« 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 二 鴨庄(かもしょう)の沖の空母しまね丸のこと | トップページ | 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 四 陸軍屋島秘匿飛行場 »

2012.04.27

一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その三 陸軍高松飛行場

【陸軍高松飛行場】
 

 五月二十八日の空中写真の下のほうに白いブロックがあります。これが陸軍高松飛行場です(いまは、香川インテリジェントパークとして香川県立図書館などになっています)。
 高松飛行場の造成は一九四四年一月から始まっていました。香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村(いずれも現高松市)にまたがる約二千七百ヘクタールの田畑や家屋を改廃して用地としました。高松飛行場建設予定地の林村内の移転対象家屋は、林村六百戸のうち二百七十五戸で、面積は百八十ヘクタールにおよびました。十二の神社や寺も移転対象でした。
 一九四四年五月二十八日には、まだ建設中でしたが、すでに航空部隊が配備されていました。
 アメリカ軍は、こうした空中写真を判読し、「飛行場リポート」に印刷し、配布していました。これは「飛行場リポート93」、陸軍高松飛行場を解説したものです。
 

 

下のほうの山、日山(標高一九一・七メートル)への飛行場からの誘導路は、この山の麓を半周しています。
 日山の右上の由良山 (標高一二〇・三メートル)にも高松飛行場から誘導路がのびていて、これも、この山の麓を半周しています。
 由良山の山中に「地下の戦闘施設」があると書きいれられています。
 二〇〇四年の高松市の特殊地下壕実態調査を見ると、由良山には、六つの壕が残っていました。
 最近、私が見たものでは、この山の中腹に出入口が二か所ある幅三メートル~四メートル、高さ二メートル余、長さ三十二メートルの壕が残っています。内部はコの字型につながっています。地元では防空壕としていますが、これは戦闘壕だと思います。
 飛行場の左側からのびている誘導路の先の四角いスペースのことを「修理用格納庫」としています
 これは、倉敷飛行機の飛行機組立工場です。現在、ここは高松市多肥町で警察機動隊があります。
 高松飛行場のことは、一九四五年八月十五日の終戦直後、同月三十一日発行の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の四国占領の手引きというべき本、『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』にも載っています。
 「C、高松ー北緯三十四度十七分、東経百三十四度四分(写真十五参照):分類:HLG
 場所: 高松の南南東四マイル、由良山の裾野にある春日川の一・五マイル西にある。標高五〇フィート。滑走路:飛行場は、建設中。寸法は、西南西から東北東が六千四百フィート、西南西から東北東五千五百フィート、北北西から南南東五千八百フィート
 路面は土で、水はけ良し。東西三千八百フィート×二百フィートの未舗装滑走路が一本ある。
 拡張は、北北西に二千フィート、西南西へ千三百フィート可能。
 建造物:兵舎十一、工場・事業所十五、小型格納庫二、格納床三が北東の角にある。ある程度大きな格納庫が一基、飛行場北西の四十五フィートの未舗装誘導路の端にある。
 分散地域:飛行場北端に開かれた分散地域。由良山のふもと周辺にダミーの誘導路とダミーの擁壁が建てられている。南には、ダミーの誘導路一本とダミーの擁壁十基が建造されている。
 アクセス方法: 十六フィートの未舗装路が高松の北に通じる。高松電鉄と道路一号が北北東へ一マイル先にある。
 地形状の障害物:すぐ南に標高三百九十八フィートの丘。一マイル東に六百三十六フィートの丘。二・二五マイル南東に標高八百四十フィートの丘。二・七五マイル東に標高三百四十フィートの丘。三・七五マイル北西に九百四十五フィートの丘。」
 滑走路をHLGと認定しています(HLGとは「大型爆撃機着陸場:大型爆撃機による使用が可能であること。あるいは、海面位で全長が少なくとも六千フィートである着陸場で、大型爆撃機に適していること」と、いいます。
 一フィートは、〇・三〇四八メートル、一マイルは千六百九・三四四メートルです。
 つぎは五月二十八日の空中写真、「40 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の一部の拡大図です。
 日山を半周する誘導路の内側に十か所、四角い空白地帯が並んでいて、その空白地帯の中に黒い点のあるものもあります。
 香川県木田郡三谷村(いまは、高松市三谷)の日山の麓に行ってみました。地元の男性(一九三三年五月生まれ)によると、この十の空白地帯には
 掩体壕(えんたいごう=飛行機の格納庫)があり、その中に実物大の模擬飛行機が置かれていたといいます。掩体外側が開いた「コ」の字形の土でつくったもので、高さは約二メートルあったといいます。南の端の四角い空白地帯には、現在、株式会社たまもが建っています(高松市三谷町二一の八)。
 防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室にも行きました(松山市の研究者の示唆をうけてのものです)。
 高松飛行場についての資料がありました。陸軍第十一飛行団司令部『飛行場記録』の「高松飛行場記録」です。終戦一か月後の九月十五日に調整されたものです。
 同飛行場を、「自重六屯(トン)以下ノ飛行機ノ使用二適ス」としています。
 「滑走地区」は、二千メートル×八百メートルの「整地輾圧(せいちてんあつ)」(整地してローラーをかけたということ)。「夜間着陸設備」は、「ナシ」。
 誘導路が三つあります。
 一つは、北に真っすぐのびていて、既存の道路とクロスして高松市街地に通じています。
 二つ目は、南に真っすぐのび日山に突きあたり日山の東西を半周しています。
 三つ目は、西北にのびながら四角いスペースや南北に長い地域・「一ノ宮撃留地」につながっています。「撃留地」は飛行機撃留地のことで飛行機を隠しておく所です。
 そもそも、陸軍は、なぜ、ここに飛行場をつくろうとしたのでしょうか。
 一九四六年十二月の第一復員局の『本土航空作戦記録』(防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵)の「付録第三 本土航空施設の梗概」には、こうあります。
 「……ガダルカナル撤退以来本土要域の防空強化の必要に迫られ十八年[一九四三年]末以来京浜、阪神、北九州等の防空飛行場着手に十九年[一九四四年]夏頃迄(まで)に概(おおむね)防空飛行隊の活動に支障なき態勢を整へたり一方第一戦線場より報せらるる航空戦の様相は内地に於(お)ける無防備なる各航空基地を強化するの急務なるを痛感せしめ軍官民相協力して各飛行場に誘導路掩体(えんたい)を構築せり」
 「一、 昭和十八年より昭和十九年三月に至る状況昭和十八年に入るや航空要員の急速なる大量養成に着手し之(これ)に伴(ともな)つて従来六十数個なりし内地の飛行場に更(さら)に三十個の飛行場を新設又は拡張(別紙第一参照)すべく四月頃より之(これ)か整備に着手せり
 同時期に於ける全般情勢は未た内地の防備を固むる必要なかりしを以て着工せる飛行場も総て教育第一主義とせられたり」
 同文書の「昭和十九年[一九四四年]四月より昭和十九年十月に至(いた)る状況」の項目を見ると「高松」、高松飛行場も、「防空飛行隊」の飛行場として「急速に完成する」ことがもとめられていたことがわかります。
 高松飛行場(林飛行場ともいう)の建設にあたっての県民の負担については「旧高松空港跡地の碑」(一九九六年三月。林地区開発協議会)の碑文が、経過を端的にのべています。。
 「太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和十九年[一九四四年]一月二十二日林村に晴天の霹靂(へきれき)ともいうべき事態が突発した。陸軍省から林村を中心に周辺三町村にまたがる約二百七十ヘクタールに飛行場を建設するとの連絡が入ったのである。時の三宅信夫村長は事の重大さのあまり顔面蒼白(がんめんそうはく)、絶句して言葉を失うほどであった。
 五日後の二十八日、林小学校[国民学校]講堂に指定区域内の関係者四百余人が集められ土地の買収家屋の移転を正式に要請された。永年住み馴れた土地家屋への愛着、近隣の親しい友との別れ、新しい土地での生活の不安などが心中に激しく交錯(こうさく)し、場内は寂として声もなかった。(中略)林村も 田畑の半分近くを失い 公共建物を含めた二百七十五戸の家屋を一挙に移転するに至(いた)っては、まさに崩壊寸前となり、村民の苦悩はその極みに達した。周辺市町村からの援助を得ながらも、縁故知人を頼って列をなして家財を運ぶ村民の姿は今も脳裏を離れるものではない。移転は四月末までの極めて短時間のうちに完了し、引き続き軍は飛行場の建設に着手した。作業はすべて人力に頼るため一般人はもとより学生・生徒まで連日数千人が勤労奉仕に動員された。」
 動員様子を示す資料を一つあげます。
 一九四四同年八月三十日、長尾町長が部落会長あてに出した「林飛行場勤労要員出動ノ件」の文書です(香川県『香川県 第十二巻 資料編 近代・現代史料Ⅱ』。一九八八年)。
 これは、町からは、これまで毎日十人宛て出動中ですが、きょう軍部から変更して毎日八十人の出動を命令されました、貴部落から男子三人(やむをえなければうち一人は女子でも可)を出動させてくださいという内容です。出動は九月一日から十月末まで。出動は軍部がトラックで送迎する、手当はない。ショベル、ツルハシ、大手鍬(くわ)、ハジョレンのうち一つを携帯すること、晴雨にかかわらず出動せよ、年齢は十六歳から六十まで(女子は、十六歳から五十歳まで)。出動員は、毎朝午前六時、町役場に集合のことなどとしています。
 当時の記録、戦後の出版物で、香川県立高松中学校、高松第一中学校、香川県立坂出工業学校、私立尽誠中学校の生徒たちが動員されていたことがわかりました。仏生山国民学校の上級生も年五月十三日からのべ二十三日動員されています。
 朝鮮人も飛行場づくりに使役されました(浄土卓也『朝鮮人の強制連行と徴用 香川県・三菱直島製錬所と軍事施設』。社会評論社。一九九二年)。
 八月には東西滑走路が完成しました。
 翌九月、この明野教導飛行師団(師団長・青木武三少将。教導航空軍司令部=軍司令官・菅原道大中将=が統括)の一部が、明野飛行部隊高松隊(隊長・森下清次郎少佐)として建築途上の高松飛行場に配備されました(高松空襲戦災誌編集委員会『高松空襲戦災誌』。高松市役所。一九八五年 など)。この部隊は、「明野陸軍航空部隊」、または「明野陸軍飛行部隊」とも、いいました。
 高松飛行場にいた兵隊の記録があります(檜=ひのき=與平『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。光人社。一九九五年)。
 檜大尉は一九四四年十一月に十七日午後、高松飛行場の陸軍明野教導飛行師団に教官として着任しました。
 檜教官たちの生徒は、五十人近くの陸軍士官学校五十七期生で、地上部隊から転科してきた少尉たちと、十人近くのビルマからの留学生たちでした。ここで、川田少佐が飛行場の責任者をつとめ、檜大尉が操縦教育の責任者となり、戦闘訓練をしました。十二月半ばになって射撃演習を始めました。
 高松中学校の二年生だった水原良昌さん(当時・高松市花園町在住)は、陸軍高松飛行場づくりのために一九四四年九月から動員されていた。その水原さんが、動員先での見聞を書いています(香川県医師会『香川県医師会誌』百五十九号。一九八八年)。
 「[木枯らしが吹きさらすころには]滑走路も次第に整備されて、九七式戦闘機と陸上攻撃機を中心とした航空隊がやって来てきた。学徒出身の学生出身者で編成されていて、教官の中には加藤隼戦闘隊の撃墜王として新聞で馴染みになっていた綾上出身の穴吹軍曹が曹長になって来ていた。赤白い顔色でやゝ小柄のがしっとした体格の人であった。(中略)
 空では教官機が引っ張る長い吹き流しを目がけて、急降下して突っ込む練習の繰り返しが毎日毎日続き、それを地上から時々眺めながらの土方作業が毎日毎日続いた。
 不時着機の種類も多くなった。零戦・彗星・一式陸攻・天山・鍾馗(しょうき)・飛燕・月光・新司偵・ダグラスDC3型等々、いずれも技術の先端を行く冷徹な美しい姿をしていた。」
 十二月二十六日、防衛総司令官隷下の第六航空軍(軍司令官・菅原道太郎中将)が新設されました 。これは、西南諸島方面にたいする航空作戦が主任務でした。高松飛行場の明野陸軍航空部隊は、第六航空軍の指揮下に入りました。
 一九四五年一月中旬、大本営は、本土外郊地帯で「決戦的努力」を継続して連合軍の本土侵攻を遅らせ、この間、本土の作戦準備態勢を確立するという「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定しました。
 二月からアメリカ軍機などの本格的な日本本土空襲が始まっていました。
 香川県も空襲に襲われました。二月七日、連合軍の飛行機が、香川県三豊郡観音寺町沖合に爆弾を投下した。二月十九日、アメリカ軍のグラマン戦闘機のべ八十機が、数十回にわたり、海軍航空隊のある三豊郡詫間町および観音町周辺を空襲、死者二人、重軽症者十人の被害がでました。
 アメリカ軍機が日本の空をにぎった情勢のもと、高松飛行場ではニセ飛行機をつくらせてそれを飛行場に置き、アメリカ軍機の攻撃をニセ飛行機に集中させるという作戦を打ち出しました。そのことを檜與平さんがのべています(『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』)。
 「明野飛行学校も明野教導師団として、作戦任務と教育任務を兼ねていたが、高松分校[明野陸軍飛行部隊]には、まったく戦闘力はなかった。
 『川田少佐どの。ニセ飛行機をつくって飛行場にならべましょうか』
 と、ある日、私[檜與平大尉]はそう申し出た。訓練用の飛行機を場外にうつし、ニセ飛行機に敵艦載機の攻撃を集中させようという私の意見であった。
 『いい考えだが、飛行機ができるか』
 『県庁へたのんで、付近の小学校[国民学校]から一機ずつ出品してもらって、品評会をやったらどうでしょうか。私が県庁へ交渉しましょう』
 と、私は、さっそくくるまを県庁へ飛ばした。細谷警察部長が即座に快諾してくれた。そして、定められた期日には、朝早くから近郊の小学校[国民学校]の生徒たちが、本物とまちがえるばかりの竹細工、ある木製の実物大の模型をつくって、先生に引率されて、荷車で運びこんできた。
 飛行場は、俄然、見ちがえるばかりの飛行機の数となった。
 細谷部長も臨席し、感謝祭をもよおし、私は編隊を指揮して、編隊高等飛行をして観覧させた。
 子供たちがつくってくれた飛行機の下にジュラルミン(破壊された飛行機)を置いて、敵のレーダーを
欺瞞(ぎまん)した。」
 実際に各国民学校でニセ飛行機がつくられました。 香川県下の各国民学校からの陸軍高松飛行場への最初のニセ飛行機(模擬飛行機)の「納品」が始まったのは三月で、その後も五月まで「納品」されました。

【仏生山国民学校】 香川郡仏生町の仏生山国民学校では三月三日に「模擬飛行機製作、日山の麓へ送りこむ。」(高松市立仏生山小学校『学校史 九十三年のあゆみ』。高松市立仏生山小学校。一九八五年)。
 【浅野国民学校】 「飛行機秘匿をカムフラージュするために、各国民学校競争で実物大の木製飛行機をつくらせる。浅野国民学校[いまの高松市香川町の浅野小学校]がコンクールで一等になった。/二十年[一九四五年]三月七日につくり上げ、大八車に乗せて持っていった(元教員・溝渕文子さん談)」(四国新聞社『昭和五十年史 別冊1 三十年目の証言』。一九七五年)。
 【古高松国民学校】 高松市立古高松国民学校では、三月五日に「献納模擬飛行機製作作業着手」、その後、「高等科の生徒が竹で模擬飛行機を作り林飛行場献納しました。それを敵機が攻撃した」といいます(高松市古高松小学校創立八十年誌編集委員会『創立八十年誌 高松市古高松小学校』。高松市古高松小学校創立八十周年記念事業実行委員会。一九八八年)。この『年誌』には、模擬飛行機の写真も掲載しています。
 【川岡国民学校】 川岡村立川岡国民学校でもニセ飛行機をつくりました。
 「(五月九日から)献納模擬飛行機を製作する。十六日までかかった。十七日に林村の飛行場まで運搬する。二十六日から二日間、高等科女子は模擬飛行機の偽装作業実施。」(川岡郷土誌編集委員会『ふるさと川岡』。二〇〇一年)。
 【一宮国民学校】 一宮村の一宮国民学校でも「二十年[一九四五年]五月頃には竹材を用いた献納模擬飛行機の製作が講堂で大人達によって行われた。敵の目をごまかすために実物そっくりに作られた模擬飛行機は、林飛行場付近に配置された。」(高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員会(2002):『いちのみや百年』。高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員。二〇〇二年)。
 【三渓(みたに)国民学校】 日山の近くの三渓国民学校(現:高松市立三渓小学校)の児童だった宮本晴義さんが、同国民学校で零式戦闘機に似せて実物大の模擬飛行機をつくった体験を書いています(三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会記念誌編集部『三渓百年 創立百周年記念誌』。三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会。二〇〇〇年)。「……旧講堂を作業場に充て、先生方を中心にして製作が始まったが、その助手として生徒の工作班が編成され、私たち五名が選ばれた。工作班は、学校で授業を受けることなく、牛熊先生指導のもと、連日、夜遅くまで製作に専念した。/一方、日山の山麓の田圃には、模擬滑走路が造成され、四、五十メートル間隔に掩体壕が数か所設置された。三渓小学校[国民学校]を始め、近隣の小学校[国民学校]から模型飛行機を運んできて、そこへ据え付けたのである。」
 春、高松飛行場の明野陸軍飛行部隊は、沖縄県で上陸戦を展開するアメリカ軍に対する航空機での特別攻撃のための操縦兵などの確保、飛行機の供給のためのものになりました。明野陸軍飛行部隊の航空兵たちが沖縄のアメリカ軍に向けての特別攻撃に参加したのは、陸軍第六航空軍の振武隊としてであった。
 高松飛行場づくりに動員されていた水原良昌さんは、同飛行場から特別攻撃隊が出撃する姿も見ています(『香川県医師会誌』百五十九号)。
 「昭和二十年[一九四五年]の三月中旬であったろうか、『今日特攻隊ガ出テイクント』と、どこからか伝えられて緊張したムードが流れていた。昼過、噂通りに遠目にそれらしい一隊の整列と儀式が眺められていたが、やがて九七式戦闘機と陸上攻撃機が三機ずつ並んで何回にも別れて離陸を始めた。誰言うとなく皆滑走路の横に走り並んで、帽子をふったりある者は長い竹竿にゲートルの紐(ひも)を結びつけて長い旗がわりにしてふったりもした。
 飛行機は次々と地上をあとにした後、上空できれいな編隊を組んで飛行場上空をゆっくりと何回も何回も低く旋回した。それからやゝ高度を高めながらずっと東方上空に編隊を移し、やがて三機編隊ずつ風のように滑走路めがけて降下して来て、決別の例であろうか左右に翼をふりながら滑走路上を低く飛んだ後、再び急上昇して後をふりかえる事もなくひたすらに西空に向かって消えて行った。
 当時はまだ十四・五歳の少年達も、死への出発とか訣別(けつべつ)とかいった限界状況を目前にして、言語では表現出来ないどうしようもない重苦しさを各自に感じたようで、しばらくは皆押し黙ったまゝであった。
 それから四・五日してから又(また)二〇機ほど飛び立って行ったのであるが、その数日後の新聞紙上に九州の前線基地からの報道として『出撃を待つ特攻隊長A中尉』の談話が載った。先日林から飛び立っていったA中尉であったが、沖縄に米軍が来襲する少し前の事である。」
 高等女学校三年生で飛行機の整備のために陸軍高松飛行場に動員されていた佐々木ミヨ子さんは同飛行場から特攻隊が出陣するのを見送っています。
 「ニッコリ笑って、○○他何名只今(ただいま)行きます。……帰って来ますとは誰も言いませんでした。一週間後には名誉の戦死が報じられました」。(角田緑編『敗戦五十周年記録集“私と戦争”』。香川県職員退職者会。一九九五年)。
 第六航空軍で沖縄に突撃攻撃して戦死したのは、四月一日から七月一日までで六百九十七人。一九一二年生まれ~一九二六年生まれの人たちです。
 沖縄戦の最中の四月八日、陸軍航空総軍が創設されました(通称号・帥=すい=。総司令官・河辺正三大将)。このとき航空総軍に第一航空軍、第六航空軍が編入されました。
 同月、航空総軍は、「航空総軍作戦計画の大綱」を策定します(『本土航空作戦記録』)。
 「一 作戦目的
 航空総軍は地上総軍及海軍と協同し本土に侵寇する敵軍を撃滅し本土枢要部を掩護す
 二 作戦方針
 航空総軍は一部の作戦を遂行しつつ七月末迄に決号作戦準備を概成し敵の本土侵寇に方りては努めて之を洋上に覆滅す戦術の重点は関東地方及九州地方とし決戦方面は大本営の指示に依る
 三 作戦要綱
 一、 決号作戦準備は七月末迄に之を概成し爾後努めて速やかに之を完成す其の重点は関東地方及九州地方とす
 二、 決号作戦遂行の主戦力は決と号部隊とす之か為為し得る限り多量のと号部隊を編成し之を各方面に分散秘匿しつつ戦力の向上を図り決戦に方りては決戦方面に集結投入して一挙に敵を覆滅す
 三、 決と号部隊に対する編成、教育之に必要なる飛行場の新設又は補修整備所要飛行機其の他の兵器の整備等に関しては万遺憾なきを期す(以下、略)」
 「決と号部隊」は、本土決戦作戦のための航空部隊で、本土に上陸しようとするアメリカの船団を破壊するための特別攻撃隊のことです。
 このころのことを高松飛行場の檜與平大佐が書いています(『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』)。
 「……やがて陸軍航空の最高指導方針が示された。それは、二月中旬の敵機動部隊の本土空襲いらい、はじめてのことであった。
 その主旨は、本土上陸作戦(決号作戦)に備え、飛行機を温存することに徹する。したがってその方法としては、別命をうけた部隊以外は飛行機の隠匿(いんとく)につとめ、敵の空襲に対し、絶対に被害をこうむらないようする、というのであった。」
 「……まず、以上の命令にもとづいて、まず飛行場の近くにある由良山に横穴格納庫を建設する一方、飛行場から、無数の蛸足(たこあし)のような誘導路を新設することになり、高松中学校の学徒動員と、高松市民の勤労奉仕が、連日にわたってつづけられた。
 そして、将校生徒たちは、その激励にまわった。もはや訓練から決号作戦への準備にうつったのであった。」
 高松中学校の三年生になっていた水原良昌さんも誘導路つくりに動員されています(『香川県医師会誌』百五十九号)。
 「私達の[高松]飛行場での作業は[一九四五年]四月下旬で終わり、五月からは二週間程木太町へ、……」、「木太町の作業場は、旧国道一一号線の玉藻中学から南へ高徳線を横切って長尾街道に至る道路沿いであった。(中略)一面に麦畑が続く砂地でツルハシはあまり使わずスコップだけで掘れたものである。」
 水原さんへの聞き取りによると、木太町での作業は高松飛行場の誘導路づくりで、飛行場からの道路を観光道路につなぐ作業でした。
 誘導路づくりのことは、『高松空襲戦災誌』にも出てきます。
 「秘匿場所としては、屋島の屋島神社参道、太田の広田八幡、一宮村の香東(こうとう)川河原、太田町の大池附近などの松林の陰や由良山北麓に、上空から見えないように作ったおおいの中に数機ずつ隠した。また観光道路(旧国道十一号線)沿道の空地にも、よしずを立て掛けたり、木の枝でおおって隠した。機種は、九七戦・四八戦・双発連絡機などであった。」
 「由良山には格納庫が造られ、飛行場からタコ足のように誘導路が造られた。また、一〇㌔㍍も離れた屋島神社参道の松並木・太田上町の広田神社・一宮村の香東河原・太田町の大池周辺などの森林の中におおいをして隠した。九七式・四式戦闘機、双発連絡など、数十機に及んだ。」
 高松飛行場の建設は、民間業者がおこなっていました。しかし、同飛行場を教育訓練用飛行場から作戦飛行場にするため、軍の直営で工事をすることになり、五月中旬に伊丹飛行場にいた第百四十一野戦飛行場設営隊(隊長・川野真平大尉)約二百人が到着し、地元の勤労奉仕団とともに工事を開始しました。基礎整地ができていた東西の滑走路を舗装しました。規模は長さ約八百メートル、幅約五十メートルでした。設営隊は、飛行場のほか飛行場秘匿のために、由良山北麓をけずり、土盛しておおいをつくり、飛行場の秘匿場所に通じる数本の誘導路もつくりました(『高松空襲戦災誌』)。
 アメリカ軍機が空中写真を撮ったのは、このころでした。

|

« 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 二 鴨庄(かもしょう)の沖の空母しまね丸のこと | トップページ | 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 四 陸軍屋島秘匿飛行場 »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/54574686

この記事へのトラックバック一覧です: 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その三 陸軍高松飛行場:

« 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 二 鴨庄(かもしょう)の沖の空母しまね丸のこと | トップページ | 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 四 陸軍屋島秘匿飛行場 »