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2012年8月

2012.08.02

「ラブ・ミー・テンダー」割烹着〜ず 忌野清志郎

割烹着〜ず「ラブ・ミー・テンダー」
http://www.youtube.com/watch?v=DKQlL6QWmjs

忌野清志郎 LOVE ME TENDER 【放射能はいらねぇ!】
http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=kLyEg-eXf1g

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二〇一二年八月二日 木曜日 フィリピン人、ペルー人、中国人の学生たちと交流。

二〇一二年八月二日 木曜日 フィリピン人、ペルー人、中国人の学生たちと交流。

 晴れ。

わが高知市大津の田辺島(たべしま)の民家の入口に置いてあるアメリカ軍の焼夷弾の一部を見せてもらいました。ここも一九四五年七月四日のアメリカ軍の空襲で被害を受けています。

 大学院入試のための大学からの卒業証明書、成績証明書が届きました。
 大学院入試のための顔写真を撮影しに行きました。

 あす報告する貿易論特講のリポートを観点を変えて書き直しました。

 高知短期大学の日本語講座の学生たちと社会科学科、専攻科の学生で交流しました。
 先生は良さそうな人でした。
 生徒はフィリピン人、ペルー人、中国人。
 各国についてのクイズを解き、フィリピン、ペルーの料理をいたただき、フィリピンの竹踊りを楽しみました。
 中国人は、この間、街で見かけた人でした。「社会科学科に入学しませんか」と話をしました。子どもが県外の大学に行っていて、つぎの子どもが高校二年生。うーん、お金がたくさんいる時期ですねー。

 帰ると「ちびサラン」、「クニョ」が待っていました。
 今夜も妻は実家泊。

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二〇一二年八月一日 水曜日 「土佐山田町神母ノ木(いげのき)の三益社という下駄工場で飛行場用の木の丸い棒をつくっていた」。

二〇一二年八月一日 水曜日 「土佐山田町神母ノ木(いげのき)の三益社という下駄工場で飛行場用の木の丸い棒をつくっていた」。

 晴れ。

 午前十時、高知県土佐山田町町田に駐屯していた山砲兵の宅を訪問しました。
 こんなことも教えてもらいました。
 「戦後知ったことだが土佐山田町神母ノ木(いげのき)の三益社という下駄工場で飛行場用の木の丸い棒をつくっていたということです」
 高知県四万十町窪川の高知海軍航空隊第三飛行場で滑走路用につかっていたものと同じものののようです。

 夜、高知短期大学存続のための話し合いに参加。

 家に帰ってから文書ひとつとニュースをつくりました。

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二〇一二年七月三十一日 火曜日 テーマは「TPPと日米同盟」。

二〇一二年七月三十一日 火曜日 テーマは「TPPと日米同盟」。

 晴れ。

 地域経済のリポートを書きました。

 少しだけ平和資料館・草の家へ。常任理事のNIさんが、槇村浩の資料を展示できるように製本してくれていました。この人の前向きで献身的な姿勢には頭が下がります。

 高知市の繁華街のアーケード平和の折鶴を降ろす作業に、少しだけ参加。
 妻も来ていました。
 平和資料館・草の家の若い事務局員が「この袋には、この折鶴の束を」とテキパキとリードする姿に感激しました。
 先ほど、平和資料館・草の家で事務局長と二人で、そのための準備をしているのを見ていました。

 とにかく高知短期大学の二時間目の授業へ。
 地域経済の授業です。
 社長をやっている学生の戦後の経済の歩みの詳細なリポートを聞いているうちに、貿易論特講の私のリポートのテーマを変えようと思い立ちました。
 そのテーマは「TPPと日米同盟」です。

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二〇一二年七月三十日 月曜日 高知県香美市土佐山田町町田の神社の周辺に駐屯していた陸軍山砲隊。

二〇一二年七月三十日 月曜日 高知県香美市土佐山田町町田の神社の周辺に駐屯していた陸軍山砲隊。

 晴れ。

 香南市役所の近くの橋を渡った所に飾ってある、砲弾、「忠魂碑」。その上の忠霊塔の右手にある殉国の碑を見ました。
 この「忠魂碑」については連載で書きたいと思っています。

 午後十二時半、香南市役所で野市のFUさんと待ち合わせ。
 香美市土佐山田町の神社二つに連れて行ってもらいました。
 ここでFUさんのおかげで陸軍大臣の出した日露戦争の戦利品についての文書を入手しました。
 また、土佐山田町町田の神社の周辺に駐屯していた陸軍山砲隊のことも知りました。
 ものすごく感動しました。
 
 平和資料館・草の家へ。
 早速、戦利品の文書をパネルにしました。
 平和資料館・草の家研究員のFUさんに本日の成果を報告。彼は東京で調布市、府中市の掩体壕(えんたいごう)を見てたとのこと。

 夜、高知短期大学専攻科の演習の仲間との交流会。

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二〇一二年七月二十七日 金曜日 旧・間島(かんとう)に行く面々があつまりました。

二〇一二年七月二十七日 金曜日 旧・間島(かんとう)に行く面々があつまりました。

 晴れ。

 妻は「きょうも泊まってきます」とピンクのTシャツを着て出て行きました。
 
 朝食は、ごはんと、冷蔵庫の奥から引っ張り出した賞味期限の切れた豆腐。

 また、「ちびサラン」来襲。「えさ場」のミルクをたいらげて去っていきました。
 
 大学院受験の事務手続きを開始。大学の成績表、卒業証明書をお願いしますという手紙を出し、推薦状をさるかたに依頼して……。

 昨日、この間、NHKテレビに出たときのDVDを二枚いただきました。
 で、見ました。
 どこから見ても「でぶのおんちゃん」です。

 DVDを一枚、「共演者」に渡しました。
 
 高知市のオリエンタルホテルのレストランでランチ。最初に出たのは「土佐山のわき水です」。うーん、うまい。

 旧・間島(かんとう)に行く面々があつまりました。総勢二十人とか。

 高知短期大学の今日の授業は、一時間目だけです。
 社会科学科は、きょうから試験のようです。
 
 家に帰ったら、また「ちびサラン」が来襲。

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2012.08.04

二〇一二年八月三日 金曜日 居ついてしまった「ちびサラン」。

二〇一二年八月三日 金曜日 居ついてしまった「ちびサラン」。

 晴れ。

 朝、一階に降りていこうとすると「ちびサラン」がついてきます。
 「めしーーっ」という感じです。
 出すとガツガツ食べます。
 「ちびサラン」は、すっかり居ついてしまいました。
 いま三匹のうち一番食欲が旺盛です。

 六日朝の小学生相手の「お話」の原稿づくり。昼ころ、やっと完成しました。

 とにかく、おなかがグーグー。
 わが家にはネコのえさはあっても人間様の分はないのです。

 平和資料館・草の家へ行きました。

 高知短期大学専攻科の授業は貿易論特講。
 僕をふくめ四人がリポートが発表。これで、この講義は終了です。

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二〇一二年八月四日 日曜日 あす、韓国の女性が高知に来てくれます。

二〇一二年八月四日 日曜日 あす、韓国の女性が高知に来てくれます。

 晴れ。

 朝、Iさんが刷り上がった研究誌『高知の戦争 十七号』を持ってきてくれました。
 しかし、僕は寝ていて妻が対応……。
 Iさん、ありがとうございました。
 筆者に、できあがった雑誌を送りました。

 庭で完熟のイチジクがとれました。ことし第一号。しばらく毎日楽しめそうです。

 電話が通じなくなりました。
 調べたら電話料を少し滞納していたとのこと。
 「けしからん。少し滞納したぐらいで電話を切るなんて。利用者には忘れることもある、切る前に訪問して『こうなっているんですけど、いいですか』くらい説明しなくては。ひどすぎる。抗議すべきだ」
 おこる僕に妻、弟は……。
 日曜日なのに料金を払い込んで復旧させました。
 そういえば、僕の携帯電話料も……。
 びんぼう人はつらい。

 妻は、妻の弟を「呼びつけ」、彼の車で妻の実家へ。
 
 僕は、高知短期大学専攻科の授業の「買い物弱者」のリポートのたち、ご近所を取材。
 やっとリポートを書き上げました。

 高知短期大学存続のための文書をつくって送信しました。

 夜、韓国の女性から電話。僕が電話やメールで槇村浩の岡山市関西(かんぜい)中学校時代の友人であったかも知れない朝鮮人の生徒について調査を依頼していた女性です。
 「いま兵庫県相生のホテルにいます」
 いろいろやりとりがあって、あす午前中、高知駅に来てくれることになりました。
 やっほー。 

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2012.08.07

香南市野市町も戦場でした ① 戦争のための宣伝と戦争に反対する人たちを抑圧する仕組み。

 この間、香南市野市町の人々と戦争とのかかわりを調べました。まとめておきます。(二〇一二年八月七日)

 江戸の将軍の時代が終わり天皇の時代が始まったのは一八六八年でした。
 大きな変化でした。その変化の一つが、それまでは戦争といえば武士がするものでしたが、日本の男性すべてが二十歳になると徴兵検査というものを受け、合格すれば兵隊になる。戦争が起これば戦争に行くということになりました。
  一八七三年一月十日に徴兵令が発布されると、高知でも、それに反対する一揆が起こりました。
 しかし、これは実施され、一八七四年五月二十二日、日本は台湾に兵隊を出しました。
 これ以降、日本はたくさんの国に兵隊を送って戦争をしました。
 相手の国にいって物を奪い、壊し、人を殺して、その国を日本のいうことをきく国にする。それが、このあいだまで普通のお兄ちゃん、お父さんだった兵隊の仕事でした。政府は外国に行った兵隊に食糧をあまり持たさなかったので、兵隊は、民家を襲い、食料を奪って腹を満たしました。
 戦争をやるには国民がその気にならないといけません。国がそれいけというと、よしと応じるようにしなければなりません。
そのためのものがたくさんつくられました。
 一九二四年には野市尋常高等小学校に忠魂碑が建てられました。
 一九三六年二月五日に野市尋常高等小学校が出した『野市読本』という本には、野市尋常高等小学校の校内の東側に「忠魂碑」があったことが書かれています。
 朝鮮と中国東北部を戦場に大日本帝国とロシアがたたかった戦争・日露戦争に出兵して戦死、病死した野市出身の二十四人の人の名前などを刻んだ碑です。
 「清国盛京省鶏冠山ニ於いて頭部盲貫銃創戦死」、「清国盛京省鶏冠山東北高知ニ於いて咽喉部貫通銃創ノ為戦死」などと刻まれています。
 読本は「私達の心に呼びかける忠魂に向つて、郷土の為、国家の為、弛(たゆ)まぬ努力と不抜(ふばつ)の決心を、献身の行(ぎょう)にいそしむ事を盟(ちか)はなければならない。」と呼びかけています。
 いま、この碑は、いまは香南市役所の近くの橋を渡った所にあります。
 野市町兎田(うさいだ)の富家小学校(一九五八年、香宗小学校と富家小学校を統合し野市東小学校を新設)の日の丸掲揚台も、そうしたものの一つです。
 セメントづくりのものです。
 台があり、七段の階段があります。その上に長方形のものがついています。
 台の左手には「西内麻吾氏寄贈 昭和十年[一九三五年]四月三日」とあります。
 長方形の部分の正面には同校の校章と四文字、右には十数文字が彫られていたようですが、なぜか、文字の部分は、ぬりつぶされて読めないようになっています。よっぽど好戦的なことが書いてあったのだろうと想像します。
 近くに住む男性(一九二六年四月三日生まれ)に聞きました。
 当時の先生は校長をふくめて三人。児童は約百二十人で、一年生・二年生は女性の先生、三年生・四年生は校長、五年生・六年生は男性の先生が担任していました。
 この日の丸掲揚台は、彼が同小学校に通っているころにできました。
 四方拝(一月一日)、紀元節(二月十一日。神武天皇即位の日とされていました)、天長節(四月二十九日。昭和天皇の誕生日)、明治節(十一月三日。明治天皇の誕生日)や運動会の日の朝、児童が運動場で規律するなか、校長が、この掲揚台に日の丸をあげました。
 一方で、政府は、戦争に反対する者は法律でやっつけました。
 一九二五年には治安維持法をつくりました。政府のやることに反対する集まりをつくったり、それに入ったり、宣伝したり、そのあつまりに財政援助をしたら罰するというものでした。
 そのうえ一九二八年には大改悪が加えられました。最高刑が懲役十年だったのを、死刑・無期懲役を加えました。「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。
 一九四一年には、刑期終了後も拘禁できる予防拘禁制度などの改悪が加えられました。

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香南市野市町も戦場でした ② 戦争に反対した人たちがいました。

 そんななかでも戦争に反対する人たちはいました。
 野市の酒造りの家の息子で小松益喜(ますき)さん(一九〇四年十月十八日生まれ)という人がいました。
 高知市工業学校本科電気科を経て、東京美術学校本科西洋画科で洋画を学びました。
 卒業の年、一九三〇年の六月、高知出身の三木登喜(とき)さんと結婚しました。
 一九三一年十二月から二人で高知市に住むようになりました。
 翌年、一九三二年一月二十八年、日本軍が中国の上海で攻撃を開始しました。
 二月二十九日には高知市朝倉の陸軍歩兵四十四連隊の兵隊が上海に派兵されるということを知った夫婦は、仲間と一緒に出兵反対のビラをつくり、配布しました。小松益喜さんは、ビラのためにカットをかいたり、謄写版印刷のための版下をつくったり(ガリ切といいました)しました。
 政府は、これを許しませんでした。二人は、多くの仲間と一緒に四月二十一日に逮捕されました。
 登喜さんは、高知署に連行されて拷問を受けました。
 「…椅子に縛りつけられ、撲[なぐ]る、蹴る、指に鉛筆を挟[はさ]んでしめつける。髪の毛をひっ掴[つか]んであごを突き上げる……」(小松とき「愛と信念に生きた日々」=『婦人通信』、一九七九年発行)。
 翌日、赤岡署に送られました。
 ここで、登喜さんは妊娠していることに気づきます。
 十二月、起訴猶予、放免になりました。 
 益喜さんは、須崎署で留置され、それから高知刑務所の未決監に移されました。
 そして、翌年、一九三三年四月、執行猶予五年の判決を受けて出所しました。
 ところで、高知新聞、二〇〇〇年一月二十八日付の「土佐あちこち」に野市町の菓子店「近森大正堂」のエチオピアまんじゅうのことが載っていました。
 一九三五年から一九三六年にかけて、イタリアは、アフリカのエチオピアを植民地にしようとして侵略し、全土を占領しました。
 「この際のエチオピア戦争で苦戦を強いられながら、侵略者側を果敢に撃退する姿に感動した菓子店『近森大正堂』の初代店長[茂=しげる=さん]がまんじゅうに付けたのがこの名の始まり。」と、書いてありました。
 すごいなと思いました。
 大国の侵略とたたかう小国の人たちの姿に感動した日本人がいたんだという驚きです。

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香南市野市町も戦場でした ③ 池本清一郎さんの油絵への思いと戦死。

 野市町東野出身の池本清一郎さんのことも知りました。
 一九二二年十月二十一日生まれです。
 一九三五年三月二十七日、野市尋常高等小学校卒業。
 一九四〇年三月一日、高知県立高知城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)を卒業しています。
 清一郎さんは、写真を撮っていました。一九四二年七月ころの野市町野地地区の稲刈り勤労奉仕に行った子どもたちを撮ったものが残っています。
 清一郎さんは、城東中学校では、美術部に入っていました。
 十七歳前後だった清一郎さんは、東京美術学校に進学したいといいだしましたが、家族に反対されました。
 そうすると彼は、自宅納屋の屋根裏部屋にたてこもりました。屋根裏部屋に誰も上がってこられないように、はしごを外しました。
 そのとき、しっくいの壁に「アダムとイブ」と「天使」の油絵を描きました(ともに縦一メートル、横六十メートル近く)。
 けっきょく、池本さんは、高知師範学校に進学しました。
 そこでも、絵を描きつつづけました。
 十九歳のときには、「自画像」を描いています。
 「二十歳(はたち)」という題で婚約者を描いています。
 そして、一九四二年春、高岡郡佐川組合国民学校の先生になりました。
 一九四三年三月三日から八日まで、高知市堺町の明治喫茶店階上で第一回洋画個展をやっています。
 その一か月後の四月、在職中に召集され、海軍の新兵養成機関・佐世保第二海兵団に入隊しました。
 ここで軍人精神や戦闘の技法などの教育を受けました。
 一九四四年三月、池本さんが、航空母艦・大鷹 (たいよう)に乗り組むことが決まりました。
 この船は、もともとは日本郵船が建造した客船として建造されていましたが、一九四一年五月に海軍が徴用して佐世保海軍工廠へ回航、航空母艦としての改装工事がおこなわれました。
 アジア太平洋戦争開始前の一九四一年九月五日に竣工しました。
 一九四二年八月三十一日、航空母艦になりました。
 大鷹に乗り組むことが決まったあと、清一郎さんは里帰りしています。
 「清ちゃん、清ちゃん」。家族が喜んで迎えるなか、池本さんは家の外に見える三宝山(標高二一三メートル)を見つめ、油絵を描き始めました。ご飯も食べず、必死にキャンバスに向かっていました。
 家族に「右手をやられたら絵を描けんけど、左手で耐えてでも絵を描きたい」、「生きて帰ったら、美術学校へ行く。その後はパリだ」といっていました。
大鷹に乗るため再び家を出た日、清一郎さんは家の路地を曲がるとき、ふいに振り向き、にっこりと笑いました。
 一九四四年八月八日、護衛航海として駆逐艦三隻、海防艦九隻とともに、タンカー、陸軍特殊船、貨物船などからなるヒ七十一船団を護衛して出航しました。
 そして、八月十七日、台湾の馬公からフィリピンマニラ湾へ二十日午後五時到着の予定で出撃しました。
 船団は当初から三隻の米潜水艦の追跡を受けており、八月十八日早朝より雷撃を受けて脱落し高雄へ帰港する輸送船が複数出ました。
 八月十八日午後十時ごろ、ルソン島東方でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「ラッシャー」の雷撃により、航空母艦・大鷹に魚雷一本が命中。航空母艦・大鷹は、沈没しました。
 大鷹は、被雷から十分程度で沈没、動転したヒ七十一船団は統制のとれないまま思い思いの方向に四散し、壊滅しました。
 (大鷹の慰霊碑が、長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にあります。)
 この空母に乗っていた清一郎さんは、戦死します。二十一歳でした。

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香南市野市町も戦場でした ④ 戦死した池本清一郎さんの母・雪さんの嘆き。

 野市町東野出身の池本清一郎さんが戦死しました。二十一歳でした。
 母・雪さんが、書いています(高知県野市町遺族会『高知県野市町遺族会の記録』。一九七六年十二月二十一日)。
 池本清一郎さんの戦死から三か月あとの十月十四日午後二時過ぎ、大石勝彦野市町長が、池本清一郎さん戦死の公電を持って池本さん宅を訪れました。
 大石勝彦町長は、大変いいにくそうな面持ちで「今日はもうしわけない公用でおうかがいしました。お家の長男さん清一郎君が名誉の戦死をなされた公電がまいりましたので、お届けにあがりました。まことに何とも申し上げようもございません」と頭を縁にすりつけ、顔も上げずにそのまましばらくうつむきいりました。
 雪さんは金槌でなぐられた心地がし、目先がくらんでただぼけておりました。
 やっと我にかえり「ご多忙のところ御苦労さまでございました。戦死でしょうか、また戦病死では」と聞きますと「名誉の戦死です」とのことでした。
 軍人の母として取り乱しては息子の恥と心を鬼にして「まことにありがとうございました」といいました。
 町長が帰り、人目もなくなり、雪さんは母にすがり、二人で手を取り合って泣くだけ泣きましたが、いくら考えても残念でかわいそうで、出征当時の面影を思い浮かべ、身も世もなく悲しさでいっぱいのありさまで。
 母が「清一郎は二十三歳、私は八十歳をひかえ、代われるものなら一人のかわいい孫息子を先に立てて私が生きながらえて何になろう」と嘆き悲しみました。
私も母を慰める心より自分の悲しさが先で、ただ二人が泣き言ばかり。
 雪さんの夫は庫のなかに入り一言もいいません。
 だんだんと親族の人も集まり、雪さんの里の兄が来て「このような不幸はほうぼうにある。今は戦時だからお前一人ならあきらめもつきにくいが、他家にもこの例はたくさんある。お寺さんを迎えて供養してやることこそ、この場に臨んでの親の務めだ」といって、早速お寺さんを迎えてみ霊を呼び、供養して祭りました。
 雪さんは、毎晩外に出てせめて火の玉でも帰り、親に見せてくれと念じ、幾夜も外で待ちましたが、一度も見ず、この子は親子の縁がない子かと、母と二人で毎晩嘆きました。
 雪さんは、毎日毎日ただ仕事も手につきませんでした。
 夫が一人田の仕事に出ているので、雪さんも、これではと思い返し、田へ出てはアゼの側にクワをもたせてため息をつくばかりでした。
 雪さんが田に出れば、母は気遣って見に来るような始末で、雪さんに母が同情し、自分も孫かわいさに毎日泣いていした。
 翌年春、町葬をしてくれました。
 三月十五日には宅葬をして平井山の墓地に収めました。
 清一郎さんは海軍で航空母艦のなかで戦死したので遺骨もなく、シキビの枯れ葉と小さな写真が箱に入っていました。
 忠霊塔の分骨も小さくした写真を入れたきり、なんと情けないことかとたえず心にかかりつつ歳月も過ぎ去りました。

 子に逝かれあとに残りし親の気は
 荒野に狂う木枯らしのごと

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香南市野市町も戦場でした ⑤ 「赤岡の海岸からアメリカ軍が上陸してくる」。

 池本清一郎さんが戦死した翌年の一九四五年四月、高知にもアメリカ軍が上陸してくるだろうということで中国の東北部にいた兵隊も高知にやってきました。
 四月十六日、陸軍第十一師団(錦兵団)の新任務にともない、高知市朝倉の歩兵第四十四連帯が満州(中国東北部)虎林から高知に帰還しました。
 同日、池本さんが、かつて通っていた高知市の高知県立高知城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)に錦二四四五部隊千人が宿泊。学校は兵舎に使用され、三年生以下と軍人、軍馬に満ちあふれ、ときには溝淵忠寛さん(のちの「日の丸校長」)が、太刀を腰に差し、土佐青少年農兵隊を引き連れてあらわれました。生徒たちは、連日、高知市の秦泉寺の山(いまのゴルフ場)にアメリカ軍上陸時の戦闘用の横穴を掘り、ときには十ミリ野砲の弾丸磨きもやりました(高知追手前高校百年史編集委員会『高知追手前高校百年史』。高知県立高知追手前高校校友会。昭和五十三年十一月十九日)。
 陸軍、海軍の兵隊が十万人くらい高知に集まりました。
 四万十町窪川宮内にも練習機に爆弾を積んで相手の艦船に体当たりするための海軍の秘密飛行場がつくられました。
海岸には海の特攻隊の基地がたくさんできました。
 一人乗りの爆弾を積んだ潜水艦で相手の艦船に体当たりする。
 一人乗りか二人乗りの爆弾を積んだベニア板のボートで相手の艦船に体当たりする。
 海岸にはアメリカ軍の戦車を落すための大きな落とし穴がつくられました。
 海軍の陸戦隊が木製のランチャーに軍艦の弾丸を乗せて発射する準備をしていました。
 弾丸がなくなったら竹やりでたたかうということで、竹やりをつくっていました。
 アメリカ軍が街に入ってきたら子どもたちや女性たちが竹やりでたたかうことになっていました。
 陸軍は平地や山の中でたたかうつもりでした。
 この野市にもトーチカの跡がありますね。
 美香市土佐山田町田の県道257号ぞいの加茂大明神の境内に本土決戦期に高知に配備されていた部隊の碑があります。
 「懐旧報恩の碑
 昭和二十年の晩春より秋にかけ兼松砲兵隊は本土決戦の陣地構築のため町田地区に駐屯し民宿す 時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなしまた当神社に接し軍馬数十頭を繋留し境内を甚だしく汚損せり 吾等昭和五十七年戦後初めてこの地に再会し地区の人々の厚遇を得て懐古の情に浸るその折り往時を偲び報恩を決意す
 時移り風潮変われども昔日の足跡は厳存す
 ここに懐旧の情を石に刻み報恩の寸志を改修の玉垣に具現す
    昭和五十九年仲秋 兼松砲兵隊戦友会
           木村倭士[きむらしずお]撰」
 裏面には「世話人」の名前が刻みこまれています。
 高知県の人、徳島県の人、愛媛県の人、大阪市の人、兵庫県の人、香川県の人。
 この隊の隊長は高知県の兼松平さんです。
 隊員には、野市出身の森本宏さんもいました。高知県立南海中学校(いまの高知県立小津高校)を卒業して中国の海南島で小学校の先生をしていた人です。
 地域に、当時のことを知っている人がいました。一九三七年二月生まれの男性です。
 「加茂大明神の社殿の向かって右手の竹やぶの所で馬を飼っていました。
 兵隊は民家の蚕屋などに泊まっていました。
 壕をたくさんつくっていました。
入ると途中からYの字になっているものもありました。
神社の南の山、烏ケ森のてっぺんの裏がわに大砲をすえる壕をつくっていました。
烏ケ森の向こうからアメリカ軍の艦載機が飛んできて高知海軍航空隊のほうに飛んでいきました。
 私が、そこの兵隊に『敵の飛行機が山の上を飛びゆうに、何で大砲で撃たん』と聞いたら『撃たれん。撃ったら、ここが攻撃される』と、いっていました」
 当時の隊員三人からお話をうかがいました。
 この隊は香川県善通寺の陸軍第十一師団(大野広一師団長)で編成されています。山砲の第三大隊八中隊。隊員、約二百七十人。
 夜中に非常呼集がかかり、多度津駅から十センチ山砲四門、軍馬数十頭とともに貨物列車で土佐山田駅へ。五月二十一日到着。
 軍馬は加茂大明神境内右手の竹やぶにつなぎ、兵隊は各民家のカイコ部屋の二階などに宿泊しました。
 山砲は、これまでに使ったことのない最新式のものでした。その一つには「昭和十九年 大阪砲兵工廠製造」のプレートがついていました。香美郡吉川村(いまは香南市)の港の近くの松林に山砲をすえ、四門それぞれ四発ずつ試射しました。弾丸に装薬を三つ入れて撃つと七千四百メートル飛びました。
 アメリカ軍が香美郡赤岡町(いまは香南市)の海岸に上陸し、高知海軍航空隊の飛行場を占領することを想定して同神社の南の山・烏ケ森の中腹の山の斜面に山砲の陣地づくりを始めました。
 山のふもとに戦闘のための横穴壕も掘りました。
 小屋を建てて弾薬庫もつくりました。砲弾は木箱に二つずつ入れてありました。三、四十箱ありました。
 装備品は、みじめでした。二等兵だった男性が語ります。「古参兵は、ごぼう剣を持っていましたが、初年兵には支給されませんでした。金属製の水筒も支給されず、モウソウ竹を切って水筒をつくりました。山砲の壕を掘るときはワラゾウリでということで、つくれない兵隊はおとしよりにつくってもらって買い取りました。雨のなかで工事をしているとワラゾウリの後ろがなくなって前だけになりました。哀れなものでした。工事の道具は、シャベル、ツルハシ、モッコでした。」
 壕の下はセメントで固めました。
 困ったのは食料不足でした。
 「おかゆとカボチャ汁、漬物のような食事でした。腹が減りました。地元の人が植えているトマトとかイチジクを盗んで食べました。あるとき、初年兵でグルになってクワの実をとって食べました。上官が『食べたろう』。『いや、たべません』。しかし、舌がクワの実で紫になっていました。たたかれました。」(二等兵だった男性)。
小隊長だった木村倭士(しずお)さんは、戦闘に備えてコメには封印がされ、食料はほとんどない状態、「動物性タンパク質を取りに来い」という軍の知らせに赤岡町まで出向くとマユから糸を取った後のサナギを配給されたと戦後、語っていました(この項、高知新聞、一九八二年九月二十七日付)。
 「懐旧報恩の碑」の木村倭士撰の「懐旧報恩の碑」の碑文の「時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなし」の意味するところです。
 近くの土佐山田町楠目にも別の山砲隊がいたようです。
 八月六日、偶然の機会に、そのことを知りました。
 男性が話してくれました。
 「楠目の家々に兵隊が泊まっていました。のちに貴船神社(香美市土佐山田町楠目字宮ノ谷一三八一)の裏にテントを張って駐屯していました。壕をつくって山砲もすえつけていました。それに、楠目に土佐金物合弁会社という兵器工場があって、そのころには鉄製のヤリをつくっていました。」
 さっそく、貴船神社に行ってみると神社の境内の下の右手に天井のない壕の跡が残っていました。

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香南市野市町も戦場でした ⑥ 上岡地区への一九四五年五月三日のアメリカ軍機・B29の爆撃。

 そんななか、アメリカ軍機の空襲が激しくなります。
 一九四五年四月に高知市を視察した山岡重厚・善通寺師団管区司令官(中将。高知市旭出身)は「祖先伝来の地を護り抜き、なお力尽きた場合はその地で戦死せよ」と、いい、高橋三郎知事も「ともかくも本土も既に戦場になった今日戦わざるに既に逃げ腰とは卑怯であり、利敵の著しいものだ」と一般市民の疎開をしかっていました。(高知市史編纂委員会『高知市史 現代編』。一九八五年三月二十五日)。
 五月三日昼間、野市町の上岡地区がアメリカ軍の爆撃機機B29の空襲に襲われます。
 中屋睦美さんの体験が新聞に載っています(高知新聞、一九八二年八月二十八日付「続 戦争酷暑の記憶 十三」、八月三十日付「続 戦争酷暑の記憶 十四」)。
 夫・義一さんは、母屋の南、土蔵の南側の日だまりでナタを振るってキュウリ植えにつかうクイをつくっていました。義母・役寿さんは、納屋の南のニワトリ小屋でニワトリに卵を抱かせていました。三人の子どもは土遊びをしていました。洗濯物を取りこんでいた睦美さんは、ラジオでアメリカ軍機・B29の来襲を知り、夫に知らせようと表に出ました。とたんにドンドンドンと爆発音、つづいてグワーと地響きがしました。「はようふせて」と子どもたちに叫びました。あたりを揺るがすような轟音が二、三分続きました。耳と目をふさいで身をふせました。ときが過ぎ、ようやく立ち上がりましたが土煙で何も見えません。足元は一面ガラスの破片。睦美さんは、かたわらで泣いていた子どもたちの手を引き、隣家の防空壕へ走りました。さらに、近くの山岡山に子どもたちを避難させて、睦美さんは家に帰りました。
 家は壊れていました。義姉とともに義母、夫をさがしました。義母、夫は死んでいました。
 いま上岡公民館前には「被爆之碑」が建っています。
 碑文は、つぎのようなものです。
 「上岡地区は太平洋戦争末期の昭和二十年五月三日 米軍のB29の爆撃を受け地区民七名地区外一名軍人二名死亡 家屋全半壊等多数の被害を受けた 戦後五十年を経て再びこのようなことのないよう永遠の平和を祈念して被爆の碑を建立する
 平成七年八月十五日  被爆の碑建立発起人 上岡地区民一同」
 七月三日午後十一時ころ、高知市に空襲警報が発令されました。やがて空襲警報は解除されました。そして、四日午前一時ころ、アメリカ軍機の高知市と、その周辺への空襲が始まりました。
 浦戸沖上空から進入したアメリカ軍機が照明弾を投下、そして、焼夷弾を投下しました。
 高知城公園内の高知県公会堂、高知県会議事堂、高知県庁、高知県立図書館が焼失。
 高知城の近くの役所では高知市役所、市庁舎分室、学校では高知高等学校、高知女子医専、高知師範学校、海南中学校が焼けました。
 高知高等学校の校舎は、ほとんど焼失。
 高知県立高知城東中学校は、講堂、柔道室、剣道室、武器庫、体育館、体力増進館、校友会館、小使室を焼失。本館は無事。
 高知県立海南中学校は体育館、銃剣道場を焼失。

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【写真】 高知市大津の田辺島(たべしま)の民家の入口に置いてあるアメリカ軍の焼夷弾の一部。

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 わが高知市大津の田辺島(たべしま)の民家の入口に置いてあるアメリカ軍の焼夷弾の一部を見せてもらいました。ここも一九四五年七月四日のアメリカ軍の空襲で被害を受けています。(八月二日午前

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【写真】 ハチの巣。香美市土佐山田町で。

Photo_2

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【暑中見舞い】 近況とビッグニュース。

 暑中、お見舞いもうしあげます。

 いかが、おずごしでしょうか。
 いま家族は妻とネコ三匹です。計「五人」でつらい夏とたたかっています。

 三月に香川県の徳島文理大学文学部文化財学科を卒業。学芸員の資格を得ました。同月から平和資料館・草の家(高知市)の学芸員に。四月から高知短期大学の専攻科にも通っています。

 四月から、こんなことをやっています。高松市で香川県北部のアジア太平洋戦争中の様子について講演。戦争中に高知城の山に十つの横穴壕があったことの確認(高知新聞、NKKテレビが取りあげてくれました)。「石に刻まれた高知の戦争」の調査(高知民報に連載中)。女性たちや小学生たちを戦争遺跡に案内。小学校で「あなたのまちの戦争」のテーマで講演。反戦詩人・槇村浩の中学校卒業くらいまでの生育史の研究。雑誌『高知の戦争 証言と調査』づくり(いま十八号を編集中)。 

 以下、ニュースです。高知県の尾﨑正直知事は、高知市の夜間の高知短期大学を廃止しようとしていますが、高知大学、立命館大学の先生、高校教師、近現代史研究家、教育運動家、病院事務長、生活協同組合幹部、雑誌出版関係者、作曲家、陶芸家、写真家、詩人、俳人らが「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会(略称:「やっぱり夜間短大」の会)の結成を呼びかけています。八月十九日午後二時から高知市の高知短期大学で結成集会を開きます。参加は、どなたでも。

    

                                                     藤原 義一

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2012.08.08

二〇一二年八月八日 水曜日 海軍で飛行機整備をしていた兵隊の話。

二〇一二年八月八日 水曜日 海軍で飛行機整備をしていた兵隊の話。

 晴れ。

 きょうから夏休み。

 午後二時半ころ、四万十市の江川崎駅に到着。
 海軍で飛行機整備をしていた兵隊の家にうかがってお話をうかがいました。

 行き帰りの車中で「高知県馬路村の戦争」の原稿をつくりました。りんかくはできました。

 南国市のFUさんから電話をいただきました。「日章小学校の近くに終戦直前に二人乗りの日本の飛行機がついらくしらしい。この人に聞くとわかります」。
 高知市のBAさんから電話。大東亜戦争開戦直前に久礼で上陸演習をしていた海軍のこと、久礼に駐屯していた陸軍のベニヤ板ボートの特攻部隊のことの調査の進行具合などについて。
 大阪のIさんからメールをいただきました。
 
 私は昭和19年(1944)に高知海軍航空隊整備分隊に配属され、菊水部隊白菊隊として鹿屋航空隊に行きました。航空整備兵でしたので、特攻隊員が搭乗する飛行機の整備にあたりました。出撃する隊員とともに飛行機の内部を清掃するとき、「俺の棺桶だからピカピカにする」と言ったいたことが、昨日のように思われます。……

 妻は、きょうも実家泊。

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2012.08.09

和知部隊の戦利品の写真のありか。

 「函館市中央図書館 デジタル資料館」には、高知の和知部隊の戦利品の写真、「昭和十二年 支那事変 上海戦線 ニュース絵葉書 第七輯 検閲済」があります。

http://curio.c.fun.ac.jp/fronts/detail/oldmaps/4f522562ea8e8a0b70003a94

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二〇一二年八月九日 木曜日 「朝倉の戦争壕を見にいかんかよ」のお誘い。

二〇一二年八月九日 木曜日 「朝倉の戦争壕を見にいかんかよ」のお誘い。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。
 NAさんに森林鉄道のことを教えてもらいました。

 妻と二人で、家を掃除。
 本を百冊ほど捨てました。

 「朝倉の戦争壕を見にいかんかよ」のお誘いがありました。

 元高知海軍航空隊のかたからメールをいただきました。

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二〇一二年八月七日 火曜日 こんどは、「高知県馬路村の戦争」の勉強。

二〇一二年八月七日 火曜日 こんどは、「高知県馬路村の戦争」の勉強。

 晴れ。

 「香美市野市町の戦争」についてブログにアップしました。
 
 午後から「高知県馬路村の戦争」について勉強し始めました。
 高知県立図書館で本を探し、高知新聞の戦後の新聞のデータベースを検索しました。
 NAさんに連絡したら馬路などの森林鉄道の工事に朝鮮人が動員されたという資料があるとのこと。見せてもらえることになりました。

 高知短期大学存続の運動の打ち合わせに参加しました。

 妻が、家のカギを忘れたといって高知短期大学に取りに来ました。
 二時間目は地域経済特講。僕ともう一人がリポートを発表しました。
 これで前期の高知短期大学専攻科の授業はおしまいです。

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二〇一二年八月六日 月曜日 刻まれた文字を、すべてぬりつぶした「国旗掲揚台」。

二〇一二年八月六日 月曜日 刻まれた文字を、すべてぬりつぶした「国旗掲揚台」。

 晴れ。

 ある小学校で四年生、五年生、六年生の平和授業でお話ししました。

 帰りに、刻まれた文字を、すべてぬりつぶした「国旗掲揚台」を見ました。
 戦前につくられたものです。

 大日寺の山道わきに日露戦争で戦死した野市出真の陸軍上等兵だった野口宇三郎さんの墓があります。
 三方に戦死の経過が彫りこれています。

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二〇一二年八月五日 日曜日 韓国人の女性の来訪。

二〇一二年八月五日 日曜日 韓国人の女性の来訪。

 晴れ、雨、晴れ。

 午前十一時半、韓国の女性がJR高知駅に到着。 太田さんと二人で出迎え。
 平和資料館・草の家で岡村館長、西森事務局長、西村常任理事とともに懇談。テーマは、岡山市の私立関西(かんぜい)中学校のときにつきあいがあったらしい朝鮮人学生についての調査です。
 北海道にも行ってきた、兵庫の昔行っていた大学にも行ってきたという彼女は、高知駅前の石川啄木父子の歌碑を見たあと、大杉の美空ひばりさんの碑を見たいといって大杉へ。きょう中に九州に行くとのことでした。

 午後、高知短期大学存続運動のための打ち合わせに参加。

 午後三時、妻の父の所に香川県の新聞記者が来訪。

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【短歌】 やっぱり要るよね夜の短大

毎回が 一番前の 女子学生 たぶん食い入る 目をしているよ 

まっすぐに 前を見つめて 聞いている 盲目の君 夜の学びや

ゴマシオも 「うん、うん、うん」と 体(たい)ゆすり 聞き入ってるよ 学びの授業

半年の 授業の最後 パチ、パチが まきおこってる 夜の学び舎

高知には やっぱりいるよね 二年制 夜学ぶ群れ 若きも老いも

存続の ニュースの写真 青空で 県民の会 準備伝える

十九本 レポートなどを 書き上げて 前期の授業 今夜終わった 

「あじさい」を 作曲した人 呼びかけ人 夜の短大 守れのアピール

「県民の 会に参加を」 暑中見舞いは 守れ学び舎

恒例の花火の音を 遠く聞き 「なすべきこと」と 向かい合ってる

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【短歌】 歌会での思い。

ああ誰か 一点だけでも 入れとくれ 少し弱気の わが短歌(うた)の音()

 

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2012.08.10

「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会、8月19日午後2時からの結成集会に、あなたも、どうぞ。

 高知県の尾﨑正直知事は、高知市の夜間の高知短期大学を廃止しようとしています。
 高知には大学が三つしかありません。夜間の短期大学は一つしかありません。もっと大学や夜間の短期大学をつくるべきだと私は思っています。
 それなのに、なぜ?
 知事は年度中に県議会に廃止案を提出しそうです。
 そんななかで、県民のなかから「それは、いかんぜよ」の声が起こっています。
 高知大学、立命館大学の先生、高校教師、近現代史研究家、教育運動家、病院事務長、生活協同組合幹部、雑誌出版関係者、作曲家、陶芸家、写真家、詩人、俳人らが呼びかけています。
 「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会(略称:「やっぱり夜間短大」の会)を結成しましょうと。
 結成集会は、八月十九日午後二時から高知市の高知短期大学で、です。
 参加は、どなたでも。あなたも、どうぞ。

 呼びかけ人はつぎのかたです。(あいうえお順)

 猪野 睦    詩人
 岩田 裕    高知大学名誉教授、元高知短期大学非常勤講師
 内田純一    高知大学教育学部教授、高知短期大学非常勤講師
 梅原 一    高知短期大学名誉教授、元須崎市長
 岡村正弘    平和資料館・草の家館長
 加藤誠之    高知大学教育学部准教授
 仮谷 仁    高知短期大学名誉教授
 川村雄二    陶芸家
 公文 豪    自由民権運動研究家、高知短期大学非常勤講師
 下司孝之    下司病院理事長
 小松佐智男  高知短期大学の存続を求める会会長
 塩田正興    高知市民劇場代表幹事
 杉本育己    高知短期大学の存続を求める学生の会代表
 芹沢寿良    高知短期大学名誉教授
 玉置雄次郎  高知短期大学名誉教授
 中島健蔵    写真家
 藤田 毅    太平洋学園高等学校教諭
 保坂哲郎    高知大学名誉教授
 味元昭次    俳人、高知短期大学非常勤講師
 宮本正気    高知県生活協同組合連合会前会長理事
 森 尚水    朝倉ゼミナール、元小学校教員
 森井淳吉    高知短期大学名誉教授
 柳井 卓    元高校教員
 山下正寿    幡多高校生ゼミナール顧問
 山根和代    立命館大学准教授、元高知短期大学非常勤講師

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二〇一二年八月十日 金曜日 わおーっ、カミナリ。バリバリバリ。

二〇一二年八月十日 金曜日 わおーっ、カミナリ。バリバリバリ。

 晴れ、雨。

 手紙二通、暑中見舞い何枚かを出しました。

 オートバイの修理(昨日、取りにきてもらいました)が完了。取りに行きました。
 オートバイの整備をしました。

 ダウン。
 少し寝ようと思ったら……。

 突然の雨、カミナリ。
 午後七時に起きました。
 近くにバンバン落ちています。
 うーーーーーっ。

  「馬路村の戦争」を書き進めました。

 そして、その関連で、本土決戦期に高知の山砲隊にいた人のインタビューをまとめはじめました。

 妻は、そうじをしていましたが、今夜も実家へ。

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2012.08.13

【ニュース】 高知市の入交建設株式会社の「実績一覧」に「錦部隊仮設新築工事」。i[

 インターネットの高知市の入交建設株式会社の「実績一覧」を見ると、同社が手がけた工事の項目に、つぎのものがあります。

 発注年月 1945年
 工種 建築工事
 発注者 錦部隊
 工事件名 錦部隊仮設新築工事

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2012.08.14

二〇一二年八月十三日 月曜日 原稿六本をメールで送信。

二〇一二年八月十三日 月曜日 原稿六本をメールで送信。

 曇り。

 わが家に来ている六年生の女の子に受験の手ほどき。
 しかし、……。

 高知民報に連載しているものの原稿の十一回目から十五回目をメールで送信。

 午後、『高知歌人』の編集に参加。

 高知民報に連載しているものの原稿の十六回目をメールで送信。
 
 夜、ある大学院を受けるための書類づくり。

 暑中見舞いの宛名書き。

 韓国の知人からメールあり。

 わが家の小学校六年生と三年生の女の子たちは小説を無心に読んでいます。

 妻は、実家泊。

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二〇一二年八月十二日 日曜日 「記事の資料が足りない」。図書館に直行。

二〇一二年八月十二日 日曜日 「記事の資料が足りない」。図書館に直行。

 雨、曇り。

 朝から高知民報の連載「石に刻まれた高知の戦争」の原稿を書き始めました。
 十一回、十二回、十三回、十四回まで書きました。
 十五回目は日清戦争のときのこと。資料が足りなくて高知県立図書館へ。

 妻の実家へ。
 ここで、東京を朝発った娘、娘の小学校六年生の娘、小学校三年生の娘の到着を待ちました。
 とってくれていた、お寿司をパクパク。孫たち二人の旺盛な食べっぷりには感激しました。

 連載十五回目を書き上げました。

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二〇一二年八月十一日 「銃剣の銃床で相手の頭をたたき割りました」 兵士の体験記。

二〇一二年八月十一日 「銃剣の銃床で相手の頭をたたき割りました」 兵士の体験記。

 曇り。

 健康診断。
 定期の受診。

 戦闘とは恐ろしい行為です。
 北川村史編集委員会『北川村史』(北川村教育委員会。平成九年三月三十一日)を読みました。
 北川村出身の浜渦亀治さん(大正十一年生まれ)の体験が載っています。
 アジア太平洋戦争のときのことです。
 彼が、陸軍に召集されたときは、すでに兄は戦死していました。兄といいなづけだった人と婚約しましたが、それを果たさないまま出征しました。
 西部第三十四部隊(歩兵第百四十四聯隊)金子隊の兵隊としてビルマのチンポン、アキャブでの戦闘を体験します。
 彼は、機関銃隊の弾薬を運ぶ役でした。
 敵陣への突撃命令が出て敵と突き合になり、彼は、きき腕の右手を突かれました。必死にたたかううち敵が地面にはいつくばり、思わず彼は銃剣を一回転して、その銃床で相手の頭をたたき割りました。
 殺しあいを何度もくりかえし、相手の兵隊の首をはねたこともあります。
 鉄かぶとの上部を弾丸が抜けながら、頭にはあたらなかったこともありました。
 戦況が不利になってからは逃げるばかりでした。
 食料はなく、食べるものも食べつくしました。
 爆撃されたハゲヤマにはネズミ、ヘビ、トカゲなどの焦げた死体がありました。すべてを拾って食べました。

 夜、「馬路村の戦争」の原稿を仕上げました。

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2012.08.15

八月十五日夕のNHK総合テレビの「こうち情報いちばん」で「高知城と戦争」が放送されました。

 八月十五日夕のNHK総合テレビの「こうち情報いちばん」で記者リポート「高知城と戦争」が放送されました。

番組は、高知城の山にはアジア太平洋戦争中に十か所の横穴壕があったことが平和資料館・草の家の調査でわかったことから始まりました。調査した馴田正満さん・平和資料館・草の家研究員、藤原義一・平和資料館・草の家学芸員、アメリカ軍の空襲のとき高知城の壕に逃げ込んだ梶田順子(みちこ)さん、松本節さん、山下晃さん、坂本昌三郎さんが出演しました。
 十七日朝の同局の「おはよう日本」でも、全国版が放映されるようです。

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2012.08.17

【調査リポート】 高知城の山の斜面にあった十の戦争壕 その一 五月から調査を開始

                          
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 四月二十六日、高松市牟礼の高松市文化財保護協会牟礼分会の総会で「空母、陸軍飛行場、陸軍秘匿飛行場、地下の飛行機工場…… 一九四五年五月二十八日の香川県北部の戦闘配置」という題で講演をさせていただきました。その参加者にアジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に高知市に住んでいたというかたがおられました。某銀行の支店長の息子さんです。彼が、高知城の山のふもとに掘られていた横穴壕について教えてくれました。
 「このことは、調べなくては」。五月に入ってから、その横穴壕について調べ始めました。

 高知城をまわっても横穴壕らしい所は残っていませんでした。
 しかし、何人かの人に聞くと、いくつもあったらしいということがわかりました。
 しかし、そのうちに調査がいきづまってしまいました。

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【調査リポート】 高知城の山の斜面にあった十の戦争壕 その二 地元紙に「教えてください」と投書

 それで、高知新聞に、こんな投書をしました。

 高知市升形の平和資料館・草の家の学芸員です。いま、[4月から]「戦争と平和を考える資料展」(7月3日~8日、高知市立自由民権記念館)に向けて、アメリカ軍機の高知県への空襲について調べなおしています。(中略)
 いまは、高知城に掘られていたいくつかの防空壕(ごう)について調べています。先日は、4人目のかたにお話を聞きました。
 本町3丁目に住んでいて1945年7月4日の空襲のとき、家族6人と、高知城の、いまの板垣退助像の近くの壕に逃げ込んだ女性です。当時、5歳。
 「上からぽたぽたしずくが落ちてきていた。下は、じゅくじゅくしていた。アセチレンの強いにおいがした」。正確な位置、天地、左右の長さ、奥行き…。「覚えてない」。無理もありません。5歳です。
 「どうやろうねえ。高知新聞に投書して、読者に教えてもろうたら。私も正確に知りたい」
 それが彼女の提案。で、この投書となりました。
 高知城のいくつかの防空壕のことをご存知のかた、草の家(088・875・1275)までご連絡いただければ、はせ参じます。

 高知新聞は、六月二日の投書欄で「高知城の防空壕」と題するこの投書を載せてくれました。
 その日の午前中に、四人のかたから平和資料館・草の家に電話がありました。
 そのあとも、つぎから、つぎへと連絡が入りました。
 午前中、おひとかた、午後、おひとかた……と、お宅にうかがって、お話を聞かせていただきました。

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【調査リポート】 高知城の山の斜面にあった十の戦争壕 その三 横穴壕を埋めた共通の工事跡がありました

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 証言をもとに平和資料館・草の家のメンバー(岡村正弘館長、馴田正満研究員=会社社長、福井康人研究員=介護士)、土佐史談会の人と一緒に現地調査をしました。
 「ここにあった。ここの壕に逃げ込んだ」という証言のある場所に、横穴壕を埋めたと思われる共通の工事跡があることがわかりました。
 その一つは、入口を埋めたあとを石垣にしている所です。
 それは他の斜面より二、三十センチ飛び出しています。そして、台形型の壕の入口の形を残しています。また、その上に崩れないように二重、三重の崩落防止の工事をしているのです。それが四か所ありました。
 もう一つは、横穴壕の天井をつぶして全体をなだらかな斜面にしている所です。
 それが三か所ありました。
 痕跡のない所も二か所ありました。しかし、一か所は『高知県警察史 昭和編』(高知県警察本部。一九七九年三月)につくられたときの壕の写真も載っていること、もう一か所は当時、高知県知事官房勤務だった人のリアルな証言であったことで「ここに横穴壕があった」とみなしました。
 横穴壕が九つあったことがわかりました。

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【調査リポート】 高知城の山の斜面にあった十の戦争壕 その四 地元のテレビや新聞が取り上げてくれました

 そのことを、NHK総合テレビが六月十二日夕六時十分からの「こうち情報いちばん」で伝えてくれました。こんな内容です。

 高知城がある県立高知公園に、少なくとも9か所の防空ごうがあったことが、高知市の平和資料館の調査でわかりました。
 防空壕は高知城を囲うように点在していてそれぞれの規模ははっきりと確認できませんが、9か所のうち4か所では入り口と見られる場所に石を積み上げた跡を確認できます。

 約四分半でした。くだんの当時五歳の女性が、自分たちの入っていた壕の跡に入っていくシーンもありました。 
 つづいて、高知新聞が、七月三日付の朝刊の「高知城に新たな防空壕跡」の記事で、このことを報じてくれました。こんな内容です。

 高知城の城山に、戦時中に防空壕などとして使われた横穴壕跡が少なくとも9カ所あることが、平和資料館・草の家(高知市升形)の学芸員らの調査で分かった。戦争体験者らの証言や手記などから存在はいくつか知られていたが、位置情報などを含めた全体像の把握は初めて。中心となった藤原義一さん(65)らが7月3日からの「戦争と平和を考える資料展」でパネル展示する。

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【調査リポート】 高知城の山の斜面にあった十の戦争壕 その五 「戦争と平和を考える資料展」で紹介

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 「戦争と平和を考える資料展」では、高知城の山の斜面の横穴壕の位置図とともに、アメリカ軍の空襲の時に、それらの横穴壕に逃げこんだという証言を紹介しました。

大東亜戦争(アジア太平洋戦争)中の一九四五年六月、七月、高知市の高知城の山のふもとには九つの横穴壕(ごう)がありました。防空壕、資材を隠す壕、戦闘のための壕と、いろいろの用途だったと思います。アメリカ軍の空襲のとき、それらの壕に逃げ込んだ人たちの話を紹介します。

 【板垣退助像が元あった所の北側】

 一九四五年のアメリカ軍の高知市などへの空襲のとき、高知市第四国民学校の教師で高知市本町三丁目に住んでいた石川美代子さんが高知城の壕に逃げ込んだことを、つぎのように書いています(高知県教組婦人部結成二十五周年記念事業実行委員会編『激動の中で』。高知県教職員組合。一九七三年六月二十五日)。
一九四五年のアメリカ軍の高知市などへの空襲のときのことです。
 「……そうして七月四日の大空襲であった。警報発令と同時に主人一人を家に残し板垣伯銅像の北側の壕に避難した。母は次女(四歳)私は三女(二歳)をせおい乳母車に長女(四歳)をのせ父と五人で僅(わず)かばかりの子供の衣類を風呂敷包みにして暗い灯火管制の中を本町三丁目から追手前にたどりつき壕の中であの地獄の轟音をきいた。
 もうもうたる白煙にむせ 火熱に危険を感じて壕を出た時に追手門の一角も火を上げ藤並神社の狐格子(きつねごうし)がまっかな炎を吹いていた。……」
 いっしょに壕に入った石川さんの長女・梶田順子(みちこ)さんは「壕のなかは、下はジュクジュクしていましたし、天井からは雫(しずく)がポタポタ落ちてきていました。アセチレンのにおいがしていたことを覚えています」と、語っています。

 【高知県庁北庁舎前】

 高知県庁北庁舎(当時・巡査教習所)の前の高知城の山の壁面にも横穴壕がありまし た。
 近くの第三国民学校(いまの追手前小学校)の児童だった山下晃(あきら)さん(教育会館の近くの県庁の官舎に住んでいました)は、この壕に憲兵たちが壕の北東にある教育会館(当時の施設名は不明)から物資を運んできて、壕から表にのびた二本のレールを使ったトロッコに乗せて壕の中に運び込んでいるのを見ています。
 食糧不足でした。土佐女子高等女学校(いまの土佐女子高等学校・土佐女子中学校)は「高知公園北側の広場及び『すべり山』を県から借り、また南方の南中山中腹を市から借りて開墾した」といいます(山崎熊吉編『五十年の歩み(創立五十周年記念刊行)』。土佐女子高等学校・土佐女子中学校。昭和二十七年十月三十日)。すべり山は、一面、イモ畑になりました。一九四五年のアメリカ軍機の空襲下でも、その作業は続けられました。
 六月七日午前、同学の生徒たちは、女先生の引率で、イモ畑にしていた、すべり山でイモの手入れをしていました。みな、上はセーラー服、下はモンペでした。左胸には名前、住所、血液型を書き込んだ白い布をつけていました。
 そこへ、アメリカの艦載機が低空で飛んできて地上の人間に向けて機関銃を撃ちまくりました。
 ダ、ダ、ダ、ダ、プシュ、プシュ、プシュ、プシュ……。
イモ畑に弾が突き刺さりました。
 女学生たちは、すべり山の桜の木の下にふせました。
女学生の一人は「艦載機は、すごく低空で操縦している人の顔が見えました」と、いいます。
 近くの高知県立高知第一高等女学校(いまの高知県立高知丸の内高校)の校舎、同校の前の高知工業学校跡地の校舎が燃えあがりました(七月八日に、ここに高知県立女子医学専門学校が開校する予定でした。いまの高知県立大学、高知短期大学の所)。アメリカ軍機B29が焼夷弾で攻撃したのです。
 やがて艦載機は去っていきました。
 「避難しなさい」という女先生の指示で、女学生たちは、東に逃げ、警察練習所(いまの高知県庁北庁舎)前の高知城の壁面にあった防空壕に逃げ込みました。 
 同年七月四日のアメリカ軍機の空襲のとき、山下さんと三人のきょうだい、父、母は、ここに逃げ込みました。電気もついていない所でした。じめじめした所で上からしずくがぽたぽた落ちてきました。二、三十人が一緒にここにいました。
 「朝になって、高知城公園に上がったら、県庁の北側の梅の段に焼夷弾がたくさん落ちて穴があいていました。アメリカ軍機が墜落したようで、県庁の北側にアメリカ兵が一人、落ちていました。しかし、彼を憲兵が連れて行きました」
 この空襲で高知市第三国民学校も焼けました。山下さんが学校に忘れてきていた帽子とスズリも焼けてしまいました。

 【すべり山】

 すべり山の前に大きな岩石がありますが、向かって左手の少し上った所に防空壕がありました。
 高知市小津の高知高校二年生だった坂本昌三郎さん=高知市城北町に下宿=は、動員で行った兵庫県尼崎の工場で大けがをして治療のため一九四五年六月七日、高知市に帰っていました。
 六月ころ、この防空壕の近くを歩いていた坂本さんは、ウーーーーッという空襲警報を聞いて、この防空壕に入りました。
壕の両端に木の板を渡してあって、いすになっていました。
 十人くらいが、ここに入っていました。
 壕に入っていると警防団の男性が入ってきて「おまんみたいな若い者は警防をせないかん。出ていき」。
 「わしは病人じゃ」といいましたが無理やり追い出されました。
 
 【四国森林管理局の裏門の前】

 高知県営林局の裏(いまの四国森林管理局の裏門の前)の高知城の山の壁面にも壕がありました。
 高知市本町五丁目(乗り出し、グランド通の所)に母と住んでいた松本節さん(当時・伊藤)は、一九四五年七月四日のアメリカ軍機の空襲のとき、母と一緒に、この壕に逃げ込みました。節さんは、三月に高知県立高知第一高等女学校(いまの高知県立高知丸の内高校)を卒業。その後、高知病院(いまの高知市役所の所)のなかの看護婦養成学校に通学していました。
 七月三日の夜中に空襲警報が鳴って、母と二人で家の庭の奥の防空壕に入りました。
 それから解除になって防空壕を出たら空が急にパーッと明るくなりました。
 何やらゆらゆら光りながら落ちてきました(のちに照明弾だったことを知りました)。「ウワァー、きれいな」といって見上げていたら、母が「おおごとじゃ。新型の爆弾かもしれんき。はよう防空壕へ入らないかん」といいました。
 それで急いで、また防空壕へ入りました。
 しばらく入っていたらザーザーと水が流れるような音がしはじめました(あとで焼夷弾の落ちてくる音と知りました)。「何か落ちてきたら蒸し焼きになるかもしれん」と不安になって表へとび出たら、町内は誰もいませんでした。家の西のグランド前の四つ角の永野パン屋も焼けはじめて、二階の窓からはげしく火がふいていました。
 周囲を見回したらグランド通の四つ角の右手の金物屋の小松さんが「みんなあ、鏡川に逃げましたぜよ。私は大事なものを忘れてとりにかえったけど、はよう鏡川に逃げなさい」といってくれました。
 でも、火の粉が舞っていて、とても鏡川方面に逃げることができません。
 それで「公園へ行こう」と母娘で高知城の公園に向かいました。
 電車道をつっきりました。途中、落ちてくる焼夷弾を避けるために急いで軒下にとびこみました。
 裁判所の北の池に下りていって防空頭巾をぬらしました。
 県庁の一番西の建物の窓から激しく火がふいていました。
 そして、高知営林局の東の高知城の山の横穴壕にいって、少し体をかがめて入りました。横幅は数メートルありました。奥行きは七、八メートルくらいではなかったかと思います。真っ暗でしたが十人から十五、六人が入っていたように思います。私たちは一番最後くらいに入ったと思います。
 そのうちに突然、ドッスーンというすごい音がしました。男性が「艦砲射撃じゃ!!」と声を上げました。みんな、パニックになって騒ぎだしました。
 別の男性が「そんなものは、きやせん。きやせん」と、いったので、それで少し静まりました。(「ドッスーン」は、アメリカの飛行機が落ちた音ではないかと、いまは思っています)
 午前五時ころ、そろそろ入口の木のとびらを開けたら夜がしらんでいました。
 それで、みんなザワザワと出てきました。生きていてほっとしました。
 「うちのほうにいてみよう」と歩き始めました。焼夷弾の煙で空は灰色でした。そして太陽が真っ赤な、まるで血のような色だったのをはっきり覚えています。
 街は、まだ燃えていて炎がチョロチョロ出ている所もありました。家の近くに行こうとするのですが、熱くて近寄れません。
 市内の越前町の、おば(母の妹)が様子を見に来てくれていて「生きていて良かった」と、三人で泣きました。
 一晩、おばの家に泊めてもらいました。
 その晩、空襲警報が出て、小高坂山のお墓に逃げて一晩、そこで過ごしました。
 翌日、焼け跡を見にいきました。丸焼けでした。
 レンガの壁の形はあり、コンクリートの土台も残っていました。
 湯沸しのオカマに水をたっぷり入れて茶碗や湯飲みを入れて逃げていました。その水はほとんどありませんでしたが、食器類は焼け残りました。
 ニワトリ小屋でジトリを三、四羽飼っていましたが、それが黒こげになっていました。母が「かわいそうに」といって持ち上げたらパクッと二つに割れました。中の卵がゆで卵のようになっていました。
 
 【高知県庁の西端】

 高知県庁の西端の高知城の山の壁面にも壕がありました。
 高知商業学校の生徒だった浜田幸雄さん宅は高知市川崎町、いまの高知市民図書館の西どなりにあった西本洋服屋でした。
 浜田さんは、この横穴壕のことを「トンネル」といいます。
 中からレールをひいていました。朝鮮人たちが、中の土をトロッコに乗せ、裁判所の裏に運んでいました。
 一九四五年七月四日のアメリカ軍機の空襲のときのこと。高知市役所の何かが落ち、バーンと明るくなりました。「これはいかん」。兄と二人で、営業用のアメリカ製のシンガーミシンを担ぎ出し、近くの裁判所の門の前におきました。
そのあと、兄と浜田さんは、母の母、両親、姉で近くの高知城の堀の所に掘っていた自宅の防空壕に逃げました。
兄は、母の母を連れて鏡川方面に逃げました。浜田さんと両親、姉は北に逃げました。
まず、高知県庁の西の端の壕に逃げました。まだレールもあり、できあがっていませんでした。
 そして、ここを出て走っているとザーッという音がしたので高知営林局の裏の横穴壕に入りました。そして、こんどは、すべり山の防空壕にと逃げ込み、そのあと、市内の久万川へ逃れました。
 県庁の屋上に機関銃がありましたが、これは撃たなかったようです。日本の飛行機も迎撃しませんでした。
 朝、家に帰ってみると家は全焼していました。南を見ると、すっかり家がなくなって山内神社の所の鏡川の堤防が見えました。裁判所前のミシンは、そのまま残っていました。

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【調査リポート】 高知城の山の斜面にあった十の戦争壕 その六 テレビ局が全国の番組でも放送

 「戦争と平和を考える資料展」の期間中にも、「私も、そこに入った」というかたから、はがきや電話で連絡がありました。
 そうしたかたがたの証言で高知城の山には、少なくても横穴壕が十か所あったことがわかりました。
 このことを八月十五日夕六時十分からのNHK総合テレビの「こうち情報いちばん」が「高知城と戦争」という特集で放送してくれました。
 番組は、高知城の山にはアジア太平洋戦争中に十か所の横穴壕があったことが平和資料館・草の家の調査でわかったことから始まりました。調査したメンバー、アメリカ軍の空襲のとき高知城の壕に逃げ込んだ梶田順子さん、松本節さん、山下晃さん、坂本昌三郎さんが出演しました。
 夜八時四十五分からの「ニュース845」でも、その一部が放送されました。
 八月十七日朝のNHK総合テレビの「おはよう日本」でも「〝お城〟が見つめた戦争と戦後復興」と題して和歌山城のこととセットで放送されました。

 これらの横穴壕は、防空壕、物資を入れる壕、天皇・皇后の写真を避難させる壕、アメリカ軍が上陸してきたさいの戦闘のための壕とさまざまなようです。今後は、一つひとつの壕の様子、用途などをつまびらかにしていきたいと思っています。

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高知県安芸郡も戦場でした その一 大日本帝国の時代

 実は、私も戦争は体験していません。
 しかし、戦争のことに関心を持ち、この五年間、高知県内をかけめぐり、戦争体験者から当時のお話をうかがってきました。
 きょうは、そうした資料から「高知県安芸郡と戦争とのかかわり」についてお話しさせていただきます。

 江戸時代は戦争といえば武士がするものでした。
 しかし、新しい世の中、大日本帝国の時代になって二十歳以上の男性で徴兵検査に合格した人は兵隊にされ、戦争にかり出されました。
 国民のなかには、徴兵制度に反対です、ほかの国に攻め込んではいけません、戦争はしてはいきませんという声がありましたが、政府は、どんどんアジアに兵隊を送り戦争を広げていきました。
 外国へ行った大日本帝国の兵隊は、その国のものを壊し、人を殺して、その国の人々を大日本帝国に従わせようとしました。
 大日本帝国の兵隊は、食料をあまり持たされていませんでしたから、土地の農民から奪って食べました。
 この間までは、いいお父さん、いいお兄ちゃんだった人たちが、こんなことをさせられました。

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高知県安芸郡も戦場でした その二 馬路村にやってきた中江兆民さん 

 明治天皇の時代に各地で自由民権運動という国民の運動が起きました。
 高知県は、その運動のさかんな所で、馬路村の人も、それに参加しています。
 土佐郡山田町、いまの高知市出身の中江兆民さん(一八四七年十二月八日~一九〇一年十二月十三日)という人がいました。
 一八七一年、フランスに留学し、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソールソーの思想を学びました。
 一八七四年六月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、八月には家塾の仏蘭西学舎(のちに仏学塾)を開きます。塾では語学や思想史のほか、漢学も重視されました。
 ここ馬路村魚梁瀬(やなせ)の丸山公園に中江兆民の碑がありますね。
 「中江兆民曽遊(そういう)之地」の碑です(一九九五年七月二十八日建立)。
 馬路村魚梁瀬出身の山崎氤(さかん)さん(一八六七年~一九四〇年)は、中江の仏学塾の門下生でした。ここでフランス語を学び、ルソーの『民約論』の講義を受けました。
 一八八七年十二月二十五日、政府は、東京にいる自由民権家を東京から追い出すため保安条例という法律をつくりました。
 「第四条 皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経期日又ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得
 2 退去ノ命ヲ受ケテ期日又ハ時間内ニ退去セサル者又ハ退去シタルノ後更ニ禁ヲ犯ス者ハ一年以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ仍五年以下ノ監視ニ付ス
 3 監視ハ本籍ノ地ニ於テ之ヲ執行ス」
 政府は、この法律で、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物を皇居から約十一・八キロメートル以外に退去させ、三年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止させました。これにより退去を命じられた者は、十二月二十六日夜から二十八日までに総計五百七十人と称されています。
 中江さんは大阪に行きました。
 山崎さんは魚梁瀬に帰りました。
 氤(さかん)さんの木材業をやっていた父・唯次さんが用務で大阪にいた一八八八年七月十四日、十五日ころの夜、中江さんを訪ねて魚梁瀬においてでてくださいと誘いました。
 中江さんは、同行することを快諾(かいだく)しました。
 十八日、大阪を出発。十九日、徳島着。二十日、由岐浦を経て浅川浦着。
 二十一日、鉱山を見聞。
 二十二日、奥浦に到着。
 この日から風雨が強くなり、二十四日には海部川があふれています。
 二十七日になって雨がやみました。氤(さかん)さんが二人を迎えに来ました。
 二十八日朝十時ころ、シバコ山を出発し、午後一時、魚梁瀬に着きました。
 十八日に大阪を出発して、魚梁瀬に着いたのが二十八日です。
 そして、中江さんは魚梁瀬に三日間滞在しました。
 その翌年、一八八九年、馬路地区、魚梁瀬地区が合併して馬路村になりましたが、山崎氤(さかん)さんは馬路村の初代村長になりました。
 私が注目しているのは、中江兆民さんが、『三酔人経綸問答』(一八八七年)で、明治政府の富国強兵策を批判し、非武装民主立国論を説いていることです。
 ・役に立たない軍備の撤廃=完全非武装の提唱しています。急な軍拡は経済を破綻させます。それよりも他国への侵略の意思がないことを示すほうがいい。
 ・ 弱小国=日本は、道義外交に徹しましょう。
 ・人類が最後に到達する最高の政治形態である民主共和制の採用を主張します。
 ・世界平和の実現と各国における民主共和制の採用を主張します。
 ・日本への侵略にたいしては、非暴力・無抵抗に徹しましょう。
 ・日本は世界に先駆けて、その実験国になりましょう。
 すごく先進的な考えかただと思います。

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高知県安芸郡も戦場でした その三 日露戦争で戦死した人々

 日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)のときは、戦争やめてという声が、いろんな形で表現されました。
 日露戦争というのは、朝鮮半島と満洲南部を主戦場としてたたかわれた大日本帝国とロシア帝国との戦争です。
 与謝野晶子(よさの あきこ。一八七八年十二月七日~一九四二年五月二十九日)さんは、詩 「君死にたまふことなかれ(旅順の攻圍軍にある弟宗七を歎きて)」(一九〇四年九月。『明星』)で、その思いを伝えました。

  ああ、弟よ、君を泣く、
  君死にたまふことなかれ。
  末に生れし君なれば
  親のなさけは勝りしも、
  親は刃(やいば)をにぎらせて
  人を殺せと敎へしや、
  人を殺して死ねよとて
  廿四(にじふし)までを育てしや。

  堺の街のあきびとの
  老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
  親の名を繼ぐ君なれば、
  君死にたまふことなかれ。
  旅順の城はほろぶとも、
  ほろびずとても、何事ぞ、
  君は知らじな、あきびとの
  家の習ひに無きことを。

  君死にたまふことなかれ。
  すめらみことは、戰ひに
  おほみづからは出でまさね、
  互(かたみ)に人の血を流し、
  獸の道に死ねよとは、
  死ぬるを人の譽れとは、
  おほみこころの深ければ
  もとより如何で思(おぼ)されん。

  ああ、弟よ、戰ひに
  君死にたまふことなかれ。
  過ぎにし秋を父君に
  おくれたまへる母君は、
  歎きのなかに、いたましく、
  我子を召され、家を守(も)り、
  安しと聞ける大御代(おほみよ)も
  母の白髮(しらが)は増さりゆく。

  暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
  あえかに若き新妻を
  君忘るるや、思へるや。
  十月(とつき)も添はで別れたる
  少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
  この世ひとりの君ならで
  ああまた誰を頼むべき。
  君死にたまふことなかれ。

 半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟・鳳籌三郎さんを嘆いての詩です(晶子の弟の鳳籌三郎さんは日露戦争から帰還し、一九四四年まで生きています)。
 北川村加茂出身の西岡普さん(一八八〇年生まれ)が一九〇四年十月二十八日に中国の戦場から妻の捨さんに出した手紙が残っています。
 西岡さんは、陸軍歩兵四十四連隊の兵士として、旅順攻撃に参加しています。
 この手紙には、十月二十六日に現地に到着、二十七日には敵陣近くの第一線に天幕をはって宿営、三十日午後から旅順口の攻撃をすることが書いてあり、「到着シ日モ本日モ敵味方ノ砲弾ハ丁度雷ノ処ク……時々落チ来リ……日々死傷者ノ随分之有……」とあります。
 西岡さんは、この三十日に旅順要塞の東鶏冠山北[とうけいかんざんきた]砲台で戦死します。
 この戦争に馬路村からも出征し、四人戦死しています。
 馬路。乾長太郎さん。一八七八年一月二十八日生まれ。陸軍伍長。一九〇四年十月十八日、「清国(現中国)旅順要塞の東鶏冠山北[とうけいかんざんきた]砲台の戦闘で戦死」。二十七歳。
 馬路。中河重松さん。一八八七年二月十日生まれ。陸軍一等兵。一九〇四年十二月十九日、「清国(現中国)大連兵站病院で戦病死」。二十八歳。
 馬路。永吉清太郎さん。一八八二年七月二日生まれ。陸軍一等兵。一九〇五年六月十九日、「清国(現中国)旅順要塞の東鶏冠山北[とうけいかんざんきた]砲台の戦闘に参加。入家子兵站病院で戦病死」。二十四歳。
 馬路。笹岡市松さん。一八七一年九四月八日生まれ。陸軍歩兵上等兵。歩兵第二十二連隊に入隊。一九〇五年八月七日、「韓国白峴で戦死」。三十五歳。

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高知県安芸郡も戦場でした その四 戦利品と魚梁瀬森林鉄道

 日露戦争に勝った大日本帝国の軍隊は戦利品を日本にもってきました。
 戦利品というのは、戦争や戦闘で勝利したことにより手に入れた品のことです。戦争で奪った兵器、軍艦、美術品などです。神奈川県横須賀市の民家で軍隊の幹部だった男性が戦利品として自宅に持ち帰った立派な家具を見たこともあります。
 県下を歩いていると香南市野市町土居字宮床の立山神社の最後の鳥居を入って右側に「日露役戦利品 陸軍省御下附」の石碑がありました。
 碑のてっぺんに、その戦利品が乗っていたようですが、いまは、それはありません。
 下附(下付)というのは、官庁から民間に金や物をさげわたすことです。
 この石碑を見つけたとき、「あわーっ、戦利品か。陸軍省が戦利品を配っていたのか」と、驚きました。
 インターネットのアジア歴史資料センターで陸軍省の資料を探しました。
 日清戦争のときから陸軍省に各地から戦利品を下付してほしいと文書がきていることがわかりました。
 たとえば一九〇七年十月二十三日付の高知市兵事会長・魚角象三の名による「戦利品下付願い」は高知県知事・鈴木定直(すずきさだなお)を経由して陸軍省に届いていました。
 内容は、高知市鷹匠町外柳原に日露戦役の祈念碑を建設しているが、それに備えつけたいので「戦利砲」か「戦利砲丸」を下付してくださいというものでした。
 かくて「戦利品」は神社、学校、博物館に下付され大日本帝国軍隊の強さを宣伝しました。
 魚梁瀬森林鉄道と、その戦利品が関係しています。
 一九一一年、田野町を起点として、安田から中山を経て馬路にいたる安田川林道本線の軌道、約二十四キロメートルが開通しました。
 下がるときは人の手押しでした。上るときはイヌやウシが引きました。
 一く一四年、馬道、魚梁瀬間の森林軌道を敷設しました。
 一九一八年には魚梁瀬、石仙(こくせん)に森林軌道を敷設しました。
 その三年後の二月、蒸気機関車が導入されました。
 一九二九年から奈半利の奈半利川流域でも施設工事が始まり、一九四二年に完成しました。
 魚梁瀬森林鉄道は、一九〇四年~一九〇五年以降につくられました。
 中国の遼東半島先端部の旅順に、ロシア帝国の要塞(ようさい)・旅順要塞がありました。
 日露戦争で日本軍は、ここを攻撃しました。
 四か月以上の戦闘の末に、一九〇五年一月一日にロシア軍守備隊は降伏しました。
 『高知営林局史』(高知営林局。一九七二年)につぎのようなことが書かれています。
 旅順港要塞のなかにレールが敷きつめてあり、輸送に都合がよいので、戦利品として撤去のうえ、持ち帰って森林鉄道や工事現場の資材運輸に使うことにした。
 馬路村日浦ら安田川山国有林への軌道は、この戦利品レールを使ったものだ。
 このレールは約七センチとやや背が高く、その後、国内でつくりはじめてものより頭が小さいので「満州レール」と呼ばれた。

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高知県安芸郡も戦場でした その五 和知部隊の戦闘のすさまじさ

  日清戦争、日露戦争、上海事変、日中戦争、アジア太平洋戦争で亡くなった人は、馬路で五十七人、魚梁瀬で二十一人です。
 中国の江蘇省羅店鎮付近の戦闘で戦死した人が何人かいます。
 一九三七年七月、日中戦争が始まると、八月には高知の陸軍歩兵第四十四連隊も中国戦線に動員されました。
 連隊長は陸軍参謀本部出身の和知鷹二大佐で、四十四連隊は和知部隊として出征しています。
 陸軍歩兵四十四連隊は、当時、和知部隊として中国に上陸しています。
 『昭和十二年 支那事変記念写真帖 第一輯 和知部隊特輯』という本があります。
 一九三七年(昭和十二年)七月七日から始まった日中戦争に参加した高知県の陸軍部隊、和知部隊の写真記録集です。
 同部隊は同年八月下旬、揚子江岸に上陸。そして、羅店鎮などを転戦。十一月十一日、「敵が堅塁を誇りし南翔を陥落、然も一番乗りの殊勲をたてた」といいます。
 ここに収録された写真は、高知新聞社の従軍記者・宮崎孝男さんの「出征から南翔攻略迄(まで)」のものです。
 たとえば、以下のような写真が掲載されています。
 出征のため高知市の路面電車通りを行軍する兵士たちと見送る群衆。 
 高知駅前で出征の兵士たちを送る群衆。
 「敵前上陸」する兵士たち。
 突撃寸前の兵士たち。
 海軍機の掩護(えんご)爆撃。
 「残敵掃蕩(ざんてきそうとう)」の市街戦。
 「決死白襷(しろだすき)隊」の突入。 
 羅店鎮の「白壁の家」の「敵」への攻撃。
 捕獲品を点検する和知部隊長。
 羅店鎮の「惨憺(さんたん)たる闘(たたかい)の跡」。
 陣地の構築。
 手榴弾(しゅりゅうだん)を投げる「支那」兵。
 戦死者たちの「沈黙の凱旋(がいせん)」。
 朝倉駅前の告別式。
 高知市葬。
 銃後の愛国婦人会の「活躍」。
 和知部隊かくかかかえりといった本ですが、日本の侵略戦争のすさまじさの一端を知ることができます。
 高知新聞は、一九三七年九月二日付、夕刊の一面トップに「壮烈・土佐魂の発露 羅店鎮の一番乗り 我和知部隊陣中訪問 穂岐山少尉二十七人撫斬り 上海一日 宮崎本社特派員特電」という記事を載せました。
 同紙は、一日にも、このことを報じる号外も出しています。
 この年七月、日中戦争が始まると、八月には高知の陸軍歩兵第四十四連隊も中国戦線に動員された。連隊長は陸軍参謀本部出身の和知鷹二大佐で、四十四連隊は和知部隊として出征しています。
 記事は、このときのことで、和知部隊は、八月二十三日未明、「○○鎮」に上陸し、「支那軍」を攻撃、しばらくして上海北方にむけて占拠地点を拡大、二十七日には「敵精鋭部隊の死守する難攻不落を誇る羅店鎮」を攻撃し、二十八日正午には、ここを占拠したとしています。「穂岐山少尉二十七人撫斬り」は、この間とのこととされ、和知部隊が「殊に穂岐山少尉(市商教諭)が敵陣地に躍り込み支那兵二十七名を斬つたことは土佐魂の発露である……」と、語っています。
 中国に乗り込んで中国人を二十七人斬り殺すことが「壮烈・土佐魂の発露」とされた時代を示す記事です。
 「穂岐山少尉」というのは、穂岐山拓さん(一九〇九年九月六日生まれ二十八歳)。高知県長岡郡新改(かえ)村平出出身。高知市の県立南海中学校卒業。一九三三年、東京高等師範学校体育科を卒業し、幹部候補生として陸軍徳島連隊に入隊。一九三四年、高知市立商業学校の教諭に。剣道四段。その後、高知の歩兵四十四連隊の陸軍兵として中国に出征していました。
 この夕刊の二面の関連記事には、このことを知った川淵高知市長、丁野高知市立商業学校長の「実に愉快」、「我校の名誉」という談話が掲載されています(記事のコピーあり)
 穂岐山少佐は、同月二十一日、中華民国江蘇省羅店鎮丁家宅付近の戦闘で戦死しています(戸籍簿による)。
 彼の戦死を伝える大阪毎日新聞、同月二十四日付の記事では、彼の叔父の談話が出ています。
 そこで叔父は「(穂岐山少佐からは)上陸後第二日の激戦で逃げる敵を機関銃で撃滅し機関銃やピストルなど多数戦利品を得て廿数名を斬りまくり自分ながら呆れるほど運がよく弾があたらず元気にやっているという手紙が一回来ました」と語っています。
 和知部隊は、当時の新聞報道によると多くを殺し、多くの戦死者を出しています。
 馬路村出身者で江蘇省羅店鎮付近の戦闘で戦死した人が何人かいます。
 みんな高知市朝倉の陸軍歩兵四十四連隊の兵隊です。
 魚梁瀬。五百蔵虎猪さん。歩兵上等兵。二十歳。一九三七年九月四日。
 馬路。乾喜一さん。歩兵上等兵。二十七歳。一九三七年九月七日。
 魚梁瀬。山崎敏雄さん。歩兵上等兵。二十三歳。一九三七年九月七日。
 魚梁瀬。山崎義男さん。歩兵伍長。二十五歳。一九三七年十月一日。ここでの戦闘で負傷し野戦病院で戦病死。
 戦後、和知鷹二さんは、戦死者の多かった「遠因」を、つぎのように語っています。
 「参謀本部は、戦線に歩兵部隊を投入する際には『県民性』を重視した。高知の県民性は『短気』。将棋の駒に例えると香車。ブレーキもバックギアもない自動車同様で、これほど突撃と敵前上陸に適した県民性はない。日露戦争から第二次大戦まで四十四連隊は常に最前線、激戦地に投入された。高知の消耗率の遠因は県民性による。」(依光裕『一所懸命 土佐に生きて』。高知新聞社。二〇〇七年九月二十日)。

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高知県安芸郡も戦場でした その六 小学校から国民学校へ

 一九四一年四月一日というのは戦争の歴史を学ぶうえで大事な日です。
 小学校が国民学校になった日です。
 国民学校は、国民学校令にもとづいて設立されました。
 六年の初等科と二年の高等科からなり、初等科はそれまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていました。
 それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校はすべて国民学校とされました。
 国民学校の目的は、「國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通敎育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことでした(国民学校令第一条)。
 どういうことを教えたでしょうか。
 当時の教科書のひとつ、『ヨミカタ 一』、『ヨミカタ 二』、『よみかた 三』、『よみかた 四』(一年生、二年生用)を読んでみました。
 大きく二つのことを子どもたちに伝えようとしています。
・この大日本帝国を支配しているかたは、すばらしいかたです。私たちはケライとして、このかたのために働きましょう。
・鍛錬してはやく立派な兵隊さんになって、すばらしいかたのためにいい働きをしましょう。
 ここに教科書の内容が載っているので、読んでみてください。

 http://www.geocities.jp/sybrma/103kokumingakkou.kokugo.html

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高知県安芸郡も戦場でした その七 アジア太平洋戦争下の学校

  国民学校令の出た年・一九四一年の十二月八日には、大日本帝国はアメリカ、イギリスとも戦争を始めました。
 馬路村教育委員会が一九八一年五月二十日、『わたしたちの馬路村』という本を出しています。
 そこに、「おとうさんの話」というのが載っています。
 ここの「おとうさん」というのは、いまの小学生からいえば、おとうさんのおとうさんのおとうさんくらいの年齢でしようか。
 こう書いています。
 「おとうさんが生まれたころ、日本は中国やアメリカなどを相手に、大きな戦争をしていました。
 馬路村からも、たくさんの人が戦争にいきました。それらの人びとの中には、帰ってこない人もおりました。
 学校でも、[馬路村の学校のことです。当時は馬路国民学校]防空えんしゆうのひなん訓練やバケツリレーのけいこをしました。きんろうほうしといって、農家の仕事の手つだいもしました。
 戦争も終りに近い一九四四年(昭和一九年)となりの家から出た火事で、学校がまる焼けらなり、勉強するのにとてもこまりました。
 まもなく、長かった戦争もようやく終わり、食物や着る物はすくなくなかったが、のびのびと勉強ができるようになり、社会科など新しい教科、野球などのたのしいスポーツができるようになりました。」
 この戦争で多くの人が戦死しています。
 陸軍銃砲隊兵長だった山口一郎さん(明治四十四年八月二十八日)が戦死しています。一郎さんのことについて妹の安岡静恵さんが書き残しています(岩城敏郎編集『英霊に捧ぐ』。馬路村遺族会。一九九四年三月二十七日)。
 一九四一年十月、一郎さんに召集令状がきます。妻を宮崎県に残しての出征でした。
 アジア太平洋戦争が始まったのは二か月後の一九四一年十二月八日ですので、新しい戦争を開戦するための召集だったと思います。
 両親は大阪にいましたが、アメリカ軍の空襲がはげしくなり一九四三年、馬路村に疎開してきました。
 一九四四年三月十三日、南海派兵猛二六八九部隊に属していた彼は、東部ニューギニア(いまはパプアニューギニア)セピッタ州ウェワクで空襲で戦死します。三十四歳でした。
 同年十月、両親のもとに「南海派兵猛第二六八九部隊 山口一郎 ニューギニアにて戦死」という公報がきます。
 家に近所の人々が集まってきました。
 母は、「名誉な戦死をさせいただいて、ありがとうございました。お国のために役立たせていただいて、これほどありがたいことはございません」と近所の人たちに語りました。
 翌日も、「名誉なことです」と親類たちに話しました。
 三日目、もう訪れる人もいなくなりました。
 その夜、母は、声を殺して布団をかみしめ、おえつしました。
 「一郎や。一郎や。なんぼかつらかったろう。一郎や。一郎や。」
 北川村からかけつけていた娘か気づいて「お母さん!」と声をかけると「一郎は死んで、もうこの世にはおらん! 一郎よ、ひもじかろう。お水も飲みたかろう。一郎よ!」と、泣きながら娘さんにだきついて体を前後に大きくゆすりました。
 その晩、二人で泣いて泣いて泣き明かしました。
 その日から、母は娘の前でだけは涙を見せるようになりました。
 その後、遺骨もないまま白木の箱が届けられました。
 一郎さんの妻は、「私の夫は一郎さんのみ」と、再婚しないで戦後を生きました。
  北川村二又(ふたまた)の小島兼市さん(大正六年一月二十七日生まれ)も戦死しています。
 馬路村の小島芳子さんが、夫・兼市さんのことを書き残しています(岩城敏郎編集『英霊に捧ぐ』。馬路村遺族会。一九九四年三月二十七日)。
 彼女と、兼市さんは、馬路営林署の安田川事業所で知り合いました。二人とも森林鉄道の保線工事をしていました。
 彼女が十六歳のとき、八歳年上の兼市さんと結婚しました。
 一年四か月後の一九四三年二月十四日、海軍軍属として召集され、広島の江田島海軍工廠へ入廠しました。
 そして、一九四四年十二月三十一日、南洋群島ペリリュー島(いまは、ミクロネシア連邦)で戦死しています。二十八歳でした。
 夫が戦死したという公報が届いたのは終戦の翌年、一九四六年の十二月の南海地震の直後でした。
 「遺骨が安芸まで来ているので、引き取りに来てほしい」という知らせがあり、北川村二又から歩いて向かいました。
 青年団の人が同行してくれて、地震でつえた道をかき分けながら一日がかりでした。
 彼女は二十二歳。二歳と四歳の子を抱え、ぼうぜんとしました。
 奈半利川の橋から淵をのぞき込み、飛び込もうとしたこともありました。
 田野町の薬局で猫いらず(毒薬)を買い、それをのんで死んでしまおうとしたこともありました。
 そういう思いとたたかいながら、生きてきたことをつづっています。

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高知県安芸郡も戦場でした その八 アメリカ軍の沖縄上陸

 一九四五年になってアメリカ軍が沖縄県に上陸して占領しましたが、そのときのたたかいは、すさまじいものでした。
妻の父の母が、高知市の、いまの高知大丸の近くで「うどん屋」をやっていました。
その隣の食堂の娘さんが、高知海軍航空隊の隊員と結婚しました。
彼は、鹿児島県の鹿屋(かのや)から練習機・白菊で沖縄に飛び立って戦死しました。
最近、私のブログの記事を見た、高知海軍航空隊の元隊員から何度かメールをいただきました。
 こんな内容でした。

 私は、一九四四年五月に飛行機整備術練習生(百二期)を終え高知海軍航空隊へ転勤してきました。高知海軍航空隊整備分隊に配属されました。
当時は、いまだ飛行場を建設中で、相撲の「神風関」や関取がトロッコを押している姿が脳裏に残っています。
 もちろん、飛行機は、まだなく、飛行作業はありませんでした。
 一九四四年七~八月、福岡県雑餉隈(ざっしょのくま)にありました九州飛行機株式会社(旧渡辺鉄工所)へ行き、「白菊」の製造現場を激励したり、福岡県粕屋郡西戸崎にありました、飛行場で組み立て作業の応援やテスト飛行(最終検査)に立会い、高知航空隊へ空輸しました。
 菊水部隊白菊隊として鹿屋航空隊に行きました。
 航空整備兵でしたので、特攻隊員が搭乗する飛行機の整備にあたりました。出撃する隊員とともに飛行機の内部を清掃するとき、「俺の棺桶だからピカピカにする」と言ったいたことが、昨日のように思われます。

 沖縄県で戦死した馬路村出身の人もいます。
 馬路。清岡進さん。大正十一年十月一日生まれ。陸軍歩兵伍長。一九四五年四月五日、沖縄本島嘉敷方面の戦闘で戦死。二十五歳。
 魚梁瀬。山崎殖林さん。大正十四年十月十五日生まれ。陸軍航空兵兵長。一九四四年四月一日、航空幹部候補生として大刀洗陸軍飛行学校へ入隊。一九四五年四月二日、飛行第六六戦隊に属し、沖縄方面で戦死。二十一歳。
 魚梁瀬。手島早苗さん。明治四十三年一月九日生まれ。海軍軍属。一九四五年六月二十日、沖縄本島島尻郡摩文仁村(いまは糸満市)で戦死。三十六歳。

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高知県安芸郡も戦場でした その九 砂浜にアメリカの戦車用の落とし穴を……

 一九四五年四月、高知にもアメリカ軍が上陸してくるだろうということで中国の東北部にいた兵隊も高知にやってきました。
 四月十六日、陸軍第十一師団(錦兵団)の新任務にともない、高知市朝倉の歩兵第四十四連帯が満州(中国東北部)虎林から高知に帰還しました。
 同日、高知市の高知県立高知城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)に錦二四四五部隊千人が宿泊。学校は兵舎に使用され、三年生以下と軍人、軍馬に満ちあふれ、ときには溝淵忠寛さん(のちの「日の丸校長」)が、太刀を腰に差し、土佐青少年農兵隊を引き連れてあらわれました。生徒たちは、連日、高知市の秦泉寺の山(いまのゴルフ場)にアメリカ軍上陸時の戦闘用の横穴を掘り、ときには十ミリ野砲の弾丸磨きもやりました(高知追手前高校百年史編集委員会『高知追手前高校百年史』。高知県立高知追手前高校校友会。昭和五十三年十一月十九日)。
 陸軍、海軍の兵隊が十万人くらい高知に集まりました。
 四万十町窪川宮内にも練習機に爆弾を積んで相手の艦船に体当たりするための海軍の秘密飛行場がつくられました。
海岸には海の特攻隊の基地がたくさんできました。
 一人乗りの爆弾を積んだ潜水艦で相手の艦船に体当たりする。
 一人乗りか二人乗りの爆弾を積んだベニア板のボートで相手の艦船に体当たりする。
 海岸にはアメリカ軍の戦車を落すための大きな落とし穴がつくられました。
 海軍の陸戦隊が木製のランチャーに軍艦の弾丸を乗せて発射する準備をしていました。
 弾丸がなくなったら竹やりでたたかうということで、竹やりをつくっていました。
 アメリカ軍が街に入ってきたら子どもたちや女性たちが竹やりでたたかうことになっていました。
 陸軍は平地や山の中でたたかうつもりでした。
 高知にやってきていた山砲の七中隊の兵隊だった人にも会いました。一九二七年七月十三日、高知県安田町生まれです。
 こんな話をされていました。

 入隊は、一九四五年春、香川県の善通寺の陸軍の山砲隊です。
 いったら兵隊の宿舎はいっぱいで、馬小屋を改造して、そこに私たちが泊まっていました。
 そこで見た山砲は砲身の短いもので「アメリカ戦車を撃つ特別な砲だ」といっていました。
 善通寺には一週間くらいしかいませんでした。
 そして、私たちは出征しました。
 着いてみたら私たちが行った先は、土佐山田町(いまの香美市土佐山田町)でした。
 八王子様の所の北の山のスソの集落に駐屯しました。
 馬と兵隊が二、三百人いました。竹やぶに馬をつないで、兵隊は民家に泊まっていました。
 そのとき、一人逃亡した兵隊がいて、民家の柱にくくりつけられていました。
 そこから、山南(やまみなみ)に行きました。
 広い道のふちのそこの民家に分散して寝起きしました。ここに何か月もいました。
 私たちのいた家は大きな家で、兵隊が二、三十人くらいいました。
 毎日、山南の山の中腹のくぼんだ所を中心にして夜須に向かってトンネルを掘りました。夜須に通じるようにするためだったと思います。
 ダイナマイトで飛ばして、それを出して、松の木の枠を組んでという作業でした。
 私は、トグワで掘って、その土を外へ出す作業をやりました。
 とにかく腹が減りました。
 ご飯は飯盒の底が見えるほどしか入っていません。
 隣の民家で酒のにおいがするので聞いたらイモ焼酎をつくっているということで、その原料のイモを、こっそり食べさせてもらったこともあります。
 赤岡、岸本、手結(てい。夜須)の海岸に松林がありました。
 山から、そこまでの距離を測りました。
 そして、そこの松を中斬にして、その向こうの浜に大きな落とし穴をつくりました。 そして、上に板を敷きました。
 私は、その穴を掘って、板をはって、その上に草などをかぶせるという作業をしました。
 戦車が上陸してきたら、いっとき、そこに止まらすようにという作戦でした。
 止まったら、山の上から山砲で、それを撃つという作戦でした。
 芸西村の山の段々の所に、木材に黒いペンキを塗って、それに網を張って高射砲陣地に見立てたものをつくろうという計画もありました。
 しかし、それは、やらずじまいでした。

 八月十五日、終戦になり、アメリカ軍の高知上陸はありませんでしたが、もし上陸していたら大変なことになっていました。

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二〇一二年八月十七日 金曜日 戦争遺跡保存全国シンポジウムへのリポートを書いて印刷。

二〇一二年八月十七日 金曜日 戦争遺跡保存全国シンポジウムへのリポートを書いて印刷。

 晴れ。

 朝七時半のNHK総合テレビ「おはよう日本」を見ました。
 
 あすからの戦争遺跡保存全国シンポジウムへのリポートを書いて印刷しました。

 妻、娘、娘の二人の娘はコンサートへ。

 妻は本日も実家泊。

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二〇一二年八月十六日 木曜日 「やっぱり必要、夜間の短期大学」県民の会準備会の記者会見。

二〇一二年八月十六日 木曜日 「やっぱり必要、夜間の短期大学」県民の会準備会の記者会見。

 晴れ。

 娘、娘の娘二人とプールへ。

 午後一時、県庁記者クラブでの「やっぱり必要、夜間の短期大学」県民の会準備会の記者会見に参加。テレビも三台入りました。
 午後四時半から帯屋町で「やっぱり必要、夜間の短期大学」県民の会準備会の会のビラ配布。

 午後六時から「やっぱり必要、夜間の短期大学」県民の会準備会の打ち合わせ。

 以下、高知県立図書館で知ったこと。

 伊尾木村の男性たちもたくさんの人が戦場に駆りだされました。そして、多くの人たちが戦死しました。
 高知県ニューギニア会編『ニューギニアとその周辺(含むニューブリテン・ビスマーク・ソロモン諸島) 太平洋戦争での高知県戦没者名簿』(高知県ニューギニア会。一九七八年十月十五日)に、その一端が掲載されています。
 伊尾木村出身者の、この地域での陸軍の兵隊の戦死者は十九人。
 陸軍兵ばかりで階級は、兵長、上等兵、軍曹、伍長、曹長。下士官の戦死者はいません。
 戦死の場所は、東部イスラバ、東部ナウロ、東部バリイベ、東部ギルワ、東部マンバレー、東部ヤンボ、西部ホランジア、西部ミヤンベ、ニューアイランド島ニューハノーバー、ブーゲンビル島ピケです。
 同じく海軍の兵隊は三人です。
 階級は、一曹、上曹、上機曹。戦死の場所は、ソロモン諸島、西部ニューギニアホランジア、アドメラルテイ諸島です。
 同じく軍属の戦死者は二人。
 戦死の場所は、ソロモン諸島です。

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高校生の進路と親の年収の関連 ここにデータがあります。

http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump/resource/crump090731.pdf

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二〇一二年八月十五日 水曜日 安芸市伊尾木で砲弾を三つ乗せた「忠魂碑」のいわれ。

二〇一二年八月十五日 水曜日 安芸市伊尾木で砲弾を三つ乗せた「忠魂碑」のいわれ。

 雨。

 午前九時からある小学校で三年生~六年生に戦争のお話をしました。

 午後六時十分からNHK総合テレビの「こうち情報いちばん」を見ました。

 安芸市伊尾木で砲弾を三つ乗せた「忠魂碑」の写真を撮影。
 川島市議のお世話で、これができたころのことを知る男性から話を聞くことができました。
 その人に冊子二冊をいただきました。

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二〇一二年八月十四日 馬路村魚梁瀬で一泊。

二〇一二年八月十四日 馬路村魚梁瀬で一泊。

 雨。

 健康診断書をもらいにいって、受験料三万円を払い込んで、やっと受験の申込書を郵送しました。

 安芸郵便局に入ったら左手に休憩する所があって、その左手にトイレがありました。障害者用も。何だか感動しました。

 安芸市の伊尾木で、ずーっと気になっていた「忠魂碑」を見ました。
 てっぺんに大砲の弾のようなものが三つ乗っています。書は永野修身海軍大将。後ろにいわれのようなものを彫り込んでありますが、削られたりコンクリートのようなもので隠されたりで全体を読みとることができません。
 見ているだけでなくて、「もの」にしようと決意しました。

 喫茶店「砲場(つつば)」で休憩。
 店の女性によると黒船の時代に、ここに砲台があったとのことです。

 馬路村魚梁瀬へ。
 ガソリンスタンドがあったのに感激しました。
 ここの宿で一泊。
 女性三人、男性二人の山登りの客も泊まっていました。

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2012.08.21

【ニュース】橋下徹・大阪市市長、「慰安婦が軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられた証拠だせ」 韓国側に要求。 

 http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012082101001566.html

 橋下市長「慰安婦連行証拠ない」 韓国に根拠明示要求

 大阪市の橋下徹市長は21日、戦時中の従軍慰安婦問題に関し「慰安婦が軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられた証拠はない。あるなら韓国にも出してもらいたい」と述べた。政府は1993年の河野洋平官房長官談話で慰安所の設置、管理、慰安婦移送に関する「旧日本軍の直接、間接の関与」や、慰安婦募集をめぐる強制性は認めている。
 韓国の李明博大統領による島根県・竹島訪問などに関し市役所で記者団の質問に応じて答えた。(後略)
  2012/08/21 12:56   【共同通信】

 証言は、たくさんあります。
 しかし、それを示しても、橋下さんは「それは、その人が、そういっているだけ」と、あくまでみとめないだろうね。

 僕は、橋下さんというのは、そういう人間だと思っています。

 この問題で発言するなら少なくとも、この政府の見解くらいはふまえてほしい。

 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
 一九九三年八月四日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

 

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二〇一二年八月十八日 土曜日 鈴鹿市への旅程。

二〇一二年八月十八日 土曜日 鈴鹿市への旅程。

 晴れ。

 午前五時、起床。

 高知新聞の「声 ひろば」に「夜間の短大を大切に」という投書が載っていました。

 タクシーに乗ったら知り合いの運転手。十五日夕のテレビ高知の福井康人さんの出た番組がよかったといっていました。高知民報の僕の連載も読んでくれていました。

 午前七時、高知駅発の列車でOOさんと鈴鹿市に行く予定です。
 午前六時四十分、OOさんに電話したら「いま起きたところ」。「えーっっ」。
 それでも彼はセーフ。
 自転車をとばしてきたとのことです。

 名古屋から近鉄線で鈴鹿市へ。
 窓から見たら、ここいらは山が見えません。

 IMさんから「テレビでお顔を見ています」と電話。ニューギニアから帰った人の遺品を持っている人がいるとのこと。

 鈴鹿市で第十六回戦争遺跡保存全国シンポジウムに参加。
 高知からは計五人の参加。
 名古屋の大会のとき出会った当時、沖縄国際大学の学生YOさんに出会いました。
 あのとき彼女たち沖縄国際大学グループと話しているうちに「僕も四年制大学にいこう」と、思い立ちました。
 高知に落ちたB29、一九四五年六月二十九日と七月四日、のことを調べている京都の男性に出会いました。アメリカ側の資料を送ってくれるとのことです。
 大阪府八尾市の男性が、八尾の神社に「石でつくった砲弾」が飾ってあると教えてくれました。
 
 夜、内モンゴル出身の若い女性と出会いました。

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二〇一二年八月十九日 日曜日 供出された梵鐘の代行品。

二〇一二年八月十九日 日曜日 供出された梵鐘の代行品。

 晴れ。

 戦争遺跡保存全国シンポジウム二日目に参加。
 分科会報告。
 供出された寺の梵鐘、その代行品をつくっていたとの報告にびっくり。
 代行品は、石やコンクリート、焼き物で。

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二〇一二年八月二十日 月曜日 三重郡菰野町閏田(うるだ)の道路の両側の「凱旋門」。【写真 凱旋門】

二〇一二年八月二十日 月曜日 三重郡菰野町閏田(うるだ)の道路の両側の「凱旋門」。【写真 凱旋門】

Photo

 晴れ。

 戦争遺跡保存全国シンポジウムの戦跡見学バスツアーに参加しました。
 三重郡菰野町閏田(うるだ)の道路の両側に建っている二つの石柱(花崗岩製)です。
 南の柱には「凱旋門[がいせんもん] 明治三十七、八年戦役記念」、北柱には「陸海軍、明治三十八年十月之建 千種村」と刻まれています。
 戦勝に酔い、つぎの戦争の出兵者である地域の同胞たちの仲間の首をしめていった村人たちの姿に思いはせました。
 地元の人たちの説明によると、戦後は占領軍の目を気にして倒され、戦後、昭和天皇が、この道路を通ることになり、再建したということです。

 大阪市へ。
 旅行第一目に壊れたデジタルカメラがなおりました。電池がいかれていました。
 最近のニコン製品は故障が多い。要注意。

 大阪市泊。

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二〇一二年八月二十一日 火曜日 大阪府八尾市南木の本の樟本(くすもと)神社境内の砲弾の形をした石像物。【写真 二枚】

二〇一二年八月二十一日 火曜日 大阪府八尾市南木の本の樟本(くすもと)神社境内の砲弾の形をした石像物。【写真 二枚】

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 晴れ。

 大阪府八尾市南木の本七の三三の樟本(くすもと)神社境内に「奉納」と刻まれた砲弾の形をした石像物があります。
 下のほうに溝をニ本入れるなどリアルなものです。
 後ろに、つぎの言葉が刻まれています。
 「昭和八年[一九三三年]四月故櫻井守吉氏砲兵工廠[ほうへいこうしょう]退職記念に砲弾を奉納
 大東亜戦争勃発に際し供出其[そ]の代用として実物大模型に替へる」

 博物館を二つ見学しました。
 そして、高知市へ。

 途中、津野町のNIさんと電話で対話。彼女の母が、海軍機がアメリカ軍の飛行機に突っ込む様子を見ていたとのことです。

 弟がローマなどへの旅行から帰っていました。

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2012.08.23

一九一五年三月、日本軍が南洋のチューク諸島を占領。くわしく知りたい。

 一九一五年(大正四年)三月、日本軍が南洋のチューク諸島を占領したということを、きょう知りました。
 チューク諸島は、ウエノ島(春島)、トノアス島(夏島)、ウドット島(月曜島)、トル島(水曜島)などからなります。かつてはトラック諸島と呼ばれていました。いまは、ミクロネシア連邦のチューク州の州都。
 大日本帝国が南洋庁をつくったのは一九二二年です。
 これは、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島(内南洋)に設置された施政機関で、所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれました。
 発足時には六つの支庁が置かれました。
 サイパン支庁:サイパン島、テニアン島、ロタ島
 ヤップ支庁:ヤップ島
 パラオ支庁:バベルダオブ島、アンガウル島
 トラック支庁:春島、夏島、水曜島
 ポナペ支庁:ポナペ島、クサイ島
 ヤルート支庁:ヤルート島

 チューク諸島の占領は、南洋庁が置かれる前のことです。
 占領の実際、理由などを知りたいと思っています。
 一九四一年に入るとチューク諸島の武装化に拍車がかかります。
 竹島飛行場は陸上攻撃機の離着陸が可能なように拡大整備されました。
 夏島には水上機基地が設けられました。
 島々の各所には要塞砲が設置され、三万トンの重油保管タンク、四千トンの航空燃料保管タンクの設置も進められました。

 僕が行ったことのあるのはテニアン島だけです。

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二〇一二年八月二十二日 水曜日 社会教育全国集会(高知集会)へのリポート案をつくりました。

二〇一二年八月二十二日 水曜日 社会教育全国集会(高知集会)へのリポート案をつくりました。

 雨、曇り。

 午前五時ころ、すごいカミナリの音で目が覚めました。
 妻、孫たちも起きていました。
 娘は、少し起きたようですが、終始ム、ム、ム、ム……。

 午前中から、二十五日、二十六日、二十七日の第五十二回社会教育全国集会(高知集会)へのリポート案をつくりました。

 夜は娘、孫たち、弟とトランプ大会。

 妻は、実家泊。

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二〇一二年八月二十三日 木曜日 「だぐだぐ踊りの歌」と「酋長の娘」。

二〇一二年八月二十三日 木曜日 「だぐだぐ踊りの歌」と「酋長の娘」。

 晴れ。

 高知新聞に森小弁(もり・こべん)のことが載っていました。

 「酋長の娘」(しゅうちょうのむすめ)のモチーフになった人です。

 わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人

 赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る

 踊れ踊れ どぶろくのんで 明日は嬉しい 首の祭り

 踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に 行くものか

 昨日浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で眠る

 森は、高知市出身。一八九二年にミクロネシアのチューク諸島(トラック島)に移住し、島の酋長(首長)の娘と結婚しました。
 この歌は、演歌師・石田一松の作詞・作曲・歌唱による歌謡曲。一九三〇年八月発売、ポリドール。
 作品発表当時、ミクロネシアは国際連盟委任統治領として大日本帝国の支配下にあり「南洋群島」と呼ばれていました。
 この歌は、南進ムードをもりあげる役割を果たしたことでしょう。

 石田一松の歌の前に、高知高等学校(今の高知大学)の学生だった余田弦彦(よでんつるひこ。一九〇二年~一九二七年)がつくった「だぐだぐ踊りの歌」があります。
 
 赤道直下のマーシャル群島  
 椰子の葉陰でだぐだぐ踊る
 踊り踊って夜を明かしゃ  
 明日はバナナの下で寝る

 昨日山で見た酋長の娘  
 今日はいずこでだぐだぐ踊る
 踊り知らない人はいや  
 誰が踊りにゆくものか

 ユーカリ茂れるインダス河で  
 椰子の葉陰でバナナが実りゃ
 娘踊れやだぐだぐ踊れ  
 明日は天気か夕日が赤い

 http://ryuujinn.vis.ne.jp/Ryoukasyuu/Kouti-K/023003.htm

 で、聴くことができます。

 余田弦彦は、高知高等学校の寮歌「豪気節」の作者でもあります。

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2012.08.25

【ニュース】 高知空襲 焼け残った高知市本町のビル 福井康人さんのブログです。

http://ameblo.jp/henroisimanjyu/

 【以下は藤原義一の、これまでの調査】

 アメリカの空襲下で焼け残った高知市本町二丁目のビル

 一九四五年七月四日のアメリカの高知市無差別爆撃の中心地・本町二丁目五二番地に焼け残ったビルがあります。
 そのビルは鉄筋コンクリート造り、三階建てで屋根は陸屋根(傾斜のない平面状の屋根)です(床面積は各階二十九・七五平方メートル)。
 ここの土地は土佐藩の第十六代藩主・山内豊範(やまうちとよのり)のころの中老・安田斎(五百五十石)のものでした。
 このビルは、一九一四年(大正三年)につくられ、空襲のときには、その末裔が所有していました。
 当時は、倉庫として使用していたようで、窓は、すべて鉄板でおおわれていました。
 いまの一部に鉄板の跡があります。

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2012.08.27

日本政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成 ここにあります。

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2012.08.28

【ニュース】 朝鮮人慰安婦問題発言 橋下市長は「しんぶん赤旗」記者の質問に、また逆質問で乗り切ろうとしましたが……。

 八月二十四日、橋下大阪市長は「しんぶん赤旗」記者の市長の朝鮮人慰安婦問題での発言への質問に、また逆質問で乗り切ろうとしましたが……。
 いいぬけようとする橋下市長。追究する二人の「しんぶん赤旗」記者。見ごたえのある動画です。橋下市長は、男性の若い「しんぶん赤旗」記者に「赤旗の記者は、いままで風俗営業に行ったことはないんですか。……ないですか。……」という逆質問まで。

 以下の動画の十分十一秒から三十七分四十秒まで。

 http://www.youtube.com/watch?v=x6fS4ChfuDg&list=PL22929A8440BCDBA0&index=1&feature=plpp_video

 結局、「河野官房長官を全否定をするつもりはありませんけど……」、「僕は軍の管理まで否定していません」、「大阪市長としては行き過ぎだったかもしれませんが………」。

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橋下大阪市長が自説を貫くために持ち出した従軍慰安婦問題の「二〇〇七年の閣議決定」って悪名高い、あの「答弁書」のことだったの!? あきれた。

 橋下大阪市長が、八月二十四日の記者会見で、自説を貫くために持ち出した従軍慰安婦問題の「二〇〇七年の閣議決定」って悪名高い、あの「答弁書」のことだったようです。あきれた。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-28/2012082804_01_1.html

 2012年8月28日(火) しんぶん赤旗

 橋下氏 「慰安婦」強制否定発言 証言の被害者冒とく 国際的に通用しない

 「従軍慰安婦強制の事実に確たる証拠はない」「証人が何百人出てきても信用性に足りるかどうかが問題だ」。日本軍「慰安婦」問題で橋下徹大阪市長がタガの外れた発言をして以降、「慰安婦」問題で旧日本軍の強制を否定する暴言が相次いでいます。
 石原慎太郎都知事が「強制ではない」(24日)と暴言を吐いたのに続き、松原仁国家公安委員長は旧日本軍の関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話を閣僚間で議論すると答弁しました(27日)。いずれも、被害者を含む国際社会の前ではとうてい通用しない暴論です。
 旧日本軍による「慰安婦」問題とは軍がつくった慰安所で女性を拘束し、軍人らの性行為の相手を強いた問題です。女性を人間として扱わず、人権を著しく侵害した犯罪行為として、国連人権委員会や国際労働機関などから日本政府に対し、加害者の訴追、謝罪と補償などを求める勧告が何度も出されています。

 政府も認めた

 政府も93年の河野長官談話で慰安所が「当時の軍当局の要請により設営された」ものであり「慰安婦」の生活は「強制的な状況の下での痛ましいものであった」「その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と認めています。
 ところが橋下氏は、同談話の発表までに政府が発見した資料の中には「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とした安倍晋三政権時代の答弁書(2007年3月16日)を根拠に「談話の見直しに入るべき」だと主張しています。
 しかし、軍や官憲による直接の強制連行であれ、軍の要請を受けた業者がだまして連れて行ったのであれ、女性たちが軍の「慰安所」に閉じ込められ、一日に何回も兵士たちの相手を強いられたという事実は変わりません。「強制連行」したかどうかだけに問題を矮小(わいしょう)化する橋下氏らの主張は、日本政府の責任を認めない卑劣な議論であり、すでに破綻ずみです。
 しかも、橋下氏があげた07年の答弁書こそ、当時、安倍首相の「慰安婦」問題での強制性を否定する発言に続いて国際社会の怒りの火に油を注いだ答弁書でした。
 当時、強制を否定した安倍首相らの態度に、シーファー駐日米大使は「(米国内に)破滅的影響を及ぼす」と警告。韓国での抗議行動も当然強まり、元「慰安婦」は「私が生きた証人だ」と訴えました。

 謝罪求め決議

 07年4月、国際的な批判に追い込まれた安倍首相は訪米先の議会指導部との会談で「元慰安婦の方々に申し訳ない気持ちでいっぱい」と表明せざるをえなくなり、会談したブッシュ大統領は河野長官談話の継承を前提に「首相の謝罪を受け入れる」と述べました。7月には米下院議会が、日本政府に日本軍が女性たちに「性奴隷」化を強制した事実を承認し、謝罪を求める決議を全会一致で採択。その後、オランダやカナダなども続くという事態に発展します。
 安倍首相自身、任期中、「河野談話を継承している」と繰り返さざるをえなかったのであり、問題の答弁書でも談話「継承」の建前は崩していません。
 河野長官談話で強制を認めたのは「強制的な連行があったとする証言集等も存在し、当時の政府で、各種証言集の記述、韓国での聞き取り調査(の結果)を含め総合的に判断した結果」(8月23日、玄葉光一郎外相の答弁)です。軍や官憲が直接かかわった強制連行の証言はその後も相次いでいます。
 橋下氏は軍の要請を受けた業者が女性をだまして連れてきたケースについても、「民間の問題」「風俗業は今でも世界各国に存在する」「軍が関与していたのは衛生管理上の問題からだ」(24日)などと吹聴しています。
 一連の暴言は、暴虐の限りを尽くされた犠牲者たち、今も証言を続けるハルモニへの冒とくにほかなりません。使い古された「靖国」派の妄言以上の証拠を出すべきなのは橋下氏自身です。 (藤原直)

 【資料】

 安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書
 右の質問主意書を提出する。
 平成一九年三月八日
 提出者  辻元清美
 衆議院議長  河野洋平殿

 安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書

 米国議会下院で、「慰安婦」問題に関して日本政府に謝罪を求める決議案(以下決議案)が準備されている。これに対し安倍首相が総裁を務める自民党内部から「河野官房長官談話」見直しの動きがあり、また首相自ら「米決議があったから、我々が謝罪するということはない。決議案は客観的な事実に基づいていない」「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と述べ、談話見直しの必要性については「定義が変わったということを前提に考えなければならないと思う」と述べたことから、米国内やアジア各国首脳から不快感を示す声があがっている。
 同時に安倍首相は、米国に対して「引き続き理解を得るための努力を行っている」と述べている。米下院外交委アジア太平洋地球環境小委員会のファレオマバエンガ小委員長もまた、「米国を訪れる安倍首相に恥ずかしい思いをさせたくない」と述べ、下院決議の採択を四月下旬に予定される首相訪米後へ先送りすることを明言した。首相訪米に先立ち、日本政府は米国の誤解を解き、「慰安婦」問題に対する態度を明確にすることが求められている。
 一方、新聞報道によれば、安倍首相は「河野談話が閣議決定されていると誤認していたこともあり、河野談話を継承すると表明した」(二〇〇七年三月六日・産経新聞)とされている。「河野談話」については明白な政治の決定プロセスを欠いていることも米国の誤解を生む一因と考えられるため、「河野談話を踏襲する」と首相や官房長官が明言している現内閣において閣議決定を検討すべきでは、という意見もある。
 さらに、米国議会下院では、日本軍当局が慰安所運営に直接関わったことを示す証拠として中曽根康弘元首相の回顧録『終わりなき海軍―若い世代へ伝えたい残したい』(発行年月日:一九七八年六月一五日、発行所:株式会社文化放送開発センター出版部、編著:松浦敬紀)が提出された。同書の中で中曽根元首相は、「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。」(同書第一刷九八頁)と記述している。「慰安婦」「慰安所」に関する証言を得ることは年々困難になっている。日本の首相経験者が当時大日本帝国の軍人として直接的に慰安所設立・運営に関わり証言まで残している以上、日本政府には早急かつ充分な調査を期待するものである。
 従って、以下、質問する。

  一 《安倍首相の発言》について
  1 「定義が変わったことを前提に」と安倍首相は発言しているが、何の定義が、いつ、どこで、どのように変わった事実があるのか。変わった理由は何か。具体的に明らかにされたい。
  2 「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と安倍首相は発言しているが、政府は首相が「なかったのは事実」と断定するに足る「証拠」の所在調査をいつ、どのような方法で行ったのか。予算を含めた調査結果の詳細を明らかにされたい。
  3 安倍首相は、どのような資料があれば、「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠」になるという認識か。
  4 「理解を得るための努力」とは具体的にどのような行為を指しているのか。複数あればすべて明らかにされたい。
  5 安倍首相は、「決議案」のどの部分が、どのように「客観的な事実に基づいていない」と判断しているのか。文言ごとにすべて明らかにされたい。また政府は、指摘部分以外はすべて「客観的な事実に基づいて」いるという認識でよいか。

 二 《米下院外交委アジア太平洋地球環境小委員長の発言》について
 1 米下院外交委アジア太平洋地球環境小委員長はなぜ安倍首相が「恥ずかしい思い」をすると考えたのか。安倍首相の認識を示されたい。
 2 米下院で「慰安婦」問題に関して「決議案」が採決された場合、安倍首相は「恥ずかしい思い」をするのか。安倍首相の認識を示されたい。

三  《「河野官房長官談話」の閣議決定》について
 1 「河野官房長官談話」が閣議決定されていないのは事実か。事実であるなら、どのような扱いなのか。
 2 安倍首相は、「河野官房長官談話」を継承すると発言している以上、「河野官房長官談話」を閣議決定する意思はあるか。ないのであれば、その理由を明らかにされたい。
 3 政府は「慰安婦」問題について「すでに謝罪済み」という立場をとっているが、いつの、どの文書や談話をもって謝罪しているという認識か。すべて示されたい。

 四 《中曽根康弘元首相の回顧録》について
 1 安倍首相は、中曽根康弘元首相が「慰安所をつくってやった」という事実を知っていたか。
 2 「慰安所」設立・運営に対し、軍の関与のもとでいかなる「強制」があったか、政府は中曽根康弘元首相への調査を行ったか。行ったのであれば、調査結果をすべて明らかにされたい。
 3 行ってないのであれば、政府は中曽根康弘元首相への調査を行う予定があるのか。時期・調査項目など詳細について明らかにされたい。行う予定がなければ、なぜ行わないのか理由を示されたい。

 右質問する。

 平成十九年三月十六日受領
 答弁第一一〇号
 内閣衆質一六六第一一〇号
 平成十九年三月十六日
 内閣総理大臣 安倍晋三

       衆議院議長 河野洋平 殿

 衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

 衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書

 一の1から3までについて

 お尋ねは、「強制性」の定義に関連するものであるが、慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(以下「官房長官談話」という。)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。
 調査結果の詳細については、「いわゆる従軍慰安婦問題について」(平成五年八月四日内閣官房内閣外政審議室)において既に公表しているところであるが、調査に関する予算の執行に関する資料については、その保存期間が経過していることから保存されておらず、これについてお答えすることは困難である。

 一の4について

 在米国日本大使館を始めとする政府関係者から、米国議会及び行政府関係者等、各方面に対し、日本政府の立場について十分説明し、米国側の理解が得られるよう最大限努力している。
 他方、説明の相手方との関係もあり、それらの説明の個々の事例について明らかにすることは差し控えたい。

 一の5について

 御指摘の決議案については、米国議会で今後議論されていくものでもあり、政府として、その問題点を一つ一つ取り上げて意見を述べることは差し控えたいが、全般的に、慰安婦問題に関する事実関係、特に、慰安婦問題に対する日本政府の取組に対して正しい理解がされていないと考えている。

 二の1について

 御指摘の米国の小委員長の発言の理由について推測を述べることは差し控えたい。

 二の2について

 御指摘の決議案については、米国議会で今後議論されていくものであり、これが採択された場合という仮定に立った質問にお答えすることは差し控えたい。

 三の1について

 官房長官談話は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである。

 三の2について

 政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない。

 三の3について

 御指摘の件については、官房長官談話においてお詫びと反省の気持ちを申し上げているとおりである。

 四の1について

 御指摘の回顧録の中に御指摘の記述があることは承知している。

 四の2及び3について

 関係者からの聞き取り調査について、特定の個人を識別することができる情報を記録していること等から個々の内容は公表しないこととしており、御指摘の調査については、答弁を差し控えたい。

  なお、《中曽根康弘元首相の回顧録》については平和資料館・草の家の調査によって「中曽根康弘元首相は黒」と確定しています。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2011/10/post-191b.html

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【橋下徹大阪市長の「逆襲」のおそまつ】 「赤旗の記者のオタクは、いままでに風俗営業に行ってないんですか。風俗店に」。攻撃したつもりが否定されて……。

 八月二十四日の橋下徹大阪市長の記者会見の動画を見ました(大阪市役所のホームページにあります)。
  「しんぶん赤旗」の若い男性記者が橋下市長の、とんでもない日本軍の従軍慰安婦問題についての追究しました。
 その過程で橋下市長は「しんぶん赤旗」記者につぎのように逆質問しました。
  「赤旗の記者のオタクは、いままでに風俗営業行ってないんですか。風俗店」
 この動画には音声は入っていませんが「しんぶん赤旗」記者は、もちろん行ったことはない旨答えたようです。
 とたんに橋下市長は困ったような顔に。
  「ないんですか。ないんですか。いままで。ああ、そうですか」(そんな男性がいるのかといった感じの表情)。
 困ったのか「こんな所ではいえないから、まあ、あれでしょうけど……」と捨て台詞。
 そして、しどろもどろに。
 そういえば、橋下市長、こうした問題で周辺が騒がしいようですね。
 【記者会見の内容は、ここに】

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2012.08.29

二〇一二年八月二十四日 金曜日 反戦詩人・槇村浩の展示をリメークしました。

二〇一二年八月二十四日 金曜日 反戦詩人・槇村浩の展示をリメークしました。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。
 岡村正弘館長が、神奈川県茅ヶ崎市から来た女性たちと懇談していました。そして、館長たちは、一緒に城西公園の碑の見学に行きました。
 MAさん、DAさんと一緒に反戦詩人・槇村浩の展示をリメークしました。 

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二〇一二年八月二十五日 土曜日 社会教育研究全国集会第一日目に参加しました。

二〇一二年八月二十五日 土曜日 社会教育研究全国集会第一日目に参加しました。

 晴れ。

 高知市議のHAさんから電話。
 「九十二歳の男性が、兵隊のとき、タイのバンコクで会った朝鮮人慰安婦が日本の憲兵に連れてこられたと話をしています。一緒に聞きにいきませんか」
 午後五時に待ち合わせをすることにしました。

 高知市の県民ホールで開かれている社会教育研究全国集会第一日目に参加しました。

 午後五時、HAさんと聞き取りに。

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二〇一二年八月二十六日 日曜日 一九四五年六月に高知市の陸軍歩兵連隊に入隊した男性の手記。

二〇一二年八月二十六日 日曜日 一九四五年六月に高知市の陸軍歩兵連隊に入隊した男性の手記。

 晴れ。

 高知市の高知県立高知丸の内高等学校で開かれていた社会教育研究全国集会二日目の「平和のための学習・文化活動」の分科会に参加。
 北海道の大学院生、茅ヶ崎の女性たち、韓国の女性研究者、女子大学生と多彩な人たちが参加していました。
 リポーターの一人として約三十分報告。
 この分科会で神奈川県茅ヶ崎市の人たちがつくった戦争の手記を買いました。
 その中に一九四五年六月に高知市の陸軍歩兵連隊に入隊した男性の手記がありました。戦車肉薄攻撃の訓練をしていたということです。

 社会教育研究全国集会の企画の高知市立自由民権記念館館長の松岡僖一さんの講演「自由は土佐の山間より」に参加。

 民権を 学びはじめた 夜学会 百五十余か 土佐の輝き
 「運命は 自分で開け」 民権の テーマのひとつと 伝える人あり
 「世界から 恥じない国を つくろうよ」 民権話の 熱きテーマか

 おひとかた、平和資料館・草の家に入会ていただけました。

 妻が新潟で開かれていた日本母親大会から戻りました。

 MAさんと電話で話していて日本軍の従軍慰安所のことを、もっと勉強しなくてはと思いました。

 妻は、実家泊。
 

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二〇一二年八月二十七日 月曜日 北海道訓子府町長・菊池一春さんの高知短期大学存続をのエール。

二〇一二年八月二十七日 月曜日 北海道訓子府町長・菊池一春さんの高知短期大学存続をのエール。

 晴れ。

 午前三時ころまで日本軍慰安婦問題を勉強。
 午前九時半から、高知市の県民ホールで開かれている社会教育研究全国集会三日目に参加。
 北海道訓子府町長・菊池一春さん、四万十市役所参事の宮本昌博さん、和歌山大学副学長の堀内秀雄さんの鼎談(ていだん)でした。
 菊池一春さんが高知短期大学専攻科の前田桂子さんの論文を示しながら高知短期大学の存続をかたってくれたのがうれしかった。
 この日午後、何組もが草の家を訪問してくださいました。

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二〇一二年八月二十九日 火曜日 青年たちの戦跡ツアーについて話し合い。

二〇一二年八月二十九日 火曜日 青年たちの戦跡ツアーについて話し合い。

 雨。

 午前十一時、青年たちの戦跡ツアーについてOさんと話し合い。
 正午、草の家で食事会。岡村館長、西森事務局長、中内事務局員、DAさん、Oさん、立ち寄った県立大学の女子学生と。
 午後、DAさんと高知大学へ。
 草の家に帰ったら、東京の大学の先生たち、愛媛大学の女子学生が来ていました。

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大阪市役所ホームページ「平成24年8月24日(金) 橋下市長の登庁時の主な発言要旨」の不思議。

 大阪市役所のホームページの「平成24年8月24日(金) 橋下市長の登庁時の主な発言要旨」を読んで驚きました。
 会見のメーンだった朝鮮人従軍慰安婦問題についてのやりとりが一切ふれられていないのです。
 なぜ!?
 ごらんください。
  http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/cmsfiles/contents/0000162/162543/240824toutyou.pdf

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2012.08.30

二〇一二年八月二十九日 水曜日 「もう大学受験のシーズンですね。お子さんはがんばっておられるけど、親は痛いですねー」といわれたけれど……。

二〇一二年八月二十九日 水曜日 「もう大学受験のシーズンですね。お子さんはがんばっておられるけど、親は痛いですねー」といわれたけれど……。

 雨、曇り。

 ある郵便局で、大学院の入学試験の手数料三万円を振り込んだときの話です。
 女性の局員が
 「もう大学受験のシーズンですね。
 お子さんはがんばっておられるけど、親は痛いですねー」
 手続きが終わってから
 「合格しますように」
 「僕が受けるんです」よとは、なぜか言い出せませんでした。
 哀しい六十五歳です。
 十日後から猛勉強をする予定です。

 夕方、オスプレイ問題の勉強会。

 息子がやってきました。

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二〇一二年八月三十日 木曜日 反戦詩人・槇村浩の墓を掃除。【写真二枚】

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二〇一二年八月三十日 木曜日 反戦詩人・槇村浩の墓を掃除。【写真二枚】

 晴れ。

 新聞を見て、国会の事態に感激。

 SIさんに出会い、文学雑誌に九月一日からの延辺旅行についてエッセイを書かせていただくことになりました。

 正午、仲間と槇村浩の墓を掃除にいきました。
 新聞記者が一人、取材に来てくれました。
 平和資料館・草の家に来てもらって資料をお渡ししました。

 夜、槇村浩についての文章を書きました。未完成。

 妻、弟、息子と食事。

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すごい、野田首相問責決議案。これが通ったのか!!

 日本共産党、国民の生活が第一、みんなの党、社民党、みどりの風、新党改革、新党大地の7野党・会派が提出した野田首相問責決議が八月二十九日の参院本会議で賛成百二十九票、反対九十一票の賛成多数で可決されました。
 野田首相問責決議案への態度が問われた、この日の参院本会議。
 公明党は採決を退席し、政府・与党を事実上信任しました。
 自民党は、衆院の内閣不信任案採決には消費税増税法の成立に協力するために欠席したのに、この日はもろ手をあげて賛成しました。
 決議案に「最近の国会運営では民主党・自由民主党・公明党の3党のみで協議をし、合意をすれば一気呵成(かせい)に法案を成立させるということが多数見受けられ、議会制民主主義が守られていない。/参議院で審議を行うなか、社会保障部分や消費税の使い道などで3党合意は曖昧なものであることが明らかになった。」という文章があるのにもかかわらず……。
 この決議案の賛否で政党配置が変化しました。

 野田首相問責決議の提出理由(全文)

 野田内閣が強行して押し通した消費税率引き上げ関連法は、2009年の総選挙での民主党政権公約に違反するものである。
 国民の多くは今も消費増税法に反対しており、今国会で消費増税法を成立させるべきではないとの声は圧倒的多数となっていた。
 最近の国会運営では民主党・自由民主党・公明党の3党のみで協議をし、合意をすれば一気呵成(かせい)に法案を成立させるということが多数見受けられ、議会制民主主義が守られていない。
 参議院で審議を行うなか、社会保障部分や消費税の使い道などで3党合意は曖昧なものであることが明らかになった。
 国民への約束、国民の声に背く政治姿勢をとり続ける野田佳彦内閣総理大臣の責任は極めて重大である。
 よってここに、野田佳彦内閣総理大臣の問責決議案を提出する。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-30/2012083001_01_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-30/2012083001_02_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-30/2012083001_04_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-30/2012083002_01_0.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-30/2012083002_02_1.html

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2012.08.31

橋下大阪市長の日本軍従軍慰安婦問題をめぐる暴言 【資料集】

2012831() しんぶん赤旗

 「慰安婦」否定暴言 撤回を 党大阪市議団橋下市長に申し入れ 「不見識極まる」

 

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-31/2012083104_02_1.html

 旧日本軍「慰安婦」をめぐり、強制はなかったとする橋下徹大阪市長の暴言に対し、日本共産党大阪市議団は30日、「不見識極まる」と発言を撤回するよう申し入れました。

 橋下市長は「軍に暴力や脅迫をうけて連れてこられたという証拠はない。あったというなら韓国に出してもらいたい」「(慰安婦制度が)当時の時代においてどういうものだったか議論しなきゃいけない」と強弁し、国内外から厳しい批判が寄せられています。

 「慰安婦」問題をめぐっては1993年、旧日本軍の関与と強制性を認め、「おわびと反省」を表明した河野洋平官房長官談話が出され、98年には国連で、「慰安婦」は事実上の奴隷であり、「当時ですら、奴隷制を禁じた習慣的国際法に違反する」との報告書が採択されています。

 申し入れは、これらを指摘するとともに、2010年10月に市議会で「慰安婦問題の真相究明を行い、被害者の尊厳回復」へ「誠実に対応」するよう国に求める決議が採択されていると紹介。国内外の到達を否定し、旧日本軍の犯罪行為を免罪し、人間としての名誉と尊厳を著しく傷つけられた被害者の心を踏みにじり、「市長として不見識極まる」と批判しています。

 北山良三団長、山中智子幹事長、井上浩政調会長が訪れ、「近隣諸国との関係を悪化させ、議会決議にも反する」と強調。秘書部長が応対し、「市長に伝える」と答えました。

 2012828() しんぶん赤旗

 橋下氏 「慰安婦」強制否定発言 証言の被害者冒とく 国際的に通用しない

  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-08-28/2012082804_01_1.html

 「従軍慰安婦強制の事実に確たる証拠はない」「証人が何百人出てきても信用性に足りるかどうかが問題だ」。日本軍「慰安婦」問題で橋下徹大阪市長がタガの外れた発言をして以降、「慰安婦」問題で旧日本軍の強制を否定する暴言が相次いでいます。

 石原慎太郎都知事が「強制ではない」(24日)と暴言を吐いたのに続き、松原仁国家公安委員長は旧日本軍の関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話を閣僚間で議論すると答弁しました(27日)。いずれも、被害者を含む国際社会の前ではとうてい通用しない暴論です。

 旧日本軍による「慰安婦」問題とは軍がつくった慰安所で女性を拘束し、軍人らの性行為の相手を強いた問題です。女性を人間として扱わず、人権を著しく侵害した犯罪行為として、国連人権委員会や国際労働機関などから日本政府に対し、加害者の訴追、謝罪と補償などを求める勧告が何度も出されています。

 政府も認めた

 政府も93年の河野長官談話で慰安所が「当時の軍当局の要請により設営された」ものであり「慰安婦」の生活は「強制的な状況の下での痛ましいものであった」「その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と認めています。

 ところが橋下氏は、同談話の発表までに政府が発見した資料の中には「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とした安倍晋三政権時代の答弁書(2007年3月16日)を根拠に「談話の見直しに入るべき」だと主張しています。

 しかし、軍や官憲による直接の強制連行であれ、軍の要請を受けた業者がだまして連れて行ったのであれ、女性たちが軍の「慰安所」に閉じ込められ、一日に何回も兵士たちの相手を強いられたという事実は変わりません。「強制連行」したかどうかだけに問題を矮小(わいしょう)化する橋下氏らの主張は、日本政府の責任を認めない卑劣な議論であり、すでに破綻ずみです。

 しかも、橋下氏があげた07年の答弁書こそ、当時、安倍首相の「慰安婦」問題での強制性を否定する発言に続いて国際社会の怒りの火に油を注いだ答弁書でした。

 当時、強制を否定した安倍首相らの態度に、シーファー駐日米大使は「(米国内に)破滅的影響を及ぼす」と警告。韓国での抗議行動も当然強まり、元「慰安婦」は「私が生きた証人だ」と訴えました。

 謝罪求め決議

 07年4月、国際的な批判に追い込まれた安倍首相は訪米先の議会指導部との会談で「元慰安婦の方々に申し訳ない気持ちでいっぱい」と表明せざるをえなくなり、会談したブッシュ大統領は河野長官談話の継承を前提に「首相の謝罪を受け入れる」と述べました。7月には米下院議会が、日本政府に日本軍が女性たちに「性奴隷」化を強制した事実を承認し、謝罪を求める決議を全会一致で採択。その後、オランダやカナダなども続くという事態に発展します。

 安倍首相自身、任期中、「河野談話を継承している」と繰り返さざるをえなかったのであり、問題の答弁書でも談話「継承」の建前は崩していません。

 河野長官談話で強制を認めたのは「強制的な連行があったとする証言集等も存在し、当時の政府で、各種証言集の記述、韓国での聞き取り調査(の結果)を含め総合的に判断した結果」(8月23日、玄葉光一郎外相の答弁)です。軍や官憲が直接かかわった強制連行の証言はその後も相次いでいます。

 橋下氏は軍の要請を受けた業者が女性をだまして連れてきたケースについても、「民間の問題」「風俗業は今でも世界各国に存在する」「軍が関与していたのは衛生管理上の問題からだ」(24日)などと吹聴しています。

 一連の暴言は、暴虐の限りを尽くされた犠牲者たち、今も証言を続けるハルモニへの冒とくにほかなりません。使い古された「靖国」派の妄言以上の証拠を出すべきなのは橋下氏自身です。 (藤原直)

 「2007年の閣議決定」はいずれも「河野談話」の継承を明示している――「河野談話」の意義を低める橋下市長発言(8月24日)の誤りを正す

 このタイトルの文章が石川康弘さんのサイトに載っています。

 http://nanumu.blog59.fc2.com/blog-entry-282.html

 結論は、以下のようなことです。
 「8月24日の記者会見における橋下市長の発言は、「2007年の閣議決定」が「慰安婦」の強制連行を否定する内容を含むかのように述べ、それを理由に「河野談話」の意義を低め、あるいは否定しようとするものだった。しかし、そこで根拠とされた「2007年の閣議決定」に対する市長の認識は、まるで誤ったものである。」
 以下、引用させていたただきます。

 (1)

 8月24日朝の「囲み取材」で、橋下市長は「慰安婦」問題について、あらためて自説を展開した。ただし「慰安婦」問題をめぐる歴史に対しては、これといって新しい論点が示されたわけではない。むしろ、安倍晋三氏をはじめ様々な論者によって、長く、語られてきた事柄の繰り返しに終始しているといっていい。
 そうした議論への基本的な批判は、「『慰安婦』問題の解決に向けた意見書可決をすすめる会」による「橋下市長の『慰安婦』問題での発言(8月21日)に対する抗議文」ですでに明らかにしておいた(
http://nanumu.blog59.fc2.com/blog-entry-278.html)。これはもちろん市長にも届けさせていただいている。
 上の「抗議文」は次の文章で締めくくられた。
 「日本の政治家の責務として、橋下市長には『慰安婦』問題の歴史と関連する戦後政治史の事実、さらには戦時性暴力の克服をめざす現代国際社会の努力を、広く、しっかり学んでいただくことを要望するものです」。

 (2)

 その上で、ここで追加してとりあげたいのは、市長が、24日に次のように語ったことである。
 「河野談話でいろんな表現はあるけれども、しかし2007年に強制連行を示す、それを裏付けるような、直接示すような記述、直接のその証拠はなかったということを2007年の安倍内閣のときに閣議決定はされているわけです。そうであれば、河野談話の中身をもう一度、しっかり疑義がないように、内容を見直すのか、それとも2007年の閣議決定が間違っていたか。どちらかですよ。
 で、僕はやっぱり2007年の閣議決定というのは、河野談話を出した以降、それは日本政府がそういう閣議決定をする以上はやっぱりそれは責任をもってやっていると思いますよ。河野談話は閣議決定されていませんよ。それは河野談話は、談話なんですから。
 だから、日本政府が、日本の内閣が正式に決定したのは、この2007年の閣議決定だった安倍内閣のときの閣議決定であって、この閣議決定は慰安婦の強制連行の事実は、直接裏付けられていないという閣議決定が日本政府の決定です。」
 ごらんのように市長は、➀強制連行を裏付ける直接の記述・証拠はないということが、2007年に閣議決定されており、➁それは河野談話を「見直す」か、閣議決定が「間違って」いるかの「どちらか」という二者択一の内容をもつものであり、➂「談話」より閣議「決定」は上位に立つのだから、その「2007年の閣議決定」こそが「日本政府の決定」なのだと述べている。
 結果として、これは日本政府に対する重要な告発にもなっている。「慰安婦」問題についての政府見解をまとめた外務省のサイトは、「2007年の閣議決定」については一言もふれず、「河野談話」やそれに先立つ「加藤談話」を掲載しつづけているからである(
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/index.html)。
 もし市長がいうように、「2007年の閣議決定」が「河野談話」と両立しえないものであり、しかも前者が「日本政府の決定」だというのが事実であれば、日本政府は2007年から今日までの5年間、日本政府の見解の重要な転換を、世界に隠し続けてきたことになる。
 同サイトに外務省が掲げた最新の文書は、2011年8月の「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」(
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/ianfu.html)だが、それは次のように述べている。
 「平成5年(1993年)の調査結果発表の際に表明した河野洋平官房長官談話において,この問題は当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとして,心からのお詫びと反省の気持ちを表明し,以後,日本政府は機会あるごとに元慰安婦の方々に対し,心からのお詫びと反省の気持ちを表明している。」
 これが事実を隠すための文章であれば、それは重大な国際問題となる。
 ただし、それは、橋下市長の上の議論が正しいとすればの議論である。

 (3)

 以下では、この事実関係を確かめたい。行うべきは「2007年の閣議決定」の調査である。
 首相官邸には「閣議案件」をまとめたサイトがある (
http://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/index.html)。そこで「閣議案件のバックナンバー」(http://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/kakugi-bk.html)のページを開けば、「平成19年1月9日」から「平成19年12月28日」までの105回の閣議案件が確かめられる。
 105回の案件一覧をすべて開いて検索したところ、案件のタイトルに「慰安婦」の文字が含まれたのは、次の9件だけであった。
 ➀平成190316()「衆議院議員辻元清美(社民)提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書について」
 ➁平成190420()「衆議院議員辻元清美(社民)提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する再質問に対する答弁書について」
 ➂平成190420()「衆議院議員辻元清美(社民)提出安倍首相の「慰安婦」問題についての発言の「真意」に関する質問に対する答弁書について」
 ④平成190605()「衆議院議員辻元清美(社民)提出安倍首相の「慰安婦」問題についての発言に関する質問に対する答弁書について」
 ⑤平成190605()「衆議院議員辻元清美(社民)提出バタビア臨時軍法会議の証拠資料と安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書について」
 ⑥平成190605()「衆議院議員辻元清美(社民)提出極東国際軍事裁判の証拠資料と安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書について」
 ⑦平成190706()「衆議院議員鈴木宗男(無)提出米下院外交委員会で可決された従軍慰安婦問題への決議案に対する日本政府の対応に関する質問に対する答弁書について」
 ⑧平成190815(水「衆議院議員辻元清美(社民)提出「慰安婦問題」についての米下院決議と安倍首相の謝罪に関する質問に対する答弁書について」
 ⑨平成191109()「衆議院議員辻元清美(社民)提出福田首相の慰安婦問題についての認識に関する質問に対する答弁書について」
 ご覧のように、以上はいずれも衆議院議員からの質問に対する「答弁書」の確認である。
 この「答弁書」と事前に衆議院議員から提出された「質問趣意書」については、衆議院のサイトに全文が公開されている (
http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_shitsumon.htm)。それを読めば、上記➀~⑨のすなわち「慰安婦」を案件名にふくむ「2007年の閣議決定」のすべてを確かめることができるというわけである。

 (4)

 以下、1件ずつ内容を確かめたい。確認すべき論点は、a)「強制連行」に対する認識、b)「河野談話」に対する認識の2点にしぼりこむ。
 ➀について(2007316日)
 答弁書はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識
 「お尋ねは、『強制性』の定義に関連するものであるが、慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(以下「官房長官談話」という。)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。
 調査結果の詳細については、「いわゆる従軍慰安婦問題について」(平成五年八月四日内閣官房内閣外政審議室)において既に公表しているところである・・・」。

 b)「河野談話」に対する認識
 「三の1について-官房長官談話は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである」「三の2について-政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない」「三の3について-御指摘の件については、官房長官談話においてお詫びと反省の気持ちを申し上げているとおりである」。
 ※b)に登場する「三の1」などは質問の項目である。念のために、以下に「三の1」から「三の3」までの質問を全文書き写しておく。「三 《「河野官房長官談話」の閣議決定》について」「1 『河野官房長官談話』が閣議決定されていないのは事実か。事実であるなら、どのような扱いなのか」「2 安倍首相は、『河野官房長官談話』を継承すると発言している以上、『河野官房長官談話』を閣議決定する意思はあるか。ないのであれば、その理由を明らかにされたい」「3 政府は『慰安婦』問題について『すでに謝罪済み』という立場をとっているが、いつの、どの文書や談話をもって謝罪しているという認識か。すべて示されたい」。
 a)を読むにあたり確認しておきたいのは、「河野談話」や談話のための調査の経過と概要を記した「いわゆる従軍慰安婦問題について」は、「強制連行を直接示すような記述」を根拠に事柄への判断を下したとはどこにも書いていないということである。この点について「河野談話」の内容を導く調査の経過と内容について「いわゆる従軍慰安婦問題について」(
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/pdfs/im_050804.pdf)は次のように述べている。
 「政府は、平成3年12月より、関係資料の調査を進めるかたわら、元軍人等関係者から幅広く聞き取り調査を行うとともに、去る7月26日から30日までの5日間、韓国ソウルにおいて、太平洋戦争犠牲者遺族会の協力も得て元従軍慰安婦の人たちから当時の状況を詳細に聴取した。また、調査の過程において、米国に担当者を派遣し、米国の公文書につき調査した他、沖縄においても、現地調査を行った。調査の具体的な態様は以下の通りであり、調査の結果発見された資料の概要は別添の通りである」。
 また「上記の資料調査及び関係者からの聞き取りの結果、並びに参考にした各種資料を総合的に分析、検討した結果、以下の点が明らかになった」として、「慰安婦の募集」について次のように述べている。
 「慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性が高まり、そのような状況の下で、業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースが数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースもみられた」。
 以上のように「河野談話」は、政府諸機関の文書資料だけでなく、「元軍人等関係者」や「元従軍慰安婦の人たち」からの聞き取り、米国公文書の調査、沖縄の現地調査など行い、さらに各種の参考資料にもあたった上での「総合的」な判断にもとづいたものである。
 この点を了解した上で、a)を読むならば、「河野談話」発表の日までに「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」ことが、仮に事実であったとしても、それだけで「河野談話」の内容を覆す意味をもつわけでないことは明らかである。
 くわえてb)を見るならば、質問「三の2」に対して政府(安倍内閣)は「河野談話」の閣議決定をしりぞけながらも、同時に「政府の基本的立場は、官房長官談話を継承している」と述べている。
 a)で「河野談話」を否定し、b)で「河野談話」を継承するという自己撞着に陥っているのでなければ、この「答弁書」は、a)をあえて書き込みはしたが、それ理由に「河野談話」を否定しようとしたものでないと理解する他ない。
 ➁について(2007420日)
 「答弁書」はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識-(直接の言及なし)。
 ※ただし、A・「極東軍事裁判所の判決の中国の項に『女工』の名目で『募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した』とあるがこれを認めるか、B・オランダ政府公文書「旧オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春」に含まれた「スマラン事件」についてのバタビア臨時軍法会議の判決(抑留所の女性を暴力的に慰安所に移したとして日本人担当者は死刑)を認めるかとの「質問」に、「我が国は、日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号。以下「平和条約」という。)第十一条により、同裁判を受諾しており、国と国との関係において、同裁判について異議を述べる立場にはない」「我が国は、平和条約第十一条により、連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾しており、国と国との関係において、同裁判について異議を述べる立場にはない」と繰り返し、「強制連行」の認定をふくむ2つの判決を承認している。
 b)「河野談話」に対する認識
 「オランダ出身の慰安婦を含め、慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話のとおりである」「我が方在オランダ大使より、オランダ外相に対し、慰安婦問題に関する日本政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話を継承するものであること、また、安倍総理は、元慰安婦の方々が極めて苦しい状況に置かれ、辛酸をなめられたことにつき、心から同情し、おわびする旨明確に述べていること等を説明した」。
 以上である。a)が、強制連行の認定にもとづく判決に「国と国との関係において」「異議を述べる立場にない」というのが日本政府の態度だとしていることは重要ある。
 先の316日の「答弁書」➀は、「調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と書いていたが、では、その「政府が発見した資料」に、このように政府として「受諾」済である裁判資料は含まれていたのか、いなかったのか。そういう問いが、そこから立つ。
 「裁判について異議を述べる立場にはない」のであるから、そこに含まれた証拠書類についても「異議を述べる立場にはない」。これが常識的な判断だろう。そうであれば、先の「政府が発見した資料」は、これらの裁判資料を除外したものだということになる。
 ➂について(2007420日)
 「答弁書」はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識
 「二の1及び2について-平成五年八月四日の内閣官房長官談話は、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、当該談話の内容となったものであり、強制性に関する政府の基本的立場は、当該談話のとおりである」。
 b)「河野談話」に対する認識
 「一の3について-政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話の内容全体を継承しているというものである」。
 ※質問「一の3」は「『当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う。』という三月一日の安倍首相の発言は、河野官房長官談話のどの箇所を踏襲したものか。安倍首相の真意を示されたい」というものである。
 質問「二の1」は「安倍首相のいう『狭義の強制性』とは、どのような定義によるものか。『家に乗り込んでいって強引に連れていった』以外にどのようなケースがあるのか。具体的に示されたい」であり、また質問「二の2」は「安倍首相のいう『狭義の強制性』以外は、すべて『広義の強制性』になるのか。安倍首相の見解を示されたい」である。
 a)は「強制性に関する政府の基本的立場は、当該談話のとおりである」と述べており、これは強制連行の有無をめぐる「閣議決定」としてきわめて重要なものである。質問は「強制性」一般についてではなく、「慰安婦」の連行の「強制性」を問うていた。その「強制性」について、安倍内閣は「政府の基本的立場」は「河野談話」の「とおりである」と明言したのである。
 ここにいたって橋下市長が語った「河野談話」と対立する「2007年の閣議決定」の存在は、かなり危ういものとなってくる。ここで結論をあわてる必要はない。最終の結論は、当然のことながら、関連情報のすべてをしっかり確かめてから、厳密に下すことにしたい。
 ④について(200765日)
 「答弁書」はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識-(直接の言及はない)。
 ※ただし、現地時間4月27日のブッシュ大統領との「記者会見において、安倍内閣総理大臣は、日本語で、慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした、自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、二十世紀は人権侵害の多かった世紀であり、二十一世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた」とある。
 b)「河野談話」に対する認識
 「いずれにせよ、御指摘の安倍内閣総理大臣の発言は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話に沿ったものである」「慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話のとおりである」。
 b)で「河野談話」が「政府の基本的立場」だと繰り返しながら、a)の※印部分のように「元慰安婦の方々に」「申し訳ない」と謝罪しているのであるから、それは「河野談話」が認めており、安倍内閣も「答弁書」➂で認めた「強制性」の承認とその上にたった「お詫びと反省」(河野談話)に「沿ったもの」だと理解する他にない。
 ⑤について(200765日)
 「答弁書」はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識-(直接の言及はない)。
 ※ただし、「マゲラン事件」についてのオランダ・バタビア臨時軍法会議書類番号23126(この書類はオランダ政府戦争犯罪調査局が作成したもので、バタビア臨時軍法会議に証拠資料として提出され、採用されたものとされる)が、少女たちの強制連行に関する証言を記録していることを問われて、「答弁書」は「連合国戦争犯罪法廷の裁判については、御指摘のようなものも含め、法的な諸問題に関して様々な議論があることは承知しているが、いずれにせよ、我が国は、日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号)第十一条により、同裁判を受諾しており、国と国との関係において、同裁判について異議を述べる立場にはない」とこたえている。
 b)「河野談話」に対する認識-「いずれにせよ、オランダ出身の慰安婦を含め、慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話のとおりである」。
 これも「河野談話」を「政府の基本的立場」として認めており、さらに強制連行の証言を証拠書類として採用した「マゲラン事件」についての裁判結果を、日本国は「受諾」していることを繰り返し認めるものとなっている。
 ⑥について(200765日)
 「答弁書」はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識-(直接の言及はない)。
 ※ただし、「マゲラン事件」についてのオランダ・バタビア臨時軍法会議書類番号7868/R(極東国際軍事裁判での書類番号:PD5770/EX1725)(この書類はオランダ政府戦争犯罪調査局が作成したもので、極東国際軍事裁判に証拠書類として提出され、採用されたものとされる)が、民間人抑留所からマゲランへの女性の連行と日本兵による性交の強要を記録していることについての質問に、「極東国際軍事裁判に対しては、御指摘の資料を含め、関係国から様々な資料が証拠として提出されたものと承知しているが、いずれにせよ、オランダ出身の慰安婦を含め、慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話のとおりである」とこたえている。
 b)「河野談話」に対する認識-「御指摘の点を含め、慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話を継承しているというものである」。
 これも「河野談話」を「政府の基本的立場」として認め、「マラゲン事件」の被害者を含む「オランダ出身の慰安婦」に対しても同様の姿勢を確認するものとなっている。
 安倍内閣の「答弁書」➂は、連行の「強制性」についての理解を「河野談話」と同じくすることを明言したが、そうであればこれら「慰安婦」に対する「お詫びと謝罪」(河野談話)は、その「強制性」に対する「お詫びと謝罪」を当然含むものとなろう。
 ⑦について(200776日)について
 「答弁書」はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識-(直接の言及はない)。
 b)「河野談話」に対する認識-(直接の言及はない)。
 ※ただし、2007年6月26日に米下院外交委員会が、「第二次世界大戦中に日本軍に強制的な売春を強いられたとされているいわゆる従軍慰安婦(以下、「従軍慰安婦」という。)の問題に関して、日本政府に対し謝罪を求める決議案」を「可決」したことに関する質問に、「慰安婦問題に関しての政府の立場については、例えば、安倍内閣総理大臣が平成十九年四月の訪米の際明らかにするなど、既に説明してきているところである」とこたえている。
 ここで「答弁書」がいう「四月の訪米」は、「答弁書」④で見たように、「いずれにせよ、御指摘の安倍内閣総理大臣の発言は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話に沿ったものである」ことが確認されているものである。したがって、この「答弁書」も「河野談話」に対立する内容を含むものではまったくない。
 ⑧について(2007815日)
 「答弁書」はこう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識-(直接の言及はない)。
 b)「河野談話」に対する認識-「慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話を継承しているというものである」。
 ※ただし、「安倍首相は、『米下院外交委員会の決議案は客観的事実に基づいていない』と考えるか。基づいている、いないで答弁されたい。また、そう考える根拠も併せて示されたい」との質問に、「答弁書」は「御指摘の決議の内容につき一つ一つ取り上げて意見を述べることは差し控えたいが、全体的に言えば、特に、慰安婦問題に対する日本政府の取組に対して正しい理解がなされていないと考える」と答えている。
 一部に文章の曖昧さが見られるが、それでも、※印の部分は「政府の基本的立場」が「河野談話」の「継承」であることを前提しており、前記「答弁書」④⑦は「四月の訪米」で「河野談話」にそった説明がなされたことを明らかにしていた。
 そうであれば、ここでの「日本政府の取組に対して正しい理解がなされていない」ことの内容は、「河野談話」が示した「お詫びと反省の気持ち」が正しく理解されていないことを指摘したものと見るべきだろう。
 いずれにせよ、ここでも「河野談話」に対する見解の明示はない。
 ⑨について(2007119日)
 この「答弁書」は安倍内閣退陣後の福田内閣によるものだが、こう述べている。
 a)「強制連行」に対する認識-(直接の言及はない)。
 b)「河野談話」に対する認識-「慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話のとおりであり、現内閣においてもそれを継承している」。
 ※ただし、「安倍前首相による『慰安婦問題に対する日本政府の取組に対して正しい理解がなされていない』とする答弁(四)について、福田首相は同じ認識か。そうであれば具体的にどのような取組に対し、どのように『正しい理解がなされていない』と考えるか」との質問に、「回答書」は「お尋ねについては、先の答弁書(平成十九年八月十五日内閣衆質一六七第六号)二についてでお答えしたとおりであり、御指摘の決議の内容につき一つ一つ取り上げて意見を述べることは差し控えたい」と述べている。
 上の「答弁(四)」は、前記「答弁書」⑧の※印部分に引用したものである。この再度の問いに対して、福田「内閣」も「河野談話」を「継承している」ことを前提に、安倍首相と同じ回答を繰り返した。

 (5)

 以上が、「慰安婦」を案件名に含む「2007年の閣議決定」の「a)強制連行」と「b)河野談話」に関する認識のすべてである。これを了解した上で、再び、橋下市長の8月24日に発言にもどってみたい。
 先に(2)で確認したように、橋下市長は「2007年の閣議決定」について、要旨、次のように述べていた。
 ➀「2007年の閣議」では、強制連行を裏付ける直接の記述・証拠はないということが決定されており、➁それは河野談話を「見直す」か、閣議決定が「間違って」いるか「どちらか」という、二者択一の関係に立つものである、➂その上で、閣議の「決定」は「談話」より上位に立つものであり、「2007年の閣議決定」こそが「慰安婦」問題についての「日本政府の決定」ある。
 しかし、見てきたように、2007年の9件の「閣議決定」の中に「政府の基本的立場」が「河野談話」の「継承」にあることを表明しなかったものは、ただの1つもない。逆に、9件の「閣議決定」のすべてで「河野談話」の「継承」を確認したのが、「2007年の閣議決定」であった。
 つまり、市長が上記➁のように強調した、「河野談話」の内容に対立し、双方の「どちらか」だけが正しいという関係にたつ「2007年の閣議決定」はどこにもなく、したがって「河野談話」の内容に反する決定が「日本政府の決定」として行われている事実もどこにもない。
 日本政府が外務省のサイトに「河野談話」を掲載し、これを最新の2011年8月の文書でも再確認していることは、まったく適切なことであり、ここに市長がいう「2007年の閣議決定」を掲載していないことも、まったく適切なことであった。
 「2007年の閣議決定」が、強制連行をめぐる証拠がなかったことを確認しているという点については、重要なところなので、あらためて整理をしておきたい。
 第一に、2007年3月16日の「答弁書」➀(答弁第110号)は、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と述べている。しかし、「河野談話」は、そもそもそうした直接の「記述」に依拠して「慰安婦」連行の強制性を認めたものではなく、これをもってただちに「河野談話」との対立をいうことはできない。
 第二に、2007年4月20日の「答弁書」➁(答弁第168号)、⑤(答弁第266号)は、個々の強制連行の認定の上に立って下された極東軍事裁判所やバダビア臨時軍法会議の判決を国として「受諾」し、国としてこれに「異議を述べる立場にない」ことを明らかにした。そうであれば「答弁書」➀が「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とする「政府が発見した資料」には、これらの裁判資料は含まれていないということになる。
 第三に、2007年4月20日の「閣議決定」➂(答弁第169号)は、「慰安婦」の強制連行をめぐる質問に「平成五年八月四日の内閣官房長官談話は、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、当該談話の内容となったものであり、強制性に関する政府の基本的立場は、当該談話のとおりである」と明快に述べている。
 この「強制性」について「河野談話」は次のように述べている。「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と述べている。「閣議決定」は、これを「強制性に関する政府の基本的立場」だと認めているのである。
 以上のことから、「2007年の閣議決定」が、「慰安婦」連行の「強制性」について、「河野談話」の内容に反する決定をふくむものないことは明白である。

 (6)

 最終的な結論を述べておこう。
 8月24日の記者会見における橋下市長の発言は、「2007年の閣議決定」が「慰安婦」の強制連行を否定する内容を含むかのように述べ、それを理由に「河野談話」の意義を低め、あるいは否定しようとするものだった。しかし、そこで根拠とされた「2007年の閣議決定」に対する市長の認識は、まるで誤ったものである。
 あらためて前掲「抗議文」の末尾の文章を採録しておきたい。
 「日本の政治家の責務として、橋下市長には『慰安婦』問題の歴史と関連する戦後政治史の事実、さらには戦時性暴力の克服をめざす現代国際社会の努力を、広く、しっかり学んでいただくことを要望するものです」。
 深く、胸に刻んでいただくことを期待したい。(W)

 橋下大阪市長の記者会見に出てくる「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」は日本国外務省のホームページに掲載されています。

 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
 平成584

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

 平成十九年三月八日提出

 安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書

提出者  辻元清美

 米国議会下院で、「慰安婦」問題に関して日本政府に謝罪を求める決議案(以下決議案)が準備されている。これに対し安倍首相が総裁を務める自民党内部から「河野官房長官談話」見直しの動きがあり、また首相自ら「米決議があったから、我々が謝罪するということはない。決議案は客観的な事実に基づいていない」「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と述べ、談話見直しの必要性については「定義が変わったということを前提に考えなければならないと思う」と述べたことから、米国内やアジア各国首脳から不快感を示す声があがっている。
 同時に安倍首相は、米国に対して「引き続き理解を得るための努力を行っている」と述べている。米下院外交委アジア太平洋地球環境小委員会のファレオマバエンガ小委員長もまた、「米国を訪れる安倍首相に恥ずかしい思いをさせたくない」と述べ、下院決議の採択を四月下旬に予定される首相訪米後へ先送りすることを明言した。首相訪米に先立ち、日本政府は米国の誤解を解き、「慰安婦」問題に対する態度を明確にすることが求められている。
 一方、新聞報道によれば、安倍首相は「河野談話が閣議決定されていると誤認していたこともあり、河野談話を継承すると表明した」(二〇〇七年三月六日・産経新聞)とされている。「河野談話」については明白な政治の決定プロセスを欠いていることも米国の誤解を生む一因と考えられるため、「河野談話を継承する」と首相や官房長官が明言している現内閣において閣議決定を検討すべきでは、という意見もある。
 さらに、米国議会下院では、日本軍当局が慰安所運営に直接関わったことを示す証拠として中曽根康弘元首相の回顧録『終わりなき海軍-若い世代へ伝えたい残したい』(発行年月日:一九七八年六月一五日、発行所:株式会社文化放送開発センター出版部、編著:松浦敬紀)が提出された。同書の中で中曽根元首相は、「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。」(同書第一刷九八頁)と記述している。「慰安婦」「慰安所」に関する証言を得ることは年々困難になっている。日本の首相経験者が当時大日本帝国の軍人として直接的に慰安所設立・運営に関わり証言まで残している以上、日本政府には早急かつ充分な調査を期待するものである。
 従って、以下、質問する。

一 《安倍首相の発言》について
 1 「定義が変わったことを前提に」と安倍首相は発言しているが、何の定義が、いつ、どこで、どのように変わった事実があるのか。変わった理由は何か。具体的に明らかにされたい。
 2 「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」と安倍首相は発言しているが、政府は首相が「なかったのは事実」と断定するに足る「証拠」の所在調査をいつ、どのような方法で行ったのか。予算を含めた調査結果の詳細を明らかにされたい。
 3 安倍首相は、どのような資料があれば、「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠」になるという認識か。
 4 「理解を得るための努力」とは具体的にどのような行為を指しているのか。複数あればすべて明らかにされたい。
 5 安倍首相は、「決議案」のどの部分が、どのように「客観的な事実に基づいていない」と判断しているのか。文言ごとにすべて明らかにされたい。また政府は、指摘部分以外はすべて「客観的な事実に基づいて」いるという認識でよいか。
二 《米下院外交委アジア太平洋地球環境小委員長の発言》について
 1 米下院外交委アジア太平洋地球環境小委員長はなぜ安倍首相が「恥ずかしい思い」をすると考えたのか。安倍首相の認識を示されたい。
 2 米下院で「慰安婦」問題に関して「決議案」が採決された場合、安倍首相は「恥ずかしい思い」をするのか。安倍首相の認識を示されたい。
三 《「河野官房長官談話」の閣議決定》について
 1 「河野官房長官談話」が閣議決定されていないのは事実か。事実であるなら、どのような扱いなのか。
 2 安倍首相は、「河野官房長官談話」を継承すると発言している以上、「河野官房長官談話」を閣議決定する意思はあるか。ないのであれば、その理由を明らかにされたい。
 3 政府は「慰安婦」問題について「すでに謝罪済み」という立場をとっているが、いつの、どの文書や談話をもって謝罪しているという認識か。すべて示されたい。
四 《中曽根康弘元首相の回顧録》について
 1 安倍首相は、中曽根康弘元首相が「慰安所をつくってやった」という事実を知っていたか。
 2 「慰安所」設立・運営に対し、軍の関与のもとでいかなる「強制」があったか、政府は中曽根康弘元首相への調査を行ったか。行ったのであれば、調査結果をすべて明らかにされたい。
 3 行ってないのであれば、政府は中曽根康弘元首相への調査を行う予定があるのか。時期・調査項目など詳細について明らかにされたい。行う予定がなければ、なぜ行わないのか理由を示されたい。

 右質問する。

 
  政府の答弁

  平成十九年三月十六日

内閣総理大臣 安倍晋三

       衆議院議長 河野洋平 殿

衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書

一の1から3までについて

 お尋ねは、「強制性」の定義に関連するものであるが、慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(以下「官房長官談話」という。)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。
 調査結果の詳細については、「いわゆる従軍慰安婦問題について」(平成五年八月四日内閣官房内閣外政審議室)において既に公表しているところであるが、調査に関する予算の執行に関する資料については、その保存期間が経過していることから保存されておらず、これについてお答えすることは困難である。

一の4について

 在米国日本大使館を始めとする政府関係者から、米国議会及び行政府関係者等、各方面に対し、日本政府の立場について十分説明し、米国側の理解が得られるよう最大限努力している。
 他方、説明の相手方との関係もあり、それらの説明の個々の事例について明らかにすることは差し控えたい。

一の5について

 御指摘の決議案については、米国議会で今後議論されていくものでもあり、政府として、その問題点を一つ一つ取り上げて意見を述べることは差し控えたいが、全般的に、慰安婦問題に関する事実関係、特に、慰安婦問題に対する日本政府の取組に対して正しい理解がされていないと考えている。

二の1について

 御指摘の米国の小委員長の発言の理由について推測を述べることは差し控えたい。

二の2について

 御指摘の決議案については、米国議会で今後議論されていくものであり、これが採択された場合という仮定に立った質問にお答えすることは差し控えたい。

三の1について

 官房長官談話は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである。

三の2について

 政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない。

三の3について

 御指摘の件については、官房長官談話においてお詫びと反省の気持ちを申し上げているとおりである。

四の1について

 御指摘の回顧録の中に御指摘の記述があることは承知している。

四の2及び3について

 関係者からの聞き取り調査について、特定の個人を識別することができる情報を記録していること等から個々の内容は公表しないこととしており、御指摘の調査については、答弁を差し控えたい。

【ニュース】 バリックパパンの日本海軍322基地に「設営班慰安所」 1942年3月11日、中曽根康弘主計中尉の「取計(とりはからい)」で開設 防衛省防衛研究所所蔵の文書に記述   高知市の平和・資料館の調査で判明 

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2011/10/post-191b.html

中曽根康弘海軍主計中尉がアジア太平洋戦争中に「外地」で海軍の慰安所を取りはからったとして各方面が追求してきました(本人は、いわゆる「慰安所」ではないと否定してきました)。高知市升形9の11の平和資料館・草の家は、防衛省防衛研究所に、その問題に関連した資料があることをつきとめ、10月27日午前、その文書の内容を同館ホールでの記者会見で報告しました。その文書は、ボルネオ島バリックパパンの日本海軍322基地に海軍の「設営班慰安所」があったこと、それは、中曽根康弘主計中尉の「取計(とりはからい)」で「土人女を集め」、1942年3月11日に開設したとをのべています。会見には、同館の岡村正弘館長、馴田正満、岡村啓佐、藤原義一の各研究員が出席しました。

 【文書の所蔵先】

 草の家の会見によると、その文書は、東京都目黒区の防衛省防衛研究所にあります。同所の戦史研究センター史料室で閲覧できます。請求記号は「航空基地」、史資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(防衛研修所戦史室。表紙をあわせて26ページ)です。
 この文書は、海軍航空基地第2設営班(隊長・矢部雅士海軍技師)の工営長(海軍技師)だった宮地米三氏がまとめたもので、1962年4月に、その文書の複製がつくられ、それを同研究所が収蔵してきたものです。
 文書の中身は、
同班の動きの大要を書いた縦書きのもの、その詳細を書いた横書きのメモ、地図などです。

 【文書の意味】

 中曽根康弘氏は、かつて、「衆議院議員 中曽根 康弘 (海軍主計大尉)」の名で「二十三歳で三千人の総指揮官」という題名の文章を書いています。松浦敬紀編著『終わりなき海軍』(文化放送センター。1978年8月30日)の90-98ページに載っています。
 これに、つぎのようなことを書いています。

 ・ 海軍主計中尉だった1941年11月26日、設営隊の主計長を命ぜられた。部隊を編成し、11月29日に出航した。目的地は、フィリピン、インドネシアだった。
 ・ 12月8日の開戦と同時に、「わが船団」は、ダバオに突入した。早速、飛行場設営の仕事が始まった。
 ・ その後、バリクパパンに進入した。
 ・ 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。………
 この文章の「慰安所」について、中曽根氏はジャーナリストに質問されてきました。
 中曽根氏は、それは、いわゆる軍慰安所ではないといってきました。
 しかし、こんどの文書には、中曽根氏が「苦心して」「つくってやった」慰安所が、中曽根氏が「土人女を集め」て日本海軍の基地内につくった日本海軍の慰安所だったことが書かれています。

 【文書の内容】

 縦書きの文書の内容は、以下のとおりです。の所は活字が見つからなくて打てない所、[]の中は記者の注です。(原文は略字もありますし、読み違いもあるかもしれません。引用する場合は、原文を確かめてください)

   第二設営班  矢部部隊

 一、編制
    隊長   海軍技師     矢部 雅士
    工営長   〃        宮地 米三
    軍区長  海軍々医大尉  平  敏郎
    主計長  海軍主計中尉  中曾根康弘
    通信長  海軍兵曹長   宮西
    職員 亀本技手始め 別記の通り
    徴用工員 約二、三〇〇名
    兵員  看護兵曹 主計兵曹 通信兵等約四〇名

 二、装備
   1、主機械
    一〇屯 八屯 六屯 五屯等の各種ローラー各輸送船
    毎に積込
    自動車 日産トラック 豊田トラック
    大発(上陸機材運搬用)
    ヤンマー(〃    )
    発電機(一〇KW)
    水槽車
    ヤンマージーゼルエンジン
    ウインチ動力付
    杭打機
    自転車
    潜水道具一式 井戸堀機 給水パイプ等一式
    トランシット、レベル、ポール箱尺等測量用具一式
    ショベル、鶴バシ、ハンマー、斧、鋸[のこぎり]等土工用具一式
    鋸 鉋[かんな] 等 大工道具一式
    フイゴ 金敷、其他[そのた] 鍛冶道具 一式
    ホースイ道具

   2、材料
     油類、ガソリン、重油、泥油
     砂利、川砂、各輸送船下積
     セメント、組立家屋用 合掌 パネル
     防虫網、蚊帳、穴ドラム缶、洗面器、風呂桶(小判型)
     ローソク 携帯電気入
     ●[「飛行」の印]場滑走路整備用 鉄板
     波形鉄板  天幕
     木材類、電柱、仝腕木 丸太
     鉄筋 釘 等

   3、糧食
     耺員及工員分として約二、五〇〇名分二ケ月分積込

    軍医長 約二、五〇〇名分の医療準備

    主計長 糧食の外戦地にて使用すべき軍票を
          準備する

   5、設営後の状況

  ダバオ上陸設営出航迄[まで][一九四一年の]十二月二〇日-一月一四日迄[一月十四日まで]
 二五日餘[]の短い忙しい日々であった 整備出来次第
 攻撃に取かかつた状況で休息の暇がなかった
 第二次進出も後発し来多[きた] 朝日山丸 金那摩山丸 日帝丸
 等に工員約六〇〇名及設営機材を搭載し来多[きた]ので
 そのまゝ進出した次第であった ダバオは邦人二〇、〇〇〇余
 カンキンされて居[]て占領と仝時[どうじ]に釈放され設営に協
 力して呉れ多[くれた]

 バリクパパンでは●[「飛行」の印]場の整備一応完了して攻撃機による蘭印[オランダ領東インド]作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風
 で又[また]日本出港の際約二ケ月の旨申し渡しありし為皈心矢の如く[帰心矢のごとく]氣荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長[海軍第二設営班主計長の中曽根康弘・海軍主計中尉]の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり

 6 所見

 一 急速に取集めた機械類の為か其[その]當時の実力の不備の為か新品の機械なるにも拘[かかわ]らず故障続出、上陸して●[「飛行」の印]場に運搬する途中にて故障し相当苦しむ
   ダバオに於[おい]ては土民は排他的眼にて我方に対して居[]たので不安があつたがバリクパパンにては非常に好意を持つて  接して呉[]れ 協力して呉れ多[くれた]

 横書きのメモと地図から読みとれることは、つぎのとおりです。

 海軍航空基地第二設営班の任務は、フイリッピンのダバオ、ボルネオのバリックパパンに「敵前上陸」して、飛行場、居住施設の整備をすることでした。
 同班は、アジア太平洋戦争開始(1941年12月8日)の前の11月29日、呉軍港を出港しました。
 まず、12月20日、ダバオに上陸して海軍313基地に陣取ります。
 「313基地(ダバオ) 作業」の項目に「慰安所 組立家屋建設」の記述があります。
 同班は、313基地に1500人を残して、その他の人員で、1942年1月24日、バリックパパンに上陸し、海軍322基地に陣取ります。
 「322基地(バリックパパン) 作業」の項目に「(設営班用)→慰安所(組立家屋)建設」の記述があります。
 1942年3月11日、晴れ、「慰安所(設営班)開設」の記述があります。

 「322基地(バリックパパン) 完了時の状況」と題するバリックパパンの海軍322基地の地図に「設営班慰安所」がえがかれています(写真は、その地図と、それをアップ=次ページに掲載)
 これを見ると、「設営班慰安所」全体は垣で囲まれていて、組立家屋、接収した民家、天幕、トイレがあることがわかります。

 【草の家の主張】

 草の家は、この日の会見で、中曽根氏の軍慰安所への関与の件は国際的にも問題視されてきたものであり、中曽根氏に、この問題の全容をみずから明らかにすべきだと働きかけていくとしています。

 【その他】

 なお、東京都目黒区中目黒2の2の1の、防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室については、以下の同研究所のホームページでごらんください。
 この文書は、一部を除きコピー可となっています。ただし、コピーが届くのに3週間ほどかかることがあります。

 http://www.nids.go.jp/military_archives/index.html

(文責・藤原 この記事についてのお問い合わせは bqv01222@nifty.com )

 八月二十四日の橋下大阪市長会見の日本軍の従軍慰安婦部分。

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2012/08/post-4a5b.html

 男性記者 先日の慰安婦問題なんですけど。
 赤旗のフジワラです。
 慰安婦問題で、「強制の事実は今のところ確たる証拠はない」とおっしゃられましたが、河野談話を見ていると、「軍当局の要請により設営され」「管理」された慰安所で「総じて本人たちの意思に反して」強いられた被害だという感じで強制の事実を認めていると思うんですけど、河野談話については見直すべきだという考えなんですか。

 橋下 じや、二〇〇七年の閣議決定はどう書かれていました?

 男性記者 ……。
 [筆者注・「二〇〇七年の閣議決定」といっていますが、これは、安倍晋三政権時代の辻元清美衆院議員の質問主意書への答弁書(二〇〇七年三月十六日)のことをいっているようですね]

 橋下 いや、だから、そのぉ、自分の関心のあるところだけ、赤旗は調べて、もうちょっと烏の目というか、全体の視野をもたないと、自分の関心の持っている河野談話のところだけをとりあげていますけれども、二〇〇七年の閣議決定では、強制連行の事実を直接示す記述は見当たらなかったと、そういう閣議決定が安倍内閣のときに出されています。
 だから、僕は歴史家ではありませんからね、すべての資料について、古文書等を含めて行政文書を含めてぜんぶそういうことを調べたわけではないので、僕は政治家として、九三年の河野談話とそれからそれについての二〇〇七年の閣議決定、この二つをもとにして、自分の意見を組み立てているわけですよ。
 だから、河野談話でいろんな表現はあるけれども、しかし、二〇〇七年に強制連行を示す、それを裏付けるような、直接示すような記述、直接のその証拠はなかったということを二〇〇七年の安倍内閣のときに閣議決定はされているわけです。
 そうであれば、河野談話の中身をもう一度しっかり、疑義がないように、内容を見直すのか、それとも二〇〇七年の閣議決定が間違っていたか、--どちらかですよ。
 で、僕は、やっぱり二〇〇七年の閣議決定というのは、河野談話を出した以降、それは日本政府がそういう閣議決定をする以上はやっぱりそれは責任をもってやっていると思いますよ。
 河野談話は閣議決定されていませんよ。それは河野談話は。談話なんですから。
 だから、日本政府が、日本の内閣が正式に決定をしたのは、この二〇〇七年の閣議決定だった安倍内閣のときの閣議決定であって、この閣議決定は[慰安婦の強制連行の事実は、直接裏付けられていない]という閣議決定が日本政府の決定です。
 河野談話は閣議決定じやないですから。官房長官の談話なんでね。
 じやあ、そういう二つの文書が出てきたときに、二つの政府からの意思表示が出てきたときに、官房長官の談話と、それから政府の、内閣の閣議決定、どちらを尊重するのかといったら、どちらですかね? 赤旗さん。それでも河野談話ですか?
 談話と閣議決定の法的なその、位置づけなんですよ。
 まず一般論をどう思われます?
 官房長官の談話と閣議決定というのはどちらの方が重いんですかね?

 男性記者 あのぉ、ちょっとそれは…。

 橋下 いやいや、まずそこをね。この間のMBS[毎日放送]の記者と同じで、まずきちんと、そこをまず確定しないと。自分の気になる一般論と……。

 男性記者 閣議決定の方が、一般論としては、重い…。

 橋下 当たり前ですよ、そんなのは。一官房長官の談話なんかより閣議決定に決まっているじやないですか。一官房長官の談話じやなくてね。閣議決定ってね、内閣全員の署名が必要なんですよ。これは。

 男性記者 ただ、その官房長官の談話は、いろいろ政府として調査した上で、いろいろな資料にあたって出てきているわけですよね。だから…。

 橋下 閣議決定もそうじやないですか。どちらの方の調査の方が信を置かなきゃいけないんですか。日本政府、わが日本国の意思表示として?
 そりや談話なんていうのはだれでもがやっていますよ。談話っていうのは。そんなの普通の記者でちょっと調べればね、普通の知識があれば、談話と閣議決定、こんなの天と地の差がありますよそんなのは。
 それは僕ら公(おおやけ)の仕事をやっていますから、文書のポジションといいますか、そういうものは非常に重要なわけであってね。
 それは、例えば市長が何か意見を出した。
 これは個人的な意見ですとか。
 いや意見交換の中で出た。まだきちんとした組織として決定をしていないコメントですというのとね、戦略会議できちんと決定した意見ですというのとでは、これは全然違いますよ。
 官房長官談話というのは官房長官の談話なんです。
 閣議決定は政府の決定なんです。
 官房長官談話は閣議決定していませんよ。
 ただ、官房長官談話を僕はね、いまのこの段階で全否定できるだけの歴史的なそういう知識とか、僕は歴史家ではありませんから、全否定をするつもりはありませんけれども、しかし、日本政府が二〇〇七年に閣議決定をやっているその中身でね、強制連行の事実はなかった、強制連行の事実を示す証拠はなかったと。
 だから、事実があったかどうかではなくて、その証拠がなかったといっているんです。
 だから僕がいっているのは事実論じやなくて証拠論なんでね。
 だから証拠がないというふうになったんであれば、証拠をやっぱりちゃんと見つけてきましょうよというところです。
 吉田清治さんのーーあの~何でしたっけ、名前忘れましたけど著作ですよ、あれもあとであれは虚偽の主張だっということが、あとでこう、いろいろそういうことが話題になったりだとか、吉見さんという方ですか、あの方が強制連行という事実というところまでは認められないという発言があったりとか、まあこの強制連行の事実については、いろんな意見があるなかでね、それでも日本政府は国家としての意思表示として二〇〇七年に強制連行の事実を裏付ける証拠はなかったということを閣議決定したわけです。
 だから、僕は韓国側のほうにね。
 事実の有無を問題視しているわけじやないですよと。
 証拠の有無なんですと。
 だから、日本政府が調べた限りでは証拠はなかったと。
 それからチェジュ島のかたの新聞社か何かが、現地調査、吉田清治さんの事実について本当かどうかをチェジュ島のほうで確認をしたら、そういう事実はないというような話があったとか、あいやいやあの、そういう事実がないというね、そういう報道をチェジュ島の方の新聞社がしたとか、いろんなあの~、そういう情報はもう調べればいくらでもでてくるわけです。
 じやあ、いろんな情報があるなかで、じゃあ、強制連行の事実を裏付ける証拠はあったのかどうかといえば、それは日本政府としてはそういう証拠はなかったといっているわけです。
 で、僕が今回この発言をしたら、韓国サイドのメディアが「証拠は河野談話だ」といってきたわけですよ。
 これは、たいーへんな日本政府の大失態ですよ、これは。
 河野談話は証拠じゃないんですから、これ僕ら裁判やるときに事実の主張と証拠というのは、これ全然次元の違うものです。
 事実の主張というのは証拠があるなしにかかわらず、事実として、認識を表明すること。
 その認識を表明したことに関して証拠があるかどうかというのは、これは証拠の問題なんでね。
 だから、河野談話というのは事実主張の段階なんですよね。まだね。
 だって、河野談話はああいうふうにいろんな問題、官房長官が談話を出されましたけれども、あれはそういう認識を表明しただけ。
 証拠があるということではないわけです。
 それを韓国側の方が、あの河野談話が強制連行を裏付ける証拠だというのはこれはまったく論理的に間違っていますね。だから僕は韓国サイドのほうに強制連行の事実の有無の問題についてね、証拠があるんだったら、出してくださいと。
 いろんな証言者がいましたけれども、この証言者の証言のいろんな変遷についても、いろんなところでそんな情報なんかでまわっているじやないですか。
 だからいまのところは日本においては、客観的な証拠はない。
 韓国サイドのほうに証拠があるというんだったら、それをしっかり出してもらいたいと。
 だから河野談話で重要なことは、軍の関与。
 僕はだからね、軍の関与までは否定していません。
 それはあの慰安所というね、そういう施設の性質からすれば、やっぱり公的な管理というものはしないと衛生上、秩序上、それから戦時下っていう状況上、これは公的な管理が必要ですよ。それは。
 だって今だって風俗営業というのは公安委員会の管理下におかれているわけですから、風俗営業は。
 ある意味、慰安所という施設の性質からすれば公的な管理は必要。
 公的な管理があったということと、それからそこで働か、働いていた慰安婦のみなさんが、強制的に連れて来られて無理やり働かされていたかどうかっていうのは別問題ですよ。
 施設を公的管理していたことと、慰安婦を無理やり連れてきたっていうことは別問題。
 それから、本人の意思に反してということをたぶん、赤旗は問題視するんだと思うんです。河野談話のなかの。
 しかし、「本人の意思に反して」というのは、これは法律の用語でもね、二つの意味があって、本人が不本意に感じているという意味とね、それから第三者から強制的にやらされたっていう、この二つの意味が「本人の意思に反して」というその言葉に入るわけです。
 だからこれは僕ら裁判でやればそれはどっちなんだということを確定するわけですよ。
 こんなの当たり前の話なんです。
 本人の意思に反してといったときに、これはいろんな性犯罪とかそういうときに、本人の意思に反してという話になったときには、それは不本意だったと、本人は「強制されたわけではない、やっぱりそこで働く」ていう自らの意思で言ったんだけれども、でも内心はやっぱり本当はやりたくなかったんだよというような不本意の意味とね。
 それから第三者に強制的に無理やりにやらされたというというのは、これはね、本人の意思に反してというのは二つの意味があって、これはどちらの意味なのかというのは、ものすごい重要なので、やっぱり政治家が、そこできちんと法律家がいなかったのか。 河野談話をつくった作文者は誰か知りませんけど、「本人の意思に反して」ということを入れちやったものだから、不本意という意味なのか。強制の意味なのか、はっきりさせずに本人の意思に反してという言葉を入れたもんですから、これはね、大変な問題になりましたよ。強制の意味にやっぱりとられかねないですよ。
 だから、河野談話というのはいろいろ問題があります。
 だから僕は、河野談話をいまの段階で全否定するつもりはないけれども、軍の関与があったということは間違いないでしょう。
 軍が一定の管理をしていたということは間違いないでしょう。
 そういう資料はいっぱいあるということも、これも、事実みたいです。
 だけれども、慰安婦自体が強制的に暴行脅迫を受けて連れてこられたということは、そういう証拠はないというふうにいっているんですね。
 あとはね、そういう慰安婦とか慰安所という問題、これが倫理的にどうなのかっていうような問題です。
 強制的に連れて来られたのでなければ、慰安所というそういう存在がどうなのかという問題です、慰安婦という存在がどうなのかという問題ですけれども、倫理的にみれば、それはやっぱりかわいそうだなと、そういういろいろ不本意にそういう仕事について、いろいろ心身ともに苦痛をこうむったということはかわいそうだなという思いはそりゃあね、人間としてそういう感情が沸き起こるのは当然だと思いますけれども、しかしそれを、日本のわがニッポン国が、軍や官憲が強制的に連れてきたということでないという前提で、そういうしんどい仕事について大変でしたねっていう気持ちを表すのは、それは僕は否定しませんけれども、しかし、強制的に連れてきたわけではないということをはっきりした上でね、そういう気持ちを表さないと、このかわいそうですねというのは、やっぱりこれは謝罪とはまた別です。
 あの、同情と謝罪は違います。
 だから、河野談話っていうのは非常に問題で、僕はやっぱりああいう形で、ちょっと自分の主張をね、大阪市長という立場では、外交問題だから行き過ぎだったのかもわかりませんが、大阪維新の会の代表としてね、河野談話と二〇〇七年の閣議決定の、この二つの法的な文書をもとに僕の見解をのべたら案の上、韓国サイドの方は強制連行の事実は九三年の河野談話だと言ってきた。
 これはたいへんな日本政府としては大失態で、ただちにこれは是正すべきですね。事実と証拠は違うんです。河野談話は証拠ではありません。
 二〇〇七年には強制連行の事実を裏付ける証拠はなかったという日本政府の閣議決定があります。

 男性記者 証拠がないという政府の話は、おそらく公文書とか、そういうのにないっていう?

 橋下 そうですね。

 男性記者 それで、そうすると、韓国側の人とか、いろんな証言があるじやないかとか、歴史学界の人は、証言の中でも、かなり揺れがないようにいろいろ検証したものもあるとかいっているが?

 橋下 だから、それをたたかわせたらいいじやないですか。
 そのなかで証言者の中から、もう名前が出ているから出してもいいんでしょうけど、キムさんという人ですかね。
 最初いろんな問題出されたその方は、裁判まで起こしたけど、実は自分は身売りされたんだと。
 日本の官憲に強制的に連れて行かれたのではなくてね、いわゆる公娼制度といいますか、そういう慰安所というところに身売りされたんだということの事実も訴状の中に入っていたということもあるしね。
 だから、それはね、いろんなそういう証言があったりとか、いろんなものがあると思うので、だからそれを整理したらいいじやないですか。
 日本政府は公文書だけじやないですよ。
 いろんなその証言者。河野談話出す前の証言者にも聞き取りをやったわけで、その聞き取りも踏まえて、やっぱりその聞き取りが揺れに揺れて、その証言というものが客観的な証拠になりえなかったという判断のもとにね、二〇〇七年の閣議決定をやったわけですから、これは日本人なんだから、なにも自分たちで証拠もないのに、悪い方悪い方に考える必要ないじゃないですか。
 ちゃんとただね、事実の有無をね、いまのこの段階で確定しなくても、証拠の問題にもっていって、もう一回だから、日本政府はないっていっているんだから、あるというなら、赤旗が出してきたらいいじゃないですか。
 こういうものがある、こういうものがあると、どんどん出してください。
 「赤旗」は、市役所でもとってますから、見ときます。
 だから、慰安婦の問題についてはね、二つの問題を間違っちゃいけないんですよ。
 強制的に連れてきた。
 これはね僕は、やっぱりあってはならない、もしそういうことがあったんだったら、これは謝らなければいけないですよ。
 強制的に連れてきた、強制的にやらしたということであればね。
 しかしね、慰安所というもの、慰安所という存在自体について、韓国側の主張というのは、それがどっちかがよくわからない。
 強制的に連れてきたことを問題視しているのか。
 慰安婦とか慰安所の存在自体を問題視にしているのか、もし、慰安所とか慰安婦だけの問題ということであれば、これは日本国だけじやないですよ。
 慰安所、慰安婦というのは、もっといえば、現代社会にあっても、同じような状態、これは各国の法制度によっては違いますけれども、いわゆるそういう性を商売にするということはこれは世界各国でもあるわけです。
 こういう問題について倫理的にそれはよくないとか、働いている人、いろんないきさつがあってそういうふうになったことは、それは、かわいそうですねと。
 違う職業につこうとするんであったら、それはサポートしますよという話と、強制的に連れきたからそれはごめんなさいという話はこれは別問題ですよ。
 赤旗の記者のおたくはいままで風俗営業にいったことないんですか? 風俗店。ないんですか。ないんですか。

 男性記者 はい。

 橋下 いままでに? ああそうですか。
 じやあまあ、こんなところではいえないからあれでしょうけど、世の中にそりゃ風俗業なんてやまほどあるわけです。
 そりや倫理的にね、どうなんだという考え方はいろいろとありますけれども、しかし、それは強制的に連れてきて無理やり働かせたということでなければ、それはもう倫理の問題ですよ。
 謝罪の問題とかじやないです。
 だからこの従軍慰安婦の問題というものは、やっぱり二つ整理をして、慰安婦の問題、慰安所、これを軍が管理をしていた、それは軍の管理というのは秩序とか衛生上の問題でまあ管理をこれはしなきやいけないそういう施設だから、そういう話と、無理やり慰安婦を連れてきたのかどうかという話と二つ分けて、いまは前者にしか証拠がありません。
 軍が慰安所を管理をしていましたというところの証拠しかない。
 慰安婦を強制的に連れてたという証拠はない。
 そこを暖味に書いたのが河野談話で、だからそれは河野談話というものは、慰安婦を強制に連れてきたことまでを認めたのか、軍が一定の管理をしていたということを認めたのか、そこをはっきりさせないというのが河野談話の一番の問題点ですね。これが日韓関係を一番こじらせている最大の元凶です。
 結局、こういうことをやって、こういう領土問題にまで発展していってしまった。
 僕は河野談話というものが、今回の日韓紛争のなかの一番の問題。まあいわゆる僕が最近言っている言葉からすればね、日韓関係を修復する一番のセンターピン。
 これは韓国サイドからしたら、激しい批判が来ると思います。反発くると思います。
 それでいいじゃないですか。日本は日本でしっかり主張して、証拠のあるなしをしっかり検討して、証拠が出てきたら、これはやっぱり日本国家として謝らなければいけない。
 証拠がないんだったら、これは謝る問題ではなくて、それは大変でしたねと。
 そのときの状況で慰安婦、慰安所というのはいろんな軍がそういうものを併設している場合もあれば、その性を商売にするという職業もある。
 そういう問題として倫理的にどう考えるのかという問題にすべきであって、謝罪の問題ではない。
 だから、そこをあいまいにした日本政府の態度が一番これ、だめなんですよ。
 そういう答弁をつくったことに関して政治家がきちんとそういう方針を示さなかったということが、今日における日韓関係をこじれさせている最大の原因だと思いますよ。 ただ、僕は歴史家ではないですから、河野談話と二〇〇七年の閣議決定の二つの日本政府の認識の表明されている、この二つをもって、いま僕はそういう立場を表明しているんですけどね。

 女性記者 そしたらですね、元慰安婦のかたの証言は証拠にならないという認識ですか。

 橋下 閣議決定はそうなってますね。

 女性記者 橋下さんが証拠にならないという認識ですか。

 橋下 証言に信用性があるかどうかですね。
 言ったからといって証拠ではありません。
 裁判でもそうです。証人が何十人、何百人出てきても信用性に足りるかどうかということが問題で、いろいろ慰安婦の方が証言者としてでてきましたけども、それは身売りだったというようなそういう話も四十何人の証言者のうち半数近くが身売りだったとかいう話だったから、強制の話じやないっていうそういう整理をされたこともあるわけですね。
 だから、身売りの話と、ある意味、家と家族と業者の間でのいわゆる身売りの話と、政府が国が強制的に拉致、暴行、脅迫をもって連行したというのは、これはまったく別問題です。

 女性記者 暴行・脅迫ではなく、だまして連れてきて。

 橋下 それは誰がだますんですか。

 女性記者 あのお業者とかも含めて。

 橋下 業者は、国じゃないですよ。

 女性記者 軍の関与で業者が連れてきている事実がありますが。

 橋下 その証拠はないです。出てきていないです。

 女性記者 たとえば、そういうだまされたといって連れてこられたところが慰安所だったという場合も強制にはあたらないと?

 橋下 それは日本政府の問題じやないですね。民間業者と慰安婦との問題です。

 女性記者 軍の関与で。

 橋下 軍が関与していたのはその施設を、秩序の問題から衛生管理上の問題から管理をするということであって、その慰安婦自体を、だまして連れてきたという証拠はないのですよ。

 女性記者 それが証言者の証言があったとしても、証拠にならないと?

 橋下 だから繰り返し言ってるじゃないですか、証言が採用されるかどうかは、信用性の問題ですから。
 聞き取り調査をして、信用性があるかどうか、事実と照らして確認するわけです。
 吉田清治さんの本、なんでしたつけ。
 「戦争と犯罪」?
 要は吉田清治さんっていう人が、自分が韓国で女性を縄をくくって連れてきた、だからごめんなさいと言ったところから問題になってきたわけでね、吉田清治さんがいくら言っても実際に済州島で現地調査をやつたらそういう事実はなかったということになって、吉田清治さんがいくら自分はこういう悪いことやったんだ、悪いことやったんだ、韓国の女性を無理やり連れてきて慰安所で働かせたんだといくら言ったとしても吉田清治さんの言ってることは虚偽ですね、ということになったんです。
 だから証言というものは、しゃべったことがすぐ証拠になるんではなくて、その信用性、事実に照らしあわせてどうなのかという信用性をチェックしなきやいけない。
 だからいま日本政府といいますかね、従軍慰安婦の問題で強制連行があったあったと言っている人たちは、客観的な証拠がないなかで本人たちの証言で「強制連行があった、強制連行があった」と言ってますけど、その証言内容をしっかりと精査する作業をいま日本政府も韓国政府もそこをしっかりやらなきゃいけないと思いますけどね。
 日韓紛争の根底のところにはこの従軍慰安婦問題があるわけですから、日本政府はいま領土問題で激しい応酬を繰り返してますけどもね、激しい応酬を繰り返しても、結論としては韓国の実効支配を覆すってことまではなかなかいかないわけですから、そうであればね、こういう機会をとらえて根っこにある従軍慰安婦問題についてはもう-回、日本と韓国でしっかりと証拠の有無について僕は論戦すべきだと思いますよ。
 ここをうやむやにするからいつまでたってもね、日韓の関係ってものがね、成熟してないんですよ。
 日本人というか日本政府としては二〇〇七年の閣議決定、強制連行の事実はないという、そういうスタンスで韓国にのぞむ、韓国は韓国で強制連行の問題なのか慰安所の問題なのかわかりませんけれども、日本はとんでもないことをやったってことでのぞむ、これは日韓ね、レベルの高い関係になりませんよ。
 従軍慰安婦についてはしっかりと強制連行の事実について証拠があるのかどうか確認する、強制連行の事実はなかった場合には慰安婦とか慰安所の存在をどう考えるのか、当時の社会的状況・背景から慰安婦とか慰安所をどうとらえるのかってことをもう一度議論する。この作業が絶対必要です。
 九三年の河野談話は、なんかうやむやにしてしまって、強制を認めたんだか謝ったんだが、何の事実を認めたのか、どの部分について謝ったのかをうやむやにしたような形の九三年の河野談話っていうのは、最悪ですよ。
 だから二〇〇七年に閣議決定ああいうようにしたんであれば、もう一度、河野談話を全否定しないけれど内容をもう一回、きちんと明確に確定して韓国の言い分を聞いて、証拠のあるなしを日韓でオープンでやりあったらいいじゃないですか。
 とことんやっぱり、腹の中にたまっているものを出してね、主張をぶつけあわないとね、双方の関係、レベルの高いものにいきませんよ。

 ABC木原記者 日ごろ外交問題はわりと慎重な発言されていますが、こういう問題をどうしてそこまでつっこんで話されるのか。

 橋下 そりゃやっぱり韓国の大統領が現状維持っていうね、外交の大原則を踏み外したってところがありますよ。
 野田首相との間でね従軍慰安婦の問題、首脳会談でどういう議論になったのか僕は知りませんけどね、日本も一九六五年の日韓基本条約で解決済みというだけじややっぱり裁判所の形式論理的な判断の下し方であって、従軍慰安婦についてどこが問題で強制連行の事実があったのかどうなのか、いまの日本政府の立場はこうで、じゃあ証拠の有無についてきちんとやりましょうよというコミュニケーションがあったのかどうなのか、僕はわかりませんけども、だれか、韓国の大統領も野田首相もね、きちんとしたコミュニケーションをとらずにどんどんエスカレートしていく。
 そんな中でも領土問題について現状維持をこわすってことは、やっぱり僕は韓国側に非があると思うし、それからいまもう応酬合戦になってますけどね、やったところで実益ないわけですから、早くこの部分については終息はかって、でも言うべきこととやるべきことはしっかりやらないといけない。
 でもそのあとに従軍慰安婦問題、九三年の河野談話と二〇〇七年の閣議決定の整合性と従軍慰安婦の強制連行の事実についてのの有無はね、これはしっかりやらなきやいけない。
 ほんとは、これにエネルギー裂かなきやいけないと思ってるんですね。
 だから、本来は大阪市長という立場でいうべきではないけれども、やっぱり現状維持ってものを韓国側が崩してきた、大統領が竹島に、不法上陸ですよ、わが日本の立場からすれば。
 なんで訪問なんて言葉使うのかわかりません。
 わが日本国の立場からすれば不法上陸、そうなれば根っこの部分については一政治家としてしっかり発言しなければいけないと思ってますけども、僕は早く隣国どうしなんでね、事態の終息をはかって、それからやっぱり一番の根っこの部分、従軍慰安婦の問題が両国の国民の心のなかにくすぶっていることは間違いないから、この部分についてね、どうそのくすぶりをおさめていくかといえば、腹にはいってるものを表に出して、何が問題でこの問題についてはどうなんだというところをはっきりと明らかに、あいまいにせずにね、決着させるべきだと思ってます。
 それが、日韓関係をレベルの高いものにすると僕は確信しています。

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