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2012.09.08

槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その九 一九二八年二月結成の中国共産党龍井村支部の碑を見ました。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 一九二八年二月結成の中国共産党龍井村支部の碑を見ました。
 つぎのようなことが刻まれていました。
 「延辺最初の党の基礎組織 龍井村支部発祥の地
 一九二八年二月二十八日、中共延辺最初の党支部、龍井村支部は『民声報』社を拠点とすると宣して周東郊を書記に任じた。
 同年八月、満州省委員会の指示・方針によって中共東満区委員会が、周東郊書記、刘建章組織委員、趙志剛宣伝委員で設立し、そのもとに九つの基本支部委員会を設けた。
 龍井は単独の支部で支部書記は周東郊が兼ねた。
 延辺地区の革命闘争は中国共産党の指導のもと、大いに発展した。」
 これについては「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「27」に書いてありますので、それを引用させていたただきます。

 (1921年7月、上海で誕生した中国共産党は、結党前後に)党員幹部を東北に派遣し、革命活動に携わるようにしたが、そのうちには朝鮮族の初の中国共産党員・韓楽然もいた。韓楽然は、1924年春に東北に派遣され、奉天、ハルピン等で事業をしながら青年運動を指導した。
 1927年10月24日、ハルピン道里区で東北第1次中国共産党代表大会が開かれ、中共満州省委が誕生、省党委機関を奉天においた。以後、東北地区に統一的な党機関が存在することとなった。
 1928年の初め、中共満州省委では民衆の土台と革命運動の土台がしっかりしている延辺に中共党員である周東郊を派遣して党組織を建立、発展させる事業をするようにした。そして1928年2月、延辺で初めて中共共産党組織である中共龍井村支部が“民声報”社を拠点として設立された。周東郊が党支部書記を引き受けた。
 “民声報”の漢文版主筆・安懐音は新聞社内の進歩勢力の前で自分の主張をすることができなくなると、1928年夏、辞職して天津に帰った。この機会に周東郊は中共満州省委に陳情して党幹部を派遣してくれるように要求、共産党員・孫ジャミン、李ビョルチョンが派遣され、新聞社に就職した。かくして“民声報”の主筆から責任編集に至るまで全て共産党員となり、“民声報”は実際上、中共龍井村支部の戦闘陣地になった。中共龍井村支部が建立された後、中共北方局では、地方教育部門で北平の該当当局に教員を派遣してくれと要求を申し立てる機会を得て、1928年3 月から6月まで延辺に派遣されて来た北平香山慈幼院の卒業生のうち17人の共産党員と公聴党員を一緒に派遣した。
 延辺に到着した17人の党員、団員たちは、すぐに周東郊と連絡をとり、中共龍井村支部の指導の下で地下建党事業を展開した。かくして1928年7月、各地には基層団支部が立てられるようになった。
 8月には中共満州省委の指示精神によって、中共東満区委が建立された。周東郊が書記を引き受け、組織委員をリュウ・コンジャン、宣伝委員をチョウ・ジガンが引き受けたが、リュウ・コンジャンとチョウ・ジガンはいずれも香山慈幼院の卒業生だった。東満区委を “民声報”社においた。 1928年10月、中共東満区委が再組織されたが、周東郊が書記を引き受け、組織委員を李ビョルチョン、宣伝委員を孫ジャミンが引き受けた。
 中共東満区委とその傘下の党組織では、学校を基本陣地として青年学生たちに革命的道理を宣伝、愛国主義を宣揚しながら積極的な活動を展開した。しかし当時の党事業はただ知識階層だけに局限され、広範な労農大衆に深入することができなかった。 1929年1月15日、中共東満区委書記の周東郊が龍井の国民党特務たちに逮捕され、2月には書記代理であるリュウ・コンジャンも龍井で逮捕された。孫ジャミン、利ビョルチョンら北平から来た党員たちも前後して身を避けて延辺を去ってしまい、中共東満区委は実際上瓦解してしまった。
 1928年12月、国際共産党政治書記局では朝鮮共産党各派が申し込んだ朝鮮共産党中央委員会のテーゼの主要内容は朝鮮共産主義者たちは必ず“派争を乗り越えて少資産階級の垣根を脱して労農民衆を堅固な基盤とするボルシェビキ化した党を再建設”するようにと促求するものだった。
 “12月テーゼ”の精神を受け入れた朝鮮共産党各派は、派争を乗り越えてボルシェビキ化した党を再建するという名分の下にそれぞれ再建設委員会を設けた。
 各派再建委員会は、中国共産党組織と接触しながら東北朝鮮族人民たちの実情に基づいて革命事業をし始めた。しかし広範な朝鮮族人民の闘いは、冒険主義傾向と各派の間の対立によって大きな損失を見た。このような欠点を見出した革命人民たちは、各派再建委員会に徐々に糸口を感じ始め、充分に統一団結されるように民衆運動を正確に指導することができる有力者を捜すのに苦心した。
 中共満州省委では、国際共産党の“一国一党”の原則により、東北にある朝鮮共産主義団体を争取して中国共産党に加入させる事業を展開した。朝鮮族たちは中国管内から中国共産党に先に加入し始めた。
 1927年9月、上海の朝鮮共産党国際連絡部は、“一国一党”の原則により主体的に中国共産党に加入し、中共江蘇省委員会の所属である“法南救韓人支部” を組織し、続いて北京の朝鮮族共産主義者たちも中国共産党に加入して北京支部を設立した。
 1930年1月と3月に中国共産党満州省委では2回にわたって朝鮮共産党各派代表大会を召集し、中国共産党加入問題を討議した。そして李チュンサン、韓ビンらを上海に派遣して、中国共産党加入問題を討議した。そして1930年3月、ハルピンで各派代表たちの協議会があったが、火曜派の金チャンなどの少数人が中共党加入に同意せず、朝共党再建を主張した以外は、大部分の代表は中国共産党加入に賛成した。会議の後、エムエル派は“宣言”を発表し、エムエル派満州総局の解散を宣布し、中国共産党に加入することを表示した。火曜派の東満道幹部たちは、総局の意図如何を問わず先に解散宣言を発表し、中国共産党に加入し始めた。ソサン派は“在満朝鮮人共産主義者同盟”を設立したが、共産主義者同盟は結局“朝鮮革命延長論”であり、“一国一党”原則には合わないという批判を受け、同年8月に解散されてしまった。そして東北での朝鮮共産党は事実上解体されてしまった。
 一方、中共満州省委では、李ワン、李チュンサン、韓ビン、張時雨、金ジェチュン、金キチョルらを各地に派遣し、中国共産党加入を宣伝、彼らの入党手続きを手伝い、各地に中共満州省委の所属で地方党部を設立した。.
 “朝鮮共産満州総局は解散されたが、歴史的意義は大きいです。
 10年間たとえ<朝鮮延長論>、派閥争い、妄動主義の手違いを犯すことはしたが、今後中国共産党の活動に相当な利益を与えたりしました。マルクス・レーニン主義と社会革命思想を手広く伝え、多くの革命群衆団体を生み出しました。これは中国共産党が都市工作から農村工作に入ることができる堅固な基礎を作ることとなりました。1931年以前には東北に党員186人だけだったが、1931年には1700人余りになりました。延辺だけでも党員636人がいるようになり、朝鮮族中国共産党党員は全党員の90%を占めていました。多くの共産主義人材が養成されたが、寧安、密山、穆陵、湯原、盤石等の第1代の県委書記はすべて朝鮮族党員幹部たちでした。
 10年間、数千名の優秀な共産党員たちが養成されたが、李チョルブ(朝共党中央委員)は中共河北省委書記にまでなりました。 <8.18>事変の後、まず朝鮮族地区で遊撃根拠地が作られたのも、朝共党の基礎があったからです。一言で朝鮮共産党満州総局の活動は、中国共産党の東北での発展に大きな役目を果たしました。”
 朝鮮共産党満州総局の役目に対して延辺大学歴史学教授の朴昌昱先生は高く評価した。
 中共東満区委が破壊された後、中共満州省委では朝鮮族共産党員・王耿(原名:文カプソン)を延辺に派遣して党組織を再建させた。
 王耿はまず八道河子(今は徳新郷崇民村)に来て教鞭を取り、身を隠しているチョウ・ジガンを捜し、省委の指示を伝達して党組織再建事業を研究した。王耿は最初は八道河子、大子一帯で事業をした。しかしこの一帯が日本の侵略者たちが龍井から朝鮮へ通じる交通要路のため、憲兵の警戒が厳しいため党事業を展開するには不便で移動が必要になった。チョウ・ジガンは和龍県教育局長のクァン・ジュンオンの支援を得て、王耿を和龍県第二小学校(今は龍井市開山屯鎮光昭小学校)教員に就任させた。王耿は教員の身分で当時、和龍県所在地だった大子で建立された中共延辺特別支部は、2月20日、王耿が教鞭を取っている開山屯へ移した。王耿が書記を引き受け、チョウ・ジガン、李ボクヘ、ヨ・イルピョンが委員を担当した。王耿の積極的な努力で、特別支部は15人の党員に発展し、石建坪、南陽坪、大子、東梁社に基層党支部を置くこととなった。やがて汪清県大坎子にも支部を建立した。
 中共延辺特別支部が建立された後、積極的に党組織を回復する事業を展開すると同時に、延辺の実情に合わせて土地革命を進行し、高利貸反対、租税納付反対、国民党政府で教育権を回収することに反対するなど、スローガンを立てた。
 1930年4月、中共満州省委では、朝鮮族共産党員の朴ユンソ、馬駿を延辺に派遣し、中共延辺特別支部に協力し、“赤い5月闘争”を発動させ、闘争の中で元朝鮮共産党党員たちから選抜し、中国共産党に加入させた。
“赤い5月闘争”の中で元朝鮮共産党党員たちは中共延辺特別支部の指導の下に積極的に闘争に参加し、考察を経て中国共産党に加入した。そして党の組職建設が比較的早く進展した。しかし闘争の中で一部の幹部と組職が暴露され、特別支部メンバーであるチョウ・ジガンらがやむを得ず延辺を去ることになり、特別支部には王耿ひとりだけが残るようになった. 5月中旬、王耿(既に李ワルリョンと改名)、李チャンイル、朱建、李鏞などは延辺特別支部を再組織した。書記そのまま王耿が引き受けたが、彼らは皆朝鮮族だった。
 中共延辺特別支部では大衆を指導して“赤い5月闘争”を展開し、日帝の気炎を挫いていった。しかし日本軍警たちの残酷な弾圧により多くの党員幹部たちが逮捕され、犠牲になった。王耿もやむを得ず延辺を去り、奉天で中共満州省委を訪ねた。
 中共延辺特別支部は朝鮮族の共産主義者たちと広範な朝鮮族大衆を、過去の狭隘な民族主義から脱して中国共産党の指導下に多くの民族人民たちと連携して日本帝国主義と国民党反動統治に反対する闘争へと導き、元朝鮮共産主義者たちが過去の派閥観念を捨て、中国共産党の指導下に中国革命に献身するように導いた。 

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