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2012年9月

2012.09.01

二〇一二年八月三十一日 金曜日 安芸市の伊尾木八幡宮の日露戦争の碑を見ました。

二〇一二年八月三十一日 金曜日 安芸市の伊尾木八幡宮の日露戦争の碑を見ました。

 雨、曇り、晴れ。

 弟、妻、息子と馬路村へ。
 途中で僕は安芸市で取材。
 安芸市の伊尾木八幡宮の日露戦争の碑を見ました。
 それは、鳥居の左手にありました。
 「明治三十八年 戦勝祈白紀念碑」です。
 つぎの文章が刻まれていました。
 
 国体尊厳不可忘
 神祇尊崇不可怠
 あめつちとかきりもあらぬ
 みよとヽもに
 つらぬきとをせ
 やまとこヽろを
           敬白

 馬路村で温泉に入りました。
 
 息子は大阪へ。
 妻は実家泊。

 高知民報の連載の十七回目を書いて送信。
 橋下市長の日本軍従軍慰安婦問題をめぐる暴言で資料集を作成。

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二〇一二年九月一日 土曜日 中国の延辺へのツアーに参加。

二〇一二年九月一日 土曜日 中国の延辺へのツアーに参加。

 雨。

 あるブログにたくさんの記事をアップしました。
 午前一時を過ぎてしまいました。
 このまま寝ないで中国の延辺へのツアーに参加するつもりです。

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【ニュース】 「強制の事実については確たる証拠がない」発言撤回を 従軍慰安婦問題で2団体が橋下大阪市長に抗議。「各方面からご意見やお叱りをいただいています。……」と市側。

 従軍慰安婦問題で「強制の事実については確たる証拠がない」と発言したことで「撤回を」と2団体が橋下大阪市長に抗議しています。市側は「各方面からご意見やお叱りをいただいています。……」と、のべています。

強制否定発言撤回を 2団体が橋下市長に抗議

http://www.jcp-osakasikai.jp/admin.html

 大阪府アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(大阪AALA)と日本軍「慰安婦」問題の早期解決を求める大阪の会は27日、橋下徹大阪市長が「従軍慰安婦」問題で「強制の事実については確たる証拠がない」と発言したことに抗議し、発言を撤回せよと申し入れました。
 大阪AALAの澤田有理事長や四ツ谷光子副理事長、「大阪の会」の吉田信夫事務局長ら9氏が市役所を訪れ、市政策企画室秘書部が応対しました。
 参加者は「被害者が訴えた裁判でも被害の事実が認定されている。そのことを調べもしないで発言するのは政治家としての資格がない」「『慰安婦』問題を解決するには、日本の侵略戦争の責任をはっきりさせることが大事だ」「市長の政治姿勢には女性の人権や尊厳を大事にしないという考え方が貫かれているのではないか」と指摘しました。
 澤田氏は「発言を撤回してほしい。それができないのであれば、公開の場でも構わないので私たちと会って、撤回しない理由を聞かせてほしい」と重ねて要望しました。
 市側は「各方面からご意見やお叱りをいただいています。一定の判断をして、発表させてもらうことになる」と述べました。
 小川陽太日本共産党市議が同行しました。

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2012.09.08

槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その一 「間島 一九三二年三月」を訪ねて。

  二〇一二年九月一日、土曜日。晴れ。

 高知市の自宅です。
 あるブログにたくさんの記事をアップしました。
 午前一時を過ぎてしまいました。
 そのまま寝ないで中国の延辺(かつての間島)へのツアーに参加することになりました。
 槇村浩生誕百周年「間島」をた訪ねる旅です。
 私自身の目的は、「間島 一九三二年三月」という原稿を地元の文学雑誌への原稿を書くためです。
 この詩に関連した原稿です。

 槇村浩「間島パルチザンの歌」
 
 思い出はおれを故郷へ運ぶ
 白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
 蘆の根の黒く凍る沼のかなた
 赭ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
 高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ

 雪溶けの小径を踏んで
 チゲを負ひ、枯葉を集めに
 姉と登った裏山の楢林よ
 山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
 背負(しょい)縄はいかにきびしく食い入ったか
 ひゞわれたふたりの足に
 吹く風はいかに血ごりを凍らせたか

 雲は南にちぎれ
 熱風は田のくろに流れる
 山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
 父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
 目暈(めま)ひのする空き腹をこらへて
 姉と手をつないで越えて行った
 あの長い坂路よ

 えぞ柳の煙る書堂の蔭に
 胸を病み、都から帰って来たわかものゝ話は
 少年のおれたちにどんなに楽しかったか
 わかものは熱するとすぐ咳をした
 はげしく咳入りながら
 彼はツァールの暗いロシアを語った
 クレムリンに燻(くすぶ)った爆弾と
 ネヴァ河の霧に流れた血のしぶきと
 雪を踏んでシベリアに行く囚人の群れと
 そして十月の朝早く
 津波のやうに街に雪崩れた民衆のどよめきを
 ツァールの黒鷲が引き裂かれ
 モスコーの空高く鎌と槌(ハンマー)の赤旗が翻ったその日のことを
 話し止んで口笛を吹く彼の横顔には痛々しい紅潮が流れ
 血が繻衣(チョゴリ)の袖を真赤に染めた
 崔先生と呼ばれたそのわかものは
 あのすさまじいどよめきが朝鮮を揺るがした春も見ずに
 灰色の雪空に希望を投げて故郷の書堂に逝った
 だが、自由の国ロシアの話は
 いかに深いあこがれと共に、おれの胸に泌み入ったか
 おれは北の空に響く素晴らしい建設の轍(わだち)の音を聞き
 故国を持たぬおれたちの暗い殖民地の生活を思った

 おゝ
 蔑まれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
 声なき無数の苦悩を載せる故国の土地!
 そのお前の土を
 飢えたお前の子らが
 苦い屈辱と忿懣(ふんまん)をこめて嚥(の)み下すとき??
 お前の暖かい胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
 うなだれ、押し黙って国境を越えて行くとき??
 お前の土のどん底から
 二千万の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!

 おゝ三月一日
 民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
 無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
 一九一九年三月一日を忘れようぞ!
 その日
「大韓独立万歳!」の声は全土をゆるがし
 踏み躙られた××(日章)旗に代へて
 母国の旗は家々の戸ごとに翻った

 胸に迫る熱い涙をもっておれはその日を思ひ出す!
 反抗のどよめきは故郷の村にまで伝はり
 自由の歌は咸鏡の嶺々に谺(こだま)した
 おゝ、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無数の列よ!
 先頭に旗をかざして進む若者と
 胸一ぱいに万歳をはるかの屋根に呼び交はす老人と
 眼に涙を浮べて古い民衆の謡(うた)をうたふ女らと
 草の根を噛りながら、腹の底からの嬉しさに歓呼の声を振りしぼる少年たち!
 赭土(あかつち)の崩れる峠の上で
 声を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
おれは決して忘れない!

 おゝ
 おれたちの自由の歓びはあまりにも短かゝった!
 夕暮おれは地平の涯に
 煙を揚げて突き進んでくる黒い塊を見た
 悪魔のやうに炬火を投げ、村々を焔の×に浸しながら、喊(かん)声をあげて突貫する日本騎馬隊を!
 だが×(焼)け×(崩)れる部落の家々も
 丘から丘に炸裂する銃弾の音も、おれたちにとって何であらう
 おれたちは咸鏡の男と女
 搾取者への反抗に歴史を×ったこの故郷の名にかけて
 全韓に狼煙を揚げたいくたびかの蜂起に×を滴らせたこの故郷の土にかけて
 首うなだれ、おめおめと陣地を敵に渡せようか

 旗を捲き、地に伏す者は誰だ?
 部署を捨て、敵の鉄蹄(てつてい)に故郷を委せようとするのはどいつだ?
 よし、焔がおれたちを包まうと
 よし、銃剣を構へた騎馬隊が野獣のやうにおれたちに襲ひ掛からうと
 おれたちは高く頭を挙げ
 昂然と胸を張って
 怒濤のやうに嶺をゆるがす万歳を叫ばう!
 おれたちが陣地を棄てず、おれたちの歓声が響くところ
 「暴圧の雲光を覆ふ」朝鮮の片隅に
 おれたちの故国は生き
 おれたちの民族の血は脈々と搏(う)つ!
 おれたちは咸鏡の男と女!

 おう血の三月!??その日を限りとして
 父母と姉におれは永久に訣(わか)れた
 砲弾に崩れた砂の中に見失った三人の姿を
 白衣を血に染めて野に倒れた村びとの間に
 紅松へ逆さに掛った屍の間に
 銃剣と騎馬隊に隠れながら
 夜も昼もおれは探し歩いた

 あはれな故国よ!
 お前の上に立ちさまよふ屍臭はあまりにも傷々しい
 銃剣に蜂の巣のやうに×き×され、生きながら火中に投げ込まれた男たち!
 強×され、×を刳(えぐ)られ、臓腑まで引きずり出された女たち!
 石ころを手にしたまゝ絞め××(殺さ)れた老人ら!
 小さい手に母国の旗を握りしめて俯伏した子供たち!
 おゝ君ら、先がけて解放の戦さに斃れた一万五千の同志らの
 棺(ひつぎ)にも蔵められず、腐屍を兀鷲(はげわし)の餌食に曝す躯(むくろ)の上を
 荒れすさんだ村々の上を
 茫々たる杉松の密林に身を潜める火田民(かでんみん)の上を
 北鮮の曠野に萠える野の草の薫りを籠めて
 吹け!春風よ!
 夜中、山はぼうぼうと燃え
 火田を囲む群落(むら)の上を、鳥は群れを乱して散った
 朝
 おれは夜明けの空に
 渦を描いて北に飛ぶ鶴を見た
 ツルチェクの林を分け
 鬱蒼たる樹海を越えて
 国境へ??
 火のやうに紅い雲の波を貫いて、真直ぐに飛んで行くもの!
 その故国に帰る白い列に
 おれ、十二の少年の胸は躍った
 熱し、咳き込みながら崔先生の語った自由の国へ
 春風に翼(はね)を搏(う)たせ
 歓びの声をはるかに揚げて
 いま楽しい旅をゆくもの!
 おれは頬を火照らし
 手をあげて鶴に応へた
 その十三年前の感激をおれは今なまなましいく想ひ出す

 氷塊が河床に砕ける早春の豆満江を渡り
 国境を越えてはや十三年
 苦い闘争と試練の時期を
 おれは長白の平原で過ごした
 気まぐれな「時」をおれはロシアから隔て
 厳しい生活の鎖は間島におれを繋いだ
 だが かつてロシアを見ず
 生まれてロシアの土を踏まなかったことを、おれは決して悔いない
 いまおれの棲むは第二のロシア
 民族の墻(かき)を撤したソヴェート!
 聞け!銃を手に
 深夜結氷を越えた海蘭(ハイラン)の河瀬の音に
 密林の夜襲の声を谺した汪清(ワンシン)の樹々のひとつひとつに
 ×(血)ぬられた苦難と建設の譚を!

 風よ、憤懣の響きを籠めて白頭から雪崩れてこい!
 濤よ、激憤の沫(しぶ)きを揚げて豆満江に迸(ほとばし)れ!
 おゝ、××(日章)旗を飜す強盗ども!
 父母と姉と同志の血を地に灑(そそ)ぎ
 故国からおれを追ひ
 いま剣をかざして間島に迫る××(日本)の兵匪!
 おゝ、お前らの前におれたちがまた屈従せねばならぬと言ふのか
 太てぶてしい強盗どもを待遇する途をおれたちが知らぬといふのか

 春は音を立てゝ河瀬に流れ
 風は木犀の香を伝へてくる
 露を帯びた芝草に車座になり
 おれたちはいま送られた素晴らしいビラを読み上げる
 それは国境を越えて解放のために闘ふ同志の声
 撃鉄を前に、悠然と階級の赤旗を掲げるプロレタリアートの叫び
 「在満日本××(革命)兵士委員会」の檄!

 ビラをポケットに
 おれたちはまた銃を取って忍んで行かう
 雪溶けのせゝらぎはおれたちの進軍を伝へ
 見覚えのある合歓(ねむ)の林は喜んでおれたちを迎へるだらう
 やつら!蒼ざめた執政の蔭に
 購はれた歓声を挙げるなら挙げるがいゝ
 疲れ切った号外売りに
 嘘っぱちの勝利を告げるなら告げさせろ
 おれたちは不死身だ!
 おれたちはいくたびか敗けはした
 銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした
 だが
 密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!
 十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!
「生くる日の限り解放のために身を献げ
 赤旗のもとに喜んで死なう!」
「東方××(革命)軍」の軍旗に唇を触れ、宣誓したあの言葉をおれが忘れようか
 おれたちは間島のパルチザン。身をもってソヴェートを護る鉄の腕。生死を赤旗と共にする決死隊
 いま長白の嶺を越えて
 革命の進軍歌を全世界に響かせる
 -海 隔てつわれら腕(かいな)結びゆく
 -いざ戦はんいざ、奮い立ていざ
 -あゝインターナショナルわれらがもの・・・・・・

 一九三二・三・一三

 (原文は『プロレタリア文学』臨時増刊、四・一六、第五回大会紀念号掲載)

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その二 えっ、「♪クロパトキンの首を取り 東郷大将 万々歳」。

 二〇一二年九月一日、土曜日。晴れ。
 午前五時、高知駅北口をマイクロバスで出発。合計十八人。

 高知大学の一年生のとき、私は高知市出身の反戦詩人・槇村浩(まきむらこう)の詩集を読んで「こんな詩人がいたのか。そして、彼は、その思いを貫いて死んでいったのか」と背筋がゾクッとするような感動を覚えました。
 あれから数十年。私は、彼の詩の一つ、「間島パルチザンの歌」の舞台、いまの中華人民共和国吉林省の延辺(イェンビェン)朝鮮族自治州への高知市からのツアーの一員になっていました。
 延辺朝鮮族自治州は、こんな所だといいます。
 旧称・間島。総面積、四万三千四百七十四平方キロメートル。人口、二〇〇九年で二百十八万七千万人。六県級市・二県を管轄しています(延吉市、図們市、龍井市、琿春市 、和龍市、敦化市、汪清県、安図県)。州人民政府所在地は延吉市。現在、全人口のうち漢族が過半数以上の五九%を占め、朝鮮族の割合は三九%に低下しています。
 西南部に白頭山(標高・二六九一メートル)がそびえ、この山から流れ出る豆満江を境にして北朝鮮の咸鏡北道と接し、東部はロシアの沿海地方、北部は黒竜江省牡丹江市と接します。西部は同じ吉林省の吉林市と通化市です。
 古代の高句麗、渤海の故地であり、敦化市には渤海初期の都城・東牟山がありました。渤海の壁画古墳として名高い六頂山貞恵公主墓(敦化市)はこの時代の遺跡です。渤海の都は、その後、上京竜泉府(黒竜江省牡丹江市)に遷ったが、自治州内には東京龍原府(琿春市)、中京顕徳府(和龍市)が置かれていました。渤海滅亡後は女真の領域となり、明代には建州衛が置かれました。
 清代後期に延吉庁と琿春庁が置かれ、満州国時代には間島省が設置されました。
 高句麗の以前から満州族の住まう土地でしたが、清代に入ると、この地を満州族の聖地と見なし一般人の出入りが禁じられました。そのため人口密度が極端に低い状態が続き、そこへ貧困から当地に密入国する朝鮮族が増え不法に定住を始めました。清政府は、その対策として取締りの強化と、この地への中国人の移動を許可するにいたりました。
 満州国時代になると日本への不法移住朝鮮人の受け皿として、この地がその役割を果たすこととなりました。
 日本統治下において、日本本土への渡航を禁止された朝鮮人の大半は本土への不法移住から満州国へと流れました。この時期には合法・不法問わず多くの朝鮮人が移住をおこなっています。
 中華人民共和国が成立すると、一九四九年に吉林省延辺専区が設けられ、一九五二年に延辺朝鮮族自治区となり、一九五五年には延辺朝鮮族自治州となりました。一九五八年に敦化県(当時)を併せて拡大されました。文化大革命時期には州長であった朱徳海(朝鮮族)が「地方民族主義の金持ち」として紅衛兵に迫害され、死亡したこともあります。

 マイクロバスのなかで僕と同じ学年の女性と一つ学年が下の女性が小学生のときの手まり歌のことを話していました。

 一列談判破裂して
 日露戦争はじまった
 さっさと逃げるはロシアの兵
 死んでも尽くすは日本の兵
 五万の兵を引き連れて、

 六人残して皆殺し
 七月八日の闘いに
 ハルピンまでも攻め寄せて
 クロパトキンの首を取り
 東郷大将 万々歳

 この歌の背景は日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)です。
 クロパトキンはロシア軍の将軍です。
 日本軍は、ハルピンに近い奉天まで攻め込みます。
 東郷大将は、東郷平八郎大将のことです。
 私たちの子どものころには、「戦争」がまだ生々しいものとして残っていたのですね。

 関西国際空港で二人合流。
 午後、日本からのツアー二十人は長春空港に着きました。
 案内役の韓国の作家・戸田郁子さんが迎えに来てくれていました。
 中国人の男性のガイドでバスから長春市を見てまわりました。
 ここは日本が満州国をつくったときの首都でした。日本は、ここに関東軍をおきました。
 まず、満州国について書いておきます。
 満州は 、女真族(後に満州族と改称)の支配区域でした。
 満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)があります。
 清朝滅亡(一九一二年)後は中華民国の領土となりました、事実上、軍閥の支配下に置かれました。
 一九三一年、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)が満洲全土を占領しました。
 関東軍の主導のもとに同地域は中華民国からの独立を宣言し、一九三二年三月一日、満洲国の建国にいたりました。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀がつきました。

 槇村浩さんの、くだんの詩が生まれたのが「 一九三二・三・一三」ことに注目を。

 男性のガイドさんによると、ここの市の花は、クンシランだそうです。
 「アフリカ原産ですが、ここには満州国時代に日本から入ってきました」
 いろんな日本の施設だった所を教えてくれました。
 関東軍の拉々屯(ららとん)戦車部隊。
 関東軍の一〇〇部隊。「細菌部隊ですチフス、コレラの試験をやっていました」。
 協和会本部。
 関東軍司令部。
 関東軍の憲兵司令部。
 ……………

 初日の宿泊地。長春の金都飯店に到着。ツアーの一人は若い女性の観光案内の人と、かつて自分が住んでいた家を探しにいきました。
 戸田さんの夫、東京都からのツアー客も加わって総勢三十人に。

 反省会あり。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その三 長春市の偽満皇宮博物院を見学。

 二〇一二年九月二日、日曜日。晴れ。
 長春市にいます。
 午前六時、起床。
 長春市の偽満皇宮博物院を見学。
 満州国の宮殿が保存されていて、そのほかに資料館もあります。
 宮殿に関東軍の憲兵隊の部屋があったのにびっくりしました。
 資料室では関東軍の細菌部隊のもの、皇紀二千六百年のポスターに関心を持ちました。
 露店でホウヅキの実を買いました。
 あっさりしておいしい。
 長春市から延吉へ。大型バスで七時間。
 車中で三十人の参加者の自己紹介。
 満州生まれの人が四人、朝鮮生まれの人が二人いました。

 延辺朝鮮族自治州の州都の延吉の大洲飯店泊。
 反省会あり。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その四 吉林省延辺朝鮮族自治州成立六十周年です。

 二〇一二年九月三日、月曜日。曇り。

 延吉市にいます。
 午前五時五十分、起床。
 本日は吉林省延辺朝鮮族自治州成立六十周年です。

 統一協会の文鮮明氏が亡くなったというニュースを知りました。
 大学の二年生の時、一学年下の女性が、このグループの執拗な誘いを受けました。学生会館の一室で説得されている所を乗り込んで邪魔しました。しかし、彼女は、ついには彼らの合宿に参加するということに。そのとき、彼女が乗った電車に乗り込んで説得し、やっと断念させました。もし、彼女が、そのまま合宿にいっていたら、彼女の運命は、どうなっていたでしょうか。

 朝食はホテルのバイキング。
 客がいなくなった丸テーブルを片づけるやりかたを見て「わおーっ」。
 ・まず丸テーブルには薄紙が何枚もかさねられています。
 ・ボーイは、客の食べ残しを皿から次々とテーブルの真ん中に積み上げます。
 ・皿を片づけます。
 ・つぎにテーブルの上の食べ残しを上のはしの薄紙ごと丸めてもっていきます。
 ・それでテーブルはきれいになります。

 貿易の展示会に行きました。
 たむろしていると青年が、日本語で話しかけてきました。
 東京の大学に留学していたそうです。
 この展示会には、鳥取や新潟の酒造メーカーも出店していました。
 
 夜は朝鮮料理。マツタケも出ました。マシッソヨ。
 その後、朝鮮の歌劇を鑑賞しました。

 大洲飯店泊。

 反省会がありました。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その五 龍井(りゅうせい)の歴史から。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。
 延吉市にいます。
 朝、ホテルで食事をしていたら男性が日本語で「日本からこられましたか」。
 一九三二年生まれ、ここ延辺の人で、東京の大学に留学していたことがあるとのことです。高知にも二回行ったことがある、娘は、つくば市で薬品会社の研究員をしているということでした。

 テレビで川崎市の藤子富士夫の資料館のニュースを放映していました。

 本日は、龍井(りゅうせい)市は人口約二十七万千三百人。うち朝鮮族は、六七・一%。
 ここで龍井の歴史をまとめておきます。

 [龍井の歴史から]

 一八五六年から朝鮮人たちは龍井に定着を始めました。
 一九〇五年九月、日露戦争でロシア軍をやぶった日本軍が龍井三合の対岸の会寧(いまは北朝鮮)に進入。
 一九〇五年十月、会寧に日本軍守備隊が進駐。
 一九〇五年十二月二十一日、第二次日韓協約にもとづいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国は漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府(かんこくとうかんふ)を設置しました。韓国統監は韓国に駐剳する軍(韓国守備軍)の司令官に対する指揮権を有していました。初代総監は、伊藤博文。
 一九〇六年、リーサンソンが、龍井に瑞旬書塾(ソデンショジュ)という学校をつくりました。(この項、要調査)。その後、ここには、たくさんの学校ができました。
 一九〇六年八月、龍井に日本人会が設立。
 一九〇七年八月十九日、朝鮮人保護を名目に斉藤中佐率いる日本軍が龍井に進駐。日本は、龍井村に韓国総監府臨時間島間島派出所を設置。
 一九〇九年九月四日、大日本帝国と清が間島協定を結びます。この協定で、大日本帝国は清の間島領有権を認めます。いっぽう、朝鮮人の間島での居住権、間島総領事館を龍井に開設し警察官を駐在させる権利、吉林と朝鮮の会寧を結ぶ鉄道の施設件を入手します。
 一九〇九年十月二十六日午前、大朝鮮国黄海道海州生まれのキリスト教徒で「大韓義軍」の組織者の安重根(アン・ジュングン。一八七九年九月二日生まれ)が、ハルビン駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤博文・韓国統監に近づき発砲、銃弾三発が伊藤に命中し、伊藤は半時間後に死亡ししました。狙撃後、安重根は ロシア語で「コレヤ ウラー!(韓国万歳)」と叫びました。
 伊藤博文を殺した動機として、安重根は検察官の溝渕孝雄に尋ねられた際、以下の理由をあげました。
 一、今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。
 二、今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。
 三、今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。
 四、伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。
 五、韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。
 六、条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。
 七、韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。
 八、韓国ノ学校ニ用イタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノモトニ焼却シマシタ。
 九、 韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁ジマシタ。
 十、 ナンラアテルベキ金ナキニモカカワラズ、性質ノヨロシカラザル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ、韓国民ニナンラノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテオリマス。
 十一、韓国民ノ負担ニ帰スベキ国債二千三百万円ヲ募リ、コレヲ韓国民ニ知ラシメズシテ、ソノ金ハ官吏間ニオイテ勝手ニ処分シタリトモ聞き、マタ土地ヲ奪リシタメナリトスト聞キマシタ。コレ韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス。
 十二、伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ。ソノ訳ト申スハ、日露戦争当時ヨリ、東洋平和維持ナリト言イツツ、韓皇帝ヲ廃シ、当初ノ宣言トハコトゴトク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ、韓国民二千万ミナ憤慨シテオリマス。
 十三、韓国ノ欲セザルニモカカワラズ、伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ借リ、韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通ジ、韓国ニ不利益ナル施設ヲ致シテオリマス。
 十四、今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
 十五、伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。
 一九〇九年十一月二日、大日本帝国は、龍井に間島日本総領事館を設置。代表総領事に鈴木要太郎。局子街(いまは延吉)に間島日本領事館分室に置きます。
 一九一〇年三月二十六日、安重根の死刑が執行されます。
 一九一〇年五月、延吉市局子街日本人会が設立されました。
 一九一〇年十月一日、大日本帝国は、韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するための官庁・朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)をつくりました。庁舎は京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮敷地内に設置しました。韓国統監府を前身とし、旧大韓帝国の政府組織を改組・統合したため朝鮮人職員を多く抱えていましたが、枢要なポストはほぼ日本人が握っていました。初代総督は寺内正毅さん。総督は現役または予備役の陸海軍大将が歴任しました。朝鮮総督は天皇によって勅任され、委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を行使したり、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権や王公族および朝鮮貴族に関する多岐な権限を持っていました。
 一九一一年二月、会寧に日本風の町名・本町、銀座通り、大川町、明治村、栄町、若松町、旭町、敷島町、六和町、祝町、北新地。日本人の数は八百五十余人(一九一三年四月現在)。
 一九一七年、ロシアで十月革命が勃発しました。
 龍井は、抗日運動の中心地でもありました。
 一九一九年三月一日、朝鮮で三・一運動がおこります。この日午後、仁寺洞の泰和館(テファグァン)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げ、万歳三唱をしました。参加者は、三十三人。この三十三人は逮捕されたものの、本来、独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後、市内をデモ行進しました。道々、「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったといいます。以降、運動は朝鮮半島全体に広がり、数か月にわたって示威行動が展開されました。これに対し、朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たりました。
 それに呼応して龍井では三月十三日、三・一三デモがおこなわれました。
  一九二〇年一月四日、東陽里で「奪取十五万元事件」がおこります。
 一九二一年七月二十三日、中国共産党が生まれます。
 一九二八年二月、中国共産党龍井村支部ができます。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その六 龍井の朝鮮銀行龍井出張所跡を見ました。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 龍井の朝鮮銀行龍井出張所跡を見ました。
 朝鮮銀行は、日本の特殊銀行の一つです。
 近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、一八八四年以後、日本の第一銀行韓国総支店に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになりました。一九〇二年以降、大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化しました。
 第一次日韓協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎない第一銀行が外国の中央銀行業務をおこなっていることを問題視して伊藤博文・韓国統監と相談した結果、一九〇九年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立された韓国銀行条例(韓国法)にもとづく中央銀行・韓国銀行が設立されて、第一銀行から中央銀行業務を取り上げました。その韓国銀行は日韓併合後の一九一一年には朝鮮銀行法(日本法)にもとづく特殊銀行として朝鮮銀行と改称されました。
 日本軍とともに占領地へ進出したため朝鮮以外に内地および満州、中国北部およびシベリアに支店等を持ちました。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その七 「奪取十五万元事件遺址」

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 東陽里の低い丘の下に「奪取十五万元事件遺址」(龍井市三・一三紀念事業会。一九九〇年六月三十日)の石碑がたっています。
 これは、一九二〇年一月四日の事件です。
 これについては「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「13」に書いてありますので、それの一部を引用させていたただきます。

  “今はこんなにポプラが立っているが、昔は柳が生えていました。すぐそこに東陽村があり、村には結構居酒屋もありました。”

 龍井“3.13”記念事業会会長で龍井抗日歴史研究会会長である崔根甲先生は、村があった所を示した。廃村になった場所には木と雑草が茂っているだけだった。

 “<3.13>運動で犠牲になった同志らが仇討ちして民族の独立を勝ち取ろうと思えば、武器がなければならないということを骨身にしみるように感じた鉄血光復団のメンバーたちは、寝ても覚めても武器を揃えなければならないという考えでした。”

鉄血光復団メンバーである崔鳳卨、林国楨、韓相浩は武器を揃えるためにロシアに渡る決心をした。ここに彼らの父親たちは小牛を売って旅費を用意してくれた上、何としても鉄砲を手に入れて来なさいと鼓舞してくれたりした。

 ロシアに渡った三人は、労働者として資金を稼いだ。お金になる事ならどんなことも厭わなかった。武器を買うためにコツコツとお金を貯めながら、大変な苦労を経験した。お金が集まると彼らは拳銃4丁、長銃2丁、手榴弾いくつかを買って帰郷した。

 “3.13”運動以後、延辺各地では反日武装団体が雨後の竹の子のように設立された。彼らは武装の根拠地を設けて軍事訓練所、士官養成所のようなところを大量に設立、軍事人材を養成する一方、民間にある猟銃などを取り入れて素早く武装し始めた。

 このような時にシベリアでソ連社会主義革命に武力で干渉しようと攻め寄せたチェコ軍団が敗れ、本国に帰るようになった。彼らは長銃一本と弾薬100個を日本円30円で叩き売りしていた。これは軍資金さえ手に握れば勝手に武器を購入することができる絶好の機会に違いなかった。

 1919年夏、延辺地域の有志たちは、軍資金を集めて国民議会軍事部長で鉄血光復団幹部である金河錫に与えて武器を購入してくれるよう頼んだ。そして2000丁余りの鉄砲と数十万発の弾丸を購入することになった。ところが運輸途中、武器を積んだ船が台風に会って沈没したため、惜しくも武器が全て海に沈んでしまった。このような災いの責任を負わなければならなかった金河錫は、延吉県臥龍洞にある鉄血光復団メンバーの崔鳳卨に、早急に軍資金を用意する方法を講じるように指示した。

 鉄血光復団メンバーの崔鳳卨、尹俊熙、林国楨らは、早い期日内に軍資金を得るためには日本銀行を襲う方法しかないと口を揃えた。そのためには金融機関にいる朝鮮族と渡りをつけなければならなかった。彼らは日本の金融機関の活動を綿密に調査する中で、国民会会員である全弘燮が朝鮮銀行龍井出張所の書記として働いていることを知った。尹俊熙は全弘燮に龍井村キリスト教病院裏の共同墓地で会おうという手紙を出した。約束した時間に尹俊熙は林国楨と共に全弘燮に会って、幹部の指示と軍資金募金の情況を紹介した後、“日本の奴らが会寧から龍井銀行に送る銀行券輸送金額とその具体的な時間さえ分かれば、軍資金募集はとても手軽に解決できる”と言った。

 これに対して全弘燮は自分も奴らの銀行券輸送に何回か立ち会ったことがあるとして、情報を収集したら直ちに連絡すると答えた。

 そして1919年12月大晦日、全弘燮はついに重要な秘密を知った。偶然な機会に龍井出張所所長の渋田五郎が武田次郎と話すのを立ち聞きしたところ、新年1月4日もしくは5日頃に会寧から約15万元の現金を輸送して来るとのことだった。全弘燮は直ちに崔以鵬の舅である金夏奎を通じて、崔以鵬に極秘情報を伝えた。

 1920年1月1日、全弘燮の極秘情報を受けた崔以鵬は即時に尹俊熙を訪ねた。“先日、貴兄から依頼された事が1月4~5日にある由”という内容の文が書かれたメッセージはあまりにも突発的で激動的だった。尹俊熙と崔以鵬は興奮して臥龍洞にある金河錫の家へ走って行った。全弘燮のメッセージを受けた金河錫は、尹俊熙と崔以鵬に、次に明東にいる金ケハの家を訪ねて、そこに待機している朴雄世と金俊に会い、行動計画を綿密に組むように指示した。 1月3日、尹俊熙、金俊、朴雄世、崔以鵬、韓相浩、林国楨ら6人は、金ケハの家に集結、襲撃計画を立てた。襲撃地点を東陽里に決めて行動に便利なように六人を二組に分けた。

 1920年1月4日、家々の煙突から遅い朝の煙がゆらゆらと立ち上り、時々割れるような音が平和に聞こえて来る東陽里村は、今日に限って不意にのんびりしたように見える。

 拳銃、早繩、鉄棒を携帯して明東村を発った六人は、獅子山と立岩を眺めながら今日の大仕事が成功すると固く信じた。夕方頃には東陽里に到着した彼らは、漢族のリュウ・チュングィ、リ・スオクが経営する居酒屋に入って食事をした後、二組に分かれて表通りのそばの柳の木に隠れ、送金隊伍が現れるのを待った。1時間が経ったのに銀行券輸送隊は現われない。大地を闇が包み始めた。

 4日もしくは5日というから、もしかしたら明日来るのではないか。明日また来て待たなければならないのか。隊員たちは寒さの中でどうしたらよいか分からず、うろうろしてばかりいた。尹俊熙は崔以鵬に一人は見張りとしてずっと柳の木で待つようにし、朴雄世、金俊と一緒に会寧方向で偵察に行った。半時間後、尹俊熙一行は、荷物を積んだ馬を先に立たせた敵方の輸送隊を見付けた。

 “輸送隊に間違いない!金俊さん、はやく崔以鵬に知らせて下さい!”

 尹俊熙は簡単に言い付けて朴雄世と一緒に道の傍らに待ち伏せた。金俊から消息を受けた崔以鵬一行は、すぐに戦闘態勢を整え、敵方が来る方向に向けて身構えた。

 何も知らない敵方の輸送隊は、ふんぞり返ったまま東陽里に入った。 100m、 50m、 30m... 輸送隊であることがますますはっきり判ってきた。銀行券を積んだ馬が先頭になり、その後に郵便物を積んだ馬が続いていた。一行は全部で6人、龍井から派遣した銀行員の春口、会寧銀行支所書記の金ヨンオク、日本巡査の長友、朴ヨンフブ、商人のチン・キルブンその外に郵便員の原柏だった。郵便物を積んだ馬と銀行券を積んだ馬を先に立たせ、その後にチン・キルブンと長友巡査が馬に乗って続き、少し離れたところを春口銀行員と朴巡査、一番後ろを原柏が付いて来ていた。

 “ダン!ダン!”

 冬の夜の静寂を破り、高い銃声が鳴り渡った。尹俊熙の射撃信号だった。隊員たちは一斉に日本巡査護送隊に向けて集中射撃を浴びせた。最前で馬に乗って来た日本巡査と商人チン・キルブンが鉄砲に撃たれ、馬の上に倒れ込んだ。襲撃隊員たちは猛虎のように柳の木陰から飛び出し、肝をつぶしてどうしたらいいか分からない敵方を攻撃した。馬から落ちた日本巡査の長友が最後のあがきをしたが、朴雄世と金俊の鉄棒に殴られ、即死した。そこで銃声に驚いた馬がいななき、走り去っていった。

 “早く馬を捕まえて下さい!”

 尹俊熙は叫びながら銀行券を積んだ馬を捕まえた。崔以鵬も駆けつけて郵便物を積んだ馬を取り押さえた。尹俊熙と崔以鵬は15里離れた山の中で馬を止めた。少ししてから、韓相浩が駆けつけた。馬に載せた黒い袋を開けた瞬間、三人は歓声を挙げた。10元紙幣が5万元、 5元の紙幣が10万元、全部で15万元の新しいお金がギッシリと詰まっていたのだ。

 三人はお金を分けて五道溝を経て海蘭江を渡った後、朝陽村を経由して布爾哈通河を渡り、会合地点である臥龍洞に到着するつもりだった。一方、朴雄世と金俊は襲撃地点から自分たちの足跡を隠すために郵便物を積んだ馬を駆って尹俊熙一行が去った反対方向に逃走した。

 一行は苦しい強行軍にて夜明け3時頃には臥龍洞に到着した。彼らは臥龍洞の崔以鵬宅の裏山の茂みの中の丸太小屋で夕方8時までぐっすりと寝た後、お金を積んで金河錫のいる依蘭溝へ出発した。依蘭溝ですべての準備を整えた尹俊熙、崔以鵬、韓相浩、林国楨ら4人は、金河錫と一緒に1月10日、資金を持って武器を購入するためにウラジオストクに向けて出発した。

 事件の勃発した後、日本側は血眼になって捜索した。 1月5日、龍井駐在日本領事館では盗難事件を解決しようと数百人の中国・日本の警察を派遣して朝鮮族人民を検挙逮捕した。 1月6日、日本は日本警察36人と地方巡査57人を動員し、臥龍洞を捜索しながら盗難事件の糸口を掴むようになった。そして崔以鵬の足跡を捜して四方に捜索網を広げたが、崔以鵬一行は既に敵方の追跡から逃れた後だった。

 日本が尹俊熙一行を逮捕するために悪戦苦闘している時、彼らは新韓村に泊まっており、武器商たちと連繋を結び始めた。仕事が順調に進められるだけ持って来たお金で、3万丁余りの鉄砲を買うことができた。

 武器購入の責任者である林国楨が親交のある厳仁燮を訪ね、武器購入について詳論したことが結局禍根になってしまった。厳仁燮は変節してウラジオストクの反日闘争隊伍に隠れ、日本の子分役をしていたのだ。厳仁燮はまんまとウラジオストクにある日本憲兵隊に状況を密告してしまった。

 日本政府は憲兵隊の情報提供受けた後、直ちに朝鮮羅津港から日本海軍の軍艦をウラジオストクに派遣した。朝鮮人反日闘士たちを一網打尽にする緻密な計画を立てた日本は、1月31日夜、新韓村を大々的に検挙し始めた。

 尹俊熙らは武器交渉のために宴会を開き、楽しく酒を飲んで横たわるやいなや夢の中に落ちてしまった。真夜中、犬が体が縮むような声で鳴くので目が覚めた。一行は騒がしい外の様子にハッとして準備したが、時は既に遅かった。全身武装した日本の軍警たちが、既に彼らが投宿していた朴チャムボンの家を完全に取り囲んでいたのだ。尹俊熙、韓相浩、林国楨はむっくり起き上がって裏門から抜けようとした。急に前後のドアがぐいぐいと開かれるや、真っ黒な銃口が彼らに向けて差し込まれた。三人はどうすることも出来ずに逮捕されてしまった。

 隣部屋のドアの傍で寝ていた崔以鵬が、事態の重大性を把握、門を開けるや、前に立っている日本軍を足で蹴飛ばした後、駆け付けながら背丈より高い垣根を飛び越えた。日本軍憲兵たちが崔以鵬に向けて集中射撃を浴びせた。右側の肩に銃弾を受けた崔以鵬は、傷から流れ出る赤い血を片手で押えながら、裸足でずっと走った。すくせに今度は左の足にまた傷が出来た。何回も目の前が真っ暗になるのを堪えながら、ひたすら走った。崔以鵬は反日秘密工作員である蔡聖河の家を訪ねた。

 この事件により現場にあった日本円12万8000円余りを押収され、ウラジオストクに駐屯していた 500人の朝鮮族反日闘士たちも全部逮捕されてしまった。

 1921年8月25日、日本はソウル監獄で尹俊熙、韓相浩、林国楨に死刑を言い渡し、残酷に殺害した。この時、尹俊熙は30歳、韓相浩は23歳、林国楨は27歳だった。

 九死に一生を得て生き残った崔以鵬はその後、“赤旗団”を結成した後、団長職務を引き受けてソ連と延辺で武装闘争を展開した一方、地下工作を続けた。 

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その八 間島日本総領事館を見ました。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 龍井市政府庁舎にあるレンガづくりの間島日本総領事館を見ました。
 これは一九二六年五月に竣工した建物です。

  延辺地域の五か所に分館がおかれました。

 間島日本総領事館の地下一階に拷問室が五つありました。

 若い女性の解説員は「トウガラシを水で溶かして、それを鼻から口から、ずっと流し込むという拷問もありました」と話しました。
 ここについては「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「7」に書いてありますので、それを引用させていたただきます。

 四隅に厳粛なトーチカを配した薄暗い赤い煙瓦の垣根、2mを越えるその赤い垣根に囲まれている美色の建築物-龍井市六道河路869番地、龍井市人民政府事務庁舎として使われているこの建築物こそが、悪名高き間島日本総領事館遺跡地である。(中略)
 1909年9月4日、清を強要して“間島協約”を締結した。日本は吉林から朝鮮会寧に至る吉会鉄道修築権を獲得し、局子街、百草溝、頭道溝、龍井などを日本に開放する商業都市に決め、延辺での領事裁判権を得た。
“間島協約”第2条、第7条の規定により、その年11月1日、日本は龍井に設置した“統監府間島派出所”を“間島日本総領事館”に改称し、本格的な侵略活動を敢行するようになる。
 (中略)豪壮なこの鉄大門の前で前任龍井市文連主席・金在権先生に会い、間島日本総領事館の状況を聞いた。
 “今ご覧になっているこの庁舍は、1922年11月に焼けた後、1924年に着工して1926年に竣工したものです。建築面積は2503平米ですが、垣根に囲まれている敷地は4万 2944平米にもなります。領事館は地下一階まで合わせて3階になったが、中間南側が見ての通り5階で、突出しています。外壁はクリーム色のタイルを付け、屋根はあのように緑色のペンキを塗ったブリキ屋根です。庁舍の後に地下室に降りる門があり、反日闘士たちの取り調べをする監獄でした。今は龍井革命歴史展覧館です。間島日本総領事館は建立されたその日から、延辺地区で悪辣極まりない罪行をやらかしました。そして抗日愛国志士たちによって2度も燃やされて灰燼になりました。”
 間島日本総領事館は、建立初期には代理総領事と副官1人、書記2人、警察署長1人と 16人の警察官だけだった。しかし1920年に韓国統監府から300人の警察を導入し、総領事館に警察部を置いた。同時に10ヶ所余りに警察署を設置、1928年10月2日には日本から100人余りの警察を導入、1931年11月には総領事館警察部に“特殊捜査組”を置き、地下組織の情報を収集して革命勢力を破壊する活動を敢行した。
 “1930年11月の調査によれば、総領事館警察部の管轄下に龍井村、局子街、頭道溝、銅仏寺、老頭溝、八道溝、天宝山、依蘭溝、小子、傑満洞、八道河子、百草溝、涼水泉子、琿春、黒頂子、琿春頭道など18ヶ所に警察署あるいは警察分署を増設しました。1935年5月の統計によると警官は646人でした。”
 1937年11月5日、日本と傀儡満州国が締結した“満州国の治外法権を撤回し、南満鉄道付属地行政権を譲渡することに関する条約”によって、その年12月に“間島日本総領事館”と5つの領事分館及び警察署を撤回した。
 庁舍の後の地下室の扉を開くと、狭い廊下が現れる。何メートルか入って行くと、横に抜けた廊下がまた見えた。廊下の両側には小さな部屋があったが、間房と顧問室だったと言う。(中略)
 政府の持ち物を整備しながら掘り出したという日帝が使った銃刀で取調の時に使った道具が陳列されている三番目の部屋に入ってみると、なんとなく緊張して心細かった。天井にぶら下っている“鎖”は真っ黒な錆びが付いていたが、見るだけで鳥肌がぞっと立った。どれだけ多くの反日闘士たちの手首や足首がそこに縛られたのであろうか。どれだけ多くの革命者たちがこの刑場の露と消えたのであろうか。
 “1921年から1937年までの16年間、間島総領事館所属の警察署で朝鮮族反日闘士を2万8245人逮捕したが、なかでも女性が1121人でした。各種の刑罰を受けた人は1万 6949名にもなります。 <9.18>事変以後である1934年一年の例だけ見てもすごいです。1年間に3635人が逮捕され、その時延辺に住む朝鮮族が42万6000人余りだったので、人口比を計算すれば170名のうち1人が逮捕されたことになります。総領事館でいかにすればボイラー室まで監獄として設置しなければならなかったのでしょうか?ボイラー室も足らず、今度は清津監獄に搬送しました。
 1930年第4次共産党事件の時には300人余りの革命者がソウル西大門監獄に搬送されて行ったりしました。”
 延辺大学歴史学教授・朴昌昱先生はまだ発表していない“1907年- 1945年日本帝国主義の統治下に延辺の朝鮮族人民たちが受けた被害情況”という論文原稿を手渡し、悲痛に語った。論文原稿によれば、1907年から1945年の間に間島日本総領事館の指揮下で日本は延辺地区で朝鮮族反日軍民4万名余りを殺害し、3万8000人余りを逮捕拘留した。そのうちでも反日関係者が1万165人だ。 1920年10月9日から12月末まで、日本帝国主義者たちが延辺の朝鮮族反日武装闘争を押えるために展開した大討伐を、朴教授はこの論文で次のように叙述している。
 “日本は侵略軍2万名余を動員し、<庚申年大討伐>を敢行した。その大討伐で日本の侵略者たちは野獣性を余すところなく発揮し、三光政策(全て殺し、全て焼き払い、全て略奪する)を遂行した。その討伐を人々は<間島惨変>と言う。討伐で反日軍民2600人余りが殺害された。”
 間島日本総領事館では、1919年3月13日、当地の軍閥と結託して“3.13”反日デモを弾圧し、1930年5月には延辺の人民が発動した“赤い5月闘争”を弾圧した。 1931年9月20日には、八道河子の小明堂で機関銃で12人の壮青年を殺害し、死骸を家に入れて火をつけて燃やしてしまった。
 1932年4月2日には侵略軍第19師団が延辺に立ち寄り、“千名を誤殺しようとも共産党を一人も逃すな”と叫び、野蛮なホロコーストを敢行して4000人余りを殺害した。間島日本総領事館の指揮下で敢行された罪行はそれ以外にもどれだけ多いのか、数え切れない。
 “間島日本総領事館では、龍井に皇民教育を施す初等学校を建てた後、局子街、頭道溝、百草溝等に分校を増築した。領事館では生活費、教科書、寮を供給してくれるなどの手段で多くの朝鮮族学生たちを誘引し、引き入れました。第1期卒業生の中で40%が日本巡査か警察職員になったことだけ見ても、これらの学校で親日分子養成を主眼としたということが分かりますね。事実が証明するように、日本が間島総領事館を設置したのは侵略の勢力を拡大するためでした。朝鮮人を保護するというのは口先だけで、事実は朝鮮人を支配するためのもので、朝鮮の殖民統治に脅威を与える反日基地を撲滅するためのものでした。総合的にみて、間島日本総領事館は、延辺を侵略して抗日武装闘争を弾圧し、延辺の豊かな資源を収奪する首脳部でした。”(後略)

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その九 一九二八年二月結成の中国共産党龍井村支部の碑を見ました。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 一九二八年二月結成の中国共産党龍井村支部の碑を見ました。
 つぎのようなことが刻まれていました。
 「延辺最初の党の基礎組織 龍井村支部発祥の地
 一九二八年二月二十八日、中共延辺最初の党支部、龍井村支部は『民声報』社を拠点とすると宣して周東郊を書記に任じた。
 同年八月、満州省委員会の指示・方針によって中共東満区委員会が、周東郊書記、刘建章組織委員、趙志剛宣伝委員で設立し、そのもとに九つの基本支部委員会を設けた。
 龍井は単独の支部で支部書記は周東郊が兼ねた。
 延辺地区の革命闘争は中国共産党の指導のもと、大いに発展した。」
 これについては「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「27」に書いてありますので、それを引用させていたただきます。

 (1921年7月、上海で誕生した中国共産党は、結党前後に)党員幹部を東北に派遣し、革命活動に携わるようにしたが、そのうちには朝鮮族の初の中国共産党員・韓楽然もいた。韓楽然は、1924年春に東北に派遣され、奉天、ハルピン等で事業をしながら青年運動を指導した。
 1927年10月24日、ハルピン道里区で東北第1次中国共産党代表大会が開かれ、中共満州省委が誕生、省党委機関を奉天においた。以後、東北地区に統一的な党機関が存在することとなった。
 1928年の初め、中共満州省委では民衆の土台と革命運動の土台がしっかりしている延辺に中共党員である周東郊を派遣して党組織を建立、発展させる事業をするようにした。そして1928年2月、延辺で初めて中共共産党組織である中共龍井村支部が“民声報”社を拠点として設立された。周東郊が党支部書記を引き受けた。
 “民声報”の漢文版主筆・安懐音は新聞社内の進歩勢力の前で自分の主張をすることができなくなると、1928年夏、辞職して天津に帰った。この機会に周東郊は中共満州省委に陳情して党幹部を派遣してくれるように要求、共産党員・孫ジャミン、李ビョルチョンが派遣され、新聞社に就職した。かくして“民声報”の主筆から責任編集に至るまで全て共産党員となり、“民声報”は実際上、中共龍井村支部の戦闘陣地になった。中共龍井村支部が建立された後、中共北方局では、地方教育部門で北平の該当当局に教員を派遣してくれと要求を申し立てる機会を得て、1928年3 月から6月まで延辺に派遣されて来た北平香山慈幼院の卒業生のうち17人の共産党員と公聴党員を一緒に派遣した。
 延辺に到着した17人の党員、団員たちは、すぐに周東郊と連絡をとり、中共龍井村支部の指導の下で地下建党事業を展開した。かくして1928年7月、各地には基層団支部が立てられるようになった。
 8月には中共満州省委の指示精神によって、中共東満区委が建立された。周東郊が書記を引き受け、組織委員をリュウ・コンジャン、宣伝委員をチョウ・ジガンが引き受けたが、リュウ・コンジャンとチョウ・ジガンはいずれも香山慈幼院の卒業生だった。東満区委を “民声報”社においた。 1928年10月、中共東満区委が再組織されたが、周東郊が書記を引き受け、組織委員を李ビョルチョン、宣伝委員を孫ジャミンが引き受けた。
 中共東満区委とその傘下の党組織では、学校を基本陣地として青年学生たちに革命的道理を宣伝、愛国主義を宣揚しながら積極的な活動を展開した。しかし当時の党事業はただ知識階層だけに局限され、広範な労農大衆に深入することができなかった。 1929年1月15日、中共東満区委書記の周東郊が龍井の国民党特務たちに逮捕され、2月には書記代理であるリュウ・コンジャンも龍井で逮捕された。孫ジャミン、利ビョルチョンら北平から来た党員たちも前後して身を避けて延辺を去ってしまい、中共東満区委は実際上瓦解してしまった。
 1928年12月、国際共産党政治書記局では朝鮮共産党各派が申し込んだ朝鮮共産党中央委員会のテーゼの主要内容は朝鮮共産主義者たちは必ず“派争を乗り越えて少資産階級の垣根を脱して労農民衆を堅固な基盤とするボルシェビキ化した党を再建設”するようにと促求するものだった。
 “12月テーゼ”の精神を受け入れた朝鮮共産党各派は、派争を乗り越えてボルシェビキ化した党を再建するという名分の下にそれぞれ再建設委員会を設けた。
 各派再建委員会は、中国共産党組織と接触しながら東北朝鮮族人民たちの実情に基づいて革命事業をし始めた。しかし広範な朝鮮族人民の闘いは、冒険主義傾向と各派の間の対立によって大きな損失を見た。このような欠点を見出した革命人民たちは、各派再建委員会に徐々に糸口を感じ始め、充分に統一団結されるように民衆運動を正確に指導することができる有力者を捜すのに苦心した。
 中共満州省委では、国際共産党の“一国一党”の原則により、東北にある朝鮮共産主義団体を争取して中国共産党に加入させる事業を展開した。朝鮮族たちは中国管内から中国共産党に先に加入し始めた。
 1927年9月、上海の朝鮮共産党国際連絡部は、“一国一党”の原則により主体的に中国共産党に加入し、中共江蘇省委員会の所属である“法南救韓人支部” を組織し、続いて北京の朝鮮族共産主義者たちも中国共産党に加入して北京支部を設立した。
 1930年1月と3月に中国共産党満州省委では2回にわたって朝鮮共産党各派代表大会を召集し、中国共産党加入問題を討議した。そして李チュンサン、韓ビンらを上海に派遣して、中国共産党加入問題を討議した。そして1930年3月、ハルピンで各派代表たちの協議会があったが、火曜派の金チャンなどの少数人が中共党加入に同意せず、朝共党再建を主張した以外は、大部分の代表は中国共産党加入に賛成した。会議の後、エムエル派は“宣言”を発表し、エムエル派満州総局の解散を宣布し、中国共産党に加入することを表示した。火曜派の東満道幹部たちは、総局の意図如何を問わず先に解散宣言を発表し、中国共産党に加入し始めた。ソサン派は“在満朝鮮人共産主義者同盟”を設立したが、共産主義者同盟は結局“朝鮮革命延長論”であり、“一国一党”原則には合わないという批判を受け、同年8月に解散されてしまった。そして東北での朝鮮共産党は事実上解体されてしまった。
 一方、中共満州省委では、李ワン、李チュンサン、韓ビン、張時雨、金ジェチュン、金キチョルらを各地に派遣し、中国共産党加入を宣伝、彼らの入党手続きを手伝い、各地に中共満州省委の所属で地方党部を設立した。.
 “朝鮮共産満州総局は解散されたが、歴史的意義は大きいです。
 10年間たとえ<朝鮮延長論>、派閥争い、妄動主義の手違いを犯すことはしたが、今後中国共産党の活動に相当な利益を与えたりしました。マルクス・レーニン主義と社会革命思想を手広く伝え、多くの革命群衆団体を生み出しました。これは中国共産党が都市工作から農村工作に入ることができる堅固な基礎を作ることとなりました。1931年以前には東北に党員186人だけだったが、1931年には1700人余りになりました。延辺だけでも党員636人がいるようになり、朝鮮族中国共産党党員は全党員の90%を占めていました。多くの共産主義人材が養成されたが、寧安、密山、穆陵、湯原、盤石等の第1代の県委書記はすべて朝鮮族党員幹部たちでした。
 10年間、数千名の優秀な共産党員たちが養成されたが、李チョルブ(朝共党中央委員)は中共河北省委書記にまでなりました。 <8.18>事変の後、まず朝鮮族地区で遊撃根拠地が作られたのも、朝共党の基礎があったからです。一言で朝鮮共産党満州総局の活動は、中国共産党の東北での発展に大きな役目を果たしました。”
 朝鮮共産党満州総局の役目に対して延辺大学歴史学教授の朴昌昱先生は高く評価した。
 中共東満区委が破壊された後、中共満州省委では朝鮮族共産党員・王耿(原名:文カプソン)を延辺に派遣して党組織を再建させた。
 王耿はまず八道河子(今は徳新郷崇民村)に来て教鞭を取り、身を隠しているチョウ・ジガンを捜し、省委の指示を伝達して党組織再建事業を研究した。王耿は最初は八道河子、大子一帯で事業をした。しかしこの一帯が日本の侵略者たちが龍井から朝鮮へ通じる交通要路のため、憲兵の警戒が厳しいため党事業を展開するには不便で移動が必要になった。チョウ・ジガンは和龍県教育局長のクァン・ジュンオンの支援を得て、王耿を和龍県第二小学校(今は龍井市開山屯鎮光昭小学校)教員に就任させた。王耿は教員の身分で当時、和龍県所在地だった大子で建立された中共延辺特別支部は、2月20日、王耿が教鞭を取っている開山屯へ移した。王耿が書記を引き受け、チョウ・ジガン、李ボクヘ、ヨ・イルピョンが委員を担当した。王耿の積極的な努力で、特別支部は15人の党員に発展し、石建坪、南陽坪、大子、東梁社に基層党支部を置くこととなった。やがて汪清県大坎子にも支部を建立した。
 中共延辺特別支部が建立された後、積極的に党組織を回復する事業を展開すると同時に、延辺の実情に合わせて土地革命を進行し、高利貸反対、租税納付反対、国民党政府で教育権を回収することに反対するなど、スローガンを立てた。
 1930年4月、中共満州省委では、朝鮮族共産党員の朴ユンソ、馬駿を延辺に派遣し、中共延辺特別支部に協力し、“赤い5月闘争”を発動させ、闘争の中で元朝鮮共産党党員たちから選抜し、中国共産党に加入させた。
“赤い5月闘争”の中で元朝鮮共産党党員たちは中共延辺特別支部の指導の下に積極的に闘争に参加し、考察を経て中国共産党に加入した。そして党の組職建設が比較的早く進展した。しかし闘争の中で一部の幹部と組職が暴露され、特別支部メンバーであるチョウ・ジガンらがやむを得ず延辺を去ることになり、特別支部には王耿ひとりだけが残るようになった. 5月中旬、王耿(既に李ワルリョンと改名)、李チャンイル、朱建、李鏞などは延辺特別支部を再組織した。書記そのまま王耿が引き受けたが、彼らは皆朝鮮族だった。
 中共延辺特別支部では大衆を指導して“赤い5月闘争”を展開し、日帝の気炎を挫いていった。しかし日本軍警たちの残酷な弾圧により多くの党員幹部たちが逮捕され、犠牲になった。王耿もやむを得ず延辺を去り、奉天で中共満州省委を訪ねた。
 中共延辺特別支部は朝鮮族の共産主義者たちと広範な朝鮮族大衆を、過去の狭隘な民族主義から脱して中国共産党の指導下に多くの民族人民たちと連携して日本帝国主義と国民党反動統治に反対する闘争へと導き、元朝鮮共産主義者たちが過去の派閥観念を捨て、中国共産党の指導下に中国革命に献身するように導いた。 

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十 詩人・尹東柱(ユンドンジュ)さんの詩「序詩」の石碑。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 龍井中学歴史展覧館を見ました。
 ここの前には龍井の明東村生まれの詩人・尹東柱(ユンドンジュ。一九一七年十二月三十日~一九四五年二月十六日)さんの詩「序詩」の石碑があります。

   空と風と星と詩

 死ぬ日まで 天を仰ぎ
 一点の恥も ないことを、
 葉あいに 立つ風にも
 ぼくは つらくなった。
 星を歌う 心で
 すべての死んでいくものを 愛さなくては
 そして ぼくに与えられた道を
 歩いていかなくては ならない。

 今夜も 星が風にまたたいている。

 彼は、同志社大学文学部英文学科選科在学中の一九四三年七月十四日、治安維持法違反の嫌疑で下鴨警察署に逮捕されました。
 このとき、従弟の宋夢奎さん、同じ下宿の高熙旭さんも逮捕されています。
 尹東柱さんが友人との会話の中で、朝鮮人徴兵や民族文化圧迫などの政策を非難したり、友人に対して朝鮮語・朝鮮史の勉強を勧めたり、朝鮮独立の必要性を訴えたり、民族的文学観を語ったりしたことなどが、民族意識の鼓吹・民族運動の煽動にあたる罪とされました。
 一九四四年二月二十二日、尹東柱と宋夢奎は起訴され、三月三十一日に京都地方裁判所で懲役二年の判決を言い渡されます。
 尹東柱さんと宋夢奎さんは福岡刑務所に収監されました。
 一九四五年二月十六日、福岡刑務所で獄死しました(満二十七歳)。
 ともに投獄された宋夢奎さんも三月十日に獄死しました。
 龍井市明東村で尹東柱さんの生家跡を見ました。
 そこで、現地の学者と出会いました。
 『延辺文学』十月号に槇村浩のことが載るそうです。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十一 龍井(りゅうせい)市の「三・一三反日義士陵」。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 龍井(りゅうせい)市の「三・一三反日義士陵」(龍井市三・一三殉難義士悼念整備委員会。一九九〇年五月十九日 立)。
 裏側につぎのような文章が刻み込まれ、犠牲者十七人の名前が続いていました。
 「一九一九年三月十三日、延辺地区の朝鮮人民が、日本帝国主義の朝鮮、中国への侵略政策に抵抗して反日デモに立ちあがった。民族独立の民衆の最初の革命闘争である。」 
 三・一三運動によって武装闘争をしなければならないという機運がたかまりました。 それ以前は武器は持つな、まず抗議の声をあげよう、電話線を切る、電気をとめるといった行動を続けてきました。
 三・一三運動と、それへの弾圧をきっかけに、間島で武装闘争で日本帝国軍隊を追い出そうという運動が始まりました。
 一九一九年に、そういう動きが起こって一九二〇年代にそうした動きがたかまりました。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十二 “五卅暴動”指揮部址を見ました。

二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 「“五卅暴動”指揮部址」(龍井市人民政府建立。二〇一〇年五月三十日)を見ました。五卅は、五月三十日です。

 「中國網 china.com.cn」に、こんな解説が出ていました。

 延邊北韓族五卅暴動是延邊北韓族人民反帝反封建的鬥爭。1930年5月30日,中共延邊黨組織發動延邊的龍井,頭道溝、大拉子、南陽坪、湖泉街、開山屯、石建坪、延吉、老頭溝等地群眾舉行了暴動,以圖搗毀當地反動機關。一夜間,炸毀龍井發電所,燒燬東洋拓殖會社間島出張所,襲擊日本領事館,破壞天圖鐵路的橋梁等,並打死許多日本警察。同時,襲擊軍閥政府機關和地主宅院,燒燬債契,沒收地主糧食,沉重打擊了日本帝國主義和反動軍閥的統治。

 つぎのような意味だと思います。

 延辺の朝鮮族の五・三〇暴動は、延辺の朝鮮族人民の反帝反封建的闘争です。
 一九三〇年五月三十日、中共延辺党組織は延辺の龍井、頭道溝、大拉子、南陽坪、湖泉街、開山屯、石建坪、延吉、老頭溝などの地でたちあがり暴動をおこしました。
 当地の反動機関を狙ったものでした。
 ある夜、龍井発電所を爆破し、東洋拓殖会社間島出張所を焼きうちし、日本領事館を襲撃し、天圖鉄道の橋梁などを破壊し、多くの日本の警察官を殺しました。
 同時に、軍閥政府機関と地主の家を襲い、借用書を焼き、地主の糧食を没収し、日本帝国主義と反動軍閥の統治に大きな打撃を与えました。

 この記事に出てくる東洋拓殖というのは、一九〇八年十二月十八日に設立された大日本帝国の特殊会社、東洋拓殖株式会社のことです。南満州鉄道株式会社(満鉄)とならぶ二大国策会社です。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十三 延辺大学の先生、学生との交流会。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 龍井市から延吉市の延辺大学へ。
 案内してくれた一年生の女子学生。日本語ぺらぺら。大学に入学してから日本語を学んだといいます。
 迷彩の軍服を着て行進する集団に出会ってびっくり。手に手に折り畳みいすを持っています。一年生は二十日間、軍事訓練をするとのこと。実弾での訓練はないとのこと。
 先生や学生たちとの交流会に参加しました。
 私は、ビデオ撮影の係でした。
 日本側は歌、南京たますだれ、よさこい踊り。
 延辺側から太鼓などの演奏、踊り。
 以下、交流会に参加した女性からのまたぎき。
 ある二年生の女性の話。朝鮮族。中学校、高校の授業は「朝七時~夕五時。十一時半から二時間休み。夕六時半から九時半まで」。中学校から第二外国語で日本語を学んできました。

 大洲飯店泊。

 反省会なし。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十四 薬水洞(やくすどん)ソビエト政府の跡地を見ました。

 二〇一二年九月五日、水曜日。曇りのち晴れ。

 大日本帝国の頭道溝(つどうこう)領事館分館の跡を見ました。

 薬水洞(やくすどん)ソビエト政府の跡地を見ました。
 御影石の石碑の正面には「薬水洞抗日記念碑 殉難烈士万歳!」(中国語、朝鮮語)という濃い赤い字が刻まれていました。
 「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「29」に、ここのことが載っています。

 (前略)1930年5月に進行された“赤い5月闘争”は、5月23日から一部の農村で土地革命闘争へ移った。薬水洞、頭道溝、達羅子、三道溝等の農民たちは党組織の指導下に宣伝隊と特務隊を組織して親日派と土豪劣紳を清算し、小作料契約書と高利貸文書を燃やしてしまった。彼らはまた地主、土豪劣紳及び親日派たちの食糧と財産を没収し、貧困農民たちに分け与えた。.
 中共延辺特別支部では1930年4月末、黄埔軍官学校出身である朝鮮族共産党員・申春を革命群衆の基礎がしっかりしている薬水洞一帯に派遣して土地革命を展開するようにした。 “赤い5月闘争”の中で薬水洞の農民たちは農民赤衛隊を組織し、地主の荘園に攻めこんで地主の高利貸文書を焼いてしまい、食糧と財物を没収して農民たちに分けてやった。
 1930年5月27日は薬水洞とその一帯の農民群衆たちにとって忘れることができない日だ。薬水洞上村の八間家の庭先で開かれた群衆集会で申春は“薬水洞ソビエト政府が樹立された!”と荘厳に宣布した。これは東北で初めての人民政権の誕生だった。それも日帝治下と封建統治の輩たちの鼻先で開かれた歴史的壮挙だった。
 申春は、ソビエト政府の創立大会で、薬水洞ソビエト政府創立の歴史的意義とその使命に対して、氷上を滑るように打ち明けた。申春の熱情的な演説は大会に参加した群衆たちの胸に熱い波を起こしてくれた。先祖代々、搾取と貧窮の頚木に押さえ付けられて、動物にも劣る生活を続けて来た貧しい農民、無権利農民たちに権利が与えられたのだから、これ以上の喜びがどこにあろうか。群衆はソビエト政府の構成員を選出し、スローガンを叫びながらデモ行進を断行した。
 “日本帝国主義を打倒しよう!”
 “国民党軍閥政府を打倒しよう!”
 “地主の土地を没収して貧困農民に分けてやろう!”
 “土地革命を行おう!”
 “ソビエト樹立を援護する!”
 数百人の群衆たちはスローガンを叫びながらデモ隊列に加わった。薬水洞学校の宣伝隊員たちは、赤いネクタイをひらめかせつつ行進した。掛け声と歌声が一日中、薬水洞の空を震わせた。

 出よう出よう争いに出よう
 勇ましい勢いで さあ早く出よう
 帝国主義軍閥たちは死ねと催促して
 強奪と虐殺はやりたいだけやる

 デモ隊群衆たちは地主と親日派の家の前でさらに力強くスローガンを叫び、団結した力を誇示した。デモは三日の間続いた。怒った群衆たちは罪悪がとりわけ多い親日派を何人か捕らえ、処断した。そして高利貸付業者たちの財物を没収して貧困な農民たちに分けてやり、彼らの高利貸文書と小作料契約書を暴き出して燃やしてしまった。李キョンチョンら10人により組職された農民赤衛隊は日夜を分たず見回りながら農民たちのデモ闘争を護衛した。
 薬水洞の農民たちはソビエト政府創立大会の決意によって“5.30”暴動の激しい闘争に参入した。暴動の後、日本警察たちは薬水洞に乱入し、100人余りの青年を逮捕した。薬水洞ソビエト政府は日本の連続的な弾圧で活動を展開することができなくなった。そして薬水洞ソビエト政府は創立されてから3日後にやむを得ず地下に潜らなければならなくなった。
 同年8月末、中共辺疆区委では、薬水洞の農民たちを指導して再度土地革命を断行した。彼らは薬水洞ソビエトが創立されたところで再びソビエト代表大会を開き、“ソビエト建立大会決議案”を採択し、辺疆ソビエト政府の創立を宣告した。大会では李鳳三が旧ソビエト政府主席に当選し、政府内には宣伝、行政、経済、軍事などの部署を置いた。同年 10月、中共辺疆区委は闘争の需要によって薬水洞を発ち、長仁崗方面へ移動しながらソビエト政府をしばらく取り消し、農民協会がソビエト政府の事業を代替するようにした。
 ソビエト政府の樹立は延辺での一つの偉い事件に違いない。しかしこれはつまり中国共産党の“左”傾路線の産物だった。これについて延辺大学歴史学教授・朴昌昱先生は次のようにいう。
 “<赤い5月闘争>は中国共産党の指導の下に朝鮮共産主義者たちが動員して起こした最初の反帝反封建闘争です。この運動を通じて多くの共産主義者たちが中国共産党に加入しました。成熟した闘争とはいえなかったが、この闘争を経て中国共産党の影響を朝鮮族の群衆中に波及させました。この闘争を経た後、東北で初めての薬水洞ソビエト政権を樹立するようになりました。この闘争の教訓は<左>傾でした。余裕のない状況で進行したため、理論と実践を結び付けることができなかった誤謬を避けることが出来ませんでした。”
 薬水洞はまた中共延辺第一次党員代表大会が開かれた由緒深い場所でもある。会議場所はソビエト政府があった村(今の薬水洞村の西北の方1.5kmの山すそ)の真ん中にあった70平米余りの朝鮮式の草家だったが、今は崩れて家の跡地が僅かに残っているだけだ。
 1930年7月、中共延辺特別支部書記である王耿は中共満州省委秘書長・蓼如院と一緒に延辺に戻った。蓼如院は省党委の派遣を受けて中共延辺特別支部に協力し、元朝鮮共産党員たちが個人の身分で中国共産党に加入する事を審査しに来たのだ。蓼如院と王耿は足繁く各県へ行って元朝鮮共産党員を中国共産党員に吸収する事業をした。かくして当時、延辺の中共党組織は迅速な発展をみせた。こんな状況において、7月下旬、蓼如院と王耿は延吉県依蘭溝南洞で中共延和中心県委建立準備事業に関する会議を召集した。会議は6日間開かれたが、しめて15人が参加した。会議では中共中央の東北での朝鮮族農民闘争と朝鮮族たちが中国共産党に加入することに関する指示精神を学習し、区当委を建立、党員代表大会を選挙するなど問題を研究した。会議の後、会議に参加した党幹部たちは各地に降りて延和中心県委の建立のための準備事業をするようにした。
 中共延辺特別支部書記だった王耿は足繁く薬水洞に通い、辺疆区党員代表会議を開いて朱ヒョンカプを書記とする中共辺疆区委を建立した。薬水洞は党事業の基盤がしっかりしており、党の会議を開く上で相応しかった。
 1930年8月13日、各地から来た党員代表たちは、薬水洞上村に集まった。代表大会議では中共中央の指示に従って党の策略と総路線を貫徹することについての措置を立て、元朝鮮共産党党員たちを中共党員に吸収した事業を総括し、7人の委員と 2人の候補委員で構成された中共延和中心県委指導機構を選挙した。彼らの中には元中共延辺特別支部書記だった王耿、中共満州省委特派員朴ユンソ、馬駿、元朝鮮共産党党員だった金ソンモ、韓ビョル、李ヨングクの全(靴下製造労動者)、崔(建築労動者)、李(貧民)姓を持つ党員代表もいた。中共延辺延和中心県委の委員会部署と幹部陣営は次のとおりだった。
 書記・王耿(朝鮮族)、組職部長・馬駿(朝鮮族)、宣伝部長・韓ビョル(朝鮮族)、軍事部長・朴ユンソ(朝鮮族)、青年部長・李ヨングク(朝鮮族)、女性部長・金ヨシン(女、朝鮮族)
 中共延和中心県委は中共満州省委傘下直属である延辺での党の最高機関だった。中心県委が建立された後、その傘下には開山屯区委など10の区党委と61の基層党支部があり、党員はしめて480人にまで発展した。
 中共延和中心県委では農民運動を勢いよく発展させ、党組織と公聴団組織を発展させると同時に、農民協会など大衆団体を結成して土地革命を行った。そして赤衛隊、遊撃隊など武装団体を組織して、革命委員会を建立し、地方暴動を具体的に指導した。かくして同じ年の9月になって、延辺地区の党、党員たちはおよそ千名余にもなり、いろいろな大衆団体には5000人余りの群衆が参加、革命組織の影響の下、群衆たちは5万名余に達した。 

 石碑の近くにマツムシソウの花がきれいに咲いていました。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十五 白頭山に登りました。

 二〇一二年九月五日、水曜日。曇りのち晴れ。

 白頭山に登りました。
 大きな湖を見ました。
 そして、そこからの水の滝も。

 帰りのバスの車窓からバスが事故で傾いているのを見ました。乗用車に追突されたようです。

 大洲飯店泊。

 反省会なし。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十六 図們国境大橋を見ました。

 二〇一二年九月六日、木曜日。晴れ。

 延吉。
 午前五時半、起床。

 午前八時、高知市のある大学から電話。
 「大学院入試の件ですが、あなたは大学卒業後三年たっていないので社会人入試では受験できません。一般選抜で受験してください。受験する専門を教えてください」
 「日本史学にします」
 うわーっ。社会人入試ならテーマが限定されたペーパーテストですが、一般選抜ならテーマ限定なしのペーパー試験があります。

 図們(ともん)市に行きました。
 図們市の人口は十三万七千人。うち朝鮮族は五十八万人です。
 トマンコウの中華人民共和国吉林省図們市と北朝鮮咸鏡北道穏城郡南陽を結ぶ橋を結ぶ橋、図們国境大橋は両側からのトラックがいきかっています。

 昼は焼き肉の店で。
 男性店員たちは、みな若いイケメン。

 延辺博物館を見学。

 空路、長春へ。
 この出発のとき、空港で検査員がバッグのなかのものをすべて出して検査。汚れた下着まで。

 地下鉄、新幹線で瀋陽(以前の奉天)へ。
 地下鉄は快調。音が少ない。

 瀋陽のホテル泊。

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槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十七 瀋陽から高知市へ。

 二〇一二年九月七日、金曜日。晴れ。

 瀋陽。
 午前五時、起き。
 帰宅する日です。
 二十二人。
 高知、関西の二十二人は、午前六時、ホテル出発。
 関東組は、のちほど出発。
 関東組の三人が見送りに来てくれました。

 空港の免税店で腕時計を買いました。

 これまで全体の街の様子。
 ・大型施設をガンガンつくっている。だいじょうぶか。
 ・ナンバープレートのない車が走っていました。盗まれて、そのままになっているのか。
 ・オートバイの人でヘルメットをつけている人が少ない。
 ・三つのホテルに泊まりましたが、どこの風呂場の床がすべりやすい。これは技術的な問題か。
 ・トイレ。やはり日本人には苦手。紙がないところ、ドアにとめるのがないところ。

 関西国際空港からマイクロバスで高知市へ。
 夕方、高知市に着きました。

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2012.09.09

二〇一二年九月八日 土曜日 パソコンの前に座り続けて……。

二〇一二年九月八日 土曜日 パソコンの前に座り続けて……。

 雨、地震。

午前十時四十一分ころ、地震がありました。(高知市は震度2とか)

 昨夜、中国から高知市に帰り着いてから、ずーっとパソコンの前に座り続けています(もちろん、少し寝たけれど)。ツアーのことをブログにアップしたり、原稿にしたり……。
 やっと、先ほど、午前零時前に作業が終わりました。
 
 妻は実家泊。

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【写真】 中国の龍井市で見た花。

Photo

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【ニュース】 自衛隊情報保全隊、国民監視活動し記録 しんぶん赤旗が報道

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-04/2012090401_01_1.html

  しんぶん赤旗 2012年9月4日(火)

 自衛隊 今も国民監視 違法な個人情報収集 情報保全隊の内部資料

 陸海空自衛隊の情報保全隊を統合して2009年に新設された自衛隊情報保全隊のもとで、違法な国民監視活動とその記録化が続けられていることが3日、同隊の内部資料などで判明しました。(中略)
 本紙が入手したのは「注意 特に厳重な取り扱いを要する」と指定し、「週報」と表題がついた自衛隊情報保全隊の内部文書。作成部署を記したとみられる欄には「情報保全課」と記載されています。同課は、部隊発足時の大臣訓令によると情報保全隊本部に置かれた部署。「情報の収集整理及び配布」などが任務です。
 「週報」は、10年11月25日から12月21日までの期間のもの。同隊が収集した国民監視情報が、1週間ごとに詳細に記録されています。
 市民団体や日本共産党などの監視対象ごとに項目分けし、活動内容、参加者数、日付などを記述。文書形式は、07年に表面化した陸自文書とほぼ同様です。
 監視対象者は、平和運動に参加する市民、日本共産党や社会民主党の議員、労働組合員、自治体幹部、新聞記者など広範囲です。
 「地方自治体等の動向」の項目も設け、基地のある自治体の動きや自治体幹部の発言などを監視。さらに沖縄県知事選での候補者の発言もチェックしています。
 イスラム教徒にたいしては「イスラム勢力・国際テロ組織関連動向」という項目を設け、テロ勢力扱いをしています。
 日本共産党や民主団体は「日共系」とした項目に記録。1人での行動まで記述し、規模を問わず監視していることがうかがえます。
 記述には、新聞などで報道されていない内容も含まれています。たとえば、10年12月12日に宮崎県えびの市内で行われた霧島演習場日米共同訓練抗議集会での前屋敷恵美党県議の発言は、報道されていません。しかし「週報」には発言が詳述されており、同隊が集会に潜入して情報収集したことを裏付けています。
 さらに07年の内部文書で監視対象とされた市民らによる「自衛隊の国民監視訴訟を支援するみやぎの会」が、仙台市内で開いた集会も参加人数まで把握して記録しています。(中略)

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 自衛隊情報保全隊 防衛相直轄の情報部隊。表向きは、防衛秘密の保護と漏えい防止を目的としていますが、実際には国民監視が主任務。陸海空3自衛隊に分かれていた情報保全隊は2009年に「自衛隊情報保全隊」に統合・新編。10年には民主党政権のもとで増員され、定員は約1000人。国民監視差し止め訴訟の仙台地裁判決は、差し止め請求は却下しましたが、「違法な情報収集」だと認め原告のうち5人に賠償支払いを国に命令。原告・被告双方が仙台高裁に控訴しました。

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2012.09.10

寝ているときに「足をつってしまって激痛に耐えかねた」  なぜ?

  寝ているときに「足をつってしまって激痛に耐えかねた」という話を聞きました。

 足をつる原因と、その対策は?

 探してみたら、こんなページがありました。

http://health.goo.ne.jp/column/healthy/h002/0087.html

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二〇一二年九月九日 日曜日 本日もパソコンの前に座り続けて……。

二〇一二年九月九日 日曜日 本日もパソコンの前に座り続けて……。

 雨。

 本日もパソコンの前に座り続けて終わりました。

 ツアーの写真を三枚、ある人に送りました。

 ツアーの記事を一本書きました。

 あるブログの記事のアップ。

 

 

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二〇一二年九月十日 月曜日 戦跡ツアーの計画書を作成。

二〇一二年九月十日 月曜日 戦跡ツアーの計画書を作成。

 雨のち晴れ。

 午前中は地域の老人のつどいに参加。

 午後、某大学の入試担当の人に問い合わせ。

 午後、M君夫妻が来訪。

 その前後から、また、ずーっとパソコンの人。

 『高知の戦争 証言と調査』十九号の原稿を整理。

 戦跡ツアーの計画書を作成。

 妻は、実家泊。

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2012.09.12

【短歌】 六十五歳の挑戦

反戦の詩人のことを極めたい 資料積み上げ苦闘のさ中

槇村の 反戦の詩の舞台行く おお間島(かんとう)は こんな地だったか

抗日のデモに参加し殺された 十七人の青年の碑よ

地下にある拷問室の闇の中 わが日本が、ここでしたこと
 
大学院 受けるつもりの六十五 「無理よね」、「やめちょき」 否定をバネに

間島のバスの中でも 「受けますよ」 マイクでのべて、われを鼓舞する

「授業に出てなかったわね。あのころは」 十九知る人かたわらにいて

面接の準備のために書いてる「長所」の内容 反省文だね

この試験乗り切るための勉強に逃げ込みたいが 誘いが多くて

「やっぱりね。ダメだったわね。大学院」 リアルな夢みて 学びに向かう

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二〇一二年九月十一日 火曜日 高知大学図書館の「すごい!」。

二〇一二年九月十一日 火曜日 高知大学図書館の「すごい!」。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。
 高知大学図書館へ。
 二階のパソコンで朝日新聞のバックナンバーを見て、印刷することができました。すごい。
 私の検索の範囲は一九三二年まででワードは「間島」。

 高知大学の先生に問い合わせ。

 妻が帰ってきました。
 

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二〇一二年九月十二日 水曜日 「読む年表 吉田豊道から槇村浩への歩み 皇国少年から反戦詩の執筆まで」。

二〇一二年九月十二日 水曜日 「読む年表 吉田豊道から槇村浩への歩み 皇国少年から反戦詩の執筆まで」。

 曇り、雨。

 高知歌人の短歌の原稿を書きました。十首。

 「読む年表 吉田豊道から槇村浩への歩み 皇国史観少年から反戦詩の執筆まで」を書きはじめました。

 近くの男性がカボチャを持ってきてくれました。

 本日は、家を出ず「パソコンの人」。
 妻は、実家泊。

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2012.09.13

二〇一二年九月十三日 木曜日 間島(かんとう)ツアーの投書が載りました。

二〇一二年九月十三日 木曜日 間島(かんとう)ツアーの投書が載りました。

 晴れ。

 高知新聞が僕の投書を載せてくれました。このあいだの間島(かんとう)ツアーのことです。ここにあります。

http://www.kochinews.co.jp/voice/1209/120913vhiroba03.htm

 午前中、槇村浩の年表の第一稿を仕上げました。

 『高知の戦争 証言と調査』十八号の校正。

 午後は会議。INさんが、「出ていたね」。

夕方、投稿を読んだという槇村浩ファンの八十六歳の女性から自宅に電話。

 高知大学の正門のわきで母と食堂をしていたという人でした。感激。

 「槇村浩については、平和資料館・草の家でも展示をしています」というと、 「平和資料館・草の家って、どんな団体でしょうか。しょっちゅうニュースに出ますけど。一度、行きたいと思っているんですが、どこにあるんですか」

 妻によるとSAさん、HAさんも、読んでくれていたそうです。妻は、いまだに読んでいませんが……。

 『高知の戦争 証言と調査』十八号の校正。

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例の橋下さんのこと。この記事がおもしろいよ。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-07/2012090704_01_0.html

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2012.09.15

二〇一二年九月十四日 金曜日 槇村浩についての資料探し。

二〇一二年九月十四日 金曜日 槇村浩についての資料探し。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。

 草の家や高知県立図書館などで槇村浩についての資料探し。
 
 戦跡ツアーについての打ち合わせ。

 十六日の大学院試験のための三つの文書ができあがりました。
 気が付いたら午前零時を過ぎていました。

 妻は実家泊。

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【ニュース】 橋下大阪市長、ひどすぎ! 「集団的自衛権行使認める、消費税増税やむを得ない」。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-14/2012091401_07_1.html

しんぶん赤旗 2012年9月14日(金)

 集団的自衛権行使認める、消費税増税やむを得ない  橋下大阪市長
 

 新党「日本維新の会」の代表に就任予定の橋下徹大阪市長は13日の記者会見で、政府の憲法解釈で行使が禁じられている集団的自衛権に関し、「権利はあるけど行使はできないなんて、あり得ない。行使の在り方について、しっかりとルールをつくっていくというのが目指すべき方向性だ」との認識を示しました。
 集団的自衛権の行使は、米軍とともに海外で“血を流す”ことができるようにするため、米国などから求められてきたもの。(中略)
 民主、自民、公明3党が関連法を成立させた消費税増税については、「最終的な方向性が消費税の地方税化だとはっきり示されれば、当面の財源不足を補うための増税はやむを得ない」と述べ、条件次第で容認する考えを明らかにしました。

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二〇一二年九月十五日 土曜日 高知へのアメリカ軍のB29墜落についての資料。

二〇一二年九月十五日 土曜日 高知へのアメリカ軍のB29墜落についての資料。

 晴れ。

 午前、定期の健診。
 またもや、すごい低血圧。どうなっているのでしょうか。

 平和資料館・草の家へ。
 資料さがし。会議。

 家に帰ってたら京都の男性から、高知へのアメリカ軍のB29墜落についての資料が届いていました。
 ありがとうございました。

 「高知海軍航空隊の飛行場と、同隊の二つの秘匿飛行場」についての長い文章を書き上げました。

 あしたの大学院入試のための勉強。

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2012.09.16

二〇一二年九月十六日 日曜日 試験終え 自分にほうびで 禁断の 「三百グラム」 注文してる。

二〇一二年九月十六日 日曜日 試験終え 自分にほうびで 禁断の 「三百グラム」 注文してる。

 晴れ。

 尖閣列島問題、竹島問題の勉強をしました。 高知新聞を見ると尖閣列島問題、竹島問題の見開き特集が出ていました。

 K大学院の入学試験を受けました。
 午前八時半到着。
 高知短期大学院専攻科の仲間も一緒でした。
 午前中、三人の先生を前に自己アピール(二十分)。
 昼食ぬき。
 午後、研究構想書、推薦書をもとにした三人の先生の面接(十五分)。
 午後は私が最後。駐車場に行くと、仲間が待ってくれていました。優しい人です。

 家の近くの食堂で禁断ステーキ 「三百グラム」を注文しました。

 家に帰って「少し横になるか」。
 気がついたら午後九時でした。
 夕方の集会の司会をした妻が帰っていました。
 槇村浩年表の仕上げ作業。

 試験終え 自分にほうびで 禁断の 「三百グラム」 注文してる

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「〈読む年表〉吉田豊道から槇村浩への飛躍 皇国の唱歌をつくる少年から反戦詩人へ転機は何か」ができました。

 「〈読む年表〉吉田豊道から槇村浩への飛躍 皇国の唱歌をつくる少年から反戦詩人へ転機は何か」ができました。
 以下のデータです。

「makimuranenpiyou.doc」をダウンロード

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2012.09.17

二〇一二年九月十七日 月曜日 日本通史の資料集を読みはじめました。

二〇一二年九月十七日 月曜日 日本通史の資料集を読みはじめました。

 雨 台風の影響。

 『高知の戦争 証言と調査』十一号の編集作業。

  国民学校で使っていた模擬手榴弾の件、取材できそうです。

 ある大学の学生からメールをいただきました。

 本日は、三食昼寝つき。

 日本通史の資料集を読みはじめました。
 四日間で読みあげる予定です。

 妻は、実家泊。
 

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【大日本帝国の侵略の歴史】 平頂山住民虐殺事件とは 記念写真を撮ると住民をがけ下の一カ所にかり集めて……。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-09/2004-12-09faq.html

 2004年12月9日(木)「しんぶん赤旗」

 平頂山住民虐殺事件とは?

 (前略)平頂山事件とは、1932年9月16日、中国東北部の撫順市近郊にある平頂山集落において発生した住民虐殺事件です。
 当時、平頂山には、3000人以上の村民が住み、その多くは撫順炭鉱の労働者でした。日本軍は記念写真を撮るなどとだまし、住民をがけ下の一カ所にかり集めました。村民がカメラと思ったのは、実は機関銃でした。機関銃を覆っていた布が取り払われると、住民は逃げるまもなく機銃掃射にさらされました。一斉掃射の後、生存者がいれば銃剣で刺して回り、とどめを刺しました。遺体にガソリンをまいて焼き払い、最後は、がけを爆破して遺体を埋め、事件を隠滅しました。
 そのころ、中国東北部では、柳条湖事件(31年9月18日)に端を発した関東軍の占領に対し、抗日運動が日に日に激しくなっていました。そんな中、日本が占領していた撫順炭鉱が抗日ゲリラに襲撃される事件が起きました。日本軍は住民がゲリラと通じていると決めつけ、見せしめのために、平頂山の住民の皆殺しを図ったものでした。
 現場は発掘され、いまは「平頂山殉難同胞遺骨館」として展示されています。(中略)
 この事件で剣に突き刺されながらも奇跡的に命をとり止めた莫徳勝さんら3人が日本政府に損害賠償を求め、96年8月、東京地裁に提訴しました。
 02年6月、東京地裁は、平頂山事件の事実を認定したものの、戦前の国の違法な公権力行使は責任を問うことができないという「国家無答責」の原則を唯一の根拠として原告らの請求を棄却しました。
 国は、戦後においても事件を無視し続け、裁判でも事実認否すらしないという不誠実な対応に終始しました。地裁判決のなかで、事実を正面から認定した部分は評価できます。現在、東京高裁で控訴審がたたかわれています。 (喜)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-20/15_01.html

 2005年2月20日(日)「しんぶん赤旗」

 旧日本軍の大量虐殺 中国・平頂山事件 銃声と叫び声 いまも夢に 「人間として尊重を」 控訴審で生存者の楊宝山さん

 日本軍がアジア各地に侵略した戦争の終結から六十年。いまもなお、戦争被害者は人間としての尊厳回復を求めて裁判をたたかっています。十八日、その戦後補償裁判のひとつが東京高裁で結審しました。いまから七十三年前に起きた平頂山(へいちょうざん)事件の控訴審です。国の責任を問う被害者の思いとは―。 本吉真希記者
 控訴審最終弁論が開かれた東京高裁。この日のために来日した生存者の楊宝山さん(83)が意見陳述しました。当時十歳。事件で父、母、五歳の弟を亡くしています。
 「写真を撮ってあげるから」―。日本兵のこの言葉に集まった平頂山の村民約三千人。日本軍は無差別に銃撃し、生存者を銃剣で突きました。遺体にガソリンをまいて焼き払い、ダイナマイトを爆発させて証拠隠滅を図りました。事件が起きたのは、日本帝国主義が中国東北地方に侵略戦争を開始した「満州事変」の一年後。「抗日」運動が激しさを増したさなかの一九三二年九月十六日のことでした。場所は中国東北部の遼寧省撫順市の平頂山です。
 楊さんは当時の様子を語りました。「写真撮影は初めてのことだった。うれしくなって父母の手を引っ張って行った」
 住民は、がけ下の平地に集められました。「住民でいっぱいだった」と楊さん。そこには黒い布でおおわれた物が十数台ありました。カメラだと思った楊さんは「写真機の近くでよかったね」と父に話しました。父は黙ったままでした。
 一人の日本兵が軍刀を振り上げました。機銃掃射の合図でした。「黒い布がサッと取り払われ、すぐに火を噴いた。黒い機関銃だとわかった」
 楊さんの母親はすぐに楊さんをかばい、伏せました。父親は弟を引っ張り、逃げようとしました。周囲は叫び声と泣き声、銃声の音で充満しました。「私は母の胸の下で母を繰り返し呼んだ。そのときは小さな声で返事が返ってきた」。しかし二度目の機銃掃射のあと、返事が返ってくることはありませんでした。
 「母から滴り落ちてくる血が私の顔をぬらし、口に入った。しょっぱかったので血だとわかった。母が死んだのだと思った…」
 いまでも当時の夢を見て、つらい思いをする楊さん。平頂山にある遺骨館は当時のままです。おびただしい人骨が身を寄せ合うように折り重なっています。口を大きく開けた人骨。小さな胎児の骨が母親の腹部に残ったままのものもあります。
 楊さんはいいます。「物いわぬ遺骨のなかに肉親がいるかと思うと、止めど無く涙が流れてくる。生き残った者として犠牲者の無念をはらす責任がある」
 国はこの虐殺行為を否定し続けていますが、一審判決は虐殺の事実を認めました。しかし、「当時は国家賠償法がなく、国は責任を負わない」として、請求を棄却しました。
 最終弁論に立った川上詩朗弁護士は「人間の価値の尊さに違いがあるのか」と裁判官に迫りました。そして、一枚の幼児の写真を掲げていいました。「日本軍は殺す意思をもって、この幼子を銃剣で刺殺。そのまま空中に放り投げた。明確な殺害行為だ」。この幼児は原告の方素栄さん(76)の当時三歳の弟です。「一人の人間の価値は、明治憲法下でも日本国憲法下でも、違いなど全く無い」。国の不法行為の責任は当然問われるべきだ、という主張です。
 楊さんは最後に裁判官へお願いしました。
 「遺骨館に足を運んでほしい。自らの目で白骨を確かめてほしい。一人の人間として尊重されなければいけないのは、どこの国の人間もみな同じです。事実と向き合い、正しい判決をしてください」
 (後略)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-10-05/2010100514_01_1.html

 2010年10月5日(火)「しんぶん赤旗」

 旧日本軍、平頂山の住民虐殺 生存者ら、井上議員と懇談

 平頂山事件の生存者の一人・楊玉芬さん(87)と長男の張毓傑さん(63)ら11人が4日、日本共産党の井上哲士参院議員を訪問し、懇談しました。
 同事件の生存者・遺族は、▽日本政府が同事件の事実と責任を認めて、生存者・遺族に公式に謝罪する▽謝罪の証しとして、日本政府の費用による謝罪の碑の建立と供養の陵園の設置▽事件の事実究明と次世代への継承―を求めています。
 「平頂山事件」は、1932年9月16日、日本軍が中国東北部の遼寧省撫順市の平頂山で約3000人の住民を機銃掃射で虐殺した事件です。楊さんは当時8歳。母は殺されましたが、自身は奇跡的に父、妹と生き残りました。「写真を撮る」と集められた住民が機銃掃射で次々と殺された模様を話すと、井上議員は「つらいことだが、ぜひ長生きして、事実をたくさんの人に訴え続けてほしい」と励ましました。
 周学良撫順平頂山紀念館館長は、事件の生存者はわずか4人となり、いずれも80歳を超えていることを話しました。日本共産党のこれまでの国会内外での協力に感謝をのべるとともに、日本政府の謝罪など三つの要求の早期実現のため力をかしてほしい、と訴えました。
 井上議員は「歴史の真実に向かい合うことが、本当の友好になると思う。平頂山事件での日本政府の責任は明白であり、政府がその事実と責任を認めて謝罪せよとの要求は当然のこと。党派を超えて要望の実現を国に求めていきたい」と話しました。(後略)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-17/2012091704_02_1.html

 2012年9月17日(月)

 平頂山事件80年で式典 中国 “歴史の真実守ろう” 日中平和へ誓い新た

 【撫順(遼寧省)=小林拓也】1932年に旧日本軍が中国東北部の平頂山の住民約3000人を虐殺した平頂山事件から16日で80年になりました。同日、虐殺の現場である遼寧省撫順市内の平頂山虐殺事件記念館で追悼式典が行われ、約1000人の撫順市民と日本から訪れた参加者らが日中友好と歴史の真実を守ることを誓い合いました。
 生存者の一人で日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判の原告だった陽宝山さんの娘婿、劉伝利さんは「時間は傷口を癒やすが、私たちの心の傷は消えない。歴史を改ざんしようとするたくらみは、恥ずべきもので、受け入れられない」と語りました。
 裁判の弁護団を代表し、小野寺利孝弁護士が「日本政府が平頂山事件をはじめ過去の侵略戦争について、民衆の被害の事実と軍国主義による加害の実態を正しく見つめ、心からの反省と謝罪を行うことを希望する」とあいさつしました。
 日本政府に対する裁判は、2006年の最高裁の上告棄却で原告の敗訴が確定。現在、生存者らは日本政府に謝罪と記念碑の建設などを求めています。(後略)

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2012.09.18

【歴史研究を考える】 東中野修道さんの南京虐殺否定の手法の一端 「bayoneted(突き刺した)」を「突き殺した」と訳して……

 南京虐殺否定の論者・東中野修道さんの南京虐殺否定の手法の一端についての記事を読みました。

 まず、東中野修道さんとは wikipedia から抜き書き。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B8%AD%E9%87%8E%E4%BF%AE%E9%81%93

 東中野 修道(ひがしなかの しゅうどう、本名:修―おさむ、1947年10月19日 - )は、日本の歴史研究者・著述家。亜細亜大学教授。(中略)日本「南京」学会会長であり、「南京大虐殺」問題の研究者でもある。鹿児島県出身。

 1998年、著書『「南京虐殺」の徹底検証』を出版し、今まで「南京大虐殺」の証拠とされている資料は全て捏造であり、「南京虐殺」は無かった主張した。この著書の新路口事件の記述をめぐり、事件の生存者である夏淑琴から「ニセ被害者呼ばわりされて、名誉を傷つけられた」として、名誉毀損で提訴された。審理は中国の裁判所と日本の裁判所と二ヶ国の裁判所で独立して行われ、判決は両国の裁判所とも東中野の非を認め、東中野と展転社に対し賠償命令を出している。東中野と展転社は日本の判決に従い、456万円を夏に支払った。

 東中野は、著書「南京虐殺の徹底検証」で、新路口事件に対して次のような論理を展開した。
 虐殺の様子を記したマギーの記録を引用する。
 十月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口語のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。玄関を夏という名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、ただちに彼は夏を拳銃で殺した上、もう誰もころさないでと、夏の死体に跪いて頼むシアさんをも殺した。なぜ夫を殺したのかと夏の妻が尋ねると、彼らは夏の妻をも殺した。 (中略) それから、兵士たちは(レイプされて殺された夏の娘の)もう一人の七、八歳になる妹も銃剣で突き刺した(bayoneted)。(中略) その八歳になる少女(the 8-year old girl)は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。
 東中野は「bayoneted」を「突き殺した」と訳し、「七、八歳になる妹」と「その八歳になる少女」は別人と解釈した上で、「別の報告による殺害人数と食い違う(殺された人間が一人多い)」「生き残った『八歳の少女』(夏淑琴)が夏夫婦の子であったとすると、『七、八歳になる妹』と姉妹になるはずである。とすると、二人は双子か、年子である。だったら「七、八歳になる妹」の年齢がはっきりしないはずはない。なので『八歳の少女』の苗字が夏なのはおかしい」などの根拠によって、夏淑琴は偽証をしており、このマギーの記録自体がデタラメであると主張した。
 それに対し、夏淑琴は「ニセ被害者、詐欺師呼ばわりされて、名誉を傷つけられた。東中野氏は同じ本の後の記述では問題をboyonetを突き刺したと訳している。故意に私をニセモノに仕立て上げて誹謗中傷するために,意図的にフィルム解説文を誤訳したのだ」として東中野を告訴。東中野は夏に対し、「『南京虐殺』の真相を示したいのであれば、(名誉毀損などで)訴えるのではなく、(私の)色々な疑問に答えるのが先決ではないか」と反論した。
 中国では南京市の人民法院は2006年8月23日に、夏の訴えを認め東中野に損害賠償を命じる判決を出している。東中野はこれに対する損害賠償債務が存在しないことを確認する訴えを東京地裁に出していたが、夏淑琴が反訴を行い、2006年5月15日に東京地裁で東中野を被告として名誉毀損で提訴した。
 東京地裁の裁判は2007年11月2日判決が出て、東中野の全面敗訴となった。
 判決では、
  1.東中野の解釈によれば、それまで全く出てこなかった少女がいきなり「その(the)八歳になる少女」という表現のもといきなり「傷を負った」状態で登場し,この「8歳の少女」がどこの誰であるか,どのようにして傷を負らたのかについては,その後の記述にも一切現れていない。これは極めて不自然である。
 通常の研究者であれぱ「突き殺した」と解釈したことから生じる上記不自然・不都合さを認識し、その不自然さの原因を探求すべくそれまでの解釈過程を再検討して、当然に「7、8歳になる妹」と「8歳の少女」が同一人である可能性に思い至るはずである。  2.東中野は「八歳になる少女はシア夫婦の子でも夏夫婦でもない」と主張している。とすると「母の死体のある隣の部屋に這って行った」とある「母」はシアの妻でも夏の妻でもないことになるが東中野はこの「母(her mother)」に人数を示す固有の番号を付しておらず,この「母」はシアの妻か夏の妻のいずれかと理解している。これは明らかに矛盾であり、論理に破綻を来しているというほかはない。
 の2点を挙げ、「以上述べた2点だけからしても被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」とし、「別人と立証できていない」として、裁判長の三代川三千代は夏淑琴への名誉毀損を認め、東中野と出版元の展転社に対し400万円の慰謝料支払いを命じた。
 この判決に対して東中野側は控訴したが、控訴審で東中野は「マギーフィルムと解説文は創作物」という新たな主張をした。東京高裁はこれに対し「一審ではマギーフィルムと解説文を本物と前提として認めていたのに二審で主張を翻すのは合理性を欠く」として2008年5月21日に東京地裁と同様に東中野と展転社に対し400万円の慰謝料支払いを命じた。
 東中野側は上告したが、2009年2月5日、最高裁は東中野と展転社からの上告棄却を決定、一審判決通り、両者に対し、合計400万円の賠償を命令する裁判が確定した。2009年4月16日にこの賠償金は支払われた。

 著書
 単著
  (中略)

  「南京虐殺」の徹底検証(展転社, 1998年)(英訳 The Nanking Massacre: Fact versus Fiction, A Historian's Quest for the Truth, Tokyo: Sekai Shuppan, 2005) ISBN 978-4-88656-153-4
  1937 南京攻略戦の真実――新資料発掘(小学館文庫, 2003年) ISBN 978-4-09-405771-3
  南京事件――国民党極秘文書から読み解く(草思社, 2006年) ISBN 978-4-7942-1488-1
  南京「百人斬り競争」の真実(ワック, 2007年) ISBN 978-4-89831-101-1
  再現 南京戦(草思社, 2007年) ISBN 978-4-7942-1616-8
  共著 [編集]
  (藤岡信勝)「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究――中国における「情報戦」の手口と戦略(祥伝社, 1999年) ISBN 978-4-396-61090-6
  (小林進・福永慎次郎)南京事件「証拠写真」を検証する(草思社, 2005年) ISBN 978-4-7942-1381-5
 西尾幹二編 新・地球日本史(2)――明治中期から第二次世界大戦まで(扶桑社, 2005年)
  編著
  南京「事件」研究の最前線
  日本「南京」学会年報平成14年版(展転社, 2002年)、平成15年版(展転社, 2003年)、平成16年版(展転社, 2004年)、平成17・18年合併版(展転社, 2005年)、平成19年版(展転社, 2007年)、平成20年版[最終完結版](展転社,2008年)ISBN 978-4-88656-321-7

 裁判のてんまつのわかる記事を紹介します。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-06-26/2006062614_01_0.html

 2006年6月26日(月)「しんぶん赤旗」

 南京大虐殺 日本の著作でニセ被害者扱い 真実伝えるため提訴 家族7人殺され孤児に

 南京大虐殺で家族七人を殺害され、自身も銃剣で刺され負傷した中国人女性の夏淑琴さんが、三十日に開かれる裁判のため来日します。(尾崎吉彦)
 夏さんは、東中野修道・亜細亜大学教授の著書『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社)で、「事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起こるはずもなかった」として、ニセ被害者と決め付けられました。夏さんは、名誉を傷つけられたとして東京地裁に損害賠償を求め訴訟をおこしました。(注参照)
 訴状などによると、夏さん一家は、中国・南京市中華門内新路口五番地で借家住まいをしていました。家族は、当時八歳だった夏さんと母方の祖父、祖母、父、母、二人の姉、二人の妹の九人。
 一九三七年十二月十三日、大勢の日本兵が夏さんの家に乱入し、父親と大家さんを殺害しました。夏さんは姉や妹らと布団をかぶって隠れました。日本兵は、子どもたちをかばうように寝台に腰掛けた祖父母を射殺、布団をはいで二人の姉を強姦(ごうかん)しようとしました。大声を出した夏さんは左脇、背中、肩の三カ所を銃剣で刺され、気を失いました。意識が戻り、部屋を見渡すと二人の姉は殺されていました。夏さんが四歳の妹と、空襲のときに隠れる「避難所」にいくと、生後数カ月の妹と母が死んでいました。
 生き残った二人は、なべに残っていたおこげのご飯を食べて生き延び、数日後、近所の老人に発見され、養老院に保護されました。
 南京事件では、中国の負傷兵、敗残兵ばかりか、日本軍に元兵士とみなされた多くの市民・農民も殺害されました。南京事件の研究者・笠原十九司都留文科大学教授は、二十万人に近いかそれ以上の中国軍民が犠牲になったと考えられるとしています。性暴力被害が多かったのも特徴で、事件当時、中国人被害者の救済にあたった南京安全区国際委員会の推計では、強姦された女性は数万人に達します。
 笠原教授は、「東中野氏は、“南京事件はなかった”とする立場から証言や資料を見、証言のささいな齟齬(そご)を探して、否定しています。両親や姉妹を一度になくし、孤児としてその後もずっと苦労した八歳の少女の体験を、細部が食い違うからと否定するのは、異常です」と東中野氏の立場を批判します。
  「夏淑琴さんに関連する資料で、『銃剣で刺した』と訳すべき英語を、『銃剣で突き殺した』と誤訳し、“夏淑琴にあたる少女は殺されて存在しないはず”と主張するのですから、学問的には問題になりません。しかし、彼の本を大量に買い取る財団があるうえ、しにせの出版社が発行することもあり、軽視できません」
 (後略)

 注 夏さんは二〇〇〇年十一月、中国で東中野氏を相手取って名誉棄損裁判をおこしました。これにたいし、東中野氏は、中国の裁判で賠償命令が出ても賠償しないでいいように、東京地裁に「債務不存在」の確認を求める訴えを起こしていました。今回の夏さんの訴えは、東中野氏の訴訟に対抗するもの(「反訴」)で、東京地裁はいっしょに審理します。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-24/2006082414_02_0.html

 2006年8月24日(木)「しんぶん赤旗」

 中国南京法院 著者らに賠償命令 南京大虐殺 被害者ニセ扱い訴訟

 南京大虐殺で家族を殺害された中国人女性、夏淑琴さんが、日本で出版された二冊の書物で「ニセ被害者」と決め付けられ、名誉を傷つけられたとして、著者らに計百六十万元(約二千二百四十万円)の損害賠償を求めていた訴訟で二十三日、中国の南京市玄武区法院(地裁にあたる)は著者側に、請求どおりの賠償と出版差し止め、朝日新聞、読売新聞や人民日報(中国)などへの謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡しました。
 訴えられたのは、『「南京虐殺」の徹底検証』の著者、東中野修道・亜細亜大学教授と『「南京虐殺」への大疑問』の著者の松村俊夫氏、出版した展転社の三者。両書は事件について証言を続ける夏さんを「(本当の被害者とは)別人と判断される」「夏淑琴の体験談も…後から人為的につくられている」などと書いています。
 訴状などによると、南京城が日本軍に包囲され陥落した一九三七年十二月十三日、多数の日本兵が城内の夏さん(当時八歳)宅に乱入。祖父母と両親、姉二人、生後数カ月の妹を殺害しました。母らは性的暴行を受けていました。夏さん自身も背中など三カ所を銃剣で刺され重傷を負いました。
 被告の著者らが、原告本人への確認も現地調査もせずに、主観的に「夏さんは被害者ではない」と断定し歴史をわい曲したため、精神的被害を受けたとしています。
 夏さんの裁判を支援している森典男弁護士によると、判決は夏さん家族の殺害を事実と認定、主張を全面的に認めたといいます。
 夏さんが提訴したのは二〇〇〇年十一月。森弁護士によると、中国の裁判所が日本の被告に賠償の強制執行をできるかどうかは不透明だといいます。そのため夏さんは東京地裁にも東中野氏らを相手取って損害賠償請求訴訟を起こしており、ことし六月に第一回口頭弁論が開かれています。(後略)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-11-03/2007110314_01_0.html

 2007年11月3日(土)「しんぶん赤旗」

 南京大虐殺生存者が勝訴 東京地裁 “ニセ被害者”は名誉棄損

 日中戦争中の一九三七年に日本軍が起こした南京大虐殺で生き延びた中国人女性が、ニセ被害者と決めつけられ、名誉を傷つけられたと訴えている問題で、東京地裁(三代川三千代裁判長)は二日、「原告の名誉を棄損し、名誉感情を著しく侵害」したとして、被告に四百万円の支払いを命じました。
 訴えていたのは当時、家族七人を殺され、自身も銃剣で刺された夏淑琴さん(78)。夏さんを「南京大虐殺のニセ証言者」とした東中野修道・亜細亜大学教授と出版社の展転社(東京都)に千五百万円の損害賠償などを求めていました。
 東中野教授は著書『「南京虐殺」の徹底検証』のなかで、「銃剣で刺した」と訳すべき英語を「銃剣で突き殺した」と誤訳。“夏淑琴さんにあたる八歳の少女は殺されて存在しないはず”と主張していました。
 判決は、普通の読者であれば、夏さんが虚偽の証言をしていると理解するであろうとの見方を示し、「原告はいわゆる南京事件の生存被害者として広く知られた人物であるから、(著書の記述は)原告の名誉を棄損するものであり、原告の名誉感情を著しく侵害する」と判断しました。
 英語の誤訳について、「解釈はおよそ妥当なものとはいえず、学問研究の成果に値しない」と批判しました。(後略)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-05-22/2008052215_01_0.html

 2008年5月22日(木)「しんぶん赤旗」

 南京大虐殺 生存者が勝訴 二審も名誉棄損認める 侵略美化 教授らに賠償命令 東京高裁

 日本軍が起こした南京大虐殺事件で生き残った中国人女性が、『「南京虐殺」の徹底検証』という著書で「偽の被害者」と記述され、名誉を棄損されたとして千五百万円の損害賠償などを求めていた訴訟の控訴審判決が二十一日、東京高裁でありました。柳田幸三裁判長は名誉棄損を認めた一審判決を支持し、著者の東中野修道・亜細亜大学教授と出版社「展転社」(東京都)に四百万円の支払いを命じました。
 原告は一九三七年の事件発生当時、家族七人を殺され、自身も銃剣で刺されたという夏淑琴さん(78)=中国・南京市=。昨年十一月の一審判決を受け、原告、被告ともに控訴しました。
 控訴審で東中野教授側は、米国人宣教師が虐殺現場を記録したフィルムは夏さんの事件とは「別件」でねつ造されたものと主張。フィルムの解説文は宣教師の「創作話」で、「八歳の少女」は「空想の産物」なので、実在する夏さんとは別人であり、記述は名誉棄損にあたらないと新たな主張を展開しました。
 判決は、一審の口頭弁論などで被告の著者らが解説文の内容や「八歳の少女」の存在を認め、東中野教授もその趣旨の陳述書を作成していたと指摘。被告側の主張は「採用できない」として棄却しました。(後略)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-07-05/2009070514_01_1.html

 2009年7月5日(日)「しんぶん赤旗」

 南京虐殺 名誉棄損勝訴受け会見 「戦争の悲惨さ伝えたい」

 1937年の旧日本軍による南京大虐殺で生き残った中国人女性・夏淑琴さん(80)が、『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社)という本で「偽の被害者」扱いされ名誉を棄損されたとし、著者と出版社に損害賠償を求めた裁判で、今年2月に夏さん側の勝訴が確定したことを受け4日、夏さんが来日して記者会見で思いを語りました。
 『「南京虐殺」の徹底検証』は「南京大虐殺はまぼろし」などと主張している東中野修道氏が1998年に書いたもの。同氏は、史料に被害者として登場する少女と夏さんは別人で、夏さんはウソの証言をしていると書いていました。勝訴確定で夏さんの証言の正しさが認められました。
 都内で会見に臨んだ夏さんは「大変うれしい。日本の弁護団、支援してくれたみなさんに感謝の気持ちでいっぱいです」と喜びを語りました。南京で勝訴確定の知らせを聞いたときは子や孫と大喜びしたといいます。
 一方で、被告の東中野氏が一度も法廷に立たなかったことなどに話が及ぶと、涙をぬぐいながら、「一度でも直接あって話したかった。8歳のときに家族7人を目の前で殺され、その後、どんなにつらい思いをしたか。毎日泣いて目が悪くなるほどだった」と訴えました。
 夏さん自身も日本兵にわき腹や背中、肩の3カ所を銃剣で刺されました。その傷跡も示して、孤児として苦しい生活を強いられたことを語りました。
 今後について「虐殺の歴史は死の歴史。私が生きているうちに戦争の悲惨さと平和の大切さをつたえていきたい」と語りました。

 夏淑琴氏名誉棄損裁判 夏淑琴さんが東中野修道氏と展転社を相手に損害賠償などを求めて2006年に提訴。東京地裁は07年、東京高裁は08年、いずれも夏さん側の主張を認め、賠償を命じる判決を出しました。今年2月5日、最高裁第1小法廷が東中野氏と展転社の上告を棄却する決定を出し、夏さんの勝訴が確定しました。

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二〇一二年九月十八日 火曜日 「三代の大元帥の戦争」。

二〇一二年九月十八日 火曜日 「三代の大元帥の戦争」。

 晴れ。

 朝四時ころまで日本史の勉強。

 平和資料館・草の家へ。
 Iさんが来ていました。
 NAさん、Kiさん来訪。

 手榴弾の件、あすお会いすることができることになりました。

 昨夜から「三代の大元帥の戦争」という原稿を書き進めています。

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2012.09.19

 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その一

 明治、大正、昭和の三代の天皇=大元帥が指揮した戦争は、自国、つまり大日本帝国の領土拡張や他国の支配をめざした戦争、領土拡張の野心を原動力とした侵略戦争でした。その領土拡張主義は、戦争の進行とともにふくれあがって、アジア諸国に惨害をあたえ、日本国民の全体を悲劇におとしいれました。その経過を以下のべていきたいと思います。

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その二 明治天皇 日本軍が台湾に上陸します。

 明治天皇が政権についたのは、一九六八年一月三日でした。

 同年四月七日、太政官(明治政府)が五つの高札を立てます。五榜の掲示(ごぼうのけいじ)です。五倫道徳遵守、徒党・強訴・逃散禁止、切支丹・邪宗門厳禁、万国公法履行、郷村脱走禁止を民衆に命じました。幕府の禁令をひきつぎ、新政権の反人民性を示すものでした。

 第一札。「定 一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事 一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事 一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ惡業アル間敷事 慶應四年三月 太政官」。

 第二札。「定 何事ニ由ラス宜シカラサル事ニ大勢申合セ候ヲ徒黨ト唱ヘ徒黨シテ強テ願ヒ事企ルヲ強訴トイヒ或ハ申合セ居町居村ヲ立退キ候ヲ逃散ト申ス堅ク御法度タリ若右類ノ儀之レアラハ早々其筋ノ役所ヘ申出ヘシ御褒美下サルヘク事 慶應四年三月 太政官」。

 第三札。「定 一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事 慶應四年三月 太政官

 閏四月四日改正 先般御布令有之候切支丹宗門ハ年來固ク御制禁ニ有之候處其外邪宗門之儀モ總テ固ク被禁候ニ付テハ混淆イタシ心得違有之候テハ不宜候ニ付此度別紙之通被相改候條早々制札調替可有掲示候事 (別紙) 一 切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事 一 邪宗門之儀ハ固ク禁止候事 慶應四年三月 太政官」。

 第四札。「覚 今般 王政御一新ニ付 朝廷ノ後條理ヲ追ヒ外國御交際ノ儀被 仰出諸事於 朝廷直ニ御取扱被爲成萬國ノ公法ヲ以條約御履行被爲在候ニ付テハ全國ノ人民 叡旨ヲ奉戴シ心得違無之樣被 仰付候自今以後猥リニ外國人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業等イタシ候モノハ 朝命ニ悖リ御國難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦 御交際被 仰出候各國ニ對シ 皇國ノ御威信モ不相立次第甚以不届至極ノ儀ニ付其罪ノ輕重ニ随ヒ士列ノモノト雖モ削士籍至當ノ典刑ニ被處候條銘々奉 朝命猥リニ暴行ノ所業無之樣被 仰出候事  三月 太政官」。

 第五札。「覚 王政御一新ニ付テハ速ニ天下御平定萬民安堵ニ至リ諸民其所ヲ得候樣 御煩慮被爲 在候ニ付此折柄天下浮浪ノ者有之候樣ニテハ不相濟候自然今日ノ形勢ヲ窺ヒ猥ニ士民トモ本國ヲ脱走イタシ候儀堅ク被差留候萬一脱國ノ者有之不埒ノ所業イタシ候節ハ主宰ノ者落度タルヘク候尤此御時節ニ付無上下 皇國ノ御爲叉ハ主家ノ爲筋等存込建言イタシ候者ハ言路ヲ開キ公正ノ心ヲ以テ其旨趣ヲ盡サセ依願太政官代ヘモ可申出被 仰出候事  但今後總テ士奉公人不及申農商奉公人ニ至ル迄相抱候節ハ出處篤ト相糺シ可申自然脱走ノ者相抱ヘ不埒出來御厄害ニ立至リ候節ハ其主人ノ落度タルヘク候事 三月 太政官」。

 この政権が、徳川幕府と違った点は、この政権が、成人男性全体を対象に徴兵制をしき、そうして集めた兵隊を海外侵略にかりたてたことでした。

 一八七三年(明治六年)一月十日、徴兵令を発布しました。

 一九七四年(明治七年)二月六日、閣議は台湾出兵を決定します。

 そして、五月二十二日、日本軍が台湾に上陸します。

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その三 明治天皇 朝鮮に治外法権をおしつけます。

 明治天皇の侵略は、つぎは朝鮮に向かいます。

 一八七五年(明治八年)九月二十日、日本の軍艦が朝鮮の領海をおかし、江華島の守備兵が砲撃します(江華島事件)。

 翌一八七六年(明治九年)二月二十六日、日本は、江華島事件を口実に朝鮮政府をおどして、日韓修好条規を調印します(江華条約)。日本は朝鮮に治外法権をおしつけます。

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その四 明治天皇 朕は汝等(なんじら)軍人の大元帥(だいげんすい)なるぞ。」。

 一八八二年(明治十五年)一月四日、明治天皇は、陸海軍の軍人に「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」(軍人勅諭)を下賜(かし)します。前文で「朕は汝等(なんじら)軍人の大元帥(だいげんすい)なるぞ。」と天皇の統帥権を明示しました。続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つの徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文からなります。「忠節」の項では「…世論(せいろん)に惑わず政治に拘らず、只々一途(いちず)に己(おのれ)が本分の忠節を守り、義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」と命じています。

 同年七月二十三日から、朝鮮で兵士、市民が蜂起し、王宮、日本大使館などを襲います(壬午=じんご政変)。

 同年八月十二日、大日本帝国は、壬午政変を受けて徴発令(明治十五年太政官布告四十三号)を制定します。戦時・事変のさいの軍需調達を規定。

 一八八四年(明治十七年)十二月四日から朝鮮で独立党の金玉均らのクーデター計画に日本軍も介入し、清国軍と衝突しました(甲申=こうしん=政変)。

 一八八五年(明治十八年)四月十八日、日本側全権・伊藤博文と清国側全権・李鴻章の両全権の合意の下で天津(てんしん)条約が締結されました。条約の内容は、・日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、四箇月以内に撤兵を完了する。・日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。・将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しないというものでした。

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その五 明治天皇 大日本帝国憲法を発布。「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」。

 一八八九年(明治二十二年)二月十一日、明治天皇は、大日本帝国憲法を黒田清隆首相に手渡し、これを欽定憲法の形で発布しました(一八九〇年十一月二十九日に施行)。

 その内容は、世襲の「神聖ニシテ侵スヘカラス」の天皇が、すべてを支配するというものでした。軍隊の責任者・大元帥も天皇でした。

 「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

 「第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」

 「第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」

 「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」

 「第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」

 「第六条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」

 「第七条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス」

 「第八条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス

 二 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」

 「第九条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」

 「第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル」

 「第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」

 「第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」

 「第十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」

 ………

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その六 明治天皇 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)を発表。「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。」。

 一八九〇年(明治二十三年)十月三十日、明治天皇は、「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)を発表しました。天皇自身の署名だけが記され、文部大臣を介して下賜する形がとられました。「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇(ぎゆう)(こう)ニ奉(ほう)ジ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。」と命じました。

 以下、その全文。

 「朕(ちん)(おも)フニ、我()ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹()ツルコト深厚ナリ。我()ガ臣民(しんみん)()ク忠ニ克()ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)()ノ美ヲ濟()セルハ、此()レ我()ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)(また)(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。爾(なんじ)臣民(しんみん)父母(ふぼ)ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友(ほうゆう)(あい)信ジ、恭儉(きょうけん)(おの)レヲ持()シ、博愛衆ニ及ボシ、學(がく)ヲ修(おさ)メ、業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ、以(もっ)テ智能ヲ啓發シ、德器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇(ぎゆう)(こう)ニ奉(ほう)ジ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕(ちん)ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラズ、又(また)(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足()ラン。

 斯()ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)ノ遺訓ニシテ、子孫臣民(しんみん)ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所(ところ)、之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕(ちん)(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

 明治二十三年十月三十日

 御名御璽(ぎょめいぎょじ)

 これが発表された翌年の一八九一年(明治二十四年)には、第一高等中学校の嘱託教員であった内村鑑三による教育勅語拝礼拒否がありました(内村鑑三不敬事件)。これをきっかけに、各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられました。同年に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治二十四年文部省令第四号)や、一九〇〇年(明治三十三年)に定められた小学校令施行規則(明治三十三年文部省令第十四号)などにより、祝祭日に学校でおこなわれる儀式では「教育勅語」を奉読(朗読)することなどが定められました。これ以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになりました。

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その七 明治天皇 日本は清に宣戦布告します

 一八九三年(明治二十六年)五月二十二日、勅令第五十二号で戦時大本営条例を公布しました。「第一条 天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス/第二条 大本営ニ在テ帷幄[いあく。本営]ノ機密ニ参与シ帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス/第三条 幕僚ハ陸海軍将校ヲ以テ組織シ其人員ハ別ニ定ムル所ニ依ル/第四条 大本営ニハ各機関ノ高等部ヲ置キ大作戦ノ計画ニ基キ其事務ヲ統理セシム」。

 一八九四年(明治二十七年)二月十五日、朝鮮で農民蜂起(甲午農民戦争が始まります)。

 同年六月五日、参謀本部に大本営を設置します。

 同年七月二十三日、日本軍が朝鮮王宮を占領(ソウル)、朝鮮軍を武装解除します。

 同月二十五日、日本は、豊島沖で清の軍艦を攻撃します。

 同年八月、日本は清に宣戦布告します(日清戦争)。主に朝鮮半島の支配権を争った戦争でした。

 一八九五年(明治二十八年)四月十七日、日清講和条約締結(下関条約)。遼東半島、台湾、澎湖列島の日本への割譲。

 以下、同条約全文。

 大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ囘復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勳一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勳一等子爵陸奧宗光ヲ大淸國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ

  第一條

 淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

  第二條

 淸國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス

  一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地

    鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城海城營口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ

    遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼

  二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼

  三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼

 第三條

 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日淸兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ

 該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ

 但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日淸兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界線ヲ維持スヘシ

 第四條

 淸國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀貳億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八囘ニ分チ初囘及次囘ニハ毎囘五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初囘ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次囘ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初囘拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス

 但シ淸國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ

 第五條

 日本國ヘ割與セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スル者ハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニヨリ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ

 日淸兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ

 第六條

 日淸兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ淸國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ淸國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日淸兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ淸國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ

 淸國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス

 第一 淸國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ淸國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス

     一 湖北省荊州府沙市

     二 四川省重慶府

     三 江蘇省蘇州府

     四 浙江省杭州府

    日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス

 第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽舩ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ

     一 楊子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル

     二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル

    日淸兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶淸國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ

 第三 日本國臣民カ淸國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ淸國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ

 第四 日本國臣民ハ淸國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ淸國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ

    淸國ニ於ケル日本臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地税賦課金取立金ニ關シ又淸國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ淸國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス

 此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス

 第七條

 現ニ淸國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤囘ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス

 第八條

 淸國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衞ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初囘次囘ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ淸國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ淸國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場所ヨリ撤囘スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終囘ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤囘セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤囘ヲ行ハサルモノト承知スヘシ

 第九條

 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ淸國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス

 日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ淸國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ淸國ハ又交戰中日本國軍隊ト種種ノ關係ヲ有シタル淸國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス

 第十條

 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ

 第十一條

 本約ハ大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ

 右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ

 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

          大日本帝國全權辨理大臣 内閣總理大臣從二位勳一等伯爵 伊藤博文 印

          大日本帝國全權辨理大臣 外務大臣  從二位勳一等子爵 陸奧宗光 印

          大淸帝國欽差頭等全權大臣太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯 李鴻章

          大淸帝國欽差全權大臣  二品頂戴前出使大臣 李經方 印

 日清講和条約直後に遼東半島の清への返還をもとめるロシア、ドイツ、フランスの干渉。五月に受諾。

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その八 明治天皇 朝鮮王宮に乱入した日本軍守備隊らが、李氏朝鮮の第二十六代国王・高宗の王妃・閔妃を暗殺。

 一八九五年(明治二十八年)十月八日、朝鮮王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが、李氏朝鮮の第二十六代国王・高宗の王妃・閔妃を暗殺しました。

 一八九六年(明治二十九年)三月三十一日、台湾総督府条例を公布。

 同年六月八日、サンクトペテルブルクで大日本帝国とロシア帝国の間で朝鮮にかんする山縣(やまがた)有朋元首相・外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー公の協定がむすばれました。協定では朝鮮の独立を保証すること、朝鮮の財政改革を促進すること、近代的警察および軍隊を組織すること、電信線を維持することについて、共通の意思を明示しました。

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 [読む年表] 三代の大元帥の戦争は何だったのか その九 明治天皇 軍部大臣現役武官制を確立しました。

 一八九九年(明治三十二年)七月十五日、軍機保護法、要塞地帯法を公布。

 一九〇〇年(明治三十三年)三月十日、治安警察法公布。

 同年五月十九日、軍部大臣現役武官制確立。第二次山縣内閣は、陸軍省官制および海軍省官制を改正し、「大臣(大中将)」、「陸軍大臣及総務長官ニ任セラルルモノハ現役将官ヲ以テス」と定めました。これは、軍部を権力の淵源としていた藩閥勢力が、力をつけてきた議会・政党勢力の軍事費削減攻勢に対する処置として執ったものです。これ以後、大命降下があっても、軍部が現役武官の中から大臣候補を挙げなければ組閣できず、辞職して代わりの候補を出さなければ内閣を維持することもできないこととなりました。この規定によって、軍部の意向を抜きに組閣し、内閣を維持することは難しくなりました。

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2012.09.20

二〇一二年九月十八日 火曜日 三代の大元帥の戦争」。

二〇一二年九月十八日 火曜日 三代の大元帥の戦争」。

 晴れ。

 朝四時ころまで日本史の勉強。

 平和資料館・草の家へ。
 Iさんが来ていました。
 NAさん、Kiさん来訪。

 手榴弾の件、あすお会いすることができることになりました。

 昨夜から「三代の大元帥の戦争」という原稿を書き進めています。

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二〇一二年九月十九日 水曜日 「体力章検定規格手榴弾 美津濃謹製」。

二〇一二年九月十九日 水曜日 「体力章検定規格手榴弾 美津濃謹製」。

 晴れ。

 朝方まで起きていたので眠い。

 妻は、外出。

 午前中は、日本史の勉強。

 午後、Iさんと待ち合わせて「体力章検定規格手榴弾 美津濃謹製」を持っている男性・Oさんのお話をうかがいに行きました。
 僕はオートバイ、Iさんは自転車。
 Iさん、きのう出会ったばかりの二十一歳ですが、すごい人でした。
 Oさんのお話に、じっくり、ねばり強く耳を傾けていました。
 帰りにIさんの自転車の後輪がパンクしていることが判明。
 Oさんが工具類をとりだして、じっくりなおしてくれました。
 
 家に帰ってから一眠りして、午前零時ころから日本史の勉強。

 妻は、実家泊。
 

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二〇一二年九月二十日 平和資料館・草の家の食堂。

二〇一二年九月二十日 平和資料館・草の家の食堂。

 晴れ。

 日本史の勉強。

 昼ころ、平和資料館・草の家のMさんから電話。
 「事務局長が、藤原さんの昼ご飯も用意してくれたわよ。こない」
 実は、昨日の夕飯から食べていません。
 さっそく、行きました。
 事務局長、Mさん、妙齢の女性が食事中でした。
 僕もガツガツと。
 saさんも、やってきて、その輪に加わりました。

 高知県立図書館へ。知りたいことは、鴨田小学校の歴史、槇村浩のこと。

 途中で、「一九四五年七月四日にアメリカ軍が高知市に投下した焼夷弾の数は?」の電話。
 調べて資料を質問者に渡しました。

 家に帰ったら、群馬のかたから毒ガス隊についての論文が届いていました。

 京都の男性から送っていただいたB29墜落のビデオを見ました。

 妻が帰ってきました。
 かなり疲れているようです。

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2012.09.22

【歴史の自習の時間】 異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)って、どんな内容?

 異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)は、外国船がしばしば来訪し上陸や暴行事件、特にフェートン号事件が発生したことに対し、江戸幕府が一八二五年(文政8年)に発した外国船追放令です。
 フェートン号事件は、一八〇八年十月十五日、長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件です。
 この日、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲートフェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港しました。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホウゼンルマンとシキンムルの二人は慣例に従い、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしました。ところが、武装ボートによって商館員二人が拿捕され、船に連行されました。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索をおこない、人質の一人、ホウゼンルマンを派遣して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求しました。
 長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にフェートンの焼き討ち、もしくは抑留を命じ、大村藩などにも派兵を促しました。オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、戦闘回避を勧めましたが、ここに来て長崎警衛当番の鍋島藩が守備兵をわずか百五十人程度に減らしていたことが判明します。
する。
 翌十六日、イギリス船がオランダ人一人を釈放して、欠乏食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきました。襲撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を受け入れ、食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送りました。このためイギリス船は残りのオランダ人も釈放し、翌十七日に港外に去りました。
 松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹しました。幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、十一月には藩主鍋島斉直に百日の閉門を命じました。
 その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は異国船打払令を発令しました。

 ・データーは、ウィキペディアなど。

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【歴史の自習の時間】 徳富蘇峰(とくとみそほう)と大東亜戦争との関係。

 徳富蘇峰(とくとみ そほう)さん(一八六三年三月十四日~一九五七年十一月二日)は、ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家、政治家。本名、徳富猪一郎(とくとみいいちろう)。
 一九四〇年九月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出しました。
 東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔書を添削しています。
 一九四二年五月、日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれました。
 一九四四年二月、『必勝国民読本』を刊行しました。
 一九四五年七月、ポツダム宣言が発せられましたが、蘇峰は無条件降伏の受諾に反対。昭和天皇の非常大権の発動を画策しましたが実現しませんでした。

 ・データーは、ウィキペディアなど。

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【歴史の自習の時間】 大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)って、何ですか?

 大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とは、大東亜戦争(アジア太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として一九四二年一月から終戦まで実施された国民運動です。
 大東亜戦争開戦の日(一九四一年十二月八日)に「宣戦の詔勅」が公布されたことにちなんで、毎月八日に設定されました。
 一九四二年一月二日に閣議決定されました。

 大詔奉戴日設定ニ関スル件
 昭和17年1月2日 閣議決定

 一、趣旨
 皇国ノ隆替ト東亜ノ興廃トヲ決スベキ大東亜戦争ノ展開ニ伴ヒ国民運動ノ方途亦画期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラレタル日ヲ挙国戦争完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス
 二、名称
 大詔奉戴日
 三、日
 八日
 四、実施項目
 趣旨ニ基キ大政翼賛会ニ於テ政府ト密接ナル連絡ノ下ニ設定スルモノトス
 五、実施
 昭和十七年一月ヨリ大東亜戦争中継続実施シ大政翼賛会之ガ運用ノ中心トナルモノトス
 六、昭和十四年八月八日閣議ノ決定ニ依リ設定セラレタル興亜奉公日ハ之ヲ廃止シ其ノ趣旨トスル所ハ 大詔 奉戴日ニ発展帰一セシムルモノトス

 国旗掲揚、君が代吹奏、宮城遥拝、詔勅・勅語の奉読などのほか、学校では御真影(ごしんえい)の奉拝や分列行進などもおこなわれました。

 「詔奉戴日の歌」もあります。
 尾崎喜八・作詞。信時潔・作曲。服部正・編曲。ビクター、一九四三年十月。

 ・データーは、ウィキペディアなど。

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【歴史の自習の時間】 清沢洌(きよさわきよし)さんって、どんな人?

 清沢洌(きよさわきよし)さん(一八九〇年二月八日~一九四五年五月二十一日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。 一九二七年、東京朝日新聞に入社。その著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」(大杉栄殺害犯として獄中にある甘粕正彦憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破するというストーリー)は、国体を冒涜するものとして批判され、一九二九年、清沢は東朝退社に追い込まれます。
 以後は、フリーランスの評論家として活動します。
 一九四一年二月二十六日、情報局は各総合雑誌に執筆禁止者のリストを交付しましたが、、清沢の名前もそこに含まれていました。
 アジア太平洋戦争開戦後1年経過した一九四二年から、清沢さんは「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めました。
 それが、戦後、『暗黒日記』として戦後公刊されました。
 
 ・データーは、ウィキペディアなど。

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アジア太平洋戦争中の学校での手榴弾投 ここに、こんな記事があります。

 アジア太平洋戦争中の学校での手榴弾投のことが載っているページがありました。

 以下です。

http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/si-tairen.html

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二〇一二年九月二十日 土曜日 四年半の学生生活で一番難しい試験でした。うーーーん。

二〇一二年九月二十日 土曜日 四年半の学生生活で一番難しい試験でした。うーーーん。

 晴れ、小雨。

 午前六時起床。
 午前八時、試験会場に到着。
 午前九時半から正午まで筆記試験。午後は面接。
 これまで四年半の学生生活で一番難しい試験でした。

 昼休みに校内のマンジュシャゲを撮影しました。

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【ニュース】 このニュースにパチパチ=尖閣諸島 日本の領有の正当性を主張 日本共産党の志位委員長、中国大使と会談。

 ここにあります。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-22/2012092201_01_1.html

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またまたヒット=外交交渉による尖閣諸島問題の解決を 2012年9月20日 日本共産党幹部会委員長 志位 和夫。

外交交渉による尖閣諸島問題の解決を 2012年9月20日 日本共産党幹部会委員長 志位 和夫

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-21/2012092103_01_1.html

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2012.09.23

二〇一二年九月二十三日 日曜日 いま明かす、わが短歌論。短歌に勝手な「決まり」を持ちこむべからず。

二〇一二年九月二十三日 日曜日 いま明かす、わが短歌論。短歌に勝手な「決まり」を持ちこむべからず。

 晴れ。

 高知県短歌大会に参加。
 高知大学のときの後輩・Eさんに四十数年ぶりに出会いました。
 鳥取の奥田さん、彼女、元気でしたよ。
 夕方から懇親会。司会をやることになりました。
 カラオケをやりたいということになりましたが、機械の操作もわからず大汗をかきました。

 ここで、私の短歌理論を。

 五、七、五、七、七のリズムを大切に。
 ほかは自分なりの勝手な権威づけられた理屈を他の人に押しつけないこと。
 いわいる「短歌ってこう詠むべきだという短歌理論」は、創作の一定の「手引き」になる場合はあるでしょうが、おうおうに創作の足かせになります。
 「短歌理論」は、その人の個人的な「えらそうぶった流儀」にすぎません。
 たとえば、私が短歌の源流は『古事記』だから、『古事記』のような漢字で表記するべきだという「理論」を提示します。だれが、そんな馬鹿なことに同調するでしょうか。
 いまの言葉で、自由に詠めばいいのです。
 大切なことは、何をうたうのか、その内容が読んでくれた人に的確に届いて、感動を与えることができるかということです。
 字あけ、行替え、用字用語など、おもうがままに、どうぞ。
 横書きでもいいですよねー。
 文字の大きさが、五、七、五、七、七と、いろいろ変っていてもすてきです。
 小説なんて、どんな決まりもありませんね。
 短歌は、おくれってるー。
 なぜ、短歌って、「こうすべきだ」って「大家」が多いのでしょう。たいした短歌をよんでいるわけでもないのに。
 だれが僕のハートを射抜くように作品をつくってくれましたか。
 もちろん、そんなかたは、たくさんいます。
 彼女や彼が、僕のハートを射抜くように作品をつくってくれたからこそ、僕は短歌を詠むようになりました。
 でも、そんな人たちは、決して「短歌は、こうあるべきだ」なんて、いわなかった人たちです。
 (そのうちに、私が、「これぞ短歌」という作品をお見せします。あと三、四十年くらいかかりそうですが……)

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【写真】 国民学校で使っていた訓練用手榴弾。あのミズノ製です。

Photo  

 「体力章検定規格手榴弾 美津濃 謹製」

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2012.09.24

二〇一二年九月二十四日 月曜日 陶器製の訓練用手榴弾。【写真あり】

Photo

二〇一二年九月二十四日 月曜日 陶器製の訓練用手榴弾。【写真あり】

 晴れ、曇り。

 午後、KAさんと香美市の女性宅へ。
 「つれあいさん」が持っていた陶器製の訓練用手榴弾を見せてもらいました。
 お話を聞いていたら楠目小学校の出身で、一九四〇年三月卒業のかたでした。
 あの「祈念 皇紀二千六百年 中野玉到●書」の碑があった小学校です。
 「紀元二千六百年」の歌をうたったといいます。

 奉祝國民歌「紀元二千六百年」
 内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定 増田好生・作詞/森義八郎・作曲 一九四〇年二月発売

  金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
 いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
 あゝ 一億の胸はなる
 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
 はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年
 あゝ肇國(ちょうこく)の雲青し
 荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
 感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
 あゝ報國の血は勇む
 潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
 世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
 あゝ燦爛(さんらん)のこの國威
 
 正義凛(りん)たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
 力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
 あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる

 帰りに楠目に行って、例の石碑を見ました。
 道沿いに「楠目小学校跡地」の石碑があり、その左手に、それがあります。
 裏面は「寄附者芳名」。数えたら五十三人。中には大法寺部落常会、談義所上組常会の名もありました。
 道を隔てた所に「忠魂碑」の石碑がありました。
 これには、大東亜戦争の戦病没者もまつられていました。一九四五年三月十日に再建されたものです。

 夜は高知短期大学専攻科の授業へ。
 税法を二時間続けて学ぶことにしました。

 妻は風邪。

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2012.09.25

二〇一二年九月二十五日 火曜日 香美市の新改(しんがい)の横穴壕、高坂高等女学校の人文字、新改のマンジュシャゲ。【それぞれ、写真あり】

二〇一二年九月二十五日 火曜日 香美市の新改(しんがい)の横穴壕、高坂高等女学校の人文字、新改のマンジュシャゲ。

 晴れ。

 香美市の新改(しんがい)へ。
 ここのあたりに一九四五年夏、陸軍第五十五軍の司令部が展開していたはずです。
 登り口の左手の家に、たまたま帰っていた男性。「うちにも、軍隊がいた」。
 少し登った所の男性。「この家の右手で軍隊が斜め下に穴をあけて泥炭をとっていました」。
 もっと登った所の左手の家の女性。「ここへ登ってくる手前の喫茶店の横でも泥炭をとっていました」。 
 オートバイで山道を走ったら右手には横穴壕、横穴壕の崩れた跡がいっぱい。
 ここは何日かかけて歩いてみるべきだと思いました。

Photo

 「もっと登った所の左手の家の女性」に高知市の高坂高等女学校のときの人文字の写真を見せてもらいました。
 それは、シンガポール陥落を祝ったものだといいます。
  シンガポールの戦いは、一九四二年二月七日から二月十五日にかけておこなわれた大日本帝国軍隊の攻撃です。

Photo_2

 新改でマンジュシャゲの写真を撮影しました。青空の入ったものです。

Photo_3

 香美市の図書館に行って陸軍第五十五軍の司令部のことを調べました。

 高知県立図書館へ行って紀元二千六百年のことを調べました。

 高知短期大学の専攻科の授業。
 当面、私は、〇尖閣列島の問題、〇教育委員会の成立と、その後-について勉強することにしました。

 

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2012.09.26

高知の藤原義一から、みなさんへ。二〇一二年九月二十六日の近況です。

 高知大学を「成績の事情、経済的な事情」で三年生の終わりにやめてしまった藤原は、六十五歳の、いま、学問に燃えています。

 二〇〇七年末の定年退職後、夜間の高知短期大学社会科学科、香川県の徳島文理大学文学部文化財学科、高知短期大学専攻科に進みました。いま、「学問五年目」です。

 いま、高知市の民間の資料館、平和資料館・草の家の学芸員をしています。
 楽しい所ですよ。ときどき、昼食を、居合わせた仲間と食べます(私は、女性たちがつくってくれるのを食べるだけですが)。
 第四金曜日には、夕方、「どなたでも、どうぞ。会費は千円です。岡村正弘館長の手料理を、どうぞ」という、飲み会をやっています(前期は、出れなかったのですが、後期は「金曜日は、授業はお休」にしました)。
 僕は、若いスタッフと共に小冊子『高知の戦争 証言と調査』の編集をしています。いま、十八号、十九号をつくっています。
 それと、高知民報に「石に刻まれた高知の戦争」(二十回連載)を書いています。
 僕の、いまの調査のテーマは、当面、「高知出身の皇国史観の小学生・吉田豊道が、十九歳で反戦詩人になるまでの思想遍歴」、「国民学校でやられていた手榴弾投げの訓練の実際」、「小学校の記念誌に見る高知県の各国民学校の戦争」、「高知城などにB29が墜落した日」、「香美市の新改(しんがい)の陸軍第五十五軍司令部の実態」、「高知県に配備された毒ガス弾の迫撃砲部隊の実態」などです。
 
 九月末の、ある集まりでの「買い物難民解決のために」のミニ講演の弁士になっています。
 十月には二つ、高知県の戦跡めぐりツアーのガイドを引き受けています。

 高知短期大学のリポートでは、後期には、「石に刻まれた高知の戦争」を再構成して論文を書く予定ですし、当面、尖閣列島問題、教育委員会成立史、高知の和紙産業について、高知における風船爆弾製作の実際を書く予定です。

 今月に大学院の試験を受けました。
 「社会人試験」では、なくて「一般選抜試験」でした。
 するどい質問に答えられない場面もありました。
 これでだめなら、「様子」がわかったので、今回を参考にして後期の試験もうけようと思っています。

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二〇一二年九月二十六日 水曜日 『高知の戦争 証言と調査』十八号を校了。

二〇一二年九月二十六日 水曜日 『高知の戦争 証言と調査』十八号を校了。

 晴れ。

 妻は、まだ風邪で寝ています。
 朝飯をつくって食べてもらいました。
 
 『高知の戦争 証言と調査』十八号を校了。
 やったーーっという感じです。

  『高知の戦争 証言と調査』十九号の原稿を一本まとめました。

 『世界』十月号を探しにいきました。

 夜は、高知短期大学専攻科の授業。
 高知における風船爆弾づくりをまとめる決意をしました。

 夜食は、ギョウザ中心。

  妻は、実家泊。

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2012.09.27

二〇一二年九月二十七日 木曜日高知県下の風船爆弾づくりについての原稿の第一稿を書きました。

二〇一二年九月二十七日 木曜日高知県下の風船爆弾づくりについての原稿の第一稿を書きました。

 晴れ。

 午前十一時、商店街復興について高知市役所で取材。

 平和資料館・草の家へ。
 女性から電話。「父が野市の、いまの動物園の近くにシンガポールから運んできた大砲をすえつける砲台をつくるのに参加したといっています。木枠を組んでやったそうです。試射もやったといっています。そこは、いま、どうなっているでしょうか」

 会議に参加。

 きのうからきょうにかけてインターネットで頼んだ十数冊の本が届きました。
 とにかく読まなくては。

 高知県下の風船爆弾づくりについての原稿の第一稿を書き上げました。
 

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