« 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その三 陸軍高松飛行場 | トップページ | 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 五 牟礼(むれ)の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと »

2012.04.27

一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 四 陸軍屋島秘匿飛行場

 【陸軍屋島秘匿飛行場】

 話を陸軍秘匿飛行場のことに進めます。
 沖縄戦の最中の四月から本土各地で秘匿(ひとく)飛行場の建設が開始されました。飛行機を隠すだけでなく、飛行場そのものを隠すためです。
 その間の事情が、第一復員局の『本土航空作戦記録』の「本土航空施設の梗概」の「昭和 二十年[一九四五年]四月以降の状況」に書かれています。
「昭和二十年四月に入るや硫黄島敵手に入り沖縄(おきなわ)又(また)敵の侵す所となるに及ひ本土決戦の機愈々(いよいよ)近きを思はしめ敵の本土上陸(じょうりく)迄(まで)航空戦力を絶対確保するの要切なるものあり
 一方B―29及艦載機の攻撃遂次熾烈(しれつ)となり航空機の生産低下するのみならず完成機も漸減する状況にして敵の本土上陸迄(まで)訓練を犠牲とするも現有機を絶対確保するの施策を要するに至(いた)れり
 之(これ)か為(ため)重要施設の地下移行を理想とするも資材及(および)労力之(これ)を許ささる為(ため)燃料弾薬は洞窟内に収容する他飛行機は取敢へす飛行場周辺の地形地物を利用して分散秘匿することとし(別紙第三参照)各部隊に対し一斉に之(これ)か実施を指令せられたり
 以上諸施策の徹底により六月末頃には敵艦載機の猛攻下に於(おい)ても損害を減少し概(おおむ)ね持久態勢を確立するを得たり
 右の如(ごと)く分散秘匿せる飛行機を戦機に投し飛行場に運搬し発進せしむることは甚(はなは)た困難にして敵の制空圏外にある場合に於ても最小限四時間を要し敵の制空時に於ては夜間以外飛行機の運搬不可能にして攻撃時機は払暁と限定せらるるに至(いた)り敵機動部隊を好機に投し攻撃し得さるは必然なり之(これ)か欠点を打開する為(ため)には飛行場それ自体を秘匿せさるを得す而して広大なる飛行場を敵に発見せられすして建設する為(ため)には地形特に有利なるを第一条件とす之か為(ため)有ゆる機関及部隊を動員して適地を調査すると共に秘匿飛行場の構想(別紙第四参照)に各作業部隊の創意を凝(こら)し四月以降左記飛行場の工事に着手せり」

 陸軍秘匿飛行場は、香川県下では、一九四五年春以降、三つの陸軍秘匿飛行場が造成されていました。屋島飛行場(高松市古(ふる)高松(たかまつ))、国分飛行場(綾歌郡端(はし)岡村(おかむら)、現在高松市国分寺町端岡)、丸亀飛行場(綾歌郡坂本村・飯野村(いいのむら)、現在丸亀市坂本・飯野)が、それです。
 三飛行場とも、台地や山の南側の平野を東西に走る千五百メートル以上のほぼ直線のコースを持つ既存の道路を拡幅・延長したものでした。
話をアメリカ軍機の一九四四年五月二十八日の空中写真のことにもどします。
陸軍高松飛行場を北上して屋島の南、古高松のあたりを拡大してみました(「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の一部)。


 斜めに走っているのが観光道路(国道二十二号。現・県道百五十五号)です。観光道路は、国道二十二号(徳島~高松)のうち高松市内と観光名所の屋島を結んでいました。幅員は十メートルで、真ん中七メートルがコンクリート舗装、左右一・五メートルずつが砂利敷きでした(国土交通省四国地方整備局香川工事事務所編『道路グラフィティ 観光道路はこうして作られた 土木技術の変遷』。国土交通省香川工事事務所編。二〇〇一年)。
南部の屋島神社の参道とクロスする所の両側がふくらんでいます。
「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」を地理調査所「二万五千分一地形図 徳島一四号高松ノ四 高松北部」(一九四七年十月三十日)、地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ三 丸亀」(一九四八年四月三十日)に落としました。
ふくらみかたがよくわかるようになりました。

 「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」を現在の地図にも落としてみました。

 

 この膨らんだ道路が陸軍屋島秘匿飛行場の滑走路です。
 陸軍屋島秘匿飛行場については前出の『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』に載っています。
 アメリカ軍は、この飛行場をキライ飛行場と呼んでいた(帰来は古高松の地名)。
 「K.キライー北緯三十四度二十分、東経百三十四度一分:
 分類: MLG
 場所: 高松から東へ三マイルの一号線の最近改修された箇所の広げられた部分にある。
 飛行場は、建設中で、西南西の端へ向かって二千八百五十フィートの未舗装路であり、水はけが良い。
 滑走路:東北東から西南西へ四千八百二十五フィート[千四百七十・六六メートル]×百フィート。西南 西へ千二百フィート拡張可能。建物や分散地域はない。
 地形上の障害物:一マイル北に標高九百六十フィートの丘、二マイル南東に標高九百四十五フィートの丘。」
  『高松空襲戦災誌』に、こう記されている。
  「屋島飛行場は、飛行場を秘匿している屋島神社参道の西側の畑を整地拡張した。また、参道を出た付近の観光道路を約千㍍にわたって拡張し、戦闘機が離着陸できるようにした。
 これは本土決戦の際、特攻機の中継離着場になるとともに、参道に秘匿疎開した飛行機を、高松飛行場まで運ぶことなく、直ちにここから発信できるようにしたものと思われる。」
 当時の地図を見ると、屋島秘匿飛行場造成地の道路の左右には建物もあったが、ほとんどが水田でした。屋島神社の参道は、屋島の南部を横切る観光道路につながっていた。
複数の当時を知る地元の人の話で以下のことがわかりまりした。
 観光道路が屋島神社の参道がクロスする所から北の屋島神社参道の両側は松林でした。
 松林の間に土を切りこんだ掩体(えんたい)壕(ごう)がいつくもつくられていて、一つに一機、飛行機が隠されていました。
 屋島秘匿飛行場造成中の観光道路の上にもヨシズで隠された飛行機がおいてありました。
 また、自分のうちの田んぼに大きな穴が掘られ、そこから滑走路造成のための土をとっていかれたと語る人もいます。
 古高松地域は、どんな所だったでしょうか。
 観光地の屋島があり交通の便利な地域で高松琴平電鉄、国鉄高徳線が東西に通じていました。一九二五年、高徳線開通時の『屋島駅案内』は当時をこう伝えています。
 「高松駅から西南に迂回して、緑滴る赤塔山のむ隧(ずいどう)道を出た汽車は、春夏の別なく訪れ来る、幾万とも知れぬ観光の推賞を恣(ほしいまま)にせる天下の名園栗林を後に、木太・春日の平野を疾走する。新川鉄橋の轟然たる響をあとに、古高松村なる屋島駅に着く。(中略) 沿線牟礼(むれ)は郡内随一の大村であって、屋島は全国的に有名な製塩地であり、屋島駅の所在地なる古高松村は、県下第一の耕作地所有村である。」(古高松郷土誌編集委員会編『古高松郷土誌』。高松東部農業協同組合古高松支所。一九七七年)。
 屋島には、屋島登山鉄道のケーブルが(一九二九年四月運転開始。屋島山麓~屋島山頂)、近くの八栗山にも八栗登山鉄道のケーブル(一九三一年二月十五日開業。八栗登山口~八栗山上間)がありました。
 しかし、アジア太平洋戦争が始まり、八栗登山鉄道のケーブルは、一九四三年、不急不要路線として運転を休止し軌道などは供出されました。屋島登山鉄道のケーブルも、一九四四年二月十一日、不要不急路線として休止、資材を供出しました。
 一九四五年一月には、電気軌道の八栗~志度間の鉄路も軍需資材として撤去されました。
 周辺の軍事施設としては、防空監視のために高松市内の香川県庁には防空監視隊が置かれていました。高松市内にも、その耳目となる防空監視哨(ぼうくうかんししょう)が徴兵ビル屋上に置かれ、近隣の木田郡牟礼村(むれむら)の御剣山にも防空監視哨(ぼうくうかんししょう)が置かれていました(香川県警察本部香川県警察史編集委員会『香川県警察史』。一九五七年)。
 陸軍屋島秘匿飛行場づくりは、いつからはじまったのでしょうか。
 『高松空襲戦災誌』は「これらの作業は、昭和二十年[一九四五年]春ごろから開始され、林村の飛行場作業に当たっていた高松中学校の生徒が、付近の住民と共に作業に従事した。」としています。

 「工事は道路を滑走路幅に広げ、両側に道路と平行して深い溝を掘って、その土を道路との間に盛りあげ、同じ高さにして固めていった。
 基礎には、牟礼や庵治から手ごろな大きな砕石を運んできて敷石した。」
 牟礼町史編集委員会『牟礼町史』(牟礼町。一九九三年)には「太平洋戦争末期には、高松町から春日町にかけては飛行機の滑走路として使用するため[観光道路]沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られた)。」とあります。
 屋島風土記編纂委員会『屋島風土記』(屋島文化協会。美巧堂。二〇一〇年)にも、屋島秘匿飛行場のことが書かれています(この項の著者が、一九四五年四月に屋島国民学校に入学したころのことだといいます)。
 「当時、屋島神社参道や観光道路脇には、本土決戦に備えて戦闘機が隠す様に置かれ、新川から東行きの道路沿いは朝鮮からの労働者や勤労奉仕の学生達で道路拡張が行われていた。」
 陸軍秘匿飛行場は、空から見てもわからないようにと偽装工作がやられていました。
 屋島秘匿飛行場の場合は「拡張した部分は芝でおおい、周囲の田畑と見分けがつかないようにした。」(『高松空襲戦災誌』)
 高松中学校の三年生の水原良昌さんも屋島秘匿飛行場づくりに動員されました。一緒に動員されたのは三年生全五クラス。五月中旬から一か月少々でした。
  「屋島は、東照宮の馬場先附近の約一キロにわたる旧十一号線沿いであった。道路下の水田で掘った土をモッコで担いで運ぶ作業が中心であったが、幾日間かは庵治の丸山峠まで歩いて石の採集に往復する事もあった。太い竹竿でモッコ担ぎを連日続けていると両肩が青く赤く腫れあがって痛んだ。そのうちに血膿が出て来たらどうしょうかと真剣に心配した程であるが顔をしかめながら頑張った。」(『香川県医師会誌』百五十九号)。
 高松第一中学校(高松市)の生徒も動員されています。
 高松第一中学校の『昭和二十年度[一九四五年度]教務日誌』(高松市歴史資料館蔵)によると同校生徒は五月十八日から、ここの工事に動員されています。
 この飛行場は、終戦時も建設中でしたが、私は、少なくとも六月には使用可能だったと推定しています。
 高松第一中学校の生徒たちの、この飛行場づくりへの動員が五月三十一日で終わっていること、七月四日のアメリカ軍機の高松空襲のときには標的の一つになっていたことなどからです。
 アメリカ軍が空中写真を撮ったのと同じ日、五月二十八日の航空総軍の命令書も、私の、その推論の根拠の一つです。
 それは、「帥(すい)作命丙第四十号 航空総軍命令 [一九四五年]五月二十八日 一〇、〇〇 東京」です(防衛省防衛研修所戦史研究センター蔵)。「軍事機密」の判が押されています。「航空総軍司令官 河邊正三」名の命令書で、「下達法」は「(1FA)、三航教、設練ニ要旨電報(電話)後印刷交付」。「報告(通報)先」は「大本営、陸省(1FD、6FA、11FD、下、浜、明 KFD、1SA、2SA、11HA、15HA、大阪、広島、善通寺帥)となっています。
 「一、 航空総軍ハ秘匿飛行場ヲ増設セントス
 二、  第一航空軍司令官ハ六月末概成(がいせい)七月末完成ヲ目途(めど)トシ左記秘匿飛行場ヲ整備スヘシ
 左  記
 三本木 (青森県三本木町附近)
 六 郷 (秋田県六郷町附近)
 金ケ﨑 (岩手県金ケ﨑西方約四粁(きろめーとる)高谷野原)
 青野原 (兵庫県北條東南方約四粁)
 神 野 (兵庫県加古川東北方約四粁加古川川原)
 行 幸 (岡山県和気町西南方約十二粁)
 又(また)第三航空教育隊ヨリ将校ノ指揮スル人員各々(おのおの)約一、〇〇〇名ヲ速(すみやか)ニ松山及(および)丸亀新設飛行場ニ派遣シ概(おおむ)ネ七月中旬迄(まで)夫々(それぞれ)中部軍管区経理部松山出張所長及航空総軍経理部長ノ指揮ヲ承ケシムヘシ
 三、陸軍航空基地設定練習部長ハ現ニ各軍管区ニ派遣中ノ指導班ヲシテ前項新設飛行場ノ設定ニ関シ第一航空軍司令官ニ協力セシムヘシ
 四、航空総軍経理部長ハ六月末概成七月末完成ヲ目途トシテ丸亀(香川県)国分(香川県)及倉吉(鳥取県)附近ニ秘匿飛行場ヲ整備スルト共ニ第二項第一航空軍司令官ノ実施スル秘匿飛行場整備ヲ援助スヘシ(後略)」
 香川県の陸軍秘匿飛行場では、丸亀、国分の造成をと出てきますが、屋島の名はありません。
 屋島は、この時点で使用できる見込みがたっていたのではないでしょうか。

|

« 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その三 陸軍高松飛行場 | トップページ | 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 五 牟礼(むれ)の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

 松山の池田です。
 戦跡シンポ、楽しみです。問合は来ているのですが、要綱が来ていないため、お知らせができない状況にあります。できるだけ早くお知らせください。
 あと、屋島飛行場ですが、6月に使用可能な状況にあったとは思えません。例えば、アルコール燃料の集積表にも出てきませんので。
 着工、完成順序としては、丸亀→国分→屋島の順ではないかと思われます。
 ただ、7月末には、ほぼ完成していたのではないかと推測されます。

投稿: 池田 | 2012.05.01 07:24

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/54574800

この記事へのトラックバック一覧です: 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 四 陸軍屋島秘匿飛行場:

« 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その三 陸軍高松飛行場 | トップページ | 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 五 牟礼(むれ)の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと »