« 高知県安芸郡も戦場でした その一 大日本帝国の時代 | トップページ | 高知県安芸郡も戦場でした その三 日露戦争で戦死した人々 »

2012.08.17

高知県安芸郡も戦場でした その二 馬路村にやってきた中江兆民さん 

 明治天皇の時代に各地で自由民権運動という国民の運動が起きました。
 高知県は、その運動のさかんな所で、馬路村の人も、それに参加しています。
 土佐郡山田町、いまの高知市出身の中江兆民さん(一八四七年十二月八日~一九〇一年十二月十三日)という人がいました。
 一八七一年、フランスに留学し、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソールソーの思想を学びました。
 一八七四年六月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、八月には家塾の仏蘭西学舎(のちに仏学塾)を開きます。塾では語学や思想史のほか、漢学も重視されました。
 ここ馬路村魚梁瀬(やなせ)の丸山公園に中江兆民の碑がありますね。
 「中江兆民曽遊(そういう)之地」の碑です(一九九五年七月二十八日建立)。
 馬路村魚梁瀬出身の山崎氤(さかん)さん(一八六七年~一九四〇年)は、中江の仏学塾の門下生でした。ここでフランス語を学び、ルソーの『民約論』の講義を受けました。
 一八八七年十二月二十五日、政府は、東京にいる自由民権家を東京から追い出すため保安条例という法律をつくりました。
 「第四条 皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経期日又ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得
 2 退去ノ命ヲ受ケテ期日又ハ時間内ニ退去セサル者又ハ退去シタルノ後更ニ禁ヲ犯ス者ハ一年以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ仍五年以下ノ監視ニ付ス
 3 監視ハ本籍ノ地ニ於テ之ヲ執行ス」
 政府は、この法律で、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物を皇居から約十一・八キロメートル以外に退去させ、三年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止させました。これにより退去を命じられた者は、十二月二十六日夜から二十八日までに総計五百七十人と称されています。
 中江さんは大阪に行きました。
 山崎さんは魚梁瀬に帰りました。
 氤(さかん)さんの木材業をやっていた父・唯次さんが用務で大阪にいた一八八八年七月十四日、十五日ころの夜、中江さんを訪ねて魚梁瀬においてでてくださいと誘いました。
 中江さんは、同行することを快諾(かいだく)しました。
 十八日、大阪を出発。十九日、徳島着。二十日、由岐浦を経て浅川浦着。
 二十一日、鉱山を見聞。
 二十二日、奥浦に到着。
 この日から風雨が強くなり、二十四日には海部川があふれています。
 二十七日になって雨がやみました。氤(さかん)さんが二人を迎えに来ました。
 二十八日朝十時ころ、シバコ山を出発し、午後一時、魚梁瀬に着きました。
 十八日に大阪を出発して、魚梁瀬に着いたのが二十八日です。
 そして、中江さんは魚梁瀬に三日間滞在しました。
 その翌年、一八八九年、馬路地区、魚梁瀬地区が合併して馬路村になりましたが、山崎氤(さかん)さんは馬路村の初代村長になりました。
 私が注目しているのは、中江兆民さんが、『三酔人経綸問答』(一八八七年)で、明治政府の富国強兵策を批判し、非武装民主立国論を説いていることです。
 ・役に立たない軍備の撤廃=完全非武装の提唱しています。急な軍拡は経済を破綻させます。それよりも他国への侵略の意思がないことを示すほうがいい。
 ・ 弱小国=日本は、道義外交に徹しましょう。
 ・人類が最後に到達する最高の政治形態である民主共和制の採用を主張します。
 ・世界平和の実現と各国における民主共和制の採用を主張します。
 ・日本への侵略にたいしては、非暴力・無抵抗に徹しましょう。
 ・日本は世界に先駆けて、その実験国になりましょう。
 すごく先進的な考えかただと思います。

|

« 高知県安芸郡も戦場でした その一 大日本帝国の時代 | トップページ | 高知県安芸郡も戦場でした その三 日露戦争で戦死した人々 »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/55442518

この記事へのトラックバック一覧です: 高知県安芸郡も戦場でした その二 馬路村にやってきた中江兆民さん :

« 高知県安芸郡も戦場でした その一 大日本帝国の時代 | トップページ | 高知県安芸郡も戦場でした その三 日露戦争で戦死した人々 »