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2012.09.08

槇村浩生誕百周年「間島(かんとう)」を訪ねる旅 その五 龍井(りゅうせい)の歴史から。

 二〇一二年九月四日、火曜日。晴れ、雨。
 延吉市にいます。
 朝、ホテルで食事をしていたら男性が日本語で「日本からこられましたか」。
 一九三二年生まれ、ここ延辺の人で、東京の大学に留学していたことがあるとのことです。高知にも二回行ったことがある、娘は、つくば市で薬品会社の研究員をしているということでした。

 テレビで川崎市の藤子富士夫の資料館のニュースを放映していました。

 本日は、龍井(りゅうせい)市は人口約二十七万千三百人。うち朝鮮族は、六七・一%。
 ここで龍井の歴史をまとめておきます。

 [龍井の歴史から]

 一八五六年から朝鮮人たちは龍井に定着を始めました。
 一九〇五年九月、日露戦争でロシア軍をやぶった日本軍が龍井三合の対岸の会寧(いまは北朝鮮)に進入。
 一九〇五年十月、会寧に日本軍守備隊が進駐。
 一九〇五年十二月二十一日、第二次日韓協約にもとづいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国は漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府(かんこくとうかんふ)を設置しました。韓国統監は韓国に駐剳する軍(韓国守備軍)の司令官に対する指揮権を有していました。初代総監は、伊藤博文。
 一九〇六年、リーサンソンが、龍井に瑞旬書塾(ソデンショジュ)という学校をつくりました。(この項、要調査)。その後、ここには、たくさんの学校ができました。
 一九〇六年八月、龍井に日本人会が設立。
 一九〇七年八月十九日、朝鮮人保護を名目に斉藤中佐率いる日本軍が龍井に進駐。日本は、龍井村に韓国総監府臨時間島間島派出所を設置。
 一九〇九年九月四日、大日本帝国と清が間島協定を結びます。この協定で、大日本帝国は清の間島領有権を認めます。いっぽう、朝鮮人の間島での居住権、間島総領事館を龍井に開設し警察官を駐在させる権利、吉林と朝鮮の会寧を結ぶ鉄道の施設件を入手します。
 一九〇九年十月二十六日午前、大朝鮮国黄海道海州生まれのキリスト教徒で「大韓義軍」の組織者の安重根(アン・ジュングン。一八七九年九月二日生まれ)が、ハルビン駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤博文・韓国統監に近づき発砲、銃弾三発が伊藤に命中し、伊藤は半時間後に死亡ししました。狙撃後、安重根は ロシア語で「コレヤ ウラー!(韓国万歳)」と叫びました。
 伊藤博文を殺した動機として、安重根は検察官の溝渕孝雄に尋ねられた際、以下の理由をあげました。
 一、今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。
 二、今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。
 三、今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。
 四、伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。
 五、韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。
 六、条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。
 七、韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。
 八、韓国ノ学校ニ用イタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノモトニ焼却シマシタ。
 九、 韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁ジマシタ。
 十、 ナンラアテルベキ金ナキニモカカワラズ、性質ノヨロシカラザル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ、韓国民ニナンラノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテオリマス。
 十一、韓国民ノ負担ニ帰スベキ国債二千三百万円ヲ募リ、コレヲ韓国民ニ知ラシメズシテ、ソノ金ハ官吏間ニオイテ勝手ニ処分シタリトモ聞き、マタ土地ヲ奪リシタメナリトスト聞キマシタ。コレ韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス。
 十二、伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ。ソノ訳ト申スハ、日露戦争当時ヨリ、東洋平和維持ナリト言イツツ、韓皇帝ヲ廃シ、当初ノ宣言トハコトゴトク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ、韓国民二千万ミナ憤慨シテオリマス。
 十三、韓国ノ欲セザルニモカカワラズ、伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ借リ、韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通ジ、韓国ニ不利益ナル施設ヲ致シテオリマス。
 十四、今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
 十五、伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。
 一九〇九年十一月二日、大日本帝国は、龍井に間島日本総領事館を設置。代表総領事に鈴木要太郎。局子街(いまは延吉)に間島日本領事館分室に置きます。
 一九一〇年三月二十六日、安重根の死刑が執行されます。
 一九一〇年五月、延吉市局子街日本人会が設立されました。
 一九一〇年十月一日、大日本帝国は、韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するための官庁・朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)をつくりました。庁舎は京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮敷地内に設置しました。韓国統監府を前身とし、旧大韓帝国の政府組織を改組・統合したため朝鮮人職員を多く抱えていましたが、枢要なポストはほぼ日本人が握っていました。初代総督は寺内正毅さん。総督は現役または予備役の陸海軍大将が歴任しました。朝鮮総督は天皇によって勅任され、委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を行使したり、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権や王公族および朝鮮貴族に関する多岐な権限を持っていました。
 一九一一年二月、会寧に日本風の町名・本町、銀座通り、大川町、明治村、栄町、若松町、旭町、敷島町、六和町、祝町、北新地。日本人の数は八百五十余人(一九一三年四月現在)。
 一九一七年、ロシアで十月革命が勃発しました。
 龍井は、抗日運動の中心地でもありました。
 一九一九年三月一日、朝鮮で三・一運動がおこります。この日午後、仁寺洞の泰和館(テファグァン)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げ、万歳三唱をしました。参加者は、三十三人。この三十三人は逮捕されたものの、本来、独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後、市内をデモ行進しました。道々、「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったといいます。以降、運動は朝鮮半島全体に広がり、数か月にわたって示威行動が展開されました。これに対し、朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たりました。
 それに呼応して龍井では三月十三日、三・一三デモがおこなわれました。
  一九二〇年一月四日、東陽里で「奪取十五万元事件」がおこります。
 一九二一年七月二十三日、中国共産党が生まれます。
 一九二八年二月、中国共産党龍井村支部ができます。

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