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2012.09.08

槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その十四 薬水洞(やくすどん)ソビエト政府の跡地を見ました。

 二〇一二年九月五日、水曜日。曇りのち晴れ。

 大日本帝国の頭道溝(つどうこう)領事館分館の跡を見ました。

 薬水洞(やくすどん)ソビエト政府の跡地を見ました。
 御影石の石碑の正面には「薬水洞抗日記念碑 殉難烈士万歳!」(中国語、朝鮮語)という濃い赤い字が刻まれていました。
 「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「29」に、ここのことが載っています。

 (前略)1930年5月に進行された“赤い5月闘争”は、5月23日から一部の農村で土地革命闘争へ移った。薬水洞、頭道溝、達羅子、三道溝等の農民たちは党組織の指導下に宣伝隊と特務隊を組織して親日派と土豪劣紳を清算し、小作料契約書と高利貸文書を燃やしてしまった。彼らはまた地主、土豪劣紳及び親日派たちの食糧と財産を没収し、貧困農民たちに分け与えた。.
 中共延辺特別支部では1930年4月末、黄埔軍官学校出身である朝鮮族共産党員・申春を革命群衆の基礎がしっかりしている薬水洞一帯に派遣して土地革命を展開するようにした。 “赤い5月闘争”の中で薬水洞の農民たちは農民赤衛隊を組織し、地主の荘園に攻めこんで地主の高利貸文書を焼いてしまい、食糧と財物を没収して農民たちに分けてやった。
 1930年5月27日は薬水洞とその一帯の農民群衆たちにとって忘れることができない日だ。薬水洞上村の八間家の庭先で開かれた群衆集会で申春は“薬水洞ソビエト政府が樹立された!”と荘厳に宣布した。これは東北で初めての人民政権の誕生だった。それも日帝治下と封建統治の輩たちの鼻先で開かれた歴史的壮挙だった。
 申春は、ソビエト政府の創立大会で、薬水洞ソビエト政府創立の歴史的意義とその使命に対して、氷上を滑るように打ち明けた。申春の熱情的な演説は大会に参加した群衆たちの胸に熱い波を起こしてくれた。先祖代々、搾取と貧窮の頚木に押さえ付けられて、動物にも劣る生活を続けて来た貧しい農民、無権利農民たちに権利が与えられたのだから、これ以上の喜びがどこにあろうか。群衆はソビエト政府の構成員を選出し、スローガンを叫びながらデモ行進を断行した。
 “日本帝国主義を打倒しよう!”
 “国民党軍閥政府を打倒しよう!”
 “地主の土地を没収して貧困農民に分けてやろう!”
 “土地革命を行おう!”
 “ソビエト樹立を援護する!”
 数百人の群衆たちはスローガンを叫びながらデモ隊列に加わった。薬水洞学校の宣伝隊員たちは、赤いネクタイをひらめかせつつ行進した。掛け声と歌声が一日中、薬水洞の空を震わせた。

 出よう出よう争いに出よう
 勇ましい勢いで さあ早く出よう
 帝国主義軍閥たちは死ねと催促して
 強奪と虐殺はやりたいだけやる

 デモ隊群衆たちは地主と親日派の家の前でさらに力強くスローガンを叫び、団結した力を誇示した。デモは三日の間続いた。怒った群衆たちは罪悪がとりわけ多い親日派を何人か捕らえ、処断した。そして高利貸付業者たちの財物を没収して貧困な農民たちに分けてやり、彼らの高利貸文書と小作料契約書を暴き出して燃やしてしまった。李キョンチョンら10人により組職された農民赤衛隊は日夜を分たず見回りながら農民たちのデモ闘争を護衛した。
 薬水洞の農民たちはソビエト政府創立大会の決意によって“5.30”暴動の激しい闘争に参入した。暴動の後、日本警察たちは薬水洞に乱入し、100人余りの青年を逮捕した。薬水洞ソビエト政府は日本の連続的な弾圧で活動を展開することができなくなった。そして薬水洞ソビエト政府は創立されてから3日後にやむを得ず地下に潜らなければならなくなった。
 同年8月末、中共辺疆区委では、薬水洞の農民たちを指導して再度土地革命を断行した。彼らは薬水洞ソビエトが創立されたところで再びソビエト代表大会を開き、“ソビエト建立大会決議案”を採択し、辺疆ソビエト政府の創立を宣告した。大会では李鳳三が旧ソビエト政府主席に当選し、政府内には宣伝、行政、経済、軍事などの部署を置いた。同年 10月、中共辺疆区委は闘争の需要によって薬水洞を発ち、長仁崗方面へ移動しながらソビエト政府をしばらく取り消し、農民協会がソビエト政府の事業を代替するようにした。
 ソビエト政府の樹立は延辺での一つの偉い事件に違いない。しかしこれはつまり中国共産党の“左”傾路線の産物だった。これについて延辺大学歴史学教授・朴昌昱先生は次のようにいう。
 “<赤い5月闘争>は中国共産党の指導の下に朝鮮共産主義者たちが動員して起こした最初の反帝反封建闘争です。この運動を通じて多くの共産主義者たちが中国共産党に加入しました。成熟した闘争とはいえなかったが、この闘争を経て中国共産党の影響を朝鮮族の群衆中に波及させました。この闘争を経た後、東北で初めての薬水洞ソビエト政権を樹立するようになりました。この闘争の教訓は<左>傾でした。余裕のない状況で進行したため、理論と実践を結び付けることができなかった誤謬を避けることが出来ませんでした。”
 薬水洞はまた中共延辺第一次党員代表大会が開かれた由緒深い場所でもある。会議場所はソビエト政府があった村(今の薬水洞村の西北の方1.5kmの山すそ)の真ん中にあった70平米余りの朝鮮式の草家だったが、今は崩れて家の跡地が僅かに残っているだけだ。
 1930年7月、中共延辺特別支部書記である王耿は中共満州省委秘書長・蓼如院と一緒に延辺に戻った。蓼如院は省党委の派遣を受けて中共延辺特別支部に協力し、元朝鮮共産党員たちが個人の身分で中国共産党に加入する事を審査しに来たのだ。蓼如院と王耿は足繁く各県へ行って元朝鮮共産党員を中国共産党員に吸収する事業をした。かくして当時、延辺の中共党組織は迅速な発展をみせた。こんな状況において、7月下旬、蓼如院と王耿は延吉県依蘭溝南洞で中共延和中心県委建立準備事業に関する会議を召集した。会議は6日間開かれたが、しめて15人が参加した。会議では中共中央の東北での朝鮮族農民闘争と朝鮮族たちが中国共産党に加入することに関する指示精神を学習し、区当委を建立、党員代表大会を選挙するなど問題を研究した。会議の後、会議に参加した党幹部たちは各地に降りて延和中心県委の建立のための準備事業をするようにした。
 中共延辺特別支部書記だった王耿は足繁く薬水洞に通い、辺疆区党員代表会議を開いて朱ヒョンカプを書記とする中共辺疆区委を建立した。薬水洞は党事業の基盤がしっかりしており、党の会議を開く上で相応しかった。
 1930年8月13日、各地から来た党員代表たちは、薬水洞上村に集まった。代表大会議では中共中央の指示に従って党の策略と総路線を貫徹することについての措置を立て、元朝鮮共産党党員たちを中共党員に吸収した事業を総括し、7人の委員と 2人の候補委員で構成された中共延和中心県委指導機構を選挙した。彼らの中には元中共延辺特別支部書記だった王耿、中共満州省委特派員朴ユンソ、馬駿、元朝鮮共産党党員だった金ソンモ、韓ビョル、李ヨングクの全(靴下製造労動者)、崔(建築労動者)、李(貧民)姓を持つ党員代表もいた。中共延辺延和中心県委の委員会部署と幹部陣営は次のとおりだった。
 書記・王耿(朝鮮族)、組職部長・馬駿(朝鮮族)、宣伝部長・韓ビョル(朝鮮族)、軍事部長・朴ユンソ(朝鮮族)、青年部長・李ヨングク(朝鮮族)、女性部長・金ヨシン(女、朝鮮族)
 中共延和中心県委は中共満州省委傘下直属である延辺での党の最高機関だった。中心県委が建立された後、その傘下には開山屯区委など10の区党委と61の基層党支部があり、党員はしめて480人にまで発展した。
 中共延和中心県委では農民運動を勢いよく発展させ、党組織と公聴団組織を発展させると同時に、農民協会など大衆団体を結成して土地革命を行った。そして赤衛隊、遊撃隊など武装団体を組織して、革命委員会を建立し、地方暴動を具体的に指導した。かくして同じ年の9月になって、延辺地区の党、党員たちはおよそ千名余にもなり、いろいろな大衆団体には5000人余りの群衆が参加、革命組織の影響の下、群衆たちは5万名余に達した。 

 石碑の近くにマツムシソウの花がきれいに咲いていました。

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