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2012.04.28

一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 五 牟礼(むれ)の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと

一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 五 牟礼(むれ)の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと

 【牟礼の倉敷飛行機の分散式半地下の工場のこと】

 陸軍屋島秘匿飛行場の先に牟礼村があり、そこでは倉敷飛行場高松製作所(高松市)の分散式半地下の工場がつくられていました。
 倉敷紡績株式会社社史編纂委員『回顧六十五年』(倉敷紡績株式会社。一九三五年)の五百九十三ページに書いてあります。
 「わが社の坂出工場は昭和二十年[一九四五年]の初めから『倉敷飛行機株式会社坂出製作所』として転換し、木工部品の生産を行つた。
然るにその年の三月、米軍の硫黄島進出以来、日本全土に対する空襲は熾烈(しれつ)となり、軍需省は、遂に高松工場の工場疎開を指令した。そこで疎開地として香川県牟礼村を選定し、こヽに分散式半地下工場の建設に着手したが……」
 『高松空襲戦災誌』にも、つぎの記述がありました。
 「……訓練用飛行機を製作していた工場に、倉敷飛行機株式会社高松製作所(所長岡内勇)があった。この会社は、昭和十八年十二月四日、高松に設立中の東京飛行機高松製作所(社長木下耶次)を吸収して、松島町(現在の松島商業高校とその付近)の紡績工場を飛行機工場に転換したものであった。
 東京飛行機は、羽田と調布に本社と工場を持っていたが、遊休中の倉敷紡績高松工場を使用して、飛行機工場の設立を計画し、昭和十八年四月ごろの高松市朝日町に事務所を開設し、十一月三十日に朝日町四百八十六番地に、工員で構成した東京飛行機高松青年学校を設立して、県から許可を受けた。
 しかし高松製作所は倉敷紡績に買収され、社名は東京飛行機高松製作所として十二月四日発足したものの、翌十九年十月には倉敷飛行機に改称された。
 工場は防諜上、看板を『八州第八〇一工場』とした。
 市内の高等女学校生徒の勤労動員もあって、昭和十九年末ごろには一号機が完成し、翌二十年七月四日の空襲で工場が焼失するまでの期間に、およそ二、三十機が製作された。
 飛行機は、複座式の中等練習機(俗に中練・赤とんぼ)で、機体を軽くするため、表面は麻の布張りをしてあった。でき上がった練習機はトラックで牽引輸送するために、主翼をはずして、香川県多肥村の組立工場(現在の雪印乳業およびその付近)に運び、ここで組み立てて格納した。そして誘導路を通って高松飛行場に運び、試験飛行の後、各地に空送されて行った。戦争末期になると、この練習機も本土決戦の際に、敵上陸用船艇を攻撃する最後の特攻機として改装された。
 全国各地で軍需工場の爆撃が開始されたころ、この工場も疎開することになり、木田郡牟礼村羽間(はさま)に地下工場建設計画が立てられた。
 昭和二十年五月十六日、工事に着手したが、ほとんど進行しないうちに終戦となった。……」
 この記述によると倉敷飛行機の牟礼村の地下工場は、アメリカ軍機が空中写真を撮ったときには、すでに着工していたようです。
 具体的には、どこに、どんなふうに工場がつくられていたのでしょうか。
 ことし一月三日に、高知市の、ひろめ市場で北海道の大学院の若い先生と交流しました。牟礼の出身の人です。
 このかたから牟礼の房前(ふささき)に大規模な戦争壕があったということを聞きました。
 そのことを私のブログで発信すると、それを見た牟礼のブロガーが、その壕のことを、どんどん調べてくれて壕の跡も発見し、地元の人の聞き取りもしてくれました。「この人も聞いてみたらどうか」というメールもいただきました。
 私も彼の跡を追う形で現地を歩きました。
 まず地下工場は、どこにつくっていたのでしょうか。
 私は、少なくても、その一つは房前の壕群だと思います。
 この壕群は、戦後、「防空壕」跡とされてきたようです。
 二〇〇五年四月十四日付の読売新聞、香川版に「防空壕跡 危ない」という記事が載っています。
 「牟礼町は、同町大町の約3万平方㍍の空き地に地下壕があるとの記録が残っており、この日、職員4人が現場で出入り口の場所や大きさを確認した。調査では、4つの出入り口が既に土でふさがれ、1つは鉄柵が付けられたうえ、土がかぶさって約20㌢のすき間しかなかった」
 牟礼町、高松市の調べた特殊地下壕、アジア太平洋戦争中の壕が、どこに残っているかという資料を見ると、牟礼では、特殊地下壕は、房前にしかありません。
 資料を見ると、房前の突端、源平の里むれ、その先の高松市立房前公園、その下でした。
 当時は、標高二九・一六メートルの山で、東側に、この山を取り囲むような形で琴電志度線が、とおっていました(ただし、当時は、前述したように線路は取り払われていました)。
 公園の造成のために高松市が壕をつぶしていました。
 壊された壕がどんな形だったのでしょうか。
 二〇〇五年五月の牟礼町企画計画課長の香川県土木部都市計画課長あての「特殊地下壕緊急調査について」の「事務連絡」の文書があります。
 こんな地図が添付されています(天地をカットしました)。

 住宅地図を見ると上の「■■宅」、「■■宅」は、どこのお宅かわかります。
 私は、この二つのお宅を訪問しましたが、いまでも、この二つのお宅の裏には壕の入口跡があります。
 ほかにも一つ出入り口の跡があります。
 高松市は、二〇〇七年八月四日、この牟礼町原六三二番地他に高松市立房前公園を設置します。その建設工事のための設計図に、これらの壕の形が描かれていました。
 縦に幹線の壕があり、その左右に十本の壕がついていて、全体が行き来できるようになっています。
 出入り口は九か所あります。
 

 地元のかたの、お話を聞きました。
 ○ ある女性は、警察官が家にやってきて、その家の大きな鶏舎を貸してくれといってきた、朝鮮人たちを住まわせるということだ、鶏舎に床を敷き、そこで朝鮮人たちが暮らした、朝鮮人たちは房前の壕を掘っていた、壕つくりのために三交代で作業した、近くの料亭・朝日楼に陣取った日本人が工事の指揮をしていた…といいました。
 ○ 一九三九年十二月生まれの女性。
 「父方の祖父が、自警団のようなものの地域の責任者をやっていました。その祖父が、私に、その地域のことを指して『あそこでは木造飛行機をつくるための壕を掘っている。あのあたりには爆弾が落とされるだろうから、行くな』といっていました」
 ○ 終戦当時に牟礼国民学校六年生だった男性。
 「壕は五つありました。横は三メートルくらいありました。中でつながっている壕と、つながっていない壕がありました。
 いま跡が残っている琴電の脇の民家の後ろのものは、琴電の線路の脇の墓の所に抜けていました。
 その墓の所で壕を掘る作業をしていた朝鮮人たちが爆発物をつくっていました。直径七センチメートル、長さ二十五センチメートルくらいの円筒形の袋に火薬を入れていました。
 もう一つの琴電の脇の民家の後ろのものは、堀の所に抜けていました。
 いまある線路の近くのヤブの所からのものは、貫通していませんでした。
 もう一つ、それらの東側の大きな木のある所にもあって、貫通していたようです。
 壕の所からは線路が敷かれていました。トロッコで壕からの土を海岸に運んでいました。そこは、いまの御旅所のある所です。」
 ○ 当時、牟礼国民学校五年生だった男性。
 「房前の駅前(当時は駅は電車はとおっていませんでしたが)に小屋があって、そこに朝鮮人がたくさんいました。家族づれもいました。朝鮮人の子どもたちも国民学校に来ていました。
 壕は岩肌が見えていました。
 その朝鮮人たちが、そこで作業をしていました。
 私は壕に入ったこともあります。ほかの子たちも入っていっていました。海水浴の帰りに行ったと思います。朝鮮人だけで日本人はいなかったと思います。
 壕に入っていて『発破をかける』というのであわてて出たこともあります。
 私より一年上の男性がわが家の近くにいましたが、彼は、夏休みに、この壕をつくるための測量のポールたての手伝いをさせられたといっていました。
 この壕に入れるためだったと思いますが、琴電房前の駅前に、長方形のベルトのついた工作機械が複数置かれていました。
 工作機械は戦後も雨ざらしで放置されていました。」
 この工場が分散式だったというのにもひっかかっていました。
 その分散施設と思われるものが牟礼国民学校の講堂にあったようです。
 ○ 一九四五年四月から牟礼国民学校の先生をしていた男性が、同校の講堂で高等女学校の生徒たちが木工機械で木製の飛行機をつくっているのを見ています。
 ○ 牟礼国民学校の生徒だった男性が、こんなことを語ってくれました。
 「戦後、牟礼国民学校の講堂の物置に木工機械が幾つ置かれていました。
 それは、一メートル数十センチの高さの台の上に中心が空いて両側から木を締め付けるようなものです。横にはハンドルもついていました。」

 そのかたは、戦争中の竹やり訓練のことも教えてくれました。
 「私の住んでいた所の前の広場で女性たちが竹槍訓練をしていました。
 棒にワラを縛りつけたものを三つ土に刺して的にしていました。
 指揮していたのは退役した軍人です。
 『きおつけー!』と二十人くらいの女性を縦三列に整列させました。そのなかに母もいました。
 みな、先を尖らせた竹槍を持っていました。
 一人ひとり、『つっこめ!!』の命令で、『やーっ!』と、この的に竹槍をたてていました。ブスっとつきささりました。つっこんだら竹槍がバリっと折れた人もいました。」

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