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2012.09.08

槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その二 えっ、「♪クロパトキンの首を取り 東郷大将 万々歳」。

 二〇一二年九月一日、土曜日。晴れ。
 午前五時、高知駅北口をマイクロバスで出発。合計十八人。

 高知大学の一年生のとき、私は高知市出身の反戦詩人・槇村浩(まきむらこう)の詩集を読んで「こんな詩人がいたのか。そして、彼は、その思いを貫いて死んでいったのか」と背筋がゾクッとするような感動を覚えました。
 あれから数十年。私は、彼の詩の一つ、「間島パルチザンの歌」の舞台、いまの中華人民共和国吉林省の延辺(イェンビェン)朝鮮族自治州への高知市からのツアーの一員になっていました。
 延辺朝鮮族自治州は、こんな所だといいます。
 旧称・間島。総面積、四万三千四百七十四平方キロメートル。人口、二〇〇九年で二百十八万七千万人。六県級市・二県を管轄しています(延吉市、図們市、龍井市、琿春市 、和龍市、敦化市、汪清県、安図県)。州人民政府所在地は延吉市。現在、全人口のうち漢族が過半数以上の五九%を占め、朝鮮族の割合は三九%に低下しています。
 西南部に白頭山(標高・二六九一メートル)がそびえ、この山から流れ出る豆満江を境にして北朝鮮の咸鏡北道と接し、東部はロシアの沿海地方、北部は黒竜江省牡丹江市と接します。西部は同じ吉林省の吉林市と通化市です。
 古代の高句麗、渤海の故地であり、敦化市には渤海初期の都城・東牟山がありました。渤海の壁画古墳として名高い六頂山貞恵公主墓(敦化市)はこの時代の遺跡です。渤海の都は、その後、上京竜泉府(黒竜江省牡丹江市)に遷ったが、自治州内には東京龍原府(琿春市)、中京顕徳府(和龍市)が置かれていました。渤海滅亡後は女真の領域となり、明代には建州衛が置かれました。
 清代後期に延吉庁と琿春庁が置かれ、満州国時代には間島省が設置されました。
 高句麗の以前から満州族の住まう土地でしたが、清代に入ると、この地を満州族の聖地と見なし一般人の出入りが禁じられました。そのため人口密度が極端に低い状態が続き、そこへ貧困から当地に密入国する朝鮮族が増え不法に定住を始めました。清政府は、その対策として取締りの強化と、この地への中国人の移動を許可するにいたりました。
 満州国時代になると日本への不法移住朝鮮人の受け皿として、この地がその役割を果たすこととなりました。
 日本統治下において、日本本土への渡航を禁止された朝鮮人の大半は本土への不法移住から満州国へと流れました。この時期には合法・不法問わず多くの朝鮮人が移住をおこなっています。
 中華人民共和国が成立すると、一九四九年に吉林省延辺専区が設けられ、一九五二年に延辺朝鮮族自治区となり、一九五五年には延辺朝鮮族自治州となりました。一九五八年に敦化県(当時)を併せて拡大されました。文化大革命時期には州長であった朱徳海(朝鮮族)が「地方民族主義の金持ち」として紅衛兵に迫害され、死亡したこともあります。

 マイクロバスのなかで僕と同じ学年の女性と一つ学年が下の女性が小学生のときの手まり歌のことを話していました。

 一列談判破裂して
 日露戦争はじまった
 さっさと逃げるはロシアの兵
 死んでも尽くすは日本の兵
 五万の兵を引き連れて、

 六人残して皆殺し
 七月八日の闘いに
 ハルピンまでも攻め寄せて
 クロパトキンの首を取り
 東郷大将 万々歳

 この歌の背景は日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)です。
 クロパトキンはロシア軍の将軍です。
 日本軍は、ハルピンに近い奉天まで攻め込みます。
 東郷大将は、東郷平八郎大将のことです。
 私たちの子どものころには、「戦争」がまだ生々しいものとして残っていたのですね。

 関西国際空港で二人合流。
 午後、日本からのツアー二十人は長春空港に着きました。
 案内役の韓国の作家・戸田郁子さんが迎えに来てくれていました。
 中国人の男性のガイドでバスから長春市を見てまわりました。
 ここは日本が満州国をつくったときの首都でした。日本は、ここに関東軍をおきました。
 まず、満州国について書いておきます。
 満州は 、女真族(後に満州族と改称)の支配区域でした。
 満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)があります。
 清朝滅亡(一九一二年)後は中華民国の領土となりました、事実上、軍閥の支配下に置かれました。
 一九三一年、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)が満洲全土を占領しました。
 関東軍の主導のもとに同地域は中華民国からの独立を宣言し、一九三二年三月一日、満洲国の建国にいたりました。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀がつきました。

 槇村浩さんの、くだんの詩が生まれたのが「 一九三二・三・一三」ことに注目を。

 男性のガイドさんによると、ここの市の花は、クンシランだそうです。
 「アフリカ原産ですが、ここには満州国時代に日本から入ってきました」
 いろんな日本の施設だった所を教えてくれました。
 関東軍の拉々屯(ららとん)戦車部隊。
 関東軍の一〇〇部隊。「細菌部隊ですチフス、コレラの試験をやっていました」。
 協和会本部。
 関東軍司令部。
 関東軍の憲兵司令部。
 ……………

 初日の宿泊地。長春の金都飯店に到着。ツアーの一人は若い女性の観光案内の人と、かつて自分が住んでいた家を探しにいきました。
 戸田さんの夫、東京都からのツアー客も加わって総勢三十人に。

 反省会あり。

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