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2012.04.27

一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置 その一 アメリカ軍の空中写真から

【二〇一〇年四月二十六日、高松市文化財保護協会牟礼分会二〇一二年度総会】

 空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、分散式地下の飛行機工場…

 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置

                     藤原 義一

  【自己紹介】

「ふじはら・よしかず」と、もうします。六十五歳です。
 六十歳で四十年勤めた東京都の職場を退職して高知市に住むようになってから、この四年間、アジア太平洋時代の本土決戦期の四国の戦闘配置について調査しています。
 いまは、昼間は高知市内の民間の資料館、平和資料館・草の家の学芸員をしています。三月からの仕事ですが、四十人ほどのかたから戦争にまつわる品物を寄贈していただいて十数人のスタッフで「うちんく(わが家)の戦争」という企画展をやりました。広報担当らしきこともやっていて、二十日朝には香南市の山中で呉鎮守府第十一特別陸戦隊の砲台跡について記者会見も開催しました。四つのテレビ局、四つの新聞が取材してくれました。
 本を出すのが好きで、二〇〇九年一月から『高知の戦争 証言と調査』という小冊子を編集しています。いま、十七号と十八号を編集しています。昨年は妻と一緒に妻の父の戦争体験の本を出しました。妻の父は、小豆島の特殊潜航艇・蛟龍の艇長をしていて、訓練中にアメリカ軍機p51での機銃掃射を受け、生死の境をさまよいました。
 私は、退職してから夜の学校、高知短期大学社会科学科に通い、その勢いで、さぬき市の徳島文理大学文学部文化財学科に三年次編入をして、この三月に卒業。四月からは高知短期大学の専攻科に行っています。
 文化財学科では、卒業論文に陸軍高松飛行場、県下の道路を拡張してつくられていた三つの陸軍秘匿飛行場のなりたち、役割について書くことができました。この一月からは牟礼の倉敷飛行場の、分散式半地下工場について調査しているところです。

 【話のテーマ】

きょうは、この二年間の香川県での調査の一部を「空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、分散式地下の飛行機工場… 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」という題でお話しします。
 一九四五年五月二十八日に、アメリカ軍機が香川県北部の空中写真を撮っています。これを見ながら、当時の状況を追っかけていきます。
 そのころの空母しまね丸のこと、陸軍高松飛行場、陸軍屋島秘匿飛行場、倉敷飛行機の分散式半地下工場のことで、これまでにわかったことをお話しします。
 事実を語るだけで、理論づけのない話であることを最初にお断りしておきます。

【アメリカ軍の空中写真】

アメリカ軍機が一九四五年五月二十八日に撮影した香川県北部の写真(40 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000、41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST)があります。

 二〇一〇年三月、香川県にやって来て、卒業論文のための調査を始めましたが、四国新聞などに高松市の研究者が、こんな写真を入手したという記事が出ていたことを知り、その人に、この写真の入手方法を教えてもらいました。そして、国土地理院から手に入れました。

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