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2012.09.08

槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その八 間島日本総領事館を見ました。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。

 龍井市政府庁舎にあるレンガづくりの間島日本総領事館を見ました。
 これは一九二六年五月に竣工した建物です。

  延辺地域の五か所に分館がおかれました。

 間島日本総領事館の地下一階に拷問室が五つありました。

 若い女性の解説員は「トウガラシを水で溶かして、それを鼻から口から、ずっと流し込むという拷問もありました」と話しました。
 ここについては「朝鮮族ネット」の「朝鮮族近現代史」の「7」に書いてありますので、それを引用させていたただきます。

 四隅に厳粛なトーチカを配した薄暗い赤い煙瓦の垣根、2mを越えるその赤い垣根に囲まれている美色の建築物-龍井市六道河路869番地、龍井市人民政府事務庁舎として使われているこの建築物こそが、悪名高き間島日本総領事館遺跡地である。(中略)
 1909年9月4日、清を強要して“間島協約”を締結した。日本は吉林から朝鮮会寧に至る吉会鉄道修築権を獲得し、局子街、百草溝、頭道溝、龍井などを日本に開放する商業都市に決め、延辺での領事裁判権を得た。
“間島協約”第2条、第7条の規定により、その年11月1日、日本は龍井に設置した“統監府間島派出所”を“間島日本総領事館”に改称し、本格的な侵略活動を敢行するようになる。
 (中略)豪壮なこの鉄大門の前で前任龍井市文連主席・金在権先生に会い、間島日本総領事館の状況を聞いた。
 “今ご覧になっているこの庁舍は、1922年11月に焼けた後、1924年に着工して1926年に竣工したものです。建築面積は2503平米ですが、垣根に囲まれている敷地は4万 2944平米にもなります。領事館は地下一階まで合わせて3階になったが、中間南側が見ての通り5階で、突出しています。外壁はクリーム色のタイルを付け、屋根はあのように緑色のペンキを塗ったブリキ屋根です。庁舍の後に地下室に降りる門があり、反日闘士たちの取り調べをする監獄でした。今は龍井革命歴史展覧館です。間島日本総領事館は建立されたその日から、延辺地区で悪辣極まりない罪行をやらかしました。そして抗日愛国志士たちによって2度も燃やされて灰燼になりました。”
 間島日本総領事館は、建立初期には代理総領事と副官1人、書記2人、警察署長1人と 16人の警察官だけだった。しかし1920年に韓国統監府から300人の警察を導入し、総領事館に警察部を置いた。同時に10ヶ所余りに警察署を設置、1928年10月2日には日本から100人余りの警察を導入、1931年11月には総領事館警察部に“特殊捜査組”を置き、地下組織の情報を収集して革命勢力を破壊する活動を敢行した。
 “1930年11月の調査によれば、総領事館警察部の管轄下に龍井村、局子街、頭道溝、銅仏寺、老頭溝、八道溝、天宝山、依蘭溝、小子、傑満洞、八道河子、百草溝、涼水泉子、琿春、黒頂子、琿春頭道など18ヶ所に警察署あるいは警察分署を増設しました。1935年5月の統計によると警官は646人でした。”
 1937年11月5日、日本と傀儡満州国が締結した“満州国の治外法権を撤回し、南満鉄道付属地行政権を譲渡することに関する条約”によって、その年12月に“間島日本総領事館”と5つの領事分館及び警察署を撤回した。
 庁舍の後の地下室の扉を開くと、狭い廊下が現れる。何メートルか入って行くと、横に抜けた廊下がまた見えた。廊下の両側には小さな部屋があったが、間房と顧問室だったと言う。(中略)
 政府の持ち物を整備しながら掘り出したという日帝が使った銃刀で取調の時に使った道具が陳列されている三番目の部屋に入ってみると、なんとなく緊張して心細かった。天井にぶら下っている“鎖”は真っ黒な錆びが付いていたが、見るだけで鳥肌がぞっと立った。どれだけ多くの反日闘士たちの手首や足首がそこに縛られたのであろうか。どれだけ多くの革命者たちがこの刑場の露と消えたのであろうか。
 “1921年から1937年までの16年間、間島総領事館所属の警察署で朝鮮族反日闘士を2万8245人逮捕したが、なかでも女性が1121人でした。各種の刑罰を受けた人は1万 6949名にもなります。 <9.18>事変以後である1934年一年の例だけ見てもすごいです。1年間に3635人が逮捕され、その時延辺に住む朝鮮族が42万6000人余りだったので、人口比を計算すれば170名のうち1人が逮捕されたことになります。総領事館でいかにすればボイラー室まで監獄として設置しなければならなかったのでしょうか?ボイラー室も足らず、今度は清津監獄に搬送しました。
 1930年第4次共産党事件の時には300人余りの革命者がソウル西大門監獄に搬送されて行ったりしました。”
 延辺大学歴史学教授・朴昌昱先生はまだ発表していない“1907年- 1945年日本帝国主義の統治下に延辺の朝鮮族人民たちが受けた被害情況”という論文原稿を手渡し、悲痛に語った。論文原稿によれば、1907年から1945年の間に間島日本総領事館の指揮下で日本は延辺地区で朝鮮族反日軍民4万名余りを殺害し、3万8000人余りを逮捕拘留した。そのうちでも反日関係者が1万165人だ。 1920年10月9日から12月末まで、日本帝国主義者たちが延辺の朝鮮族反日武装闘争を押えるために展開した大討伐を、朴教授はこの論文で次のように叙述している。
 “日本は侵略軍2万名余を動員し、<庚申年大討伐>を敢行した。その大討伐で日本の侵略者たちは野獣性を余すところなく発揮し、三光政策(全て殺し、全て焼き払い、全て略奪する)を遂行した。その討伐を人々は<間島惨変>と言う。討伐で反日軍民2600人余りが殺害された。”
 間島日本総領事館では、1919年3月13日、当地の軍閥と結託して“3.13”反日デモを弾圧し、1930年5月には延辺の人民が発動した“赤い5月闘争”を弾圧した。 1931年9月20日には、八道河子の小明堂で機関銃で12人の壮青年を殺害し、死骸を家に入れて火をつけて燃やしてしまった。
 1932年4月2日には侵略軍第19師団が延辺に立ち寄り、“千名を誤殺しようとも共産党を一人も逃すな”と叫び、野蛮なホロコーストを敢行して4000人余りを殺害した。間島日本総領事館の指揮下で敢行された罪行はそれ以外にもどれだけ多いのか、数え切れない。
 “間島日本総領事館では、龍井に皇民教育を施す初等学校を建てた後、局子街、頭道溝、百草溝等に分校を増築した。領事館では生活費、教科書、寮を供給してくれるなどの手段で多くの朝鮮族学生たちを誘引し、引き入れました。第1期卒業生の中で40%が日本巡査か警察職員になったことだけ見ても、これらの学校で親日分子養成を主眼としたということが分かりますね。事実が証明するように、日本が間島総領事館を設置したのは侵略の勢力を拡大するためでした。朝鮮人を保護するというのは口先だけで、事実は朝鮮人を支配するためのもので、朝鮮の殖民統治に脅威を与える反日基地を撲滅するためのものでした。総合的にみて、間島日本総領事館は、延辺を侵略して抗日武装闘争を弾圧し、延辺の豊かな資源を収奪する首脳部でした。”(後略)

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