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2012.08.07

香南市野市町も戦場でした ⑥ 上岡地区への一九四五年五月三日のアメリカ軍機・B29の爆撃。

 そんななか、アメリカ軍機の空襲が激しくなります。
 一九四五年四月に高知市を視察した山岡重厚・善通寺師団管区司令官(中将。高知市旭出身)は「祖先伝来の地を護り抜き、なお力尽きた場合はその地で戦死せよ」と、いい、高橋三郎知事も「ともかくも本土も既に戦場になった今日戦わざるに既に逃げ腰とは卑怯であり、利敵の著しいものだ」と一般市民の疎開をしかっていました。(高知市史編纂委員会『高知市史 現代編』。一九八五年三月二十五日)。
 五月三日昼間、野市町の上岡地区がアメリカ軍の爆撃機機B29の空襲に襲われます。
 中屋睦美さんの体験が新聞に載っています(高知新聞、一九八二年八月二十八日付「続 戦争酷暑の記憶 十三」、八月三十日付「続 戦争酷暑の記憶 十四」)。
 夫・義一さんは、母屋の南、土蔵の南側の日だまりでナタを振るってキュウリ植えにつかうクイをつくっていました。義母・役寿さんは、納屋の南のニワトリ小屋でニワトリに卵を抱かせていました。三人の子どもは土遊びをしていました。洗濯物を取りこんでいた睦美さんは、ラジオでアメリカ軍機・B29の来襲を知り、夫に知らせようと表に出ました。とたんにドンドンドンと爆発音、つづいてグワーと地響きがしました。「はようふせて」と子どもたちに叫びました。あたりを揺るがすような轟音が二、三分続きました。耳と目をふさいで身をふせました。ときが過ぎ、ようやく立ち上がりましたが土煙で何も見えません。足元は一面ガラスの破片。睦美さんは、かたわらで泣いていた子どもたちの手を引き、隣家の防空壕へ走りました。さらに、近くの山岡山に子どもたちを避難させて、睦美さんは家に帰りました。
 家は壊れていました。義姉とともに義母、夫をさがしました。義母、夫は死んでいました。
 いま上岡公民館前には「被爆之碑」が建っています。
 碑文は、つぎのようなものです。
 「上岡地区は太平洋戦争末期の昭和二十年五月三日 米軍のB29の爆撃を受け地区民七名地区外一名軍人二名死亡 家屋全半壊等多数の被害を受けた 戦後五十年を経て再びこのようなことのないよう永遠の平和を祈念して被爆の碑を建立する
 平成七年八月十五日  被爆の碑建立発起人 上岡地区民一同」
 七月三日午後十一時ころ、高知市に空襲警報が発令されました。やがて空襲警報は解除されました。そして、四日午前一時ころ、アメリカ軍機の高知市と、その周辺への空襲が始まりました。
 浦戸沖上空から進入したアメリカ軍機が照明弾を投下、そして、焼夷弾を投下しました。
 高知城公園内の高知県公会堂、高知県会議事堂、高知県庁、高知県立図書館が焼失。
 高知城の近くの役所では高知市役所、市庁舎分室、学校では高知高等学校、高知女子医専、高知師範学校、海南中学校が焼けました。
 高知高等学校の校舎は、ほとんど焼失。
 高知県立高知城東中学校は、講堂、柔道室、剣道室、武器庫、体育館、体力増進館、校友会館、小使室を焼失。本館は無事。
 高知県立海南中学校は体育館、銃剣道場を焼失。

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