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2012.08.07

香南市野市町も戦場でした ⑤ 「赤岡の海岸からアメリカ軍が上陸してくる」。

 池本清一郎さんが戦死した翌年の一九四五年四月、高知にもアメリカ軍が上陸してくるだろうということで中国の東北部にいた兵隊も高知にやってきました。
 四月十六日、陸軍第十一師団(錦兵団)の新任務にともない、高知市朝倉の歩兵第四十四連帯が満州(中国東北部)虎林から高知に帰還しました。
 同日、池本さんが、かつて通っていた高知市の高知県立高知城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)に錦二四四五部隊千人が宿泊。学校は兵舎に使用され、三年生以下と軍人、軍馬に満ちあふれ、ときには溝淵忠寛さん(のちの「日の丸校長」)が、太刀を腰に差し、土佐青少年農兵隊を引き連れてあらわれました。生徒たちは、連日、高知市の秦泉寺の山(いまのゴルフ場)にアメリカ軍上陸時の戦闘用の横穴を掘り、ときには十ミリ野砲の弾丸磨きもやりました(高知追手前高校百年史編集委員会『高知追手前高校百年史』。高知県立高知追手前高校校友会。昭和五十三年十一月十九日)。
 陸軍、海軍の兵隊が十万人くらい高知に集まりました。
 四万十町窪川宮内にも練習機に爆弾を積んで相手の艦船に体当たりするための海軍の秘密飛行場がつくられました。
海岸には海の特攻隊の基地がたくさんできました。
 一人乗りの爆弾を積んだ潜水艦で相手の艦船に体当たりする。
 一人乗りか二人乗りの爆弾を積んだベニア板のボートで相手の艦船に体当たりする。
 海岸にはアメリカ軍の戦車を落すための大きな落とし穴がつくられました。
 海軍の陸戦隊が木製のランチャーに軍艦の弾丸を乗せて発射する準備をしていました。
 弾丸がなくなったら竹やりでたたかうということで、竹やりをつくっていました。
 アメリカ軍が街に入ってきたら子どもたちや女性たちが竹やりでたたかうことになっていました。
 陸軍は平地や山の中でたたかうつもりでした。
 この野市にもトーチカの跡がありますね。
 美香市土佐山田町田の県道257号ぞいの加茂大明神の境内に本土決戦期に高知に配備されていた部隊の碑があります。
 「懐旧報恩の碑
 昭和二十年の晩春より秋にかけ兼松砲兵隊は本土決戦の陣地構築のため町田地区に駐屯し民宿す 時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなしまた当神社に接し軍馬数十頭を繋留し境内を甚だしく汚損せり 吾等昭和五十七年戦後初めてこの地に再会し地区の人々の厚遇を得て懐古の情に浸るその折り往時を偲び報恩を決意す
 時移り風潮変われども昔日の足跡は厳存す
 ここに懐旧の情を石に刻み報恩の寸志を改修の玉垣に具現す
    昭和五十九年仲秋 兼松砲兵隊戦友会
           木村倭士[きむらしずお]撰」
 裏面には「世話人」の名前が刻みこまれています。
 高知県の人、徳島県の人、愛媛県の人、大阪市の人、兵庫県の人、香川県の人。
 この隊の隊長は高知県の兼松平さんです。
 隊員には、野市出身の森本宏さんもいました。高知県立南海中学校(いまの高知県立小津高校)を卒業して中国の海南島で小学校の先生をしていた人です。
 地域に、当時のことを知っている人がいました。一九三七年二月生まれの男性です。
 「加茂大明神の社殿の向かって右手の竹やぶの所で馬を飼っていました。
 兵隊は民家の蚕屋などに泊まっていました。
 壕をたくさんつくっていました。
入ると途中からYの字になっているものもありました。
神社の南の山、烏ケ森のてっぺんの裏がわに大砲をすえる壕をつくっていました。
烏ケ森の向こうからアメリカ軍の艦載機が飛んできて高知海軍航空隊のほうに飛んでいきました。
 私が、そこの兵隊に『敵の飛行機が山の上を飛びゆうに、何で大砲で撃たん』と聞いたら『撃たれん。撃ったら、ここが攻撃される』と、いっていました」
 当時の隊員三人からお話をうかがいました。
 この隊は香川県善通寺の陸軍第十一師団(大野広一師団長)で編成されています。山砲の第三大隊八中隊。隊員、約二百七十人。
 夜中に非常呼集がかかり、多度津駅から十センチ山砲四門、軍馬数十頭とともに貨物列車で土佐山田駅へ。五月二十一日到着。
 軍馬は加茂大明神境内右手の竹やぶにつなぎ、兵隊は各民家のカイコ部屋の二階などに宿泊しました。
 山砲は、これまでに使ったことのない最新式のものでした。その一つには「昭和十九年 大阪砲兵工廠製造」のプレートがついていました。香美郡吉川村(いまは香南市)の港の近くの松林に山砲をすえ、四門それぞれ四発ずつ試射しました。弾丸に装薬を三つ入れて撃つと七千四百メートル飛びました。
 アメリカ軍が香美郡赤岡町(いまは香南市)の海岸に上陸し、高知海軍航空隊の飛行場を占領することを想定して同神社の南の山・烏ケ森の中腹の山の斜面に山砲の陣地づくりを始めました。
 山のふもとに戦闘のための横穴壕も掘りました。
 小屋を建てて弾薬庫もつくりました。砲弾は木箱に二つずつ入れてありました。三、四十箱ありました。
 装備品は、みじめでした。二等兵だった男性が語ります。「古参兵は、ごぼう剣を持っていましたが、初年兵には支給されませんでした。金属製の水筒も支給されず、モウソウ竹を切って水筒をつくりました。山砲の壕を掘るときはワラゾウリでということで、つくれない兵隊はおとしよりにつくってもらって買い取りました。雨のなかで工事をしているとワラゾウリの後ろがなくなって前だけになりました。哀れなものでした。工事の道具は、シャベル、ツルハシ、モッコでした。」
 壕の下はセメントで固めました。
 困ったのは食料不足でした。
 「おかゆとカボチャ汁、漬物のような食事でした。腹が減りました。地元の人が植えているトマトとかイチジクを盗んで食べました。あるとき、初年兵でグルになってクワの実をとって食べました。上官が『食べたろう』。『いや、たべません』。しかし、舌がクワの実で紫になっていました。たたかれました。」(二等兵だった男性)。
小隊長だった木村倭士(しずお)さんは、戦闘に備えてコメには封印がされ、食料はほとんどない状態、「動物性タンパク質を取りに来い」という軍の知らせに赤岡町まで出向くとマユから糸を取った後のサナギを配給されたと戦後、語っていました(この項、高知新聞、一九八二年九月二十七日付)。
 「懐旧報恩の碑」の木村倭士撰の「懐旧報恩の碑」の碑文の「時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなし」の意味するところです。
 近くの土佐山田町楠目にも別の山砲隊がいたようです。
 八月六日、偶然の機会に、そのことを知りました。
 男性が話してくれました。
 「楠目の家々に兵隊が泊まっていました。のちに貴船神社(香美市土佐山田町楠目字宮ノ谷一三八一)の裏にテントを張って駐屯していました。壕をつくって山砲もすえつけていました。それに、楠目に土佐金物合弁会社という兵器工場があって、そのころには鉄製のヤリをつくっていました。」
 さっそく、貴船神社に行ってみると神社の境内の下の右手に天井のない壕の跡が残っていました。

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