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2012年5月

2012.05.01

【エッセイ】「あきらめるなんて死ぬまでないから」。高知県の「夜間の二年制の大学」は、消滅させない。発展させていく。

 もう五月一日になりました。
 さっきからザ・ブルーハーツのDVDを観ています。
 「ブルーハーツのテーマ」の歌詞の一部に心を奪われました。

 何か変わりそうで眠れない夜
 君の胸は明日張り裂けるだろう
 あきらめるなんて死ぬまでないから

 僕は、しつこく僕に与えられた課題を追求していきたいと思っています。
 高知県の「夜間の二年制の大学」は、消滅させない。発展させていく。
 高知県立大学の学長がなんといおうと、高知県知事がなんといおうと、高知県議会の圧倒的多数の議員が冷酷な判断をしようとも。

 あきらめるなんて死ぬまでないから

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2012.05.02

二〇一二年五月一日 火曜日 高知短期大学の存続を求める学生の会のニュースが発行されました。

二〇一二年五月一日 火曜日 高知短期大学の存続を求める学生の会のニュースが発行されました。

 曇り。

 高知短期大学の存続を求める学生の会のニュースが発行されました。

 高知市の中央公園で開かれたメーデーに参加。

 Oさんが空襲のなかで生き残った三階建てのビルに案内してくれました。

 平和資料館・草の家で少し活動。

 夜、高知短期大学で二科目を受講しました。

 TPPについて勉強しました。 

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横浜市から高知市の夜の短期大学に。1年生の大黒=だいこく=春江さんの熱いメッセージ。

  「学生の会ニュース 2012.5.1 高知短期大学の存続を求める学生の会」に「横浜市出身の1年生・大黒(だいこく)春江」さんの記事が載りました。

 

 ワッ すごい、私も大学生に !!  (横浜市出身の1年生・大黒=だいこく=春江)

 4月、念願の大学生活がスタートしました。まるで夢のようです。
 神奈川県の横浜から来ました。
 60歳過ぎて仕事も一段落したときにふともう一度社会の見方.考え方を捉えなおしたいと思いました。特に昨年は「3月11日・大震災・原発災害」に対しどう立ち向かっていったらいいのか悩みました。自分の今までの生き方を大きく揺すぶられたのです。一生懸命働いて、子育てをして、人とのつながり地域のつながりなどなど…それなりにやってきたけどそれでよかったのかな…悩んでいるだけではだめだ、立ち止まらずに行動しようと被災地に向かい、ボランテイア活動に参加しました。
 でも、ますます考えさせられることが大きくなるばかり。こうなったら世の中のこと、自然のことをじっくり学びなおしてみようという気持ちになりました。
 そんな時、高知県の友人が私にぴったりの学校があると紹介してくれたのが高知短期大学でした。「ええ,うっそーっ」という言葉に友人は丁寧に答えてくれました。
 1.生涯学習の要求に応えて社会人特別入試制度がある。
 2.学習内容の充実(社会の基本となる経済・政治・法律等を中心に他の教科もそろっている。)                            
 3.学生数がほどよく、教えてくださる先生方と学生とのつながりが理想的。
 4.学費が高額ではなく、幅の広い人たちが学べるようになっている。 
 まだまだたくさんのことをあげてくれたが、どれをとっても感激するばかりでした。
 日本という国も捨てたもんじゃないな、高知県がこんなにがんばっているんだから、人生あきらめない!! と決心しました。
 ところが何と、こんな素晴らしい最高の学びの場が廃止になるって…一体どういうこと。
 私のような学びを求めている人たちがますます多くなっているこの時代、全国の手本、希望の光を消してしまうなんて考えられません。高知県だけの宝ではないのです。何としても存続を願うばかりです。
 いま、私は、高知短期大学生として毎日毎時間、先生がたの熱い講義を受け大学ノートにメモを取りながら学んでいます。どの科目も友人が伝えてくれたとおりこれからの時代に生きる学びをつくってくれています。一時間一時間 大切に受講することが高知短期大学存続につながる一歩となることを願いながら。

 http://blog.goo.ne.jp/gakuseinokai

 に、あります。

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二〇一二年五月二日 東京の陸軍気象部、高知市の小学三年生の槇村浩、高知市の空襲に持ちこたえた三階建てビル、高知市を撮ったアメリカ軍の空中写真。

二〇一二年五月二日 東京の陸軍気象部、高知市の小学三年生の槇村浩、高知市の空襲に持ちこたえた三階建てビル、高知市を撮ったアメリカ軍の空中写真。

 雨。

 弟に東京・横田の陸軍の気象部にいた人の話を聞きました。
 その人は滋賀県在住です。

 土佐山内家宝物資料館で、山内家が持っていた吉田豊道(のちの反戦詩人・槇村浩)作の『唱歌集』を見せていただきました。
 高知市の第六小学校の三年生のときの作品集です。

 高知市本町二丁目の一九四五年七月四日のアメリカの高知市空襲にも持ちこたえた三階建てビルの入居者にお会いして、お話を聞きました。
 当時は、蔵として使っていたとのことです。上が半円形の窓の外側には鉄板がはってあり、内側には鉄の棒が横に走っていたとのことです。

 一九四五年にアメリカ軍機が撮った高知県の写真を集めようと思い立ちました。
 いろいろ情報を収集しました。

 YOさんに戦後のアメリカ軍が高知市を撮った空中写真を見せていたただきました。
 朝倉の歩兵連隊の建物の配置がわかります。

 夜は高知短期大学へ。二科目、受けました。

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2012.05.03

【短歌】  「さみしいよー」 心がうなる 夜のこと。

「さみしいよー」 心がうなる 夜のこと

妻もいるのに

ネコもいるのに

 

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二〇一二年五月三日 陸軍船舶特別幹部候補生隊。【写真、一枚】

二〇一二年五月三日 陸軍船舶特別幹部候補生隊。

 曇り。

  午前八時半、高知駅発の高速バスで、松山市へ行きました。
 道後温泉駅で妻と別れました。
 僕は、小豆島の陸軍船舶特別幹部候補生隊で訓練し、その後、戦死した人の弟さん・Dさんに、お兄さんの話を聞くためです。

 Dさんのお兄さんのこと。
 大正十五年二月生まれ。ルーツは愛媛県の宇和島です。
 東京に住んでいました。昭和八年三月生まれのDさんも一緒に住んでいました。
 お兄さんは、東京・立川の第二中学校を卒業しました。
 大東亜戦争のさなかです。
 父は、早くに両親をなくし、たたきあげで会社の重役をやっていましたが、はやくから「この戦争は勝てん」と、いっていました。
 アメリカの工業力を知っていたんですね。
 「兵隊になるだけが国にご奉公じゃないぞ。技術を高めるのも立派な、ご奉公だ」とも、いっていました。
 お兄さんは勝てないことを承知していました。「アメリカ軍に対抗できるのはドイツ軍しかいないんじゃないか」と、いっていました。
 陸軍船舶特別幹部候補生隊の募集があり、そのお兄さんが志願して合格しました。
 入隊は昭和十九年四月か五月です。
 一期生です。
 小豆島にいました。
 その後、台湾からはがきが一通来ました。
 そして、戦死の公報が来ました。
 昭和二十年八月一日、フィリピンのラモン湾(ルソン島のマニラの東海岸)で戦死というものです。
 一期生の三千人うち十一人しか生き残らなかったのですが、生き残った戦友は、戦死したのは八月十一日、ラモン湾でだといっています。
 一方で、部隊長は、陸上に配置換えになって、七月末、どっかで戦死したといっています。

 Dさんに近くの湯築城(ゆづきじょう)跡を案内していたただきました。

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 いまは夜。
 僕は二階の書斎のパソコンで韓国映画「イルマーレ」に見入っています。
 三毛猫が近くで寝入っています。
 妻は一回の大きなデスクに向かって何やらやっていることでしょう。
 一緒に住んでいるのですが、それぞれが別の世界。

 「イルマーレ」の、セリフから。

  「私の会いたい人は、みんな遠くにいるわ」

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【短歌】 なぜかしら カモメを見たいと 想う夜

なぜかしら カモメを見たいと 想う夜 そのうち海辺を 走ってみるか

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2012.05.04

【石に刻まれた高知の戦争】 「錦二四三五」の「屈伸付天地」の碑 【写真二枚】

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【石に刻まれた高知の戦争】 「錦二四三五」の「屈伸付天地」の碑 【写真二枚】

 【一九四五年(昭和二十年)】

 四国八十八箇所霊場第三十二番札所の禅師峰寺(ぜんじぶじ。南国市十市三〇八四)の山にはアジア太平洋戦争の記憶が刻み込まれています。
 同寺の参道に向かう車道を登っていくと、右手にコンクリートの四角いかたまりがあります。
 そこに上って見ると四角い穴が開いています。
 トーチカの跡です。
 参道を登り、山門の向かいの石段を降ります。
 降り切って少し行くと道が二手に分かれています。
 左の小道にいくと、アジア太平洋戦争中につくられたと思われるタコツボのような壕(ごう)や陣地と陣地を結ぶ交通壕のようなものがたくさん走っています。
 そうした道脇の右手に石碑があります。
 表面には「屈伸付天地」、裏面には「昭和二十年八月十四日」、「錦二四三五」と掘り込まれています。
 「屈伸付天地(くつしんてんちにふす)」は江戸時代の水戸学派の儒者・藤田東湖(一八〇六年~一八五五年)の漢詩からとったものでしょうか。

 ……………
 屈伸付天地(くつしんてんちにふす)
 生死復奚疑(せいしまたなんぞうたがわん)
 生当雪君冤(いきてはまさにくんえんをそそぎ)
 復見張綱維(またこういをはるをみるべし)
 死為忠義鬼(ししてはちゅうぎのおにとなり)
 極天護皇基(きょくてんこうきをまもらん)

 (わが身のなりゆきは天地に任せたものだ。生きようが死のうが、もはや何の迷いもない。生きてあるならば藩公の冤罪をそそぎ、正気によって世道人倫が再び健全に輝く姿を示さねばならない。もし死を迎えるならば、正気はわが魂にあつまって忠義の鬼となり、天地のつききるまで皇国を護持するのだ。) 

 「錦二四三五」は、第十一師団歩兵第四十三連隊(編成地・徳島)のことです。
 天皇の国を守るために部署についていた陸軍部隊の敗戦を前にした思いを刻み込んだものです。
 第十一師団歩兵第四十三連隊のことを書いたサイトがあります。
 「昭和20(1945)年4月、第十一師團は陸亜機密第百五十號により本土決戦に備えた内地転用が決定され、4月7日、虎林を出発、5月、四国防衛の第五十五軍(四国軍管区司令官 原田熊吉 中将)隷下の中核部隊として高知沿岸部に配置、軍備を整えます。
 聯隊は師團の左地区隊として浦戸湾ー物部川に渡る海岸高地線の防衛を担当し、聯隊本部を長岡郡介良村に置き、陣地を構築します。
 8月15日、終戦の玉音放送、17日、停戦命令に接し、18日、軍命令により軍旗を奉焼、9月9日、復員完結しました。」(「大日本者神國也」)

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【石に刻まれた高知の戦争】 海軍施設建設のため墓地の移転を命じられて…… 【写真三枚】

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【石に刻まれた高知の戦争】 海軍施設建設のため墓地の移転を命じられて……。

 【一九四四年(昭和十九年)】

 高知市仁井田の県道14号脇の高知市三里(みさと)墓地公園の右手の角に「納骨塔」があります。
 土台に「昭和六十一年五月中旬 無縁佛納骨堂老朽崩潰ノ為同年六月建立ス 仁井田共有墓地管理会 会長 沖野音亀」と掘り込まれています。
 その上の石碑の正面には「納骨塔」とあり、残り三面にいわれが掘り込まれています。
 それによると、これは、高知市役所三里出張所長・細川恒久さんが一九四四年(昭和十九年)十一月に建立したものでした。
 こんな文章が掘り込まれていました。
 「池及[および]仁井田地域ニ海軍施設ノタメ区域内ノ墓地移転ヲ命セラレタル所]工事ノ急速ヲ要セシタメ墓地所有者ヲ精密ニ調査スルノ遑[いとま]ナク当時引取人ナキ墳墓ヲ発掘シ此所[ここ]ニ納骨ス」
 アジア太平洋戦争(一九四一年十二月八日~四五年八月十五日)下、日本帝国海軍は、高知市池、仁井田地域に浦戸海軍航空隊と高知海軍航空隊高知第二飛行場の建設しました。
 二つの軍事施設の建設時期からすると、ここに書かれている「海軍施設」は、一九四四年十一月一日に開隊した浦戸海軍航空隊跡のことのようです。
 高知市池地区に「浦戸海軍航空隊跡」の碑があります。
 一九八五年四月六日に甲種飛行予科練習生第十四期会、第十五期会、第十六期会が建立したものです。

 当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である。
予科練とは飛行予科練習生の略稱で旧海軍
航空機搭乗員である。この採用制度は昭和
五年に設定され全国より選ばれた少年たちは
よく鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮し
たが。連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊
となり、祖国の繁栄と同胞の安泰のみを願
いつヽ肉弾となり敵艦に突入し、その八割
が若桜で散華したのである。浦戸航空隊は
昭和十九年十一月一日開隊されたが、昭和
二十年五月に入り愈々本土決戦必至の戦況
のもと練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜
陸戦特攻訓練に終始身を以って国難に殉せん
と決するも予期せぬ終戦となり、当隊
司令堀内豊秋大佐指揮のもと整然と復員し
戦後四十年の今日を迎えたのである。
浦戸海軍航空隊は消滅したが、この地こそ
我が青春の一時期を鍛之励み共に死守せん
と決した終生忘れ難い心と励みのふるさと
である。故に記念碑を建立し戦没者の冥福
を祈り、戦争の悲惨さと平和と生命の尊さ
を後世に伝えるものである。

 碑文にあるとおり浦戸海軍航空隊は、途中から陸戦隊に変わり、呉鎮守府第十一特別陸戦隊になりました。
 高知の沿岸部の須崎、宇佐、浦戸、長浜、手結、室戸に陣地をつくっていました。
 いま、高知市十津四の二一の六の栗田健雄(くりた・たてお)さん宅の裏山・梶分山(かじぶんやま)に、同隊がつくっていた戦闘壕が二つ残っています。
 昨年十月、ことし四月に平和資料館・草の家研究員・福井康人さんがが発見して発表した香南市夜須の二つの手結砲台跡は、この特別陸戦隊のものです。
 この二つの砲台の弾薬庫には「化学兵器」(防御用)も多数用意されていました。
 この特別陸戦隊は、毒ガス戦も想定していたと思われます。

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【石に刻まれた高知の戦争】 アメリカ軍の高知市空襲で四人の子を失って……。 【写真二枚】

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  【石に刻まれた高知の戦争】 アメリカ軍の高知市空襲で四人の子を失って……。

 【一九四五年(昭和二十年)】

高知市種崎の種崎千松公園の種崎共有墓地に「田村 吉尾 霊碑」があります。一九七一年五月に建立されたものです。吉尾弁太郎さんと奥さんの美恵さんが建てたもののようです。
 こんな横面に、こんな俳句が掘り込まれています。
 
 戦争乃[の]
 爪跡残る幾星霜

 裏面に、こんな叙述がありました。

 吉尾 実 弁太郎長男 享年十五才
 吉尾晴子    次女 享年十三才
 吉尾正純    次男 享年十才
 吉尾光司    四男 享年六才
  右四名ハ大東亜戦争中昭和廿[二十]年七
 月四日米軍ノ無差別爆撃ニ因[よ]
 り高知市ハ大空襲ヲ受ケ市ノ八
 割ハ焼野原トナリソノ犠牲トナル

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2012.05.05

二〇一二年五月四日 金曜日 「石に刻まれた高知の戦争」を追って。【写真は自宅付近で見た夕日】

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二〇一二年五月四日 金曜日 「石に刻まれた高知の戦争」を追って。

 晴れ。

 午後からオートバイで「石に刻まれた高知の戦争」を追って南国市、高知市の五か所を走りました。
 途中、FUさんに何度も電話して、南国市の「その場所」を教えていたただきました。
 また、NAさんに電話して高知市の「その場所」に来ていただきました。

 「石に刻まれた高知の戦争」の記事を三つブログにアップし終わったら、ちょうど午前零時でした。

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二〇一二年五月五日 土曜日 また、「石に刻まれた高知の戦争」を追って。【写真、ほえるイヌたち】

二〇一二年五月五日 土曜日 また、「石に刻まれた高知の戦争」を追って。

 晴れ。

 朝からOさんの乗用車に乗せてもらって東洋町、室戸方面へ。Dさん、妻も一緒に。
 私は、行く先々で「石に刻まれた高知の戦争」の写真を五か所で撮影しました。
 帰ったのは夕方。

 写真は、東洋町で出合ったイヌたち。

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2012.05.06

【短歌】 昼間には ホーホケキョを 聴いてきて……。 

昼間には ホーホケキョを 聴いてきて 夜、ゲコゲコと 親しんでいる

 

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二〇一二年五月六日 日曜日 高知県黒潮町の「海辺のガラス工房」でグラスづくり。

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二〇一二年五月六日 日曜日 高知県黒潮町の「海辺のガラス工房」、Tシャツアート展。

 晴れ。

 計六人で、KAさんの乗用車で高知県黒潮町の入野の浜へ。
 まず、近くの「海辺のガラス工房」でグラスづくり。
 そこで、「うわーーっ。いい!!」と思ったグラスを買いました。
 そして、砂浜で開かれていたTシャツアート展を見ました。

 夜は、貿易論のレジュメづくり。

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【短歌】  「会いたい!」を 抑え込んでる 夜のこと 

 「会いたい!」を 抑え込んでる 夜のこと くしゅん顔、笑顔 見つめていたい 

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2012.05.07

【短歌】 不自由なく 幸せのはず この僕の 心の真ん中 ……。【あたたかいご指摘を受け、一部変更しました。】

不自由なく 幸せなはず この僕の 心の真ん中 空洞がある

「大丈夫?」 ひしゃげているかも しれないな 独りの部屋の 君のイメージ

「どのように 生きて死ぬのか」 哲学を 持たないままで 老いを迎える

それなりの 幸せ抱き 生きる術(すべ) 学べなかった 六十五年

 

 

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【石に刻まれた高知の戦争】 高知市の筆山(ひつざん)の「殉国三兄弟之墓」。

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  【石に刻まれた高知の戦争】 高知市の筆山(ひつざん)の「殉国三兄弟之墓」。

 高知市の筆山(標高一一七・九メートル)に「殉国三兄弟之墓」があります。
 筆山登山口(黒門登山口)を登っていると右手に「南嶺ハイキングコース 案内板」があります。その左手を降りて、二十メートルほど行くと左手に「植田家之墓」、「植田家先祖墓」があります。その区画の左隅にある墓碑です。
 殉国は、国家(天皇)のために身命を捨ててつくすことです。
 裏面に三兄弟のことが彫り込まれています。
 植田 守
 「昭和十八年一月三日
 東部ニューギニアブナ戦死
   行年二十四才」
 植田 明
 「昭和十八年四月三日
 ビスマーク海戦死
   行年二十一才」
 植田安秀
 「昭和二十年八月七日
 比島呂宗島戦死
   行年二十九才」

 ビスマークは、南太平洋、パプアニューギニア中北部にある火山島群のことでしょうか(主島はニューブリテン島)。
 呂宋島は、フィリピンのルソン島のことです。フィリピンの一番大きな島です。
 アジア太平洋戦争のさなかのことです。
 まず、守さんが二十四歳で戦死。
 その三か月後に、明さんが二十一歳で戦死。
 その二年四か月後に安秀さんが二十九歳で戦死。
 この墓が、いつつくられたのかは不明です。
 たぶん、もう戦争は終わっていたのではないでしょうか。
 つくったのは、ご両親だったでしょうか。
 その三兄弟の墓に「殉国」とうたっています。
 この三兄弟の戦死は何だったのか。心の底からの憤りが私には伝わってきました。

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二〇一二年五月七日 月曜日 高知市の筆山(ひつざん)の戦争。

二〇一二年五月七日 月曜日 高知市の筆山(ひつざん)の戦争。

 晴れ。

 平和資料館・草の家に行くと日中戦争のときの寄贈したいという女性がおとづれていました。いただいた「軍隊手帳」を見ると和知部隊で戦死されたかたでした。

 それから、草の家の館長とともに、その人の近くの戦争のころの資料をもっているらしい女性のお宅を訪問しました。

 高知市の筆山に登って戦死者の墓などを訪問しました。

 電話でNAさんに場所を教えていただきました。

 

 へろへろになって高知短期大学に到着。

 二科目を受講しました。

 KIさんが歩行練習を再開しました。

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2012.05.08

【短歌】 「疲れてて 寝てるだろうね 出ないよね」 ……。

「疲れてて 寝てるだろうね 出ないよね」 でも、かけてみる 三切り電話

 

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【ニュース】 第3回戦争遺跡保存ネットワーク四国シンポジウムが5月26(土)~27日(日)、香川県善通寺市で開かれます。

 「第3回戦争遺跡保存四国シンポジウム実行委員会、香川近代史研究会」が、第3回戦争遺跡保存ネットワーク四国シンポジウムへの参加を呼びかけています。開催要綱は、つぎのとおりです。

 ◆日 時 5月26(土)~27日(日)

 ◆場 所 香川県善通寺市 善通寺市民会館および周辺の旧陸軍第十一師団施設

 ◆参加費 500円

 ◆内  容

 ◎ 初日 5月26日(土)
 12:30 受付 善通寺市民会館 1階 講習室
 13:00 開会行事 全体会
 13:50 移動
 14:00 現地視察 旧陸軍第十一師団本部内の乃木資料館(陸自善通寺駐屯地広報の案内)及び自由散策
 15:00 偕行社 輜重隊 騎兵隊 護国神社 兵器庫及び師団開設当時からの店舗散策(善通寺郷土研究会 吉岡傳三郎氏の案内)
 16:30 終了
 18:00  交流会 善通寺グランドホテル内 蔵の匠(座敷) 会費5,000円
 ◎ 二日目 5月27日(日) 善通寺市民会館 3階 青少年レクレーション室
 9:00   開会
 各県からの発表 
 ○高知県 「高知県香南市に眠る2つの旧海軍巨大砲台戦争遺跡」 福井康人 
 ○愛媛県 「陸軍松山西飛行場の歴史と遺構について」 多田仁 池田宏信
 ○香川県  「高松空襲の跡」   喜田清
 ○香川県 「丸亀俘虜収容所に見る日独交流」 田村慶三
 11:00 討論
       閉会挨拶
 12:00  解散

 ◆その他 

 ◎会場【善通寺市民会館】 最寄駅および最寄インターチェンジ 
 JR土讃線善通寺駅下車徒歩2分  高松自動車道善通寺インターから車で10分

 ◎ホテル(金額・善通寺駅からの徒歩時間・善通寺インターから車での時間)
 ○善通寺グランドホテル(0877-63-2111) 4,800円  徒歩15分  車9分
 ○善通寺ステーションホテル(0877-62-6222) 4,500円  徒歩3分  車10分 
 ○チサンイン丸亀善通寺(0877-21-3711) 5,500円  徒歩は× 車で8分 予讃線丸亀駅からは車で15分
 ○ふれあいパークみの(0875-72-2601) 6,300円 車で15分 各種風呂・サウナ・プール有り 四国霊場71番札所入り口にあり 善通寺市隣接の三豊市内 

 ◎特記事項 

 27日、会場内での関連書籍やDVDの販売は可能です。

  ※ 懇親会に、ご参加の方は準備の都合がありますので、香川近代史研究会 森 まで事前連絡をください。
 電話0875-73-3440 携帯 090-2823-2541

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【データ】 高知の反戦詩詩人・槇村浩(まきむら・こう)の「間島(かんとう)パルチザンの歌」の詩碑のこと。

 一九七三年九月二十一日午後、高知の反戦詩詩人・槇村浩(まきむら・こう)の「間島(かんとう)パルチザンの歌」の詩碑の除幕式が高知市横浜のロイヤルホテル前でおこなわれました。
 碑面には、槇村の「間島パルチザンの歌」の冒頭の一小節が刻まれていました。
 除幕式の主催は、槇村浩詩碑建設実行委員会。この詩碑は、同実行委員会が、四年前から募金活動など準備をすすめていたものです。
 小雨の中、約五十人が集まりました。
 式では、日本共産党高知県委員長、日本民主青年同盟高知県委員長、槇村とともに活動した旧友があいさつ。日本社会党の代表や、作家の大原富枝さんのメッセージが披露されました。

 一九八九年四月二十二日、この碑が、いまの高知市の城西公園に移設されました。
 この日、午後三時から詩碑移転除幕式がおこなわれました。主催は、槇村浩五十周年記念事業実行委員会(西森茂夫事務局長)でした。
 詩碑移転にようする費用は、すべて寄付でまかなわれました。
 司会は、武市暢久さん。
 開会の言葉、あいさつは、信清悠久さん。
 高校生や若い後継者たちで詩碑が除幕されました。
 西森事務局長の経過報告。
 渡辺進、土佐文雄、井上泉、山原健二郎、島崎鋭次郎、鍋島啓子、須田若枝と横山龍夫・高知市長と島根県の大谷従二さんの祝電が披露されました。
 この詩の一節を国常光正さんが朗読。
 泥川石材店への詩碑作成感謝状の感謝状を贈りました。
 北岡照子さんが閉会の言葉をのべました。
 除幕式には、高知県知事からも祝電が寄せられました。
 この地は、槇村が三年間、捕えられていた高知刑務所の跡地です。

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2012.05.09

僕なりの反戦詩人・村浩さんへの接近。 高知の藤原義一です。

「MAKIMURA.doc」をダウンロード

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【ニュース】 橋下・大阪市長。こわすぎ。ひどすぎ。あせってるね。

  橋下・大阪市長ってこわーいい。

 http://www.youtube.com/watch?v=3OKlJeer0PQ&t=0m45s

  実は、彼は、かなりあせっている感じですねー。

 小心者が、弱点を突かれてゲッコウしているという図ですね。

 熱心な記者を「トンチンカンな記者」あつかい。

 あなたが「トンチンカン」すぎます。

 橋下さん、末路ですね。

 このMBSの記者のがんばりにパチ、パチ。

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2012.05.10

「高知市標高マップ」。わが家は一・六メートル、一・八メートル、一・九メートル、二・八メートル。

  高知市がホームページに「高知市標高マップ」を掲載しています。

  http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/12/hyoukou-map.html

 田辺島の、わが家には一・六メートル、一・八メートル、一・九メートル、二・八メートルの数字があります。
 川と田んぼに囲まれた地域です。
 万事休す。
 避難場所は一六・九メートルでした。

 驚いたのは市の中心部も似たような標高だったことです。
 県、市は、市の中心部に新しい公共施設を建てようとしていますが、場所を再検討したほうがよさそうです。

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二〇一二年五月八日 火曜日 USAで高知短期大学の同学年だった「おんちゃん」がゲートボールをしているのを発見。

二〇一二年五月八日 火曜日 USAで高知短期大学の同学年だった「おんちゃん」がゲートボールをしているのを発見。

 晴れ。

 土佐市宇佐へ。
 高知短期大学の同学年だったYさん(おんちゃん)がゲートボールをしているのを発見。
 宇佐へ来たわけを話すと、郷土史研究者のお宅へ案内してくれました。
 宇佐小学校へ。
 宇佐の忠霊塔へ。

 平和資料館・草の家に行ったら女性三人が昼食をとっていました。
 僕も、およばれしました。
 おいしかった。
 ありがとう。

 県立図書館で資料あさり。
 丸の内の事務所に行って資料あさり。

 高知短期大学へ。
 授業、二科目。
 Kさんと歩行訓練。

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二〇一二年五月九日 水曜日 僕のテラコッタ。顔がマンガチックで色気ぬきのヌード。【写真一枚】

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二〇一二年五月九日 水曜日 僕のテラコッタ。顔がマンガチックで色気ぬきのヌード。

 晴れ。

 「かるぽーと」へ。僕のテラコッタの作品を引き取りました。若い女性のヌードです。

 高知市内のYさん宅で高校時代の同学年の男性三人と懇談しました。
 
 テラコッタを書斎に飾りました。
 顔がマンガチックなせいか色気ぬきのヌードに仕上がっています。

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2012.05.11

二〇一二年五月十日 木曜日 高知へのアメリカ軍の空襲についての「すべて」を展示へ。

二〇一二年五月十日 木曜日 高知へのアメリカ軍の空襲についての「すべて」を展示へ。

 晴れ。

 

 午前十時前に、平和資料館・草の家に到着。

 NIさんらと資料の整理。

 

 昼休みに、女性四人、男性二人の六人で食事しました。

 未知の女性が、資料を寄贈してくれました。

 調査のために草の家に訪れた男性に、いろいろ教えていたただきました。

 七月の資料展に向けての打ち合わせに参加。

 僕たちは、高知へのアメリカ軍の空襲についての「すべて」を展示する担当になりました。

 高知短期大学の授業、英語に科目を受講。宿題、予習をしていなかったので恥ずかしい思いをしました。

 KIさんと歩行練習。

 

 家に帰って、あすの授業のためのリポートづくり。

 【追記】

 僕の新しいテラコッタについて、女性三人から手厳しい批判。

 乳房の位置が、本当は、もっと下。

 手足の骨格、筋肉の表現がなっていない。

 おっしゃるとおりです。

 トホホホホホホホ……。

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2012.05.13

二〇一二年五月十一日 金曜日 高知空襲の体験を聴かせていただきました。

二〇一二年五月十一日 金曜日 高知空襲の体験を聴かせていただきました。

 晴れ。

  短歌十首と短歌の批評の原稿を書き上げました。

 午後、高知市種崎でJIさんに高知空襲の体験を聴かせていただきました。

 夜は、高知短期大学で二科目を受験。

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二〇一二年五月十二日 土曜日 高知市の城西公園の槙村浩さんの詩碑の掃除。

二〇一二年五月十二日 土曜日 高知市の城西公園の槙村浩さんの詩碑の掃除。

 晴れ。

 高知市の城西公園の槙村浩さんの詩碑の掃除をしてくれている人たちがいました。
 
高松市からこられたKOさんのお話を聞かせていたただきました。
 一九四五年七月四日のアメリカの高知への空襲のときのこと(父が四国銀行上町支店の支店長だったということです)、終戦後に入って遊んだ高知城の壕のこと、上町支店に陣取ったアメリカ軍のことなどをうかがいました。

 平和資料館・草の家の総会。

 高知短期大学の地域経済研究会(高知知っちゅう会)の総会に参加。
 同会の懇親会に参加しました。

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二〇一二年五月十三日 日曜日 四万十市、四万十町の戦争碑。

二〇一二年五月十三日 日曜日 四万十市、四万十町の戦争碑。

 晴れ。

 NAさんがタケノコをごっそり持ってきてくれました。

 

 その彼の車に乗せていたただいて午前八時前、出発。四万十市、四万十町をめぐり戦争碑を探しました。

 家に帰りついたのは午後七時。

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2012.05.14

高知城には三、四つの防空壕がありました。【調査中。書きかえていきます】

 

 高知市の高知城には三つか四つの防空壕が掘られていたようです。

 きちんとした調査を始めています。

 五月十二日午後、まず男性からお話をうかがいました。

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2012.05.15

【ニュース】 「日米安保をこのまま続けていいのか」を問う国民的議論を 日本共産党が提起。

 「日米安保をこのまま続けていいのか」を問う国民的議論をと、日本共産党が提起しています。
 「日米安保条約をなくしたらどういう展望が開かれるか 全国革新懇総会 志位委員長の記念講演」です。

 ここで読むことができます。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-05-15/2012051509_01_0.html

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2012.05.16

二〇一二年五月十六日 水曜日 高知城にあった防空壕の跡を見ました。

二〇一二年五月十六日 水曜日 高知城にあった防空壕の跡を見ました。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。資料の整理。
 
 昼にNIさん、DAさんと近くの「草のや」で食事。

 午後一時、YAさんの案内で高知城にあった防空壕の跡を見ました。
 高知県庁のポンプ場の裏です。

 高知県庁、高知県立図書館に高知城にあった防空壕についての資料がないか問い合わせました。
 
 高知市内の種崎に資料を返しにいきました。
 JIさんがアメリカ軍に空襲で殺された四人のきょうだい、父、母、夫の写真を障害者手帳に入れて持ち歩いているのを知り、感激しました。

 高知短期大学専攻科の授業は、二時間続き。

  この間、黒潮町でつくったガラスのグラスができあがってきました。

 パソコンでの研究資料のゲットの法の実習でした。

 ところで、この日、例の高知空襲のときに焼け残った三階建ての倉庫のオーナーが、僕と毎日のように話している人だということがわかりました。

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【短歌】 「This is my chair.Will you move, please?」 話しかけ……。

「This is my chair.Will you move, please?」 

話しかけ 

ネコをどかせて 夜のパソコン
  

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二〇一二年五月十五日 火曜日 「日本の将来」についての講演。

二〇一二年五月十五日 火曜日 「日本の将来」についての講演。

 晴れ。

 高知市の一宮(いっく)の神社、寺へ。両方で、すっごい発見がありました。
 
 一宮のTEさんに高知城の、すべり山にあった防空壕について教えていただきました。

 平和資料館・草の家へ。

 高知短期大学の授業二科目を受けました。
 「沖縄」についての講義が、すごかった。

 帰ってからインターネットで「日本の将来」についての講演を聞きました。 

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二〇一二年五月十四日 月曜日 愛媛県にある日露戦争を経たあとに反戦の思いを刻み込んだ石碑の拓本。

二〇一二年五月十四日 月曜日 愛媛県にある日露戦争を経たあとに反戦の思いを刻み込んだ石碑の拓本。

 曇り、雨。

 郵便物を三つつくって発送しました。

 高知城の防空壕のことについて高知県の担当課に問い合わせ。てがかりはありませんでした。

 平和資料館・草の家にいって資料の整理。
 すごい拓本があることがわかりました。
 愛媛県にある日露戦争を経たあとに反戦の思いを刻み込んだものです。

 高知短期大学へ。
 ある女性と話していたら、高知市中の橋の空襲下で残った三階建ての鉄筋の倉庫は、彼女の夫の父母のものだったということでした。
 二科目を受講しました。
 授業後、サークルのあつまり。

 ビデオ「お米が食べられなくなる日」を見ました。

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2012.05.17

【写真】 この間、黒潮町でつくったガラスのグラス。

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  この間、黒潮町でつくったガラスのグラスです。

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二〇一二年五月十七日 木曜日 「わっ、坑木が残っている!!」 高知市一宮(いっく)の山中の壕。【写真あり】

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二〇一二年五月十七日 木曜日 「わっ、坑木が残っている!!」 高知市一宮(いっく)の山中の壕。

 晴れ。

 午前九時、FUさんと高知市の一宮(いっく)神社前に集合。
 二人で、近くの山歩きの好きなかたから壕のある場所を聞いて、出発。

 まず、目的の場所の右手に壕を発見。
 岩を掘っています。
 天地約二メートル、左右約二メートル、長さ約九・五メートル。行き止まりの所にダイナマイト用と思われる穴が四つありました。
 壕の入口の前には土手が築かれています。

 その左側の一段上にも壕がありました。
 「わっ、坑木が残っている!!」
 ここも岩を掘っています。
 天地二メートル、左右一・四から一・五メートル、十三メートル。
 壕の中の左右に丸太の柱(直径十五センチ)が十三本(約九十センチおき)。
 右に四メートルほりこんでいますでいます。右に回ったところの天井にダイナマイト用と思われる穴があります。
 壕の入り口から二メートルの所に土手が築かれていて、右に行く交通壕がつくられています。

 ここにはコウモリがいました。

 

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【石に刻まれた高知の戦争】 高知市一宮(いっく)の土佐一ノ宮土佐神社の「百度石軍人安全」の石碑。【写真二枚】

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 わが家からオートバイで十分ほどの所、高知市一宮(いっく)に土佐一ノ宮土佐神社があります。
 その「土佐一の宮」の鳥居の左手に「百度石軍人安全」という石碑があります。
 「軍」という文字が削られてほとんどわからなくなっています。

その下に短歌が掘り込まれています。

 君可(が)代の千とせ越(を)神尓(に)百かへりいの留(る)志(し)る之(し)の古(こ)の石はしら

 裏面には「香美郡東川村 末延元吉 大正二年 建之」と、あります。
 
 

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【石に刻まれた高知の戦争】 高知市一宮(いっく)の善楽寺の錦二四八五部隊の碑。【写真二枚】 

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 高知市一宮(いっく)に四国第三十蕃霊場・一宮百々山善楽寺があります。
 その正面奥に「嗚呼立町隊盡忠之地[ああ たてちょうたい じんちゅうのち]」の石碑があります。
 裏面には「昭和二十年[一九四五年]九月十二日解散ニ際シテ 錦二四八五部隊 立町係長」とあります。
 「盡忠」は、この場合、天皇に忠義をつくすことだと思います。
 この場所が、錦二四八五部隊立町隊が駐屯していた所で、一九四五年八月十五日の終戦後の九月十二日に、この碑を建てたということです。
 その碑の左の「平和之塔」に、この隊のことが刻まれています。題字書、碑文作は同隊の中隊長だった立町芳行さんです。
 「輜重兵[しちょうへい]第十一連隊第一中隊は 昭和十三年原隊善通寺より旧満州に九三〇部隊で出兵し 錦県 東安 虎林[こりん] 一訓に駐屯し零下三十度の酷寒を克服して ソ連国境の警備に当たった 昭和二十年四月太平洋戦争苛烈[かれつ]を極めるに至[いた]り 本土防衛の為郷土四国に転進 伊野町 高知市附近に於[おい]て陣地構築 輸送の任務につき士気□ク旺盛であった しかるに 八月十五日図らずも無念の終戦となり 九月十二日 万□[よろずこく]の涙を呑んで解散した。……」
 碑文はつぎのような言葉で締めくくられています。
 「……二度と再び戦争を起こさないことを誓い 永久の平和を祈念してこれを後世に伝える」
 錦第二四八五部隊についてネットで調べたら、「高知県伊野局気付 錦第二四八五部隊三室隊」の人が一九四五年六月一日に出したはがきが載っていました。内容は、「前略/大阪の叔父様の住所 至急 知らされ度し」。左上に「面会禁止」の判が押されています。(サイト「中国占領地の切手、郵便」)

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二〇一二年六月十七日 木曜日 「戦争遺跡、やーい」。すごいFUさんの「足」、行動力。

二〇一二年六月十七日 木曜日 「戦争遺跡、やーい」。すごいFUさんの「足」、行動力。

 雲り、雨、雲り。

 午前九時、土佐神社前集合でFUさんと行動。
 まずは、彼に近くの善楽寺の戦争碑、土佐神社の戦争碑を紹介しました。

 この近くのOさんに戦争遺跡らしい所、三カ所の位置を教えていただきました。
 そして、FUさんのジープに同乗して、まずは山中の第一のポイントへ。

 ここで壕二つを見ました。
 一つは、「そのままんま」残っているものでした。
 二人とも「すごーい」と、しびれるような感動を味わいました。(FUさんも多分……)

 そのあと第二ポイントを目指して、竹林の四十五度の勾配を登ります。
 僕は、汗まみれでハ―ハ―、ヒーヒー。
 見かねたかFUさんは「私は左手からせめます。藤原さんは真っすぐ登ってきてください」。
 僕は休み休み、やっとのことで尾根にたどり着きました。
 FUさんに電話すると「私は、もう頂上です。ここに、何かわからない人工の地形があります。いまから、ジープの所に降ります」。
 腰を地面につけて滑り降りるような感じで降りました。
 ジープの所で落ちあいました。
 FUさんは「僕は少し休ませてもらいます」。
 彼の、こんな発言を聞くのは始めてです。この人も疲れることがあるんだな……。

 FUさんは、夜勤の職場に向かいます。
 僕は、家に帰って壕のことをブログにアップ。

 そして、あるあつまりに駆けつけ、途中まで参加しました。

 家に帰って、ある小学校の教頭さんへの手紙を書きました。

 その後、高知短期大学へ。
 KIさんと歩行練習をしました。
 
 あすは午前八時集合で、NAさんと戦争碑の調査です。

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2012.05.18

二〇一二年六月十八日 金曜日 仁淀川町の戦争についての石碑。

二〇一二年六月十八日 金曜日 仁淀川町の戦争についての石碑。

 晴れ。

 午前八時、高知短期大学前でNAさんと待ち合わせ。
 一路、NAさんの車で仁淀川町へ。
 いろんな戦争に関係する碑を見ました。
 同町大崎では、私の先輩が、現場に案内してくれて、その碑についての資料のコピーまで持ってきてくれました。

 夜は、高知短期大学の授業を受けました。
 KIさんと歩行訓練。A先生も付き合ってくれました。ありがたいことです。

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2012.05.19

【短歌】  いいあいの 最中の女性……。

 いいあいの 最中の女性 それぞれの 人の本質 あらわれてくる

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二〇一二年五月十九日 「戦争は、この世の地獄じゃ。絶対にせられんぞ」。

二〇一二年五月十九日 「戦争は、この世の地獄じゃ。絶対にせられんぞ」。

 晴れ、雲り。

 高知歌人の歌会に参加。
 十四人の参加(うち男性二人)。
 僕の短歌には一点も入りませんでした。くすん……。

 ある女性から彼女の父親のことを聞きました。
 高知県長者村の出身。
 海軍航空隊の操縦兵だったそうです。
 途中でマラニアにかかり、整備兵になっとといいのす。
 戦後、「戦争は、この世の地獄じゃ。絶対にせられんぞ」といっていたということです。

 夜、彫塑の仲間との懇親会。

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【石に刻まれた高知の戦争】 仁淀川町大崎の「表忠碑」。

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 五月十八日、NAさん、地元のIさん、私で高知県吾川郡仁淀川町大崎の町立吾川中学校の運動場東側の岡、小森に行きました。
 戦争の石造の記念碑を見るためです。
 「表忠碑」とありました。設置は、一九一七年(大正六年)年八月です。表忠とは、この場合、天皇への忠義をあらわすという意味です。

 以下のような文が掘りこまれていました。

 日清日露之二役皆起□(てへんに「於」の旁。於の異字。以下の□も同じ)我國家自衛不得己者我郷従/軍之士能奮戰以身報國可謂不愧于前人也二役従軍/之士八十有五人陣亡者二十有四人□海於陸奏其偉/功  皇威振海外以致有今日之盛矣抑方今坤輿形/勢各國競冨強其所争者日大故日清之役大於元寇日/露之役大於日清自是以△(ぎょうにんべんに「牲」の旁、往の異字)益國益大戦弥烈亦可知也然/而我國家自古忠義士不乏其人國苟有事則奮迅感激/波蕩而赴之殺身破産而不顧至于子伏其死而母歓其/義夫致其命妻激其節壮矣哉乃所謂一旦有緩急義勇/奉公以扶翼天壌無窮之  皇運者豈非三千年来史/蹟所證人人平素忠義激□心應國家之求者哉今茲有/志之徒謀刻石以■于不朽非獨顕揚人人功烈亦所/以激勵後人
 大正六年八月      西森真太郎撰并書

 これは大日本帝国の明治天皇が、一八九〇年十月三十日に発布した「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)の精神で、この二つの戦争の意義をといたもののようです。
 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」も引用しています。

 裏面に「日清戰役病死者」二人(いずれも陸軍)、「日露戰役戦死者」十八人(陸軍十七人、海軍一人)、「平時在隊死亡者」二人(陸海軍各一人)、「平時臺灣病死者」二人(いずれも「巡査」)の階級・氏名(一部は勲功も)が刻まれていました。

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2012.05.21

二〇一二年五月二十日 日曜日 老人会の総会。【写真は木の鳥、森の少女】

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二〇一二年五月二十日 日曜日 老人会の総会。【写真は木の鳥、森の少女】

 晴れ。

 地元の老人会の総会。高知市土佐山でやりました。
 妻が会長になりました。
 通りで、こんな木製の鳥を見ました。

 家に帰って僕の彫塑を手入れ。
 展示会には出さず、庭に飾ることにしました。

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二〇一二年五月二十一日 月曜日 ネコ用の食料は、いっぱいありましたが……。

二〇一二年五月二十一日 月曜日 ネコ用の食料は、いっぱいありましたが……。

 曇り、雨。

 妻は、午前九時に出発。
 そのあとに起きて朝食を用意しようと思ったら、材料がありません。
 昨夜、妻が食材を買い込んでいたのを見たのでアテにしていたのですが、「あれ。ない。」。
 あれは、すべて二匹のネコ用の食料だったようです。
 やっとシーチキンの缶詰を見つけました。
 ご飯にシーチキンをのせ、しょうゆをかけて……。
 これが僕の朝ごはん。
 
 高知県護国神社に調査に行きました。

 平和資料館・草の家に行ったら三人の女性が昼食中。
 仲間に入れてもらいました。
 おいしい。
 そのあと、事務局のNAさんと打ち合わせ。

 家に帰って「平和資料館・草の家について」の原稿を二つ書きました。
 
 高知短期大学で二科目を受講しました。

 

 DAさんと一緒にKIさんの歩行訓練。

 

 【追伸】

 午後、家で作業していると、ある女性が、大変なニュースを教えてくれました。

 妻に知らせなくては……。

 しかし、彼女は携帯電話をオフにしたままでした。

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2012.05.23

二〇一二年五月二十二日 火曜日 朝日新聞に「反戦詩人・槇村浩の足跡(高知市)」の特集記事。

二〇一二年五月二十二日 火曜日 朝日新聞に「反戦詩人・槇村浩の足跡(高知市)」の特集記事。

 晴れ。

 朝日新聞に「反戦詩人・槇村浩の足跡(高知市)」の特集記事が載っていました。うれしい。

 SAさん、HAさんと室戸市へ。

 某室戸市議、地元の女性の案内で近々のサークルのツアーの計画を練りました。

 ご協力、ありがとうございました。

 帰りに南国市のHAさんの家に寄って奥さんにも会いました。すっごく、「やわらかい」感じの人でした。

 高知短期大学に行って二科目を受講。

 一緒に授業を受けた会社経営者・KAさんが「きょうの朝日新聞に(顔写真とコメントが)出ていましたね。馴田(正満)さんも、あんなことをやっているんですね」と、声をかけてくれました。

 槇村さんのことで僕のコメントが載るなんて、すっごく幸せな感じです。馴田さんは高知大学の史学の一年後輩です。

 次の教室に向かっていたら、後ろから来た女子学生が、わざわざ「今晩は」と、声をかけてくれました。「あいさつしたかっただけです」。うれしい。

 そのあとDAさんと一緒にKIさんの歩行訓練。

 夜中、家で記事を一本仕上げて、写真二枚とともに送信しました。(妻が、記事の校正をしてくれました。感謝。)

 

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二〇一二年五月二十三日 水曜日 あれ、高知短期大学の北村光寿さんの投書。きょうの高知新聞。

二〇一二年五月二十三日 水曜日 あれ、高知短期大学の北村光寿さんの投書。きょうの高知新聞。

 晴れ。

 高知新聞の「声」のページを見たら、「あれ!」。
 高知短期大学の北村光寿さん(三十一歳)の投書が載っていました。
 彼は盲目なので、音声入力パソコンを操って書いたものでしょう。
 しっかりした、やわらかい文章です。
 高知新聞のホームページを見たら、以下の所でも読むことができるようになっていました。

 http://www.kochinews.co.jp/voice/1205/120523vhiroba03.htm

 お借りした資料を見て、「アメリカの空襲下で焼け残った高知市本町のビル」について展示用の文章を書きました。

 ある人に高知市朝倉の陸軍の弾薬庫についての資料をメールで送信しました。

 午後、高知城にあった防空壕について取材。

 高知県立図書館に行って資料を探しました。

 夜は、高知短期大学へ。

 通りかかった女性の先生が、すれ違ってから「藤原さん、痩せたんですか。ここらあたりが(おなかを示して)」。なんかうれしいですよね。こんなふうに声をかけてもらえるのって。

 この先生の授業は受けたことがありませんが、四年制大学に編入するときお世話になりました。

 

 コミニュケーションルームで三本足の机に冷たいココアのカップを置き、カバンを置いた途端、机がバタンと倒れてしまいました。

 すると、近くにいた若い女子学生が「はい」と、チッシュの束をくれました。若い人もやさしいですね。

 二時間続きの授業を受けました。

 私は、高知市旭の、ある紙工場の戦前、戦中、高度成長期、住民の反発で廃業するまでを勉強することになりました。

 放課後、A先生、Dさんと一緒にKIさんの歩行訓練。

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【高知へのアメリカ軍機の空襲の記録】 アメリカの空襲下で焼け残った高知市本町のビル。

 一九四五年七月四日のアメリカの高知市無差別爆撃の中心地・本町二丁目五二番地に焼け残ったビルがあります。
 そのビルは鉄筋コンクリート造り、三階建てで屋根は陸屋根(傾斜のない平面状の屋根)です(床面積は各階二十九・七五平方メートル)。
 ここの土地は土佐藩の第十六代藩主・山内豊範(やまうちとよのり)のころの中老・安田斎(五百五十石)のものでした。
 このビルは、一九一四年(大正三年)につくられ、空襲のときには、その末裔が所有していました。
 当時は、倉庫として使用していたようで、窓は、すべて鉄板でおおわれていました。
 いまの一部に鉄板の跡があります。

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2012.05.24

二〇一二年五月二十四日 木曜日 高知城の防空壕 知っている人がいました。

二〇一二年五月二十四日 木曜日 高知城の防空壕 知っている人がいました。

 晴れ。

 とにかく、できるだけ寝たい。
 でも、起きなくては。

  この間から読んでいるアテルイの小説の下巻を終わらせました。すさまじい結末でしたが、古代の外国からの勢力の支配・暴圧に屈しない人々の気概が伝わってきました。

 一階に行くと、妻は、すでに外出していました。
 ご飯はありました。
 おかずは……。
 見つけ出せず、また、どんぶりめしにシーチキンの缶詰をかけて、ぱくぱく。

 ある新聞に投書した文書について、新聞社の担当者と電話で会話(計二回)。
 載ればハッピーなのですが……。

 午後、妻と一緒の会議に参加しました。

 終わってから急いで高知県立図書館に。
 資料あさりの途中、ある新聞社の記者から反戦詩人・槇村浩についてインタビューしたいとの電話。あすの午後にお会いすることにしました。
 引き続き同図書館の高知新聞のデーターベースで検索。
 検索の言葉は「戦争 石碑」、「高知城 防空壕」、「槇村浩」など。
 どんどん紙面を印刷しました。
 小銭だけはたっぷり持っています。一枚十円です。

 作業が終了したころには、すでに高知短期大学の授業は始まっていました。
 「ままよ」とカバンを買いに行きました。カメラも入るようなやつです。

 で、大学に行ってからも作業の続き。
 高知新聞に出ていた高知城の防空壕のことを知っている人と、あす午前中、会うことができることになりました。
 高知新聞に出ていた記事から、当時の高知城を知っている人の手記があることがわかりました。親しい知り合いが編集した印刷物に載っていることがわかりました。その人に電話して「あす、それを、持ってきて」。ずいぶん横着な取材ですが……。

 放課後、DAさんと、KIさんの歩行訓練。
 
 家に帰り着いたら妻が入口のドアを開けている所でした。
 おつかれさん。
 お互いに定年後もけっこう忙しい。これも一つの幸せでしょうか。

 あすのインタビューの準備をしました。

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2012.05.25

【短歌】  メスネコが 甘え上手で 妻といて…… 【写真一枚】

メスネコが 甘え上手で 妻といて かたわらで寝る 夫のころごろ

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2012.05.26

二〇一二年五月二十五日 金曜日 一九四五年七月四日のアメリカ軍の高知空襲 焼け残ったミシン。

二〇一二年五月二十五日 金曜日 一九四五年七月四日のアメリカ軍の高知空襲 焼け残ったミシン。

 雨、雲り。

 明日は香川県善通寺へ。いまころになってホテルを予約。やっとありました。

 一九四五年七月四日のアメリカ軍の高知空襲のとき高知城の防空壕に逃げ込んだHAさんのお話をうかがいました。
 家は、裁判所の斜め前の洋服店でした。空襲が始まってすぐ、彼は兄と二人で営業用のアメリカ製のミシンを裁判所の前に運びました。
 空襲が終わって家に帰ってきたら、家は丸焼け。
 裁判所の前のミシンは、そのまま残っていました。

 ある新聞の記者の取材を受けました。反戦詩人・槇村浩についてです。

 平和資料館・草の家の会議に参加。

 高知短期大学で二科目を受講。
 放課後、KIさんと歩行練習。

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【ニュース】「歩きたい 夜の短期大学の学生・北村光寿(みつとし)さんの放課後。」という組み写真を製作中です。

   「歩きたい 夜の短期大学の学生・北村光寿さんの放課後。」という組み写真を製作中です。こんな内容です。

 ………………………………………

  歩きたい

 夜の短期大学の学生・北村光寿さんの放課後。

 1996年8月、高知市の土佐高校のサッカー部の1年生の北村光寿さんは、大阪・高槻市でのサッカーの試合に出場しました。
 そこで、落雷事故にあいました。一瞬、炎が立ち上るほどのすさまじい熱。だが、光寿さんは、奇跡的に一命を取りとめました。その一方で、手足に麻痺が残り、言葉も出にくくなりました。そして両目を失明しました。
  そして、いま、2012年6月、北村さんは、高知市の夜の大学、高知短期大学で社会科学を学んでいます。車いすの生活です。学生たちが教室から教室への移動などを手助けします。
  北村さんは、放課後、同大学の2階の廊下で歩行器を使って立てって歩く訓練をしています。 先生や学生たちがサポートします。
 ハァ、ハアというときもあります。でも、「歩きたい」。そう。確かに明日をつかむために。

      (写真・文章 藤原 義一=高知短期大学専攻科学生)

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二〇一二年五月二十六日 土曜日 「しょうがないじゃか。気温が高いがやき」。

二〇一二年五月二十六日 土曜日 「しょうがないじゃか。気温が高いがやき」。

 晴れ。

 午前二時ころまでかかって『高知の戦争 証言と調査』用の僕の原稿を書き直しました。

 朝、「暑い」というと、「しょうがないじゃか。気温が高いがやき」。
 朝から相棒はけんかを売ってきます。

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2012.05.29

【組写真】 「歩きたい カミナリにうたれた少年は、いま。」

 五月二十八日午後、組写真「歩きたい カミナリにうたれた少年は、いま。」のパネルをつくりあげました。
 以下のような内容です。

 ……………………………………………………………

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 1996年8月、高知市の土佐高校のサッカー部の1年生の北村光寿(みつとし)さんは、大阪・高槻市でのサッカーの試合に出場しました。そこで、落雷事故にあいました。一瞬、炎が立ち上るほどのすさまじい熱。
 光寿さんは、奇跡的に一命を取りとめました。その一方で、手足に麻痺が残り、言葉も出にくくなりました。そして両目を失明しました。
  2012年6月、いま、光寿さんは、高知市の夜の大学、高知短期大学で社会科学を学んでいます。車いすの生活です。
  光寿さんは、放課後、同大学の2階の廊下で歩行器を使って歩く訓練をしています。ハァ、ハアというときもあります。でも、「歩きたい」。

(写真・文章 藤原 義一=高知短期大学専攻科学生)

 

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二〇一二年五月二十九日 火曜日 テレビ高知で放映された北村光寿さんが落雷を受けた時に着ていたユニホーム、運動靴など。

二〇一二年五月二十九日 火曜日 テレビ高知で放映された北村光寿さんが落雷を受けた時に着ていたユニホーム、運動靴など。

 雲り、雨、雲り。

 「カミナリにうたれた少年は、いま」という内容の組写真、ついにつくりました。
 二十代の女性、MAさんに内容、レイアウトのバランスについて教えてもらいました。
 この人は、すごい。

 午後四時半ころ、テレビ高知のテレビを見ていたら、落雷の話題。
 突然、北村光寿さんが落雷を受けた時に着ていたユニホーム、運動靴などの映像が出ました。
 「ある少年が……」という感じの解説でしたが。
 私の手元に、借りてきた、その現物があったのでギクッとしました。

 夜は、高知短期大学の授業を二科目受講しました。

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2012.05.31

二〇一二年五月三十一日 各種税金、料金の支払いデー。

二〇一二年五月三十一日 各種税金、料金の支払いデー。

 曇り、雨。

 各種税金、料金の支払いデーでした。
 ・五〇CCバイクの税金 千二百円
 ・二五〇〇CCオートバイの税金 二千四百円
 ・携帯電話の使用料 一万八百六十四円。
 ・テラコッタ粘土の代金 一万百五十円。
 ・土佐史談会会費 六千円

 
 槇村浩関係の打ちあわせに参加。

 
 文化展に作品を搬出。

 県庁いって調査のお願い。

 県立図書館でひたすら資料収集。

 高知短期大学へ行って執筆。

 途中で妻から「家の鍵を忘れた。入れん。なんとかして」。

 雨の中、バイクを飛ばして帰宅。

 原稿を一本、仕上げました。

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二〇一二年五月三十日 いの町で土佐和紙産業についての現地授業。

二〇一二年五月三十日 いの町で土佐和紙産業についての現地授業。

 晴れ。

 いの町で土佐和紙産業についての現地授業。
 学生は六人。

 高知市に帰ってから高知短期大学で、ひたすら執筆。

 放課後、KIさんと歩行の練習。A先生がリードしてくれました。

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【アジア太平洋戦争下の高知城】 板垣退助も、山内一豊も…… 銅像がつぎつぎと「出陣」。

 日中戦争のさなかの一九四一年九月一日、武器生産などに必要な金属資源を補うため官民署、職場、家庭の金属類を回収する「金属回収令」が施行されました。同令施行の年の十二月八日、天皇はアジア太平洋戦争を始めました。同令によってさまざまな金属が国家に吸い上げらていきます。

 高知城の銅像も、なくなっていきました。

 一九四三年九月二日、金属回収で供出される高知城公園の板垣退助の銅像の壮行式がおこなわれました。

 つづいて九月十四日、高知市の高知県議会議事堂前の片岡健吉の銅像が金属回収のため供出されました。

 一九四四年一月二十九日、金属回収で供出される県社藤並神社の山内一豊の銅像を壮行する式典がおこなわれました。
 同月十八日付の高知新聞に「一豊公の銅像往く」。「…今回金属非常回収により市追手筋県社藤並神社内に建立されてゐる藩主山内一豊公の銅像も近く米英撃滅のため出征しあの一丈八尺の勇ましい槍[やり]をルーズヴエルトの横腹へ突込むこととなつた」。
 ルーズヴエルトは、アメリカ大統領です。
 同月二十二日付の朝日新聞の高知版には、「颯爽[さっそう]と出陣 一豊公の銅像 金属非常事態に応召[おうしょう]」が載っていました。「高知市丸の内県社藤並神社境内の山内一豊公の銅像も金属回収の呼びかけに応じて率先赤襷[あかだすき]をかけて御用に立つことに決定し近く供出奉告祭を執行の上金属回収工作隊の手によつて撤去される」。
 「応召」というのは召集令状を受け軍務につくために指定地に行くことです。

 同年。高知城公園二ノ丸の山内容堂の銅像も供出されました。

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