女子従業員並びに女子挺身隊員の少数を中庭に非常呼集をかけ、集まると駆け足で東門から約五百米位あったと思われる浅間山に掘ってある数カ所の横穴式の防空壕(直径二米、延長三十米位)へ無事に引率するのが任務の一部であった」
 陸軍燃料廠の職員だった平七蔵さんは、つぎのようにのべています(『戦争体験集 戦火の回想』)。
 「昭和二十年に入り空襲は激しくなり、調布飛行場より連絡される米軍機(B29艦載機)の空襲のサイレンがあり、廠舎、宿舎の警備、重要書類等の持ち出し、浅間山にある防空壕への待避が日課になってしまいました。夜間の空襲時には、非番の者は宿舎の警備、自宅の防空壕への家族の待避、廠舎の警備を割り当てられている者は旧燃料廠へかけつけました。
 この頃調布飛行場では米機を迎撃する力はなく、のこされて居(い)る飛行機の待避が精一杯であったようです」
 陸軍燃料廠にいた小枝幾久雄さんは、つぎのようにのべています(『戦争体験集 戦火の回想』)。
 「昭和二十年(一九四五年)の初夏のある夜、(陸軍燃料廠に)かなりの数の焼夷弾が落とされたが大事に至らず消しとめ、翌朝林の中に多くの不発弾が発見された」
 この空襲については陸軍燃料廠に勤務していた小峰米蔵さんが日記に書いています(『戦争体験集 戦火の回想』)。
 五月二十四日(木曜日)の午前一時十五分に警戒警報、空襲警報発令、午前三時四十五分に警戒警報、空襲警報発令解除。「最後より二番目の機より燃料廠北側の廠内山林中に、又(また)最後の機は府中南方矢崎南方近くに各焼夷弾を落下した。燃料廠では約九十坪の山林中の倉庫一棟全焼と他の倉庫一棟を少し焼いた。四時より二時間就寝す」
  ホームページ「244戦隊」には、当時の浅間山と、その周辺の写真が二枚載って入ます。その説明には、こう書かれています。
 「多磨霊園
調布飛行場の北西に位と置する都営多磨霊園は広大な緑地であり、園内の道路も幅員が広く、飛行機の秘匿には絶好の場所だった。
当初は空襲の際、244戦隊の飛行機は誘導路で繋がった中島飛行機三鷹研究所へ待避させていたが、20年2月16および17日、ここが敵艦載機の爆撃を受けたため、これ以降は多磨霊園内とその南一帯に分散秘匿されるようになった。特に常緑の松が茂る霊園内は効果的で、敵機からはほとんど発見されなかった。
 空襲に対しては、飛行場内には身代わりのベニヤ製偽飛行機をそれらしく配置し、本物は秘匿地区に疎開させていたが、これが功を奏して、空襲による地上飛行機の損失は計3~4機程度で済んだ」
 「浅間山 (せんげんやま)
20年5~6月頃、調布飛行場から遠く離れた浅間山山中の秘匿場所へ運ばれる独飛17中隊の100偵。
 後方の丘は多磨霊園の一部(当時はまだ畑)。この場所は府中市若松町5丁目、三井物産運動場辺り。
 浅間山には当時、府中陸軍燃料廠の秘匿燃料タンクが多数設置され、大規模な地下壕も掘られていた」

   岩国の陸軍燃料廠は空襲で壊滅、

 山口県麻里布町(いまは岩国市)にも一九四一年三月、陸軍燃料廠第一製造所が設置されていました。
 一九四五年五月十日、アメリカ軍のB29約二百機は、陸軍燃料廠第一製造所を爆撃。施設は一瞬にして破壊され、二百五十四人が殺されました。   

   太平洋戦争は終わりましたが

 一九四五年八月十五日、天皇制政府、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏。
 アメリカ軍は、陸軍燃料廠(浅間山を含む)を接収し、空軍の司令部機能を設置しました。
 府中基地のアメリカ軍は、浅間山にたくさんあった松の大木を燃料として切ってしまいました。
 その後、一九五一年、浅間山はアメリカ軍から日本に返還されました。
 しかし、アメリカ軍の横暴はやまず、浅間山で非常演習をやりました(一九五二年四月二十八日のサンフランシスコ「平和」条約発効まで)。
 一九五四年、国は浅間山の入会権を復活させるために、浅間山の土地を浅間山周辺の農民五十六軒に払い下げました。一軒平均一反(約千平方メートル)でした。
 一方、一九五四年七月一日、自衛隊が発足し、陸軍燃料廠跡地には、自衛隊の航空総隊(戦闘部隊の司令部)も置かれました。

   都立浅間山公園ができました

 一九五八年から、殖産住宅が浅間山の土地を住宅地用地にと買収を始めました。二、三年間に約八割の家が買収に応じました。
 しかし、「浅間山のかけがいのない自然を守れという、地元をはじめ多くの人々の強い要望があり、都は昭和36年(一九六一年)3月に面積17.69ヘクタールの風致公園として都市計画決定を行い、昭和40年(一九六五年)度から用地買収を開始し」ました(『東京の公園百二十年』 東京都建設局公園緑地部)。
 浅間山の自然を保存しようという運動には日本共産党の長島種次市議、社会党のY市議、自民党のK市議も参加しました。
 そして、一九七〇年六月、都立浅間山公園として開園しました。
 アメリカ軍基地はその後、「関東計画」と呼ばれる基地の集約化が行われ、横田基地へ移転しました。
 一九七五年六月三十日、アメリカ軍府中空軍施設の内、自衛隊使用部分と通信施設を残して五十九万二千百五十八平方メートルが日本に返還されました。返還された土地は、順次、公園、中学校、道路、文化ホール、斎場などになっています。
 いまアメリカ軍の府中の基地は、府中通信施設だけになりました。
 管理部隊はアメリカ空軍第374空輸航空団。一万六千六百十八七メートルの通信鉄塔と施設1棟があり、横田飛行場、大和田通信所、上瀬谷通信施設(神奈川県)との中継通信基地となっています。
 一九八二年、市民団体「浅間山自然保護会」が結成されて、雑木林の間伐、ここだけに自生しているムラサキキスゲの保護など浅間山を守る活動を展開しています。 

    陸軍燃料廠新設 製造、貯蔵に万全 勅令きょう公布
    (読売新聞 一九四〇年七月三十一日付)

陸軍では今回陸軍燃料廠を新設することになりこれに関する勅令を一日付官報で公布することになった、燃料廠は陸軍に必要なる燃料脂油の製造貯蔵を行うと共にこれが調査研究を行うもので従来航空本部その他の分掌されていたのを統合し陸軍の燃料脂油の需給に万全を期することになったものである、この機構は陸軍少将の廠長の下に総務整備、研究、会計の四部制で廠長は大臣に隷し事務を総理するが航空燃料に関しては航空本部長の区処をうけることになっており他の製造所及貯蔵所をもち必要に応じて各地に出張所を設けることになっている、なおこの新設により航空本部令も改正された、新陸軍燃料廠令左の如し

  陸軍燃料廠令
第一条 陸軍燃料廠は陸軍に必要なる燃料、脂油及び其の副生品の製造、此等製品の検査燃料の購買及貯蔵並に燃料、脂油の製造に関する調査及研究を行う所とす
第二条 陸軍燃料廠に総務部、整備部、研究部、会計部並に所要の製造所及貯蔵所を置く、その業務の分掌は陸軍大臣之を定む
第三条 陸軍大臣は必要に応じ陸軍燃料廠の出張所を置き其の業務を分掌せしむることを得
第四条 陸軍燃料廠に左の職員を置く
廠長、部長、製造所長、貯蔵所長、廠員付、准士官、下士官及び判任文官出張所を置きたる場合に於ては出張所長は廠員を以て之に充つ
第五条 廠長は陸軍大臣を隷し陸軍燃料廠の業務を総理す、廠長は航空に関する燃料、脂油の製造調査及び研究に関し陸軍航空本部長の区処を承け
第六条 部長は廠長の命も承け部務を掌理す
第七条 製造所長及貯蔵所長は廠長の命を承け所務を掌理す
第八条 廠員及び付は上官の命を承け各担任の業務を掌る
第九条 准士官、下士官及び判任官は上官の命を承け技術又は事務に従事す
第十条 官庁または民間より燃料及び脂油に関する製造、研究または試験等は指導の依頼ありたるときは第一条の規定に依る業務に妨なき限り陸軍大臣の認可を受けこれに応ずることを得
第十一条 衛戊地外にある製造所又は貯蔵所に衛兵を置く必要あるときは製造所長又は貯蔵所長は所在地所管師団長に衛兵の派遣を請求することを得、この場合においては直ちにこれを廠長に報告すべし
【付則】 本令は昭和十五年八月一日よりこれを施行す

 ◎小平市の陸軍経理学校と小金井市、小平市に陸軍技術研究所

   62年前に見た有事法制 東京・小金井市 村越政雄さん(72)
   家がレールにのせられ畑の中を引かれていった
   (「しんぶん赤旗」 二〇〇二年四月十日付)

 「有事立法の動きを知って、戦争中、同じ地域の人が何人も陸軍に土地を強制買収されたことを思い出しました」。東京都小金井市貫井南町に住むアパート経営の村越政雄さん(72)の有事立法反対の思いは――。(藤原 義一記者)

    「戦争に必要」

 戦前の有事立法・国家総動員法下で陸軍が、小金井市、小平市にまたがる陸軍技術研究所をつくったときのことです。村越さんの住んでいた小金井町(いまの小金井市)貫井の一大事でした。
 一九四〇年二月、貫井の農民たちに軍から“軍用地として貴殿所有の土地を買収したいので、印鑑持参の上ご参集下されたい”という内容の手紙が届きました。
 会場の小金井小学校(いまの市立小金井第一小学校)に集まった農民、関係者は五十余人。買収担当の将校は「土地は元来陛下(昭和天皇)のもので、大戦遂行にぜひ必要な土地であるから、買収することになった。この承諾書に調印するように。不満の者は調印しなくてもよろしい。そのかわり即刻、強制買収の手続きをとる」といいました。
 坪(約三・三〇六平方メートル)五円、四円、三円と軍が一方的に値段を決めていました。
 この買い上げの過程は小金井市誌編さん委員会の『小金井市誌Ⅵ』にも記されています。
 村越さんは、土地を追い出された人の家、土蔵、物置が、元の場所から南東に四百メートルほどの移転先に引かれていくのを見ました。小学校四、五年生のときです。
 家ごと四万平方メートルの土地を買収された農業・荒畑藤吉さん(故人)宅のものでした。

    二度奪われた

 「家をコロ(重い物をころがすための丸い棒)とレールに乗せて、三十人ほどのおとなたちが畑の中を引いていきました。何日も何日もかかりました」
 荒畑さんは、買収の値段が安過ぎるので、何度も軍の師団司令部にいきましたが「いやならいやでよい。国家総動員法の一三条と一六条で、ただで没収することになる」といわれ、調印せざるを得なかったのです。
 村越さんは、最近、近くに住む荒畑さんの息子・文夫さん(69)=小金井市貫井北町=に聞いて、荒畑家が、四二年に、再度、同研究所用地として買収されたことを知りました。四万平方メートルの買収でした。
 そのときも、南東の次の土地へと家を引きました。
 いま、そこに住んでいる文夫さんは、そのとき引っ越した土地の代金は坪十五円だったといいます。軍の買収価格が、いかに安かったかがわかります。
 陸軍の買い上げた宅地、工場用地、畑、雑木林は、計百七十五万平方メートルに上りました。
 陸軍は、同研究所を四二年十月に設置。ここで第一、第二、第三、第五、第八の各研究所が侵略戦争推進のために兵器開発の研究をやりました。
恐ろしい軍隊
 荒畑さんの家が引かれていくのを見たとき、村越さんは、子ども心に「軍隊は恐ろしい力を持っているなぁ。ひどいことをするなぁ」と思いました。
 村越さんは、いま、その思いをよみがえらせながら地域の人々に有事立法反対の請願への署名をお願いしています。
 政府が国会に提出しようとしている有事立法は、アメリカの計画する戦争のためにアメリカ軍や自衛隊が国民を動員する、必要とあれば土地も取り上げてしまう法律だからです。

 国家総動員法 一九三八年に制定されました。一三条で、「国家総動員上必要あるときは」土地、家屋などを収用できるようになっていました。一六条では事業に属す設備や権利を移動できるようになっていました。拒んだり、妨げたり、忌避した人は、三年以下、二年以下の懲役などの刑に処せられました。

   戦争国家法案 三枚のはがきが語る土地接収
   戦中、陸軍施設の建設、拡張で反対の声も出せずに…
   東京・小平市 中島幸一さん
   (「しんぶん赤旗」 二〇〇二年四月二十三日付)

 「有事」を口実に国民の土地、建物も取り上げてしまう―政府が国会に提出している戦争国家法案です。戦前の戦時立法・国家総動員法(一九三八年四月公布)下でも同様のことがやられました。陸軍省が東京都小平市に陸軍経理学校を造るときの接収もそうでした。同市御幸町(みゆきちょう)の中島幸一さん(80)が、そのことを示すはがき三枚を保存しています。(藤原 義一記者)

 陸軍経理学校は東京・新宿の若松町にありました。太平洋戦争(四一年十二月開戦)の進展にともなって施設の本格的な充実のために四二年四月、小平市(当時は小平村)に移転しました。
 「小川新田山家(おがわしんでんさんや=いまの同市喜平町)なんか、民家の裏にあった畑が、ほとんど陸軍経理学校の用地に買収されてしまいました」
 幸一さんが当時のことを語ります。
 陸軍は、小川新田山家地域の地積約四十五万平方メートル中62・2%を接収。これは農地の80%以上に上りました。買収価格は、一律に坪(約三・三〇六平方メートル)三円だったといいます。
 「この買収は全く軍部の一方的なものであって、山家部落では以後の農業が困難になる関係上、計画案より百八十一・八メートル(百間)北に移動するように要求したが聞き入れられず、買収前にすでに工事が始まるという有様であった」(『郷土こだいら』、小平市教育委員会発行)

     陸軍から文書

 幸一さんが保存しているのは、いずれも八王子区裁判所田無出張所の一九四五年一月十二日付のはがきで、父・中島安五郎さんあてです。陸軍省が、これこれの土地を買い取って登記したということを通知する「代位登記通知書」です。
 一通は、四二年六月十二日に陸軍省が陸軍経理学校の排水溝用地として中島さん宅の、いまの同市鈴木町一丁目の桑畑約二百九十四平方メートルを強制買収したときのものです。
 「父に、陸軍から、こういう計画で買収する、実印と印鑑証明を持って小平村役場にこいという文書がきました。父が村役場にいったら、軍人がきていて、こういう計画だから売買契約を結ぶ、登記は軍が代位登記するということだったといいます」
 幸一さんは、当時から父と一緒に、いまの家に住んでいて、都内の立川陸軍航空廠(しょう)に軍属として勤めていました。
 もう二通の「代位登記通知書」は四四年九月十八日の強制買収のときのものです。
 以前に接収された土地の近くの桑畑約八百九十二平方メートルも同じ陸軍経理学校の実弾射撃場用地として買収されました。
 陸軍経理学校の土地は、いまは陸上自衛隊小平駐屯地、関東管区警察学校、国土交通大学校、国土建設学院、小平団地、武蔵野団地などになっています。

     昔と同じだな

 幸一さんは当時を振り返って語ります。
 「農民にとって畑は大事なものですが、国、軍の計画だから文句はいえません。反対なんかすると、『売国奴だ』『非国民だ』などといわれて、すぐ憲兵に連れていかれます。反対なんか、絶対にできない。当時は、そんな時代になっていました。戦争中は軍が演習にきて、どんどん民家の敷地の中に入っても文句がいえませんでした。(戦争国家法の記事の)新聞を見て、昔のあれと同じようだなぁと感じています」

   ◎府中市の米軍基地の役割

   1950年代末在日米軍が核攻撃計画
   (東奥日報 二〇〇一年一月二十七日付)

 台湾海峡で米国と中国が一触即発の状態に陥るなど、東アジアが世界戦争の瀬戸際に立たされていた一九五九(昭和三十四)年、東京都府中市に司令部を置く第五空軍は、極東ソ連、中国、北朝鮮の三十二カ所以上の軍事施設を目標とした独自の核先制攻撃を計画していたことが、東奥日報社が入手した米軍機密文書から分かった。「クイック・ストライク(即時攻撃)」と呼ばれる計画で、三沢など日本国内の基地に展開する戦闘機、爆撃機が核弾頭の出し入れが自由な韓国に移動してアラート態勢を取り、出撃することになっていた。日本最北の拠点として重要視されていた三沢の第二一戦術戦闘航空団には目標が二カ所与えられ、その数は最大十七カ所まで増える予定だった。

 当時、米空軍がEWP(緊急戦争計画)と呼ばれる世界規模の核戦争計画を用意していたことは、すでに明らかになっているが、第二の核戦争計画ともいうべき「クイック・ストライク」の存在が確認されたのは初めて。また、核攻撃に伴う具体的な出撃基地名と基地別の目標数が特定されたのも世界的に初めて。
 米国の情報公開制度によって、米空軍戦史調査局(アラバマ州)から入手した沖縄・嘉手納基地の第一八戦術戦闘航空団のコマンド・ヒストリー(部隊史)に記載されていた。
 それによると、クイック・ストライク計画は太平洋空軍司令部(ハワイ)の指示によるもので、五九年四月に攻撃態勢を完了した。第五空軍は北東アジアを作戦範囲とし、ソ連、中国、北朝鮮と直接対峙(たいじ)する前線部隊と位置付けられていた。
 攻撃目標数は指揮下にある部隊ごとに割り当てられ、三沢基地の第二一戦術戦闘航空団が二、埼玉県入間基地の第三爆撃航空団八、嘉手納基地の第一八戦術戦闘航空団十四、韓国・烏山(オサン)基地の第八戦術戦闘航空団八-の計三十二カ所。
 三沢と入間の攻撃機はソウル南方にある群山(クンサン)基地に進出し、そこから出撃することになっていた。米軍は日本国内に核弾頭を置いていなかったためで、保管・貯蔵が可能な嘉手納(当時は米軍政下)、烏山基地の部隊は、それぞれの基地から出撃する予定だった。
 その後、攻撃目標数は六〇年十月まで五回にわたり、計八十三カ所(うち三沢の第二一戦術戦闘航空団は十七カ所)まで増やす予定だったが、実際に目標割り当てが文書で確認されたのは五九年七月の三沢五、入間八、嘉手納十六、烏山十一-の計四十カ所。
 六〇年代前半に、SIOP(単一統合作戦計画)と呼ばれる米空・海・陸三軍合同の新しい核戦争計画が策定されたため、クイック・ストライク計画は途中の段階でSIOPに統合、吸収されたとみられる。
 使用する機体は当時の最新鋭で、三沢、嘉手納、烏山の部隊はF100戦闘爆撃機スーパーセーバー、入間はB57軽爆撃機キャンベラ。核爆弾は戦術用のMK7(爆発力は広島型原爆の十四倍に当たる七十キロトン)とMK28(同七十倍の一メガトン)を想定、一機が一発ずつ搭載する予定だった。
 また、当時の第五空軍が嘉手納に二百四十個の核弾頭を貯蔵していたことも文書から分かった。計画に伴い、群山、烏山、嘉手納の各出撃基地では、常時二機が実際に核爆弾を搭載し、十五分以内にいつでも飛び立てる二十四時間警戒態勢を取っていたという。

核の臨戦態勢知る貴重な資料

 核問題研究の第一人者、新原昭治氏(東京都東村山市)の話 ここまで具体的に在日米軍の核攻撃計画をつかんだのは初めて。非常に貴重な資料だ。日本人の認識は低いが、(クイック・ストライク計画が策定される前後の)一九五八-五九年はアジアが最も核戦争に近かった時期で、資料を見ると、米軍が真剣に核を使うことを考えていたことがよく分かる。現在の感覚では信じられないほどの核の臨戦態勢だ。出撃基地を日本国内に置かなかったのは、無理を押し通した場合の日本国民の反動を気にしたためだろう。

台湾危機 一九五八年七月、台湾海峡で台湾(国民党)の戦闘機二機が中国側に撃墜されたことから緊張が高まり、八月には中国軍が大陸から八キロ沖にある金門島の国民党軍を砲撃。米軍の介入によって全面戦争への拡大が懸念された。第五空軍は核弾頭が保管されていた嘉手納基地に対して、特別輸送機への核弾頭の搭載と三沢を含む指揮下全部隊に警戒態勢を指示、核ミサイル巡洋艦が台湾に急行した。事態は十月に沈静化したが、台湾海峡での米中の緊張はその後も続いた。

【解説】「次の戦いは核戦争でしかあり得ない」と、世界中のだれもが思っていた東西冷戦時代。米国は国家の生存を懸け、あらゆる事態を想定した核戦争計画の立案に迫られていた。その一つが今回、米空軍機密文書から明らかになった「クイック・ストライク」計画だ。
 当時、米空軍はすでにEWP(緊急戦争計画)と呼ばれる全面核戦争計画を用意していた。核による全世界規模の大量報復戦略で、この中で三沢と入間(埼玉県)基地は出撃拠点の一つに位置付けられ、有事には沖縄の嘉手納基地から両基地へ輸送機で運び込まれる核弾頭を搭載し、ソ連沿海州や中国東北部、北朝鮮などへ核攻撃を加えることになっていた。
 しかし、EWPは米空軍全体での運用を想定した「大計画」のため小回りが利かず、使いづらい面があった。これに対して、実用性に富み、しかも先制攻撃を可能にしたのが、在日米空軍(第五空軍)レベルでのクイック・ストライクだった。
 クイック・ストライク計画のコンセプトは、ソ連・中国などの共産圏諸国が侵攻の兆候を見せた場合、すかさず保有核兵力の三分の一で先制攻撃を加え出はなをくじく-というもの。このため、出撃基地は核弾頭を備蓄・保管し、いつでも使える状態にある韓国と沖縄の基地に限定。核弾頭を輸送機で運ぶ必要があり、出撃まで時間のかかる三沢や入間など日本国内の基地は除外した。
 核出撃基地を日本国内に置かなかった背景には、日米安保条約の改定をめぐり、騒然としていた当時の日本の世論をことさら刺激したくない-との米国側の思惑もあったとみられる。
 これまで、EWPについては研究者や本紙報道などで知られていたが、複数の核戦争計画の存在が明らかにされたのは初めて。クイック・ストライク態勢はその後、数年間にわたって維持されたが、一九六〇年代前半に米三軍(空・海・陸)が「合理的な全面核戦争の遂行」を目的に実用化したSIOP(単一統合作戦計画)へと吸収される。
 朝鮮戦争(五〇-五三年)、台湾危機(五八年)と第三次世界大戦の火種が常にくすぶり続けた東アジアの政治的不安定さを象徴するものが、まさにクイック・ストライク計画といえる。(社会部・斉藤光政)

   府中市に米軍核戦争拠点:1974年まで
   (毎日新聞 一九九九年八月五日付)

 東京都府中市に1945年から74年まであった米・第5空軍基地施設内に、67年から5年間、米太平洋軍(司令部・ハワイ)の核戦争を想定した作戦連絡事務所が設置され、日本が米国の重要な核戦略拠点になっていたことが、このほど初公開された米太平洋軍の66~72年の年次記録などで明らかになった。冷戦期、「核の傘」がどういう実態だったかが示された。【高村 洋一】

 安全保障問題などが専門の「ノーチラス研究所」(カリフォルニア州)のハンス・クリステンセン研究員が、情報公開法により入手、原文をインターネットで公開した。
 それによると、米軍の核戦略に核兵器を搭載した航空機や艦船を一体として運用する「単一統合作戦計画」(SINGLE INTEGRATED OPERATIONAL PLAN)が存在。この遂行のため、府中市に太平洋指令作戦連絡事務所(PASIFIC COMMAMD OPERATIONS LIAISON OFFICE)が67年から72年まで置かれ、作戦計画が立てられた。
 4人の将校と3人の事務員が勤務。核戦争に備える太平洋地域の「事前偵察計画」作成や核を使用した場合に敵の軍事施設などにどの程度のダメージを与えるかの分析にもあたった。
 事務所閉鎖後も「作戦計画そのものは横田基地(東京都)や嘉手納基地(沖縄県=当時は復帰前)で引き続き遂行された」と記され、75年には核戦争時に作戦を指揮する航空機「ブルー・イーグル」が両基地とフィリピン基地で10回の核戦争の「地上警戒待機」訓練を実施していた。
 さらに別の公開資料には、79年10月、韓国の朴正煕(パクチョンヒ)大統領が暗殺された直後、米国は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から攻撃があった場合に韓国を支援するため、空母キティーホークを横須賀から東シナ海に派遣したとあった。当時の「キティーホーク 西太平洋・インド洋派遣リポート」には「11月、韓国からフィリピンへ向かう途中に実施した演習は、模擬核爆弾11発を投下して終了した」と書かれていた。
 また、時期不明だが、日本近海とみられる地域での防空・空爆演習で「核戦争の伝達過程NUCLEAR BROADCAST PROCEDURES)のための訓練を実施した」との記述もあった。クリステンセン研究員によると、核兵器を装備したすべての部隊に、無線などで作戦指令を伝達する訓練という。
 これらの資料について米国の核戦略に詳しい軍縮問題専門家の梅林宏道さんは「日本国民が何も知らされないうちに、領土や領海が米国の核作戦に利用されており、『核の傘』の代償の大きさを証明している。驚いた」と話している。

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