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2012.03.07

第四稿  侵略戦争と与謝野晶子さん

第四稿  侵略戦争と与謝野晶子さん

この原稿は、二〇〇六年八月十九日の午後六時から十一時半までに一気に書き上げたものです。
 与謝野晶子さんが、「戦争反対」という点で、ああもきっぱりしていたのに、のちに、あんなふうに転げ落ちていったのか。どうしてだろうか。これが僕の二十代からの疑問でした。
 それに一定の僕なりの答えをだしました。
 もっと豊かな論にしていきたいと思っています。ご意見をいただければ幸いです。
 (以下は、二〇〇七年二月十七日に書き直した第四稿です)

   【太平洋戦争開戦時の「…我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ」】

 一九四一年十二月八日、昭和天皇は「米英両国に対する宣戦の詔書」を発表しました。
 こんな内容でした。

 神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢ななんじら臣民にはっきりと示す。
 私はここに、米国および英国にたいして宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。
 そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与することは、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけていることである。そして、各国との交流を篤(あつ)くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
 まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
 中華民国政府は、以前よりわが帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
 さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護(ひご)を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
 あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、さらに帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
 私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによってわが国を屈服させようとしている。
 このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定にかんしてわが帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕(ひん)することになる。ことここにいたっては、わが帝国は今や、自存と自衛のために、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、なんじら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。

 自分が各国を凶暴に侵略してきた結果、国際的な批判にあい事態がいきづまったのに、ほかの国が悪いのよ、だから宣戦を布告したのよという勝手な論理構成になっています。
 これを聞いた歌人・与謝野晶子さん(一八七八年十二月八日生まれ)は、この昭和天皇の呼びかけに「おう」とこたえた短歌を何首か詠んでいます。
 歌人の三枝昂之(さいぐさ・たかゆき)さんが愛媛新聞二〇〇六年八月十一日付に、それを紹介しています。短歌雑誌『冬柏』一九四二年一月号に載ったものだといいます。

 戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く

 水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ

 子が船の黒潮越えて戦はん日も甲斐(かい)なしや病(やま)ひする母

 赤塚行雄さんの『決定版 与謝野晶子研究 明治、大正そして昭和へ』(学芸書林)によると、九四二年一月号の『短歌研究』が「宣戦の詔勅を拝して」という特集を組みました。
 与謝野晶子さんも、次の短歌を寄せているといいます。

 み戦(いくさ)の詔書の前に涙落つ代(よ)は酷寒に入る師走にて

 水軍の大尉となりて我が四郎み軍にゆくたけく戦へ

 子が船の黒潮越えて戦はん日も甲斐なしや病(やま)ひする母

 子が乗れるみ軍船(いくさぶね)のおとなひを待つにもあらず武運あれかし
 
 入江春行さんの『与謝野晶子と その時代』(新日本出版社)によると、一九四二年一月号の『短歌研究』に発表した短歌、同年四月号の『婦人公論』に発表した短歌が晶子さんの生涯最後の作品ということになっています。彼は、そこで、その中の作品として次の三首をあげています。

 水軍の大尉となりてわが四郎み軍(いくさ)に往く猛(たけ)く戦へ

 戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く

 満洲の野山を開くますらをも桜咲く日は見に帰へれかし

 さらに、同年五月三十日付の東京日日新聞にはつぎの短歌が紹介されているといいます。

 日の本の大宰相も病むわれも同じ涙す大き詔書(みことのり)に

 一九〇四年、明治天皇の日露戦争に従軍の弟を思う詩「君死にたまふこと勿(なか)れ」と比べると、彼女の戦争観はどうだったんだろうと考えてしまいます。
 このころの晶子さんの様子は、どんな状態だったのでしょうか。
 三五年三月二十六日、夫・寛が死去します。
 三七年三月十二日、脳溢血(のういっけつ)で倒れました。一か月病床に。
 四〇年五月、二度目の脳溢血で倒れました。
 以後、右半身不随の病床生活となります。
 八月、二女・七瀬のすすめでカソリックの洗礼を受けます。
 そして、四一年十二月八日午前七時、晶子さんは昭和天皇の太平洋戦争開戦を告げるラジオの「臨時ニュース」で眼を覚ましました。
 ところで、「四郎」というのは晶子さんの四男・昱(いく)さん(一九一三年四月二十一日生まれ。元の名は、アウギユスト)のことで、海軍大尉でした。
 開戦の「大き詔書(みことのり)」を聞いて、侵略戦争を推進する「日の本の大宰相」と「病むわれ」が「同じ涙す」というのですから新たな侵略戦争開始万歳と興奮しきっているのでしょうか。
 日本帝国海軍大尉の、わが四男も昭和天皇の「み軍(いくさ)に往く」のだ「猛(たけ)く戦へ」。すごい檄文です。
 昭和天皇の兵士たちは息子たちは日本がかいらい国家をつくって支配している中国東北部の満洲の野山を開く「ますらを」だというのです。
 「今の戦争唱歌にあり候(そうろう)やうのこと」を詠んでいるのです(これは、以前の晶子さんの言葉です。後述)
 (この項について・いずれにしても、この三誌、東京日日新聞については、探し出して原文にあたってみなければと思っています)。

    【「旅順の攻囲軍の中に在る弟を歎きて」の詩】

 与謝野晶子さんの昭和天皇の侵略戦争後押しの短歌について考える上で、彼女が、明治天皇の侵略戦争・日露戦争のさなか、『明星』第九号(一九〇四年九月一日発行)に発表した詩についてふれておく必要があります。
 「君死にたまふこと勿(なか)れ (旅順の攻囲軍の中に在る弟を歎きて)」です。

 あヽをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ
 末(すえ)に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刄(やいば)をにぎらせて
 人を殺せとをへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四(にじゅうし)までをそだてしや

 堺(さかい)の街のあきびとの
 旧家(きゅうか)をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも
 ほろびずとても何事(なにごと)か
 君知るべきやあきびとの
 家(いえ)のおきてに無かりけり

 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出(い)でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣(けもの)の道(みち)に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大(おお)みこヽろの深ければ
 もとよりいかで思(おぼ)されむ

 あヽをとうとよ戦ひに
 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは
 なげきの中にいたましく
 わが子を召(め)され家(いえ)を守(も)り
 安(やす)しと聞ける大御代(おおみよ)も
 母のしら髪はまさりゆく

 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻(にいづま)を
 君わするるや思へるや
 十月(とつき)も添はでわかれたる
 少女(をとめ)ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 あヽまた誰(たれ)をたのむべき
 君死にたまふことなかれ

 日露戦争は一九〇四年二月八日に始まっています。日本が宣戦布告したのは二日後の十日です。
 与謝野晶子さんの、この作品は、この「戦争に抗議した…長詩」(作家・宮本百合子さんの「短い翼」、『文芸』一九三九年八月号)でした。
 「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事(なにごと)か 君知るべきやあきびとの 家(いえ)のおきてに無かりけり」、戦争に勝とうと負けようと商人には関係ないことなのよ。すごいですねー。
 「すめらみことは戦ひに おほみづからは出(い)でまさね かたみに人の血を流し 獣(けもの)の道(みち)に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは…」。「すめらみこと」、つまり明治天皇を引き合いに出し、戦争を「獣(けもの)の道(みち)」ています。
 こうしたことが、この詩のインパクトを高めていました。
 「旅順の攻囲軍の中に在る弟」というのは、召集されて従軍している弟・鳳籌三郎(ほう・ちゅうさぶろう)のことです。大阪第四師団八連隊第三軍輜重兵(しちょうへい)でした。堺の菓子屋・駿河屋の当主になるべき人でした。
 彼の妻の名は、せいです。
 せいさんは、この八月中旬に夏子さんを出産しました。

   【大町桂月さんの攻撃への「引きながら」の反論】

 この与謝野晶子さんの「君死にたまふこと勿(なか)れ」の詩について、大町桂月(おおまち・けいげつ)さんが彼女を攻撃します。
 「国家観念を藐視(ないがしろ)にしたる危険なる思想の発現なり」(『太陽』一九〇四年十月号の「雑評録」)。
 大町さん人は、一八六九年三月六日生まれで、高知市出身。本名は大町芳衛。東京帝国大学国文科卒の詩人・歌人・随筆家・評論家です。
 この大町桂月さんのののしりに与謝野晶子さんは「さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候」「歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。…」と、反撃しました。
 『明星』一九〇四年十一月号の「ひらきぶみ」です。
 「ひらきぶみ」は、夫への手紙という形をとっています。
 しかし、これを、よく読むと、彼女が「引きながら」反論していることがわかります。
 わざわざ日露戦争にたいする「非戦論」を展開している週刊社会主義新聞「平民新聞」の人たちとは関係ないんですよとしている点。
 「畏(おそれ)おほき教育御勅語(ごちよくご)」などと書いて、この戦争を推進している明治天皇に逆らっているわけではないのですよという点。
 「御国のために止(や)むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈」っているんですよとしている点。
 これらを見ると、あれれ、あの詩とはずいぶん違う立場ですねといいたくなります。
 「ひらきぶみ」といいながら半ば屈服したものになっているのです。
 これが後々の彼女の弱点になっていきます。
 「ひらきぶみ」の論点を整理して提示します(引用です)。

 ● (息子の光と堺の実家にまいりました)こちら母思ひしよりはやつれ居給(いたま)はず、君がかく帰し給ひしみなさけを大喜び致し、皆の者に誇りをり候。おせいさんは少しならず思ひくづをれ候すがたしるく、わかき人をおきて出(い)でし旅順(りよじゆん)の弟の、たび/\帰りて慰めくれと申しこし候は、母よりも第一にこの新妻(にいづま)の上と、私見るから涙さしぐみ候。弟、私へはあのやうにしげ/\申し参りしに、宅へはこの人へも母へも余り文おくらぬ様子に候。思へば弟の心ひとしほあはれに候て。
 ● 車中にて何心なく『太陽』を読み候に、君はもう今頃御知りなされしなるべし、桂月(けいげつ)様の御評のりをり候に驚き候。私風情(ふぜい)のなま/\に作り候物にまでお眼お通し下され候こと、忝(かたじけな)きよりは先づ恥しさに顔紅(あか)くなり候。勿体(もつたい)なきことに存じ候。さはいへ出征致し候弟、一人の弟の留守見舞に百三十里を帰りて、母なだめたし弟の嫁ちからづけたしとのみに都を離れ候身には、この御評一も二もなく服しかね候。
 ● 私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪(わ)ろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺(さかい)の街(まち)にて亡(な)き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅(うち)へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華(えいが)』や『源氏(げんじ)』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます/\王朝の御代(みよ)なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致
し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。
 ● 御国のために止(や)むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯(ちようちん)行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉(いずみ)の家の恤兵(じゆつぺい=記者注・物品または金銭を寄贈して戦地の兵士を慰めることです)の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁(ぎよしやばてい)に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末(すえ)が致してもよきほどの手わざ、聞(きこ)えはおどろしき繃帯巻(ほうたいまき)を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似(まね)は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐(ぎえん)などいふ事に冷(ひやや)かなりと候ひし嘲(あざけ)りは、私ひそか
にわれらに係(かか)はりなきやうの心地(ここち)致しても聞きをり候ひき。
 ● 君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑(うたがい)なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ/\妻のこと母のこと身ごもり候児(こ)のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。
 ● 私が「君死にたまふこと勿(なか)れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語(ごちよくご)などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏(おそれ)おほく勿体(もつたい)なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。
 ● 歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月(としつき)の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。
 ● 桂月様は弟御(おとうとご)様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋(しんばし)渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光(ひかる)までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。
 ● 私十一ばかりにて鴎外(おうがい)様の『しがらみ草紙』、星川様と申す方の何やら評論など分らずながら読みならひ、十三、四にて『めざまし草(ぐさ)』、『文学界』など買はせをり候頃、兄もまだ大学を出でぬ頃にて、兄より『帝国文学』といふ雑誌新たに出でたりとて、折々送つてもらひ候うちに、雨江(うこう)様桂月様今お一人の新体詩その雑誌に出ではじめ、初めて私藤村(とうそん)様の外に詩をなされ方(かた)沢山日本におありと知りしに候。その頃からの詩人にておはし候桂月様、なにとて曾孫(ひまご)のやうなる私すらおぼろげに知り候歌と眼の前の事との区別を、桂月様どう遊ばし候にや。日頃年頃桂月様をおぢい様のやうに敬(うやま)ひ候私、これはちと不思議に存じ候。
 ● なほ桂月様私の新体詩まがひのものを、つたなし/\、柄になきことすなと御深切(しんせつ)にお叱(しか)り下され候ことかたじけなく思ひ候。これは私のとがにあらず、君のいつも/\長きもの作れと勧め給ふよりの事に候。しかしまた私考へ候に、私の作り候ものの見苦しきは仰せられずとものこと、桂月様をおぢい様、私を曾孫と致し候へば、御立派な新体詩のお出来なされ候桂月様は博士、やう/\この頃君に教へて頂きて新体詩まがひを試み候私は幼稚園の生徒にて候。幼稚園にてかたなりのままに止め候はむこと、心外なやうにも思ひ候。

 最後のほうになると、なぜ、こんなに大町さんにへつらうことがあろうかと悲しくなくなります。それが反論を効果的なものにしようという手法と解しても……。
 ちなみに、彼女が「畏(おそれ)おほき教育御勅語(ごちよくご)」という教育勅語は明治天皇が一八九〇年十月三十日発布したもので、絶対的天皇制のもとでの「皇民教育」の基本原理をしめしたものです。
 子どもたちに、いったん戦争になれば天皇を守るために命を捧げよと要求するものでした。
 与謝野晶子さんの「ひらきぶみ」を読んだ大町桂月さんは、ふたたび、彼女を攻撃します。
 「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」(『太陽』一九〇五年一月号の「詩歌の真髄」)。
 それにしても大町桂月さんは、なんとまぁ情けない人でしょうか。
 「皇室中心主義の眼を以て、…検す」ること自体がおかしいのです。
 自分の眼で、ちゃんと見なくては。

   【明治維新以降の日本の侵略の過程】
 
 ここで、明治維新以降の日本の侵略の過程を見ておきましょう。
 日本は明治維新にいたる過程で、世界の列強から力をもって「不平等条約」をおしつけられて開国に踏み切ります。
 その後、日本は、アジアの弱い相手に、同じやり方で「不平等条約」を押しつけていきます。
まず、一八七六年、「日朝修好条規」を結び、朝鮮を無理やり開国させます。
 これは軍事力の威嚇のもとで結ばれたものです。
 そういう形での膨張主義が、あからさまな帝国主義・領土拡張主義にエスカレートする節目になってくるのが、日清戦争、日露戦争です。
 日清戦争(一八九四年-九五年)で、日本は、台湾と遼東半島を植民地化しました(遼東半島は「三国干渉」によって清に返還)。日本の朝鮮支配に反対する中心人物だった朝鮮の王妃・閔妃(びんひ)を、日本の公使の命令で殺害します。
 こうしたやり方で、朝鮮への干渉を広げていきます。
 日露戦争(一九〇四年-〇五年)は、韓国(朝鮮は一八九七年に国名を「大韓帝国」とあらためています)を強奪することを目的としていました。
 こうした日本の侵略戦争の進展の中でも与謝野晶子さんは屈してはいませんでした。
 「君死にたまふこと勿(なか)れ」を発表した翌年の一九〇五年一月に山川登美子さん、増田雅子さんとともに刊行した詩歌集『恋衣』にふたたび、この詩を掲載しました。
 日露戦争のあと、日本は韓国に野蛮な軍事的威嚇のもとで、「保護条約」(第二次「日韓協約」)をおしつけ(一九〇五年十一月)、韓国から外交権を剥奪(はくだつ)し、「朝鮮統監府」を設置して従属国としていきます。そして、一九一〇年の韓国併合とい名の全面的な植民地支配を開始します。

    【天皇のシベリヤ出兵に反対の声をあげています】

 日本では、一九一二年七月三十日、明治天皇が亡くなり、皇太子の嘉仁(よしひと)が天皇になります。大正と改元されます。
 いっぽう、ロシアでは、一九一七年十一月七日、社会主義をめざす革命が成功します。
 天皇は、この革命を妨害するためにロシアのシベリアに出兵しようとします。
 このとき、与謝野晶子さんは、天皇のシベリヤ出兵に反対の声をあげています。『横浜貿易新報』一九一八年三月一七日の「何故の出兵か」です。「…私は出兵に対してあくまでも反対しようと思っております」と、結論づけていました。
 ここでも「露西亜(ロシヤ)のレニン一派の政府のように極端な無抵抗主義に殉じるの愚」とわざといい、私は社会主義者ではないのですよ、間違わないでねと言い訳をしながら論じているところが、彼女のすきっとしないところです。
 以下、その引用です。 

 ● 日本人の上に今や一つの大問題が起っております。近頃の新聞を読む人の誰も気が附く通り、それは西伯利亜(シベリヤ)へ日本の大兵を出すか出さないかという問題です。
 ● 私はこの問題について自分だけの感想を述べようと思います。
 先ず私の戦争観を述べます。「兵は凶器なり」という支那の古諺(こげん)にも、戦争を以て「正義人道を亡す暴力なり」とするトルストイの抗議にも私は無条件に同意する者です。独逸(ドイツ)流の教育を受けた官僚的学者にはこれを以て空想的戦争観とする人ばかりのようですが、一人福田徳三(ふくだとくぞう)博士は「これを個人の間において言うも、相互間の親密を増進し、意志の疏通(そつう)を計るがために、先ず人を殴打するということのあるべき道理は決してない。国際間においても干戈(かんか)を以て立つということは、既に平和の破壊であって、正義人道とは全く矛盾した行動である。それ故に如何なる口実の下においても、戦争たる以上は正義人道の上から見ると変則であるといわねばならぬ。実に戦争その物が正義人道を実現するものでないことは多言するまでもない」と本月の『太陽』で述べられたのが光輝を放って私の眼に映じます。私は福田博士と全く同じ考えを戦争の上に持っております。
 ● それなら、性急に軍備の即時撤廃を望むかというと、私はそれの行われがたいことを予見します。内政のためでなくて、今日のように国際のために設けられた軍備は、露西亜(ロシヤ)のレニン一派の政府のように極端な無抵抗主義に殉じるの愚を演じない限り、一国だけが単独に撤廃されるものではありません。それは列国の合意の下で円滑に実行される日に向って期待すべきことで、今からその日の到来を早くすることに努力するのが自然の順序だと思います。
 ● 私は遺憾ながら或程度の軍備保存はやむをえないことだと思います。国内の秩序を衛(まも)るために巡査の必要があるように、国際の平和と通商上の利権とを自衛するために国家としては軍備を或程度まで必要とします。これは決して永久のことでなく、列国が同時に軍備を撤廃し得る事情に達する日までの必要において変則的に保存されるばかりです。その「或程度」というのはあくまでも「自衛」の範囲を越えないことを意味します。それを越ゆれば軍国主義や侵略主義のための軍備に堕落することになります。私は日本の軍備が夙(つと)にこの程度を甚だしく越えていることを恐ろしく思っております。
 ● さて我国は何のために出兵するのでしょうか。秘密主義の軍閥政府は出兵についてまだ今日まで一言も口外しませんから、私たちは外国電報と在野の出兵論者の議論とに由って想像する外ありませんが、政府に出兵の意志の十分にあることは、干渉好きの政府が出兵論者の極端な議論を抑制しない上に、議会において出兵の無用を少しも明言しないので解ります。
 英仏が我国に出兵を強要して、露西亜の反過激派を救援し、少くも莫斯科(モスクワ)以東の地を独逸勢力の東漸から独立させたい希望のあることは明かですが、これは日本軍が自衛の範囲を越えて露西亜の護衛兵となるのですから、名義は立派なようでも断じて応じることの出来ない問題です。露国は露人自身が衛るべきものだと思います。露人に全く、自衛の力がないとは思われません。それに果して独逸の勢力が東漸するか、露国の反過激派が日本に信頼するかも疑問です。
 ● 今一つの出兵理由は、西比利亜(シベリヤ)に独逸の勢力が及ばない先に、出兵に由って予めそれを防ぐことは、西比利亜に接近している我国が独逸から受ける脅威に対して取る積極的自衛策であるという説です。これが補説としては、西比利亜に渋滞している日本の貨物の莫大な量を独逸へ転送されない前に抑留せねばならないといい、また西比利亜にある七、八万の独逸俘虜(ふりょ)が既に武装しつつあることの危険を報じます。
 しかし私たち国民は決してこのような「積極的自衛策」の口実に眩惑(げんわく)されてはなりません。西部戦場での決戦さえまだ手を附けない独逸が、連合軍側が口穢(くちぎたな)く言い過ぎるように如何に狂暴であるにしても、その武力を割(さ)いて西比利亜に及ぼし、兼ねて日本を脅威しようとは想像されません。我国の参戦程度を手温(てぬる)しとする英仏は、種々の註文を出して日本を戦争の災禍の中心に引入れたいために、独逸勢力の東漸を法外に誇大するでしょうが、日本人はそれを軽信してはならないと思います。
 ● 西比利亜出兵は恐らく独軍と接戦することはないでしょうから、殺人行為を繁くするには到らないでしょうが、無意義な出兵のために、露人を初め米国から(後には英仏からも)日本の領土的野心を猜疑(さいぎ)され、嫉視され、その上数年にわたって撤兵することが出来ずに、戦費のために再び莫大の外債を負い、戦後にわたって今に幾倍する国内の生活難を激成するならば、積極的自衛策どころか、かえって国民を自滅の危殆(きたい)に陥らしめる結果となるでしょう。

   【「我等は陛下の赤子(せきし)」という宣言】

 日本の領土拡張主義が、つぎには中国に向けられていきます。
 「対華二十一カ条要求」(一九一五年)で中国への侵略的野望をおしつけます。それにたいして中国の民衆から激しい批判がおこります。
 こうした過程の中で、与謝野晶子さん中で一つの変化が起こっていました。
 それは、天皇崇拝への傾斜です。
 一九二六年十二月二十五日、大正天皇が亡くなります。息子の裕仁が天皇に即位し、昭和と改元します。
 このことが彼女に大きな影響を与えます。
 「無題」ですが、こんな詩をつくっています。
 一九二七年の正月をうたった詩です。

 粛として静まり、
 皎として清らかなる
 昭和二年の正月、
 門に松飾無く、
 国旗には黒き布を附く。
 人は先帝の喪に服して
 涙未(いま)だ乾かざれども、
 厚氷その片端の解くる如く
 心は既に新しき御代の春に和らぐ
 初日うららかなる下(もと)に、
 草莽の貧女われすらも
 襟正し、胸躍らせて読むは、
 今上陛下朝見第一日の御勅語。
    ×
 世は変る、変る、
 新しく健やかに変る、
 大きく光りて変る。
 世は変る、変る、
 偏すること無く変る、
 愛と正義の中に変る。
    ×
 跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
 新しき御代の光は国の内外(うちと)に。
    ×
 祖宗宏遠の遺徳、
 世界博大の新智を
 御身一つに集めさせ給ひ、
 仁慈にして英明、
 威容巍巍と若やかに、
 天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
 ああ地は広けれども、何処(いづこ)ぞや、
 今、かゝる聖天子のましますは。
 我等幸ひに東に生れ、
 物更に改まる昭和の御代に遇ふ。
 世界は如何に動くべき、
 国民(くにたみ)は何を望める、
 畏きかな、忝なきかな、
 斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
    ×
 我等は陛下の赤子(せきし)、
 唯だ陛下の尊を知り、
 唯だ陛下の徳を学び、
 唯だ陛下の御心(みこゝろ)に集まる。
 陛下は地上の太陽、
 唯だ光もて被(おほ)ひ給ふ、
 唯だ育み給ふ、
 唯だ我等と共に笑み給ふ。
    ×
 我等は日本人、
 国は小なれども
 自ら之れを小とせず、
 早く世界を容(い)るるに慣れたれば。
 我等は日本人、
 生生(せいせい)として常に春なり、
 まして今、
 華やかに若き陛下まします。
    ×
 争ひは無し、今日の心に、
 事に勤労(いそし)む者は
 皆自らの力を楽み、
 勝たんとしつる者は
 内なる野人の心を恥ぢ、
 物に乏しき者は
 自らの怠りを責め、
 足る者は他に分ち、
 強きは救はんことを思ふ。
 あはれ清し、正月元日、
 争ひは無し、今日の心に。
    ×
 眠りつるは覚めよ、
 怠(たゆ)みつるは引き緊まれ、
 乱れつるは正せ、
 逸(そ)れつるは本に復(かへ)れ。
 他(ひと)の国には他(ひと)の振、
 己が国には己が振。
 改まるべき日は来(きた)る、
 夜(よ)は明けんとす、東(ひんがし)に。
    ×
 我等が行くべき方(かた)は
 陛下今指さし給ふ。
 止(や)めよ、財の争ひ、
 更に高き彼方の路へ
 一体となりて行かん。

 読んでいるとぞくっとします。
 あれほど個をうたった彼女の「我等は陛下の赤子」という宣言をしたのです。
 「陛下の赤子」ということですから、昭和天皇のやることには何でも賛成ということになります。

   【満鉄の招待で夫婦で満州、モンゴルを旅行】

 日本が中国東北部の満州に決定的な支配権をうちたてようと画策していた中の一九二八年五月五日から六月十七日まで与謝野晶子さんは、夫・寛さんと満州、モンゴルを旅行します。
 中国東北部侵略の先兵の役割を果たしていた日本の国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)の招待でした。
 満鉄側のねらいは、彼らを招待して、あちらこちらを案内して、日本のおかげで満州が「王道楽土」になっていくさまを見せ、そのことを日本で宣伝してもらおうということだったでしょう。
 つまり、二人は侵略戦争の宣伝マンとして招待されたのだと思います。
 前出の本で赤塚行雄さんは、こう説明しています。
 「満鉄では、毎年、学者、作家、歌人などの文化人を招待して、満州・蒙古の各地を廻ってもらい、満鉄を中心に満蒙についての一種の啓蒙・宣伝活動を続けていた。
 満鉄とは、日露戦争後のポーツマス条約で日本政府が獲得した鉄道経営の権益に基づき、明治三十九年(一九〇六年)に半官半民の国策会社として設立されたもので、旅順から長春にかけての本線および支線をふくめた鉄道だった。鉄道だけでなく鉱業、電気、通信、水運、学校経営、倉庫業などまで兼業し、日本帝国が関東軍とならんで中国東北部支配に楔(くさび)を打ちこんだような鉄道だった」
 二人が旅行している間の六月四日、満州で大事件がおきます。
 蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満州へ引き上げようとした奉天軍閥の長・張作霖(ちょうさくりん)の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(とうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄線のクロス地点付近を通りかかろうとした時、線路際に仕掛けられていた黄色火薬が爆破されました。
 張作霖は胸部に重症を負い、数時間後奉天市内の病院で死亡、また警備、側近らの十七人が死亡しました。
 このテロの計画を立案したのは、関東軍参謀の河本大作大佐でした。
 爆薬の準備は、朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉の指揮する工兵隊がおこないました。実際の爆破の指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとりました。
 河本大佐からの指示で、二人は張作霖が乗っていると思われる列車の前から八両目付近をねらって付近の小屋から爆薬を点火させました。
 河本大佐らは、あらかじめ用意しておいた中国人労働者を殺害し、現場近くにその中国人二人の遺体を放置して、この事件が蒋介石の工作隊によるものであるとの偽装工作をしました。
 日本の中国侵略は、こういう形で拡大していっていました。
 日本は、一九三一年九月十八日に「満州事変」を引き起こし、中国東北部への侵略戦争を開始し、全満州を占領します。

   【「たとへば我れの此歌も、破壊筒をば抱きながら…】

 一九三二年一月二十八日、関東軍の謀略で上海事変おこします。
 日本海軍陸戦隊の兵力は約二千人と第十九路軍とのたたかいになりました。
 与謝野晶子さんは、この数日後の二月一日付消印で香川県高松市の明善高等女学校(現・英明高校)の教諭・椎名六郎さんに、こんな手紙を出しています。

 「日支事件のため国運の未来が刻々に案ぜられ申し候。軍閥が始めしことながら、かくなれば国民全体の責任を辞し難く候。何とぞ禍(わざわい)を転じて福に致したく候」(四国新聞二〇〇七年二月十六日付)

 彼女が「国運」を論じ、「国民全体の責任」という論理で侵略戦争推進の側に立っていく姿がよくわかる文章です。

 上海事変後、日本軍は苦戦を強いられました。
 陸軍中央部は白川義則大将を司令官とする上海派遣軍を増援しました。金沢の第九師団と久留米の第十二師団より編成した混成旅団の総兵力は約一万七千人にのぼりました。

 二月二十日から二十五日まで、日本軍は上海市北郊の大場鎮、江湾鎮方面で第十九路軍に総攻撃をかけました。
 しかし、市街地に塹壕を築き、鉄条網を幾重にも張りめぐらせ自動小銃で抵抗する第十九路軍の猛攻で、日本軍は死傷者が続出しました。
 こうした背景のもと「爆弾三勇士」の物語が出現します。
 二月二十四日、日本の商業紙は、いっせいに「爆弾三勇士」の記事を掲載しました。
 東京朝日、「〝帝国万歳″を叫んで我身は木端微塵、三工兵点火せる爆弾を抱き、鉄条網に躍りこむ」。
 大阪朝日、「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した三勇士」。
 大阪毎日、「肉弾で鉄条網を撃破す、点火した爆弾を身につけ、躍進した三人の一等兵、忠烈まさに粉骨破身」。
 東京日日、「世界比ありやこの気塊、点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す、廟行鎮攻撃の三勇士」。
 国家、マスコミ一体となった「爆弾三勇士」づくりが始まりました。
 朝日、毎日は、二月二十八日、それぞれ「肉弾三勇士の歌」、「爆弾三勇士の歌」を懸賞募集する社告を出しました。
 一九三二年三月一日、日本は、日本のかいらい政権である「満州国」をつくります。
 こんな中の三月十五日、朝日、毎日に「肉弾三勇士の歌」、「爆弾三勇士の歌」の入選作が発表されました。
 毎日の「爆弾三勇士の歌」には与謝野晶子の夫、与謝野寛の作品が選ばれました。

 一、廟行鏡の敵の陣
   我れの友隊すでに攻む
   折から凍る二月の
   二十二日の午前五時
 二、命令下る、正面に
   開け、歩兵の突撃路
   装置の間なし、点火して
   破壊筒をば抱き行け
 三、答へて「はい」と工兵の
   作江、北川、江下ら
   凍たる心三人が
   思ふことこそ一つなれ
 四、我等が上に戴くは
   天皇陛下の大御稜威
   後ろに負ふは国民の
   意志に代れる重き任

 与謝野晶子さんは、以前紹介した「紅顔の死」につづく作品で「日本国民 朝の歌」(一九三二年六月『日本国民』別巻「日本女性」)で、この「爆弾三勇士」にふれています。

 ああ大御代の凜凜しさよ、
 人の心は目醒めたり。
 責任感に燃ゆる世ぞ、
 「誠」一つに励む世ぞ。

 空疎の議論こゑを絶ち、
 妥協、惰弱の夢破る。
 正しき方(かた)に行くを知り、
 百の苦難に突撃す。

 身は一兵士、しかれども、
 破壊筒をば抱く時は、
 鉄条網に躍り入り、
 実にその身を粉(こ)と成せり。

 身は一少佐、しかれども、
 敵のなさけに安んぜず、
 花より清く身を散らし、
 武士の名誉を生かせたり。

 其等の人に限らんや、
 同じ心の烈士たち、
 わが皇軍の行く所、
 北と南に奮ひ起つ。

 わづかに是れは一(いつ)の例。
 われら銃後の民もまた、
 おのおの励む業(わざ)の為め、
 自己の勇気を幾倍す。

 武人にあらぬ国民も、
 尖る心に血を流し、
 命を断えず小刻みに
 国に尽すは変り無し。

 たとへば我れの此歌も、
 破壊筒をば抱きながら
 鉄条網にわしり寄り
 投ぐる心に通へかし。

 無力の女われさへも
 かくの如くに思ふなり。
 況(いはん)やすべて秀でたる
 父祖の美風を継げる民。

 ああ大御代の凜凜しさよ、
 人の心は目醒めたり。
 責任感に燃ゆる世ぞ、
 「誠」一つに励む世ぞ。

 「たとへば我れの此歌も、 破壊筒をば抱きながら 鉄条網にわしり寄り 投ぐる心に通へかし。」ですか、うーん、ここまでいくとは…。

   【「…滿洲の荒野も今は大君の御旗のもと」】

  与謝野晶子さんは、一九三三年には「吉本米子夫人に」という詩をつくっています。

 日木は伸びたり、
 滿洲の荒野も今は
 大君の御旗のもと。

 よきかな、我友吉本夫人、
 かかる世に雄雄しくも
 海こえて行き給ふ。

 願はくは君に由りて、
 その親しさを加へよ、
 日満の民。

 夫人こそ東の
 我等女子に代る
 平和の使節。

 君の過ぎ給ふところ、
 如何に愛と微笑の
 美くしき花咲かん。

 淑(しと)やかにつつましき夫人は
 語らざれども、その徳
 おのづから人に及ばん。

 ああ旅順にして、日露の役に
 死して還らぬ夫君(ふくん)の霊、
 茲に君を招き給ふか。

 行き給へ、吉本夫人、
 生きて平和に尽すも
 偏(ひとへ)に大御代の為めなり。

 まして君は歌びと、
 新しき滿洲の感激に
 みこころ如何に躍らん。

 我れは祝ふ、吉本夫人、
 非常時は君を起たしむ、
 非常時は君を送る。

 吉本米子さんについてはよく知りませんが、この後、一九三四年にで『満洲旅行記』( 冬柏発行所)を出しています。
 「日木は伸びたり、滿洲の荒野も今は大君の御旗のもと」という嬉々とした表現が不気味です。

   【読売新聞記者の上海からの侵略の通信に感動しての詩】

 一九三七年七月七日、昭和天皇は中国にたいする全面侵略戦争を開始しました(盧溝橋事件)。
 同月十一日、近衛内閣は「重大決意をなし、北支派兵」の政府声明を発表し、新聞社、通信社、政界、財界代表に政府への国策協力を要請しました。
 商業各紙は、中国侵略を美化し、肯定的に報道しました。
 このときに与謝野晶子さんがとったのは「君死にたまう…」とは、かけ離れた態度でした。
 与謝野晶子さんは「読売新聞記者安藤覺氏の上海通信を読み感動して作る」という傍注をした「紅顔の死」という詩をつくりました。
 侵略している側を「善き隣なる日本」とし、中国を「敵」と位置づけ、その上で、昭和天皇の軍隊に殺された「学生隊」に同情するという詩になっています。 
 侵略しなければ、こんなことは起こっていないことは自明なのにです。

 江湾鎮の西の方(かた)
 かの塹壕(ざんごう)に何を見る。
 行けど行けども敵の死屍、
 折れ重なれる敵の死屍。

 中に一きは哀しきは
 学生隊の二百人。
 十七八の若さなり、
 二十歳(はたち)を出たる顔も無し。

 彼等、やさしき母あらん、
 その母如何に是れを見ん。
 支那の習ひに、美くしき
 許嫁(いひなづけ)さへあるならん。

 彼等すこしく書を読めり、
 世界の事も知りたらん。
 国の和平を希(ねが)ひたる
 孫中山(そんちゆうざん)の名も知らん。

 誰れぞ、彼等を欺きて、
 そのうら若き純情に、
 善き隣なる日本をば
 侮るべしと教へしは。

 誰れぞ、彼等を唆(そその)かし、
 筆を剣(つるぎ)に代へしめて、
 若き命を、此春の
 梅に先だち散らせるは。

 十九路軍の総司令蔡廷〔金+皆〕(さいていかい)の愚かさよ、
 今日の中(うち)にも亡ぶべき
 己れの軍を知らざりき。

 江湾鎮の西の方
 かの塹壕に何を見る。
 泥と血を浴び斃れたる
 紅顔の子の二百人。

 孫中山というのは、孫文のことです。

 何というみじめな詩でしょうか。すでに「戦争に反対する詩人としての与謝野晶子」は、昭和天皇賛美の詩を世におくった時点で滅びていたのではないでしょうか。
 中国への侵略戦争は国際社会から批判をあび、経済制裁を受けます。
 そのなかで、昭和天皇は、一九四一年、力ずくでも油や資源を強奪していこうとして太平洋戦争を始めました。

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コメント

昭和12年8月13日、たまたま亡父が横浜港大桟橋で晶子に会い、歌人の同僚に紹介され桟橋の喫茶部でお茶を飲んだ。上海事変拡大の号当が出ていたそうです。
その時にせ持ち合わせの扇子にいただいた短歌。
「秋風や戦初まり(ママ)港なるただの船さえ見てかなしけれ」 人間はその時の状況にブレる存在ですが、晶子の基本的なスタンスは「反戦にあったとおもいます。

投稿: 布村 建 | 2014.06.21 06:45

昭和12年8月13日、たまたま亡父が横浜港大桟橋で晶子に会い、歌人の同僚に紹介され桟橋の喫茶部でお茶を飲んだ。上海事変拡大の号当が出ていたそうです。
その時にせ持ち合わせの扇子にいただいた短歌。
「秋風や戦初まり(ママ)港なるただの船さえ見てかなしけれ」 人間はその時の状況にブレる存在ですが、晶子の基本的なスタンスは「反戦にあったとおもいます。

投稿: 布村 建 | 2014.06.21 06:46

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