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2012年7月

2012.07.03

二〇一二年七月三日 火曜日 小学生たちと戦争遺跡めぐり。

二〇一二年七月三日 火曜日 小学生たちと戦争遺跡めぐり。

 雨のち晴れ。

 高知新聞の朝刊に、高知城の山に九つの横穴壕の記事が載りました。僕が調査している写真も。

 午前十時、ある小学校の五年生、六年生と先生方の乗ったマイクロバスが平和資料館・草の家近くに到着。
 南国市の戦争遺跡めぐりです。
 僕が案内人で、禅師峰寺への道脇のトーチカ跡、禅師峰寺の陸軍部隊の陣地跡、高知海軍航空隊の碑、前浜の高知海軍航空隊の掩体壕(えんたいごう)を案内しました。
 午後十二時半で終了。

 一行は、午後は、この日から高知市自由民権記念館で開かれていた「戦争と平和を考える資料展」を見学。
 平和資料館・草の家の岡村正弘館長、福井康人研究員が展示を説明しました。
 子どもたちと僕で記念写真を撮ってもらいました。うれしかった。

 草の家から電話。きょうの高知新聞の記事を見て、当時、高知県庁の勤労動員課に勤務していた女性から「私も空襲のとき、県庁の裏の高知城の山の横穴壕に逃げ込みました」との電話があったとのこと。
 さっそく、草の家に帰って、その人に電話して、聞き取りをしました。
 その人の話と、これまでの調査を総合すると、高知城の山には横穴壕は十あったようです。

 夜六時から高知短期大学専攻科の授業を受けました。

  Aさんと、二人で、もう一つリポートを書くことになりました。

 あす、調査開始。

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2012.07.04

二〇一二年七月二日 月曜日 日清戦争のときの「忠烈 川崎伊勢雄」の石碑。

二〇一二年七月二日 月曜日 日清戦争のときの「忠烈 川崎伊勢雄」の石碑。

 晴れ。

 午前、SAさんが平和資料館・草の家にやってきて高知高等学校で使っていたリュックサックを寄贈してくださいました。
 これをふくめて展示物を三つ制作しました。
 
 土佐道路を朝倉に向けてバイクで走りました。
 左手に「高知市消防団鴨田分団」。その手前に軍人墓地がありました。
 「きっと、ここに僕の求めているものがある」
 そんな確信を持って、そこに行きました。
 そこには、「下半身」がなくなっている石碑が建っていました。
 表は「忠烈 川崎伊勢□/陸軍□」。
 そばの解説の石碑を見ると、「忠烈 川崎伊勢雄」の碑でした。
 この碑は、近くの小学校の校庭にあったけれど、戦後、占領軍がやってくるのでまずいというので地中に埋めました。
 そして、戦後、掘り出して、ここに持ってきました。
 川崎については「川崎軍曹の歌」も当時、つくられましたよ。

 鴨部の、あるスーパーマーケットを観察して、リポートを書きました。

 高知短期大学の図書館に行って、大野見村の歴史を調べました。

 夕方、高知大丸周辺の平和七夕祭りの「吊り下げ」作業の写真を撮りに行きました。
 高知短期大学の二時間目はKIさんと一緒でした。

 あすの戦争遺跡めぐりのための原稿のまとめ。
 妻と、日本の戦争の年表パネルをつくりました。

 【追記】

 家に帰ってから川崎伊勢雄についてホームページを見ると「軍人顕彰会」のページにつぎの記載がありました。

 川崎伊勢雄
  <かわさき いせお>
  {生没年}
  明治6年(1873年)10月14日~明治33年(1900年)10月17日
 {最終階級}
 陸軍少尉 正八位

 川崎伊勢雄の経歴

 今や地元高知でも知る人はほとんどいなくなった川崎伊勢雄は日清戦争の初期 死んでも喇叭を離さなかった白神源次郎(或いは木口小平)、玄武門に一番乗りした原田重吉らと、 大同江単身渡河で三勇士として知られ戦記、教科書などを通して永く国民に勇名を讃えられた人である。
 高知県神田村に川崎源吉と津由の三男として生まれる。
後教導団を卒業の後陸軍騎兵軍曹となる。
 東党の乱が起こるや朝鮮を「属国」として譲らぬ清国は朝鮮に出兵し日清の雲行きが怪しくなった。
 日本政府も先に結ばれた天津条約に従って出兵した。
 この時出兵した大島混成旅団に伊勢雄は動員され朝鮮に渡り七月二十三日平壌方面への騎兵斥候として 別働することとなった。
 然るに平壌に進むには大河、大同江を渡らねばならない。
 <川崎軍曹の大同江渡河>
 折しも霧雨の候で目の前の大同江は濁流となって斥候隊の前に立ちはだかり、馬で乗り入れる者や泳いで 対岸に進もうとする者もあったが濁流の前になすすべもなかった。
 これを見た伊勢雄は軍服を脱ぐや剣を口にして飛び込むや抜手を切って濁流をものともせず遂に渡りきった が一息の間もなく大声と共に敵弾が雨のように降り注ぐな中、敵船を奪い無事引き揚げた。
斥候兵達はその勇気と豪胆に嘆賞したと云う。
 <中和の戦い>
 伊勢雄ら斥候隊が要地とした中和に、敵襲撃隊が来襲したのは大同江渡河の一週間後の明朝,
 銃声と叫喚が大地を轟かせ斥候隊を襲った。
 次々と敵兵に敵兵に斃されてゆく同胞の中、伊勢雄も乗っていた馬が被弾し落馬、片足は馬の下敷き となり立つこともできず腰の拳銃で応戦し、もはや最期と思われた時敵兵は退き九死に一生を得た。
 後、大島旅団長は平壌攻撃に向かう途上この中和に立ち寄り墓表を追悼すると共に伊勢雄ら斥候の功績 を讃えた。
 凱旋後、戦功により金鵄勲章を賜り明治二十九年には騎兵曹長に進んでいる。
 翌三十年、予備役編入後技手を拝命し陸軍軍馬補充部三本木支部に赴任し明治三十一年には少尉になっている。
 明治三十三年十月十七日、食事が中毒し若き勇者はこの世を去った。
 享年二十九歳。
 三本木理念寺で葬儀が行われ遺骨は郷里に葬られた。

 『高知県人名辞典 新版』刊行委員会編集『高知県人名辞典 新版』(高知新聞企業出版課。一九九九年九月一日)にも、彼のことが載っています。
 国会図書館には、彼の「活躍」をあらわした絵も残っているようです。

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【ニュース】高知新聞に、一九四五年七月四日付のアメリカ軍の高知市空襲のときの話、「火逃れたミシン台今も 高知市」の記事が掲載されました。

  七月四日付の高知新聞朝刊に「火逃れたミシン台今も 高知市」の記事が掲載されました。一九四五年七月四日付のアメリカ軍の高知市空襲のときの話です。

 この記事に出てくる浜田幸雄さんが、このとき、高知城の山の横穴壕に逃げ込んだ話が、高知市立自由民権記念館で開かれている「戦争と平和を考える資料展」で展示されています。

 以下のページで読むことができます。

  http://www.kochinews.co.jp/Voice?&nwSrl=290442&nwIW=1&nwVt=knd


 火逃れたミシン台今も 高知市

 2012年07月04日08時59分

 1945年7月4日未明、高知市の市街地を襲った高知大空襲。その燃え盛る炎の海を逃れたミシン台1 件が残っている。同市本町5丁目で仕立ての洋服店を営んでいた西本遊亀子さん(95)宅の1台。長年、家族の暮らしを支えてきたミシン台は所々傷付いてはいるものの、重厚な木板を鉄製の脚がしっかりと支え、まだまだ現役だ。

 遊亀子さんは洋裁学校で学んだ後、22歳の時に本町のお堀端にあった紳士服店「西本洋服店」に嫁いだ。夫の正男さんは2代目。正男さんとその父、倉次さんを中心に、職人たちが米国シンガー社製の足踏みミシンを操って、スーツを仕立てていた。場所柄、「一番のお得意さんは県庁の人」。遊亀子さんは洋服店と道一本挟んだ向かいで西本家が経営していたたばこ店の店番などをしながら、仕立ての仕事を覚えた。
 第2次大戦開戦後、43年5月に正男さんが召集された。45年7月4日未明、遊亀子さんは疎開先の同市円行寺から、南の空が真っ赤に染まるのを見た。大空襲だった。
 この時、遊亀子さんは臨月。激しい空襲が終わって間もない明け方、陣痛が始まった。三女の悦子さんはこの朝、疎開先の納屋で産声を上げた。
 本町の家が焼けたことはその日のうちに知った。ある日のこと、焼けて、もうなくなったと思っていたミシンの機械と丈夫な台が変わらぬ姿で疎開先に運ばれてきた。「無事でよかった」と思った。
 ミシンを救ったのは夫の2人の弟、三男さん(83)と幸雄さん(81)=現姓・浜田=だった。幸雄さんは当時14歳。「ミシンは洋服屋の命。これだけは焼かれたら困る」と思い、三男さんと2人で向かいの高知地方裁判所に運んでいたのだという。裁判所は空襲を逃れ、ミシンは守られた。
 戦後、正男さんが復員。焼け残った貴重なミシンを頼みにして数年後、同じ場所で店を再開した。疎開させていたラシャを使って服を縫い、お得意さんに支えられながら、店を軌道に乗せた。紳士服は主に正男さん、遊亀子さんは子育てをしながら婦人服を縫った。
 「女性の服は流行が早くて」と遊亀子さん。一世を風靡(ふうび)したミニスカート、晴れ着のワンピース…。お得意さんに頼まれて黒のコートを作った時もとても喜ばれた。
 「なんでこんなに縫うのが好きなのか、自分でも分からん。とにかく、人に喜ばれるのがうれしくて」
 ミシンの機械部分は後に新調したが、台は残した。35年ほど前に店を畳んだ後も、遊亀子さんは家族や友人の洋服を縫い続けた。
 「縫ってばかりの人生だった」と遊亀子さん。「やっぱり、戦争は絶対いかん」とあの時代を振り返り、今を見つめる。
 1年半ほど前、足を痛め、それ以来、ミシン台1 件に座ることから少し遠のいている。
 「足がもうちょっと良くなったら、また縫いたい」
 激動の時代を一緒に生きた〝相棒〟にいとおしそうに触れた。

  【写真】70年以上使ってきたミシン台1 件に優しく手を置く西本遊亀子さん。着ている服も自分で作った(高知市本町5丁目の自宅)

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【ニュース】 高知新聞に「高知城に新たな防空壕跡」の記事が載りました。

 七月三日付の高知新聞朝刊に「高知城に新たな防空壕跡」の記事が載りました。 

  http://www.kochinews.co.jp/?nwSrl=290405&nwIW=1&nwVt=knd

 高知城に新たな防空壕跡

 2012年07月03日08時55分

 高知城の城山に、戦時中に防空壕(ごう)などとして使われた横穴壕跡が少なくとも9カ所あることが、平和資料館「草の家」(高知市升形)の学芸員らの調査で分かった。戦争体験者らの証言や手記などから存在はいくつか知られていたが、位置情報などを含めた全体像の把握は初めて。中心となった藤原義一さん(65)らが7月3日からの「戦争と平和を考える資料展」でパネル展示する。

  【写真】高知公園の北西出入り口付近の横穴壕跡で「この石垣が壕の痕跡」と話す藤原義一さん

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2012.07.05

【教えてくださいませんか】 この石碑の最初の所の「川崎伊勢雄」の次の一文字はなんという字でしょうか。

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  この石碑の最初の所の「川崎伊勢雄」の次の一文字はなんという字でしょうか。

 どなたか、お教えながえませんか。

 「霊」かも知れないとおもってはいるのですが……。

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【短歌】 扇風機さえ なきぞかなしき

 勉強も 死にものぐるいか むせる部屋 扇風機さえ なきぞかなしき

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2012.07.06

高知県の埋められていた戦争の石碑の復活のさま。

  いま、「石に刻まれた高知の戦争」というテーマで調査をしています。
 高知県各地を仲間の乗用車に乗せてもらったり、自分でオートバイを駆ったりして明治維新(一八六八年)から大東亜戦争(アジア太平洋戦争)終結(一九四五年八月十五日)前後につくられた侵略についての思いを刻み込んだ石碑を訪ねています。そして、そこに刻まれていること、その碑の歴史を読み取っていくという作業をくりかえしています。
 高知市の土佐道路わきの軍人墓地にある川崎伊勢雄(かわさきいせお)さんの石碑は下半分がなくなっていました。
 表は「忠烈 川崎伊勢□□□/陸軍□□□」。そばの解説の石碑(一九八三年九月、建立。建てた人は不明)を見て、川崎伊勢雄さんの碑とわかりました。
 この碑は「かつて鴨田小学校にあり 敗戦の際秘かに校庭に埋没されていた」といいます。
 そして、「先年工事中その[石碑の]大部分が発見され」、ここ軍人墓地の一角に再建されたとのことです。
 校庭に埋めたのはアメリカなどの占領軍を恐れたものでしょう。当事者は、この碑が、子どもたちに侵略戦争熱をあおる役割を果たしていたことを自覚していたのでしょう。
 川崎伊勢雄さんは、一八七三年十月十四日、高知県神田村(いまは高知市)生まれ。その解説の石碑(一九八三年九月、建立。建てた人は不明)によると、彼は日清戦争のときの「騎馬斥候(きばせっこう)」で「日清戦争のはじめ 大同江の渡河や 中和の血戦で武勇を天下に轟かせ 歌にまで唱われた郷土の偉人です」といいますが、「偉人」という評価でよいのでしょうか。
 日清戦争は、一八九四年七月から九五年三月にかけておこなわれた朝鮮半島(朝鮮王朝)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争です。川崎さんは、この戦争で敵情や地形などをひそかに探る任務についていました。朝鮮の平壌(ピョンヤン)の「敵情」を探ろうとして大同川二千メートルを泳ぎ渡り、「敵」に発見されたが船を奪って帰る……という物語が流布されていました。
 この碑は、日清戦争からかなりあと、一九三七年からの日中戦争のさなかの一九三九年四月、地元有志によって建立されたもので、題字は川島義之(かわしまよしゆき)・陸軍大将、文章は郷土史家・寺石正路さんだということです。
 解説の碑には、「川崎軍曹の歌」が彫りこまれていました。
日清戦争はじまりて/八月三日の夜とかや/ わが斥候の一隊は/ 大同江を渡らんと/堤に到れば舟はなし/ 折しも霖雨[りんう。長雨]に水まして/ 渡るにかたきこの川の/堤に馬をのりすてヽ/軍服ぬぎすて赤はだか/口に剣をくわえつヽ/ざんぶと水に躍り入り/抜手をきって只[ただ]一人/逆巻く波をなんなくに/渡りし人は高知県/土佐の郡の鴨田村/川﨑伊勢雄という勇士/今は陸軍軍曹で/物見の役をつとめたり………
 本や新聞を読んでいて、ほかにも、いくつか、そんな事例があることがわかりました(そこにも、行ってみる予定です)。
 ○ 大野見村の大野見中央国民学校の校庭の一隅の忠霊墓地にあった乃木大将の「義勇奉公」の石碑、東郷元帥筆の「皇国荒廃在此一戦各員一層奮励努力」の石碑も「戦後、進駐軍の命令により撤去を余儀なくされたのであった。」(「」内は大野見村史編纂委員会編『大野見村史』。一九五六年十月三十日)。二つの碑は倒され、そのほとりの地中になかば埋められていました。
 「戦後十年、学校[大野見中央小学校]側の強い要望もあって、村教育委員会と民生委員会の共同提案の形で、部落長会に諮り、招魂社へ移転再建の議が漸く定まり」(『大野見村史』)、中山の招魂社敷地内への二つの石碑の移転再建がなり、一九五五年十月三十一日、除幕式がおこなわれました。 
 ○ 野市町の「忠魂碑」(一九一四年四月二日建立。高知県立第一中学校校長・大野徳孝撰)は、野市町の野市小学校(のちに野市国民学校)の入口に、国道に面して建ててありました。
 大要こんな内容の言葉が刻まれていました。
 「高知県香美郡野市村人のなかで、日清・日露の両戦役に戦没した者は計二十四人である。最近村人が合議して忠魂碑を建て、その戦没者の名を石に刻み不朽のものとするために、私に銘文を依頼してきた。
 求められるままにつくったものが左のごとくである。
 日清は戦争状態に入った。この時、こちらは小勢力で向こうは大軍であった。この大軍が最後には負けて降参し、国土を割譲して和睦した。
 今度は日露が国交断絶となった。露国の大なることは清国の五倍である。陸海軍百万の堅固な軍勢と軍艦、ヨーロッパアジアの全力を投入して東海のわが日本を圧倒せんとした。
 我が天皇陛下には大いに憤らせたまい、国民も大いに犠牲をはらい旅順を奪取し、奉天を攻略した。満洲の広野にかかっていた妖雲が晴れ、軍艦を滅ぼし、敵将を虜にして日本海はいまや波穏やかである。
 この戦勝の見事なることは、ほとんど人間業とは思われない。神業に近く世界が驚嘆した。これは『拳ほどの小石が積み重なって秀山ができ、わずかの水が集まって深海をなすに至る』のたとえのように、微々たる個々の人民もあい寄って盛大なる国運を招くことを示している。人民がみな勇猛であれば、国運は必ずさかんになる。
 偉大なる二十四人の烈士の身は国民の手本となり、生きては忠義の人であり、死んでからは護国の神となり、名を子孫に残し、天皇に祀られる。その栄誉は本人の一身にとどまらず全村の誉れである。後世の子々孫々はそのいさおを仰ぎみてその忠節の崇高なることに感じ、功績を永久に伝えるべきものとするであろう。
 うるわしき故郷の山川とともに千載の後までもその忠烈の精神をたたえよう。」
 子どもたちのために書かれた『野市読本』(香美郡野市尋常高等小学校発行。一九三六年二月五日)は、この「忠魂碑」について熱く語り「私達の心に呼びかける忠魂に向つて、郷土の為(ため)、国家の為、弛(たゆ)まぬ努力と不抜の決心を、献身の行(ぎょう)にいそしむ事(こと)を盟(ちか)はねばならない。」としていました。
 ところが、「敗戦後駐留軍の命令によってこれを倒して土中に埋めなければならなかった。」。
 そして、「平和克復後掘り起して復旧し」、野市町忠霊塔下に移したといいます(「」内は、野市町文化財保護審議会『古里之石碑』。野市町教育委員会。一九九五年十一月一日)。
 ○ 須崎町では、一九二六年、須崎八幡宮に日露戦争記念碑が建立されました。須崎町から日露戦争に出征した六十五人の中で生き残った人たちが話し合って建てたものです。
 しかし、アジア太平洋戦争が戦争が終わって、「米軍の進駐に先立ち土台からとりはずされ、[十二年余も]土中にうめられたまま人々から忘れ去られていた……」。しかし、「復古調花やかな最近になって神社総代の坂本猛猪氏から『埋めた場所を覚えているので掘出しては…』と話が持ち出された。」(高知新聞、一九五七年十二月十四日付の「くろしお」)。
 さっそく一九五七年十二月十一日朝から十二人の氏子総代が土中から、この石碑を掘り出し元の姿にかえしました。
 こうした事実を知るにつけ釈然としないものが残ります。
 侵略戦争の時代には侵略戦争を推進する碑をつくった地域の有力者たち。
 戦争に負け、アメリカなどの占領軍がやってくると、難を恐れて、そうした石碑を土の中に埋めてしまう。
 そして、占領軍がいなくなってしばらくすると、それを掘り出してきて建てなおす人々。
 日本人って……。

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2012.07.07

【ニュース】 高知駅南口近くの石川啄木父子の碑までの十二の案内板を設置。

 七日午後、高知駅南口近くの石川啄木父子の碑までの十二の案内板を関係者が設置しました。

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二〇一二年七月七日 土曜日 反戦詩人・槇村浩の小学校時代の先生の娘さん。

二〇一二年七月七日 土曜日 反戦詩人・槇村浩の小学校時代の先生の娘さん。

 曇り。

 まずは、高知市立自由民権記念館の「戦争と平和を考える資料展」の会場へ。

 NHKテレビが撮影をしてくれていました。

 午後、ある大学の大学院入学試験の説明会に参加。仲間が計六人来ていました。みな中高年です。

 この日、高知駅前に設置された石川啄木父子の碑の十二の案内板を見ました。

 また、高知市立自由民権記念館へ。

 見に来てくれた、ある女性が反戦詩人・槇村浩の高知市第六小学校時代の写真を見て、「この子を抱いているのは私の父」。お父さんは高知市第六小学校の先生だったそうです。

 資料展を見に来てくれていたUさんといっしょに食事。

 「話べた」 そういいながら 二つの手 たくみに振って 語るよ友は

 家に帰ったら、見知らぬ男性から「アメリカの空襲のとき、私も高知城の壕に入った」というはがきが来ていました。

 さっそく電話して、あす、うかがってお話をお聞きすることになりました。

 M夫妻来訪。

 妻、やっと帰宅。

 東京の息子から電話。

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二〇一二年七月六日 金曜日 ある放送記者の取材を受けました。

二〇一二年七月六日 金曜日 ある放送記者の取材を受けました。

 晴れ。

 高知市立自由民権記念館の「戦争と平和を考える資料展」に行きました。

 ある放送記者の取材を受けました。

 夜は、高知短期大学専攻科の授業、二科目を受講。

 家に帰ってからニュージーランドの経済についてのリポートのための勉強を開始。

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二〇一二年七月五日 木曜日  「閉館は あと十五分」 きょうも、また 図書館に住み いくつかを知る。

二〇一二年七月五日 木曜日  「閉館は あと十五分」 きょうも、また 図書館に住み いくつかを知る。

 晴れ。

 Aさんと二人で、あるスーパーマーケットの店長にインタビューしました。高知短期大学専攻科の授業のリポートのためのものです。

 高知県立図書館で調べもの。

 コピー百枚ほど。

 「閉館は あと十五分」 きょうも、また 図書館に住み いくつかを知る

 スーパーについてのリポートを書き上げました。

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2012.07.09

【ニュース】朝日新聞の記事「反戦詩人・槙村浩の足跡(高知市)」。僕のコメントも……。

 朝日新聞の記事「反戦詩人・槙村浩の足跡(高知市)」がネットにありました。
 うれしい。
 僕のコメントも載せてくれています。

 http://mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000141205220001

 反戦詩人・槙村浩の足跡(高知市)
 2012年05月22日

 北の多喜二、南の槙村浩(こう)――。小説「蟹工船」の小林多喜二と並び称されるプロレタリア文学作家が、戦前の高知にいた。3年2カ月の獄中生活をへてもなお反戦の信念を貫き、精神と肉体を患って26歳で逝った。長い間、故郷高知にさえ忘れられた存在だった。6月1日の生誕100年を前に、その足跡をたどった。


   --- --- --- --- 

 高梁(かう・りゃう)の畠(はたけ)を分(わ)けて銃架(じう・か)の影(かげ)はけふも続(つづ)いて行(ゆ)く
 銃架(じう・か)よ、お前(まへ)はおれの心臓(しん・ざう)に異様(い・やう)な戦慄(せん・りつ)を与(あた)へる――血(ち)のやうな夕日(ゆふ・ひ)を浴(あ)びてお前(まへ)が黙々(もく・もく)と進(すす)むとき
 お前(まへ)の影(かげ)は人間(にん・げん)の形(かたち)を失(うしな)ひ、お前(まへ)の姿(すがた)は背嚢(はい・のう)に隠(かく)れ
 お前(まへ)は思想(し・さう)を持(も)たぬたゞ一箇(こ)の生(い)ける銃架(じう・か)だ
(「生ける銃架」から)

   --- --- --- --- 

 兵士を、銃を立てかけておく「銃架」にたとえたこの詩は、満州事変翌月の31年10月に作られた。槙村が通った高知市立第六小学校の隣にあり、戦時中の資料を展示する「平和資料館・草の家」(升形)館長の岡村正弘さん(75)は「戦争は人間を魂のない存在にしてしまうというのがこの詩の意味だと思う。槙村は鋭い感性で市民にとって戦争とはなにかという本質を見抜き、告発した」と話す。
 同館では、槙村の写真や詩集など約40点も並べる。高知の平和運動の旗手だった初代館長の西森茂夫さん(2004年没)の「遺言」だった。西森さんは亡くなる前、病床で岡村さんの手を握り、こう繰り返した。「槙村浩をやってくれ。人に知られちゃせんきに」
 草の家の学芸員、藤原(ふじ・はら)義一(よし・かず)さん(65)は、大学1年のときに槙村の詩集に出あい、「詩で戦争に反対した人がいた」ということに驚いた。そして、「槙村みたいに生きなければと思い、人生が変わった」という。在学中はベトナム反戦運動に参加。5年前の退職を機に、槙村が通いつめた県立図書館などで高知の戦争中の軍事施設について調べている。
 図書館の北隣、県立文学館の学芸課長津田加須子(か・ず・こ)さんは、「槙村の詩は気持ちを率直に書いている。いま読んでも、時代状況や心の葛藤が分かりやすい」と解説する。今夏から、槙村の原稿も常設展示する予定だ。
 映画会社「四国文映社」代表の馴田(なれ・た)正満さん(64)は大学時代、先輩に連れられて槙村の墓を訪れた。「厳しい弾圧下でも自分の生き方を通した姿勢に共感した」と振り返る。
 墓は平和町の丘の中腹にあるが、戦後長く忘れられていた。同郷の作家・土佐文雄が槙村の生涯を描いた小説「人間の骨」(66年)は、土佐が鎌を手に林に入り、槙村の墓を探す場面で始まり、「孤独に耐えていた彼の墓をついに見出し」「私の目から涙がふきこぼれた」と記す。関係者らの手で69年に建てられた墓碑には、「反戦革命の詩人 槙村浩墓」と刻まれる。
 槙村の代表作は、長編詩「間島パルチザンの歌」(32年3月)だ。中国東北部の朝鮮族が多い地域で抗日運動をする朝鮮人の思いを歌う。

 おゝ
 蔑すまれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
 声なき無数の苦悩を載せる故国の土地!
 そのお前の土を
 飢えたお前の子らが
 苦い屈辱と忿懣(ふん・まん)をこめて嚥(の)み下(くだ)すとき――
 お前の暖い胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
 うなだれ、押し黙って国境を越えて行くとき――
 お前の土のどん底から
 二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!

 この詩の碑が城西公園に立つ。槙村を慕う市民が73年に製作したが、建立できる場所が見つからず、浦戸湾に近い高知市横浜に長く置かれていた。現在地に移されたのは89年のことだ。公園は槙村が収監されていた高知刑務所の跡地でもある。
 歌碑の建立や移設にかかわった詩人で「槙村浩の会」会長の猪野(い・の)睦(むつし)さん(80)は、「長い間疎外されてきた槙村を市民の懐に抱かせてあげたくて、街の真ん中に移したのです」と言う。(竹山栄太郎)

 ◇槙村浩◇ 本名吉田豊道。1912年6月1日、高知市廿代町で生まれ、第六小学校4年のとき、その博識ぶりが地元紙に「天才児」と取り上げられた。旧制海南中学校では軍事教練に反対。白紙答案を出す運動を束ね、放校された。20歳を前に本格的に詩作を始め、社会主義運動にも参加。32年4月に治安維持法違反で逮捕され、3年2カ月の獄中生活を送った。非転向のまま出所したが、獄中で患った拘禁性の躁鬱(そう・うつ)病と食道狭窄(きょう・さく)症がもとで、38年9月3日に亡くなった。

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2012.07.10

高知城の山に掘られていた十の横穴壕のことを、もっと調べたい。

 四月二十六日、高松市牟礼の高松市文化財保護協会牟礼分会の総会で「空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、地下の飛行機工場…… 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」という題で講演をさせていただきました。
 その参加者にアジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に高知市に住んでいたというかたがおられました。某銀行の支店長の息子さんです。彼が、高知城の山のふもとに掘られていた横穴壕について教えてくれました。
 「このことは、調べなくては」。五月に入ってから、その横穴壕について調べ始めました。
 何人かの人に聞くと、いくつもあったらしいということがわかりました。しかし、そのうちに調査がいきづまってしまいました。
 で、高知新聞に、こんな投書をしました。

 高知市升形の平和資料館・草の家の学芸員です。いま、[4月から]「戦争と平和を考える資料展」(7月3日~8日、高知市立自由民権記念館)に向けて、アメリカ軍機の高知県への空襲について調べなおしています。(中略)
 いまは、高知城に掘られていたいくつかの防空壕(ごう)について調べています。先日は、4人目のかたにお話を聞きました。
 本町3丁目に住んでいて1945年7月4日の空襲のとき、家族6人と、高知城の、いまの板垣退助像の近くの壕に逃げ込んだ女性です。当時、5歳。
 「上からぽたぽたしずくが落ちてきていた。下は、じゅくじゅくしていた。アセチレンの強いにおいがした」。正確な位置、天地、左右の長さ、奥行き…。「覚えてない」。無理もありません。5歳です。
 「どうやろうねえ。高知新聞に投書して、読者に教えてもろうたら。私も正確に知りたい」
 それが彼女の提案。で、この投書となりました。
 高知城のいくつかの防空壕のことをご存知のかた、草の家(088・875・1275)までご連絡いただければ、はせ参じます。

 高知新聞は、六月二日の投書欄で「高知城の防空壕」と題するこの投書を載せてくれました。
 その日の午前中に、四人のかたから平和資料館・草の家に電話がありました。
 そのあとも、つぎから、つぎへと連絡が入りました。
 午前中、おひとかた、午後、おひとかた……と、お宅にうかがって、お話を聞かせていただきました。お話をもとに壕の跡を確認に行きました。
 横穴壕が九つあったことがわかりました。
 そのことを、NHKテレビが六月十二日夕の番組で伝えてくれました。こんな内容です。

 高知城がある県立高知公園に、少なくとも9か所の防空ごうがあったことが、高知市の平和資料館の調査でわかりました。
 防空壕は高知城を囲うように点在していてそれぞれの規模ははっきりと確認できませんが、9か所のうち4か所では入り口と見られる場所に石を積み上げた跡を確認出来ます。

 約四分半でした。くだんの当時五歳の女性が、自分たちの入っていた壕の跡に入っていくシーンもありました。 
 つづいて、高知新聞が、七月三日付の朝刊の「高知城に新たな防空壕跡」の記事で、このことを報じてくれした。こんな内容です。

 高知城の城山に、戦時中に防空壕などとして使われた横穴壕跡が少なくとも9カ所あることが、平和資料館・草の家(高知市升形)の学芸員らの調査で分かった。戦争体験者らの証言や手記などから存在はいくつか知られていたが、位置情報などを含めた全体像の把握は初めて。中心となった藤原義一さん(65)らが7月3日からの「戦争と平和を考える資料展」でパネル展示する。

 展示期間中にも、「私も、そこに入った」というかたから、はがきや電話で連絡がありました。
 七月十日現在、高知城の山には、少なくても横穴壕が十か所あったことがわかっています。
 防空壕、物資を入れる壕、天皇・皇后の写真を避難させる壕、アメリカ軍が上陸してきたさいの戦闘のための壕とさまざまなようです。
 今後は、一つひとつの壕の様子、用途などをつまびらかに
していきたいと思っています。
 もし、あなたが、これらの壕のことを、ご存じなら、ご一報いただけませんでしょうか。日本国内でしたら、どこにでも、かけさんじます。

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2012.07.11

【短歌】 高知県立図書館での日々

 

きょうもまた 図書館で会う社長さん 戦跡調査の仲間の一人

あれこれと知りたいことをのべたてて 十数冊に向き合っている

地中から掘り出したという 戦争碑 いわれをたずね図書館にいる

図書館の記事検索のパソコンは 五十いくつを、いま印刷中

「閉館は、あと十五分」 きょうもまた 図書館に住み、いくつかを知る

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【短歌】あの日々の思い次々うかがって 

あの日々の思い次々うかがって まとめきれずに焦るこの夏

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二〇一二年七月十一日 水曜日 ソロモン海戦、ラバウルでの戦闘。

二〇一二年七月十一日 水曜日 ソロモン海戦、ラバウルでの戦闘。

 雨。

 ある記者から電話で転勤するとの報を聞きました。

 午前九時から、RI子さんに乗せていただいて南国市の山間部に。
 九十一歳の男性にソロモン海戦、ラバウルでの戦闘についてうかがいました。

 ある記者に取材テーマの「売り込み」。

 月刊短歌雑誌用に三つの原稿をだしました。 
 午後一時から四時、月刊短歌雑誌の編集に参加。
 新しい原稿を二本書きました。

 夜は高知短期大学で二時限続きの授業。
 三人が特別研究の構想について報告しました。

居合わせた五人の学生で大学院進学についての意見交換。

 あすの取材の準備。 

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2012.07.12

二〇一二年七月十二日 木曜日 反戦詩人・槇村浩の関西中学校時代のことを調べに岡山市に。

二〇一二年七月十二日 木曜日 反戦詩人・槇村浩の関西中学校時代のことを調べに岡山市に。

 雨

 反戦詩人・槇村浩の関西中学校時代のことを調べに岡山市に行きました。NISさん、OOさんと僕です。

 ヒントを得られそうな韓国の女性に電話しました。

 高知市に帰って修理に出していたオートバイをゲット。

 平和資料館・草の家で作業。

 高知短期大学で勉強。

 家に帰ってから、くだんの韓国の女性にメール。

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2012.07.13

ニュージーランドって、どんな国(インターネットのデータで書いてみました。)

 【地震多発の国】

 2011年2月23日付 「しんぶん赤旗」 「NZでM6.3 死者65人 クライストチャーチ 不明の日本人 十数人」。

 ニュージーランド南島の中心都市クライストチャーチを22日、マグニチュード()6・3の強い地震が襲いました。(中略)同地では、昨年9月、M70の地震が起きたばかりです。

 2011年2月24日付 「しんぶん赤旗」 「NZ地震 複雑なプレート運動が背景」。

 大地震が襲ったニュージーランドは、年間100~200回の有感地震が発生する世界有数の地震国です。1990年初めから2000年末にかけて世界各地の深さ50キロより浅いところで起こったマグニチュード(M)4・0以上の地震の分布を見ると、日本やインドネシアなどと並んで多く発生していることがわかります。(中略)

 これは、ニュージーランドが太平洋プレートとオーストラリアプレートという二つの巨大な岩板がぶつかり合う場所に位置していることと関係があります。北島と南島の北部が乗るオーストラリアプレートの下に太平洋プレートが沈み込む一方、南島の南部が乗る太平洋プレートの下にオーストラリアプレートが沈み込んでいます。(中略)

 両者の中間にあたる南島の中央部には東西方向に横ずれ断層が発達しています。このため、プレートの沈み込みに伴って発生するプレート境界型の巨大地震だけでなく、内陸の活断層による地震も頻発しています。

 南島の中央部にあるクライストチャーチの近郊では、昨年9月、この横ずれ断層が動いたことでM7・0の地震が起こりました。東京大学地震研究所などの解析によると、今回の地震は昨年の地震の真東にあたるクライストチャーチの直下で起こりました。(後略)

 【原子力発電所、ゼロの国】

 オーストラリア生活情報サイト NICHIGO ONLINEの「第7 原発ゼロの国NZの地熱発電 201186日」から。

 (前略)ニュージーランドは、原発を持たず地熱などの再生可能エネルギーで電力をまかなう政策をとっている。(中略)

 牧草地と針葉樹林を通るなだらかな勾配の1本道を登り切ると、前方に吹き上がる白煙が見えてくる。工場から突き出る噴煙とは違い、水分を含んだ雲のようにふんわりと湧き上がるその煙は、ニュージーランド最大規模の地熱発電所から出る水蒸気だ。

 ニュージーランド最大の都市オークランドから車で約4時間。NZ北島のほぼ中央のタウポ火山帯に位置するワイラケイ地熱発 電所は、1958年に運転を開始した世界で2 番目に古い商業用地熱発電所で、出力17 キロワット、約17万世帯に電力供給が可能だ。

 発電所敷地内に張り巡らされた全長70キロに及ぶメタリック・シルバーのパイプの中には、摂氏約200度の熱水と蒸気が流れて いるが、特殊加工により外側に熱が放出されることはなく、実際にパイプに触らせてもらうと、ほどよい温かさで頬を付けることさえできた。

 地下1,0003,000メートルにあるマグマ溜まりに熱せられた地下水と水蒸気でタービンを回転させ発電するこの地熱発電は、福島第1原発事故後、ますます脚光を浴びる発電システムだ。地球内部の熱の移動や放射性物質の崩壊により生み出される地熱エネルギーは、膨大かつほぼ無限。燃料を地上で燃やさないためCO2の排出量は極めて少なく、発電に使った地下水は冷却され再 び地下に戻され、原発のように危険な使用ずみ燃料を出すこともない。また、太陽光 や風力発電のように天候や気象条件に左右 されず24時間電力を安定供給することが可能で、まさにいいことづくめの「再生可能 自然エネルギー」だと言える。

 今年2月に発生したクライストチャーチ大地震の記憶も新しい地震国ニュージーランドは、国内に原子力発電所を1基も持たず、水力や風力などの再生可能エネルギーで電力の7割以上をまかなっていて、そのうち地 熱発電は総発電量の13%を占めている。し かもNZ政府は、2025年までに国内電力の9 割をこれらの再生可能エネルギーに転換させるという目標まで立て、新しい地熱発電 所の建設も続々と推し進めている。

 また、ワイラケイ発電所周辺には、日本の富士電機が地熱タービンを設置した単機容量世界最大のナアワプルア地熱発電所や、東芝が発電設備を受注した2013年開業予定のテミヒ地熱発電所などもあり、多くのニュージーランドの地熱発電所に日本企業の高度な技術が採用され、多大な貢献をしている事実に少々驚かされた。(後略)

 PROFILE 飯島浩樹(いいじま・ひろき)

 日本の民放局でニュース番組のディレクターなどを経て来豪。現在、TBSのシド ニー通信員として多くのニュース・レポートを日本に送っている。

 【「非核政策」の国】

 同記事。

 ニュージーランドが地熱発電など再生可能エネルギー開発を積極的に推進している もう1つの背景に、この国が堅持するユニークな「非核政策」がある。

 1950年代からアメリカやフランスなどが南太平洋で繰り返し行った核実験は、ニュージーランド国民にとって脅威となり、当時の国際平和運動の高まりと相まって「反核」はNZ国民の悲願となった。

 1985年には、フランスのムルロア環礁での核実験に反対した環境保護団体の船がオークランド港に停泊中、仏の諜報工作員によって爆破される事件が起き、NZ国民の「反核」感情はますます高まりを見せ、1987年ついに世界初の「非核法」が成立した。

 NZの「非核法」は、外国の原子力艦船 の入港を含む自国への核の持込を一切禁止し、原子力発電所の建設も認めないという徹底したもので、 (後略)

 【経済の課題、強みと弱み】

 「地球の歩き方 ニュージーランドの歩き方」のサイトの「第6 ニュージーランド経済の基礎」、「第11 ニュージーランド経済の課題」、「第12 ニュージーランド経済の強み」から。執筆者は塩出慎吾さん。1966年生まれ、東京大学経済学部卒業。1990年より18年間株式会社リクルートに勤務。

 第6 ニュージーランド経済の基礎(2008.09.22

 (前略)

 Q: ニュージーランド経済の規模は?

 (中略)人口でみてもGDP(国内総生産:その国の人たちが生み出した商品、サービスの総合計)や貿易額でみても日本の25%の範囲におさまっています。

 ちなみに、ニュージーランドの428万人という人口は、日本の都道府県と比較すると静岡県(379万人)より多く、福岡県(504万人)より少ないという規模です。国土面積は日本の3/4もあるのに、人口はたったこれだけしかいない(=人口密度が低い)というのは驚きですね。都会のオークランドやクライストチャーチにいるとそれほど意識しませんが、ドライブで田舎道を走ってみると見渡す限り家がない、という風景が当たり前に続きます。

 Q: 主な輸出品は?

 ニュージーランドの輸出品といえば「農産物」です。中でも乳製品は輸出全体の20%を超え、続いて肉類が12%弱、さらに木材が6%と続きます。(2006 JETRO調べ 以下同じ)

 時々オーストラリアとあわせて「資源国」といわれることがありますが、実際にはアルミニウムほかで輸出全体の8%程度にとどまっており、「資源国」と呼ぶには適していないと思います。

 農産物の輸出品は他にも果物・ナッツ類(3.5%)、タンパク質でんぷん等(2.9%)があり、水産物(3.0%)も加えると輸出全体の47.7%を占めています。立派な「農林水産業立国」ですね。

 Q: 主な輸入品は?

 鉱物燃料<主に石油>(14.5%)、機械・機器(13%)、輸送用機械<主に自動車>(12.1%)、電気・電子機器(9.1%)、プラスチック(3.7%)、光学測定・医療機器(2.8%)、医薬品(2.5%)、紙・板紙・製紙用パルプ(2.3%)、航空機(2.2%)、船・ボート(2%)

 となっています。実はニュージーランドではほとんど工業製品を作っていません。自動車、TV、エアコン、パソコンといった身の回りの家電や生活に必要な製品はほぼ全て輸入に頼っています。唯一 Fisher & Paykelという会社が冷蔵庫、ディッシュ・ウオッシャー、洗濯機などの白物家電を国内で製造しているのが目立つくらいです。

 また、石油についても国内油田の開発を進めているものの、現在は大半を輸入に頼っています。

 Q: 輸出と輸入、どちらが多いの?

 上の2つの解説の通り、ニュージーランドは農林水産物を輸出し、工業製品・燃料を輸入することで成り立っています。工業製品の方が高付加価値(≒単価が高い)ということもあり、長年にわたり輸入額の方が多い、いわゆる「貿易赤字国」になっています。

 Q: 主な貿易相手国は?

 輸出では

 オーストラリア(21.9%)、アメリカ(11.5%)、日本(9.2%)、中国(5.3%)、イギリス(4.5%)、韓国(3.6%)

 輸入では

 オーストラリア(20.8%)、中国(13.3%)、アメリカ(9.8%)、日本(9.2%)、シンガポール(5.2%)、ドイツ(4.7%)

 の順になっています。隣国オーストラリアのシェアが輸出入ともにトップ、かつ2割を超えているのが大きな特徴で、ニュージーランドは良くも悪くもオーストラリアと密接に結びついているといえます。

 Q: 政府の財政赤字は?

 実はニュージーランド政府は世界でも珍しい「財政黒字」国でした。1980年代に財政赤字が逼迫したことを機にさまざまな公営企業を売却・民営化し、徹底した市場原理を導入、「小さな政府」に生まれ変わったのです。結果、2007年度までは順調に黒字基調が続いていました。ただし、2008年度以降の数年間は、税収の減少(その中には2008年から実施される減税も含まれています)により財政赤字に転落すると政府が発表しています。

 Q: ニュージーランドは「豊かな国」?

 ニュージーランドはOECD(経済開発協力機構:別名「お金持ちクラブ」)に加盟していますし、1人当りGDP25,000ドルを超えている立派な「先進国」です。

 OECD 加盟国の中で1人当たりGDPを比較すると、日本が14(35,650ドル)、ニュージーランドは19位イタリアと21位スペインにはさまれた20位(27,146ドル)となっています。1人当たりの収入も1人当たりGDPにおおむね比例するので、ニュージーランドでの平均所得は日本のそれの約80%と考えてもらえばいいと思います。

 収入が8掛けでも商品が同じように安ければ、理屈の上では生活水準は変わらないことになります。ここまで解説してきたように、ニュージーランドでは食料品を多く生産(食料自給率は300%:今の3倍の国民を食べさせることができます)しており、その分食費は安く上がります。しかし、逆に工業製品は全て輸入をしているので割高になってしまうのです。特に新車などは日本で買うよりはるかに高く、そのため多くの人は輸入中古車を買っています。

 つまり、ニュージーランドは

 「工業製品を買わず、外食やサービスもあまり利用しない」

 というつつましやかな生活をする人にとっては

 「割安に豊かな暮らしができる国」

 ですし、逆に

 「いつも新製品を買いたいし、外食やサービスにもたくさんお金を使う」

 という人にとっては「何を買うにも割高な国」となってしまうのです。

 (後略)

 第11 ニュージーランド経済の課題(2008.10.27)

 (前略)

 Q: 「対外債務」ってどういう意味?

 (中略)ニュージーランド(以下NZ)は輸入が輸出を上回る恒常的な「貿易赤字」国です。観光立国でもあるので、毎年多くの旅行者がNZにお金を落としてくれますが、貿易赤字を埋めるほどではありません。ということは、そのままでは

 資金流出>>資金流入

 となり、どんどん国として貧乏になっていきます。

 そのため、多くの新興国、発展途上国と同じように

 「政策金利(公定歩合)を高めにする」

 ことにより、他国から資金を調達しています。金利が高ければ、それに合わせて投資を回収する時の利回りも高めになっていくので、その国に投資する意欲もわきますよね。

 ここ数年NZの公定歩合は最高8.25%と先進国としてはかなり高いレベルで推移してきました。そのため超低金利の日本をはじめとして、多くの国から資金を集めることができました。

 海外から資金を調達しているので、NZから見ればそれは対外債務(借金)となります。その対外債務の大きさが問題なのです。

 Q: NZの「対外債務」はどれくらい大きいの?

 対外純債務(海外から流入した資金から海外へ流出した資金を差し引いた金額)の絶対額でみれば、日本円で6兆円程度とそれほどではありません。しかし、国の経済力を示すGDP(国内総生産)との比率でみてみると、以下の通りになります。

 ニュージーランド:89

 オーストラリア:61

 アメリカ:40

 アイスランド:160

 一年にNZが生み出す価値(GDP:7兆円弱)の約9割を海外からまかなっているかっこうです。

 GDP比率でみると、NZの対外債務はアイスランドほどではありませんが、借金大国のアメリカを超え、同じような境遇のオーストラリアよりもさらに高くなっています。

 ちなみに、アイスランドは今回の金融危機で「大手銀行がすべて国有化」「株式市場閉鎖」「為替が暴落」と最大の被害を受け、「国家破産の危機」の状態といわれている国です。

 アイスランドは高金利を武器に資金を集め、その大半を海外に投資することにより「金融立国」として最近大きく成長してきましたが、金融危機により全てが逆回転となり、現在の窮状となっています。

 Q: 「対外債務」が大きいと何が問題なの?

 借金が全て悪いわけではありません。逆に全てを自己資金でまかなおうとすると、せっかくの成長するチャンスを逃してしまいかねません。「将来返せるあてがある」のであれば、借金をすることは問題ありませんよね。

 しかし、個人や企業、そして国でも

 「身の丈を超えた」

 借金は身を滅ぼします。アイスランドは明らかに分不相応なまでの借金をしてしまったために破綻の危機に直面しています。ニュージーランドの借金はそこまでひどくはありませんが、しかしやはり過大な借金を抱えていると言わざるを得ません。実は、この対外債務のうち、何割かはここ数年で増加しているのです。

 Q: なぜ「対外債務」が大きくなったの?

 好景気だった2000年からの8年間で、ニュージーランドの対外債務はGDP比率で25%ほどふくれ上がり、この多くは住宅投資に回りました。人々は持ち家だけでなく、投資用にローンを組んでセカンドハウスを購入しました。それを賃貸に回したり転売してキャピタルゲインを得ていたのです。また、企業も住宅価格上昇を見込んで大規模マンションを建設し、リゾート開発を進めました。これらの資金の多くが海外から調達されました。

 住宅価格が上昇している間は潤沢に追加資金が海外から投入され、何の問題もありませんでした。しかし、住宅バブルが崩壊し、価格が下落し始めると多額の配当・利子負担が重荷になってきたのです。

 住宅価格は昨年と比べ1割下落し、住宅に投資していたファイナンス会社の多くがこの2年の間に倒産、閉鎖を余儀なくされてきました。また、ちまたには「抵当流れ(住宅ローン返済ができなくなり、差し押さえになった物件を銀行など金融機関が見切り処分すること)」で安売りする物件も出てきていますし、住宅価格の底はまだ見えてきていません。

 Q: 今後「対外債務」は増えていくの、それとも減っていくの?

 要するにNZは国全体として住宅建設のため海外から借金をしたものの、バブル崩壊によって担保割れを起こし、返済計画も滞りがちという状態です。

 世界経済が絶好調であれば「追い貸し(さらに追加で資金を貸し出すこと)」があったかもしれませんし、平時であれば、「返済計画のやりなおし(=返済期限の延長)」くらいで済んだかもしれません。しかし、現在は金融危機の真っただ中、信用収縮が比較的信用できるはずの国内の銀行間でも起きており、ましてや海外から資金を調達することは徐々に困難になってきています。

 海外からの資金には長期で借りているものもありますが、90日以内の短期で借りている資金も多く、これらは順次支払期限を迎えています。今までであれば楽に同じ条件で「借り換え」ができたのが、貸し出し条件が厳しくなったり、全額の借り換えができなくなったりという事態が発生しつつあります。

 また、長期で調達している資金についても、NZの公定歩合利下げに伴い金利が低下傾向にあり、投資家にとってうまみが減っています。そのため、今までのように大量に調達するのは難しく、こちらも額としては減っていく傾向にありそうです。

 つまり、短期、長期の両方で海外から資金が調達できなくなっていくわけです。

 Q: 海外からの資金調達が厳しくなると、どうなるの?

 今までお金がジャブジャブと湯水のごとく使えていたから、住宅バブルが発生したという一面もあります。この状態が元に戻ると考えてください。

 銀行にとっては元手になる資金が減るため、銀行はより「安全な貸出先」を厳選して貸すようになります。つまり、貸出基準の厳格化が起き、これまでのように簡単には住宅ローン審査がおりなくなりそうです。企業融資や他の自動車ローンなども同様で、企業としても個人としてもなかなか借金ができなくなります。

 厳しくなる、といっても「以前の状態に戻る」だけです。住宅ローンを借りるのであれば頭金20%は必要だし、年収について審査もきちんとする、という当たり前のステップを踏むようになるだけです。それを怠ってきたこの数年間が異常で、結果としてバブルをよりひどくさせたといえます。

 ただし、今後実体経済がより厳しくなってくれば、銀行もなりふりかまっていられなくなり、日本のバブル崩壊の時に社会問題になった

 「貸し渋り」や「貸しはがし」

 といったことも発生するかもしれません。今はまだその兆候は表れていませんが、今後の景気動向や銀行の業績に対しては注意が必要です。

 Q: 今後の見通しは?

 根本的な問題は冒頭にあげたNZの「恒常的な経常赤字(自らが稼ぐよりも多くの商品を海外から買っている状態)」体質です。これを解決しないことには、対外債務は減りません。あるNZエコノミストの試算によると、経常収支を均衡させるためにはNZ全体で年間1兆円程度支出を削減しないといけないそうです。これはGDPの1割強にあたります。

 不況になれば、自然と消費や設備投資は落ち込みます。住宅バブル崩壊にあわせた不況により、身の丈に合った状態に経済が縮小していく、というのが経常収支均衡までの一番ありそうなシナリオです。

 「第12 ニュージーランド経済の強み」(2008.11.03)から。

 (前略)

 Q: 「貿易赤字」「過大な対外債務」などニュージーランド経済の「弱み」についてはよくわかったけれど、逆に「強み」を教えて!

 ●強み1:食料自給率が高い

よく「ニュージーランド(以下NZ)の食料自給率は300%」という数字をNZにまつわる本やウェブサイトで見かけますが、実はこれに該当する統計はありません。NZ政府が発表しているのは「穀物自給率」のみで、昨年度は71%となっています。穀物とは「小麦・米・トウモロコシ」のことで、主食として消費されるだけでなく、畜産の飼料としても使われています。この数値は穀物輸出大国のオーストラリア200%超、アメリカ100%超などと比べても決して高くなく、主食と飼料に関していえば、海外からの輸入が必要なのです。

 それではなぜNZが「食料自給率が高い」といわれるのでしょうか。穀物以外の食料(肉類・酪農品や野菜・果物といった農産物)をみてみると、国内消費と比較して肉類・酪農品で何と20倍、農産物でもほぼ同額が輸出に回されているからです。「食料自給率300%」というのは、穀物とこれら肉類・酪農品・農産物を大ざっぱにならした結果のようです。

 ちなみにNZ国土面積の半分以上を占める膨大な牧草地のうち、平坦な一部を穀物生産に切り替えることは可能で、そうなると「食料完全自給」も視野に入ってきます。自国民を養う以上の食料が生産できる、ということは非常な強みといえます。

 (藤原注・食料自給率は、国内で消費される食料のうち国産で賄われている割合を示す指標。一般に供給熱量ベース総合食料自給率が用いられます。栄養価である供給熱量(カロリー)を尺度に、国内で消費される熱量を算出し、そのうち国産で賄われる割合を示します。2010年度の日本の食料自給率は39%です。)

 ●強み2:エネルギー自給率が高い

 石油、ガスについてはまだまだ大半を輸入に頼っているのが現状ですが、NZ政府は近海での油田・ガス田の開発を進めており、海外依存から脱却しようとしています。

 また、驚くことに電力の70%超が水力・地熱発電といった「再生可能資源」から調達しており、政府はこの比率を2025年までに90%にまであげると公約しています。石油・ガスの自給が可能になり、水力・地熱発電がこの公約通りに伸びれば食料同様「エネルギー完全自給」も夢ではなくなってきます。

 そうなると、石油価格高騰に悩まされる必要がなくなり、持続的かつ安定的な成長が可能になります。

 ●強み3:高率の人口増加が続いている

 人口が増えるのは自然増(「出生数」から「死亡数」を差し引いたもの)と社会増(「外国からの流入」から「外国への流出」を差し引いたもの)の2つの要因があります。日本の場合ほとんど移民がいないので、前者だけ(しかも昨年すでにマイナスを記録)ですが、ニュージーランドの場合、後者もかなりの比率(約25%)を占めており、双方あわせて毎年約1%人口が増加しています。

 この数値は先進国の中ではアメリカ・オーストラリアと並んでかなり高く、これだけで(他の要素が全く変わらなくても)GDP(国内総生産)を1%押し上げてくれます。

 ●強み4:強力な観光資源を持ち、多くの観光客を引きつけている

 ニュージーランドはその豊富な自然が観光資源として世界中に知られています。直近の観光客数は1年間で120万人と、人数ではフランスの7000万人などと比較してたいしたことはないように思えます。しかし、人口比でいうと30%と高率ですし、さらにほぼ全員日帰りではなく宿泊して多くのお金を落としてくれることを考えると、かなり有望な産業といえます。国内旅行分も含めてですが、観光産業はGDPのうち8.9%を占めています。

 あと、非常に大きいのがNZドル安の際に強みを発揮するということです。通貨安は輸出にも追い風なのですが、いかんせん農産物・畜産品が主流なので、「すぐに生産を増やす」ことができません。しかし、旅行であれば「割安になったから今度の休暇はNZに遊びに行こう」と流入増に結びつきやすいのです。ただし、景気が悪くなると旅行、特に費用のかかる海外旅行は真っ先にとりやめになってしまう傾向があるので、「景気があまりに悪くならない」という前提条件がつきますが。

  Q: 「強み」からみたNZ経済の先行きは?

 ひとことでいうと、「底堅い」ということになります。サブプライム問題に端を発した信用危機でアメリカ・欧州はひどい状況になることが予想されていますし、これに引きずられて世界全体の景気が悪化していくかもしれません。また、NZ国内でも不動産価格の下落は深刻さを増しつつあります。

 しかし

 1. 自分たちの食いぶち&エネルギーは最低限きちんと確保でき

 2. 安定的な人口増によってパイも徐々に大きくなり

 3. NZドル安が続けば観光収入も増える

 ということを考えると、欧米諸国と比較して景気の谷は深くないと思われます。あくまで比較の話なので、もし「1930年以来の大恐慌」が再来したらNZもそれ相応の被害を受けることにはなります。しかし、その場合でもキウィ(ニュージーランドの人たちは自分たちのことをこう呼びます)流の「シンプル&スロー」な生活は確保できるのではないでしょうか。

 【日本とニュージーランドの貿易】

  ニュージーランド大使館のホームページの「日本とニュージーランドの貿易」から。

 「日本はニュージーランドにとってオーストラリア、米国に次ぐ第三位の貿易相手国で、2006年の輸出額は357000万ニュージーランドドルに達しています。高品質の石炭、アルミニウム、農業産品の供給国として、ニュージーランドは日本にとって資源供給のため戦略的にも重要な国となっています。

 ニュージーランドが第一次産品を日本へ輸出し、日本からは自動車、機械、光学機器、エレクトロニクスなどの製造品をニュージーランドに輸出するというかたちで、良好な貿易関係を長年築いてきました。

 ニュージーランドの対日主要輸出品は、アルミニウム、木製品、魚介類、乳製品、野菜、果物などです。最近の傾向では、教育サービス、カスタムメイドのソフトウエア開発、あらゆる種類の工業製品など伝統的な輸出品目以外の分野の輸出に著しい成長がみられます。

 人口4百万人強のニュージーランド国内はとても大きな市場とはいえず、多くのニュージーランド企業は海外との取り引きによって事業を成長させています。ニュージーランドの輸出企業は規模の大小にかかわらず、輸出相手国の市場の需要にあわせようと努力し、またあわせる能力を持っています。

 ニュージーランド貿易経済促進庁(当大使館商務部)は多くの企業の輸出事業を支援しています。(後略)

 

 【最初から環太平洋連携協定(TPP)に参加】

 日本の環太平洋連携協定(TPP)は、もともと、シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国の貿易協定です。例外なしの関税撤廃のほか、広い分野で各国の制度の調和を目指す協定です。当初から、アジア太平洋地域の他の諸国が加入することを想定していました。

 アメリカは、みずからこの協定に加入し、太平洋をめぐる諸国へ拡大することによって、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)のようなアメリカ主導の貿易圏の形成を目指しています。

 なお、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)は、アジア太平洋地域を一つの貿易圏にまとめようという構想。2006年のAPEC首脳会議でブッシュ米大統領(当時)が提案。2009年のAPEC首脳会議はその検討を確認。10年11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議(横浜)はその推進を確認。

 アジア太平洋経済協力会議(APEC)は、アジア太平洋地域の19カ国と2地域が参加する地域機構。19カ国は、日本、韓国、中国、ロシア、ベトナム、フィリピン、シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、パプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、アメリカ、メキシコ、チリ、ペルー。2地域=香港と台湾。

 ニュージーランドの政府(外務貿易省)がホームページでアップしているTPP交渉についての文書にはつぎのように書いてあります。「全参加国が交渉文案、各政府の提案、それに付属する説明資料、交渉内容にかかるEメールなどについて、秘密扱いにする」、「すべての参加国は、これらの文書を、TPP協定の発効後4年間、あるいは協定が発効にいたらなくても、最後の交渉会議から4年間、秘密扱いにする予定である」。(2012年1月27日の日本共産党志位和夫委員長の衆議院本会議での代表質問)。

 【国内でもTPP批判の運動が……】

 ニュージーランドにもTPPに批判的な人がいます。

 労働組合や団体、個人からなるニュージーランドの「TPPウオッチ」は、「TPPは事実上、秘密裏に立案されて、将来の政策と法律を決める将来の政府とわれわれの民主的権利を縛る大企業の権利章典だ」と批判しています。

同国で特に憂慮されているのは、医薬品を国民に安く供給する制度を、アメリカの製薬業界が敵視していることです。ニュージーランドでは、医薬品管理庁(PHARMAC)が医薬品を買い入れ、安く供給する制度があります。TPP交渉で、この制度も米側の標的にされています。看護師協会など医療団体は、「多国籍製薬企業にPHARMACの立派な仕事を脅かさせるな」と訴えています。50歳以上の高齢者の団体「グレー・パワー」も、「PHARMACに手を出すな」と声を上げています。(しんぶん赤旗、20111019日付、北川俊文「TPPが国内の制度壊す 豪・NZで批判 薬価抑制 米業界が敵視」)。

 ジェーン・ケルシーさん(ニュージーランドのオークランド大学教授)も、TPP反対を東京の街頭や国際シンポで説いて回りました。教授の編著書『異常な契約―TPPの仮面を剥ぐ』(農山漁村文化協会)は読者を得て、運動の一助になっています。(しんぶん赤旗、2012319日付、「潮流」)。

 【ニュージーランドの脅威】

 日本がTPPに加入したら……。ニュージーランドの酪農は日本の生産者にとって脅威です。

 JA熊本中央会会長の園田俊宏さんは「熊本県がTPP参加で第一に影響を受けるのは、酪農です。/熊本は西日本一の酪農地帯です。同じ酪農地帯の北海道はいま、かなりの部分を加工乳にまわしていますが、ニュージーランド、豪州とは競争できません。そうなれば、北海道の酪農は生き延びるために加工乳を生乳にかえて、出荷するでしょう。北と南の酪農は、規模もコストも違います。県の試算では、熊本県の酪農は壊滅します。」と、いっています。(しんぶん赤旗、2011年1月26日付、「いま言いたい 『自給率50%』どこへ」)。

 【ニュージーランドの基礎知識】

 以下、「ウィキペディア」の「ニュージーランド」のデータから。

 南西太平洋のポリネシアに位置しています。北島には、首都ウェリントンがあり、政府機関が集中しています。オークランドは、商業および経済の中心地となっています。オークランドの年間降水日は100日以上です。南島の中心都市はクライストチャーチ。島の中央には南アルプス山脈がそびえます。気候は、ほぼ全土が西岸海洋性気候に含まれ、夏は涼しく、冬の強烈な寒波もありません。1年を通して温暖な気候ですが、北島・南島ともにスキー場があります。

 総人口は約427万人で、人口密度(1 km2当たり)約16人です。1世帯当りの敷地面積は約500m2、住宅床面積は約200m2です。

 2006年の国勢調査では、人口の約68%がヨーロッパ人で、先住民族マオリ人が約15%です。みずからを「ニュージーランド人」と認識する人々で約12.9%ですが、そのほとんどは以前はヨーロッパ系に分類されていた人々です。アジア人は9.2%で、2001年の国勢調査では、6.6%でしたが急増しています。太平洋諸島人は6.9%です。

 イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国です。政体はニュージーランド国王を国家元首とする立憲君主制です。ニュージーランド国王は連合王国国王(イギリス国王)と同一人物ですが、王位は独立して存在します(同君連合)。ニュージーランド政府(通例はニュージーランドの首相)の助言に基づき国王により任命されたニュージーランド総督が国王の職務を代行します。行政府の長は首相です。議会による選出にもとづき、総選挙で最も多くの議席を獲得した政党の党首が選出され、ニュージーランド総督が任命します。副首相および閣僚は、首相の推薦に基づきニュージーランド総督が任命します。

 国民一人あたり所得は約270万円、失業率は6%20101-3月期)ですが就労者は全人口の約50%2010年。日本は約65%)です。

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槇本楠郎についての資料集。

 槇村浩が、 槇本楠郎の作品に触発されていたのかもしれないというこで、槇本の資料集をつくることにしました。

 ● ウイキペディア 槇本楠郎

 槇本 楠郎(まきもと くすろう、本名:楠男[1]、1898年8月1日 - 1956年9月14日)は、日本の童話作家、詩人、評論家。プロレタリア児童文学の先導者でもあった[2]。娘に童話作家の槙本ナナ子がいる。
 岡山県吉備郡足守町(現:岡山県岡山市北区足守)で、六人兄弟の三男として生まれる。家は裕福な農家であった[1]。
 中学生の頃から文学に関心を持ち始め、当初医者になるためにドイツ語を勉強していたが、これを放棄し短歌を始めた。当時用いた雅号には孤舟、憔果などがある[3]。1915年に詩歌集『壁土』を、友人と共著で自費出版。
 1917年に上京して早稲田大学予科に入学、しかし学校へはあまり行かず、文学を読みふけって自らも創作活動に勤しみ、1919年に退学。翌年帰郷して隣村の富農の娘と結婚[1]。1922年に長女ナナ子誕生、それにともなって一時帰郷した。このころから裕福であった実家が経済的に困窮し始めた。
 1922年に再び上京し、酒井朝彦が編集していた『女学生』に、童話「豊の再生」が掲載され、初めての原稿料をもらった。このころから生活が苦しくなり始め、また病気がちとなっていた[4]。同年、自費出版で処女詩集『処女林のひびき』を刊行[2]。
 1923年、困窮していた実家が破産、帰郷して家や田畑、山林の差し押さえなどの対応に追われた[2]。そのまま上京出来ず、岡山県で小作農となった。1924年、次女スミレ誕生。
 1926年、『文芸戦線』に評論を発表。翌年には同誌にプロレタリア童謡と称した童謡「小さな同志」を発表。この年、一時期東京毎夕新聞社に入社したが、同年中に退社[2]。
 1927年に藤森成吉らと前衛芸術家同盟を結成。また翌年の1928年には日本プロレタリア芸術連盟と合同となり、全日本無産者芸術連盟(のちに全日本無産者芸術団体協議会に改組)を結成。また小川未明らと新興童話作家連盟[2]を結成。槇本はそれぞれの機関紙『戦旗』『童話運動』に、童話や評論などを精力的に執筆した[5]。その翌年である 1929年、新興童話作家連盟は解散。また同年、次女スミレが死去、三女ちまた誕生。
 1930年、初の評論集『プロレタリア児童文学の諸問題』(世界社)を出版するが、発売禁止となった[5]。翌年の1931年には『小さい同志』(自由社、川崎大治との共著)を出版、これも即日発売禁止処分となった[6]。1933年には『教育論叢』に小泉礼一のペンネームで童話を発表。
 1936年から37年にかけて、雑誌などへの作品の発表が多く、最も充実した時期となった。1938年、童話「母の日」で第一回童話作家協会・金の星社童話賞を受賞[7]。
 1939年、病に倒れるが、病床で作品の執筆(口述筆記含む)を続けた。1942年に一次回復したが、翌年に再び病に倒れる[7]。以来病状は回復せず、口述筆記による執筆が多くなっていった。病床にありながらも児童文学者協会の発起人として名を連ねたほか、日本童話会、新日本歌人協会に参加[8]。
 1956年、病状が悪化。同年9月14日に喀血し、永眠。享年58[8]。

 主要な著作
 童話、童謡
『赤い旗』(1930年、紅玉堂)
『小さい同志』(1931年、自由社、川崎大治との共著)
『仔猫の裁判』(1935年、文章閣)
『海の底のピアノ』(1940年)
『月夜の密柑山』(1941年、フタバ書院)
『太鼓の鳴る村』(1946年、昭和出版)

 評論など
『プロレタリア児童文学の諸問題』(1930年、世界社)
『新児童文学理論』(1936年、東宛書房)
『新しい日記の書き方』(1951年、泰光堂)

 翻訳
 アレクセイ・パンテレーエフ『金時計』(1933年、楽浪書房)

 脚注
1.^ a b c 『日本児童文学体系30』 p.589
2.^ a b c d e 『日本児童文学体系30』 p.590
3.^ 『日本児童文学体系30』 p.507
4.^ 『日本児童文学体系30』 p.508
5.^ a b 『日本児童文学体系30』 p.591
6.^ 『日本児童文学体系30』 p.592
7.^ a b 『日本児童文学体系30』 p.593
8.^ a b 『日本児童文学体系30』 p.594

  参考文献
『日本児童文学体系30』(1978年、ほるぷ出版)

  外部リンク
  槙本 楠郎:作家別作品リスト(青空文庫)

 人物紹介

 http://www.urban.ne.jp/home/festa/makimoto.htm

 赤い旗

 http://www.aozora.gr.jp/cards/001175/files/49039_42030.html

 兵隊さん

 http://www.aozora.gr.jp/cards/001175/files/49068_42033.html

 

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吉田豊道さん(のちの反戦詩人・槇村浩さん)の一九三一年三月現在の高知市での住所。

 七月十三日、吉田豊道さん(のちの反戦詩人・槇村浩さん)の一九三一年三月現在の高知市での住所は「高知市廿代町八九」だったことが、当時の文書によってわかりました。
 そこが、いまのどこにあたるのか。高知市役所の地籍調査課に問い合わせ中です。

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2012.07.15

二〇一二年七月十五日 土曜日 高血圧なのに、低血圧で「クラッ」。

二〇一二年七月十五日 土曜日 高血圧なのに、低血圧で「クラッ」。

 雨のち晴れ。

 高知県立図書館に調査を依頼していた「昭和初期の同図書館の蔵書について、どのように調べたらいいか」について、ご返事をいたただけました。感謝。

 定期の健診で病院に行きました。
 病名は、高血圧などです。
 待合室で「クラッ」と来ました。
 この一か月くらい、ときどきこうなります。
 診察室で血圧を測った医師が「立ちくらみがしませんか」。
 「ええ、さっきも。このあいだ、高知県立図書館で上のほうにある本をとろうとするとクラッとしましたので、少しイスに座ってから作業を再開しました」
 ほかにも自宅で二階から一階におりようとするときにクラッということもありました。
 「手血圧ですね」
 えーーーっ、なぜ、私は高血圧の治療をしているはずなんですが………。

 電話をかけまくって、あるテーマの取材対象者に行きつきました。
 やっほー。

 平和資料館・草の家へ行って資料の整理。

 ある放送記者と、電話で、取材についての打ち合わせ。撮影は来週水曜日になりました。

 高知市立自由民権記念館での講演を聞きました。
 参加者の一人に、高知市朝倉の歩兵連隊、和知部隊の隊員だったお兄さんの戦死についての資料を見せていただきました。

 家に帰ってから『高知の戦争 証言と調査』十七号の原稿をHIさんの助けを借りて校了にしました。
 メールで印刷担当のかたに送信しました。

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二〇一二年七月十五日 日曜日 「いくさ日を 三十人に 取材して まとめきれずに あせるこの夏」。

二〇一二年七月十五日 日曜日 「いくさ日を 三十人に 取材して まとめきれずに あせるこの夏」。

 雨、晴れ。

 高知県海洋会のことを知りたくて、その会の幹部宅を訪問しました。

 高知市の元帥・永野修身生誕の地の石碑を見に行きました。

 午後一時から、高知市内での高知歌人の歌会に参加。計九人の参加。
 私の作品に痛烈な意見が続出。それを受けて、つぎのように改善しました。
 
 いくさ日を 三十人に 取材して まとめきれずに あせるこの夏

 いま、高知民報に連載させていただいている「石に刻まれた高知の戦争」の九回目の原稿を完成させました。

 うわーーっ、やはり、きょうもシンデレラ時間がやってきました。

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2012.07.20

【石に刻まれた高知の戦争】 香南市山北大日本帝国の朝鮮侵略の爪跡を刻み込んだ石碑。

  香南市香我美町山北一五五三の一の香南市文化財センターの右手の山を登った所に大日本帝国の朝鮮侵略の爪跡を刻み込んだ石碑があります。

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【石に刻まれた高知の戦争】 香南市野市町土居番ロの立山神社にも「香美郡東川村 末延元吉 大正二年」の石碑がありました。

 香南市野市町土居字宮床1356番イ_1356番ロの立山神社に「香美郡東川村 末延元吉 大正二年 建立」の石碑がありました。
 これは倒れていて裏面しか見ることができません。

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【石に刻まれた高知の戦争】 香南市野市町土居の立山神社に「日露戦役戦利品 陸軍省御下附」の石碑があります。

  香南市野市町土居字宮床1356番イ_1356番ロの立山神社に「日露役戦利品 陸軍省御下附」の石碑があります。
 碑の頭に、その戦利品が乗っていたようですが、いまは、それはありません。

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【石に刻まれた高知の戦争】 香南市徳王の若一王子宮に「香美郡東川村 末延元吉 大正二年建立」の「軍人安全百度石」の石碑。「軍」をぬりつぶす。

 香南市香我美町徳王の若一王子宮に「香美郡東川村 末延元吉 大正二年建立」の「軍人安全百度石」の石碑がありました。
 この石碑の短歌は、高知市の土佐神社のものとは内容が違います。
 共通していることは、ここでも「軍」の文字がぬりつぶされていることです。

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石に刻まれた高知の戦争】 香南市野市町西野の深淵(ふかぶち)神社にも「香美郡東川村 末延元吉 大正二年建立」の「軍人安全百度石」の石碑。

 香南市野市町西野一二〇二の深淵(ふかぶち)神社にも「香美郡東川村 末延元吉 大正二年建立」の「軍人安全百度石」の石碑があります。
 この石碑の短歌は、高知市の土佐神社のものとは内容が違います。

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二〇一二年七月二十日 金曜日 高知短期大学専攻科の社会調査論が終了。思わず拍手してしまいました。先生、素晴らしい講義をありがとうございました。

二〇一二年七月二十日 金曜日 高知短期大学専攻科の社会調査論が終了。思わず拍手してしまいました。先生、素晴らしい講義をありがとうございました。

 雨、晴れ。

 ビラの作製、印刷。
 
 頼もしい女性、四人に電話して話をしました。
 みな、それぞれに屈しない女性たちです。

 昨日の「石に刻まれた高知の戦争」の調査の結果をブログに書きました。

 午後、平和資料館・草の家の会議に参加しました。
 その最中に、大阪の女性の新聞記者から電話で反戦詩人・槇村浩さんのことについて問い合わせがありました。
 夜、高知短期大学へ。

 二日間 寝る間惜しんで ビラつくり 「読んでください」 学び舎に置く

 二時間目の専攻科の社会調査論は本日で終了。
 私は、思わず拍手してしまいました。
 先生、ありがとうございました。
 半年間、素晴らしい講義でした。

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【この地球上の、世界のみなさんへ】 夜間の高知短期大学よ。永遠なれ。藤原義一のメッセージ。

 社長や副社長が自分の会社を「必要のないもの」として、これをつぶすために走り回る、存続してという人たちを、あれこれと策をろうして鎮圧してまわる--。そんな光景を私は、見たことがありません。

 ここ高知市の夜間の高知短期大学(社会科学科は一学年定員百二十人。専攻科は十五人)では学長、副学長が、みずからの大学をつぶすために、先生たちをおさえこみ、学生たちにあきらめなさいと説得しています。私の人生のなかでは見たことのなかった異常な光景です。

 このことでが学者として良心をさいなまれ苦しんでいる先生たちがいることも、私は知っています。尊敬している先生たちです。

 学長を任命したのは県知事です。その学長が、この大学をつぶしますと県知事に提案し、知事が、それではつぶしましょうと県議会にはかっています。
 この人間模様。知事、学長、副学長の高知短期大学つぶしの三角同盟のさま。ひゃー、すさまじいですね。これが政治ですか。

 僕は、いつまでも子どもで「おとなの世界のやりとり」に嫌悪感をいだいています。しかし、いつか、「このどろどろ」と向かいあい、それを小説に書きたいと思っています。主人公は年老いてなお、権力志向の、ある女性、私の高等学校の先輩になると思います。この女性のやることを、じっくり観察しておきたいと思っています。

 この九月県議会にも廃止を決定づける案が提案されようとしています。
 おどろくべきことに学長も知事も「高知短期大学は、こんなに悪い大学だから、絶対つぶさなければいけない」という理由はひとっつも示せないでいます。

 彼らをあやつる、私たちにはわかせない、知事にも有無をいわせない謎の政治権力でもいるのでしょうか。何か、背筋がゾーッとします。
 大学教育を享受する。そのことに恵まれなかった女たちや男たちが、困難な夜の学び舎を選んで、そこで学び、「つぎ」に進もうと努力しています。
 それが、そんなに許されないことなのでしょうか。
 

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【短歌】 亡き友に問う。

 「あのね、僕。こう思うけど、どうだろう?」 悩んだ果てに 亡き友に問う

 おーい。小池倍夫。

 おーい。蜜石誠二。

 くやしいねー。

 君に電話できなないなんて。

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2012.07.22

雑誌『新青年(しんせいねん)』、一九二二年九月号に長瀬鳳輔「[讀物]神童吉田豊道君」が掲載されているというメール。

 雑誌『新青年(しんせいねん)』(発行は博文館など)は、日本で一九二〇年に創刊され、一九五〇年まで続きました。
 それの一九二二年九月号に長瀬鳳輔「[讀物]神童吉田豊道君」という記事が載っているそうです。
 未知のかたがメールで教えてくださいました。

  吉田豊道は、のちの反戦詩人・槇村浩です。

 著者の長瀬鳳輔(ながせほうすけ)さんは、以下の略歴の人。
 一八六五年十月三日~二六年七月七日。アメリカ、のちドイツのベルリン大学でまなぶ。帰国後、陸軍大学校、早稲田大学の教授を歴任。参謀本部編修官となります。一九二二年、国士舘学長。備前(岡山県)出身。東京外国語学校卒。著作に『列国の現状と日本』など。

 この名前、記憶にあります。
 参謀本部編修官のとき、高知市で吉田豊道に会って感激し、彼の母に彼を私の養子にと申し入れた人です。

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二〇一二年七月二十二日 日曜日 戦死した池本清一郎さんのこと。

二〇一二年七月二十二日 日曜日 戦死した野市の池本清一郎さんのこと。

 宿毛市の男性から忠霊塔についての問い合わせの電話がありました。

 高知県の野市出身の池本清一郎さんのことを調べ始めました。
 アジア太平洋戦争で戦死した人で、いくつもの油絵を残しています。

 高知市内の原子力発電所ノーの集会に参加。
 知り合いの大学の先生たちも参加していました。
 「ひさしぶりに」会った妻に、〝私たちの集団の写真を撮影しなさい〟と指示されました。

 いま、ある新聞に連載中の「石に刻まれた高知の戦争」、二十回までやらせていたただけることになりました。いまは七回目が掲載されたところです。

 池本清一郎さんについて高知県立図書館で資料を探しました。
 平和資料館・草の家研究員のFさんが来ていました。
 近くで研修中だけど昼休みに……ということでした。
 近く放送される民放のテレビ番組に出演するとのことでした。
 横に座っていた女性が話しかけてきました。
 名刺を渡すと「高知城の(戦争中の)壕のことを調べている。あの藤原さんですか」

 高知短期大学存続運動のためのつどいに参加しました。

 私の感じではキャッチフレーズは「高知には やっぱり必要 夜の二年制大学」という感じですね。

 参加者の一人、GEさんが「ほかにも高知城の壕を知っている。土木用の印をつけるものを持ってきたら、そこにいって説明します」。
 
 終わってから「印をつけるもの」を買いに行きました。

 帰宅。
 槇村浩についてのデータについてメールが着いていました。
 未知の人でした。 
 ありがとうございます。

 友人SAさんたちの演奏会でチケットも買っていたのに行けませんでした。

 残念。ごめんなさい。

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2012.07.23

【短歌】 夜の学び舎の「生涯教育論」の授業。

毎回が 一番の前の 女子学生 たぶん食い入る 目をしているよ 

まっすぐに 前を見つめて 聞いている 盲目の君 夜の学びや

ゴマシオも 「うん、うん、うん」と 体(たい)ゆすり 聞き入ってるよ 学びの授業

半年の 授業の最後 パチ、パチが まきおこってる 夜の学び舎

高知には やっぱりいるよね 二年制 夜学ぶ群れ 若きも老いも

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2012.07.26

ミニ歌集 「高知短期大学をうたう」

 ブログ「短歌の花だより」に短歌を書いています。そのなかの昨年秋からのもので高知短期大学についてうたったものを抜き書きしました。私は、東京都で働いていましたが六十歳で仕事をやめ、高知短期大学に通いました。そして、香川県の徳島文理大学文学部文化財学科に編入し、ことし三月に卒業しました。そして、四月に高知短期大学専攻科に入学しました。(二〇一二年七月)

         

突然の廃止宣言の夜  

「この学校 解消します」 理事長の 理由は一つ 「時代にあわぬ」

「学校を みんなで守ろう」 学内に 手書きポスター はられていったよ

良心貫き生きよう

人生を 良心貫き 生きようと 女性が歌う 研修のバス

つぎつぎと 「存続させよう」 メール来る ぽかぽか陽気の 冬の日のこと

高知市の街頭で

目を合わせ 「お読みください」 ビラ渡す 守りたいです 夜の学びや 

「残そうよ。夜の短大」 わが「保護者」 街頭に立ち 署名すすめる

「ありがとう!」 ハンドマイクの 声弾む 夜の学びや 守れの署名

専攻科を受験しました

あと一年 夜の学びに 入りたい 「私は保護者 もうやめたから」

専攻科 願書出したよ 決断し 六十五歳で また一年生

わが番号 五〇一も そこにある ホームページで 合格を知る

高知短期大学の入学式

「廃止せよ」 暴風の中 入学の 一二三人 夜の短大

入学の 五十歳から 十四人 最年長は どうも僕だね

受験生 横浜から来た 六十四 「第三の人生」 始めるという

「残そうよ 夜の短大」 入学式夜 つどいのさなか

「私も 会に入るわ」 うれしいね 新入生も 短大存続

夜の教室の仲間たち

職場から 駆けつけてきた 女子学生 仕事着のまま 学生になる

まっすぐに 前を見つめて 聞いている 盲目の君 夜の学びや

「毎日が 感動です」と 六十四 夜の二年の 女子学生です

学友会展の写真

「カミナリにうたれた少年、いま学ぶ」 学友会展 写真のまなざし

車いす、言語障害、盲目の青年がいる 夜の学びや

車いす そばにしゃがんで 話しこむ いいやつがいる 夜の学びや

「歩行器で立って歩こう」 放課後の訓練見守る仲間、先生

夜の学び舎の「学びの授業」

毎回が 一番の前の 女子学生 たぶん食い入る 目をしているよ 

ゴマシオも 「うん、うん、うん」と 体(たい)ゆすり 聞き入ってるよ 学びの授業

半年の 授業の最後 パチ、パチが まきおこってる 夜の学び舎

高知にはやっぱりいるよね

「そうですよ。あきらめちゃったら終わりです」 電話の先の陽気に出会う

存続の ニュースの写真 青空で 県民の会 準備伝える

高知には やっぱりいるよね 二年制 夜学ぶ群れ 若きも老いも

藤原義一

090-7820-3812

bqv01222@nifty.com

               

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2012.07.27

二〇一二年七月二十六日 木曜日 子ネコ・「ちびサラン」の正体は……。責任は「放蕩息子」か……。

二〇一二年七月二十六日 木曜日 子ネコ・「ちびサラン」の正体は……。責任は「放蕩息子」か……。

 晴れ。

 妻は二日続きで実家泊まり。

 歌集『高知短期大学をうたう』をつくって印刷しました。

  庭に出ると最近、わが家を訪問している白い子ネコが庭でたゆたっていました。
 わが家のオス猫・サランにそっくりな子ネコです。
 「さては、……」
 実に胸にキューンとくる哀しげな鳴き声をあげます。
 鋭い目をしている子です。赤い口が不気味。
 心の中で、この子に「ちびサラン」の名をたてまつりました。

 午後、短歌雑誌の校正に参加。

 平和資料館・草の家へ。三人で反戦詩人・槇村浩(まきむらこう)の年表を完成させました。

 「戦争遺跡の案内を」という相談があったそうで、すぐ、返信しました。

 高知短期大学で、調べものをしました。

 「おーーっ、これだ!!」 ピューッと口笛 吹いている インターネットの 陸軍資料

 家に帰ると妻が帰っている様子。
 二階の勉強部屋(夫婦、それぞれの机があり、それぞれのパソコンが置かれています)に行きました。ギョツ。「ちびサラン」が、たゆたっています。

 ベットの妻をゆりお起こし、「どうするつもりだ。三匹目を飼うつもりか」。
 「しらんうちに入ってきている。飼うつもりはない。でも、放蕩(ほうとう)息子のやったことの後始末を考えている母親の心境で……」。すっかりサランの子と認定していました。

 戦跡めぐりのコースを検討するためのデータをつくってファクスで送りました。

 大会用の短歌をひとつつくりました。

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NAさん、FUさんへのお知らせ 戦利品下付の資料がアジア歴史資料センターのホームページにたくさんあります。

 以下の言葉などで検索してみてください。

 「戦利品」

 「戦利品 下付」

 「戦利品 下付 高知」

 日清戦争のころから軍に神社、学校、博物館、アメリカなど外国から「戦利品をください。展示します」というお願いの文書が来て、軍がそれにこたえていることがわかります。なかには、「神社のここに、こんなふうになえつけますので」という図が入ったものもあります。

 昨日から検索をはじめましたが、いまのところ高知のケースは二つ。日清戦争のあとのもの、日露戦争のあとのものです。

 

 

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2012.07.29

二〇一二年七月二十九日 日曜日 ワオーッ、宿毛市の沖の島。【写真、岩礁の釣り師たち】

二〇一二年七月二十九日 日曜日 ワオーッ、宿毛市の沖の島。

 晴れ。

 午前八時半、宿毛市の港に約二十人が集合。宿毛市、四万十市、高知市の人が参加する沖の島ツアーです。

 沖の島の人口は二〇〇六年現在二百八十三人。いたる所に斜地が見られ平地は少ない。母島地区と弘瀬地区を中心に大小五つの集落より形成されています。
 今回行くのは広瀬地区です。

 船では、外の後部に乗り込みました。写真を撮影するためです。
 船からアジア太平洋戦争中の特攻関係の壕のようなもの、自衛隊の艦船や美しい風景を見ました。

 沖の島に着きました。
 自由時間がいっぱい。
 ・神社に行きました。ここにも忠魂碑が……。
 ・高知短期大学専攻科のリポートのための買い物調査をしました。
 ・昼飯は焼き肉をお呼ばれしました。
 ・山口県から四万十市へきている小学校一年生の女の子、五年生の男の子が泳いでいるというので、僕もドッボーン。「海中トランポリン」を楽しみました。へその所まで飛び上がれるようになりました。
 ・荒木初子さんの生家に行きました。

 帰りの船では「屋上」に乗りました。
 イルカを見ました。
 釣り人二人を岩礁に降ろすのを見ました。

Photo

 四万十市に帰る女性の車に便乗させていただいてJR中村駅へ。

  高知市の井上書店に寄って槇村浩関連の本を三冊ゲット。

 妻は、今夜も実家泊。
 東京の娘たちは、夫かたのツアーに参加したのち高知に来るとのこと。

 【参考】

 ウィキペディア

 荒木初子(1917年 - 1998年)(保健婦)
 弘瀬出身。沖の島(鵜来島兼任)の駐在保健婦として長年にわたり活躍し、地域の保険衛生環境の改善・向上に多大な貢献をした。第一回吉川英治賞を受賞しその半生は小説(「沖ノ島」よ 私の愛と献身を)を経て映画化された(孤島の太陽)。自宅は弘瀬地区に現存する。

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二〇一二年七月二十八日 土曜日 石碑に砲弾を乗せているものがあるとの電話。

二〇一二年七月二十八日 土曜日 石碑に砲弾を乗せているものがあるとの電話。

 晴れ。

 香南市野市の男性から電話。石碑に砲弾を乗せているものがある、関連する資料も見つけたとのこと。早速、月曜日にうかがうことにしました。

 高知民報の連載の九回目、十回目の原稿を完成させ、メール送信。

 午後、弟の車に乗せてもらってJR伊野駅へ。途中、東の奈路という所の山中にトーチカのようなものがあること、香南市役所の近くに砲弾を乗せた碑のようなものがあることを教えてもらいました。

 JR伊野駅から宿毛市へ。

 中村からの電車のなかで若い女性のニューファッションに遭遇。
 上下ともアロハ風のはでながらの上下。上は半袖の着物風。下は半パン。足下はつっかけ。
 計八人、三グループが同じスタイル。
 夏休みファッションか。

 列車のなかで読んだ本で得た知識をメモしておきます。

 高知県立中学海南学校は高知市九反田の棒堤にありました。木造校舎でした。
 当時の同校のことを同校の生徒だった町田尚久(大正十四年四月入学~昭和五年三月に卒業)が書きのこしています(『海南百年 高知市小津高等学校百年誌』。高知県立高知小津高等学校。一九七三年八月)。
 「…入学当時は、着物姿でランドセルの上級生が、肩をいからせて、かっ歩するのに挙手で敬礼するのが忙しかったことを思いだす。
 それは海南学校特有の古いスタイル(夏はキビラ、冬は紺の木綿和服に袴)から、一般的な新しいスタイル(夏は霜降り、冬は紺色の詰襟洋服)への移行期だったので、私たちは洋服で肩にかける鞄という服装であった。授業で武道のある日には、小さい体をして、肩から鞄をさげたうえに、竹刀や剣道用のけいこ着と袴を持っての通学だった。
 南に鏡川、北に運河のある狭い運動場では、毎朝、運河沿いの楠の下に、和服姿の五年生がたむろしていた。始業朝礼前のひととき、下級生で生いきそうなのを次々呼び出して『きたえる』のがならわしになっていたが、単独で呼び出されたり、クラス全部で呼ばれたりした。五年生の前に不動の姿勢で整列してお説教を聞き、時々駆足させられたものだが、海南学校は特に軍隊ムードが強かったので、むしろ誇り高い習慣と考えられていた。軍隊式といえば合図がすべてラッパ吹奏で行なわれ、正午のラッパにはその場で静止しなければならない変なおきてがあった。また生徒控所に学用品を残置して教室へは、その時間に必要なもののみ携帯させられたし、昼食は、その控所で立って食べるのであった。しかも質実剛健を旨とするとかで弁当の副食物は漬物か梅干に限られ、食前に生徒監の教師が点検して歩くという、今にして思えば、時代錯誤ともいうべきならわしであった。
 学校の行事として心に残るのは、春の五千メートル競走とか、冬の一万メートル競走、吸江湾で行う夏休みのす鯔(ぼら)がり、秋の他中学校との対抗競技会、秋の軍事訓練遠足(行軍)などなつかしい思い出が多い。(中略)高知桟橋公園から長浜までのランニングと、その後で行なう地曳き網や昼食の味、学校から鏡川を回るマラソン競争など全校参加で行われた…(後略)」
 同校の制服改正は、大正十四年四月で、冬は紺の小倉詰襟、夏は霜降となりました。

 高知県立中学海南学校の地歴の教諭だった寺石正路は「(吉田豊道が)体操教師と反目して土佐中学校を追われたとき海南学校へ引きとり、さらに、ここでも教練教師に反抗し、退学寸前のところを岡山関西中学校へ転校させた」といいます(『海南百年 高知市小津高等学校百年誌』。高知県立高知小津高等学校。一九七三年八月)。 

 宿毛市のビジネスホテル泊。

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二〇一二年七月二十五日 水曜日 勉強部屋の壁に描かれた「アダムとイブ」、「天使」。

二〇一二年七月二十五日 水曜日 勉強部屋の壁に描かれた「アダムとイブ」、「天使」。

 晴れ。

 午後、ARさんと高知市曙町の高知大学へ。
 生活協同組合の食堂は広くなっていますね。
 僕たち学生と教職員が手を結ん高知大学生活協同組合をつくりました。
 実際に運営にたずさわった学生は、先輩の村上さん、同級の藤中さん、一学年下の山本さん、仁井田さん……。
 大学の門を入って右手の高知師範学校の石碑を見ました。

 香南市野市の民家を訪ね、戦死した男性が中学校時代に勉強部屋の壁に描いた油絵の「アダムとイブ」、「天使」を見せていたただきました。

 帰りに「エチオピアまんじゅう」の店に寄りました。

 高知市に帰り、その戦死したかたの妹さんのお宅にうかがって、お話を聞かせていただきました。

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二〇一二年七月二十四日 火曜日 地域経済について学生のリポートにもとづく討論。

二〇一二年七月二十四日 火曜日 地域経済について学生のリポートにもとづく討論。

 晴れ。

 午前、大学院受験の準備。

 高知短期大学専攻科の授業、二科目受けました。
 二時間目は地域経済について学生のリポートにもとづく討論。
 僕のリポートは今度。

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二〇一二年七月二十三日 月曜日 結婚して三か月目の戦死。

二〇一二年七月二十三日 月曜日 結婚して三か月目の戦死。

 晴れ。

 高知新聞のデータベース部へ。香南市野市の戦死した男性の記事をゲット。

 午後、平和資料館・草の家へ。

 午後五時半、戦死した男性の妻だった人に、お話をうかがいました。結婚して三か月目に戦死したそうです。
 聞きながら涙ぐんでしまいました。

 高知短期大学の二時間目の授業を聞きました。

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二〇一二年七月二十一日 土曜日 TAさん(女性)のぴしっと決める発言。

二〇一二年七月二十一日 土曜日 TAさん(女性)のぴしっと決める発言。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。
 NAさんに会いました。

 午後、高知短期大学で高知短期大学学友会総会。
 猪野睦さんの槇村浩についての講演がありました。
 そして、総会。
 ARさんはTAさん(女性)のぴしっと決める発言に感激。
 「すかっとした」

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2012.07.30

【短歌】 「恋しい」と 叫び続ける 声なのか……。

 「恋しい」と
 叫び続ける 声なのか
 ミンミンミミン わが家をつつむ

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2012.07.31

高知県香美市の神社にあった「戦利兵器奉納ノ記」=明治四十年、陸軍大臣・寺内陸軍大臣。

Photo

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本土決戦の一断面 高知県香美市土佐山田町町田の神社・ 加茂大明神にある兼松砲隊の石碑。

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  高知県香美市土佐山田町町田の神社・ 加茂大明神にある兼松砲隊の石碑。本土決戦期に、このあたりに駐屯していました。

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