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2012年4月

2012.04.01

二〇一二年三月三十一日 土曜日 香川県出身の岩瀬勝輔(いわせかつすけ)少尉の戦死。 

二〇一二年三月三十一日 土曜日 香川県出身の岩瀬勝輔(いわせかつすけ)少尉の戦死。 

 雨のち晴れ。

 高松市牟礼に行きました。
 五人のかたにあつまっていただき、香川の戦中のことをうかがいました。
 Bさんは海中特別攻撃についての当時の朝日新聞のコピーを見せてくださいました。
 一九四三年三月二十七日午前十時、海軍省発表=一九四二年五月三十一日、大日本帝国海軍の特殊潜航艇がデイエゴ・スワレス湾、シドニー湾に突入して「偉業を奏した」。この作戦で四人、六人が戦死した。
 そのときの戦死者の一人・岩瀬勝輔(いわせかつすけ)少尉=大正十年八月四日生まれ。香川県綾歌郡山田村山田上三九。高松市藤塚町六五に父・淮三さん=が香川県出身者でBさんの妻の従弟だということです。
 Bさん自身は、高松中学校の生徒だったころ岡山の玉野造船に、卒業後は陸軍丸亀秘匿飛行場づくり、牟礼での壕づくりに動員された体験を持っています。

 家に帰ると、僕のいないあいだに、みんなで孫娘・ユリの誕生会をやったとのことです。
 いじけました。一言の声かけもなく……。

 彫塑をやりました。

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二〇一二年四月一日 日曜日 戦跡保存の四国シンポジウムの打ちあわせ。 

二〇一二年四月一日 日曜日 戦跡保存の四国シンポジウムの打ちあわせ。 

 晴れ。

 Оさん、Dさんと善通寺市に行きました。
 五月に善通寺市で開く予定の戦跡保存の四国シンポジウムの打ちあわせのためです。

 家に帰ると志度から送った引越しの荷物が届いていました。
 

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【短歌】 一九五二年の映画「生きる」

【短歌】 一九五二年の映画「生きる」

わがままな 僕なじる妻 いさかって 古い映画に 見入っているよ

 
「何のために 生きてきたんだ」 問いかける 映画「生きる」の 切迫を見る

キャバレーで 「命短し…」 歌う男(ひと) 涙の演技 志村喬の

日本人 たくましいよね 「独立」下 享楽のなか 映画のシーン

「他人(ひと)憎む ひまはないんだ」  ときを惜しんで 献身する男(ひと)

他人(ひと)のため 何かをなして 去っていく 「生きる」のテーマ 反すうしてる

背筋がゾクッとする、それほどの感動をあたえてくれる映画です。

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2012.04.03

二〇一二年四月二日 月曜日 高知市にある槇村浩さんの「間島パルチザンの歌」の詩の碑の建立の経緯。 

二〇一二年四月二日 月曜日 高知市にある槇村浩さんの「間島パルチザンの歌」の詩の碑の建立の経緯。 

 晴れ。

 高知市朝倉のSさん宅へ。高知市にある槇村浩さんの「間島パルチザンの歌」の詩の碑の建立の経緯を教えていただくためです。
 
 平和資料館・草の家へ。

 午後六時から「ひろめ市場」で僕の卒業を祝う会。女性四人。お酒と焼酎とキュウマンをいたただきました。
 途中から高知短期大学の卒業生や四月に高知短期大学に四月に入学する女性も加わってにぎやかになりました。

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二〇一二年四月三日 火曜日 Mさんが本を書きたいというので僕たち夫婦が、その編集を手伝うことになりました。 

二〇一二年四月三日 火曜日 Mさんが本を書きたいというので僕たち夫婦が、その編集を手伝うことになりました。 

 午前中は雨と風、午後二時ころから晴れ。

 Mさん夫妻と僕たち夫婦で近くの食堂へ。
 Mさんが本を書きたいというので僕たち夫婦が、その編集を手伝うことになりました。
 さっそく四人で、その本のための材料の写真を一枚撮影に行きました。

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2012.04.04

【短歌】 二十六回目の引越し

   二十六回目の引越し

満四年 わが老年の 大学生
ジ・エンドとなり
からっぽになる

学生の 七畳半を 整理する
妻ともどもに
「腰が痛いよー」

音もなく 眠りこけてる 妻の脇
わが引越しの
回数数える

数えたら 二十五回も
引越した
わが人生は 旅先にあり

弟も 助っ人に来て
アパートの 荷物次々
トラックに乗る

 
空っぽの わがアパートを
撮っている
この部屋発の 論の数々

娘、孫 春休みに来た わが宿に
わがアパートの
荷物届いた

そのうちに また旅に出る 用意あり
あと一回の
飛躍のチャンス

 (三月三十日)

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【短歌】 うそつき短歌

「いとしくて 抱きしめたい人 いるんです」
なんてうたわぬ
うそつき短歌 

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【短歌】  春休みの娘たちの訪問

   春休みの娘たちの訪問

孫たちは 
ネコを「サラーン」と 追いかけて
おびえさせてる 来高初日

春休み 娘とともに 訪れた
娘の夜中の
台所掃除 

「四月から 六年生だよ」
ふくらんだ 胸が自慢の
われらの初孫

ばあちゃんの ナンクロ好きが 伝染し
女孫(めまご)二人も 
夢中になってる

この子らが 愉快に生きて いくことを
願っているよ
胸痛いほど

(四月三日)

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藤原義一の「タウンズレポート8 なぜ、僕は、夜の二年制の高知短期大学を選んだのか。」

 『季刊高知』二〇一二年春号が僕の記事を載せてくれました(三百八十円)。
 「タウンズレポート8 なぜ、僕は、夜の二年制の高知短期大学を選んだのか。」です(四十六、七ページ)。

  私は高知市の書店・金高堂で買いました。

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「石に刻まれた高知の戦争」について、情報を教えていただけませんか。

 いま、「石に刻まれた高知の戦争」という展示企画を考えています。

 高知県の各地にある日清戦争、日露戦争、大東亜戦争についての石碑、墓、そして戦争に反対した人の詩碑、反対すべきだったと回顧する詩碑などの写真を撮って、その文章をパソコンでおこして、それの意味することを伝えたいと思います。

 東洋町に日露戦争の碑があります。

 香南市に日清戦争の碑、日露戦争の碑があります。

 香美市土佐山田の神社の鳥居に刻まれたものがあります。

 高知市朝倉の陸軍の軍人墓地にも、いくつか碑があります。

 同じく朝倉には軍馬の碑があります。

 若草町にも戦争関連の碑があります。

 高知市の高知大学にも碑があります。

 高知市の城西公園に槇村浩の反戦詩の碑があります。

 同市には槇村浩の墓があります。

 南国市役所には当時の人の碑があります。

 高知市の城西公園には、侵略戦争に協力したことを反省した詩の碑があります。

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2012.04.05

二〇一二年四月四日 水曜日 また、僕の卒業を祝う会。 

二〇一二年四月四日 水曜日 また、僕の卒業を祝う会。 

 晴れ。

 戦争についての碑、六つを写真撮影しました。

 K先生に調査のノウハウを教えていただきました。

 午後六時半から居酒屋で僕の卒業を祝う会。
 高知短期大学の同学年だったSさん、一学年下だったKさんが参加。
 店の主人が高知短期大学出身でした。

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二〇一二年四月五日 木曜日 高知短期大学のオリエンテーション。 

二〇一二年四月五日 木曜日 高知短期大学のオリエンテーション。 

 晴れ。

 夜六時からの高知短期大学のオリエンテーションに参加しました。
 全学生のためのものでした。
 わが専攻科の学生は八人でした。

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2012.04.08

二〇一二年四月六日 金曜日 「北村君とともに学ぶ会」。 

二〇一二年四月六日 金曜日 「北村君とともに学ぶ会」。 

 晴れ。

 高知短期大学の身体検査。
 そして、オリエンテーション、サークル紹介。
 僕は、「北村君とともに学ぶ会」の紹介を、二人の若い男女の学生とともにやりました。
 そのあと、女性一人から「入会」の意思表明がありました。
 うれしい。
 同日夜、高知短期大学の存続についての話し合いがもたれていました。

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二〇一二年四月七日 土曜日 企画展「うちんくにあった戦争」の最終日。うれしいメール。 

二〇一二年四月七日 土曜日 企画展「うちんくにあった戦争」の最終日。うれしいメール。 

 晴れ。

 平和資料館・草の家の企画展「うちんくにあった戦争」の最終日。
 この日は僕の担当でした。
 東京、京都からこられた母、息子、その娘の三人の姿もありました。

 昨年発表したバリクパパンの日本帝国海軍の慰安所についての問い合わせの電話あり。福岡県の男性でした。
 過去の仕事が評価されるのは、うれしい。

 

 若い友人から仕事が決まって、一日から出勤していますとの電話。

 
 家に帰って、ひたすら彫塑。
 なんか作品に「魂」が入った気配。
 初めての体験で、超うれしい。
 
 午前二時半に作業を終えました。

 寝る前にとメールを見ると、大学院生の青年からのメールが来ていました。
 昨日、草の家で、うちんくの戦争展を見たこと、その感想、そして、「何かお手伝い出来ることがあればおっしゃって下さい。」。
 うれしいいいいー。
 涙が出ました。

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二〇一二年四月八日 日曜日 高知短期大学の入学式。 

二〇一二年四月八日 日曜日 高知短期大学の入学式。 

 晴れ。

 高知短期大学の入学式。
 社会科学科百十七人。
 専攻科六人。
 入学式での学長のいでたちに「えっ!!」。ヨーロッパの大学の式に登場する学長のような衣装でした(実際は、どういうことを意味する衣装かは不明)。

 高知短期大学の存続を求める会、同学生の会のあつまり、懇親会に参加。三十数人の参加。

 仲間と高知城花回廊を見に行きました。

 ある新聞に投書しました。載るかな??

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【短歌】 入学式の日の一日

 わが塑像(そぞう)
 この朝方に ほぼできて
 あとはゆっくり 仕上げに向かう

 外国の 学の権威に 身をつつみ 
 プレジゼントは 
 満面の笑み

 
 「廃止せよ」 暴風の中 
 入学の 一二三人
 夜の短大

 入学の 五十歳から 十四人
 最年長は 
 どうも僕だね

 入学の 大学からの プレゼント
 地震対策
 LEDライト

 「残そうよ 夜の短大」
 入学式夜
 つどいのさなか

 「私も 会に入るわ」
 うれしいね
 新入生も 短大存続

 高知城 光の祭典 いい感じ
 「希望」の文字に
 ジーンときちゃった

 「あんまりだ」 
 我慢のできない ことがあり
 投書している この日のまとめに

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【写真】 高知城花回廊 

Photo_2

Photo_4

Photo_8

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2012.04.10

二〇一二年四月九日 月曜日 高知短期大学の授業開始。【写真はシラサギ、田植え】 

二〇一二年四月九日 月曜日 高知短期大学の授業開始。【写真はシラサギ、田植え】 

 晴れ。

 妻は風邪でダウン。

 三段のボックス、十二個が到着。
 積み重ねて「戦争本コーナー」にしています。まだ未完成。

 岡山の知人から電話がありました。「十一月にフランスで日本画の個展をやることになりました。そのとき、一緒にフランスに行きませんか」。
 ぜひ、行きたいと思っています。

 午後、高知短期大学へ。
 途中の田んぼでシラサギの写真を撮りました。

Photo

 少しいった所に田植えをしている男性がいました。
 「田植えは機械でやったが、四隅の所は機械ではできんのでね。大変やけど。でも、コメは安いきねえ」。

Photo_2

 高知短期大学の授業が始まりました。
 英語を二科目受けることにしました。
 今晩は、農業経済論、生涯教育論を受講しました。
 いっしょに受けた六十四歳の女性が「毎日が感動です」。
 ある女子学生が「ともに学ぶ会」に入会してくれました。

 「英語をね」「一緒に受けよう」
 学び舎の 授業選びの
 輪の中にいる

 「毎日が 感動です」と 六十四
 夜の二年の
 女子学生です

 
 夜、久しぶりに英作文。
 自己紹介です。

Hello.

My name is  Fujiwara Yoshikazu.

Nice to meet you.

I am 65 years old.

I started working in Kochi when I was 20 years old.

And,I changed my job in eight months.

Then,I was working in Tokyo up to the age of 60.

My job was to edit the newspaper.

Now, I am served as a curator in peace museum.

I am served as editor of magazine.

It is  "Survey of testimony in Kochi and war".

It is a pamphlet of 70 pages.

Please let me know, if necessary.

It is 200 Yen.

My hobby is to write a tanka. (A Japanese short poem)

You can see my recent work on my blog.

It is, "Tanka no hanadayori".

And,I am creating a sculpture portrait in the middle of the night.

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【音楽】 ジュリーの原発ノーの歌。ここで聞くことができます。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=SLvGSkYQGso

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【英語】 僕流の「グーグル翻訳」の使い方 

 インターネットの検索で「グーグル翻訳」と打って探すと、グーグル翻訳が出てきます。
 自分でつくった英文を、左上のスペースに入れてください(私はテキストで書いたものをコピーしています)。
 たとえば、こんな文書です。

Hello.
My name is Fujiwara Yoshikazu.
Nice to meet you.
I am 65 years old.
I started working in Kochi when I was 20 years old.
And,I changed my job in eight months.
Then,I was working in Tokyo up to the age of 60.
My job was to edit the newspaper.
Now, I am served as a curator in peace museum.
I am served as editor of magazine.
It is "Survey of testimony in Kochi and war".
It is a pamphlet of 70 pages.
Please let me know, if necessary.
It is 200 Yen.
My hobby is to write a tanka. (A Japanese short poem)
You can see my recent work on my blog.
It is, "Tanka no hanadayori".
And,I am creating a sculpture portrait in the middle of the night.

 そして、このコーナーの上にある「英語」、「日本語」、「韓国語」のうち「英語」をクリックしてください。
 この段階では右にも空白のコーナーができています。
 そのコーナーの上の「日本語」をクリックしてください。
 そして、右コーナーの上にある「翻訳」をクリックしてください。
 右コーナーに左コーナーの英語の訳が出てきます。
 両コーナーとも、右下の「音声」の所をクリックすると読み上げてくれます。

こんにちは。
私の名前は藤原嘉一です。
よろしくね。
私は65歳です。
私は20歳の時、高知で働き始めました。
そして、私は8ヶ月で私の仕事を変更しました。
その後、私は60歳まで東京で働いていました。
私の仕事は、新聞を編集しました。
今、私は平和美術館の学芸員を務めています。
私は雑誌の編集者を務めています。
それは "高知と戦争の証言の調査"です。
それは70ページのパンフレットです。
必要であれば、私に知らせてください。
それは200円です。
私の趣味は短歌を書くことです。 (日本の短い詩)
あなたは私のブログで私の最近の作品を見ることができます。
それは、 "短歌ないhanadayori"ではありません。
そして、私は夜の真ん中に彫刻の肖像画を作成しています。

 少しおかしな所もありますが、まあまあです。

それは、 "短歌ないhanadayori"ではありません。

 は、「それは、『短歌の花だより』です。」という文章のつもりでした。
 日本語から英語にするときも同様です。
 左のコーナーに日本語を入れる、左コーナーの上の「日本語」をクリック、右コーナーの上の「英語」をクリック、そして、その上の「翻訳」をクリック。
 そうすると英語の訳が出てきます。
 英訳のための日本語をつくるときのコツは、短文を積み重ねた文章にすること。普通は一行で書く文章でも、二つの文章、三つの文章とできるだけ分けてかいてください。そして、一つひとつの文章に、必ず主語を書きいれましょう。
 たとえば、こんな文章を書いてみます。

 妻は、風邪をひきました。
 昨日は、一日寝ていました。

 英訳すると、変な英語になります。

Wife has a cold.
Yesterday, I was sleeping all day.

 それで、日本語を改善します。

私の妻は、風邪をひきました。
昨日、彼女は一日中寝ていました。

 そして、英訳します。

My wife has a cold.
Yesterday, she was sleeping all day.
 

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2012.04.11

二〇一二年四月十日 月曜日 スキャンスナップ。 

二〇一二年四月十日 月曜日 スキャンスナップ。 

 晴れ。

 スキャンスナップを買いました。
 活字の印刷されている紙をスキャンしてワード文書などに変換して加工できます。
 快調です。

 高知短期大学の授業は専攻科の二科目を受けました。

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二〇一二年四月十一日 火曜日 月刊短歌誌の編集作業。 

二〇一二年四月十一日 火曜日 月刊短歌誌の編集作業。 

 雨のち晴れ。

 月刊短歌誌の編集作業。三人で。

 高知短期大学では一科目を受講(ただし二時間続き)。
 帰りに、ひろめ市場で四人の学生で交流(アルコールぬき)。

 あすの英語の二科目のための予習。

 妻は、実家で泊まり。

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2012.04.12

二〇一二年四月十二日 木曜日 呉第十一特別陸戦隊の「引渡目録」。 

二〇一二年四月十二日 木曜日 呉第十一特別陸戦隊の「引渡目録」。 

 晴れ。

 英語の勉強をして、そのあとアジア歴史資料センターのサイトで呉第十一特別陸戦隊の「引渡目録」を読んでいたら午前七時になってしまいました。
 とにかく寝なくては。

 午後一時、起床。
 大牟田のYさんから徳島海軍航空隊、慰安所などの資料を送ったので勉強してほしいとの電話がありました。
 高知市のNさんから真珠湾攻撃に参加したイトコの兵隊の資料がありますとの電話がありました。

 午後、帰ってきた妻はかなり疲れた様子。しかし、会議があるからと、また外出しました。

 今夜の授業は一時間目、二時間目とも英語。

 二時間とも同じ、すてきな女性の先生で、ていねいに教えてくれました。

 一時間目では娘の世代の女性とペアになりました。

 二時間は「われわれの世代」の男性二人とチームをつくりました。

 木曜日の英語の時間、これからも楽しみです。

 

 東京の息子と電話。つれあいが学校に入学したそうです。

 僕の入学を告げ、お祝いを請求しました。

 夜中の、わが家。

 妻はダウンして寝ています。

 僕は、原稿を一つ書いて、メールで送信しました。

 締め切りは守ることができました。

 【短歌】

 「よおーっしょ」

 声張り上げて 立てってる

 つぎの動作へ も一度 「よおーっしょ」

 「ワオーーーン」と 遠吠えなども しているよ

 スイスイいかない

 夜中の作業

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2012.04.13

二〇一二年四月十三日 金曜日 詩人の槇村浩さん紹介のブックレットの校正。 

二〇一二年四月十三日 金曜日 詩人の槇村浩さん紹介のブックレットの校正。 

 雨。

  妻は病院へ。風邪です。

 妻が帰って来て、僕は、平和資料館・草の家へ。
 二十日の記者会見のお知らせを報道各社にファクスで送りました。
 そして、当日用の資料を作成しました。

 夜は、高知短期大学で専攻科の二科目を受けました。
 どちらも素敵な授業でした。

 コンビニで食料を買い出し。
 
 帰り着くと妻は、風邪で寝ていました。

 家で、詩人の槇村浩さん紹介のブックレットの校正。

  槇村浩さんのDVDのタイトルを考えました。

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2012.04.14

二〇一二年四月十四日 土曜日 高知市の大川筋武家屋敷資料館。【写真・寺田虎彦記念館で見た花、高知市の大川筋武家屋敷資料館のカワラ】 

Photo_2

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二〇一二年四月十四日 土曜日 高知市の大川筋武家屋敷資料館

 晴れ。

 

 午前中、毎月の検診で病院に行きました。

 

  平和資料館・草の家へ。

 槇村浩ブックレットの校正を担当者に引き継ぎました。

 Dさんと、高知市の寺田虎彦記念館に行きました。

 http://www.city.kochi.kochi.jp/ccfa/x01.cgi?ms=s01l02

 
 つづいて高知市のそに行きました。
 ここです。

 http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/bukeyashiki.html

 注目したのは屋根のカワラ。
 三つのカワラ、右ガワラ、左ガワラ、樋のガワラが使用されていました。
 そして、カワラの一つひとつには、生産業のマークがついていました。

 夜、高知短期大学の経済学クラブの例会に参加しました。

 ことし学ぶ文献が決まりました。おもしろそうです。

 家に帰ってから宿題をやりました。

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2012.04.15

藤原義一、六十五歳 近況報告。

 三月三十日、さぬき市のアパートを引払いました。
 いま、高知市でしていることは、こんなことです。

 一、夜間の高知短期大学専攻科に入学しました。

 専攻科の授業は、すべてゼミ形式で、各授業の学生は数人。
 月曜日から二週目に入ります。
 英語も二科目受講することにしました。

 ニ、彫塑をやっていてます。

 彫塑をものにしょうとがんばっています。
 この間から三つのコースを受講しました。
 いまは、家で、夜中に女性の全身像をつくっています。

 三、短歌のこと。

 新日本歌人協会の高知支部が結成されました。
 支部員、計四人。
 僕が支部長になりました。
 ブログをつくりました。
 月刊『高知歌人』編集にも、また参加しています。

 四、高知の戦争の調査。

 『高知の戦争 証言と調査』十六号を世に出しました。
 平和資料館・草の家の企画展「うちんくの戦争」。十数人の協力でなしとげました。
 四月二十日の平和資料館・草の家の「現地記者会見」のため勉強しています。
 高知の反戦詩人・槇村浩のブックレットをつくるために尽力しています。

 五、家族。

 僕と妻 メスの三毛ネコ オスの白
 一つのベッドで
 過ごす幸せ

 東京都の息子の妻は看護婦になるための学校に入学したよし。

 五、今後の日程。

 ニ十六日には高松市で香川県の戦争の時のことについて一時間、講演する予定。
 五月に戦争遺跡保存の四国のシンポジウム。
 六月、槇村浩のつどい。
 夏、平和のための戦争展。
 夏、戦争遺跡保存の全国のシンポジウム。
 夏休み、特別研究の調査で高知県下をかけめぐります。
 十一月、フランスへ。

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【短歌】 ウオオーンと 僕が吠えてる 夜のこと……。 

 ウオオーンと 僕が吠えてる 夜のこと 事態があんまり 進まないんだ

 「ドッコイショ」 移動のたびの 掛け声は ぼくの気迫か 老いのせいかも

会いたいよ 会いたいんだよ そう、君に 君の中では その他大勢

 

 

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ニ〇一ニ年四月十五日 日曜日 「飛行機隊戦闘行動調査」、「戦闘詳報」。

ニ〇一ニ年四月十五日 日曜日 「飛行機隊戦闘行動調査」、「戦闘詳報」。

 晴れ。

 高知歌人の歌会に出席しました。

 大牟田の研究者・Nさんと電話で話しました。
 Nさんの意見は、日本の戦争について書くなら、大日本帝国の軍隊の文書に「飛行機隊戦闘行動調査」、「戦闘詳報」があるので、こういったものにも目をとおしたうえでやってはどうですかということでした。

 夜、 『高知の戦争 証言と調査』十七号の編集作業をしました。

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【歌】河口恭吾さんの「桜」、ここで聴くことができます。

 「いつも、そばにいるよ」
 「君を笑わせるから」

 そんなふうにしてこなかったね。
 反省の日々。

 http://www.youtube.com/watch?v=7kZNdnv_haM&feature=related

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【短歌】 何日か 君を見ないと 不安だよ……。

そこそこに いいように詠む わが短歌
「うそつきだよね」
詠めてないんだ

ウオオーンと 僕が吠えてる 夜のこと
うまくいかない
数々のこと

何日か 君を見ないと 不安だよ 
体は、いいかい
仕事は、どうだろ

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2012.04.16

ニ〇一ニ年四月十六日 月曜日  『高知の戦争 証言と調査』十七号の編集作業をしました。

ニ〇一ニ年四月十六日 月曜日  『高知の戦争 証言と調査』十七号の編集作業をしました。

 雨。

  『高知の戦争 証言と調査』十七号の編集作業をしました。

 夜は、高知短期大学へ行きました。

 食料の買い出しをしました。

 帰ってから 『高知の戦争 証言と調査』十七号の編集作業の続き。

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2012.04.17

【農業経済 資料】 トヨタが宮城のパプリカ工場増設へ。

 河北新報 2012年04月17日火曜日

 ○ トヨタ、宮城のパプリカ工場増設 セントラル自の廃熱活用

 トヨタ自動車と豊田通商(名古屋市)は16日、宮城県大衡村の第2仙台北部中核工業団地内に、パプリカを水耕栽培する新たな農場を整備すると発表した。来年1月の栽培開始予定で、隣接するセントラル自動車が導入した自家発電設備の廃熱を活用する。 (中略)
 新農場は、トヨタがセントラル南側に所有する約3ヘクタールの用地を使い、大型鉄骨ハウスを建設する。12月に着工する予定。栽培面積は約1.8ヘクタールで、年間315トンの生産を見込む。
 豊田通商の子会社が出資する農業生産法人ベジ・ドリーム栗原(栗原市)が事業主体となる。同法人の農場としては栗原市内2カ所を含めて3カ所目で、新たに地元を中心に約20人を新規採用する予定。活用するのはセントラルが2月に稼働させたコージェネレーション(熱電併給)設備。廃熱を利用した温水をパイプラインを通じて農場内に送り、冬場などの室温維持に使う。(後略)

 http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120417t12007.htm

 【参考 パプリカ】

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%AB

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2012.04.18

ニ〇一ニ年四月十七日 火曜日 槇村浩のつどいのビラ、チケット、DVD。

ニ〇一ニ年四月十七日 火曜日 槇村浩のつどいのビラ、チケット、DVD。

 晴れ。

  『高知の戦争 証言と調査』十七号の編集作業をしました。

 生涯教育論二回目のノートをつくりました。

 平和資料館・草の家へ。
 四人で槇村浩のつどいのビラ、チケット、DVDをつくりました。

 夜は、高知短期大学へ行きました。
 二科目とも、わくわくする授業でした。

  家に帰.ると、妻はクイズを解くのに一生懸命。ようやく風邪から脱出したようです。

 外書購読二回目のノートづくりをしました。

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2012.04.19

ニ〇一ニ年四月十八日 水曜日 特別研究のテーマはテーマは「石に刻まれた高知の戦争」。 【写真・ナニワノイバラ】

Photo

ニ〇一ニ年四月十八日 水曜日 特別研究のテーマはテーマは「石に刻まれた高知の戦争」。

 晴れ。

  「ブログ・高知短期大学の存続を求める学生の会」が発足しました。

 

 高知短期大学の周辺の二か所でナニワイバラが咲いていました。

 

 高知短期大学の授業を受けました。

 特別研究ができることになりました。テーマは「石に刻まれた高知の戦争」です。

  『高知の戦争 証言と調査』十七号の編集作業をしました。

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キリンビールとトーマス・グラバー、坂本竜馬、岩崎弥太郎、岩崎弥之助。

 キリンビールとトーマス・グラバー、坂本竜馬、岩崎弥太郎、岩崎弥之助との関係について、つぎのサイトに書いてありました。

 http://www.daimatsusuisan.com/nikki/cat3/post_294.html

 根拠はキリンビール株式会社高知支社の印刷物のようです。

 しかし、………。 

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【歌】 不思議な歌「でんでらりゅうば……」。

 でんでらりゅうば
 でてくるばってん
 でんでられんけん
 でてこんけん
 こんこられんけん
 こられられんけん
 こん こん

 この歌のことを知ったのは、いまをさること、かなり前のことです。
 高知大学の史学の学生だったころ、一学年下の熊本県出身・馴田正満さんが歌っていたのを聞きました。
 私も歌えるようになりました。

 最近、テレビのCМでも出てきます。
 でも、いまだに、どこの歌で(歌詞からすると、たぶん長崎)、どんなことを歌っているのかわかりません。

 【参考】

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A7%E3%82%93%E3%81%A7%E3%82%89%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86

 http://homepage3.nifty.com/geturo/karuta/iroha/denndera.html

 http://www.youtube.com/watch?v=coYDBV3CpvM

 http://www.youtube.com/watch?v=LzXRGvwdqvQ

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【石に刻まれた高知の戦争】 「元帥 永野海軍大将誕生の地」の碑 【写真一枚】

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【石に刻まれた高知の戦争】 「元帥 永野海軍大将誕生の地」の碑 【写真一枚】

 【1936年(昭和11年)】

 「元帥 永野海軍大将誕生の地」の碑

 場所、高知市桜井町1丁目6の11の左どなりの道路に面した所

 裏面に「新町青年会建立」とあります。
 碑は新しいものですが、まわりの三方を囲った塀や土台の石造物は、それ以前のもののようです。
 土台の四方の隅には大砲の弾丸が一つ図ずつ、正面にはイカリのマークが形作られています。
 そして、土台の裏には「昭和十一年五月」と彫られています。
 このときにできました。
 が、戦災で亀裂が生じました。
 その後、1977年12月、高知県海洋会がこれを復修しています。
 正面のプレートには、つぎのような文章が掘り込まれています。

 永野修身海軍大将は
 明治十三年六月十五日この地に
 生まれ海南中学校を経て海軍兵
 学校、海軍大学校に学び、アメ
 リカ大使館附武官、練習艦隊司
 令官、海軍兵学校長、軍事参議
 官を歴任。シセュネェブ ロンド
 ン軍縮会議主席代表として活躍
 昭和九年海軍大将同十八年元帥
 に親補され第二次世界大戦開戦
 当時は海軍々部総長の要職に 
 あって歴史的な「真珠湾奇襲攻
 撃」の作戦を指導し、戦後海軍
 の最高責任者として極東国際軍
 事裁判で審理中 昭和二十二年
 一月五日 六十八歳病没す
  この碑は昭和十一年五月新町
 青年会が建立したのが戦災により
 亀裂が生じたので、高知県海洋
 会がこれを復修す。

  昭和五十二年十二月吉日

   高知県知事 中内 勉謹書

 【コメント】

 永野修身さんは、大元帥・昭和天皇のそばにあり、アジア太平洋戦争に「火付けした」一人です。
 戦前につくられていたその生誕の地の碑を、戦争放棄をうたった日本国憲法下の1977年12月に復修したということに、「高知の現実」を感じます。

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【短歌】  風邪(かぜ)さりぬ…… 

 風邪(かぜ)さって 命令形で ぴしぴしと 夫、指示する 妻よみがえる

 

 高知に「えらもん」という言葉があります。

 妻は「えらもん」です。

  ないんかな 「何かいいこと」 歌っている 真夜中料理 くつろぎのとき

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ニ〇一ニ年四月十九日 木曜日 明日は現地記者会見。

ニ〇一ニ年四月十九日 木曜日 明日は現地記者会見。

 雲り、ときどき雨。

 妻は、本日から走っています。この件について短歌を一つつくりました。

 明日の現地記者会見の「準備行動」をしました。
 雨が降りそうですが決行します。
 この日、この件についてテレビ局から三人、新聞から一人の問い合わせがありました。

 「草の家だより」の初校ゲラをメールで送りました。

 夜は高知短期大学の授業に。
 二時間とも英語。楽しい授業でした。

 東京の女子学生から電話をいただきました。

 

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2012.04.20

【ニュース】 高知県香南市に海軍呉鎮守府第十一陸戦隊の二つ目の砲台跡。近くの手結(てい)兵器弾薬集積場には「化学兵器」も。

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 高知市の平和資料館・草の家(岡村正弘館長)は、四月二十日午前、高知県香南市の山中で記者会見、同所の海軍呉鎮守府第11陸戦隊の百二十ミリメートルの平射砲砲台跡について説明しました。

 この会見では岡村館長、同砲台を調査してきた福井康人・同館研究員、そして藤原義一・同館学芸員が同砲台や、これがつくられた一九四五年の状況などについて説明しました。

 近くには、百四十ミリメートルの平射砲の砲台もありました(草の家が二〇一一年十月三日に発表)。

 藤原は、海軍呉鎮守府第11陸戦隊の「引渡目録」(1945年9月30)を示しながら、これらの砲台の近くの海軍呉鎮守府第11陸戦隊手結(てい)兵器弾薬集積場には、「化学兵器」もおかれていたことを紹介。

 それは防御用で、うちわけは以下のとおり。

 軽防毒衣・三十個

 九八式防毒衣・十個

 仮称三式防毒覆・二十五個

 除毒計・四個

 四号除毒剤・八十九個

 五号除毒剤・百八十五個

 六号除毒剤・七十八個

 酸素防毒面改一・十七箱

 斥候検知器・一個

 二型検知器・二個

 三号除毒剤・十五缶

 軽防毒面・十個

 九三式三号防毒面・千九十六個

  「アメリカ軍が高知に上陸したときに、ここでは海軍の爆弾を積んだベニア板のボート・震洋が艦船に特別攻撃をする。アメリカ軍が上陸し高知海軍航空隊の飛行場を占拠しようとしたら、ここの砲台が応戦する。毒ガス戦のための用意する。突破されたら、山側の山北の陸軍護土部隊が応戦するという構えだったと思います。山北の陸軍の護土部隊は戦車に特別攻撃をする訓練をしていました」

 【参考】

http://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014432491.html

海軍の砲台跡 見つかる

 太平洋戦争末期に本土決戦に備えて建造されたと見られるコンクリート製の砲台跡が香南市の山中で、見つかりました。
 県内でコンクリート製の砲台が確認されたのは去年の同じ香南市に続いて2例目です。
 見つかったのは海軍の大砲が据えつけられていた砲台跡で、高知市の平和資料館「草の家」の福井康人研究員が去年10月、香南市の山中で見つけました。
 砲台跡はコンクリート製で、高さが4メートル、幅と奥行きが8メートルあり、屋根はなく、円形状に造られています。
 福井研究員によりますと、当時の海軍の資料などから砲台は太平洋戦争末期の昭和20年に本土決戦に備えて建造されたと見られ、砲台には長さ6メートルほどの大砲が現在の高知龍馬空港に向けて設置されましたが、終戦のため実際には使われなかったということです。香南市では去年10月にもコンクリート製の砲台跡が見つかっていて県内ではこれが2例目です。福井研究員は「戦争の語りべはこれから徐々に人から物に移り変わっていくと思う。今回の場所は標高も低く、子どもも来やすいので平和教育に生かしたい」と話しています。 

04月20日 12時29分

(NHK)

http://news24.jp/nnn/news8771955.html

香南市夜須町で新たに旧海軍の砲台跡確認
(高知県)

香南市夜須町の山中で新たに見つかったのは、横幅、奥行きともに8メートル、高さ4メートルのコンクリートでできた太平洋戦争時の砲台の跡。旧日本海軍が、連合軍の上陸に備え、今の高知龍馬空港の場所にあった海軍航空基地に向けて、砲身およそ6メートルの大砲を設置していたとみられている。発見したのは、高知市の平和資料館「草の家」の研究員、福井康人さん。福井さんは去年の秋に、防衛省が保管する旧日本海軍の資料をもとに、香南市の山の中で砲台跡を発見した。引き続き調査を進める中でさらに大きい今回の跡地を発見した。砲台は戦争末期の1945年に作られ、実際に使われることはなかったというが、防護壁の粗悪な作りや壕が未完成であることなどから当時の厳しい戦況がうかがわれる。この砲台跡は集落に近く、簡単に足を運べるとあって、福井さんは、平和教育の教材として、役立てたいと話している。福井さんは今後も地域住民らに話を聞くなどして、砲台が作られた背景や当時の様子を調べていくとしている。
[ 4/20 14:01 高知放送]

http://web.sunsuntv.co.jp/news/2012/04/20/2095

香南市の山中で海軍砲台跡を発見

情報掲載日: 2012年4月20日(金)

 香南市の山中で、太平洋戦争中に作られた旧日本海軍の砲台の跡が見つかり、きょう報道陣に公開されました。 香南市夜須町の山で見つかったのは、太平洋戦争の末期に旧日本海軍が口径120ミリ長さ6メートルの大砲を設置していたとみられる、コンクリート製の砲台の跡です。 この砲台跡は、去年10月に、平和資料館・草の家の福井(ふくい)康人(やすひと)研究員が当時の海軍の資料に基づき発見したもので、屋根はなく幅8メートル高さ4メートルの円形をしています。 福井研究員によると、この砲台は日本の本土決戦に備え、当時海軍航空基地があった現在の高知龍馬空港に向けて作られましたが、一度も使われていないということです。 今回発見された砲台跡については、今年7月頃に高知市自由民権記念館で開かれる「戦争と平和を考える資料展」で紹介される予定です。

(さんさんテレビ)

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20120420-OYT8T01148.htm

香南で旧日本軍砲台跡

 平和資料館・草の家(高知市升形)は20日、太平洋戦争末期に旧日本海軍が設置した砲台跡が香南市夜須町千切の山中で見つかったと発表した。本土決戦に備えたコンクリート製の攻撃用建造物としては県内最大級の大きさ。戦後、進駐軍の爆破を受けながらも壁の保存状態も良いという。

 砲台跡は、国道55号手結山トンネル北側の標高約50メートルの山中。半円状の壁に囲まれ、幅8メートル、高さ4メートル、奥行き8メートル。中心に長さ約6メートルの大砲が据え付けられていたとみられる。壁の一部には深さ14メートルの弾薬壕(ごう)も残されている。

 同館は昨年秋、約800メートル離れた標高120メートルの山中で、一回り小さい砲台跡を発見。防衛省防衛研究所(東京都)が保管する旧海軍第317設営部隊(広島県呉市)の日誌で、1945年6~7月に建設したものとされ、今回の砲台は弾薬壕(ごう)が未完成なことから、続けて建設していた施設ではないかとみている。

 二つの砲台跡とも西の旧高知海軍航空基地(現高知空港)方面を向き、連合国軍が県内に上陸し、基地を占領した場合に撃破することを想定していたとみられる。

 同資料館研究員の福井康人さん(42)が同日誌に記された地図や地元住民の話を聞いて発見した。福井さんは県内でコンクリート製の防御陣地「トーチカ」や空襲から戦闘機を守る掩体壕(えんたいごう)など約80か所の戦争遺跡を見つけており、「実際に見ることができる戦争の記録として、平和を考える教材にしてほしい」と話している。

(2012年4月21日  読売新聞)

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120421-00000296-mailo-l39

 砲台跡:県内最大級のコンクリート製、香南山中に 本土決戦へ旧海軍設置 /高知

 毎日新聞 4月21日(土)17時6分配信

 太平洋戦争末期に本土決戦に備え、旧日本海軍が造ったとみられるコンクリート製の砲台跡が香南市の山中で見つかった。高知市の平和資料館「草の家」研究員の福井康人さん(42)が昨年10月発見し、20日、報道関係者に公開した。コンクリート製の砲台跡は県内でも最大級という。
 砲台跡は直径8メートル、高さ4メートル、コンクリートの厚さ1・5メートル。防弾壁が砲門を取り囲み、屋根はなく山のふもとに近い位置にあるため秘匿性は低いが、物資や人の出入りが容易なところが特徴。砲台の後方には縦横2メートル、奥行き14メートルほどの壕(ごう)があり、弾薬などを貯蔵していたとみられる。
 福井さんによると、当時の海軍資料や地元住民からの聞き取り調査などから、米国など連合国軍に飛行場を占拠された場合に備え、砲門は高知海軍航空隊基地(現高知空港)を向いて設置されていたという。砲門は戦後、進駐軍によって爆破されたが防弾壁と壕はほぼ原型に近い形で残っていた。福井さんは「戦争を語れる人が少なくなるなか、戦争遺跡は平和教育のための貴重な資料。戦争の恐ろしさや悲惨さを学んでもらいたい」と話した。【最上和喜】

4月21日朝刊

 http://203.139.202.230/?&nwSrl=287687&nwIW=1&nwVt=knd

 夜須に新たな旧日本海軍砲台跡見つかる

 2012年04月21日08時19分

 太平洋戦争末期、本土決戦用に旧日本海軍が築いたコンクリート製の砲台跡が香南市夜須町の山中で新たに見つかり、20日、現地で報道陣に公開された。発見した高知市の平和資料館「草の家」研究員、福井康人さん(42)によると、コンクリート製砲台跡の確認は高知県内2例目。

[高知新聞]

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ニ〇一ニ年四月二十日 金曜日 山中記者会見。

二〇一二年四月二十日 金曜日 山中記者会見。

 雨、雲り、晴れ。

 朝から福井康人さんのジープに乗せてもらって、香南市夜須町の山中での記者会見会場へ。
 記者会見のメンバーは、平和資料館・草の家の岡村正弘さん、同館研究員の福井さん、そして同館研究員の僕、同館の会員の大黒(だいこく)春江さん。
 会見の内容は、僕流にいえば「高知県香南市の山中に海軍の砲弾跡。兵器弾薬集積場には『化学兵器』も。」。
 この砲台跡を、発見して調査したのは福井さんです。
 雨の中、「山中記者会見」には、NHKテレビ、高知放送、テレビ高知、さんさんテレビ、高知新聞、読売新聞、毎日新聞、高知民報の記者、カメラマンが参加してくださいました。感謝。
 

 家に帰って、少しくつろいでから高知短期大学へ。
 本日も二科目。

 友だちから手製の布製の手提げ袋、押し花のシオリをいただきました。感謝。

 
 本日は履修登録の最終日でした。
 パソコンでの履修登録ですのでパソコンが苦手な人は大変でした(僕は馴れていますが……)。

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2012.04.21

【???】 白ネギが高価なわけ?

 スーパーの野菜売り場に行って、いつも思うのですが、白ネギが高価だということです。
 昔から、こんなに高かったのかなぁ。
 栽培に手間がかかる、産地が少ないなど、いろんな理由があると思うのですが。
 どうなんでしょうか。

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二〇一二年四月二十一月 土曜日  『草の家ブックレット No.13 槇村浩(まきむらこう)に会いに…』ができあがってきました。

二〇一二年四月二十一月 土曜日  『草の家ブックレット No.13 槇村浩(まきむらこう)に会いに…』ができあがってきました。

 雨。

 

 高知短期大学へ行きました。

 サークルのつどいです。

 

 平和資料館・草の家に行きました。

 理事会です。

 会議中に『草の家ブックレット No.13 槇村浩(まきむらこう)に会いに…』が、できあがってきました。

 五百円です。

 ある女性から妻に電話。意外なことが判明しました。

 電話でKさん、Sさん、Uさんと話しました。

 高知短期大学存続の運動のための事務作業をしました。

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2012.04.22

二〇一二年四月二十二日 日曜日 日本国憲法第九条そのものを歌い上げる大合唱……。

二〇一二年四月二十二日 日曜日 日本国憲法第九条そのものを歌い上げる大合唱……。

 雨

  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この日本国憲法第九条そのものを大合唱団が荘厳に歌っている姿をテレビで見ました。
 「こんな歌があったのか」
 感動して、コラムに書こうとして、この歌の作曲者などに取材しようとしました。
 しかし、なかなか行き当たりません。
 「どこからせめていこうか」
 考えをめぐらしました。
 そこで目がさめました。
 二〇一二年四月二十二日朝の夢でした。
 しばらくしてからインターネットを検索してみました。
 「日本国憲法第九条 歌」
 結果は……。

 で、いま考えていること。

 「日本国憲法第九条」に曲をつけていただけませんか。
 心にしみるものでみんなが歌いやすいものに。
 ということで、募集してみてはどうでしょうか。

 【参考】

 http://www.youtube.com/watch?v=oKMcuWrcJyI

 午後、高知県歌人連盟の総会に出席。青年を「短歌のシステムに、どう引き込むか」という提案をしました。「一定の」反響がありました。
 

 懇親会に参加。
 妻の知り合いが二人いました。
 一九四四年九月に朝倉の連隊に入った男性もいました。

 一眠りした後、二十六日の講演の原稿を書きました。

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2012.04.24

二〇一二年四月二十三日 月曜日 朝まで二十六日の講演の原稿を書きました。

二〇一二年四月二十三日 月曜日 朝まで二十六日の講演の原稿を書きました。

 晴れ。

 朝まで二十六日の講演の原稿を書きました。
 
 仮眠。

 呼び出しがあり午後、平和資料館・草の家へ。

 草の家で、もと自衛隊の戦車隊員の男性と話しました。

 「高知知っちゅう会」の総会の会場とり。
 高知短期大学で授業を受けました。
 二科目。
 授業終了後、「ともに学ぶ会」のあつまりに参加しました。

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二〇一二年四月二十四日 火曜日 高知市御畳瀬(みませ)の北の「現場」を歩きました。

二〇一二年四月二十四日 火曜日 高知市御畳瀬(みませ)の北の「現場」を歩きました。

 晴れ。

 二十六日の講演の原稿を書き終えました。
 講演のための資料をコンビニエンスストアに行ってコピーしました。
 結局、午前五時になっていました。
 あと、夜、とじなければなりません。
 妻は、ネコ二ひきを布団の上に乗せてスー、スー。

 僕も仮眠しました。

 午後十二時半には、高知市御畳瀬(みませ)にいました。
 六十七年前、海軍がつくった資料にある地図をもとに二つの軍事施設のあった所に行こうという計画です。
 うろうろしていたら地元の男性が「どこへ行きたいが?」と、声をかけてくれました。
 「この地図の所に行きたいんですが…」
 四人が来てくれて智恵を貸してくれました。
 そして、「この近所のSEさん所で聞いてみいや」
 SEさん所に入ろうとした所で相棒のFUさんが到着。
 一緒にSEさん宅に。
 「戦後、御畳瀬国民学校の近くの空き地に山から降ろしてきたらしいねずみ色の大砲が一つか二つ、置いてあった」ことを教えてくれました。
 FUさんと二人で御畳瀬の北の「現場」山々へ。
 壕のようなくぼみがたくさんあります。
 半円形に掘り下げた小さめの砲の陣地のような場所もありました。
 しかし、途中から失速状態。
 調査はFUさんにまかせてFUさんのジープの助手席でグーグー。
 なお、この日、FUさんが登山靴のヒモの入れ方(金具の上から入れ、先は靴の中に入れておく)を教えてくれました。

 夜は高知短期大学で授業を受けました。
 二科目。
 二時間目に先生が「地域とは何か、書いてください」。
 僕は「人びとが交流し、助けあって生きる、ひとかたまりのエリア」と答えました。
 たとえば、津波が襲ってきたとき、同じ所に逃げ込む集団です。

 SAさんから資料を受け取りました。
 
 これから、いろんな作業を開始します。

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2012.04.25

二〇一二年四月二十五日 水曜日 パーマをかけて、茶髪に染めて……。

二〇一二年四月二十五日 水曜日 パーマをかけて、茶髪に染めて……。

 雲り、雨。

 午後一時半から外へ。
 郵便局へ。
 理髪店へ。
 美容院のような所だったのでためらっていたら「おとこのかたでも、どうぞ」。
 二時三十分、開始。
 長髪を切りそろえ、パーマをし、茶髪に染めて……。
 「ところで、いま何時ですか?」
 「五時四十五分です」
 「えーっ」
 髭の処理などは中止してもらって学校へ急ぎました。
 結局、三十分も遅刻しました。

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【短歌】 妻は、ナンクロが友だち

 ナンクロを ネコと解いてる 夜の妻 帰宅の夫を 一べつしたまま

 「それで、なに?」 「ブログに書くから、あとで見て」 対話の少ない 夫婦の対話

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2012.04.26

二〇一二年四月二十六日 木曜日 講演のテーマ「空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、分散式地下の地下の飛行機工場… 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」。

二〇一二年四月二十六日 木曜日 講演のテーマ「空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、分散式地下の地下の飛行機工場… 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」。

 晴れ。
 

 午前三時半起きで、高松市牟礼へ。
 高松市文化財保護協会牟礼分会の総会に参加しました。
 記念講演をさせていただきました。
 題は「空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、分散式地下の地下の飛行機工場… 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」にしました。
 話し終わってから質問、意見がたくさん出ました。
 知り合いの人が、高松市文化財保護協会の会長代理として出席していたのにびっくり。
 戦争中、高知市にいた人もいました。上町に落ちた米軍機、高知城の防空壕などについて語ってくれました。
 高松市役所の人も二人参加していました。

 高松市文化財保護協会の会長代理に車で送っていただいて、高松の読売新聞に行き資料をいただきました。

 高松の古書店に行って店主の、うんちくを聞かせていただきました。
 
 夜、高知短期大学へ。英語二科目。

 帰ってから妻と、日ごろのお互いへの不満をぶっつけ、【二人憲法】の一部をつくりました。

 【二人憲法】

 一、妻は、よっぴてラジオをつけているが、午前一時にはオフする(「睡眠障害」のある夫が寝れないので)。
 ニ、風呂は、朝風呂にする。毎日入る(妻は夜、夫は朝は、もったいない)。
 三、妻が夜中にナンクロにふけっているときは、夫は邪魔しない(「ナンクロはボケ予防に有効」が妻の主張)
 四、夫は、「こうべった服装」(世間なみの服装)をしたいときは妻に二日前には伝える(「こうべった」ものが非常に少ないため、妻は準備のために苦労する)。

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2012.04.27

【エッセイ】 口うるさい妻。

 携帯電話の音を水滴に変えました。

 その着信音を聞いた妻は、 「こんな幽霊が出てきそうな音にしなや」。

 妻は、口うるさい。

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一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その一 アメリカ軍の空中写真から

【二〇一〇年四月二十六日、高松市文化財保護協会牟礼分会二〇一二年度総会】

 空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、分散式地下の飛行機工場…

 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置

                     藤原 義一

  【自己紹介】

「ふじはら・よしかず」と、もうします。六十五歳です。
 六十歳で四十年勤めた東京都の職場を退職して高知市に住むようになってから、この四年間、アジア太平洋時代の本土決戦期の四国の戦闘配置について調査しています。
 いまは、昼間は高知市内の民間の資料館、平和資料館・草の家の学芸員をしています。三月からの仕事ですが、四十人ほどのかたから戦争にまつわる品物を寄贈していただいて十数人のスタッフで「うちんく(わが家)の戦争」という企画展をやりました。広報担当らしきこともやっていて、二十日朝には香南市の山中で呉鎮守府第十一特別陸戦隊の砲台跡について記者会見も開催しました。四つのテレビ局、四つの新聞が取材してくれました。
 本を出すのが好きで、二〇〇九年一月から『高知の戦争 証言と調査』という小冊子を編集しています。いま、十七号と十八号を編集しています。昨年は妻と一緒に妻の父の戦争体験の本を出しました。妻の父は、小豆島の特殊潜航艇・蛟龍の艇長をしていて、訓練中にアメリカ軍機p51での機銃掃射を受け、生死の境をさまよいました。
 私は、退職してから夜の学校、高知短期大学社会科学科に通い、その勢いで、さぬき市の徳島文理大学文学部文化財学科に三年次編入をして、この三月に卒業。四月からは高知短期大学の専攻科に行っています。
 文化財学科では、卒業論文に陸軍高松飛行場、県下の道路を拡張してつくられていた三つの陸軍秘匿飛行場のなりたち、役割について書くことができました。この一月からは牟礼の倉敷飛行場の、分散式半地下工場について調査しているところです。

 【話のテーマ】

きょうは、この二年間の香川県での調査の一部を「空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、分散式地下の飛行機工場… 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」という題でお話しします。
 一九四五年五月二十八日に、アメリカ軍機が香川県北部の空中写真を撮っています。これを見ながら、当時の状況を追っかけていきます。
 そのころの空母しまね丸のこと、陸軍高松飛行場、陸軍屋島秘匿飛行場、倉敷飛行機の分散式半地下工場のことで、これまでにわかったことをお話しします。
 事実を語るだけで、理論づけのない話であることを最初にお断りしておきます。

【アメリカ軍の空中写真】

アメリカ軍機が一九四五年五月二十八日に撮影した香川県北部の写真(40 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000、41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST)があります。

 二〇一〇年三月、香川県にやって来て、卒業論文のための調査を始めましたが、四国新聞などに高松市の研究者が、こんな写真を入手したという記事が出ていたことを知り、その人に、この写真の入手方法を教えてもらいました。そして、国土地理院から手に入れました。

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一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 二 鴨庄(かもしょう)の沖の空母しまね丸のこと

 【鴨庄(かもしょう)の沖の空母しまね丸のこと】

 五月二十八日のアメリカ軍の空中写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」右上の所、鴨庄(いまは、さぬき市)の沖には空母しまね丸が写っています。

 

 いま、しまね丸のマストが二か所に残っています。さぬき市新開(しんかい)と、高松市の屋島の四国村です。
 新開のものは、火の見やぐらとして使われています。
 これが新開のものです。

 

 やぐらの説明板(さぬき市文化財保護協会志度支部のものです)には、つぎのように書かれています。

 警鐘台

 旧所在地 香川県大川郡志度町鴨藤新開

 この警鐘台はもと護衛空母(しまね丸)の無線マストであった
 しまね丸は全長一六〇.五メートル幅二〇メートル排水量二〇.四六九トン速力一八.五ノットの大型油槽船(タンカー)で、油槽船としての能力を残しながら飛行甲板を取り付けて対潜水艦哨戒機の発着を可能とした民間籍(石原汽船)の空母であった
 昭和二〇年[一九四五年]二月二八日神戸の川崎重工で完成後使用の機会のないまま同年四月三日志度湾の長浜沖に隠された
 この頃から本格的な連合軍の空襲が始まり七月四日は高松空襲次いで七月二七日にしまね丸は四隻の英空母機の集中攻撃を受け二つに折れ沈没した
 終戦後の昭和二三年[一九四八年]解体引き上げられることとなりその際地元の有志がマストを払い下げてもらい警鐘台として活用してきたものである
 なお警鐘台下方部には攻撃を受けた際の弾痕が見られる

 「志度町消防団 鴨庄台部屯所」の前にあったマストは、高松市の屋島神社の東隣にある四国村(民家博物館)に移設されています。


 しまね丸は、川崎造船所で建造されたタンカーです。一九四五年二月二十九日に竣工しました。民間籍でしたが、竣工後は海軍が徴用しました。飛行甲板との格納庫を備え、九三式中間練習機十二機の搭載が可能でした。
 なぜ、しまね丸は、ここにやってきたのでしょうか。そのことが、『志度風土記』(岡村信男。アイニチ株式会社。一九八四年十二月一日)に載っています。
 「昭和二十年[一九四五年]四月三日。古びた工作艦に曳航(えいこう)されて一隻の空母[しまね丸のこと]が長浜沖に繋留(けいりゅう)された。艦長と海軍兵士らがボートで長浜部落常会長を訪れ、『神戸で被害を受けたこの空母を、長浜沖で疎開するのでよろしく頼む。』と挨拶して帰った。」
 「二十日後の四月二十三日、高松海軍人事部から、このままでは敵に発見されやすく、攻撃の的となるので地元で偽装して欲しいと申入れを受けた。(中略)翌日と翌々日の二日かがりで、長浜、新開部落全員出動。大串国有林から松を切り帰り偽装を施したのである。」
 アメリカ軍機、イギリス軍機は、しまね丸と、その周辺を何回も攻撃しています。

http://www.h3.dion.ne.jp/~okumoto/page005.html

 調べていて「へーっ!」と思ったことがあります。
 七月の鴨庄(かもしょう)村議会で、長浜出身の多田常八村議がこの空母が、ここにあるとアメリカ軍機、イギリス軍機の攻撃で地元にも被害がおよぶということで、野崎助役に「やっかいな空母を他所に移す」ことを提案していたことです。いずれが是か非かで激論になり、助役が辞表を出す騒ぎに発展したとのことです(『志度風土記』)。  
 鴨庄村は、香川県大川郡で、いまの、さぬき市鴨庄です。
 当時の近隣の学校の様子を調べてみました。
 香川県立大川高等女学校では、生徒たちが、日本に上陸してくるアメリカ軍とたたかうために竹槍で訓練していました(『津田高五十年史』。香川県立津田高等学校。一九八三年十月一日)。
 志度国民学校では子どもたちが軍事訓練をやっていました(『軌跡 末分校・分園思い出誌』。田淵義明。さぬき市志度小学校(末分校)。二〇〇九年三月二十九日)。
 志度の香川県立志度拓植学校(いまは、香川県立志度高等学校)には、一九四四年十二月に、陸軍の船舶隊約百人が駐屯し、本校舎で宿泊していました。

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一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その三 陸軍高松飛行場

【陸軍高松飛行場】
 

 五月二十八日の空中写真の下のほうに白いブロックがあります。これが陸軍高松飛行場です(いまは、香川インテリジェントパークとして香川県立図書館などになっています)。
 高松飛行場の造成は一九四四年一月から始まっていました。香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村(いずれも現高松市)にまたがる約二千七百ヘクタールの田畑や家屋を改廃して用地としました。高松飛行場建設予定地の林村内の移転対象家屋は、林村六百戸のうち二百七十五戸で、面積は百八十ヘクタールにおよびました。十二の神社や寺も移転対象でした。
 一九四四年五月二十八日には、まだ建設中でしたが、すでに航空部隊が配備されていました。
 アメリカ軍は、こうした空中写真を判読し、「飛行場リポート」に印刷し、配布していました。これは「飛行場リポート93」、陸軍高松飛行場を解説したものです。
 

 

下のほうの山、日山(標高一九一・七メートル)への飛行場からの誘導路は、この山の麓を半周しています。
 日山の右上の由良山 (標高一二〇・三メートル)にも高松飛行場から誘導路がのびていて、これも、この山の麓を半周しています。
 由良山の山中に「地下の戦闘施設」があると書きいれられています。
 二〇〇四年の高松市の特殊地下壕実態調査を見ると、由良山には、六つの壕が残っていました。
 最近、私が見たものでは、この山の中腹に出入口が二か所ある幅三メートル~四メートル、高さ二メートル余、長さ三十二メートルの壕が残っています。内部はコの字型につながっています。地元では防空壕としていますが、これは戦闘壕だと思います。
 飛行場の左側からのびている誘導路の先の四角いスペースのことを「修理用格納庫」としています
 これは、倉敷飛行機の飛行機組立工場です。現在、ここは高松市多肥町で警察機動隊があります。
 高松飛行場のことは、一九四五年八月十五日の終戦直後、同月三十一日発行の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の四国占領の手引きというべき本、『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』にも載っています。
 「C、高松ー北緯三十四度十七分、東経百三十四度四分(写真十五参照):分類:HLG
 場所: 高松の南南東四マイル、由良山の裾野にある春日川の一・五マイル西にある。標高五〇フィート。滑走路:飛行場は、建設中。寸法は、西南西から東北東が六千四百フィート、西南西から東北東五千五百フィート、北北西から南南東五千八百フィート
 路面は土で、水はけ良し。東西三千八百フィート×二百フィートの未舗装滑走路が一本ある。
 拡張は、北北西に二千フィート、西南西へ千三百フィート可能。
 建造物:兵舎十一、工場・事業所十五、小型格納庫二、格納床三が北東の角にある。ある程度大きな格納庫が一基、飛行場北西の四十五フィートの未舗装誘導路の端にある。
 分散地域:飛行場北端に開かれた分散地域。由良山のふもと周辺にダミーの誘導路とダミーの擁壁が建てられている。南には、ダミーの誘導路一本とダミーの擁壁十基が建造されている。
 アクセス方法: 十六フィートの未舗装路が高松の北に通じる。高松電鉄と道路一号が北北東へ一マイル先にある。
 地形状の障害物:すぐ南に標高三百九十八フィートの丘。一マイル東に六百三十六フィートの丘。二・二五マイル南東に標高八百四十フィートの丘。二・七五マイル東に標高三百四十フィートの丘。三・七五マイル北西に九百四十五フィートの丘。」
 滑走路をHLGと認定しています(HLGとは「大型爆撃機着陸場:大型爆撃機による使用が可能であること。あるいは、海面位で全長が少なくとも六千フィートである着陸場で、大型爆撃機に適していること」と、いいます。
 一フィートは、〇・三〇四八メートル、一マイルは千六百九・三四四メートルです。
 つぎは五月二十八日の空中写真、「40 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の一部の拡大図です。
 日山を半周する誘導路の内側に十か所、四角い空白地帯が並んでいて、その空白地帯の中に黒い点のあるものもあります。
 香川県木田郡三谷村(いまは、高松市三谷)の日山の麓に行ってみました。地元の男性(一九三三年五月生まれ)によると、この十の空白地帯には
 掩体壕(えんたいごう=飛行機の格納庫)があり、その中に実物大の模擬飛行機が置かれていたといいます。掩体外側が開いた「コ」の字形の土でつくったもので、高さは約二メートルあったといいます。南の端の四角い空白地帯には、現在、株式会社たまもが建っています(高松市三谷町二一の八)。
 防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室にも行きました(松山市の研究者の示唆をうけてのものです)。
 高松飛行場についての資料がありました。陸軍第十一飛行団司令部『飛行場記録』の「高松飛行場記録」です。終戦一か月後の九月十五日に調整されたものです。
 同飛行場を、「自重六屯(トン)以下ノ飛行機ノ使用二適ス」としています。
 「滑走地区」は、二千メートル×八百メートルの「整地輾圧(せいちてんあつ)」(整地してローラーをかけたということ)。「夜間着陸設備」は、「ナシ」。
 誘導路が三つあります。
 一つは、北に真っすぐのびていて、既存の道路とクロスして高松市街地に通じています。
 二つ目は、南に真っすぐのび日山に突きあたり日山の東西を半周しています。
 三つ目は、西北にのびながら四角いスペースや南北に長い地域・「一ノ宮撃留地」につながっています。「撃留地」は飛行機撃留地のことで飛行機を隠しておく所です。
 そもそも、陸軍は、なぜ、ここに飛行場をつくろうとしたのでしょうか。
 一九四六年十二月の第一復員局の『本土航空作戦記録』(防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵)の「付録第三 本土航空施設の梗概」には、こうあります。
 「……ガダルカナル撤退以来本土要域の防空強化の必要に迫られ十八年[一九四三年]末以来京浜、阪神、北九州等の防空飛行場着手に十九年[一九四四年]夏頃迄(まで)に概(おおむね)防空飛行隊の活動に支障なき態勢を整へたり一方第一戦線場より報せらるる航空戦の様相は内地に於(お)ける無防備なる各航空基地を強化するの急務なるを痛感せしめ軍官民相協力して各飛行場に誘導路掩体(えんたい)を構築せり」
 「一、 昭和十八年より昭和十九年三月に至る状況昭和十八年に入るや航空要員の急速なる大量養成に着手し之(これ)に伴(ともな)つて従来六十数個なりし内地の飛行場に更(さら)に三十個の飛行場を新設又は拡張(別紙第一参照)すべく四月頃より之(これ)か整備に着手せり
 同時期に於ける全般情勢は未た内地の防備を固むる必要なかりしを以て着工せる飛行場も総て教育第一主義とせられたり」
 同文書の「昭和十九年[一九四四年]四月より昭和十九年十月に至(いた)る状況」の項目を見ると「高松」、高松飛行場も、「防空飛行隊」の飛行場として「急速に完成する」ことがもとめられていたことがわかります。
 高松飛行場(林飛行場ともいう)の建設にあたっての県民の負担については「旧高松空港跡地の碑」(一九九六年三月。林地区開発協議会)の碑文が、経過を端的にのべています。。
 「太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和十九年[一九四四年]一月二十二日林村に晴天の霹靂(へきれき)ともいうべき事態が突発した。陸軍省から林村を中心に周辺三町村にまたがる約二百七十ヘクタールに飛行場を建設するとの連絡が入ったのである。時の三宅信夫村長は事の重大さのあまり顔面蒼白(がんめんそうはく)、絶句して言葉を失うほどであった。
 五日後の二十八日、林小学校[国民学校]講堂に指定区域内の関係者四百余人が集められ土地の買収家屋の移転を正式に要請された。永年住み馴れた土地家屋への愛着、近隣の親しい友との別れ、新しい土地での生活の不安などが心中に激しく交錯(こうさく)し、場内は寂として声もなかった。(中略)林村も 田畑の半分近くを失い 公共建物を含めた二百七十五戸の家屋を一挙に移転するに至(いた)っては、まさに崩壊寸前となり、村民の苦悩はその極みに達した。周辺市町村からの援助を得ながらも、縁故知人を頼って列をなして家財を運ぶ村民の姿は今も脳裏を離れるものではない。移転は四月末までの極めて短時間のうちに完了し、引き続き軍は飛行場の建設に着手した。作業はすべて人力に頼るため一般人はもとより学生・生徒まで連日数千人が勤労奉仕に動員された。」
 動員様子を示す資料を一つあげます。
 一九四四同年八月三十日、長尾町長が部落会長あてに出した「林飛行場勤労要員出動ノ件」の文書です(香川県『香川県 第十二巻 資料編 近代・現代史料Ⅱ』。一九八八年)。
 これは、町からは、これまで毎日十人宛て出動中ですが、きょう軍部から変更して毎日八十人の出動を命令されました、貴部落から男子三人(やむをえなければうち一人は女子でも可)を出動させてくださいという内容です。出動は九月一日から十月末まで。出動は軍部がトラックで送迎する、手当はない。ショベル、ツルハシ、大手鍬(くわ)、ハジョレンのうち一つを携帯すること、晴雨にかかわらず出動せよ、年齢は十六歳から六十まで(女子は、十六歳から五十歳まで)。出動員は、毎朝午前六時、町役場に集合のことなどとしています。
 当時の記録、戦後の出版物で、香川県立高松中学校、高松第一中学校、香川県立坂出工業学校、私立尽誠中学校の生徒たちが動員されていたことがわかりました。仏生山国民学校の上級生も年五月十三日からのべ二十三日動員されています。
 朝鮮人も飛行場づくりに使役されました(浄土卓也『朝鮮人の強制連行と徴用 香川県・三菱直島製錬所と軍事施設』。社会評論社。一九九二年)。
 八月には東西滑走路が完成しました。
 翌九月、この明野教導飛行師団(師団長・青木武三少将。教導航空軍司令部=軍司令官・菅原道大中将=が統括)の一部が、明野飛行部隊高松隊(隊長・森下清次郎少佐)として建築途上の高松飛行場に配備されました(高松空襲戦災誌編集委員会『高松空襲戦災誌』。高松市役所。一九八五年 など)。この部隊は、「明野陸軍航空部隊」、または「明野陸軍飛行部隊」とも、いいました。
 高松飛行場にいた兵隊の記録があります(檜=ひのき=與平『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。光人社。一九九五年)。
 檜大尉は一九四四年十一月に十七日午後、高松飛行場の陸軍明野教導飛行師団に教官として着任しました。
 檜教官たちの生徒は、五十人近くの陸軍士官学校五十七期生で、地上部隊から転科してきた少尉たちと、十人近くのビルマからの留学生たちでした。ここで、川田少佐が飛行場の責任者をつとめ、檜大尉が操縦教育の責任者となり、戦闘訓練をしました。十二月半ばになって射撃演習を始めました。
 高松中学校の二年生だった水原良昌さん(当時・高松市花園町在住)は、陸軍高松飛行場づくりのために一九四四年九月から動員されていた。その水原さんが、動員先での見聞を書いています(香川県医師会『香川県医師会誌』百五十九号。一九八八年)。
 「[木枯らしが吹きさらすころには]滑走路も次第に整備されて、九七式戦闘機と陸上攻撃機を中心とした航空隊がやって来てきた。学徒出身の学生出身者で編成されていて、教官の中には加藤隼戦闘隊の撃墜王として新聞で馴染みになっていた綾上出身の穴吹軍曹が曹長になって来ていた。赤白い顔色でやゝ小柄のがしっとした体格の人であった。(中略)
 空では教官機が引っ張る長い吹き流しを目がけて、急降下して突っ込む練習の繰り返しが毎日毎日続き、それを地上から時々眺めながらの土方作業が毎日毎日続いた。
 不時着機の種類も多くなった。零戦・彗星・一式陸攻・天山・鍾馗(しょうき)・飛燕・月光・新司偵・ダグラスDC3型等々、いずれも技術の先端を行く冷徹な美しい姿をしていた。」
 十二月二十六日、防衛総司令官隷下の第六航空軍(軍司令官・菅原道太郎中将)が新設されました 。これは、西南諸島方面にたいする航空作戦が主任務でした。高松飛行場の明野陸軍航空部隊は、第六航空軍の指揮下に入りました。
 一九四五年一月中旬、大本営は、本土外郊地帯で「決戦的努力」を継続して連合軍の本土侵攻を遅らせ、この間、本土の作戦準備態勢を確立するという「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定しました。
 二月からアメリカ軍機などの本格的な日本本土空襲が始まっていました。
 香川県も空襲に襲われました。二月七日、連合軍の飛行機が、香川県三豊郡観音寺町沖合に爆弾を投下した。二月十九日、アメリカ軍のグラマン戦闘機のべ八十機が、数十回にわたり、海軍航空隊のある三豊郡詫間町および観音町周辺を空襲、死者二人、重軽症者十人の被害がでました。
 アメリカ軍機が日本の空をにぎった情勢のもと、高松飛行場ではニセ飛行機をつくらせてそれを飛行場に置き、アメリカ軍機の攻撃をニセ飛行機に集中させるという作戦を打ち出しました。そのことを檜與平さんがのべています(『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』)。
 「明野飛行学校も明野教導師団として、作戦任務と教育任務を兼ねていたが、高松分校[明野陸軍飛行部隊]には、まったく戦闘力はなかった。
 『川田少佐どの。ニセ飛行機をつくって飛行場にならべましょうか』
 と、ある日、私[檜與平大尉]はそう申し出た。訓練用の飛行機を場外にうつし、ニセ飛行機に敵艦載機の攻撃を集中させようという私の意見であった。
 『いい考えだが、飛行機ができるか』
 『県庁へたのんで、付近の小学校[国民学校]から一機ずつ出品してもらって、品評会をやったらどうでしょうか。私が県庁へ交渉しましょう』
 と、私は、さっそくくるまを県庁へ飛ばした。細谷警察部長が即座に快諾してくれた。そして、定められた期日には、朝早くから近郊の小学校[国民学校]の生徒たちが、本物とまちがえるばかりの竹細工、ある木製の実物大の模型をつくって、先生に引率されて、荷車で運びこんできた。
 飛行場は、俄然、見ちがえるばかりの飛行機の数となった。
 細谷部長も臨席し、感謝祭をもよおし、私は編隊を指揮して、編隊高等飛行をして観覧させた。
 子供たちがつくってくれた飛行機の下にジュラルミン(破壊された飛行機)を置いて、敵のレーダーを
欺瞞(ぎまん)した。」
 実際に各国民学校でニセ飛行機がつくられました。 香川県下の各国民学校からの陸軍高松飛行場への最初のニセ飛行機(模擬飛行機)の「納品」が始まったのは三月で、その後も五月まで「納品」されました。

【仏生山国民学校】 香川郡仏生町の仏生山国民学校では三月三日に「模擬飛行機製作、日山の麓へ送りこむ。」(高松市立仏生山小学校『学校史 九十三年のあゆみ』。高松市立仏生山小学校。一九八五年)。
 【浅野国民学校】 「飛行機秘匿をカムフラージュするために、各国民学校競争で実物大の木製飛行機をつくらせる。浅野国民学校[いまの高松市香川町の浅野小学校]がコンクールで一等になった。/二十年[一九四五年]三月七日につくり上げ、大八車に乗せて持っていった(元教員・溝渕文子さん談)」(四国新聞社『昭和五十年史 別冊1 三十年目の証言』。一九七五年)。
 【古高松国民学校】 高松市立古高松国民学校では、三月五日に「献納模擬飛行機製作作業着手」、その後、「高等科の生徒が竹で模擬飛行機を作り林飛行場献納しました。それを敵機が攻撃した」といいます(高松市古高松小学校創立八十年誌編集委員会『創立八十年誌 高松市古高松小学校』。高松市古高松小学校創立八十周年記念事業実行委員会。一九八八年)。この『年誌』には、模擬飛行機の写真も掲載しています。
 【川岡国民学校】 川岡村立川岡国民学校でもニセ飛行機をつくりました。
 「(五月九日から)献納模擬飛行機を製作する。十六日までかかった。十七日に林村の飛行場まで運搬する。二十六日から二日間、高等科女子は模擬飛行機の偽装作業実施。」(川岡郷土誌編集委員会『ふるさと川岡』。二〇〇一年)。
 【一宮国民学校】 一宮村の一宮国民学校でも「二十年[一九四五年]五月頃には竹材を用いた献納模擬飛行機の製作が講堂で大人達によって行われた。敵の目をごまかすために実物そっくりに作られた模擬飛行機は、林飛行場付近に配置された。」(高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員会(2002):『いちのみや百年』。高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員。二〇〇二年)。
 【三渓(みたに)国民学校】 日山の近くの三渓国民学校(現:高松市立三渓小学校)の児童だった宮本晴義さんが、同国民学校で零式戦闘機に似せて実物大の模擬飛行機をつくった体験を書いています(三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会記念誌編集部『三渓百年 創立百周年記念誌』。三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会。二〇〇〇年)。「……旧講堂を作業場に充て、先生方を中心にして製作が始まったが、その助手として生徒の工作班が編成され、私たち五名が選ばれた。工作班は、学校で授業を受けることなく、牛熊先生指導のもと、連日、夜遅くまで製作に専念した。/一方、日山の山麓の田圃には、模擬滑走路が造成され、四、五十メートル間隔に掩体壕が数か所設置された。三渓小学校[国民学校]を始め、近隣の小学校[国民学校]から模型飛行機を運んできて、そこへ据え付けたのである。」
 春、高松飛行場の明野陸軍飛行部隊は、沖縄県で上陸戦を展開するアメリカ軍に対する航空機での特別攻撃のための操縦兵などの確保、飛行機の供給のためのものになりました。明野陸軍飛行部隊の航空兵たちが沖縄のアメリカ軍に向けての特別攻撃に参加したのは、陸軍第六航空軍の振武隊としてであった。
 高松飛行場づくりに動員されていた水原良昌さんは、同飛行場から特別攻撃隊が出撃する姿も見ています(『香川県医師会誌』百五十九号)。
 「昭和二十年[一九四五年]の三月中旬であったろうか、『今日特攻隊ガ出テイクント』と、どこからか伝えられて緊張したムードが流れていた。昼過、噂通りに遠目にそれらしい一隊の整列と儀式が眺められていたが、やがて九七式戦闘機と陸上攻撃機が三機ずつ並んで何回にも別れて離陸を始めた。誰言うとなく皆滑走路の横に走り並んで、帽子をふったりある者は長い竹竿にゲートルの紐(ひも)を結びつけて長い旗がわりにしてふったりもした。
 飛行機は次々と地上をあとにした後、上空できれいな編隊を組んで飛行場上空をゆっくりと何回も何回も低く旋回した。それからやゝ高度を高めながらずっと東方上空に編隊を移し、やがて三機編隊ずつ風のように滑走路めがけて降下して来て、決別の例であろうか左右に翼をふりながら滑走路上を低く飛んだ後、再び急上昇して後をふりかえる事もなくひたすらに西空に向かって消えて行った。
 当時はまだ十四・五歳の少年達も、死への出発とか訣別(けつべつ)とかいった限界状況を目前にして、言語では表現出来ないどうしようもない重苦しさを各自に感じたようで、しばらくは皆押し黙ったまゝであった。
 それから四・五日してから又(また)二〇機ほど飛び立って行ったのであるが、その数日後の新聞紙上に九州の前線基地からの報道として『出撃を待つ特攻隊長A中尉』の談話が載った。先日林から飛び立っていったA中尉であったが、沖縄に米軍が来襲する少し前の事である。」
 高等女学校三年生で飛行機の整備のために陸軍高松飛行場に動員されていた佐々木ミヨ子さんは同飛行場から特攻隊が出陣するのを見送っています。
 「ニッコリ笑って、○○他何名只今(ただいま)行きます。……帰って来ますとは誰も言いませんでした。一週間後には名誉の戦死が報じられました」。(角田緑編『敗戦五十周年記録集“私と戦争”』。香川県職員退職者会。一九九五年)。
 第六航空軍で沖縄に突撃攻撃して戦死したのは、四月一日から七月一日までで六百九十七人。一九一二年生まれ~一九二六年生まれの人たちです。
 沖縄戦の最中の四月八日、陸軍航空総軍が創設されました(通称号・帥=すい=。総司令官・河辺正三大将)。このとき航空総軍に第一航空軍、第六航空軍が編入されました。
 同月、航空総軍は、「航空総軍作戦計画の大綱」を策定します(『本土航空作戦記録』)。
 「一 作戦目的
 航空総軍は地上総軍及海軍と協同し本土に侵寇する敵軍を撃滅し本土枢要部を掩護す
 二 作戦方針
 航空総軍は一部の作戦を遂行しつつ七月末迄に決号作戦準備を概成し敵の本土侵寇に方りては努めて之を洋上に覆滅す戦術の重点は関東地方及九州地方とし決戦方面は大本営の指示に依る
 三 作戦要綱
 一、 決号作戦準備は七月末迄に之を概成し爾後努めて速やかに之を完成す其の重点は関東地方及九州地方とす
 二、 決号作戦遂行の主戦力は決と号部隊とす之か為為し得る限り多量のと号部隊を編成し之を各方面に分散秘匿しつつ戦力の向上を図り決戦に方りては決戦方面に集結投入して一挙に敵を覆滅す
 三、 決と号部隊に対する編成、教育之に必要なる飛行場の新設又は補修整備所要飛行機其の他の兵器の整備等に関しては万遺憾なきを期す(以下、略)」
 「決と号部隊」は、本土決戦作戦のための航空部隊で、本土に上陸しようとするアメリカの船団を破壊するための特別攻撃隊のことです。
 このころのことを高松飛行場の檜與平大佐が書いています(『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』)。
 「……やがて陸軍航空の最高指導方針が示された。それは、二月中旬の敵機動部隊の本土空襲いらい、はじめてのことであった。
 その主旨は、本土上陸作戦(決号作戦)に備え、飛行機を温存することに徹する。したがってその方法としては、別命をうけた部隊以外は飛行機の隠匿(いんとく)につとめ、敵の空襲に対し、絶対に被害をこうむらないようする、というのであった。」
 「……まず、以上の命令にもとづいて、まず飛行場の近くにある由良山に横穴格納庫を建設する一方、飛行場から、無数の蛸足(たこあし)のような誘導路を新設することになり、高松中学校の学徒動員と、高松市民の勤労奉仕が、連日にわたってつづけられた。
 そして、将校生徒たちは、その激励にまわった。もはや訓練から決号作戦への準備にうつったのであった。」
 高松中学校の三年生になっていた水原良昌さんも誘導路つくりに動員されています(『香川県医師会誌』百五十九号)。
 「私達の[高松]飛行場での作業は[一九四五年]四月下旬で終わり、五月からは二週間程木太町へ、……」、「木太町の作業場は、旧国道一一号線の玉藻中学から南へ高徳線を横切って長尾街道に至る道路沿いであった。(中略)一面に麦畑が続く砂地でツルハシはあまり使わずスコップだけで掘れたものである。」
 水原さんへの聞き取りによると、木太町での作業は高松飛行場の誘導路づくりで、飛行場からの道路を観光道路につなぐ作業でした。
 誘導路づくりのことは、『高松空襲戦災誌』にも出てきます。
 「秘匿場所としては、屋島の屋島神社参道、太田の広田八幡、一宮村の香東(こうとう)川河原、太田町の大池附近などの松林の陰や由良山北麓に、上空から見えないように作ったおおいの中に数機ずつ隠した。また観光道路(旧国道十一号線)沿道の空地にも、よしずを立て掛けたり、木の枝でおおって隠した。機種は、九七戦・四八戦・双発連絡機などであった。」
 「由良山には格納庫が造られ、飛行場からタコ足のように誘導路が造られた。また、一〇㌔㍍も離れた屋島神社参道の松並木・太田上町の広田神社・一宮村の香東河原・太田町の大池周辺などの森林の中におおいをして隠した。九七式・四式戦闘機、双発連絡など、数十機に及んだ。」
 高松飛行場の建設は、民間業者がおこなっていました。しかし、同飛行場を教育訓練用飛行場から作戦飛行場にするため、軍の直営で工事をすることになり、五月中旬に伊丹飛行場にいた第百四十一野戦飛行場設営隊(隊長・川野真平大尉)約二百人が到着し、地元の勤労奉仕団とともに工事を開始しました。基礎整地ができていた東西の滑走路を舗装しました。規模は長さ約八百メートル、幅約五十メートルでした。設営隊は、飛行場のほか飛行場秘匿のために、由良山北麓をけずり、土盛しておおいをつくり、飛行場の秘匿場所に通じる数本の誘導路もつくりました(『高松空襲戦災誌』)。
 アメリカ軍機が空中写真を撮ったのは、このころでした。

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一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 四 陸軍屋島秘匿飛行場

 【陸軍屋島秘匿飛行場】

 話を陸軍秘匿飛行場のことに進めます。
 沖縄戦の最中の四月から本土各地で秘匿(ひとく)飛行場の建設が開始されました。飛行機を隠すだけでなく、飛行場そのものを隠すためです。
 その間の事情が、第一復員局の『本土航空作戦記録』の「本土航空施設の梗概」の「昭和 二十年[一九四五年]四月以降の状況」に書かれています。
「昭和二十年四月に入るや硫黄島敵手に入り沖縄(おきなわ)又(また)敵の侵す所となるに及ひ本土決戦の機愈々(いよいよ)近きを思はしめ敵の本土上陸(じょうりく)迄(まで)航空戦力を絶対確保するの要切なるものあり
 一方B―29及艦載機の攻撃遂次熾烈(しれつ)となり航空機の生産低下するのみならず完成機も漸減する状況にして敵の本土上陸迄(まで)訓練を犠牲とするも現有機を絶対確保するの施策を要するに至(いた)れり
 之(これ)か為(ため)重要施設の地下移行を理想とするも資材及(および)労力之(これ)を許ささる為(ため)燃料弾薬は洞窟内に収容する他飛行機は取敢へす飛行場周辺の地形地物を利用して分散秘匿することとし(別紙第三参照)各部隊に対し一斉に之(これ)か実施を指令せられたり
 以上諸施策の徹底により六月末頃には敵艦載機の猛攻下に於(おい)ても損害を減少し概(おおむ)ね持久態勢を確立するを得たり
 右の如(ごと)く分散秘匿せる飛行機を戦機に投し飛行場に運搬し発進せしむることは甚(はなは)た困難にして敵の制空圏外にある場合に於ても最小限四時間を要し敵の制空時に於ては夜間以外飛行機の運搬不可能にして攻撃時機は払暁と限定せらるるに至(いた)り敵機動部隊を好機に投し攻撃し得さるは必然なり之(これ)か欠点を打開する為(ため)には飛行場それ自体を秘匿せさるを得す而して広大なる飛行場を敵に発見せられすして建設する為(ため)には地形特に有利なるを第一条件とす之か為(ため)有ゆる機関及部隊を動員して適地を調査すると共に秘匿飛行場の構想(別紙第四参照)に各作業部隊の創意を凝(こら)し四月以降左記飛行場の工事に着手せり」

 陸軍秘匿飛行場は、香川県下では、一九四五年春以降、三つの陸軍秘匿飛行場が造成されていました。屋島飛行場(高松市古(ふる)高松(たかまつ))、国分飛行場(綾歌郡端(はし)岡村(おかむら)、現在高松市国分寺町端岡)、丸亀飛行場(綾歌郡坂本村・飯野村(いいのむら)、現在丸亀市坂本・飯野)が、それです。
 三飛行場とも、台地や山の南側の平野を東西に走る千五百メートル以上のほぼ直線のコースを持つ既存の道路を拡幅・延長したものでした。
話をアメリカ軍機の一九四四年五月二十八日の空中写真のことにもどします。
陸軍高松飛行場を北上して屋島の南、古高松のあたりを拡大してみました(「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の一部)。


 斜めに走っているのが観光道路(国道二十二号。現・県道百五十五号)です。観光道路は、国道二十二号(徳島~高松)のうち高松市内と観光名所の屋島を結んでいました。幅員は十メートルで、真ん中七メートルがコンクリート舗装、左右一・五メートルずつが砂利敷きでした(国土交通省四国地方整備局香川工事事務所編『道路グラフィティ 観光道路はこうして作られた 土木技術の変遷』。国土交通省香川工事事務所編。二〇〇一年)。
南部の屋島神社の参道とクロスする所の両側がふくらんでいます。
「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」を地理調査所「二万五千分一地形図 徳島一四号高松ノ四 高松北部」(一九四七年十月三十日)、地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ三 丸亀」(一九四八年四月三十日)に落としました。
ふくらみかたがよくわかるようになりました。

 「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」を現在の地図にも落としてみました。

 

 この膨らんだ道路が陸軍屋島秘匿飛行場の滑走路です。
 陸軍屋島秘匿飛行場については前出の『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』に載っています。
 アメリカ軍は、この飛行場をキライ飛行場と呼んでいた(帰来は古高松の地名)。
 「K.キライー北緯三十四度二十分、東経百三十四度一分:
 分類: MLG
 場所: 高松から東へ三マイルの一号線の最近改修された箇所の広げられた部分にある。
 飛行場は、建設中で、西南西の端へ向かって二千八百五十フィートの未舗装路であり、水はけが良い。
 滑走路:東北東から西南西へ四千八百二十五フィート[千四百七十・六六メートル]×百フィート。西南 西へ千二百フィート拡張可能。建物や分散地域はない。
 地形上の障害物:一マイル北に標高九百六十フィートの丘、二マイル南東に標高九百四十五フィートの丘。」
  『高松空襲戦災誌』に、こう記されている。
  「屋島飛行場は、飛行場を秘匿している屋島神社参道の西側の畑を整地拡張した。また、参道を出た付近の観光道路を約千㍍にわたって拡張し、戦闘機が離着陸できるようにした。
 これは本土決戦の際、特攻機の中継離着場になるとともに、参道に秘匿疎開した飛行機を、高松飛行場まで運ぶことなく、直ちにここから発信できるようにしたものと思われる。」
 当時の地図を見ると、屋島秘匿飛行場造成地の道路の左右には建物もあったが、ほとんどが水田でした。屋島神社の参道は、屋島の南部を横切る観光道路につながっていた。
複数の当時を知る地元の人の話で以下のことがわかりまりした。
 観光道路が屋島神社の参道がクロスする所から北の屋島神社参道の両側は松林でした。
 松林の間に土を切りこんだ掩体(えんたい)壕(ごう)がいつくもつくられていて、一つに一機、飛行機が隠されていました。
 屋島秘匿飛行場造成中の観光道路の上にもヨシズで隠された飛行機がおいてありました。
 また、自分のうちの田んぼに大きな穴が掘られ、そこから滑走路造成のための土をとっていかれたと語る人もいます。
 古高松地域は、どんな所だったでしょうか。
 観光地の屋島があり交通の便利な地域で高松琴平電鉄、国鉄高徳線が東西に通じていました。一九二五年、高徳線開通時の『屋島駅案内』は当時をこう伝えています。
 「高松駅から西南に迂回して、緑滴る赤塔山のむ隧(ずいどう)道を出た汽車は、春夏の別なく訪れ来る、幾万とも知れぬ観光の推賞を恣(ほしいまま)にせる天下の名園栗林を後に、木太・春日の平野を疾走する。新川鉄橋の轟然たる響をあとに、古高松村なる屋島駅に着く。(中略) 沿線牟礼(むれ)は郡内随一の大村であって、屋島は全国的に有名な製塩地であり、屋島駅の所在地なる古高松村は、県下第一の耕作地所有村である。」(古高松郷土誌編集委員会編『古高松郷土誌』。高松東部農業協同組合古高松支所。一九七七年)。
 屋島には、屋島登山鉄道のケーブルが(一九二九年四月運転開始。屋島山麓~屋島山頂)、近くの八栗山にも八栗登山鉄道のケーブル(一九三一年二月十五日開業。八栗登山口~八栗山上間)がありました。
 しかし、アジア太平洋戦争が始まり、八栗登山鉄道のケーブルは、一九四三年、不急不要路線として運転を休止し軌道などは供出されました。屋島登山鉄道のケーブルも、一九四四年二月十一日、不要不急路線として休止、資材を供出しました。
 一九四五年一月には、電気軌道の八栗~志度間の鉄路も軍需資材として撤去されました。
 周辺の軍事施設としては、防空監視のために高松市内の香川県庁には防空監視隊が置かれていました。高松市内にも、その耳目となる防空監視哨(ぼうくうかんししょう)が徴兵ビル屋上に置かれ、近隣の木田郡牟礼村(むれむら)の御剣山にも防空監視哨(ぼうくうかんししょう)が置かれていました(香川県警察本部香川県警察史編集委員会『香川県警察史』。一九五七年)。
 陸軍屋島秘匿飛行場づくりは、いつからはじまったのでしょうか。
 『高松空襲戦災誌』は「これらの作業は、昭和二十年[一九四五年]春ごろから開始され、林村の飛行場作業に当たっていた高松中学校の生徒が、付近の住民と共に作業に従事した。」としています。

 「工事は道路を滑走路幅に広げ、両側に道路と平行して深い溝を掘って、その土を道路との間に盛りあげ、同じ高さにして固めていった。
 基礎には、牟礼や庵治から手ごろな大きな砕石を運んできて敷石した。」
 牟礼町史編集委員会『牟礼町史』(牟礼町。一九九三年)には「太平洋戦争末期には、高松町から春日町にかけては飛行機の滑走路として使用するため[観光道路]沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られた)。」とあります。
 屋島風土記編纂委員会『屋島風土記』(屋島文化協会。美巧堂。二〇一〇年)にも、屋島秘匿飛行場のことが書かれています(この項の著者が、一九四五年四月に屋島国民学校に入学したころのことだといいます)。
 「当時、屋島神社参道や観光道路脇には、本土決戦に備えて戦闘機が隠す様に置かれ、新川から東行きの道路沿いは朝鮮からの労働者や勤労奉仕の学生達で道路拡張が行われていた。」
 陸軍秘匿飛行場は、空から見てもわからないようにと偽装工作がやられていました。
 屋島秘匿飛行場の場合は「拡張した部分は芝でおおい、周囲の田畑と見分けがつかないようにした。」(『高松空襲戦災誌』)
 高松中学校の三年生の水原良昌さんも屋島秘匿飛行場づくりに動員されました。一緒に動員されたのは三年生全五クラス。五月中旬から一か月少々でした。
  「屋島は、東照宮の馬場先附近の約一キロにわたる旧十一号線沿いであった。道路下の水田で掘った土をモッコで担いで運ぶ作業が中心であったが、幾日間かは庵治の丸山峠まで歩いて石の採集に往復する事もあった。太い竹竿でモッコ担ぎを連日続けていると両肩が青く赤く腫れあがって痛んだ。そのうちに血膿が出て来たらどうしょうかと真剣に心配した程であるが顔をしかめながら頑張った。」(『香川県医師会誌』百五十九号)。
 高松第一中学校(高松市)の生徒も動員されています。
 高松第一中学校の『昭和二十年度[一九四五年度]教務日誌』(高松市歴史資料館蔵)によると同校生徒は五月十八日から、ここの工事に動員されています。
 この飛行場は、終戦時も建設中でしたが、私は、少なくとも六月には使用可能だったと推定しています。
 高松第一中学校の生徒たちの、この飛行場づくりへの動員が五月三十一日で終わっていること、七月四日のアメリカ軍機の高松空襲のときには標的の一つになっていたことなどからです。
 アメリカ軍が空中写真を撮ったのと同じ日、五月二十八日の航空総軍の命令書も、私の、その推論の根拠の一つです。
 それは、「帥(すい)作命丙第四十号 航空総軍命令 [一九四五年]五月二十八日 一〇、〇〇 東京」です(防衛省防衛研修所戦史研究センター蔵)。「軍事機密」の判が押されています。「航空総軍司令官 河邊正三」名の命令書で、「下達法」は「(1FA)、三航教、設練ニ要旨電報(電話)後印刷交付」。「報告(通報)先」は「大本営、陸省(1FD、6FA、11FD、下、浜、明 KFD、1SA、2SA、11HA、15HA、大阪、広島、善通寺帥)となっています。
 「一、 航空総軍ハ秘匿飛行場ヲ増設セントス
 二、  第一航空軍司令官ハ六月末概成(がいせい)七月末完成ヲ目途(めど)トシ左記秘匿飛行場ヲ整備スヘシ
 左  記
 三本木 (青森県三本木町附近)
 六 郷 (秋田県六郷町附近)
 金ケ﨑 (岩手県金ケ﨑西方約四粁(きろめーとる)高谷野原)
 青野原 (兵庫県北條東南方約四粁)
 神 野 (兵庫県加古川東北方約四粁加古川川原)
 行 幸 (岡山県和気町西南方約十二粁)
 又(また)第三航空教育隊ヨリ将校ノ指揮スル人員各々(おのおの)約一、〇〇〇名ヲ速(すみやか)ニ松山及(および)丸亀新設飛行場ニ派遣シ概(おおむ)ネ七月中旬迄(まで)夫々(それぞれ)中部軍管区経理部松山出張所長及航空総軍経理部長ノ指揮ヲ承ケシムヘシ
 三、陸軍航空基地設定練習部長ハ現ニ各軍管区ニ派遣中ノ指導班ヲシテ前項新設飛行場ノ設定ニ関シ第一航空軍司令官ニ協力セシムヘシ
 四、航空総軍経理部長ハ六月末概成七月末完成ヲ目途トシテ丸亀(香川県)国分(香川県)及倉吉(鳥取県)附近ニ秘匿飛行場ヲ整備スルト共ニ第二項第一航空軍司令官ノ実施スル秘匿飛行場整備ヲ援助スヘシ(後略)」
 香川県の陸軍秘匿飛行場では、丸亀、国分の造成をと出てきますが、屋島の名はありません。
 屋島は、この時点で使用できる見込みがたっていたのではないでしょうか。

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2012.04.28

一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 五 牟礼(むれ)の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと

一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 五 牟礼(むれ)の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと

 【牟礼の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと】

 陸軍屋島秘匿飛行場の先に牟礼村があり、そこでは倉敷飛行場高松製作所(高松市)の分散式半地下の工場がつくられていました。
 倉敷紡績株式会社社史編纂委員『回顧六十五年』(倉敷紡績株式会社。一九三五年)の五百九十三ページに書いてあります。
 「わが社の坂出工場は昭和二十年[一九四五年]の初めから『倉敷飛行機株式会社坂出製作所』として転換し、木工部品の生産を行つた。
然るにその年の三月、米軍の硫黄島進出以来、日本全土に対する空襲は熾烈(しれつ)となり、軍需省は、遂に高松工場の工場疎開を指令した。そこで疎開地として香川県牟礼村を選定し、こヽに分散式半地下工場の建設に着手したが……」
 『高松空襲戦災誌』にも、つぎの記述がありました。
 「……訓練用飛行機を製作していた工場に、倉敷飛行機株式会社高松製作所(所長岡内勇)があった。この会社は、昭和十八年十二月四日、高松に設立中の東京飛行機高松製作所(社長木下耶次)を吸収して、松島町(現在の松島商業高校とその付近)の紡績工場を飛行機工場に転換したものであった。
 東京飛行機は、羽田と調布に本社と工場を持っていたが、遊休中の倉敷紡績高松工場を使用して、飛行機工場の設立を計画し、昭和十八年四月ごろの高松市朝日町に事務所を開設し、十一月三十日に朝日町四百八十六番地に、工員で構成した東京飛行機高松青年学校を設立して、県から許可を受けた。
 しかし高松製作所は倉敷紡績に買収され、社名は東京飛行機高松製作所として十二月四日発足したものの、翌十九年十月には倉敷飛行機に改称された。
 工場は防諜上、看板を『八州第八〇一工場』とした。
 市内の高等女学校生徒の勤労動員もあって、昭和十九年末ごろには一号機が完成し、翌二十年七月四日の空襲で工場が焼失するまでの期間に、およそ二、三十機が製作された。
 飛行機は、複座式の中等練習機(俗に中練・赤とんぼ)で、機体を軽くするため、表面は麻の布張りをしてあった。でき上がった練習機はトラックで牽引輸送するために、主翼をはずして、香川県多肥村の組立工場(現在の雪印乳業およびその付近)に運び、ここで組み立てて格納した。そして誘導路を通って高松飛行場に運び、試験飛行の後、各地に空送されて行った。戦争末期になると、この練習機も本土決戦の際に、敵上陸用船艇を攻撃する最後の特攻機として改装された。
 全国各地で軍需工場の爆撃が開始されたころ、この工場も疎開することになり、木田郡牟礼村羽間(はさま)に地下工場建設計画が立てられた。
 昭和二十年五月十六日、工事に着手したが、ほとんど進行しないうちに終戦となった。……」
 この記述によると倉敷飛行機の牟礼村の地下工場は、アメリカ軍機が空中写真を撮ったときには、すでに着工していたようです。
 具体的には、どこに、どんなふうに工場がつくられていたのでしょうか。
 ことし一月三日に、高知市の、ひろめ市場で北海道の大学院の若い先生と交流しました。牟礼の出身の人です。
 このかたから牟礼の房前(ふささき)に大規模な戦争壕があったということを聞きました。
 そのことを私のブログで発信すると、それを見た牟礼のブロガーが、その壕のことを、どんどん調べてくれて壕の跡も発見し、地元の人の聞き取りもしてくれました。「この人も聞いてみたらどうか」というメールもいただきました。
 私も彼の跡を追う形で現地を歩きました。
 まず地下工場は、どこにつくっていたのでしょうか。
 私は、少なくても、その一つは房前の壕群だと思います。
 この壕群は、戦後、「防空壕」跡とされてきたようです。
 二〇〇五年四月十四日付の読売新聞、香川版に「防空壕跡 危ない」という記事が載っています。
 「牟礼町は、同町大町の約3万平方㍍の空き地に地下壕があるとの記録が残っており、この日、職員4人が現場で出入り口の場所や大きさを確認した。調査では、4つの出入り口が既に土でふさがれ、1つは鉄柵が付けられたうえ、土がかぶさって約20㌢のすき間しかなかった」
 牟礼町、高松市の調べた特殊地下壕、アジア太平洋戦争中の壕が、どこに残っているかという資料を見ると、牟礼では、特殊地下壕は、房前にしかありません。
 資料を見ると、房前の突端、源平の里むれ、その先の高松市立房前公園、その下でした。
 当時は、標高二九・一六メートルの山で、東側に、この山を取り囲むような形で琴電志度線が、とおっていました(ただし、当時は、前述したように線路は取り払われていました)。
 公園の造成のために高松市が壕をつぶしていました。
 壊された壕がどんな形だったのでしょうか。
 二〇〇五年五月の牟礼町企画計画課長の香川県土木部都市計画課長あての「特殊地下壕緊急調査について」の「事務連絡」の文書があります。
 こんな地図が添付されています(天地をカットしました)。

 住宅地図を見ると上の「■■宅」、「■■宅」は、どこのお宅かわかります。
 私は、この二つのお宅を訪問しましたが、いまでも、この二つのお宅の裏には壕の入口跡があります。
 ほかにも一つ出入り口の跡があります。
 高松市は、二〇〇七年八月四日、この牟礼町原六三二番地他に高松市立房前公園を設置します。その建設工事のための設計図に、これらの壕の形が描かれていました。
 縦に幹線の壕があり、その左右に十本の壕がついていて、全体が行き来できるようになっています。
 出入り口は九か所あります。
 

 地元のかたの、お話を聞きました。
 ○ ある女性は、警察官が家にやってきて、その家の大きな鶏舎を貸してくれといってきた、朝鮮人たちを住まわせるということだ、鶏舎に床を敷き、そこで朝鮮人たちが暮らした、朝鮮人たちは房前の壕を掘っていた、壕つくりのために三交代で作業した、近くの料亭・朝日楼に陣取った日本人が工事の指揮をしていた…といいました。
 ○ 一九三九年十二月生まれの女性。
 「父方の祖父が、自警団のようなものの地域の責任者をやっていました。その祖父が、私に、その地域のことを指して『あそこでは木造飛行機をつくるための壕を掘っている。あのあたりには爆弾が落とされるだろうから、行くな』といっていました」
 ○ 終戦当時に牟礼国民学校六年生だった男性。
 「壕は五つありました。横は三メートルくらいありました。中でつながっている壕と、つながっていない壕がありました。
 いま跡が残っている琴電の脇の民家の後ろのものは、琴電の線路の脇の墓の所に抜けていました。
 その墓の所で壕を掘る作業をしていた朝鮮人たちが爆発物をつくっていました。直径七センチメートル、長さ二十五センチメートルくらいの円筒形の袋に火薬を入れていました。
 もう一つの琴電の脇の民家の後ろのものは、堀の所に抜けていました。
 いまある線路の近くのヤブの所からのものは、貫通していませんでした。
 もう一つ、それらの東側の大きな木のある所にもあって、貫通していたようです。
 壕の所からは線路が敷かれていました。トロッコで壕からの土を海岸に運んでいました。そこは、いまの御旅所のある所です。」
 ○ 当時、牟礼国民学校五年生だった男性。
 「房前の駅前(当時は駅は電車はとおっていませんでしたが)に小屋があって、そこに朝鮮人がたくさんいました。家族づれもいました。朝鮮人の子どもたちも国民学校に来ていました。
 壕は岩肌が見えていました。
 その朝鮮人たちが、そこで作業をしていました。
 私は壕に入ったこともあります。ほかの子たちも入っていっていました。海水浴の帰りに行ったと思います。朝鮮人だけで日本人はいなかったと思います。
 壕に入っていて『発破をかける』というのであわてて出たこともあります。
 私より一年上の男性がわが家の近くにいましたが、彼は、夏休みに、この壕をつくるための測量のポールたての手伝いをさせられたといっていました。
 この壕に入れるためだったと思いますが、琴電房前の駅前に、長方形のベルトのついた工作機械が複数置かれていました。
 工作機械は戦後も雨ざらしで放置されていました。」
 この工場が分散式だったというのにもひっかかっていました。
 その分散施設と思われるものが牟礼国民学校の講堂にあったようです。
 ○ 一九四五年四月から牟礼国民学校の先生をしていた男性が、同校の講堂で高等女学校の生徒たちが木工機械で木製の飛行機をつくっているのを見ています。
 ○ 牟礼国民学校の生徒だった男性が、こんなことを語ってくれました。
 「戦後、牟礼国民学校の講堂の物置に木工機械が幾つ置かれていました。
 それは、一メートル数十センチの高さの台の上に中心が空いて両側から木を締め付けるようなものです。横にはハンドルもついていました。」

 そのかたは、戦争中の竹やり訓練のことも教えてくれました。
 「私の住んでいた所の前の広場で女性たちが竹槍訓練をしていました。
 棒にワラを縛りつけたものを三つ土に刺して的にしていました。
 指揮していたのは退役した軍人です。
 『きおつけー!』と二十人くらいの女性を縦三列に整列させました。そのなかに母もいました。
 みな、先を尖らせた竹槍を持っていました。
 一人ひとり、『つっこめ!!』の命令で、『やーっ!』と、この的に竹槍をたてていました。ブスっとつきささりました。つっこんだら竹槍がバリっと折れた人もいました。」

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一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 六 そして、それから

 【そして、それから】

 五月二十八日の空中写真を中心にお話ししました。
 これ以降も香川県はアメリカ軍機の空襲を受け、多くの犠牲を強いられます
 卒論では、その空襲のとき、陸軍の航空部隊が迎撃しなかったのはなぜかということを書きました。
 そのころは、陸軍高松飛行場の航空部隊は、アメリカ軍が日本本土に上陸してくるときに、いっせいに特別攻撃をする、つまりアメリカの艦船などに体当たりする、そのために、じーっと隠匿されていました。
 もともと、陸軍高松飛行場は防空のためにつくられたものでしたが、防空の役割は果たしませんでした。
 これは、私の卒業論文にくわしく書いてあります。

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二〇一二年四月二十七日 金曜日 「一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」の内容をアップ。

二〇一二年四月二十七日 金曜日 「一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」の内容をアップ。

 晴れ。

 午後四時から平和資料館・草の家での会議に参加。
 夜、高知短期大学の授業。

 家に帰ってから前日の講演、「一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」の内容をブログにアップしました。

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これが自由民主党の憲法改正草案。

http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

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二〇一二年四月二十八日 土曜日 高知短期大学の存続を求める会の集まりに参加しました。

二〇一二年四月二十八日 土曜日 高知短期大学の存続を求める会の集まりに参加しました。
 
 晴れ。

 Nさん、入院。

 午前十一時から大学院生のYさんと話し合いをしました。

 
 午後一時から高知短期大学の存続を求める会の集まりに参加しました。
 

 山内神社などに行きました。

 その途中でK先生と出会って、いろいろ教えていたただきました。

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2012.04.30

二〇一二年四月三十日 月曜日 プリンターのインクが切れて……。

二〇一二年四月三十日 月曜日 プリンターのインクが切れて……。

 雨。

 授業は休み。

 雨が降っているので外出しませんでした。夫婦とも。

 ひたすら高知短期大学存続の運動のための事務作業。

 MIさんに『高知の戦争 証言と調査』の原稿をお願いしました。

 夜は、「あすの授業」のための資料づくり。プリンターのインクが切れて、あす回しになりました。

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