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2012.08.17

【調査リポート】 高知城の山の斜面にあった十の戦争壕 その五 「戦争と平和を考える資料展」で紹介

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 「戦争と平和を考える資料展」では、高知城の山の斜面の横穴壕の位置図とともに、アメリカ軍の空襲の時に、それらの横穴壕に逃げこんだという証言を紹介しました。

大東亜戦争(アジア太平洋戦争)中の一九四五年六月、七月、高知市の高知城の山のふもとには九つの横穴壕(ごう)がありました。防空壕、資材を隠す壕、戦闘のための壕と、いろいろの用途だったと思います。アメリカ軍の空襲のとき、それらの壕に逃げ込んだ人たちの話を紹介します。

 【板垣退助像が元あった所の北側】

 一九四五年のアメリカ軍の高知市などへの空襲のとき、高知市第四国民学校の教師で高知市本町三丁目に住んでいた石川美代子さんが高知城の壕に逃げ込んだことを、つぎのように書いています(高知県教組婦人部結成二十五周年記念事業実行委員会編『激動の中で』。高知県教職員組合。一九七三年六月二十五日)。
一九四五年のアメリカ軍の高知市などへの空襲のときのことです。
 「……そうして七月四日の大空襲であった。警報発令と同時に主人一人を家に残し板垣伯銅像の北側の壕に避難した。母は次女(四歳)私は三女(二歳)をせおい乳母車に長女(四歳)をのせ父と五人で僅(わず)かばかりの子供の衣類を風呂敷包みにして暗い灯火管制の中を本町三丁目から追手前にたどりつき壕の中であの地獄の轟音をきいた。
 もうもうたる白煙にむせ 火熱に危険を感じて壕を出た時に追手門の一角も火を上げ藤並神社の狐格子(きつねごうし)がまっかな炎を吹いていた。……」
 いっしょに壕に入った石川さんの長女・梶田順子(みちこ)さんは「壕のなかは、下はジュクジュクしていましたし、天井からは雫(しずく)がポタポタ落ちてきていました。アセチレンのにおいがしていたことを覚えています」と、語っています。

 【高知県庁北庁舎前】

 高知県庁北庁舎(当時・巡査教習所)の前の高知城の山の壁面にも横穴壕がありまし た。
 近くの第三国民学校(いまの追手前小学校)の児童だった山下晃(あきら)さん(教育会館の近くの県庁の官舎に住んでいました)は、この壕に憲兵たちが壕の北東にある教育会館(当時の施設名は不明)から物資を運んできて、壕から表にのびた二本のレールを使ったトロッコに乗せて壕の中に運び込んでいるのを見ています。
 食糧不足でした。土佐女子高等女学校(いまの土佐女子高等学校・土佐女子中学校)は「高知公園北側の広場及び『すべり山』を県から借り、また南方の南中山中腹を市から借りて開墾した」といいます(山崎熊吉編『五十年の歩み(創立五十周年記念刊行)』。土佐女子高等学校・土佐女子中学校。昭和二十七年十月三十日)。すべり山は、一面、イモ畑になりました。一九四五年のアメリカ軍機の空襲下でも、その作業は続けられました。
 六月七日午前、同学の生徒たちは、女先生の引率で、イモ畑にしていた、すべり山でイモの手入れをしていました。みな、上はセーラー服、下はモンペでした。左胸には名前、住所、血液型を書き込んだ白い布をつけていました。
 そこへ、アメリカの艦載機が低空で飛んできて地上の人間に向けて機関銃を撃ちまくりました。
 ダ、ダ、ダ、ダ、プシュ、プシュ、プシュ、プシュ……。
イモ畑に弾が突き刺さりました。
 女学生たちは、すべり山の桜の木の下にふせました。
女学生の一人は「艦載機は、すごく低空で操縦している人の顔が見えました」と、いいます。
 近くの高知県立高知第一高等女学校(いまの高知県立高知丸の内高校)の校舎、同校の前の高知工業学校跡地の校舎が燃えあがりました(七月八日に、ここに高知県立女子医学専門学校が開校する予定でした。いまの高知県立大学、高知短期大学の所)。アメリカ軍機B29が焼夷弾で攻撃したのです。
 やがて艦載機は去っていきました。
 「避難しなさい」という女先生の指示で、女学生たちは、東に逃げ、警察練習所(いまの高知県庁北庁舎)前の高知城の壁面にあった防空壕に逃げ込みました。 
 同年七月四日のアメリカ軍機の空襲のとき、山下さんと三人のきょうだい、父、母は、ここに逃げ込みました。電気もついていない所でした。じめじめした所で上からしずくがぽたぽた落ちてきました。二、三十人が一緒にここにいました。
 「朝になって、高知城公園に上がったら、県庁の北側の梅の段に焼夷弾がたくさん落ちて穴があいていました。アメリカ軍機が墜落したようで、県庁の北側にアメリカ兵が一人、落ちていました。しかし、彼を憲兵が連れて行きました」
 この空襲で高知市第三国民学校も焼けました。山下さんが学校に忘れてきていた帽子とスズリも焼けてしまいました。

 【すべり山】

 すべり山の前に大きな岩石がありますが、向かって左手の少し上った所に防空壕がありました。
 高知市小津の高知高校二年生だった坂本昌三郎さん=高知市城北町に下宿=は、動員で行った兵庫県尼崎の工場で大けがをして治療のため一九四五年六月七日、高知市に帰っていました。
 六月ころ、この防空壕の近くを歩いていた坂本さんは、ウーーーーッという空襲警報を聞いて、この防空壕に入りました。
壕の両端に木の板を渡してあって、いすになっていました。
 十人くらいが、ここに入っていました。
 壕に入っていると警防団の男性が入ってきて「おまんみたいな若い者は警防をせないかん。出ていき」。
 「わしは病人じゃ」といいましたが無理やり追い出されました。
 
 【四国森林管理局の裏門の前】

 高知県営林局の裏(いまの四国森林管理局の裏門の前)の高知城の山の壁面にも壕がありました。
 高知市本町五丁目(乗り出し、グランド通の所)に母と住んでいた松本節さん(当時・伊藤)は、一九四五年七月四日のアメリカ軍機の空襲のとき、母と一緒に、この壕に逃げ込みました。節さんは、三月に高知県立高知第一高等女学校(いまの高知県立高知丸の内高校)を卒業。その後、高知病院(いまの高知市役所の所)のなかの看護婦養成学校に通学していました。
 七月三日の夜中に空襲警報が鳴って、母と二人で家の庭の奥の防空壕に入りました。
 それから解除になって防空壕を出たら空が急にパーッと明るくなりました。
 何やらゆらゆら光りながら落ちてきました(のちに照明弾だったことを知りました)。「ウワァー、きれいな」といって見上げていたら、母が「おおごとじゃ。新型の爆弾かもしれんき。はよう防空壕へ入らないかん」といいました。
 それで急いで、また防空壕へ入りました。
 しばらく入っていたらザーザーと水が流れるような音がしはじめました(あとで焼夷弾の落ちてくる音と知りました)。「何か落ちてきたら蒸し焼きになるかもしれん」と不安になって表へとび出たら、町内は誰もいませんでした。家の西のグランド前の四つ角の永野パン屋も焼けはじめて、二階の窓からはげしく火がふいていました。
 周囲を見回したらグランド通の四つ角の右手の金物屋の小松さんが「みんなあ、鏡川に逃げましたぜよ。私は大事なものを忘れてとりにかえったけど、はよう鏡川に逃げなさい」といってくれました。
 でも、火の粉が舞っていて、とても鏡川方面に逃げることができません。
 それで「公園へ行こう」と母娘で高知城の公園に向かいました。
 電車道をつっきりました。途中、落ちてくる焼夷弾を避けるために急いで軒下にとびこみました。
 裁判所の北の池に下りていって防空頭巾をぬらしました。
 県庁の一番西の建物の窓から激しく火がふいていました。
 そして、高知営林局の東の高知城の山の横穴壕にいって、少し体をかがめて入りました。横幅は数メートルありました。奥行きは七、八メートルくらいではなかったかと思います。真っ暗でしたが十人から十五、六人が入っていたように思います。私たちは一番最後くらいに入ったと思います。
 そのうちに突然、ドッスーンというすごい音がしました。男性が「艦砲射撃じゃ!!」と声を上げました。みんな、パニックになって騒ぎだしました。
 別の男性が「そんなものは、きやせん。きやせん」と、いったので、それで少し静まりました。(「ドッスーン」は、アメリカの飛行機が落ちた音ではないかと、いまは思っています)
 午前五時ころ、そろそろ入口の木のとびらを開けたら夜がしらんでいました。
 それで、みんなザワザワと出てきました。生きていてほっとしました。
 「うちのほうにいてみよう」と歩き始めました。焼夷弾の煙で空は灰色でした。そして太陽が真っ赤な、まるで血のような色だったのをはっきり覚えています。
 街は、まだ燃えていて炎がチョロチョロ出ている所もありました。家の近くに行こうとするのですが、熱くて近寄れません。
 市内の越前町の、おば(母の妹)が様子を見に来てくれていて「生きていて良かった」と、三人で泣きました。
 一晩、おばの家に泊めてもらいました。
 その晩、空襲警報が出て、小高坂山のお墓に逃げて一晩、そこで過ごしました。
 翌日、焼け跡を見にいきました。丸焼けでした。
 レンガの壁の形はあり、コンクリートの土台も残っていました。
 湯沸しのオカマに水をたっぷり入れて茶碗や湯飲みを入れて逃げていました。その水はほとんどありませんでしたが、食器類は焼け残りました。
 ニワトリ小屋でジトリを三、四羽飼っていましたが、それが黒こげになっていました。母が「かわいそうに」といって持ち上げたらパクッと二つに割れました。中の卵がゆで卵のようになっていました。
 
 【高知県庁の西端】

 高知県庁の西端の高知城の山の壁面にも壕がありました。
 高知商業学校の生徒だった浜田幸雄さん宅は高知市川崎町、いまの高知市民図書館の西どなりにあった西本洋服屋でした。
 浜田さんは、この横穴壕のことを「トンネル」といいます。
 中からレールをひいていました。朝鮮人たちが、中の土をトロッコに乗せ、裁判所の裏に運んでいました。
 一九四五年七月四日のアメリカ軍機の空襲のときのこと。高知市役所の何かが落ち、バーンと明るくなりました。「これはいかん」。兄と二人で、営業用のアメリカ製のシンガーミシンを担ぎ出し、近くの裁判所の門の前におきました。
そのあと、兄と浜田さんは、母の母、両親、姉で近くの高知城の堀の所に掘っていた自宅の防空壕に逃げました。
兄は、母の母を連れて鏡川方面に逃げました。浜田さんと両親、姉は北に逃げました。
まず、高知県庁の西の端の壕に逃げました。まだレールもあり、できあがっていませんでした。
 そして、ここを出て走っているとザーッという音がしたので高知営林局の裏の横穴壕に入りました。そして、こんどは、すべり山の防空壕にと逃げ込み、そのあと、市内の久万川へ逃れました。
 県庁の屋上に機関銃がありましたが、これは撃たなかったようです。日本の飛行機も迎撃しませんでした。
 朝、家に帰ってみると家は全焼していました。南を見ると、すっかり家がなくなって山内神社の所の鏡川の堤防が見えました。裁判所前のミシンは、そのまま残っていました。

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