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2012.08.17

高知県安芸郡も戦場でした その七 アジア太平洋戦争下の学校

  国民学校令の出た年・一九四一年の十二月八日には、大日本帝国はアメリカ、イギリスとも戦争を始めました。
 馬路村教育委員会が一九八一年五月二十日、『わたしたちの馬路村』という本を出しています。
 そこに、「おとうさんの話」というのが載っています。
 ここの「おとうさん」というのは、いまの小学生からいえば、おとうさんのおとうさんのおとうさんくらいの年齢でしようか。
 こう書いています。
 「おとうさんが生まれたころ、日本は中国やアメリカなどを相手に、大きな戦争をしていました。
 馬路村からも、たくさんの人が戦争にいきました。それらの人びとの中には、帰ってこない人もおりました。
 学校でも、[馬路村の学校のことです。当時は馬路国民学校]防空えんしゆうのひなん訓練やバケツリレーのけいこをしました。きんろうほうしといって、農家の仕事の手つだいもしました。
 戦争も終りに近い一九四四年(昭和一九年)となりの家から出た火事で、学校がまる焼けらなり、勉強するのにとてもこまりました。
 まもなく、長かった戦争もようやく終わり、食物や着る物はすくなくなかったが、のびのびと勉強ができるようになり、社会科など新しい教科、野球などのたのしいスポーツができるようになりました。」
 この戦争で多くの人が戦死しています。
 陸軍銃砲隊兵長だった山口一郎さん(明治四十四年八月二十八日)が戦死しています。一郎さんのことについて妹の安岡静恵さんが書き残しています(岩城敏郎編集『英霊に捧ぐ』。馬路村遺族会。一九九四年三月二十七日)。
 一九四一年十月、一郎さんに召集令状がきます。妻を宮崎県に残しての出征でした。
 アジア太平洋戦争が始まったのは二か月後の一九四一年十二月八日ですので、新しい戦争を開戦するための召集だったと思います。
 両親は大阪にいましたが、アメリカ軍の空襲がはげしくなり一九四三年、馬路村に疎開してきました。
 一九四四年三月十三日、南海派兵猛二六八九部隊に属していた彼は、東部ニューギニア(いまはパプアニューギニア)セピッタ州ウェワクで空襲で戦死します。三十四歳でした。
 同年十月、両親のもとに「南海派兵猛第二六八九部隊 山口一郎 ニューギニアにて戦死」という公報がきます。
 家に近所の人々が集まってきました。
 母は、「名誉な戦死をさせいただいて、ありがとうございました。お国のために役立たせていただいて、これほどありがたいことはございません」と近所の人たちに語りました。
 翌日も、「名誉なことです」と親類たちに話しました。
 三日目、もう訪れる人もいなくなりました。
 その夜、母は、声を殺して布団をかみしめ、おえつしました。
 「一郎や。一郎や。なんぼかつらかったろう。一郎や。一郎や。」
 北川村からかけつけていた娘か気づいて「お母さん!」と声をかけると「一郎は死んで、もうこの世にはおらん! 一郎よ、ひもじかろう。お水も飲みたかろう。一郎よ!」と、泣きながら娘さんにだきついて体を前後に大きくゆすりました。
 その晩、二人で泣いて泣いて泣き明かしました。
 その日から、母は娘の前でだけは涙を見せるようになりました。
 その後、遺骨もないまま白木の箱が届けられました。
 一郎さんの妻は、「私の夫は一郎さんのみ」と、再婚しないで戦後を生きました。
  北川村二又(ふたまた)の小島兼市さん(大正六年一月二十七日生まれ)も戦死しています。
 馬路村の小島芳子さんが、夫・兼市さんのことを書き残しています(岩城敏郎編集『英霊に捧ぐ』。馬路村遺族会。一九九四年三月二十七日)。
 彼女と、兼市さんは、馬路営林署の安田川事業所で知り合いました。二人とも森林鉄道の保線工事をしていました。
 彼女が十六歳のとき、八歳年上の兼市さんと結婚しました。
 一年四か月後の一九四三年二月十四日、海軍軍属として召集され、広島の江田島海軍工廠へ入廠しました。
 そして、一九四四年十二月三十一日、南洋群島ペリリュー島(いまは、ミクロネシア連邦)で戦死しています。二十八歳でした。
 夫が戦死したという公報が届いたのは終戦の翌年、一九四六年の十二月の南海地震の直後でした。
 「遺骨が安芸まで来ているので、引き取りに来てほしい」という知らせがあり、北川村二又から歩いて向かいました。
 青年団の人が同行してくれて、地震でつえた道をかき分けながら一日がかりでした。
 彼女は二十二歳。二歳と四歳の子を抱え、ぼうぜんとしました。
 奈半利川の橋から淵をのぞき込み、飛び込もうとしたこともありました。
 田野町の薬局で猫いらず(毒薬)を買い、それをのんで死んでしまおうとしたこともありました。
 そういう思いとたたかいながら、生きてきたことをつづっています。

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