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2012年6月

2012.06.01

【短歌】 サカワサイシンの花に出会って 【追加 妖艶なサカワサイシンの花の写真】

 遠き日の あふれる愛の 秘めごとを 思い出してる サイシンの花

 あの午後に 君と見た海 妖艶で プリントに、まだ 出さないでいる

 そういえば つまらないかも 知れないな 妻いない夜の あまりの静けさ

Photo

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2012.06.04

二〇一二年六月二日 反戦詩人・槇村浩(まきむらこう)生誕100周年のつどい。

二〇一二年六月二日 反戦詩人・槇村浩(まきむらこう)生誕100周年のつどい。

 晴れ。

 高知新聞の一面のコラムに槇村浩のことが載っていました。すごく心のこもったコラムでした。

 読者欄には僕の戦争中の高知城の壕についての投書も載っていました。

 平和資料館・草の家に四人のかたから投書を読んだけど……という電話がきました。うち三人は事務所の人が受けてくれました。 

 午前中、かけつけた平和資料館・草の家はにぎやかでした。

 午後二時からの反戦詩人・槇村浩(まきむらこう)生誕100周年のつどい(同実行委員会主催)の会場に飾る展示を、みんなでつくりました。出獄後の槇村から詩、評論の原稿を託され、その原稿を守った作家・貴司山治(きしやまじ)さんの子息・伊藤純さんも東京からかけつけてくれ、貴司山治の撮影した一九三一年の高知でのプロレタリア文学同盟のつどいの映画のデータを提供してくれました。

 昼には、お話をしてくださる韓国在住の作家・戸田郁子(とだいくこ)さん(五十三歳)と一緒にソーメン、すしなどで食事会。

 午後二時から高知市の高知城ホールで、槇村浩(まきむらこう)生誕百周年のつどい(同実行委員会主催)。戸田さんが講演で、槇村が一九三二年四月に発表した反戦詩「間島(かんとう)パルチザンの歌」が満州(中国東北部)の間島(いまは延辺=えんぺん)の朝鮮総督府管轄の橋東(キョドン)小学校(四年制)で教えられていたとのべました。
 そのことを戸田さんに話したのは、当時、同校の児童だった延辺大学のパクチャンウク先生。それは一九三五年、六年のことで、日本に留学していたリー先生(男性)が授業中、「日本帝国主義と日本人民とを分けて考えよ」、「日本にも、この戦争に反対している人々がいる」といって朝鮮語で、この詩を朗読したといいます。
 槇村は、一九一二年六月一日、高知市生まれ。一九三二年二月以降、反戦詩を発表し、高知市の陸軍歩兵四十四連隊の兵士への反戦ビラ配布にたずさわった槇村は治安維持法違反で逮捕、投獄され、一九三八年九月三日、二十六歳で亡くなりました。
 二百人が参加した、このつどいでは「間島はパルチザンの歌」、「生ける銃架」など槇村の詩、四編が朗読、舞踊などで発表されました(妻も出演)。「槇村浩の会」会長の猪野睦(いのむつし)さん(詩人)が槇村と高知の一九三〇年代について話し、平和資料館・草の家館長の岡村正弘さんが「東の小林多喜二、西の槇村浩といわれます。槇村の詩を読み、その心を広げてください」と話しました。
 このつどいには、作家・貴司山治(きしやまじ)さんの子息・伊藤純さんも紹介されました。 なお、同実行委員会は、この会場で槇村浩の詩を紹介した小冊子(五百円)、槇村浩の生涯を紹介したDVD(二百円)を普及しました。
 つどいに、日本共産党中央委員会の市田忠義書記局長のメッセージも。「高知が生んだ反戦詩人・槇村浩の名は、『生ける銃架』『間島パルチザンの歌』などの作品によって、日本の侵略戦争反対と平和のたたかいの歴史に深く刻まれている」、「私は、生誕100周年にあたって、槇村浩の反戦平和の志に貫かれた業績と戦闘的生涯に改めて敬意を表するものです」。感動しました。

 高知短期大学で同学年だった女性、韓国に一緒にいった女性も参加してくださっていて超感激。

 夜は、このつどいの懇親会。二次会は、ひろめ市場、そしてカラオケ。

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ニ〇一二年六月三日 「高知城の防空壕」の投書に反響があって……。

ニ〇一二年六月三日 「高知城の防空壕」の投書に反響があって……。

 雲り。

 高知新聞六月二日の投書欄が「高知城の防空壕」と題する僕の投書を載せてくれました。

 高知市升形の平和資料館・草の家の学芸員です。いま、「戦争と平和を考える資料展」(7月3日~8日、高知市立自由民権記念館)に向けて、アメリカ軍機の高知県への空襲について調べなおしています。
 4月から、高知市本町2丁目の空襲下で焼け残った3階建てのビルのことも調べていました。最近、週に5日もお会いする女性に「いま、こんなことを調べゆう」と、話したら「そのビルは、うちのもの」。そのビルがつくられたのが大正3年であることなどくわしく教えてくれました。
 いまは、高知城に掘られていたいくつかの防空壕(ごう)について調べています。先日は、4人目のかたにお話を聞きました。
 本町3丁目に住んでいて1945年7月4日の空襲のとき、家族6人と、高知城の、いまの板垣退助像の近くの壕に逃げ込んだ女性です。当時、5歳。
 「上からぽたぽたしずくが落ちてきていた。下は、じゅくじゅくしていた。アセチレンの強いにおいがした」。正確な位置、天地、左右の長さ、奥行き…。「覚えてない」。無理もありません。5歳です。
 「どうやろうねえ。高知新聞に投書して、読者に教えてもろうたら。私も正確に知りたい」
 それが彼女の提案。で、この投書となりました。
 高知城のいくつかの防空壕のことをご存知のかた、草の家(088・875・1275)までご連絡いただければ、はせ参じます。

 その日の午前中に、四人のかたから平和資料館・草の家に電話がありました。
 本日は朝から、そのうちの一人のお宅にうかがいました。
 当時の県庁職員で、県庁の裏の壕のことをくわしく知っていました。
 当時の県庁の様子も教えてくれました。
 
 午後は、市内二カ所で「野外授業」を受けました。
 帰ったら午後七時ころ。とにかく、いっぺん寝よう。
 妻は、両親の介護で実家泊り。
 

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ニ〇一二年六月四日 午前三時に起きて……。

ニ〇一二年六月四日 午前三時に起きて……。

 晴れ。

 午前三時に起床。
 たまっていた「書きもの」を一気に仕上げています。

  高知短期大学のリポートの第一稿もできました。

 

 庭どれの イチゴ八つを 食べつくし もうひと眠り 朝七時代

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2012.06.05

【高知城にあった横穴壕】高知市の高知公園すべり山にあった防空壕。

Photo

 高知県警察史編さん委員会 『高知県警察史 昭和編』(高知県警本部。一九七九年三月三十日)から。

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2012.06.07

【音楽】 私の超愛した街、高知県伊野町。

 この演奏で、この歌詞が歌えるでしょうか。高知県伊野町の歌です。

 http://bunbun.boo.jp/okera/mawa/watasi_aisita.htm

  私の超愛した街

 一 思い出の中にいつまでも 生きつづける私の街
   廃液の匂いの紙工場
   「にあんちゃん」が躍る 映画ポスター夕べの道
   見ながら帰ったものだよ
   ■工場のわきを通り 小川の横の我が家

 二 教師らの勤務評定反対と 父母(ちちはは)たった私の街
   優しかった先生たち
   中学校の総見で 反戦の映画を見た日
   考えながら帰ったものだよ 
   ■工場のわきを通り 小川の横の我が家

 三 いの行きのチンチンで 初めて会った女の子
   同じ高校の二年下
   成績で差別するなよ 僕たちのビラの意味
   語って語って帰ったね
   ■工場のわきを通り 小川の横の我が家

 四 思い出の中にいつまでも 生きつづける私の街
   真っ白のマフラーひとつ
   二人の心ぽかぽかで 送っていった道
   覚えているかい
   ■工場のわきを通り 小川の横の我が家

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2012.06.08

二〇一二年六月八日 金曜日 高知城の、すべり山の壕の内部。

二〇一二年六月八日 金曜日 高知城の、すべり山の壕の内部。

 雨。

 午前十時、平和資料館・草の家で槇村浩さんについて放送記者の取材を受けました。
 
 この間の文化展に出した組み写真、ある人がもらってくれました。

 七つ目の高知城の戦争壕の位置がわかりました。ここも入口に石垣をつくって入れないようにしていました。

 午後一時、昨日、高知城で出会ったSさんに、すべり山前でインタビューしました。
 Sさんは、逃げ込んだ、すべり山の壕の内部のことをくわしく語ってくれました。

 午後三時、平和資料館・草の家で、ある戦争体験者への聞き取りについて土佐山田のОさん、高知市のОさんと打ち合わせをしました。

 高知短期大学で一時間目の授業を受けました。
 放課後は、Kさんと歩行練習。Dさんと一緒に。

 月曜日は朝から四人で高知城の壕の確認作業をすることになりました。

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二〇一二年六月七日 木曜日 「私は空襲警報が鳴ったので、(高知城の)すべり山の壕に入りました。……」

二〇一二年六月七日 木曜日 「私は空襲警報が鳴ったので、(高知城の)すべり山の壕に入りました。……」

 午前十時、高知市内のIさん宅で、高知城にあった戦争壕についてお話をうかがいました。
 彼女は夫の運転で、「現場」に来てくれて説明してくれました。
 Iさんと高知城を歩いていたとき、ある人が通りかりました。
 Iさんが、彼に「高知城の壕のことを知りませんか」と、声をかけました。
 途中で彼がIさんの知り合いだということがわかりました。
 彼、Sさんは「私は空襲警報が鳴ったので、すべり山の壕に入りました。しかし、警防団の人が来て『若い者は出ろ』と、追い出されました」と、いってました。

 午後二時、高知市内のSUさん宅を訪問して、高知城の壕のことをうかがいました。

 Sさんから取材の約束を取りつけました。

 高知短期大学の放課後、Kさんと歩行訓練。

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二〇一二年六月六日 木曜日 「すべり山でイモの栽培の世話をしていたときに空襲にあい、高知県庁北庁舎前の壕に逃げ込みました」。

二〇一二年六月六日 木曜日 「すべり山でイモの栽培の世話をしていたときに空襲にあい、高知県庁北庁舎前の壕に逃げ込みました」。

 晴れ。

 午前十時、Nさんと高知市内のKさん宅へ。
 高知市朝倉にあった陸軍歩兵連隊の一九四五年夏の様子をうかがいました。
 作業中隊は対戦車特攻の訓練をしていた、脱走をはかった兵士が営倉に入れられていた……。

 午後二時半、高知市のSさんに、彼女の自宅前の公園で、お話をうかがいました。
 当時、土佐高等女学校の生徒で、「先生の引率でクラスの人たちと、すべり山でイモの栽培の世話をしていたときに空襲にあい、高知県庁北庁舎前の壕に逃げこみました」と、語りました。

 夜、高知短期大学で二時間続きの授業を受けました。

 妻は、実家泊。

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二〇一二年六月五日 火曜日 「高知城の壕」、お二人に、お話をうかがいました。

二〇一二年六月五日 火曜日 「高知城の壕」、お二人に、お話をうかがいました。

 雨。

 午前、戦後の高知城の壕跡を知っている男性、FさんとYさんの話をお聞きしました。

 午後、高知空襲の時、教育会館の右手の高知城の防空壕に逃げ込んだ男性の話を、お聞きしました。

 そして、高知県立図書館で一九四五年の高知についての資料を収集。

 高知短期大学専攻科の一時間目の授業はなし。
 二時間目を受講しました。

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2012.06.09

【短歌】 梅雨明けを待つ

 ダバオから 「やってこないか」 誘いあり 顔も知らない 優しいメル友

 

 「あの写真、ほめたくないけど よかったわ」 わが先輩の うれしい一言

 今晩も 介護の妻は 父母の家 チーズケーキは 冷やしておこう

 小六に 携帯持たせて 電車乗せ 塾に通わす 娘の愛とは

 雨の中 現場近くで 聴いている 防空壕に 逃げた、その日を

 梅雨曇り 玄関先の シラユリ八つ ぱっと開いた

 「あなたには、言っときたくて……」 イヤな感じの 電話で覚める

 たっぷりと 書くべきことが たまってて 一日半を 不外出にする

 

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2012.06.10

【短歌】 シラユリ十五 咲いた朝

梅雨晴れに シラユリ十五 咲いた朝 植え付けた日の ときめき思う 

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【短歌】 カミナリにうたれた少年。

「カミナリにうたれた少年、いま学ぶ」 学友会展 写真のまなざし

車いす、言語障害、盲目の青年がいる 夜の学びや

車いす そばにしゃがんで 話しこむ いいやつがいる 夜の学びや

「歩行器で立って歩こう」 放課後の訓練見守る仲間、先生

「そうですよ。あきらめちゅったら終わりです」 電話の先の陽気に出会う

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2012.06.11

二〇一二年六月十日 玄関先のシラユリがたくさん咲いていました。

二〇一二年六月十日 玄関先のシラユリがたくさん咲いていました。

 晴れ。

 玄関先のシラユリがたくさん咲いていました。うれしーーっ、

 高知城公園の壕のことで原稿執筆のつづき。

 高知城公園へ。
 八つ目の壕を発見。

 SU、KI、UEさんと、ひろめ市場で食事会。

 FUさんと八つ壕をめぐりました。

 平和資料館・草の家に行ったら、高知城の壕のことを知っているという人から連絡が来ていました。

 SUさんに写真を撮影させていただきました。

 DAさんのパソコンの「修理」。

 家に帰って来て、締め切りの短歌の原稿をまとめました。
 授業のリポートづくり。先生にファクスで送りました。
 そして、あす配布用のビラづくり。これは印刷に時間がかかり過ぎ。

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二〇一二年六月十一日 高知城の戦争壕跡 九つに。

二〇一二年六月十一日 高知城の戦争壕跡 九つに。

 晴れ、雨。

 

 「ニュース」の印刷のつづき。

 午前八時から高知城の戦争壕の調査。平和資料館・草の家のメンバー四人、歴史研究者の計五人です。

 午後一時半、放送記者と高知城の戦争壕めぐり。
 その記者の指摘で、もう一つの戦争壕があることを知りました。
 それで、高知城の戦争壕が九つあったことがわかりました。

 高知県立丸の内高等学校に高知県立高知第一高等女学校の碑があることを知りました。

 夜は高知短期大学へ。

 家に帰ってから「草の家だより」の原稿を執筆。
 そして、写真三枚とともにメールで送信。

 妻(尋子さん)は実家泊。

 干し芋で 遅い夕食 とっている 妻お泊りの 梅雨の夜中に

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二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

 晴れ。

 「もう一つ、あるはずだ」。そう思って高知城で戦争壕を探しました。板垣退助像の北のはずです。
 ありました。
 これで八つ目です。
 
 午後二時から、ひろめ市場で交流会。Suさん、UEさん、KIさんと。

  「ニュース」を編集して印刷。

 今夜は、妻は在宅。

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二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

 晴れ。

 「もう一つ、あるはずだ」。そう思って高知城で戦争壕を探しました。板垣退助像の北のはずです。
 ありました。
 これで八つ目です。
 
 午後二時から、ひろめ市場で交流会。Suさん、UEさん、KIさんと。

  「ニュース」を編集して印刷。

 今夜は、妻は在宅。

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二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

 晴れ。

 「もう一つ、あるはずだ」。そう思って高知城で戦争壕を探しました。板垣退助像の北のはずです。
 ありました。
 これで八つ目です。
 
 午後二時から、ひろめ市場で交流会。Suさん、UEさん、KIさんと。

  「ニュース」を編集して印刷。

 今夜は、妻は在宅。

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二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

 晴れ。

 「もう一つ、あるはずだ」。そう思って高知城で戦争壕を探しました。板垣退助像の北のはずです。
 ありました。
 これで八つ目です。
 
 午後二時から、ひろめ市場で交流会。Suさん、UEさん、KIさんと。

  「ニュース」を編集して印刷。

 今夜は、妻は在宅。

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二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

二〇一二年六月十日 日曜日 高知城の戦争壕跡 八つ目。

 晴れ。

 「もう一つ、あるはずだ」。そう思って高知城で戦争壕を探しました。板垣退助像の北のはずです。
 ありました。
 これで八つ目です。
 
 午後二時から、ひろめ市場で交流会。Suさん、UEさん、KIさんと。

  「ニュース」を編集して印刷。

 今夜は、妻は在宅。

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2012.06.12

二〇一二年六月十二日 火曜日 高知城公園で梶田順子さんと二人、ある放送局の取材を受けました。

二〇一二年六月十二日 火曜日 高知城公園で梶田順子さんと二人、ある放送局の取材を受けました。

 雨。

 高知新聞データベース部で高知新聞の記事のコピーを二つゲット。
 そして、ー平和資料館・草の家へ。 

 昼。平和資料館・草の家事務局長の西森遼子さんが、「ソーメンをつくるき、食べるかよ」。
 「朝飯をつくれなかったのでペコペコ。ぜひ」
 「平和資料館・草の家食堂」で、やっかいになりました。
 ソーメンに、ごはん。
 がつがつと五分以内にペロリ。
 「あんたも早いねー」
 「早食いオリンピック」があったら金メダル間違いなし。

 
 午後一時から高知城公園で梶田順子さんと二人、ある放送局の取材を受けました。
 スタッフは若い三人。
 「藤原さん、このタオルでふいてください」
 「眼鏡が曇っています。これでふいてください」
 いい画像をということでしょうが、うれしい。いいねー。「わかいしゅう」は。
 この取材、見出しでいえば「戦争のとき、高知城の山に九つの戦争壕 平和資料館・草の家の調査で判明 空襲時に逃げ込んだ五歳女児も」。

 それから、高知県立高知第一女学校の碑を見に行きました。
 感動。

 そして、高知短期大学へ。

  先輩の女性、SAさんと話していたら、高知県立高知追手前高校の先輩で、僕の尊敬する数学の間崎英夫先生にならっていました。

 授業は午後六時から。
 この時間帯に、この日のことが放送されているはずですが……。

 学生大会がありました。
 大学側の高知短期大学廃止の説明がありましたが、手をあげて「それには不同意」の意思だけは表明しました。
 討論には時間がたりませんでした。
 さぁ、これからです。
 新執行部に期待。

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NHKのホームページに載っていました。「高知城周辺に9か所の防空壕」。

  NHKのホームページに載っていました。「高知城周辺に9か所の防空壕」のニュース。

 http://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015702421.html

 高知城周辺に9か所の防空壕


 高知城がある県立高知公園に、少なくとも9か所の防空ごうがあったことが、高知市の平和資料館の調査でわかりました。
 高知市の平和資料館、「草の家」の藤原義一研究員のグループは、ことし4月から高知城周辺の防空ごうについて調査を進めてきました。
 その結果20人以上の戦争体験者の証言などから高知城のある県立高知公園に少なくとも9か所の防空ごうがあったことがわかりました。
 防空ごうは高知城を囲うように点在していてそれぞれの規模ははっきりと確認できませんが、9か所のうち4か所では入り口と見られる場所に石を積み上げた跡を確認出来ます。
 藤原研究員によりますと、戦争体験者の証言から9か所のうち5か所は地域住民の避難に利用されていたことがわかりましたがほかの4か所についてはどのように使われていたのかはっきりとわかっていません。
 藤原研究員は、「高知市中心部の身近な場所に残っていた防空ごうをきっかけに多くの人たちが戦争や平和について考えてほしい」と話していました。
 高知城周辺にはもっと多くの防空ごうがあった可能性もあるということで、藤原研究員のグループでは今後も、調査を進めることにしています。

 06月12日 17時11分

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2012.06.14

二〇一二年六月十四日 木曜日 午前五時のオスプレイ!?

二〇一二年六月十四日 木曜日 午前五時のオスプレイ!?

 雲り。

 長男の夢を見ました。
 涙をいっぱいためて目を覚ましました。
 午前三時でした。

 午前五時ころ、強烈な爆音。
 「すわ、オスプレイか」
 しばらく頭をかきまわして「音」は遠ざかっていきました。

 しばらく考えました。
 もしかしたら、農薬散布の無人ヘリコプターの音だったのかもしれません。
 しかし、いずれにしても姿を見ていません。

 午前十時前からMAさん、ある新聞記者と高知城の九つの壕跡をまわりました。

 MAさんから携帯電話で録画した、NHK総合テレビの、高知城に九つの戦争壕のニュースを見せてもらいました。素晴らしい構成でした。 

 昼は「草の家」で。
 具だくさんのDAさん製のカレーライスでした。

 午後二時から会議に出席。
 そのあと作業。

 夜は、家でひたすら「物書き」。

 妻が帰ってきたのは午後十時ころ。
 少しいがみ合いました。

 【追伸】

  生まれて三か月で星になった長男。彼のことを、きちんと記録として残しておかなくてはと思っています。長女、二男、孫たちに伝えていいきたい。
 

 

 【参考 オスプレイ】

 http://ja.wikipedia.org/wiki/V-22_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

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2012.06.15

【ニュース】 恐ろしいオスプレイについての解説ビデオのシナリオ。

 「恐ろしいオスプレイ」についての解説ビデオのシナリオを書いてみました。

 【画面1 タイトル】

 オスプレイ

 【画面2 タイトル】

 Osprey

 【画面3】

 <ここに、この画像を入れます>  http://en.wikipedia.org/wiki/File:Osprey_mg_9605.jpg

 この鳥、ミサゴのことです。

 [出典] http://en.wikipedia.org/wiki/File:Osprey_mg_9605.jpg

 【画面4】

 オスプレイは猛禽類(もうきんるい)です。
 アメリカの海兵隊、空軍の回転翼の角度が変更できる垂直離着陸機の愛称もオスプレイです。

 【画面5】

 <ここに、この映像を入れます>

 http://www.youtube.com/watch?v=l6oZsxJ6wtc&feature=related

 [出典] http://www.youtube.com/watch?v=l6oZsxJ6wtc&feature=related

 【画面6】

 オスプレイには、もう一つ恐ろしさがあります。
 それは、よく落ちることです。

 <ここに、この映像を入れます>

 http://www.youtube.com/watch?v=6ty9WVVFdPk

 [出典] http://www.youtube.com/watch?v=6ty9WVVFdPk

 【画面7】

 2007年から運用を開始したオスプレイの、これまでの事故(試作機段階のものもふくむ)

 ● 1991年6月11日、試作5号機が初飛行時に左右に揺れながら離陸後、数メートルの高さから大きく機体を傾けてナセルとローターが接地し、機体は転覆して地上へ落ちました。
 ● 1992年7月、試作4号機が気候試験でエグリン空軍基地からクアンティコ米海兵隊基地へ飛行中の着陸直前に右エンジンナセルから出火しました。機体はポトマック川に頭から落ちて、乗っていた海兵隊員3人と民間人技術者4人が死亡しました。
 ● 2000年4月8日に14号機が夜間侵攻での兵員輸送を想定した作戦試験時に墜落事故を起こし、乗員4人とアメリカ海兵隊員15人が死亡しました。
 ● 2000年12月11日に海兵隊訓練部隊の18号機が、夜間飛行訓練中に森林地帯に墜落し、搭乗していた海兵隊員4人が死亡しました。事故を受け全機が飛行停止になった。
 ● 2010年4月、アフガニスタンで4人が死亡する墜落事故を起こしていました。
 ● 2012年4月、モロッコで4人が死傷する墜落事故を起こしました。
 ● 2012年6月13日、米フロリダ州ナバラ北部の演習場で訓練中に墜落しました。墜落事故が起きたのは現 

 【画面9】

 オスプレイが沖縄の普天間基地(宜野湾市)に配備されれば、日本全土で低空飛行訓練をおこなうことになります。防衛省が、6月13日、沖縄県など関係自治体に提出したアメリカ軍の報告書でわかったことです。

 【画面10】

 これが、その訓練ルート図です。

 <以下のページの図を使用> http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-06-14/2012061401_01_1.html

 [出典] http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-06-14/2012061401_01_1.html

 【画面12】

 これによるとオスプレイは、高知県にもやってきます。
 寒気がしますねー。

 【画面13】

 でも、おかしいですねー。
 なぜ、太平洋を隔てた外国の、こんな恐ろしい軍用機が、なぜ、日本の空で飛びまわろうとしているのでしょうか?

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2012.06.17

TBSテレビのアメリカ空軍へのインタビュー 「墜落したオスプレイは日本配備のものと構造が一緒なのでは?」に「………」。

 TBSテレビが、沖縄に配備予定の新型輸送機・オスプレイがフロリダ州で墜落した事故で、アメリカ空軍と単独インタビューしました(六月十六日放映)。
 「(墜落した)CV22オスプレイは安全だと思いますか?」の質問にベナーレ・マルケスアメリカ空軍大尉(女性)は、「はい、そうです。これは単独の事故です」。
 日本側の懸念に理解はするとしながらも、今回の事故機と沖縄普天間基地に配備予定のオスプレイは型が異なるため、この事故をもって心配する必要はないと発言。
 「墜落したオスプレイは日本配備のものと構造が一緒なのでは?」
 「………」
 答えはありませんでした。
 アメリカ軍側は、撮影を止めるよう要請しました。

 【参考】

 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5056991.html

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二〇一二年六月十六日 土曜日  雨の中の溺れそうなハスの花もいいものでした。【写真、一枚】

Photo

二〇一二年六月十六日 土曜日  雨の中の溺れそうなハスの花もいいものでした。

 

 大雨。

 

 午前八時半、高知市永国寺集合。われら高知短期大学の高知知っちゅう会の三十六人は、室戸市へ向かいました。

 しかし、途中で、大雨のため、行き先を変えてモネの庭へ。

 雨の中の溺れそうなハスの花もいいものでした。

 

 夜は、韓国語の先生を囲んで親睦会。

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二〇一二年六月十七日 日曜日 いの町の天王団地の近く、池の内の郷社天満宮の戦争。

二〇一二年六月十七日 日曜日 いの町の天王団地の近く、池の内の郷社天満宮の戦争。

 晴れ、曇り。

 「高知城の戦争壕」のことで高知市針木の男性のお話を聞きました。

 ついでに、いの町の友人・SAさんに電話して「お宅の近くの喫茶店でコーヒーをのみませんか。
 アイスコーヒーでおしゃべり。
 仕事のかたわら、ピアノと太鼓のレッスン、運動を一生懸命やっているとのこと。
 そして、四月からは韓国語をやっているとのこと。もうすでに読み書きができはじめていて簡単な会話はOKに。すごい人です。

 近くの、いの町の天王団地の近く、池の内の郷社天満宮に行きました。
 最初の鳥居を入って右手の石灯籠には「奉」、「支国事変 凱旋記念」、「上田重幸」と彫り込まれています。
 三つ目の鳥居をくぐると、右手に台座に「日露祈念/氏子惣中」、「明治卅九年/三月十五日」と彫り込まれた寝ている牛の像。
 左手に「奉献」、「武運長久」、「昭和十四年卯年」、「池上寿之助/孫/長男 橙孝一」と彫り込まれた石灯籠があります。

 近くを歩くと山のすそ野に戦争壕のあとが残っていました。
 近くで農作業をしていた女性に聞くと「防空壕だったそうです。夫が小さいときにB29が来たときに逃げ込んでいたというます。その前の池の内国民学校の裏にも防空壕がありました。そこは、いまはなくなっています」。

 帰りに永国寺の近くで、しゃれたレストランを見つけました。

 帰宅。
 東京都の息子と彼の「つれあい」から木の箱に入った日本酒が届きました。
 ありがとう。

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【ニュース】 「国旗と国歌について村長の認識は」 六月議会での長野県中川村長の答弁の「すごさ」。

 長野県上伊那郡中川村のページから。
 曽我逸郎村長の書いた記事です。

  http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685&i=11049

 村議会6月定例会 「国旗と国歌について村長の認識は」との一般質問を頂きました。

 中川村議会6月定例会で、高橋昭夫議員から、「国旗と国歌について村長の認識は」という一般質問を頂いた。
 一問一答方式のため、受け答えはやりとりの流れに応じた“アドリブ”になっていき、正確に再現することは難しいので、頂いた通告と私の答弁原稿を以下に掲載する。

 <一般質問通告>
 小・中学校の入学式や、卒業式の席で、村長は(壇上に上る際、降りる際に)国旗に礼をされていないように思います。このことについて村長のお考えをお聞きしたい。
 <答弁原稿>
 たいへんありがたい質問を頂戴しました。ご質問の件については、村民の皆さん方の中にも、いろいろ想像して様々に解釈しておられる方がおられるかもしれません。説明するよい機会を与えていただきました。感謝申し上げます。
 私は、日本を誇りにできる国、自慢できる国にしたいと熱望しています。日本人だけではなく、世界中の人々から尊敬され、愛される国になって欲しい。
 それはどのような国かというと、国民を大切にし、日本と外国の自然や文化を大切にし、外国の人々に対しても、貧困や搾取や抑圧や戦争や災害や病気などで苦しまないで済むように、できる限りの努力をする国です。海外の紛争・戦争に関しても、積極的に仲立ちをして、平和の維持・構築のために働く。災害への支援にも取り組む。
 たとえて言えば、日の丸が、赤十字や赤新月とならぶ、赤日輪とでもいうようなイメージになれば、と思います。
 世界中の人々から敬愛され信頼される国となることが、安全保障にも繋がります。
 これは、私一人の個人的見解ではなく、既に55年以上も前から、日本国憲法の前文に明確に謳われています。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 そして、憲法前文は、次のような言葉で締めくくられています。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

 しかし、現状はまったく程遠いと言わざるを得ません。日本国は、名誉にかけて達成すると誓った理想と目的を、本気で目指したことが、一度でもあったのでしょうか。
 東京電力福島第一原発による災害では、国土も、世界に繋がる海も汚染させました。たくさんの子ども達が、かつての基準なら考えられない高汚染地域に放置されています。そしてまた、安全基準も確立しないまま、目先の経済を優先して、大飯原発の再稼動を急いでいます。放射性廃棄物をモンゴルに捨てようとしたり、原発の海外輸出まで模索しています。
 明治になって日本に組み入れられた琉球は、抑止力のためという本土の勝手な理屈で多くの米軍基地を押し付けられ、さらにまた美しい海岸をつぶして新たな米軍基地を造ろうとする動きがあります。イラク戦争に協力し、劣化ウラン弾で子どもたちが苦しめらることにも、日本は加担しました。兵器輸出の緩和さえ模索しています。
 他にも、福祉を削り落として、貧困を自己責任に転嫁するなど、言い出せばきりがありません。ともかく今の日本は、誇りにできる状態から程遠いと言わざるを得ません。
 しかしながら、誇りにできる状態にないから、国旗に一礼をしない、ということではありません。完璧な理想国家はあり得ないでしょう。しかし、理想を目指すことはできる。しかし、そのそぶりさえ日本にはない。それが問題です。
 もっと問題なのは、名誉にかけて誓った理想を足蹴にして気にもしない今の日本を、一部の人たちが、褒め称え全面的に肯定させようとしている点です。この人たちは、国旗や国歌に対する一定の態度を声高に要求し、人々をそれに従わせる空気を作り出そうとしています。
 声高に主張され、人々を従わせようとする空気に従うことこそが、日本の国の足を引っ張り、誇れる国から遠ざける元凶だと思います。
 人々を従わせようとする空気に抵抗することによって、日本という国はどうあるべきか、ひとりひとりが考えを表明し、自由に議論しあえる空気が生まれ、それによって日本は良い方向に動き出すことができるようになります。
 人々に同じ空気を強制して現状のままの日本を肯定させようとする風潮に対して、風穴を開け、誰もが考えを自由に表明しあい、あるべき日本、目指すべき日本を皆で模索しあうことによって、誇りにできる日本、世界から敬愛され信頼される日本が築かれる。日本を誇りにできる国、世界から敬愛される国にするために、頭ごなしに押しつけ型にはめようとする風潮があるうちは、国旗への一礼はなるべく控えようと考えております。
 <以上、初回答弁の原稿>

 <一問一答のやりとりの最後(要旨)>
Q:村長は子供たちが国旗に礼をしないようになる方がいいと考えているのか?
A:教育内容について行政から口を挟むことは控えるべきだと考える。なにをどう教えるかは、教育委員会の管轄である。国旗に対して、どういう態度を取るべき、とか、取るべきでない、とか、これまでも申し上げたことはないし、今後も申し上げるつもりはない。

 <新聞記者(信濃毎日新聞、長野日報)との取材でのやりとりの最後(要旨)>
Q:子どもたちには、どうあって欲しいと思っているのか?
A:いろいろな人がいて、いろいろな考え方があるのだな、と感じてもらえれば嬉しい。その上で、自分はどう考えるのか、じっくり検討して欲しい。こういう態度を取らねばならないと、ただひとつの形しか提示しないのは問題。型にはめようとするのはよくない。「まぁ、この場は空気を読んでこう振る舞うのが大人だし…」というような対応を積み重ねた結果、曾て、場の空気に絡め取られ戦争に向けて後戻りできない状況に陥り、後悔したのではなかったか。どういうものであれ、自分の感じ方、思いを気安く表明できる「空気」を創っていくことが大事。それによって、互いに議論が深まり、理想の日本、あるべき日本、目指すべき日本が模索され、その結果が皆に共有されていけば嬉しい。

 2012年6月12日 曽我逸郎

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【石に刻まれた高知の戦争】 愛媛の安藤正楽さんの「忠君愛国の四字を滅するにあり」。 

 このタイトルのテーマで調査をはじめた動機の一つは、戦争の時代の高知に「侵略戦争反対」の思いを刻んだ石碑があるのではないか、そのことを知りたいと思ったからです。
 いまのところ出合っていません。
 もし、ごぞんじでしたら教えていただけませんでしょうか。

 展示の準備のために仲間と平和資料館・草の家の資料を整理していたら安藤正楽(あんどうせいがく。一八六六年十一月十五日~一九五三年七月二十四日)さんの「日露戦争従軍記念碑」の拓本が出てきました。
 この名前は、うっすらと知っていました。
 明治時代の非戦論者です。
 一九〇一年、正楽さんは、「徴兵検査場に立会しける時詠みける歌」、八首を詠みます(山上次郎さんの著書『非戦論者 安藤正楽の生涯』)。

 身を挺し国に尽くせと王はのるよ嗚呼[ああ]人を殺しにわれは来つるか
 肉は飛び血ほとばしりてんその時し今日をうらみの人は知りてん
 人の世に男の子となりて生まれこし益荒男[ますらお]よ国は汝が血を徴す
 …………

 一九〇三年、愛媛県議に当選。一九〇七年、軍事優先主義を採る県を批判する反軍演説をおこないました。
 正楽さんの、この石碑は、愛媛県四国中央市の土居町藤原の八坂神社にあるものです。
 「日露戦争から凱旋[がいせん]した藤原の軍人諸氏が予[よ]に其[その]紀念碑の文を請はれた 其人達は越智大吉 越智和田一 越智大三郎 大田亀太郎 大田六助 大田梅三郎 大田春市 大原福太郎 加地幾平 加地弥五郎 加地市太郎 加地定吉 加地浅太郎 加地与吉 高石菊太 高石小三郎 高石市郎 高橋庄作 村上鬼子松 村上佳吉 村上嘉市 村上梅吉 松岡源太 藤田兼太郎 近藤勇吉 近藤保太郎 近藤巻助 安部武平 安部梅太郎 安部福助 青木安吉 岸鶴市 三木鹿太郎 三木久吉 三木鶴吉 三木頼助 三木万吉の三十七氏で八人は負傷し 外近藤嶺吉 高石音吉の二氏は討死されたのである鳴呼[ああ]此[この]部落僅に百七十戸それに此数多の人が出て征ったか 今更[いまさら]当時を回想し戦慄せさるを得ぬ 由来戦争の非は世界の公論であるのに 事実は之[これ]に反し戦は亦明日にも始まるのである 吁之を如何すればよいか 他なし 世界人類の為に忠君愛国の四字を滅するにありと予は思ふ 諸氏は抑此役に於て如何の感を得て帰ったのであらふ

  明治四十年三月

    安藤正楽題選書」

 大日本帝国とロシア帝国の戦争、日露戦争は、一九〇四年、〇五年、満州南部、朝鮮半島沿岸、樺太を戦場にたたかわれたものでした。
 この碑がつくられたのは、一九〇七年です。
 碑文の最大のポイントは「世界人類の為[ため]に忠君愛国の四字を滅するにありと予は思ふ」ではないでしょうか。
 同年三月、正楽さんは、この「世界人類の為[ため]に忠君愛国の四字を滅するにありと予は思ふ」などと書いたため、警察に逮捕され、翌年まで拘置されました。
 また、記念碑の撰文も逮捕と同時に、警察よって削り取られました。
 しかし、もともとの碑文の拓本が、平和資料館・草の家に残っています。
 天皇政府の圧迫のなか、この正楽も、残念ながら一九四一年ころからは、軍部批判を止め戦争協力へと進むようになりました。

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2012.06.18

【動画のある場所】 オスプレイ墜落!!

http://www.youtube.com/watch?v=rDJUcXSq1CM&feature=related

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二〇一二年六月十八日 月曜日 天晴(てんれき)」という年号が入った石灯籠。

二〇一二年六月十八日 月曜日 天晴(てんれき)」という年号が入った石灯籠。

 曇り。

 五〇CCのバイクで安芸市へ。
 安芸市土居の春日神社に行ったら「天晴(てんれき)」という年号が入った石灯籠がありました。

 午後二時から市内の女性から一九四五年春からのことを聞きました。娘さんも同席。
 同年七月四日のアメリカ軍の空襲の時、営林局の裏の高知城の横穴壕に逃げ込んだといいます。

 平和資料館・草の家に。日程の打ち合わせをしました。

 午後五時、高知市役所前で原発再開反対の行動。

 夜は、高知短期大学の授業。

 あすは台風で高知短期大学の授業は休み。
 僕的には、「もういっちゃってるよ」という感じなのですが……。

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安芸市土居の春日神社の「天晴元卯九月令日」。

Photo

  安芸市土居の春日神社の鳥居をくぐると両側に同じ形の石灯籠があります。
 二つとも「奉献」、「天晴元卯九月令日」、「氏子中」と彫り込まれています。
 天晴元は西暦でいえば何年のことでしょうか。

 幸いに右手の石灯籠の後ろに同神社の解説の立て札がありました。
 「『天晴』年号は日本の年号表には見当らないが、藩政時代から明治へ移行する激動の時代に、どこからか新年号は『天晴』というように伝えられてきたと考えられている。
 高知県下では『天晴』を使ったものが四ケ処[しょ]で見つかっている。」

 天晴の読み方は……。

 【参考】

 http://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/01/0104/rekishi/re0809.htm

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2012.06.20

【短歌】 「もらいたて キュウリを一つ ……」。

 もらいたて キュウリを一つ まるったで がつがつ食べて 朝食とする

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二〇一二年六月二十日 火曜日 手すき和紙産業。

二〇一二年六月二十日 火曜日 手すき和紙産業。

 雨。

 高知短期大学の授業は台風のため休講。

 高知市はたいしたことはないと思うけど……。

 いの町役場へ。手すき和紙産業のことを聞きにいきました。

 ついでに特殊地下壕のことを調査している部署にいって「特殊地下壕についての資料はありませんか」。「いの町には特殊地下壕はありません」。びっくりしました。

 家に帰って、いの町の手すき和紙産業についてのリポートをつくりました。夜九時までかかってしまいました。

 津野町のNIさんからメールでいただいた資料を読みました。

 東京都のSUさんが本を送ってくれるとのこと。戦争の時代に街頭の男性の彫刻の彫刻の「こかん」が変な感じで細工されたということを書いている本だといいます。聞き違いかな……。 

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【石に刻まれた高知の戦争】 高知市の愛宕神社の大東亜戦争戦捷(せんしょう)記念の碑。

Photo

 高知市の愛宕神社の二百八段の石段を上がりきった所の左右にセットの石柱があります。

 左手の物には「皇威万邦輝」(大日本帝国の天皇の威光は世界に輝く)、「皇紀二千六百一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」と掘り込まれています。

 左手の碑には、「神徳八紘洽(しんとくはっこうにあまねし。神である大日本国の天皇の徳は世界にいきあたっている)」と、刻まれています。その裏には「高知市愛宕町二丁目/階段施工 畠中正夫」とあります。

 皇紀二千六百一年十二月八日は、一九四一年のことです。「大東亜戦々捷」は大東亜戦争戦勝のことです。

 それにしても気が早い。天皇がアメリカ、イギリスに大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の宣戦布告をした日付の碑です。確かに、この戦争は、不意打ちで一時は戦勝していましたが、すぐに敗北に向かいます。 

 この碑の「々捷」の所が何かで塗りつぶされているのが奇妙です。

  

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二〇一二年六月二十日 水曜日 高知の手すき和紙の調査でした。

二〇一二年六月二十日 水曜日 高知の手すき和紙の調査でした。

 曇り。

 朝から高知短期大学の先生、専攻科の学生計六人で、いの町へ(この日の夜の二時間続きの授業のかわりです)。

 高知の手すき和紙の調査でした。いい勉強になりました。

 解散してから高知短期大学で専攻科の男性二人と雑談。

 パスポートが切れていたので県庁に行って手続しました。一万六千円いるそうです。

 家に帰って、調査のリポートを書き始めました。

 途中で、歴史研究者からの問い合わせ電話。「見解」をブログにアップしました。

 リポート執筆の途中で、高知短期大学へ。KIさんと会うためでした。しかし、KIさんは休み。

 女子学生が「テレビに出ていましたね。見ました」と、声をかけてくれました。高知城に九つの横穴壕があったというNHK総合テレビのニュースのことです(四分半も)。このこと、ラジオでもやったそうですね。別のかたから教えていただきました。

 家に帰って、さっきのリポートをつくり終え、こんどはニュージーランドの産業と貿易についてのリポートを書きはじめました。

 もう零時になります。さて、あすにしましょうか。

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2012.06.21

【ニュース】 高知城の山に掘られていた横穴壕。ユーチューブで見ることができます。

 ここです。

 http://www.youtube.com/watch?v=c_Px48J-4Qs

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二〇一二年六月二十日 木曜日 「戦争と平和を考える資料展」のための文書づくり。

二〇一二年六月二十日 木曜日 「戦争と平和を考える資料展」のための文書づくり。

 雨。

 朝から夜中まで、七月三日からの「戦争と平和を考える資料展」のための文書づくり。

 夜、雨の中、中央郵便局にレターパックを買いに行きました。

 書いた原稿を見てもらうために六人に手紙をレターパックで送る準備をしました。

 高知民報の連載の五回目の原稿をメールで送りました。

 で、もうすぐ午前零時です。

 なかなか作業ははかどらないものですね。

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2012.06.24

二〇一二年六月二十三日 土曜日 削り取られていた安藤正楽(あんどうせいがく)の「日露戦役紀念碑」碑文。「世界人類のために忠君愛国の四字を滅すにありと予は思ふ」。

二〇一二年六月二十三日 土曜日 削り取られていた安藤正楽(あんどうせいがく)の「日露戦役紀念碑」碑文。「世界人類のために忠君愛国の四字を滅すにありと予は思ふ」。

 雨、曇り。

 午前八時半過ぎから先輩のOさんの車に乗せっていただいて愛媛県四国中央市へ。

 まず、地域づくりのつどいに参加しました。

 そして、同市土居町藤原の八坂神社へ。

 平和資料館・草の家にある安藤正楽(あんどうせいがく)の「日露戦役紀念碑」の拓本。それに感激して、石碑を見に来たのです。
 その碑には「日露戦役紀念碑」の文字はありますが、あとの文章は、すべてけずりとられていました。
 その碑の右手に新しい碑がつくられていて、かつて、ここに刻まれていた碑文が刻まれていました。
 一九九三年二月十九日に、安藤益雄、安藤亮一、山上統一郎、山上蒼、山上次郎、山上三郎の各氏が建てたものです。
 「表記の文章は 明治四十年ここに建立[こんりゅう]された日露戦役紀念碑の 安藤正樂の選定が 明治 四十三年官憲によって抹消されたものを拓本により復刻したものである……」の説明が刻まれていました。
 新しい碑によれば、ここに掘り込まれていたのは、つぎのような文章です。

日露戦争から凱旋[がいせん]した藤原の軍人諸氏[しょし]が予[よ]に其[その]紀念碑[きねんひ]の文を請[こ]はれた 其[その]人達は越智[おち]大吉越智和田市越智大三郎大田亀太郎大田六助大田梅三郎大田春市大原福太郎加地幾平加地彌五郎加地市太郎加地定吉加地淺太郎加地與吉髙石菊太髙石小三郎髙石小市郎高橋庄作村上鬼子松村上佳吉村上嘉市村上梅吉松岡源太藤田兼太郎近藤勇吉近藤保太郎近藤泰助安部武平安部梅太郎安部福助青木安吉岸鶴市三木鹿太郎三木久吉三木鶴吉三木頼助三木萬吉の三十七氏で 内八人は負傷し外近藤嶺吉高石音吉の二氏は討死されたのである 嗚呼此[この]部落僅[わずか]百七十戸それに此多数の人が出て在つたか!今更[いまさら]当時を回想し戦慄[せんりつ]せざるを得ぬ 由来戦争の非は世界の公論であるのに事実は之[これ]に反して戦[いくさ]は明日にも亦[また]始るのである吁之[ああこれ]を如何[いか]すればよいか他なし世界人類のために忠君愛国の四字を滅[ほろぼ]すにありと予は思ふ諸氏は抑[そもそも]此役[このえき]に於[おい]て如何[いかん]の感を得て帰つたのであろう?  明治四十年三月  安藤正樂題 撰書

 大日本帝国とロシア帝国の戦争、日露戦争は、一九〇四年、〇五年、満州南部、朝鮮半島沿岸、樺太を戦場にたたかわれたものでした。この碑がつくられたのは、一九〇七年です。
 「世界人類のために忠君愛国の四字を滅すにありと予は思ふ」。平和のためには大日本帝国の大元帥である天皇に従わないということになります。

 帰ってきて、いの町へ。
 そして、遅れて高知短期大学で開かれていた経済学クラブの勉強会へ。

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【短歌】 十月に出産します。

 「できました。あと四か月」 ゼミの友 娘の世代の しゃきしゃきの人

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2012.06.26

ニ〇一ニ年六月ニ十六日 火曜日 消費税8、10%法案、衆議院を可決。

ニ〇一ニ年六月ニ十六日 火曜日 消費税8、10%法案、衆議院を可決。

 雲り、雨。

 高知新聞に、ある大学の大学院の記事が載りました。心を動かされました。

 午前中、Nさんと二人で高知県立図書館で資料の収集。

 午後、月刊の短歌雑誌の校正作業に参加しました。

 ニ年後の四月一日から消費税は5%から8%に。
 三年後の十月一日からは8%から10%に。
 この法案が、午後、衆議院を可決しました。
 賛成三百六十三、反対九十六でした。
 賛成したのは民主党、自民党、公明党、国民新党、たちあがれ日本。
 民主党は五十六人が反対、欠席者が七人。

 「やらない」を 三年後には やっちゃった 民主党の 終わりの始まり

 「たちあがれ」 なんていっとき へたり込む 新政党も 増税賛成

 このところ、私が行っていた、道沿いのうどん屋、フジの中の食堂、道沿いの回転ずし屋が閉店しました。そんななかでの増税です。

  夜は、高知短期大学の授業に出ました。

 MOさんから電話、「本の原稿ができた」とのことです。

 善通寺市のKIさんから電話がありました。

大学のリポートを書き、先生にメールで送りました。

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ニ〇一ニ年六月ニ十五日 月曜日 資料展のための展示を作成。

ニ〇一ニ年六月ニ十五日 月曜日 資料展のための展示を作成。。

 雲り。

 写真の焼き出し。

 

 平和資料館・草の家で、Mさんと資料展のための展示を作成。

 夜、UEさんとのKIさん宅を訪問しました。

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2012.06.27

【ニュース】 労働者の首を切りまくって、自分の年収は九億八千七百万円 カルロス・ゴーン・ビシャラ・ゴーンさんの冷酷さ。

  日産自動車は、六月ニ十六日、カルロス・ゴーン・ビシャラ・ゴーン最高経営責任者のニ〇一ニ年三月期の役員報酬が、前度比0.5%増の九億八千七百万円だったことを明らかにしました。
 ゴーン社長は、同日開かれた株主総会で、自身の報酬は世界の基準からみれば低く、正当化されるものだとしました。
 ゴーンさんは、フランスの自動車大手ルノーの最高経営責任者も兼務していて、ニ〇一ニ年度のルノーからの報酬は約ニ億八千七百万円でした。
 カルロス・ゴーン・ビシャラさんは一九五四年三月九日生まれ。ブラジル人(レバノン系ブラジル人)。一九九九年三月に、ルノーが、日産自動車と資本提携し、同社を傘下に収めた後に、ルノーの子会社となった日産自動車に出向し、同社の最高執行責任者に就任しました。
 ゴーンさんの儲け術の秘訣は徹底した「首切り」作戦でした。

 【参考】

 2009年2月10日(火)「しんぶん赤旗」

 日産、2万人削減へ剰余金は3・3兆円

 日産自動車(カルロス・ゴーン社長)は九日、二〇〇九年度中に世界のグループ従業員の一割弱に当たる二万人(うち国内一万二千人)を削減すると発表しました。
 ゴーン社長は一九九九年に発表した再建計画「日産リバイバルプラン」で、世界で二万一千人の削減を打ち出し、従業員にしわ寄せする形で「V字型回復」を図りました。今回はそれに次ぐ人員削減規模となります。
 国内で対象となるのは、日産本体のほか関連会社や販売子会社で、内訳は正社員四千人、非正規従業員八千人としています。
 日産自動車は同日、世界経済の悪化に伴う自動車市場の低迷を理由に、〇九年三月期の連結業績予想を下方修正。本業のもうけを示す営業損益が千八百億円の赤字(従来予想は二千七百億円の黒字)へ転落すると発表しました。純損益は二千六百五十億円の赤字(従来予想は千六百億円の黒字)を見込んでいます。期末配当は見送るとしていますが、中間配当ですでに一株当たり十一円の配当を実施しています。
 一方、同日発表した〇八年四―十二月期連結業績によると、十二月末現在で剰余金(利益剰余金と資本剰余金)は約三・三兆円あります。雇用を維持する体力はあるのに、「赤字予想」をもとに、人減らし・リストラの規模を競い、短期的な「収益改善」を図ることは、いっそうの雇用悪化を招き、景気悪化をさらに加速させることになります。

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2012.06.28

【ニュース】 高知短期大学の一年生の大黒春江(だいこくはるえ)さん。でっかい記事になりました。

  ヤッホー、わが高知短期大学の一年生の大黒春江(だいこくはるえ)さんが、六月二十八日付夕刊の六面トップにでかでかと載っていました。

 65歳女性 横浜市から高知短大へ
 2012年06月28日14時31分
 高知短期大学(高知市永国寺町)の社会科学科に今春、65歳の新入生が横浜市から入学した。元小学校教員の大黒春江さん。「世の中の仕組みを学び直したい」「議論好きの高知が好き」と、はるばるやって来てくぐったキャンパスの門。子どもと同世代の教官、孫のような世代の学友らと「第二の青春」を送っている。
 【写真】高知短大のゼミで同級生と意見を交わす大黒春江さん=中央(高知市永国寺町)
 僕は高知短期大学の専攻科の学生です。

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【ニュース】  オスプレイの、これまでの事故。以下のページを読むとわかります。

オスプレイの、これまでの事故。以下のページを読むと全体がわかります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/V-22_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-06-15/2012061501_02_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-04-13/2012041301_03_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-25/2011102501_01_1.html

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