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2012.08.07

香南市野市町も戦場でした ③ 池本清一郎さんの油絵への思いと戦死。

 野市町東野出身の池本清一郎さんのことも知りました。
 一九二二年十月二十一日生まれです。
 一九三五年三月二十七日、野市尋常高等小学校卒業。
 一九四〇年三月一日、高知県立高知城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)を卒業しています。
 清一郎さんは、写真を撮っていました。一九四二年七月ころの野市町野地地区の稲刈り勤労奉仕に行った子どもたちを撮ったものが残っています。
 清一郎さんは、城東中学校では、美術部に入っていました。
 十七歳前後だった清一郎さんは、東京美術学校に進学したいといいだしましたが、家族に反対されました。
 そうすると彼は、自宅納屋の屋根裏部屋にたてこもりました。屋根裏部屋に誰も上がってこられないように、はしごを外しました。
 そのとき、しっくいの壁に「アダムとイブ」と「天使」の油絵を描きました(ともに縦一メートル、横六十メートル近く)。
 けっきょく、池本さんは、高知師範学校に進学しました。
 そこでも、絵を描きつつづけました。
 十九歳のときには、「自画像」を描いています。
 「二十歳(はたち)」という題で婚約者を描いています。
 そして、一九四二年春、高岡郡佐川組合国民学校の先生になりました。
 一九四三年三月三日から八日まで、高知市堺町の明治喫茶店階上で第一回洋画個展をやっています。
 その一か月後の四月、在職中に召集され、海軍の新兵養成機関・佐世保第二海兵団に入隊しました。
 ここで軍人精神や戦闘の技法などの教育を受けました。
 一九四四年三月、池本さんが、航空母艦・大鷹 (たいよう)に乗り組むことが決まりました。
 この船は、もともとは日本郵船が建造した客船として建造されていましたが、一九四一年五月に海軍が徴用して佐世保海軍工廠へ回航、航空母艦としての改装工事がおこなわれました。
 アジア太平洋戦争開始前の一九四一年九月五日に竣工しました。
 一九四二年八月三十一日、航空母艦になりました。
 大鷹に乗り組むことが決まったあと、清一郎さんは里帰りしています。
 「清ちゃん、清ちゃん」。家族が喜んで迎えるなか、池本さんは家の外に見える三宝山(標高二一三メートル)を見つめ、油絵を描き始めました。ご飯も食べず、必死にキャンバスに向かっていました。
 家族に「右手をやられたら絵を描けんけど、左手で耐えてでも絵を描きたい」、「生きて帰ったら、美術学校へ行く。その後はパリだ」といっていました。
大鷹に乗るため再び家を出た日、清一郎さんは家の路地を曲がるとき、ふいに振り向き、にっこりと笑いました。
 一九四四年八月八日、護衛航海として駆逐艦三隻、海防艦九隻とともに、タンカー、陸軍特殊船、貨物船などからなるヒ七十一船団を護衛して出航しました。
 そして、八月十七日、台湾の馬公からフィリピンマニラ湾へ二十日午後五時到着の予定で出撃しました。
 船団は当初から三隻の米潜水艦の追跡を受けており、八月十八日早朝より雷撃を受けて脱落し高雄へ帰港する輸送船が複数出ました。
 八月十八日午後十時ごろ、ルソン島東方でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「ラッシャー」の雷撃により、航空母艦・大鷹に魚雷一本が命中。航空母艦・大鷹は、沈没しました。
 大鷹は、被雷から十分程度で沈没、動転したヒ七十一船団は統制のとれないまま思い思いの方向に四散し、壊滅しました。
 (大鷹の慰霊碑が、長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にあります。)
 この空母に乗っていた清一郎さんは、戦死します。二十一歳でした。

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