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2012.07.06

高知県の埋められていた戦争の石碑の復活のさま。

  いま、「石に刻まれた高知の戦争」というテーマで調査をしています。
 高知県各地を仲間の乗用車に乗せてもらったり、自分でオートバイを駆ったりして明治維新(一八六八年)から大東亜戦争(アジア太平洋戦争)終結(一九四五年八月十五日)前後につくられた侵略についての思いを刻み込んだ石碑を訪ねています。そして、そこに刻まれていること、その碑の歴史を読み取っていくという作業をくりかえしています。
 高知市の土佐道路わきの軍人墓地にある川崎伊勢雄(かわさきいせお)さんの石碑は下半分がなくなっていました。
 表は「忠烈 川崎伊勢□□□/陸軍□□□」。そばの解説の石碑(一九八三年九月、建立。建てた人は不明)を見て、川崎伊勢雄さんの碑とわかりました。
 この碑は「かつて鴨田小学校にあり 敗戦の際秘かに校庭に埋没されていた」といいます。
 そして、「先年工事中その[石碑の]大部分が発見され」、ここ軍人墓地の一角に再建されたとのことです。
 校庭に埋めたのはアメリカなどの占領軍を恐れたものでしょう。当事者は、この碑が、子どもたちに侵略戦争熱をあおる役割を果たしていたことを自覚していたのでしょう。
 川崎伊勢雄さんは、一八七三年十月十四日、高知県神田村(いまは高知市)生まれ。その解説の石碑(一九八三年九月、建立。建てた人は不明)によると、彼は日清戦争のときの「騎馬斥候(きばせっこう)」で「日清戦争のはじめ 大同江の渡河や 中和の血戦で武勇を天下に轟かせ 歌にまで唱われた郷土の偉人です」といいますが、「偉人」という評価でよいのでしょうか。
 日清戦争は、一八九四年七月から九五年三月にかけておこなわれた朝鮮半島(朝鮮王朝)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争です。川崎さんは、この戦争で敵情や地形などをひそかに探る任務についていました。朝鮮の平壌(ピョンヤン)の「敵情」を探ろうとして大同川二千メートルを泳ぎ渡り、「敵」に発見されたが船を奪って帰る……という物語が流布されていました。
 この碑は、日清戦争からかなりあと、一九三七年からの日中戦争のさなかの一九三九年四月、地元有志によって建立されたもので、題字は川島義之(かわしまよしゆき)・陸軍大将、文章は郷土史家・寺石正路さんだということです。
 解説の碑には、「川崎軍曹の歌」が彫りこまれていました。
日清戦争はじまりて/八月三日の夜とかや/ わが斥候の一隊は/ 大同江を渡らんと/堤に到れば舟はなし/ 折しも霖雨[りんう。長雨]に水まして/ 渡るにかたきこの川の/堤に馬をのりすてヽ/軍服ぬぎすて赤はだか/口に剣をくわえつヽ/ざんぶと水に躍り入り/抜手をきって只[ただ]一人/逆巻く波をなんなくに/渡りし人は高知県/土佐の郡の鴨田村/川﨑伊勢雄という勇士/今は陸軍軍曹で/物見の役をつとめたり………
 本や新聞を読んでいて、ほかにも、いくつか、そんな事例があることがわかりました(そこにも、行ってみる予定です)。
 ○ 大野見村の大野見中央国民学校の校庭の一隅の忠霊墓地にあった乃木大将の「義勇奉公」の石碑、東郷元帥筆の「皇国荒廃在此一戦各員一層奮励努力」の石碑も「戦後、進駐軍の命令により撤去を余儀なくされたのであった。」(「」内は大野見村史編纂委員会編『大野見村史』。一九五六年十月三十日)。二つの碑は倒され、そのほとりの地中になかば埋められていました。
 「戦後十年、学校[大野見中央小学校]側の強い要望もあって、村教育委員会と民生委員会の共同提案の形で、部落長会に諮り、招魂社へ移転再建の議が漸く定まり」(『大野見村史』)、中山の招魂社敷地内への二つの石碑の移転再建がなり、一九五五年十月三十一日、除幕式がおこなわれました。 
 ○ 野市町の「忠魂碑」(一九一四年四月二日建立。高知県立第一中学校校長・大野徳孝撰)は、野市町の野市小学校(のちに野市国民学校)の入口に、国道に面して建ててありました。
 大要こんな内容の言葉が刻まれていました。
 「高知県香美郡野市村人のなかで、日清・日露の両戦役に戦没した者は計二十四人である。最近村人が合議して忠魂碑を建て、その戦没者の名を石に刻み不朽のものとするために、私に銘文を依頼してきた。
 求められるままにつくったものが左のごとくである。
 日清は戦争状態に入った。この時、こちらは小勢力で向こうは大軍であった。この大軍が最後には負けて降参し、国土を割譲して和睦した。
 今度は日露が国交断絶となった。露国の大なることは清国の五倍である。陸海軍百万の堅固な軍勢と軍艦、ヨーロッパアジアの全力を投入して東海のわが日本を圧倒せんとした。
 我が天皇陛下には大いに憤らせたまい、国民も大いに犠牲をはらい旅順を奪取し、奉天を攻略した。満洲の広野にかかっていた妖雲が晴れ、軍艦を滅ぼし、敵将を虜にして日本海はいまや波穏やかである。
 この戦勝の見事なることは、ほとんど人間業とは思われない。神業に近く世界が驚嘆した。これは『拳ほどの小石が積み重なって秀山ができ、わずかの水が集まって深海をなすに至る』のたとえのように、微々たる個々の人民もあい寄って盛大なる国運を招くことを示している。人民がみな勇猛であれば、国運は必ずさかんになる。
 偉大なる二十四人の烈士の身は国民の手本となり、生きては忠義の人であり、死んでからは護国の神となり、名を子孫に残し、天皇に祀られる。その栄誉は本人の一身にとどまらず全村の誉れである。後世の子々孫々はそのいさおを仰ぎみてその忠節の崇高なることに感じ、功績を永久に伝えるべきものとするであろう。
 うるわしき故郷の山川とともに千載の後までもその忠烈の精神をたたえよう。」
 子どもたちのために書かれた『野市読本』(香美郡野市尋常高等小学校発行。一九三六年二月五日)は、この「忠魂碑」について熱く語り「私達の心に呼びかける忠魂に向つて、郷土の為(ため)、国家の為、弛(たゆ)まぬ努力と不抜の決心を、献身の行(ぎょう)にいそしむ事(こと)を盟(ちか)はねばならない。」としていました。
 ところが、「敗戦後駐留軍の命令によってこれを倒して土中に埋めなければならなかった。」。
 そして、「平和克復後掘り起して復旧し」、野市町忠霊塔下に移したといいます(「」内は、野市町文化財保護審議会『古里之石碑』。野市町教育委員会。一九九五年十一月一日)。
 ○ 須崎町では、一九二六年、須崎八幡宮に日露戦争記念碑が建立されました。須崎町から日露戦争に出征した六十五人の中で生き残った人たちが話し合って建てたものです。
 しかし、アジア太平洋戦争が戦争が終わって、「米軍の進駐に先立ち土台からとりはずされ、[十二年余も]土中にうめられたまま人々から忘れ去られていた……」。しかし、「復古調花やかな最近になって神社総代の坂本猛猪氏から『埋めた場所を覚えているので掘出しては…』と話が持ち出された。」(高知新聞、一九五七年十二月十四日付の「くろしお」)。
 さっそく一九五七年十二月十一日朝から十二人の氏子総代が土中から、この石碑を掘り出し元の姿にかえしました。
 こうした事実を知るにつけ釈然としないものが残ります。
 侵略戦争の時代には侵略戦争を推進する碑をつくった地域の有力者たち。
 戦争に負け、アメリカなどの占領軍がやってくると、難を恐れて、そうした石碑を土の中に埋めてしまう。
 そして、占領軍がいなくなってしばらくすると、それを掘り出してきて建てなおす人々。
 日本人って……。

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