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2012.03.08

国民義勇隊から国民義勇戦闘隊へ ④ 国民義勇隊は、どうたたかったか

 国民義勇隊は、どんなふうに組織され、どうたたかったのでしょうか。

 【福井県】
 一九四五年五月二十二日、福井県では国民義勇隊組織運用の要綱が決められ、県に宮田笑内知事を長とする義勇隊本部がつくられ、市町村には市町村長を長とする義勇隊が編成されることとなりました。市町村国民義勇隊は町内会・部落会を、職域国民義勇隊は官公署・工場・会社などを、それぞれ単位小隊とし、その上に地方事務所ごとの前記二つの義勇隊を合体した連合国民義勇隊がありました。国民義勇隊の要綱では県や市町村の義勇隊の幹部の委嘱や任命は県本部長や市町村隊長の判断にまかされていましたが、実際に義勇隊が編成されていく過程で、幹部には多くの場合在郷軍人が委嘱・任命されていきました。たとえば県本部では予備役の森永武雄陸軍少将(吉田郡岡保村)が副本部長に、福井連隊区司令官儀峨徹二中将が顧問にあてられ、福井市では村野二三男陸軍少将が、敦賀市では木下一英郷軍連合分会長がそれぞれ副隊長に選ばれていました(福井新聞、一九四五年五月二十三日付、六月十九日付、六月二十日付)。県義勇隊の副本部長に就任した森永少将は、就任の決意のなかで「一度び情勢が急迫すれば直ちに戦闘隊に転移し軍の作戦が求むる各種の兵站的業務に服することが任務である」とのべています(福井新聞、一九四五年五月二十四日付)。福井県下における国民義勇隊の結成は順調に進み、六月二十二日現在で八連合隊ならびに百七十八市町村隊の結成を終え、一部残った連合隊も七月八日までに結成される見通しであることが新聞に報道されています(福井新聞、一九四五年六月二十三日付)=(ウエブサイト=『福井県史』通史編6 近現代二 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ」)。
 【東京都】

 内務省国民義勇軍ができていました。七月八日現在の編成表(国立公文書館所蔵)によると、名誉隊長、隊長、副隊長、顧問、幕僚、本部のもとに第一中隊、第二中隊、第三中隊、第四中隊、第五中隊、第六中隊、独立小隊、があり、中隊、独立小隊のもとに小隊があります。

 【千葉県】
 一九四五年五月十九日、千葉県国民義勇隊が結成されました。市域の自治体もこれにならい、二十七日に田中村国民義勇隊が、三十日に柏町国民義勇隊が結成された。六月には職場の義勇隊である東京機器工業柏工場国民義勇隊が結成されました(「柏市富勢地域ふるさと協議会ホームページ」の「みんなの富勢百科47」)。
 【兵庫県】
 兵庫県尼崎市では、同年五月末、市長を市隊長として以下中隊長(連合町内会長)、小隊長(町内会長)、分隊長(組長)、班長(隣保代表)という軍隊的編成の尼崎市国民義勇隊が、また官庁・工場・会社などには、それぞれ職域義勇隊が組織されました(「 Web版尼崎地域史事典『apedia』」)。
【和歌山県】
 ウエブサイト「高野山麓 橋本新聞」の「国民義勇隊の組織図発見~『一億玉砕』を彷彿」(二〇一一年六月二十三日)には、一九四五年五月の「橋本町(現・橋本市)国民義勇隊」の組織図と「小隊長委嘱書」のことが書かれています。
「橋本町国民義勇隊」の組織図には「昭和二十年五月二十七日結成」とあり、隊長・平野熊太郎のほか、副隊長三人(うち一人は女性)、幕僚(ばくりょう)九人、挺身員二十六人、中隊長十一人(うち女性五人)、小隊長四十五人、女子隊顧問十三人の姓名がガリ版刷りで書かれているます。
「小隊長委嘱書」は、「昭和二十年五月二十一日」の日付で「委嘱書 市村伎志枝 橋本町国民義勇隊小隊長ヲ委嘱ス 和歌山県伊都郡 橋本町国民義勇隊長 平野熊太郎」とあり、押印されています。
 このニ枚の資料の日付によると、先に委嘱者を選び、委嘱書を渡して、六日後に「橋本町国民義勇隊」が組織されたことになります。
 【広島県】
 ウエブサイト・広島平和記念資料館の「企画展を見よう」に、広島県の場合を見ましょう。
 広島県では県に国民義勇隊本部がおかれ、県知事が本部長となり、出動指令を発しました。
 市町村ごとに、地域国民義勇隊が編成され、各市町村長が隊長となりました。
 職域ごとに、職域国民義勇隊が編成され、職場の長または責任者が隊長とされました。
 地域・職域の各国民義勇隊ごとに隊則を定め、組織や指揮系統の徹底が図られました。
 広島市では、連合町内会ごとに大隊が、町内会ごとに中隊が、その下部に小隊、さらに分隊が編成されていました。
 広島市内の草津地区(くさつちく)の連合町内会からなる広島市国民義勇隊草津大隊は、草津東町(くさつひがしちょう)、草津本町(くさつほんまち)、草津南町、草津浜町(くさつはまちょう)、庚午南町(こうごみなみまち)、庚午町(こうごまち)の六つの中隊で編成されていました
 【高知県】
 「(前略)内務省は義勇隊の編成を進め、5月末組織完了を目指した。そうして義勇隊は、敵が四国に上陸した時、小銃等の武器はなくても、竹槍、鎌等を持って戦う気概を養う為、海岸や河原において銃剣術と同じような竹槍訓練を行なった。宿毛町においては押ノ川出身の押川光俊中尉を隊長とし、軍隊経験者10名が指導者となり、100名位の男子が橋上小学校で合宿して竹槍訓練を受けていた。三八式歩兵銃は少しはあったがほとんど竹槍で、食糧はニノ宮地区の奉仕があり、終戦迄訓練が続いた。(宇須々木 松岡長吉氏談)=(ウエブサイト「宿毛市史【近代、現代編-軍事-宿毛湾の防備】)。
 【熊本県】
 熊本日日新聞、二〇一一年八月十九日付の「菊池恵楓園にも『国民義勇隊』 隔離の壁の中、苦難と戦う 菊池恵楓園の入所者自治会が保存している国民義勇隊関連資料」(本田清悟)に、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(合志市)にも入所者らによって組織された義勇隊があったことが書かれています。
 「(前略)自治会機関誌『菊池野』8月号が、国民義勇隊に関する資料を掲載。今まで一般に知られていなかった歴史に光を当てている。
 菊池恵楓園は黒石原、花房の軍用飛行場に囲まれ、戦時中は米軍の爆撃の危険にさらされた。1945年5月13日の爆撃では防空壕[ごう]に退避中の8人が生き埋めになり、2人が犠牲になった。
 国民義勇隊は翌6月、園長を隊長として結成。職員による第一中隊と、入所者の第二中隊があった。
 第二中隊は青年団や婦人会、軍友会などから選抜され、隊長には患者総代(現在の入所者自治会長)が就任した。第1小隊から第10小隊まであり、このうち第8~10隊は女性で組織。各小隊は23~49人で構成され、小隊ごとに2、3の分隊が置かれた。隊員を補充する予備隊員も決められていた。
 『菊池恵楓園国民義勇隊内規』には『戦列』にある一員としての自覚の下に、恵楓園の防空防衛、食糧増産、空襲被害の復旧、物資輸送などに従事する」とうたわれている。隊員らは空襲警報下の警戒や、不自由者の退避誘導などに当たった。
 青年団員で第1小隊に所属した男性(83)は、情報伝達のラッパ吹きとしても活躍。『戦地に行けなくても腐ることなく、今を耐えれば日本は必ず勝つと信じていた』と振り返る。(後略)」

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