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2012.08.17

高知県安芸郡も戦場でした その五 和知部隊の戦闘のすさまじさ

  日清戦争、日露戦争、上海事変、日中戦争、アジア太平洋戦争で亡くなった人は、馬路で五十七人、魚梁瀬で二十一人です。
 中国の江蘇省羅店鎮付近の戦闘で戦死した人が何人かいます。
 一九三七年七月、日中戦争が始まると、八月には高知の陸軍歩兵第四十四連隊も中国戦線に動員されました。
 連隊長は陸軍参謀本部出身の和知鷹二大佐で、四十四連隊は和知部隊として出征しています。
 陸軍歩兵四十四連隊は、当時、和知部隊として中国に上陸しています。
 『昭和十二年 支那事変記念写真帖 第一輯 和知部隊特輯』という本があります。
 一九三七年(昭和十二年)七月七日から始まった日中戦争に参加した高知県の陸軍部隊、和知部隊の写真記録集です。
 同部隊は同年八月下旬、揚子江岸に上陸。そして、羅店鎮などを転戦。十一月十一日、「敵が堅塁を誇りし南翔を陥落、然も一番乗りの殊勲をたてた」といいます。
 ここに収録された写真は、高知新聞社の従軍記者・宮崎孝男さんの「出征から南翔攻略迄(まで)」のものです。
 たとえば、以下のような写真が掲載されています。
 出征のため高知市の路面電車通りを行軍する兵士たちと見送る群衆。 
 高知駅前で出征の兵士たちを送る群衆。
 「敵前上陸」する兵士たち。
 突撃寸前の兵士たち。
 海軍機の掩護(えんご)爆撃。
 「残敵掃蕩(ざんてきそうとう)」の市街戦。
 「決死白襷(しろだすき)隊」の突入。 
 羅店鎮の「白壁の家」の「敵」への攻撃。
 捕獲品を点検する和知部隊長。
 羅店鎮の「惨憺(さんたん)たる闘(たたかい)の跡」。
 陣地の構築。
 手榴弾(しゅりゅうだん)を投げる「支那」兵。
 戦死者たちの「沈黙の凱旋(がいせん)」。
 朝倉駅前の告別式。
 高知市葬。
 銃後の愛国婦人会の「活躍」。
 和知部隊かくかかかえりといった本ですが、日本の侵略戦争のすさまじさの一端を知ることができます。
 高知新聞は、一九三七年九月二日付、夕刊の一面トップに「壮烈・土佐魂の発露 羅店鎮の一番乗り 我和知部隊陣中訪問 穂岐山少尉二十七人撫斬り 上海一日 宮崎本社特派員特電」という記事を載せました。
 同紙は、一日にも、このことを報じる号外も出しています。
 この年七月、日中戦争が始まると、八月には高知の陸軍歩兵第四十四連隊も中国戦線に動員された。連隊長は陸軍参謀本部出身の和知鷹二大佐で、四十四連隊は和知部隊として出征しています。
 記事は、このときのことで、和知部隊は、八月二十三日未明、「○○鎮」に上陸し、「支那軍」を攻撃、しばらくして上海北方にむけて占拠地点を拡大、二十七日には「敵精鋭部隊の死守する難攻不落を誇る羅店鎮」を攻撃し、二十八日正午には、ここを占拠したとしています。「穂岐山少尉二十七人撫斬り」は、この間とのこととされ、和知部隊が「殊に穂岐山少尉(市商教諭)が敵陣地に躍り込み支那兵二十七名を斬つたことは土佐魂の発露である……」と、語っています。
 中国に乗り込んで中国人を二十七人斬り殺すことが「壮烈・土佐魂の発露」とされた時代を示す記事です。
 「穂岐山少尉」というのは、穂岐山拓さん(一九〇九年九月六日生まれ二十八歳)。高知県長岡郡新改(かえ)村平出出身。高知市の県立南海中学校卒業。一九三三年、東京高等師範学校体育科を卒業し、幹部候補生として陸軍徳島連隊に入隊。一九三四年、高知市立商業学校の教諭に。剣道四段。その後、高知の歩兵四十四連隊の陸軍兵として中国に出征していました。
 この夕刊の二面の関連記事には、このことを知った川淵高知市長、丁野高知市立商業学校長の「実に愉快」、「我校の名誉」という談話が掲載されています(記事のコピーあり)
 穂岐山少佐は、同月二十一日、中華民国江蘇省羅店鎮丁家宅付近の戦闘で戦死しています(戸籍簿による)。
 彼の戦死を伝える大阪毎日新聞、同月二十四日付の記事では、彼の叔父の談話が出ています。
 そこで叔父は「(穂岐山少佐からは)上陸後第二日の激戦で逃げる敵を機関銃で撃滅し機関銃やピストルなど多数戦利品を得て廿数名を斬りまくり自分ながら呆れるほど運がよく弾があたらず元気にやっているという手紙が一回来ました」と語っています。
 和知部隊は、当時の新聞報道によると多くを殺し、多くの戦死者を出しています。
 馬路村出身者で江蘇省羅店鎮付近の戦闘で戦死した人が何人かいます。
 みんな高知市朝倉の陸軍歩兵四十四連隊の兵隊です。
 魚梁瀬。五百蔵虎猪さん。歩兵上等兵。二十歳。一九三七年九月四日。
 馬路。乾喜一さん。歩兵上等兵。二十七歳。一九三七年九月七日。
 魚梁瀬。山崎敏雄さん。歩兵上等兵。二十三歳。一九三七年九月七日。
 魚梁瀬。山崎義男さん。歩兵伍長。二十五歳。一九三七年十月一日。ここでの戦闘で負傷し野戦病院で戦病死。
 戦後、和知鷹二さんは、戦死者の多かった「遠因」を、つぎのように語っています。
 「参謀本部は、戦線に歩兵部隊を投入する際には『県民性』を重視した。高知の県民性は『短気』。将棋の駒に例えると香車。ブレーキもバックギアもない自動車同様で、これほど突撃と敵前上陸に適した県民性はない。日露戦争から第二次大戦まで四十四連隊は常に最前線、激戦地に投入された。高知の消耗率の遠因は県民性による。」(依光裕『一所懸命 土佐に生きて』。高知新聞社。二〇〇七年九月二十日)。

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コメント

穂岐山中尉は
何の不落ぞ羅店鎮 果敢我らが和知部隊
決河の勢すさまじく まづ突き進む隆家村

中にひときわ目覚ましき 荒武者こそは若櫻
はなこそかをれ芳しき 中尉穂岐山名は拓

と歌にも歌われた英雄ですよ。

和知部隊が戦った第二次上海事変は中国軍に攻められて窮地に陥った上海日本租界の陸戦隊と居留民を救出するための自衛戦争です。侵略してきたのは中国軍です。
歴史を勉強してください。

投稿: 大川 昭 | 2016.10.28 17:55

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