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2012.08.17

高知県安芸郡も戦場でした その八 アメリカ軍の沖縄上陸

 一九四五年になってアメリカ軍が沖縄県に上陸して占領しましたが、そのときのたたかいは、すさまじいものでした。
妻の父の母が、高知市の、いまの高知大丸の近くで「うどん屋」をやっていました。
その隣の食堂の娘さんが、高知海軍航空隊の隊員と結婚しました。
彼は、鹿児島県の鹿屋(かのや)から練習機・白菊で沖縄に飛び立って戦死しました。
最近、私のブログの記事を見た、高知海軍航空隊の元隊員から何度かメールをいただきました。
 こんな内容でした。

 私は、一九四四年五月に飛行機整備術練習生(百二期)を終え高知海軍航空隊へ転勤してきました。高知海軍航空隊整備分隊に配属されました。
当時は、いまだ飛行場を建設中で、相撲の「神風関」や関取がトロッコを押している姿が脳裏に残っています。
 もちろん、飛行機は、まだなく、飛行作業はありませんでした。
 一九四四年七~八月、福岡県雑餉隈(ざっしょのくま)にありました九州飛行機株式会社(旧渡辺鉄工所)へ行き、「白菊」の製造現場を激励したり、福岡県粕屋郡西戸崎にありました、飛行場で組み立て作業の応援やテスト飛行(最終検査)に立会い、高知航空隊へ空輸しました。
 菊水部隊白菊隊として鹿屋航空隊に行きました。
 航空整備兵でしたので、特攻隊員が搭乗する飛行機の整備にあたりました。出撃する隊員とともに飛行機の内部を清掃するとき、「俺の棺桶だからピカピカにする」と言ったいたことが、昨日のように思われます。

 沖縄県で戦死した馬路村出身の人もいます。
 馬路。清岡進さん。大正十一年十月一日生まれ。陸軍歩兵伍長。一九四五年四月五日、沖縄本島嘉敷方面の戦闘で戦死。二十五歳。
 魚梁瀬。山崎殖林さん。大正十四年十月十五日生まれ。陸軍航空兵兵長。一九四四年四月一日、航空幹部候補生として大刀洗陸軍飛行学校へ入隊。一九四五年四月二日、飛行第六六戦隊に属し、沖縄方面で戦死。二十一歳。
 魚梁瀬。手島早苗さん。明治四十三年一月九日生まれ。海軍軍属。一九四五年六月二十日、沖縄本島島尻郡摩文仁村(いまは糸満市)で戦死。三十六歳。

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