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2012.09.08

槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その七 「奪取十五万元事件遺址」

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 東陽里の低い丘の下に「奪取十五万元事件遺址」(龍井市三・一三紀念事業会。一九九〇年六月三十日)の石碑がたっています。
 これは、一九二〇年一月四日の事件です。
 これについては「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「13」に書いてありますので、それの一部を引用させていたただきます。

  “今はこんなにポプラが立っているが、昔は柳が生えていました。すぐそこに東陽村があり、村には結構居酒屋もありました。”

 龍井“3.13”記念事業会会長で龍井抗日歴史研究会会長である崔根甲先生は、村があった所を示した。廃村になった場所には木と雑草が茂っているだけだった。

 “<3.13>運動で犠牲になった同志らが仇討ちして民族の独立を勝ち取ろうと思えば、武器がなければならないということを骨身にしみるように感じた鉄血光復団のメンバーたちは、寝ても覚めても武器を揃えなければならないという考えでした。”

鉄血光復団メンバーである崔鳳卨、林国楨、韓相浩は武器を揃えるためにロシアに渡る決心をした。ここに彼らの父親たちは小牛を売って旅費を用意してくれた上、何としても鉄砲を手に入れて来なさいと鼓舞してくれたりした。

 ロシアに渡った三人は、労働者として資金を稼いだ。お金になる事ならどんなことも厭わなかった。武器を買うためにコツコツとお金を貯めながら、大変な苦労を経験した。お金が集まると彼らは拳銃4丁、長銃2丁、手榴弾いくつかを買って帰郷した。

 “3.13”運動以後、延辺各地では反日武装団体が雨後の竹の子のように設立された。彼らは武装の根拠地を設けて軍事訓練所、士官養成所のようなところを大量に設立、軍事人材を養成する一方、民間にある猟銃などを取り入れて素早く武装し始めた。

 このような時にシベリアでソ連社会主義革命に武力で干渉しようと攻め寄せたチェコ軍団が敗れ、本国に帰るようになった。彼らは長銃一本と弾薬100個を日本円30円で叩き売りしていた。これは軍資金さえ手に握れば勝手に武器を購入することができる絶好の機会に違いなかった。

 1919年夏、延辺地域の有志たちは、軍資金を集めて国民議会軍事部長で鉄血光復団幹部である金河錫に与えて武器を購入してくれるよう頼んだ。そして2000丁余りの鉄砲と数十万発の弾丸を購入することになった。ところが運輸途中、武器を積んだ船が台風に会って沈没したため、惜しくも武器が全て海に沈んでしまった。このような災いの責任を負わなければならなかった金河錫は、延吉県臥龍洞にある鉄血光復団メンバーの崔鳳卨に、早急に軍資金を用意する方法を講じるように指示した。

 鉄血光復団メンバーの崔鳳卨、尹俊熙、林国楨らは、早い期日内に軍資金を得るためには日本銀行を襲う方法しかないと口を揃えた。そのためには金融機関にいる朝鮮族と渡りをつけなければならなかった。彼らは日本の金融機関の活動を綿密に調査する中で、国民会会員である全弘燮が朝鮮銀行龍井出張所の書記として働いていることを知った。尹俊熙は全弘燮に龍井村キリスト教病院裏の共同墓地で会おうという手紙を出した。約束した時間に尹俊熙は林国楨と共に全弘燮に会って、幹部の指示と軍資金募金の情況を紹介した後、“日本の奴らが会寧から龍井銀行に送る銀行券輸送金額とその具体的な時間さえ分かれば、軍資金募集はとても手軽に解決できる”と言った。

 これに対して全弘燮は自分も奴らの銀行券輸送に何回か立ち会ったことがあるとして、情報を収集したら直ちに連絡すると答えた。

 そして1919年12月大晦日、全弘燮はついに重要な秘密を知った。偶然な機会に龍井出張所所長の渋田五郎が武田次郎と話すのを立ち聞きしたところ、新年1月4日もしくは5日頃に会寧から約15万元の現金を輸送して来るとのことだった。全弘燮は直ちに崔以鵬の舅である金夏奎を通じて、崔以鵬に極秘情報を伝えた。

 1920年1月1日、全弘燮の極秘情報を受けた崔以鵬は即時に尹俊熙を訪ねた。“先日、貴兄から依頼された事が1月4~5日にある由”という内容の文が書かれたメッセージはあまりにも突発的で激動的だった。尹俊熙と崔以鵬は興奮して臥龍洞にある金河錫の家へ走って行った。全弘燮のメッセージを受けた金河錫は、尹俊熙と崔以鵬に、次に明東にいる金ケハの家を訪ねて、そこに待機している朴雄世と金俊に会い、行動計画を綿密に組むように指示した。 1月3日、尹俊熙、金俊、朴雄世、崔以鵬、韓相浩、林国楨ら6人は、金ケハの家に集結、襲撃計画を立てた。襲撃地点を東陽里に決めて行動に便利なように六人を二組に分けた。

 1920年1月4日、家々の煙突から遅い朝の煙がゆらゆらと立ち上り、時々割れるような音が平和に聞こえて来る東陽里村は、今日に限って不意にのんびりしたように見える。

 拳銃、早繩、鉄棒を携帯して明東村を発った六人は、獅子山と立岩を眺めながら今日の大仕事が成功すると固く信じた。夕方頃には東陽里に到着した彼らは、漢族のリュウ・チュングィ、リ・スオクが経営する居酒屋に入って食事をした後、二組に分かれて表通りのそばの柳の木に隠れ、送金隊伍が現れるのを待った。1時間が経ったのに銀行券輸送隊は現われない。大地を闇が包み始めた。

 4日もしくは5日というから、もしかしたら明日来るのではないか。明日また来て待たなければならないのか。隊員たちは寒さの中でどうしたらよいか分からず、うろうろしてばかりいた。尹俊熙は崔以鵬に一人は見張りとしてずっと柳の木で待つようにし、朴雄世、金俊と一緒に会寧方向で偵察に行った。半時間後、尹俊熙一行は、荷物を積んだ馬を先に立たせた敵方の輸送隊を見付けた。

 “輸送隊に間違いない!金俊さん、はやく崔以鵬に知らせて下さい!”

 尹俊熙は簡単に言い付けて朴雄世と一緒に道の傍らに待ち伏せた。金俊から消息を受けた崔以鵬一行は、すぐに戦闘態勢を整え、敵方が来る方向に向けて身構えた。

 何も知らない敵方の輸送隊は、ふんぞり返ったまま東陽里に入った。 100m、 50m、 30m... 輸送隊であることがますますはっきり判ってきた。銀行券を積んだ馬が先頭になり、その後に郵便物を積んだ馬が続いていた。一行は全部で6人、龍井から派遣した銀行員の春口、会寧銀行支所書記の金ヨンオク、日本巡査の長友、朴ヨンフブ、商人のチン・キルブンその外に郵便員の原柏だった。郵便物を積んだ馬と銀行券を積んだ馬を先に立たせ、その後にチン・キルブンと長友巡査が馬に乗って続き、少し離れたところを春口銀行員と朴巡査、一番後ろを原柏が付いて来ていた。

 “ダン!ダン!”

 冬の夜の静寂を破り、高い銃声が鳴り渡った。尹俊熙の射撃信号だった。隊員たちは一斉に日本巡査護送隊に向けて集中射撃を浴びせた。最前で馬に乗って来た日本巡査と商人チン・キルブンが鉄砲に撃たれ、馬の上に倒れ込んだ。襲撃隊員たちは猛虎のように柳の木陰から飛び出し、肝をつぶしてどうしたらいいか分からない敵方を攻撃した。馬から落ちた日本巡査の長友が最後のあがきをしたが、朴雄世と金俊の鉄棒に殴られ、即死した。そこで銃声に驚いた馬がいななき、走り去っていった。

 “早く馬を捕まえて下さい!”

 尹俊熙は叫びながら銀行券を積んだ馬を捕まえた。崔以鵬も駆けつけて郵便物を積んだ馬を取り押さえた。尹俊熙と崔以鵬は15里離れた山の中で馬を止めた。少ししてから、韓相浩が駆けつけた。馬に載せた黒い袋を開けた瞬間、三人は歓声を挙げた。10元紙幣が5万元、 5元の紙幣が10万元、全部で15万元の新しいお金がギッシリと詰まっていたのだ。

 三人はお金を分けて五道溝を経て海蘭江を渡った後、朝陽村を経由して布爾哈通河を渡り、会合地点である臥龍洞に到着するつもりだった。一方、朴雄世と金俊は襲撃地点から自分たちの足跡を隠すために郵便物を積んだ馬を駆って尹俊熙一行が去った反対方向に逃走した。

 一行は苦しい強行軍にて夜明け3時頃には臥龍洞に到着した。彼らは臥龍洞の崔以鵬宅の裏山の茂みの中の丸太小屋で夕方8時までぐっすりと寝た後、お金を積んで金河錫のいる依蘭溝へ出発した。依蘭溝ですべての準備を整えた尹俊熙、崔以鵬、韓相浩、林国楨ら4人は、金河錫と一緒に1月10日、資金を持って武器を購入するためにウラジオストクに向けて出発した。

 事件の勃発した後、日本側は血眼になって捜索した。 1月5日、龍井駐在日本領事館では盗難事件を解決しようと数百人の中国・日本の警察を派遣して朝鮮族人民を検挙逮捕した。 1月6日、日本は日本警察36人と地方巡査57人を動員し、臥龍洞を捜索しながら盗難事件の糸口を掴むようになった。そして崔以鵬の足跡を捜して四方に捜索網を広げたが、崔以鵬一行は既に敵方の追跡から逃れた後だった。

 日本が尹俊熙一行を逮捕するために悪戦苦闘している時、彼らは新韓村に泊まっており、武器商たちと連繋を結び始めた。仕事が順調に進められるだけ持って来たお金で、3万丁余りの鉄砲を買うことができた。

 武器購入の責任者である林国楨が親交のある厳仁燮を訪ね、武器購入について詳論したことが結局禍根になってしまった。厳仁燮は変節してウラジオストクの反日闘争隊伍に隠れ、日本の子分役をしていたのだ。厳仁燮はまんまとウラジオストクにある日本憲兵隊に状況を密告してしまった。

 日本政府は憲兵隊の情報提供受けた後、直ちに朝鮮羅津港から日本海軍の軍艦をウラジオストクに派遣した。朝鮮人反日闘士たちを一網打尽にする緻密な計画を立てた日本は、1月31日夜、新韓村を大々的に検挙し始めた。

 尹俊熙らは武器交渉のために宴会を開き、楽しく酒を飲んで横たわるやいなや夢の中に落ちてしまった。真夜中、犬が体が縮むような声で鳴くので目が覚めた。一行は騒がしい外の様子にハッとして準備したが、時は既に遅かった。全身武装した日本の軍警たちが、既に彼らが投宿していた朴チャムボンの家を完全に取り囲んでいたのだ。尹俊熙、韓相浩、林国楨はむっくり起き上がって裏門から抜けようとした。急に前後のドアがぐいぐいと開かれるや、真っ黒な銃口が彼らに向けて差し込まれた。三人はどうすることも出来ずに逮捕されてしまった。

 隣部屋のドアの傍で寝ていた崔以鵬が、事態の重大性を把握、門を開けるや、前に立っている日本軍を足で蹴飛ばした後、駆け付けながら背丈より高い垣根を飛び越えた。日本軍憲兵たちが崔以鵬に向けて集中射撃を浴びせた。右側の肩に銃弾を受けた崔以鵬は、傷から流れ出る赤い血を片手で押えながら、裸足でずっと走った。すくせに今度は左の足にまた傷が出来た。何回も目の前が真っ暗になるのを堪えながら、ひたすら走った。崔以鵬は反日秘密工作員である蔡聖河の家を訪ねた。

 この事件により現場にあった日本円12万8000円余りを押収され、ウラジオストクに駐屯していた 500人の朝鮮族反日闘士たちも全部逮捕されてしまった。

 1921年8月25日、日本はソウル監獄で尹俊熙、韓相浩、林国楨に死刑を言い渡し、残酷に殺害した。この時、尹俊熙は30歳、韓相浩は23歳、林国楨は27歳だった。

 九死に一生を得て生き残った崔以鵬はその後、“赤旗団”を結成した後、団長職務を引き受けてソ連と延辺で武装闘争を展開した一方、地下工作を続けた。 

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コメント

色々とストーリーがあるんですね。

投稿: 吉野@自然療法 | 2012.09.19 00:17

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