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2012年10月

2012.10.01

二〇一二年九月三十日 日曜日 すごい風雨のなか、買い物弱者問題の勉強会に参加しました。

二〇一二年九月三十日 日曜日 すごい風雨のなか、買い物弱者問題の勉強会に参加しました。

 雨、風、晴れ。

 午前、すごい風雨のなか、買い物弱者問題の勉強会に参加しました。

 家に帰って原稿の校正作業。

 午後二時半、晴れました。

 夕方、懇親会に参加。計八人の参加でした。
 満月、きれい。

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二〇一二年九月二十九日 土曜日 妻が「首が痛い」。

二〇一二年九月二十九日 土曜日 妻が「首が痛い」。

 晴れ。

 妻が「首が痛い」。
 つぎつぎと病をかかえはじめました。

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二〇一二年九月二十八日 金曜日 「間島」に行った人の交流会に参加しました。

二〇一二年九月二十八日 金曜日 「間島」に行った人の交流会に参加しました。

 晴れ。

 この間、「間島」に行った人の交流会に参加しました。

 ひきつづき、懇親会。

 妻は、実家泊。

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やっと六十五歳になったのに……。ああ、老齢者控除。廃止した政党は……。

 老齢者控除というのがありました。
 老齢者(十二月三十一日において六十五歳に達している人)、かつ、その老齢者の総所得金額が「一千万万円以下」である場合に、一定の金額を所得金額から控除、差し引くことができる所得控除のことです。
 老齢者控除の控除額は「一律五十万円(住民税四十八万円)」、所得金額から控除できました。
 しかし、これが、二〇〇五年以降、廃止となりました(住民税については二〇〇六年以降)。
 この老齢者控除のおかげで税金(所得税・住民税)がほとんど課せられなかった、または少なかった老年者の方も多かったはずです。が、老齢者控除の廃止などの国民負担増を盛り込んだ所得税法等一部改正案が国会を通り、老齢者控除が廃止されたことによって、老齢者の負担税額が増大することとになりました。

 これを提案した与党、賛成した政党の責任を問いたい。

 【参考】

 http://www.sasaki-kensho.jp/kokkai/040227-000000.html

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-09-30/05_01.html

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2012.10.02

二〇一二年十月一日 月曜日 「こんにちは。平和資料館・草の家です」。

二〇一二年十月一日 月曜日 「こんにちは。平和資料館・草の家です」。

 晴れ。

 金曜日に、ある小学校の五年生の戦争遺跡見学の案内をすることになりました。
 うれしい。

 原稿の校正。

 妻は、病院へ。「首が痛い」。

 高知市仁井田の海軍飛行場づくりに動員された男性と連絡がつきました。
 あす朝、会っていただけるとのことです。
 うれしい。

 MAさんが、『高知の戦争 証言と調査』十九号の編集した原稿をメールで送ってくれました。
 
 平和資料館・草の家へ。
 午後の紅茶とおやつをごちそうになりました。
 校正のつづき。
 NIさんに、ある男性の戦争体験の「打ち込み」を、お願いしました。

 夜は高知短期大学の専攻科の授業。税法二つ。

 妻は、あすから点滴とのこと……。

 頼まれた原稿を書きました。タイトルは「こんにちは。平和資料館・草の家です」。
 千二百文字、写真一枚。
 結局、シンデレラ時間を過ぎてしまいました。

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2012.10.03

【歴史の自習の時間】 朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙

  http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200806280106.html

 朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる アサヒ・コム 2008年6月28日10時45分

 日清戦争直後の1895年秋、ソウルの王宮に押し入った日本人らによって朝鮮王朝の皇后閔妃(ミンビ)が殺害された事件で、新史料が見つかった。日本政府高官の間で交わされた手紙。日本では駐韓公使三浦梧楼の独断的犯行とされてきたが、三浦の赴任以前に、資金提供などの懐柔策から「強硬策」に転換することで高官の間で合意が形成されていたと示唆する内容だ。(中略)
 日清戦争の結果、朝鮮からは中国の影響が一掃された。しかし、ロシアなどの三国干渉になすすべもなかった日本に対し、朝鮮王朝ではロシアを味方につけようという動きが出てきた。閔妃はその代表的存在で、日本は駐韓公使の井上馨が中心となり懐柔しようとしていた。朝鮮に300万円を貸与、さらに300万円贈与する計画もあったことが知られている。日清戦争前の日本の国家予算は8千万円で、かなりの巨額だ。
 手紙は韓国のドキュメンタリー映画監督で閔妃暗殺事件を調べていた鄭秀雄(チョン・スウン)さんが東京の国会図書館憲政資料室で探し出した。事件前に交わされたもので12通。鄭さんの依頼で熊本大の小松裕教授(日本近代史)が読み解いた。
 95年8月2日付で野村靖内相が井上公使に出した手紙は、反閔妃クーデターを企てたとして追放され日本に亡命した朴泳孝(パク・ヨンヒョ)内相に、次期駐韓公使に内定していた三浦梧楼陸軍中将と熊本国権党の代表が「ひそかに会った」様子を伝える。日本からの資金は閔妃にも配分すると朴が伝えたが、「貰らはナイ」「コハイ事」と閔妃に拒否された様子も生々しく記されていた。
 芳川顕正法相が陸奥宗光外相と山県有朋前陸相にあてた手紙は6月20日付。一時帰国した井上公使と会った様子を伝える。「弥縫(びほう)策ハ断然放棄シ決行之方針ヲ採ラル」よう伊藤博文首相を説得してほしいと芳川が井上に依頼。長州出身の井上と伊藤は一緒に英国留学した親しい関係。この方針は芳川、陸奥、山県の3人の「合同の意見」だと芳川が説明すると、井上は了承したと書かれている。
 王宮を襲う実行部隊には陸軍の600人などのほか「壮士」と呼ばれる民間人47人が参加した。うち21人を熊本の関係者が占めていた。その背景が浮かび上がる手紙もある。
 奈良県知事などをつとめる官僚が井上に出したもので8月3日付。熊本勢の多くがかかわっていた熊本国権党に強い影響力を持つ国民協会代表の品川弥二郎が抱えた膨大な借金を、井上が立て替え完済したことを知らせるもの。「熊本国権党のメンバーは近年そろって井上に心服している」との内容だ。
 井上の後任公使として三浦は9月1日に赴任。外出もせずに読経に明け暮れていたという。そして閔妃は10月8日に殺害される。三浦は、国王の父が首謀者で実行犯は日本人を装った朝鮮人だと主張したが、欧米外交団の強い抗議で、日本政府は三浦を解任。さらに関係者を召喚し、広島で裁判にかけたが民間人は三浦を含め全員が証拠不十分で免訴、軍人も無罪となった。一方、現地では朝鮮人3人が死刑になった。(後略)(渡辺延志)

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二〇一二年十月三日 水曜日 「65歳以上は何もしなくても生活できる収入がほしいですね」。本当にねー。

二〇一二年十月三日 水曜日 「65歳以上は何もしなくても生活できる収入がほしいですね」。本当にねー。

 晴れ。

 妻は、昨日に続いて点滴のために診療所に。
 きのう、きょうとSAさんが車で送り迎えをしてくれています。
 ありがとうございます。

 この間の台風で、わが家の駐車場の屋根の一部が壊れましたが、きょう、大工さんが二人来てくれて直してくれました。
 妻が手配してくれていました。

 午前、借りている畑(草ぼうぼう)の草刈り。
 腰が痛くならないように座り込んでの作業です。
 弟が、ここに、すごい勢いで畑をつくっています。
 
 シャワーを浴びてから、ひたすら「高知県における風船爆弾の気球づくりの実際」の記事をまとめました。

 午後、高知県立図書館に行って、この件についての本を読みました。

 夜は、短期大学専攻科の二科目を受けました。
 帰りにスーパーで食料を、ごっそり買いこみました。

 家に帰ったら香川県の「かめけん」さんからメールが来ていました。

 「65歳以上は何もしなくても生活できる収入がほしいですね。」
 本当に……。
 
 あした、あさっては、僕の人生を決める日々になります。
 ………

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二〇一二年十月二日火曜日 「[高知県の]越知町郷土防衛隊が、斗賀野峠砲兵陣地構築工事に出動」。

二〇一二年十月二日  火曜日   「[高知県の]越知町郷土防衛隊が、斗賀野峠砲兵陣地構築工事に出動」。

 晴れ。

 午前十時過ぎから平和資料館・草の家で、お近くのNAさんのお話を聞かせていただきました。
 戦争中の高知市三里村の様子です。
 いくつも発見がありました。

 昼休みは、草の家の食事会に参加。僕以外は素敵な女性三人です。

 高知県立図書館へ。
 ふと見ると、NAさんがいました。
 「ここに、こんなことを書いているよ」と、声をかけてくれました。

 越知町史編纂委員会。『越知町史』(高知県高岡郡越知町。一九八四年六月三十日)の「越知町史年表」です。
 一九四五年四月
 「越知国民学校に、中部六五六四部隊設置。」
 同年八月
 「越知町郷土防衛隊(三0名)が、斗賀野峠砲兵陣地構築工事に出動する(隊長 西俊治、橋詰直足)」

 高知短期大学専攻科の授業は税法二科目。

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2012.10.04

二〇一二年十月四日 木曜日 合格で パッとまわりが 色づくよ 世界はかくも 美しいかったか

二〇一二年十月四日 木曜日 合格で パッとまわりが 色づくよ 世界はかくも 美しいかったか

 晴れ。

 ある博物館にある槇村浩関係の資料を見ることができることになりました。
 すっごい。

 午後三時からの、ある大学院の合格発表を見に行きました。やっほー。

 さっそく、そのことを、ある新聞に投書しました。

 だめだった
 夢で目覚めた
 その午後の
 発表を待ってる
 淀んだ気持ち

 掲示はる
 手に隠された
 その場所に
 わが〇一〇五
 あったよー、あった

 合格で
 パッとまわりが
 色づくよ
 世界はかくも
 美しいかったか

 年下の
 合格仲間に
 電話する
 ジワジワジワと
 涙出てきた

 合格の
 通知の手紙
 やってくる
 「入学金だと…」
 妻は「知らんよ」

 「先生は
 大丈夫ですか」
 年配の
 妻の教え子
 みないい人だ

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2012.10.05

二〇一二年十月五日 金曜日 三十歳の戦場ジャーナリスト!?

二〇一二年十月五日 金曜日 三十歳の戦場ジャーナリスト!?

 晴れ。

 妻は回復したのか、朝から外出。

 午前九時過ぎ、高知市内の、ある小学校五年生と先生たちが南国市の前浜公民館前に到着。
 この近くの高知海軍航空隊の七つの掩体見学のためです。
 私は「ガイドさん」。
  「私は六十五歳です。これらがつくられたのは私の父、母の時代のことです。……」と、解説をしました。
 歩いてまわりました。
 ちょうど掩体の一つを南国市役所の人たちが発掘していたので解説をしてもらいました。
 発掘の様子を見ると掩体の底部は現在の地面から数十センチ下だったようです。
 正面からの飛行機の後輪のものらしい溝跡が出てきていました。
 すごい。
 男の子の一人がリュックを背負った私を指して「戦場ジャーナリスト見たい」。
 女の子が「六十五歳っていってたけど三十歳くらいに見える」。

 平和資料館・草の家へ。

 古本店へ。

 夜は高知短期大学へ。

 竹島問題のリポートの準備をしました。

 

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2012.10.06

アメリカに日本を売り渡した男・吉田茂。ひどすぎ。

 六日夜、NHK総合テレビで、かつて日本国の総理大臣だった吉田茂についてのドラマをやっていました。
 それを見て思ったのは、彼は、戦後、日本を、アメリカに売り渡した恥ずべき人物だったということです。
 アメリカに従属した日本。あまりにも悲しい日本です。
 危険なアメリカのオスプレイが四国を飛び回る。
 そんな、悲しい日本の基礎をつくったのは彼です。
 彼を賛美する議論が、ほん少しありますが、それは、かなり悲しいですね。
 吉田茂のやったことを再度検証して、彼を指弾する。そのことこそ高知県の、いまなすべきことではないでしょうか。徹底的に。弁明の余地なく。
 あなたは、あまりにも、ひどすぎる人物でした。あなたのために、日本の国民が、いまも、ひどいめにあっています。    

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2012.10.08

【写真】 田んぼのサギたち 高知市大津乙。

Photo

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二〇一二年十月七日 日曜日 ご近所のシベリア抑留体験者、逝く。

二〇一二年十月七日 日曜日 ご近所のシベリア抑留体験者、逝く。

 晴れ。

 月刊『高知歌人』の原稿をつくりました。このあいだの高知県短歌大会の記録です。終わりません。
 
 夕方、ご近所の男性の通夜に。妻も一緒に。
 シベリア抑留のことをお話ししてくれていたかたです。
 集まりで日本酒をおいしそうにのんでいた姿が目に焼きついています。

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二〇一二年十月六日 土曜日 高知市鴨田のかたたち計二十三人と戦跡めぐり。

二〇一二年十月六日 土曜日 高知市鴨田のかたたち計二十三人と戦跡めぐり。

 曇り。

  高知市鴨田のかたたち計二十三人と戦跡めぐり。
 私はガイドです。
 午前九時集合。
 鴨田の日清戦争のころの川崎伊勢雄の石碑。
 南国市の片山の陸軍陣地跡(木が切られ、壕などが封鎖されていました!!)。
 南国市の高知海軍航空隊の掩体(三か所しかまわれませんでした)。
 香南市の手結(てい)の震洋の基地跡。
 岸本の自衛隊の基地(戦車が配備されていました)。
 これで帰ったら午後四時ころでした。

 夕方、テレビで、さだまさしさんの「無縁坂」を聴きました。
 これがいけませんでした。
 この無縁坂の、すぐ近く、東京都文京区湯島の台東区営住宅の五階で暮らした日々を思い出しました。
 この歌が流行っていたころのことです。
 二部屋でした。
 台東区の中学校の国語教師の妻がいました。
 藤原尋子です。
 長男・カズシが生まれました。
 三か月で亡くなりました。
 絶望。
 しかし、しばらくして長女・カナが生まれました。
 心配して高知県伊野町に住んでいた母がやってきました。
 二男・タダシが生まれました。
 当時、整理記者だった僕は、明け方にタクシーで家に帰る生活でした。
 「あなた。お願いね」
 午前七時ころに起きて二人の子どもを保育園に連れて行きました。
 東洋大学に通う弟も一緒に住んでいました。
 革新都政のころでした。
 公害ぜんそくになったカナ。
 発作で苦しんでいる彼女の口に指をつっこんで食いちぎられそうになったこともありました。救急車で病院に運びました。
 彼女は、無料で治療を受けることができました。
 難病の母も無料で治療を受けることができました。
 その、母は、いまは、いません。

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二〇一二年十月八日 月曜日 「はりきってるけど、きょうは休みよ」。

二〇一二年十月八日 月曜日 「はりきってるけど、きょうは休みよ」。

 晴れ。

 いろいろ予定をたてました。
 午前中は、ここ。午後は、ここと。
 「でも、きょうは、休みよ」と、妻。
 高知短期大学の税法二科目も休みなのか。くすん。
 
 月刊『高知歌人』の原稿二つを書き終えました。
 
 大学院入学の手続きをしています。
 入学金をゲットしました。
 入学に必要な写真を撮りに行きました。

 妻は「結婚記念日(十月十一日)前特別奉仕」で、いくつかの僕関係の文章の校正をしてくれています。感謝。

 現在の僕のくせは「ガオー」、妻のくせは「チェ」。

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2012.10.09

「おじいちゃんもおばあちゃんも」の歌詞

 この間、地域の、あるつどいで保育園の年長組三十人が歌ってくれた「おじいちゃんもおばあちゃんも」の歌詞が、ここにありました。

http://hoick.jp/mdb/detail/2638/%E3%81%8A%E3%81%98%E3%81%84%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%8A%E3%81%B0%E3%81%82%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%82%82

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六十六歳で大学院生になります。高知新聞が、僕の投書を載せてくれました。

 本日、高知新聞が、僕の投書を載せてくれました。
    66歳の大学院生に
 〝勉強弱者〟だった私が、この秋、ある大学院(修士課程)の試験を受けました。暗い、よどんだ顔をして合格発表の掲示板の前に立ちました。………

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2012.10.11

二〇一二年十月十一日 水曜日 「いま、どこ?」、「高松市のホテル」。結婚●年目の、すごーい現実。

二〇一二年十月十一日 水曜日 「いま、どこ?」、「高松市のホテル」。結婚●年目の、すごーい現実。

 晴れ、雨。

 妻は、「きょうは高松市に行く」。
 「へー、そうなの」。

 僕は、ある博物館へ行って資料の撮影。午前十時から午後四時までぶっとおし。
 つづきは、あす。

 激しい雨に濡れながらのオートバイで帰宅の途中、思い出しました。
 「きょうの二時間は、論文の目次を提出することになっていた」
 帰ってから急いで目次づくりの作業。
 夕飯をつくって、それを、かきこんで高知短期大学専攻科の授業へ。

 途中、大学院入学の手続きのための郵便を送りました(妻が保証人二人のうちの一人になってくれて、入学金の一部を負担してくれたことに感謝。)

 授業では論文の脚注のつけかたなどが勉強になりました。先生によって、いろいろと、やりかたが違います。「来週は、一章分を書いてくること」。

 授業終了後、「K君と共に学ぶ会」の集まり。OKIさんが、僕に「おめでとうと、いってくれました」。

 家に帰ってからテレビで娘が「逃げた父」を追っかけるドラマを見ました。つづきもののようです。なかなか、いい感じ。

 妻の所在が不明で、ケータイで電話。
 聞けば、高松のホテルに泊まっているそうです。
 「普通の」夫婦なら離婚騒ぎになるところですよね。そう思いませんか。

 妻は、夫を信頼しきっている(「私のものだから、適当でいいのよ」と思っている)せいか、やりたい放題です。

 あすは結婚記念日です。 

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二〇一二年十月十一日 木曜日 うん十数年目の結婚記念日用の妻のメッセージ。「私は、あんたのために、おりゆうわけやないきね」。迷言です。

二〇一二年十月十一日 木曜日 うん十数年目の結婚記念日用の妻のメッセージ。「私は、あんたのために、おりゆうわけやないきね」。迷言です。

 晴れ、雨。

 結婚記念日。

 コンビニで、朝食、昼食用のモノを買い込んで出発。

 午前十時開始で、ある博物館で作業。二日目。資料の撮影です。

 午後、遅れて、ある文学雑誌の校正作業に参加。午後四時終了。

 グロッキーで喫茶店で一休み。

 午後五時、高知短期大学へ。
 パソコンの部屋で、隣でパソコン作業をやっていたら隣で作業していた柔らかい感じの若い女性が「私、高知大学の編入試験に通りました」。うれしーーい。「よかったですね」。心理学を学ぶそうです。

 一時間目の途中で、大地震発生の訓練。
 二時時間の授業終了後。KさんはAO先生のリードで歩行訓練。先生、ありがとうございます。

 家に帰りつくと、妻が、高松から帰っていました。高松で、東京での友人・孝岡楚田、弘子夫妻に再会したとのこと。 

 結婚記念日用の妻のメッセージ。
 「私にも、やらんといかんことが、いっぱいあります。私は、あんたのために、おりゆうわけやないきね」
 でも、こんなことを結婚記念日の夜に、わざわざ、ゆうかよ。ふつう。妻は、夫に決して同調しない人、自分をつらぬいていく「雄々しい女性」として、その生涯を貫いて生きていきそうです。トホホ………。

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2012.10.13

二〇一二年十月十二日 金曜日 「土佐和紙の歴史の一断面 高知でのアメリカ空爆用の風船爆弾づくり」の一章目を執筆。

二〇一二年十月十二日 金曜日 「土佐和紙の歴史の一断面 高知でのアメリカ空爆用の風船爆弾づくり」の一章目を執筆。

 晴れ。

 午前中は、ある博物館に行って資料の写真撮影。
 やっと終わりました。
 三日間かかりました。
 
 「石に刻まれた高知の戦争」十八回目書き終わりました。
 妻に校正をしてもらって、メールで送信。
 
 昼寝。

 水曜日の授業用の論文「土佐和紙の歴史の一断面 高知でのアメリカ空爆用の風船爆弾づくり」の一章目を執筆。
 完成しました。
 
 妻は実家。
 病気が快復した妻は、普通の生活スタイルに戻りました。

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二〇一二年十月十三日 日曜日 高知城の近くの発掘現場から平安時代の食器など。平安時代には、ここは海ではなかったんだ。

二〇一二年十月十三日 日曜日 高知城の近くの発掘現場から平安時代の食器など。平安時代には、ここは海ではなかったんだ。

 晴れ。

 午前二時半、火曜日の授業用のリポート「竹島問題 日本政府の論点」を書きあげました。

 午前七時起床、重いと思ったらシロネコ二匹が乗っていました。

 インターネットで本を一冊注文。

 『土佐の夜明け』もと思いましたが一万円の価格にひいてしまいました。

定期の病院がよい。

 平和資料館・草の家で昼食。女性三人と、東京から引っ越してきた青年と一緒に。

 高知城の東、高知大神宮の西側の発掘現場を見学。「通りがかりに看板に気づいて」と、いうKE子さんも顔を見せていました。

 平安時代の食器が出土しているのにびっくり。なんか、いままで、ここらは平安時代は海だったという絵がどこかの本に載っていたような……。

 陸軍用地だったことを示すコンクリート製の柱が出ていました。

 アメリカ軍の高知空襲によるとみられる焼けただれた地層もありました。

 家に帰ってから高知県の公選制教育委員会の活躍についてのリポートを執筆。

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2012.10.14

カール・マルクスの『共産党宣言』の全文 ここにありました。

http://page.freett.com/rionag/marx/mcp.html

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2012.10.16

二〇一二年十月十四日 日曜日 高知市介良(けら)の歴史散歩に参加。

二〇一二年十月十四日 日曜日 高知市介良(けら)の歴史散歩に参加。

 晴れ。

 午前九時から午後零時半まで医療生協支部の主催の高知市介良(けら)の歴史散歩に参加。計十六人。日本共産党高知市議の細木良さんらが案内人。妻も参加。鉢伏山の戦争遺跡にも行きました。
 参加者から戦争中の高知市三里の様子、レーダー部隊の様子をききました。

 帰ってから休耕田の草刈り。二時間。

 一眠り。

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二〇一二年十月十五日 月曜日 領土をば増やすつもりで草を刈る休耕田が生き返りそう。

二〇一二年十月十五日 月曜日 領土をば増やすつもりで草を刈る休耕田が生き返りそう

 晴れ。

 開墾地の草刈り。一時間。やっと終わりました。

 領土をば 増やすつもりで 草を刈る 休耕田が 生き返りそう

 妻が家をばーっと出てしまいました。
 で、サツマイモを空揚げにして朝食。

 妻から電話。「私、明日の夕方には帰るからね」。
 
 何だか、お腹がいっぱいでおっくうな感じ。
 昼飯ぬきで高知短期大学へ。
 税法二科目。

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二〇一二年十月十六日 火曜日 お腹が減らなくて、何だかイヤーな感じ。

二〇一二年十月十六日 火曜日 お腹が減らなくて、何だかイヤーな感じ。

 晴れ。

 朝からひたすらパソコンと格闘。
 高知の三つの海軍飛行場についての原稿を書き直しました。
 夜の高知短期大学専攻科の二科目についての資料の印刷。

 きのうの朝にイモの空揚げを食べて、夜はビール小を一本飲んで。が、なんだか腹がいっぱい。
 ええ、ままよと昼飯を食べました。おでんとご飯です。

 夜は高知短期大学専攻科の授業、二科目。

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2012.10.17

【資料】 2012年10月 日本共産党が、いまめざしていること 

「gokai.doc」をダウンロード

 日本共産党中央委員会のホームページのデータを縦書き、三段に加工させていただきました。

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【資料】 日本共産党の提言 ①経済提言 ②外交ビジョン ③尖閣問題 ④即時原発ゼロ 二〇一二年九月二十五日現在

「teigen.doc」をダウンロード

 日本共産党中央委員会のホームページのデータをお借りし、縦書き、三段に加工させていただきました。写真や図表はカットしています。

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2012.10.19

大韓民国政府の竹島問題についての基本的立場 こんな文書がありました。

 竹島問題について勉強中です。

 日本語で書かれた竹島問題についての大韓民国政府の基本的な立場を知りたいと思って探しました。
 いまのところ、こんな文書がありました。
 ほかにもありましたら、お教えいただけませんでしょうか。

 獨島に対する大韓民国政府の基本的立場
http://homepage2.nifty.com/akira/takeshima/dokuto_ha_kankoku_no_ryodo.pdf
 
 独島は大韓民国の固有の領土です。韓国海洋水産開発院 独島研究センター
 http://homepage2.nifty.com/akira/takeshima/dokuto_ha_daikanminkoku_koyu_no_ryodo_desu.pdf
 獨島(竹島)の真実 東北亞歷史財團
http://homepage2.nifty.com/akira/takeshima/dokuto_no_shinjitsu.pdf

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ここにありました。尖閣列島についての中国政府の態度を示す文書。

 尖閣列島についての中国政府の態度を示す文書を探しています。これまでに探せたのは以下のものです。ほかにもあるはずです。ご存じのものがあれば、教えていただけませんでしょうか。

 釣魚島(尖閣列島)に関する中国外交部声明 一九七一年十二月三十日付
http://senkakujapan.nobody.jp/page030.html

 尖閣諸島海域漁船衝突事件についての中国外交部発言 海外立法情報調査室・宮尾 恵美
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/pdf/02450113.pdf 

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〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ①  「神聖にして侵すべからず」の人の支配のもとで

 高知の生んだ反戦詩人・槇村浩(本名・吉田豊道)の歩みを年表風にまとめました。その意図は、大元帥である天皇の御代、軍事強国の日本を賛美する唱歌をつくる少年だった吉田が、いつ、どういうことを契機に、その考えを変えて天皇の戦争に反対する、反戦をうたう青年詩人になったのか。その足取りをたどりたいということです。(引用文の中の[]のなかは引用者のつけた読み仮名です)。

 ・一八八九年二月十一日、大日本帝国憲法発布。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬[そうらん]シ此[こ]ノ憲法ノ条規ニ依[よ]リ之ヲ行フ」(第四条)、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(第五条)、「天皇ハ法律ヲ裁可シ其[そ]ノ公布及執行ヲ命ス 」(第六条)、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第十一条)、「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(第十二条)、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第十三条)。
 ・同年十月二十四日、朝鮮が、凶作のためコメの輸出を禁止する防穀令を出します。日本が武力を背景に撤回させます。
 ・一八九〇年十月三十日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)を渙発(天皇が詔書・勅語などを発すること)。絶対主義的天皇制のもとでの「皇民教育」の基本原理を示したもので、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」と説いています。
 ・一八九四年二月十五日、朝鮮で甲午農民戦争が始まります。
 ・同年七月二十三日、日本軍が朝鮮王宮を占領(ソウル)、朝鮮軍を武装解除しました。
 ・同月二十五日、日本軍、豊島沖で清の軍艦を攻撃しました。
 ・同年八月一日、大日本帝国が清に宣戦布告しました(日清戦争)。
 ・一八九五年一月、大日本帝国が尖閣列島の魚釣島、久場島を沖縄県の管轄とすることを決めます。
 ・同年四月十七日、日清講和条約調印。遼東半島、台湾、澎湖列島の大日本帝国への割譲。
 ・同年十月八日、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、李氏朝鮮の第二十六代国王・高宗の王妃であった閔妃を殺害しました。
 ・一八九六年三月三十一日、台湾総督府条例公布。
 ・同年四月、大日本帝国が、尖閣列島を八重山郡に編入します。
 ・一九〇四年二月八日、日露戦争がはじまりました。朝鮮半島と満洲南部を主戦場とした大日本帝国とロシア帝国との戦争です。
 ・同月二十三日、日韓議定書を調印。日本の朝鮮への内戦干渉を認めさせました。
 ・同年八月二十二日、第一次日韓協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなりました。
 ・一九〇五年一月二十八日、大日本帝国は閣議で竹島を日本領とし、島根県所属にすることに決定しました。
 ・同年九月五日、日露講和条約調印。日本が遼東半島租借権、南満州鉄道権益、サハリン南部などを獲得。
 ・同年九月、日本軍が龍井三合の対岸の会寧(いまは北朝鮮)に進入しました。
 ・同年十月、会寧に日本軍守備隊が進駐しました。
 ・同年十一月十七日、第二次日韓協約調印。これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となりました。
 ・同年十二月二十一日、第二次日韓協約にもとづいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国は漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府を設置しました。韓国統監は韓国に駐剳する軍(韓国守備軍)の司令官に対する指揮権を有していました。初代総監は伊藤博文です。
 ・一九〇六年八月二十七日、大日本帝国が、朝鮮での植民地事業をすすめるための国策会社をつくる東洋拓殖株式会社法を公布しました。
 ・同年十月、イ・サンソンが朝鮮族の後代教育のために龍井に瑞旬書塾という学校をつくりました。その後、ここには、たくさんの学校ができました。
 ・同年八月、龍井に日本人会を設立。
 ・同年十一月二十六日、大日本帝国は南満州鉄道株式会社を設立しました。
 ・一九〇七年七月二十四日、第三次日韓協約締結。大日本帝国が朝鮮の内政権を奪い、軍隊を解散させました。
 ・同年八月十九日、朝鮮人保護を名目に斉藤中佐率いる日本軍が龍井に進駐。日本は、龍井村に韓国総監府臨時間島派出所を設置しました。
 ・一九〇九年九月四日、大日本帝国と清が間島協定を結びます。この協定で、大日本帝国は清の間島領有権を認めます。いっぽう、朝鮮人の間島での居住権、間島総領事館を龍井に開設し警察官を駐在させる権利、吉林と朝鮮の会寧を結ぶ鉄道の施設権を入手します。
 ・同年十月二十六日午前、大朝鮮国黄海道海州生まれのキリスト教徒で「大韓義軍」の組織者の安重根(一八七九年九月二日生まれ)が、ハルビン駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤博文・韓国統監に近づき発砲、銃弾三発が伊藤に命中し、伊藤は半時間後に死亡しました。狙撃後、安重根は ロシア語で「コレヤ ウラー!(韓国万歳)」と叫びました。
 ・同年十一月二日、大日本帝国は、龍井に間島日本総領事館を設置しました。代表総領事に鈴木要太郎。局子街(いまは延吉)に間島日本領事館分室を置きます。
 ・一九一〇年八月二十二日、日本軍の圧力のもとで韓国併合条約の調印。八月二十九日、大日本帝国は、韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するための官庁・朝鮮総督府をつくりました。庁舎は京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮敷地内に設置しました。韓国統監府を前身とし、旧大韓帝国の政府組織を改組・統合したため朝鮮人職員を多く抱えていましたが、枢要なポストは、ほぼ日本人が握っていました。初代総督は寺内正毅。朝鮮総督は天皇によって勅任され、委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権や王公族および朝鮮貴族に関する権限を持っていました。
 ・一九一一年二月、会寧に日本風の町名・本町、銀座通り、大川町、明治村、栄町、若松町、旭町、敷島町、六和町、祝町、北新地。日本人の数は八百五十余人(一九一三年四月現在)。
 ・一九一二年六月一日、吉田豊道が、高知市廿代町八十九番屋敷に生まれました。本籍・高知市比島町七十八番地(のち比島七百三十八番地)。父・才松、母・丑恵。「父才松は三重県の出身、九星学を専攻し周易を業とする。母は高知市弘岡町一三〇番地屋敷の野村束稲、熊の長女として生まれる。野村家は土佐藩の下級武士、三人扶持六石、束稲は戊辰の役に出征、のち近衛連隊の下士官を経て高知県営林局の官吏となる。丑恵は産婆を業としている。豊道は出産予定日より二八日早く生まれたため、牛乳を五倍にうすめて母乳の不足を補った。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』。新日本出版社。一九六四年十月十日 初版)。
 ・同年八月七日、朝鮮総督府が土地調査令を制定。
 ・一九一三年、「誕生日前後、言葉のまだいえない頃から字にたいする感覚がすぐれていた。たとえば自分の名豊道とかいた団扇[うちわ]を使っていた。カルタなどの人物の名前もよく判じた。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九一四年、「母に背負われて街筋の看板の字をよんだりした。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・同年八月一日、ドイツがロシアに宣戦布告。八月三日、ドイツがフランスに宣戦。八月四日、イギリスがドイツに宣戦。八月六日、ロシア、オーストリア開戦。八月十一日~十二日、フランス、イギリスがオーストリアに宣戦。
 ・同年八月二十三日、日本が世界大戦に参戦。九月二日、山東半島に上陸、十一月七日、青島占領。十月、赤道以北のドイツ領南洋群島を占領。
 ・一九一五年~一九一六年、「高知市楠病院で待合室においてある医学雑誌を音読していたのを医師の横山鉄太郎(耳鼻咽喉科医)がみて驚いた。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九一七年十一月七日、ロシアで十月社会主義革命がおこりました。第二回全ロシア・ソビエト大会で「平和についての布告」(無併合、無賠償の平和提案をふくむ)、「土地にかんする布告」を可決し、人民委員会議(議長・ウラジーミル・レーニン)を組織。
 ・同年月十一月十五日、ソビエト人民委員会議が「ロシア諸民族の権利宣言」を発表(分離と自決権をふくむロシア諸民族の平等と主権を宣言)。
 ・同月、ソビエト・ロシアがポーランドの独立を承認。
 ・同年十二月、ソビエト・ロシアがフィンランドの独立を承認。
 ・一九一八年八月二日、大日本帝国政府がシベリア出兵を宣言。
 ・同年十一月四日、吉田の父が胃がんで死亡。
 ・一九一九年三月一日、朝鮮で三・一運動がおこります。この日午後、仁寺洞の泰和館に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げ、万歳三唱をしました。参加者は、三十三人。この三十三人は逮捕されたものの、本来、独立宣言を読み上げるはずだったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後、市内をデモ行進しました。道々、「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったといいます。以降、運動は朝鮮半島全体に広がり、数か月にわたって示威行動が展開されました。これに対し、朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たりました。
 ・同月十三日、龍井では三・一三デモがおこなわれました(延辺の龍井市に「三・一三反日義士陵」(龍井市三・一三殉難義士悼念整備委員会。一九九〇年五月十九日建立)があります。裏側につぎのような意味の文章が刻み込まれ、犠牲者十七人の名前が続いていました。「一九一九年三月十三日、延辺地区の朝鮮人民が、日本帝国主義の朝鮮、中国への侵略政策に抵抗して反日デモに立ちあがった。民族独立の民衆の最初の革命闘争である。」)

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〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ② 吉田の尋常小学校生のころ

 ・一九一九年四月、吉田が高知市第二尋常小学校に入学しました。
 ・同年八月、吉田が母とともに、母の叔父で郵船会社の重役をしていた森田葆先を頼って福岡県門司市に転居しました(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九二〇年六月十五日、高畠素之訳でカール・マルクスの『資本論』刊行(一九二四年完結)。
 ・同年九月、吉田が母と一緒に高知市へ帰ってきます。寄留先は、高知市中島町二八六、山崎産医院。母は、この医院の手伝いとなりました(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・同年十月二十五日、高知市第六尋常小学校の二年生に転入。
 ・一九二一年四月、高知市第六尋常小学校三年生に。主任は、海冶国喜先生。
 ・同年七月、吉田の身長三尺九寸六分(約九十センチメートル)、体重五貫四百二十匁(約二十キログラム)(貴司山冶、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・同年七月二十三日、中国共産党が生まれます。
 ・同年八月、地理歴史の講演で高知入りした参謀本部編纂官・長瀬鳳輔が旅館で吉田と面会。ナポレオン一世のこと、欧州大戦後の新興国の名、西郷隆盛のことなどを質問、吉田は、それに答えました。長瀬は、吉田の地理歴史の記憶力が絶倫であること、数学の理解力も驚くばかりであるところに感心しました。長瀬は、吉田を養子にと母に申し入れました。当時、吉田は病院の看護婦長である母と二人暮らし。長瀬鳳輔「神童 吉田豊道君」=『新青年』三巻十一号。博友社。一九二二年九月一日)。
 ・同年十一月十三日の週刊婦女新聞が「高知の天才児 吉田豊道君」を掲載。「…四歳にして文字を解しその博学多識は人をして舌を巻かしむるもの…」とあります。尋常小学校三年生の吉田が、歴史書五十二冊、地理書三十九冊を所持とあります。
 ・同年十二月、『吉田豊道作 唱歌集』(高知市第六尋常小学校)が出ます。その中の「日本歴史」(一九二一年十一月、高知市本町自宅で)を読むと彼が皇国史観の持ち主で大日本帝国の侵略を是としていたことがわかります。一部を抜粋します。「(一)我が日の本の光輝ある/清き歴史は三千年/動かぬ御代は天つ日の/光と共に限りなし」、「(四)天皇陛下の御先祖の/天の御神の御孫の/にヽぎの尊は日の本の/高千穂峯に降らるヽ」、「(一四)日清日露の戦役に/一躍東洋最強国/大正三年六月に/起こるは世界大戦役」、「(一五)聯合軍は大勝し/我が日の本の帝国は/国威宣揚三強の/列に入つて活動す」、「(一六)建国以来三千年/敗をばとりし事はなく/皇統一系連綿と/眞に世界の大帝国」、「(一七)三強国の列に入り/東洋平和の盟主となり/国威隆々と輝きて/萬世不滅果もなし」。
 ・一九二二年四月、吉田が高知市第六尋常小学校四年生に。
 ・同年五月二十九日、土陽新聞が「“天才児”吉田豊道君」の記事を掲載します。
 ・同年七月八日、吉田が文部省の塚原督学官の提題で「時事論 支那問題」を書きます(『大正十一年八月 吉田豊道創作 童謡と童話』。高知市第六尋常小学校。一九二二年八月)。「……あヽ此[こ]の国に統一の使命をもたらして次に出づる大英雄はそも誰ぞ支邦四億の人民其[そ]の人を待つ事や久し」と、結ばれています。
 ・同年七月十五日、日本共産党が創立されました。
 ・同年七月、『吉田豊道創作 童謡と童話』(高知市第六・尋常小学校お伽会)が出ます。
 ・同年八月、『吉田豊道創作 童謡と童話』(高知市第六尋常小学校お伽会)が出ます。
 ・同年九月、雑誌『新青年』九月号に長瀬鳳輔の「神童吉田豊道君」掲載。
 ・同年十一月、吉田が、高知を訪問した皇族・久邇宮邦彦に進講します。久邇宮からアレキサンダーについてのべよといわれて「アレキサンダーといっても何人もいる。どのアレキサンダーか」とききかえしました(貴司山冶・中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九二三年ころ、高知市第四尋常小学校で吉田のおとぎ話を聞く催し。吉田は教員にともなわれて出席。聴衆は同校の教師と千人近い児童。同校の児童だった永吉すヽむのそのときの吉田の印象=「……小さな身体で、ひどく頭のデッカイ、ぱっちりと開いた瞳が美しく澄みきっていた吉田君は、ぐるりと異校の教員達に囲まれ、千人近い学童の前で話をするのに、いささかのおくする気配も無く、子供とも思えぬタイゼンたる姿であった……」(吉永すヽむ「あの頃の思い出」=近森俊也編集『ダッタン海峡』二・三合併号。小路貞次郎。一九六四年十一月)。
 ・一九二三年三月初め、吉田が高知市の私立土佐中学校の入学試験を受けます。同じ教室で試験を受けた下司順吉の、その日の吉田の印象=「吉田は小柄で、青白い顔をした、頭の大きい少年で、縞[しま]の袴[はかま]をはいていました。黒い大きな瞳がぬれたように輝いて、かしこさがにじみでている感じでした」(下司順吉「吉田豊道の思い出」=『ダッタン海峡』第五号。一九七九年三月十五日)。その日の夕方、十五人ほどの合格者が発表されます。吉田、下司、山本大和、川島哲郎らが合格しました。
 ・同月、吉田が、高知市第六尋常小学校四年生を修了しました。

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 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ③ 私立土佐中学校生徒のころ

 ・一九二三年四月、吉田は、高知市の私立土佐中学校本科一年生に入学します(二年飛級)。
 ・同五日、日本共産青年同盟が創立されました。
 ・同年二学期、吉田は、私立土佐中学校予科一年生に戻され元の仲間と一緒になります。下司順吉の、このころの吉田の印象=「予科のとき、清少納言の『枕の草子』を読んでいるのをみておどろきました。この本は少年たちにはまったく難解な古文です。おもしろいかと私がたずねると、おもしろいというのです。かれは日本文学、外国文学を手あたりしだい読みあさっていました。かれは、もの静かで、ひかえめな人柄で、口に手をあててはずかしそうにものをいう癖がありましたが、ときには文学についての博識をとうとうとのべて、私たちを敬服させました」(下司順吉「吉田豊道の思い出」)。「……『十歳で神童、十五で秀才、二十すぎればただの人』といった調子で教師の虐待をうけ、これをみかねて、当時海南中学校の教師をしていた寺石正路先生(郷土歴史学者)が特別に可愛がった。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九二四年一月二十一日、ウラジーミル・レーニンが死去しました。レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは、反対派の人々を殺し、経済の面でも政治の面でも社会主義とは無縁の政策を実行し、他の国々を侵略していきました。
 ・同年一月二十四日に『高知市第六小学校児童文集 蕾』が出ます。吉田の八つの文章が載りました。
 ・同年四月、吉田は私立土佐中学校予科二年生に。同級だった川島哲郎の話=「私は当時[高知市]小高坂におりまして親父に自転車をかってもらいまして、自転車で通学しておりましたけれど吉田は歩いて通学していたと思います。それで帰り道に吉田と話をする為に帰り道は吉田の家の前まで自転車をついて歩きながら、毎日そうやって通ったことでした。なぜそれほど吉田と一緒に歩くのが楽しみだったかといいますと、毎日毎日ルパンの話を続きものでやってくれるわけですね。(中略)それで吉田の家にも何回か寄ったことがあるんですが、(中略)薄暗い長屋のようになっていまして、二階が吉田の部屋でしたが、第一に驚いたことは膨大な書物があるということですね。(中略)大鏡や増鏡の本があったのを覚えています。大正十二~三年の頃です。」、「吉田の話の中で一つだけ印象に残っているのは雄略天皇の話なんです。雄略天皇が暴虐の限りをつくしたという話なんです。(中略)天皇がそういう非道なことをするということは実に青天の霹靂[へきれき]でしたね」、「彼の知識は非常にアンバラだったですね。数学というのは駄目、英語が駄目、もっと駄目なのが体育、これは全然駄目でした。反対に国語や歴史の知識とか読書のスピードというものはすごいもので、あれよあれよというようなものだったという記憶がございます。」(槇村浩生誕七十周年記念の集い 『槇村浩(吉田豊道)と同時代を語る』=『ダッタン海峡』第七号。槇村浩の会。一九八三年五月二十五日)。
 ・同年十二月三日、吉田の母・丑恵(高知病院勤務)が郷土史家・寺石正路と面会します。「豊道勉学之[の]件」です(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡』第九号。槇村浩の会。二〇〇四年一月二十六日)。寺石は、吉田が高知市の私立土佐中学校に進学するさいの橋渡しをしています。
 ・一九二五年四月、吉田は私立土佐中学校本科一年生となります。下司順吉の、このころの吉田の印象=「吉田は中学の本科一、二年のころには、クラスの文学サークルのリーダーになり『しかばね』というガリ版ずりの同人雑誌風のものを発行していました。当時、吉田は探偵小説にこり、江戸川乱歩などを読んでいましたが、『しかばね』という風変わりな題名もその影響でしょう。この雑誌は、やがて『モダン・マガジン』と改題しました。/吉田は雑誌の編集長格であり、中心的な執筆者でもありました。毎号、かなり長い探偵小説風なものを書いていました。(中略)吉田がペン軸の根もとをにぎって、指先をインクでよごしながら、かれの泉のような空想力のままに、長い小説を書きとばしていくのは、おどろきでした。この雑誌のガリ版切りや印刷などの製作工程は山本が引きうけていました。」(下司順吉「吉田豊道の思い出」)。寺石は、吉田の母に「川島家」からの「吉田豊道学資金」を定期的に渡しています。また、吉田は、週三回程度、寺石家を訪れ寺石の四男・忠弘に修学していました(「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」)。
 ・同年四月十一日、陸軍現役将校学校配属令(勅令第百三十五号)が公布されました。同令によって、一定の官立、または公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属されました。各学校は配属将校に学校教練(軍事教練)を実施させました。これを履修した者は陸軍では一年現役兵を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられました。学校教練教材要目としては、各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、手旗信号、距離測量、測図学、軍事講話、戦史などで、教材の配当は学校の程度に応じて差異がありました。吉田の通っていた私立土佐中学校でも教練が実施されます。
 ・同年四月二十二日、治安維持法を公布。
 ・同年九月二十六日、無産者新聞が創刊されました。
 ・同年十月一日、無産者新聞(第二号)が「支邦から手をひけ」、「支邦の解放運動を熱烈に応援せよ」と訴えました。
 ・一九二六年四月、吉田は私立土佐中学校本科二年生となります。
 ・同年秋、吉田は、腸チフスにかかって長期療養、休学となりました。
 ・一九二七年一月十五日、無産者新聞が「対支非干渉運動を全国に起こせ!」と訴えました。
 ・同年二月二十六日、無産者新聞が「即時撤兵を要求せよ――対支非干渉同盟を組織せよ」の社説を発表します。
 ・同年三月二十三日の吉田の私立土佐中学校本科二年生の「成績証明証」によると彼の席次は二十八人中二十八位でした。教練は丙、修身は丁です。

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 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ④ 高知県立中学海南学校の二年生に

 ・一九二七年四月、吉田は高知県立中学海南学校(高知市九反田)の二年生に編入しました(編入にさいしては同校の教師で郷土史家であった寺石正路が尽力)。身長百六十センチメートル足らず。同じクラスだった富永三雄が、当時の吉田を語っています。「真白く、青ずんだ顔、澄んだ瞳、薄い口唇、あまり口をきかない、少し猫背、ただ書物のみを斜めに読む。吉田は、どうしたことか、正門の開成門を避けて北側の裏門を利用した。『権威の象徴に意味があるのか』と反問せられて答えが出なかった。」(富永三雄「思い出」=『ダッタン海峡』第九号。槇村浩の会。二〇〇四年一月二十六日)。
 同校に転校してきたころの吉田について、富永は、つぎのようにものべています=「『数学の勉強を怠けて、他の秀才についていけなくなった。』と笑いながら話かけてきた彼。やや青みすらおびた真白い顔。長いまつ毛の下に、切れの長い目とすんだ瞳。脊はやや猫脊。小柄で五尺二寸程度。陸士[陸軍士官学校]、海兵[海軍兵学校]の志望者の多い生徒たちのなかで、彼はたちまち特異の存在になってしまった。それでいて、彼はとても人なつっこかった。おとなしく、軽くユーモアと皮肉をとばす明朗な面もあった。何よりも驚いたことは、教科書を勉強せずに、星印のついた岩波文庫をいつもよんでいることであった。それもほとんど毎日、その本がかわっている。小説、和歌、俳句、古文集、漢詩、歴史、随想、ありとあらゆるものを彼は読みあさっていた。歩きながらよむ。本をななめに流すようによむ。それでいて、内容を完全にいつまでも暗記している頭のよさには、ただ驚くばかりであった。英語の本を訳すのに、一冊の英語辞書を暗記する努力をした。不得意な数学の解答も暗記。歴史地理の知識は教師なみ。国語漢文では、教師も彼の後塵を拝せざるをえなかった。試験勉強は彼にとっては一夜漬けで充分であった。病院の看護婦をしておられたお母さんと二人暮らしの家に行ってみると、机の上の書物は教科書ではなくて、私たちには縁のないむづかしい表題のものであった。」(富永三雄「『槇村浩』の思い出」=近森俊也編集『ダッタン海峡』二・三合併号。小路貞次郎。一九六四年十一月)。
 ・同年五月二十八日、大日本帝国の第一次山東出兵が始まりました(~九月八日)。
 ・同日の無産者新聞は、第一次山東出兵のねらいを暴露し、「支邦から手を引け」、「出兵に断固反対せよ」と主張しました。
 ・同月三十一日、日本で対支非干渉全国同盟が結成されます(一九二八年には戦争反対同盟に発展します)。

 ・同年の「ある日」、海南中学校四年生の横山三男(ペンネーム・光夫)が学校休んで高知市の高知県立図書館でトルストイの小説を読んでいると、「眉目秀麗の色白の学生が数冊の本をかかえて私の隣りにきた。見ると、なんとマルクスの資本論である。当時難解と膨大さで私たちの手のとどかなかった資本論を彼は刻明に読んでいる。しかも、そのスピードはかなり早い。私はかれが下級生なので気安く声をかけた。その男が吉田豊道であった。」(横山光夫『解放運動のあけぼの(高知県左翼運動覚書)』。解放運動のあけぼの刊行委員会。一九六八年十月二十日)。
 ・一九二八年一月一日、前衛芸術家同盟機関誌『前衛』の一月創刊号に蔵原惟人が「無産階級芸術運動の新段階 芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦線へ」を発表しました。
 ・同年二月一日、日本共産党の機関紙「赤旗」が創刊されました。
 ・同年二月、中国共産党龍井村支部ができます(延辺の龍井市の中国共産党龍井村支部の石碑にはつぎのような内容の文が刻まれています。「延辺最初の党の基礎組織 龍井村支部発祥の地/一九二八年二月二十八日、中共延辺最初の党支部、龍井村支部は『民声報』社を拠点とすると宣して周東郊を書記に任じた。/同年八月、満州省委員会の指示・方針によって中共東満区委員会が、周東郊書記、 建章組織委員、趙志剛宣伝委員で設立し、そのもとに九つの基本支部委員会を設けた。/龍井は単独の支部で支部書記は周東郊が兼ねた。/延辺地区の革命闘争は中国共産党の指導のもと、大いに発展した。」
 ・同月、陸軍省は、「学生教練及び青年訓練修了者検定規定」を公布しました。学校教練は正課となり、成績簿にも記載されることになりました。
 ・同年三月二十五日、全日本無産者芸術連盟を結成。
 ・同年四月、吉田は高知県立中学海南学校三年生となります。始業式の朝、吉田は、級友の富永三雄に治安維持法のことを話しました。「富やん、治安維持法という名の法律を知っているのか?」。「そういう名前の法律は聞いたことがある。それがどうした?」。「一九二五年三月成立。国民[ママ]の変革、私有財産制度を否認するものを罰する最高懲役を十年とするもの。そうした目的の結社への加入、その未遂、扇動をも対象とする、行動のみでなく、国民の思想をも対象とするもの。普通選挙を実現することの引きかえに、日ソ国交回復に備えて共産主義思想の流入を防ごうとするもの。この法律は絶対的官僚的勢力が、政党と妥協した、国体を守るための、天皇制擁護、革命防止の弾圧体制を整えたもので、世界でも比を見ない思想弾圧立法である」。「ソ連の共産主義とはどんなもんか?」。「これから勉強するよ」。(富永三雄『ひとつの出合い』。「ひとつの出合い」刊行委員会。一九九二年二月二十六日)。
 ・同年五月、全日本無産者芸術連盟が文芸雑誌『戦旗』を創刊しました(~一九三一年十二月)。
 ・同年五月、日本共産党、中国共産党が天皇制政府の中国侵略に反対するたたかいで共同声明を発表しました。
 ・同年六月四日、大日本帝国の関東軍が張作霖の乗った列車を爆破して彼を殺害します。
 ・同年六月二十九日、治安維持法を緊急勅令によって改悪。最高刑を死刑に、目的遂行罪を新設。
 ・同年七月三日、特別高等警察課が全県に設置されました。
 ・同年の三年生の夏休み、吉田は四国山脈縦走を、陸軍省発行の地図をたよりに計画し、富永三雄ら級友三人とともに実行しました。重いリュックサックに歯をくいしばって先頭を歩いた彼は石鎚山に登ってからも、吉田の計画についてゆけず落伍して引き返した三人と別れて、一人で縦走をやってのけました(富永三雄「『槇村浩』の思い出」=近森俊也編集『ダッタン海峡』二・三号合併号。小路貞次郎。一九六四年十一月)。
 ・同年の二学期、学校で吉田の読む書物のなかに「赤い表紙のもの」が見えはじめます。始めは階段式の教室でやっていた化学の時間だけでしたが、そのうち、すべての教科を放棄し、授業中にカール・マルクスの著作を読みはじめます(富永三雄『ひとつの出合い』)。「きわめて批判的であった彼がマルクスに屈服した瞬間、軍事訓練反対の『のろし』があがることになる。彼の徹底抗戦がT大尉を目標に始まる。ゲートルをろくにまかない。銃をななめにかつぐ、銃の掃除は放棄する。手旗を無茶苦茶にふる。なぐりたいだけ、なぐらせる、彼の配属将校に対する愚弄的態度は止まらない」(富永三雄「『槇村浩』の思い出」)。
 ・一九二九年二月十日、日本プロレタリア作家同盟が結成されました。
 ・同年四月、吉田は高知県立中学海南学校四年生となります。
 ・同年七月ころ、ソビエト社会主義共和国連邦のスターリンが農業の強制集団化を開始、階級としての富農の絶滅政策を強行しました。
 ・同年七月、ソビエト社会主義共和国連邦は満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破ると同年十二月二十二日にハバロフスク議定書を締結し満州における影響力を強めました。
 ・同年、高知市の高知県立中学海南学校四年生の吉田は奴田原三郎、富永三雄らの同級生と語らい、軍事教練反対運動を組織します。「[吉田が]全四年生を集合さして大演説をぶった。『真理は軍事教練にはない。天皇制絶対君主制こそ打倒すべきもの、陸士[陸軍士官学校]を止めよ、海兵[海軍兵学校]に行くな、筆記試験を書くな。』」(「思い出」)。四年生の二クラス全員が白紙答案を提出します。
 ・同年十月二十二日午後、高知県立中学海南学校の職員会で「白紙問題」で吉田などの「諭退」が決定します(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡』第九号)。
 ・同年十月十三日、プロレタリア科学研究所が設立されました。
 ・同年十一月五日、プロレタリア科学研究所が月刊機関誌『プロレタリア科学』を創刊します。
 ・同年十一月二日、寺石正路は、吉田を岡山市の私立関西中学五年に編入させようと動きはじめます(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡』第九号)。
 ・同年十二月二日、寺石正路宅に関西中学校から吉田入学許可の電報が来ます(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡』第九号)。

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 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ⑤ 岡山市の関西中学校五年生に

 ・一九三〇年四月、吉田は、岡山市の私立関西中学校五年生に編入します。

 ・同年四月二十四日、福島県若松の鶴ケ城の近くの陸軍歩兵連隊が軍旗祭を開いていたさなかに反戦ビラが配布されました。ビラは「戦争の危機が迫っている」「あなた達自身もこの戦争に反対せざるをえない」というものでした。日本共産党員・相良(さがら)新一さんによると、十数人がいっせいに正門から入り、整理箱や寝台、トイレなど兵舎のさまざまな場所に四百枚のビラを入れたといいます。当時の地元紙は「若松憲兵及び若松警察特高課は俄然(がぜん)色めきたち」と伝えています。(二〇一三年四月二十五日の「しんぶん赤旗」のコラム「潮流」)

 ・同年五月二十七日、間島の薬水洞上村の八間家の庭先で開かれた群衆集会で申春が“薬水洞ソビエト政府が樹立された!”と宣布しました。
 ・同年五月三十日、間島で抗日の「五・三〇暴動」がおこります(延辺の龍井に 「“五卅暴動”指揮部址」の石碑(龍井市人民政府建立。二〇一〇年五月三十日)があります。五卅は、五月三十日です。「中國網 china.com.cn」に、こんな解説が出ています。「延辺の朝鮮族の五・三〇暴動は、延辺の朝鮮族人民の反帝反封建的闘争です。一九三〇年五月三十日、中共延辺党組織は延辺の龍井、頭道溝、大拉子、南陽坪、湖泉街、開山屯、石建坪、延吉、老頭溝などの地でたちあがり暴動をおこしました。当地の反動機関を狙ったものでした。ある夜、龍井発電所を爆破し、東洋拓殖会社間島出張所を焼きうちし、日本領事館を襲撃し、天圖鉄道の橋梁などを破壊し、多くの日本の警察官を殺しました。同時に、軍閥政府機関と地主の家を襲い、借用書を焼き、地主の糧食を没収し、日本帝国主義と反動軍閥の統治に大きな打撃を与えました。」 
 ・同年六月二日の高知の土陽新聞が「学校を焼き電線を切断 間島に不逞鮮人 爆弾を投じ各所に放火 全一焼土化計画暴露す」、「間島の焼討に 間島人心恟々 支邦官憲と協力し 奥地深く追込む」、「鮮人暴徒の為 邦人警官負傷 午後六時何れかへ引上ぐ」。「学校を焼き、電線を切断/間島に不逞鮮人蜂起/爆弾を投じ各所に放火/全市焼土化計画暴露す」)。
 ・同年十月二十七日、台湾の住民が反日武装蜂起(霧社事件)。
 ・一九三一年三月五日、吉田は私立関西中学校を卒業。百点は歴史(一学期)、地理(一学期)、法経(三学期)。教練は二十点、十点、三十点。卒業時の成績は、二百十七人中九十八番。槇村は高知へ帰ります。

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 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ⑥  高知へ帰ってからの十四か月間

 ・一九三一年七月六日、日本共産党の機関紙・赤旗(第四十五号)に「日本帝国主義の戦争準備と斗へ!」を発表しました。
 ・同年七月、吉田はプロレタリア作家同盟に加入します。
 ・同年八月一日、日本共産党は、国際反戦デーに非合法の集会やデモを各地で組織し、「日本軍隊の満州、朝鮮及び台湾からの即時召還」を要求しました。
 ・同年九月十八日、大日本帝国が中国の東北地方に侵略戦争を開始しました。
 ・同月十九日、日本共産党は労働者、農民、兵士にたいする檄を発表、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」と、よびかけました。
 ・同月二十九日、第二無産者新聞が社説で、日本軍の侵略を暴露し、「帝国主義戦争と闘へ!」、「一人の兵士も送るな!」、「武器の輸送製作を中止せよ!」と、主張しました。
 ・同年十月五日、赤旗は「事変の原因」を中国側に求める商業新聞を批判し、中国での日本軍の軍事行動が「精密に計画され、実行された」中国侵略戦争であることを暴露しました。
 ・同年十月、日本プロレタリア作家同盟高知支部を結成します。弘田競が、作家同盟高知支部での吉田の印象を書いています=「会議中でもふと立ち上って部屋の中をグルグル歩いたり」、「謄写版をする手を休めたりして、チラシの裏にへたな字で詩作のメモを書きつけている」、「荒い紺ガスリの着物の肩をいからし、尻切れ草履[ぞうり]を引きずって未定稿の一節を口ずさみながら、西陽のさすイチョウ並木を歩いて行く彼が、鏡川添いの桑畑に腰を降ろしてせせらぎに耳を傾け、じっと瞑想する彼の横顔」 (弘田競「槇村浩は わたしの中に生きている」=近森俊也編集『ダッタン海峡』一号。小路貞次郎。一九六三年七月)。
 ・同年十月二十四日、吉田が槇村浩のペンネームで反戦詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書きます。
 ・同年十二月、高知市で貴司山治らによる「戦旗防衛講演会」を開催。貴司は、講演会の翌日、作家同盟の事務所での懇談会で槇村に会ったといいます。「われ  は、ナルプ(日本プロ作家同盟)委員長江口渙[えぐちかん]、中央常任の池田寿夫と私、他に映画班としてのプロキノの同志一名であった。/この席上で、私ははじめて槇村浩に逢った。/というよりも見掛けた、という方があたっていよう。/支部員の末端に、たしか紺絣筒袖の着物をきたいやに青白い童顔の――それゆえやっと少年から青年になったような男が一人いて一語も発言せず、むっつりとしてただわれ  や他の支部員の語るのをきいていた。/私ははじめ、支部員の事務書記か、それとも学生の傍聴者かと思った。/自己紹介の時には、その男はただ/「吉田です」/とだけいったので/「あれは一体何なのかね」/かたわらにいた佐野[順一郎]だったか、信清[悠久]だったかにきいた。……」(「奇跡の詩人」=近森俊也編集『ダッタン海峡』一号)。
 ・同月、吉田は日本共産青年同盟に加入します。
 ・一九三二年一月二十八日、日本軍が上海でも中国軍への攻撃を開始しました。
 ・同年二月五日、日本軍はハルピンを占領しました。
 ・同月創刊のプロレタリア文化同盟の啓蒙誌『大衆の友』に、槇村の詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が掲載されます。
 ・同年二月から四月二十日まで高知の青年たちは、高知市内や高知市の陸軍歩兵四十四連隊など十回以上反戦ビラを配布しています。
 この「事件」は、同年二月二十三日、第十一師団(香川県善通寺)に緊急動員令が下ったことから始まっています。二月二十八日(日曜日)、同師団に属する陸軍の歩兵第四十四連隊(連隊長・秦雅尚大佐)が、この動員令によって兵営を出発し、中国に行きました。そして、三月三十一日、兵営に帰還し、四月二日、高知市で同部隊の「凱旋祝賀歓迎大宴会」が開かれました。
 反戦ビラ配布を憲兵司令部編集の『日本憲兵昭和史』(憲兵司令部。一九三九年七月)、土陽新聞の記事「高知○隊出征前夜 ○隊並に高知市へ 反戦ビラを配布したもの 憲兵分隊と特高課が活動」(一九三二年三月十五日の号外)、一九三三年四月二十八日の、信清悠久、小松益喜、吉田豊道への治安維持法違反被告事件についての高知地方裁判所刑事部の判決文(『槇村浩全集』。岡村正光、山崎小糸、井上泉。一九八四年一月二十日)に見ます(判決文は現代文にしました)。
 ・「……(高知)市中央に在る播磨屋橋土佐電気株式会社運輸課に『戦争反対ビラ』を投入し……」
 ・「高知○隊に動員下命して、ために全県下は戦争気分が横溢し、召集兵は続々高知市に集まつてゐる際即ち〇隊が出征する前々夜二月○○○日午前二時頃深夜高知市中島町医学博士武田鹿雄氏の門先ならびに其の附近に反戦ビラを散布してあることを夜間警戒中の高知憲兵分隊特務石井上等兵が発見し直に県特高課に通知して共産党員のものを捜査警戒中」(土陽新聞の記事。高知○隊」とは、陸軍歩兵第四十四連隊のこと)。
 ・「更に其の翌日即ち出征前日の午前三時頃高知○隊内を憲兵分隊の特務西原上等兵が巡視中隊内杉垣附近にこれまた反戦ビラを多数撒布されてゐることを発見し直に○隊並に分隊に通知して取調べたが隊内のビラはビラ数十枚を垣外より投げ込んでゐたもので夜間であり何人にも見附らない以前に憲兵隊の手にて発見されたもので憲兵隊にては万一出征当日を慮かり松村分隊長以下之等の不穏分子の警戒に当つた、而して右反戦ビラ配布の犯人はその後憲兵隊並に特高課にて捜査中であるが、右は先に某校に配布したビラ事件と同一系統と見て当局にては更に捜査並に取調を進めてゐる」(土陽新聞の記事)。
 ・「……二月二十七日午前二時に至り、戦争反対のビラを[高知]市内数箇所に貼付したる者あり、石井上等兵は逸早く之を発見、当夜中に全部回収したる為、之を見聞したる者なく従つて何等の反響なきを得たるも、此の種策動益々尖鋭化すべきことを予知せられたるを以て松村分隊長は県警察と連絡の上一段の予防に努力せり。」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「然るに翌二十八日午前二時頃又もや連隊兵器庫裏街路に、日本共産党青年同盟高知地区委員会署名の二種の反戦ビラ数枚投棄しあるを警防巡察中の西原上等兵発見直に収拾すると共に連隊衛兵に連絡営内を検索したる処、同連隊南門及東門附近に約五十部の同ビラの投入しあるを認め直に之を収拾したるを以て其反響なかりき。」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・三月六日ころ、吉田豊道は、高知市農人町・浜田勇方において上海出兵に対する闘争のため、同人らと共に協議の上、「革命的兵士の虐殺云々」と題する共産主義青年同盟高知地区委員会署名の反戦ビラの原稿を作成し、同市小高坂、同盟員・森山正也方において毛利猛夫、池本良三郎らと共に謄写版をもって約八百枚を印刷作成し毛利らをして高知市一円および附近村落に撒布せしめ(判決文)。
 ・三月八日ころ、吉田豊道は、浜田勇方において同人らと協議の上、高知市外の陸軍歩兵第四十四連隊内に軍隊新聞を発行せんことを企て自ら軍隊内における組織ならびに宣伝扇動などにおける全責任者となりて、「兵士の声」と題する新聞を発行することとなし、自ら原稿を書きて原紙に切り、当時同市小高坂、森山正也方において毛利猛夫、池本良三郎などと共に「大衆的に上海出兵に反対せよ」、または「日本共産党の旗の下に全兵士は日本共産青年同盟に入れ」と矯激なる辞句を連ねたる印刷物約四百枚を印刷作成し、これを毛利猛夫に交付し、同人をして右連隊営庭内あるいは射的場などに撒布せしめ、また外出中の多数兵士に交付せしめ(判決文)。
 ・「……三月九日午後一時三十分[高知]市内播磨屋橋土佐電気株式会社運輸課従業員詰所に対し、共青高知地区委員会署名の過激なる反戦ビラを投入したるを以て同社監督某が憲兵に此の旨を連絡せるを以て直に之を押収し其反響を防止し得たり。」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「高知市帯屋町には毎日曜日に日曜市開かるゝ為、非常なる人出あるを以て三月十三日歩兵第四十四連隊外出兵三名新京橋本町筋五丁目付近歩行中同市方面に向ひつゝある時一名の若者が過激なる三種の反戦檄文ニュースをハトロン封筒に入れたるものを該兵士に手交せり、恰度同市雑沓中を警戒せる松岡上等兵之を探知し直に之を押収し犯人を追跡したるに遂に発見せざりし為、此の旨連隊当局に連絡し該三名に就き犯人の人相特徴等を調査したる処、捜査中の毛利一雄と濱田武夫の人相に匹敵しあり、因て先ず之等両名の所在捜査を為すことに全力を注ぎたるが、……」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「又々三月十四日午前三時頃歩四四補充隊営内及射撃場に三種の反戦檄文ニュースをハトロン封筒に入れ投入、又は配布せり、其数三十六袋なるが何れも幸ひ所属隊並憲兵の探知早く、之れを押収したる為何等の反響もなかりしが、執拗なる彼等の行動は憲兵の憎悪極度に達し、憤激の涙を催ほし分隊員中には霊験著しと称せらるゝ[高知市の]藤並神社に参拝祈願せる者さへありて憲兵必至[ママ]の努力は涙を催ほす情況なりき。……」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「然るに三月二十六日午後一時頃共青高地[ママ]地区委員会署名の反戦闘争基金袋が[高知]市役所前に撒布され全く官憲を嘲弄しあるが如く彼等の行動は極めて大胆不敵なりき、……」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・三月末ころ、吉田豊道は、高知市金子橋、毛利猛夫方において同人および浜田勇などと協議の上、四月二日、高知県長岡郡五台山村(いまは高知市です)、招魂社祭当日、反戦ビラを撒布すべきことを協議し、自ら「兵士諸君は皆読め」と題する原稿を作成し、浜田勇と共に約五百枚を印刷作成し、これをカフェー開店広告に模したる封筒に封入し自ら毛利、浜田ほか二名と共に右招魂社付近に到り、通行中の軍人に交付し、あるいは撒布し(判決文)。招魂社というのは、いまの高知県護国神社のことです。四月二日は、いまの春季例大祭の日です(『高知県護国神社百年史』。橋詰延寿・森下臣一。高知県護国神社創立百年記念事業期成会。一九七二年四月一日)。「……四月二日午後零時三十分[高知]市外五台山に於ける招魂祭に参拝せる補充兵が叉銃休憩中[叉銃というのは、野外で軍隊などが休憩するとき、銃を組み合わせて三角錐状に立て合わせることです]、何者かハトロン封筒にカフェーの広告を印刷したるもの五通置きあるを取締中の石井上等兵現認し之を披見するに、何れも四五枚宛封入する過激なる反軍宣伝ビラなりしを発見し直に全部を蒐集したる為軍人は勿論一般客にも何等反響なかりしが……」(『日本憲兵昭和史』)。
 こうした反戦ビラ配布のさ中の、同年三月一日、大日本帝国は間島をふくむ中国東北部に、かいらい国・満州国をつくりました。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、満洲国の建国にいたったのです。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀がつきました。
 ・同月十三日付の東京朝日新聞は「間島また不穏 新国家の成立に 漢族不平抱く」と報じます。
 ・同日、吉田が槇村浩のペンネームで中国の間島の抗日パルチザンの側に身をおいた詩「間島パルチザンの歌」を書きあげます。
 ・同年の『プロレタリア文学』四月増刊号に槇村の詩「間島パルチザンの歌」が掲載されます。
 ・同年四月の反戦詩集『赤い銃火』に槇村の詩「出征」が掲載されます。
 ・同年の『大衆の友』四月号に槇村の詩「一九三二・二・二六 ―白テロに斃された××聯隊の革命的兵士に―」が掲載されました。

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「高知には夜間の2年制大学が必要です」の二百字メッセージについてのお願い。【藤原 義一】

 私も入っている「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会が、「高知には夜間の2年制大学が必要です」の二百字メッセージ運動をやっています。「書いてください」と、まわりのかたに、おすすめいただけませんでしょうか。
 くわしい趣旨などは、以下のページを、ごらんください。

 http://blog.goo.ne.jp/yaxtupari

 以下、県民の会のお願いの文書から。

 <200字メッセージ運動にご協力下さい>

 「高知には夜間の2年制大学が必要です」を主旨にしたメッセージをできるだけ多くの方々から集め、高知県における夜間2年制短期大学の灯を守り、発展させる力にしたいと思っています。
 皆さまのお気持ちを200字程度でお書きいただけませんでしょうか。

 ◆原稿は、下記住所あるいはメールでお送り下さい。

 このメッセージは、「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会として、尾﨑正直・高知県知事、南裕子・高知短期大学学長にお届けするとともに同会のブログ、印刷物などで発表させていただきます。

 送り先:780-0051 高知市愛宕町2丁目23-6 
 「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会

 メール:bqv01222@nifty.com

 ブログはこちら http://blog.goo.ne.jp/yaxtupari

 「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会ブログ

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アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 一、高知市の愛宕神社の大東亜戦争戦勝の石碑

 このところ、タイ映画「少年義勇兵」(二〇〇〇年制作)のDVDを何回か見ています。タイ南部の田舎の町・チュンポーンは、雨でした。一九四一年十二月八日午前二時四十分、一群の艦船が、ここに迫っていました。戦闘機が侵入しました。大日本帝国のタイ上陸です。この町の少年義勇兵たちも銃を取りました。彼らを包囲する侵略軍。銃剣での死闘が始まります。つぎからつぎへと侵略軍は上陸してきます……。やがてタイは降伏。この戦闘での日本側死傷者は二百人、タイ側は十人、少年義勇兵の死傷者ありませんでした。
 大日本帝国の軍隊は、その日、まずタイに侵攻、そして、アメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地を攻撃しました。
その後、天皇がアメリカ、イギリスへの宣戦を布告しました。大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の開始です。
 ところで、いま私が通っている高知市永国寺町の高知短期大学(専攻科の学生です)の近く、愛宕山(あたごやま)に愛宕神社があります。
 愛宕神社の二百八段の石段を一気に登ります。
 上がりきった所の左右に向かい合った二本の石柱があります。
 左手の物には「皇威万邦輝」(大日本帝国の天皇の威光は世界に輝く)、「皇紀二千六百一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」と彫り込まれています。
 左手の碑には、「神徳八紘洽(しんとくはっこうにあまねし。神である大日本国の天皇の徳は世界にゆきわたっている)」と、刻まれています。その裏には「高知市愛宕町二丁目/階段施工 畠中正夫」とあります。
 皇紀二千六百一年十二月八日は、一九四一年のことです。「大東亜戦々捷」とは大東亜戦争戦勝のことです。
 それにしても気が早い。天皇がアメリカ、イギリスに大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の宣戦布告をした日付の碑です。確かに、この戦争は、不意打ちで一時は圧倒していましたが、すぐに敗北に向かいます。
 この碑の「々捷」の所が何かで塗りつぶされているのが奇妙です。

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アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 二、南国市の片山の中腹の陸軍陣地

  南国市の片山の中腹に陸軍の陣地跡があります。私が発見し、専門家が調査、平和資料館・草の家として発表しました。
 海原治(かいはらおさむ)さんは、一九四〇年二月、陸軍第十一師団歩兵第四十三連隊(編成地・徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、陸軍第十一師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として一九四五年八月十五日の終戦を高知県で迎えました。
 その、海原さんが『戦史に学ぶ 明日の国防を考えるために』(朝雲新聞社。一九七〇年八月十五日)で本土決戦期の高知県のことを書いています。
 一九四五年春、アメリカ軍が高知県に上陸するかもしれない、本土決戦だということで、満州(中国東北部)にいた陸軍第十一師団(錦部隊。約二万二千人)も、高知県の海岸地帯に展開することを命じられました。「米軍の本土攻撃に備えて、八月中旬までにいっさいの準備を完了すべし」というのが軍の作戦命令でした。
 各部隊の受け入れ準備のために高知に来た同師団の海原さんは、驚きます。高知県の海岸には、トーチカも砲座もないのです。
 防御陣地をつくるための木材、セメントの受領に行きました。木材は二十八万六千石必要です。県庁の林業課に行き、どこで木材を受けとればいいかたずねると、この山とこの山から自分たちで切り出してくれといわれます。同師団には、切り出して、運搬して、製材するための輸送力も機械器具もありません。しかたないので各部隊には「その警備区域内でしかるべくやれ」と指示を出しました。軍の指示で浅野セメント土佐工場に千五百トンのセメントを受け取りにいくと、工場長は、軍の要求でもセメントの割当証明書がなければセメントを渡すなという憲兵司令官の通達をたてに渡してくれません……。
 高知県での陣地構築作業は、こうした状態から出発したと、海原はいいます。
 県民も動員しての、がむしゃらな陣地づくりが始まります。

 記者会見資料 08年6月30日 平和資料館・草の家 館長・岡村正弘

 南国市片山の太平洋戦争中の陣地跡の発見

 1 所在地

 南国市片山(セイレイ工業駐車場西の山)

 2 戦争遺跡の種類と数

 砲兵隊の観測所と交通壕、退避壕がセットになって二箇所(北側を片山1号、南側を片山2号)で確認されました。

 3 立地

 下田川の西側に迫る山塊の山腹部に立地し標高は15m前後。周囲は墓地や雑木林となっています。
 1号は山道のすぐ南側の墓地の中にあります。
 2号は1号の南50mほどの地点にあり1号よりも高い位置にあります。

 4 内容

 (1) 片山1号

 コンクリート作り地下式の構造。
 幅60cmほどの入り口を地下に3mほど入ると左右に小部屋が作られています。
 右側(南側)の部屋は一辺130cmほどの四角形の部屋で、南壁の上に観測用と考えられる30cm前後の穴があけられています。
 左側北の部屋は一辺1m前後でやや小さい。
 また、階段を下りたところの天井には一辺28cmの四角い穴が設けられています。ここでコンクリートの厚さを測ったところ82cmありました。
 この観測所は、交通壕で後の山に掘られた退避壕に繋がっていました。交通壕は現在埋まっていますが痕跡をとどめています。

 (2)片山2号

 山の稜線部分をL字状に削って構築しています。コンクリート製。
 幅75cm、高さ147cmの入り口(扉が設けられていた)を入ると一辺2mほどの四角い部屋があり、南に幅58cmの階段が上に伸びています。
 8段の階段を上ると一辺160cmほどの部屋があり南と東に観測用の窓が設けられています。南の窓は海が見渡せ、東の窓は飛行場(当時・高知海軍航空隊)が望めます。
 この観測所も後に岩盤を掘削した退避壕が作られていて、やはり交通壕で繋がっています。
 1号と同様に、敵の艦砲射撃を壕の中でしのぎ、敵が上陸を始めたらこの観測所に入って味方の砲兵陣地に電話で砲撃の指示を出すために作られました。

 5 どんな部隊がいたのか。

 陸軍第11師団山砲兵11連隊(錦2465部隊)がこの付近に配備されていました。
 連隊長・小幡實大佐。
 1945年8月15日現在の兵力3,148人。

 6 片山にあった、そのほかの軍事施設

 この陣地跡の真下にあった海軍の工作所跡
 その右手にあった海軍の発電所跡

 7 発見と調査の経緯

 昨年夏、戦跡調査中の平和資料館・草の家の会員が発見しました。
 2008年5月、6月に平和資料館・草の家研究員が調査しました。

 8 部隊設置の背景

 大戦末期、本土決戦が現実味を帯びてきた1945年4月には、四国防衛の部隊として第55軍が編成され司令部が香美市土佐山田町新改に置かれ、四国には9万の野戦部隊が投入されました。
 米軍の上陸が想定されていた高知平野にはそのうちの7万の兵隊が配備されました。
 高知平野を中心に海岸線や沿岸に近い山塊には数多くの陣地か構築されました。
 物部川を挟んだ平野部を主戦場として、上陸してくる米軍に東の三宝山と西の片山や金比羅山に陣地を構え、挟み撃ちにして、そこに土佐山田方面から攻撃をして撃退する作戦であったと考えられます。
 もしも米軍が上陸していたら多くの住民を巻き込み沖縄と同じ出来事が高知を襲っていました。
 今回発見された観測所は、戦争末期の高知平野で何が準備され、何が起ころうとしていたのか、ということを具体的に示す戦争遺跡です。
 高知平野は中国・四国で最も多くの陣地が作られた所であり、今でも多くの戦争遺跡が残っています。
 戦争を風化させないためには常に戦争の実相と向き合わなければならないと考えます。
 戦争体験者が少なくなり戦争の悲惨さ愚かさを直接伝えることが難しくなりつつある今、戦争遺跡の存在は大きな意義を持っています。
 (以下、略)

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アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 三、南国市の高知海軍航空隊跡の七つのコンクリート製の飛行機格納庫

 高知県南国市(なんこくし)には太平洋戦争の時のコンクリート製でドーム状の掩体壕(えんたいごう)が七基残っています。田んぼの中の市有地にある七つのこんもりした掩体壕。一番大きい掩体壕は高さ八・五メートル、幅四十四メートル、奥行き二十三メートル、コンクリートの厚さは五十センチはあります。
 掩体壕は、航空機をアメリカ軍の空襲から守るための格納庫です。同市内にコンクリート製九基、土などでつくられたもの三十二基の計四十一基がありました。
 土などでつくられたものは敗戦後に解体され、コンクリート製のものも二基が壊されました。
 太平洋戦争の最中の一九四四年三月十五日、偵察搭乗員の訓練をおもな任務とする高知海軍航空隊が開隊し、士官百六十人、兵員三百六十人、機上作業練習機「白菊」(乗員五人)五十五機が配置されました。
 これらの掩体壕は、この航空隊の関連施設としてつくられたものです。
 当時、どの掩体壕にも中央の滑走路からそれぞれの掩体壕までは東西三本、南北四本の幅約四十メートルの誘導路がはりめぐらされていました。
 かつて、ここには香美郡三島村がありました。
 帝国海軍は、一九三九年、三島村に飛行場を建設することを決定。四一年一月二十三日、このことを発表しました。
 西村豊馬村長は、村民有志を三島小学校講堂に集めて高知県知事の通達を伝えました。
 「三島村に、海軍航空隊の飛行場をつくることが決定した。田の中に赤い旗が立てられている範囲内の者は、みんな立ち退いてもらわんといかんことになった。誠に急なことで村民に申し訳ないが、戦争に勝つために協力してもらい、本日承認ねがいたい。直ちに立ち退きに取りかかってほしい」
 誰も反対できる人はいませんでした。
 接収面積は約二百十二ヘクタール、三島村の七割に上ります。接収地域には村役場や三島小学校など三島村の中心施設も含まれていて、村は消滅しました。
 三島小学校が解体され、児童たちは、二人がけの机を隣の立田村の立田小学校に運びました。
 津波、洪水の時に村人が避難し、命山と呼んでその信を集めた室岡山(命山。標高二八・二メートル)には、坑道が掘られ、爆弾で崩されました。豊かな農をもたらした秋田川も埋め立てられました。
 飛行場建設の最中の四一年十二月八日、昭和天皇はアメリカ、イギリスなどとの戦争を始めました。
 いま、南国市の高知龍馬空港の外の南側に日章開拓農業協同組合が一九八五年三月にたてた「開拓記念碑」がたっています。
 そこには三島村接収の時のことが刻まれています。
 「この地は…元の三島の里である 沃土は農を興し、黒潮に恵まれて文化の香り高く、県下屈指の優良村として栄えた。…(その三島村が海軍の基地建設用地になり)総面積二千百八十四反を接収、二百六十三戸、千五百余の住民ら急遽(きゅうきょ)撤去を命ぜられる。人々互いに別れを惜しみ父祖の霊位を抱き、慌ただしく村を去る」 
 一九四四年六月、いまの南国市の前浜地区、久枝地区の五十七万四十二平方メートルも接収されました。高知海軍航空隊の掩体壕と誘導路(幅約四十五メートル)を建設するためです。
 掩体壕や誘導路の建設には、地元の女性、高知市内の中学校の生徒、高知刑務所の受刑者、強制的に日本に連れてこられていた朝鮮人も駆り出されました。
 掩体壕と誘導路は網の目状に結び、航空隊内の滑走路に通じさせました。
 いま、地元では南国市の七基の掩体壕に番号をつけています。
 七号掩体壕は、大湊(おおみなと)小学校(元・前浜国民学校)のすぐ北にあります。
 動員されていた高知市の私立土佐中学校の三年生の生徒たちは、この掩体壕づくりの作業をしました。
 高知海軍航空隊の兵舎に泊り込んで作業しました。
 兵舎の廊下を拭く作業をサボっていたら「海軍精神注入棒」が尻にとんできました。
 掩体壕は、こうしてつくりました。
 土で掩体壕と同じ大きさの小山をつくります。そして、大勢の人々がその上にあがって踏み固めます。固めた土の上に、むしろやセメント袋などを敷き詰めます。土の上にセメントを流し込み、塗り固めます。セメントが固まったら、中の土をすべて取り除きます。こうして掩体壕ができあがります。
 いま、この掩体壕の内側には、つくったときの、むしろとセメント袋の跡がはっきり残っていす。
 この掩体壕は、農道と農業用水路の真上につくられました。
 海軍高知航空隊は、この水路のかわりに直径約二十センチメートルの土管を設置しようとしました。
 それでは雨天のときの水はけが悪く、上流の田んぼに支障が出そうでしたので、地元の農民たちが海軍航空隊側に、もっと大きな径の管に取りかえてほしいと申し出ました。
 相手の技術責任者は「何をいうか、お前たち。敵は一刻も待ってくれないぞ。そんなことが聞けるか。お前たちは非国民か。二度というな。帰れ」と、農民たちを追い返しました。
 戦後、農民たちは、この掩体壕の後部を打ち抜いて、道と水路を通しています。
 南国市に残る小山のような七つの掩体壕は、いまの私たちにいろんなことを語りかけてくれます。
 一号掩体壕は、アメリカ軍のグラマン艦上攻撃機によって激しい機銃掃射を受けた大小合わせて約六十個の弾の跡がついています。
 一九四五年三月十九日、アメリカ軍のグラマン艦上攻撃機が三波にわたって高知海軍航空隊を空襲しました。
 この掩体壕の近くの畑で野菜を手入れしていた男性の農民二人、動員されていた生徒約三十人は掩体壕に逃げ込みました。
 グラマン機は掩体壕すれすれに飛んできてバリバリ、バリバリと機関銃を撃ちました。弾が掩体壕に当たってチュン、チュンと不気味な音をたてます。
 そして、近くの前浜国民学校の玄関前、講堂と校舎の西に爆弾を投下しました。
 前浜国民学校(現在・大湊小学校)は休校でした。同校に出勤していた猪野信意校長、教師の永吉高秀さんは、この爆撃の中、同校の「御真影」(昭和天皇と皇后の写真)、「教育勅語」などの勅語を持って逃げました。
 高知海軍航空隊では戦死傷数人、一式陸上攻撃機と陸上攻撃機銀河が破壊され、格納庫、庁舎、兵舎が一部損傷しました。
 掩体壕(えんたいごう)と誘導路を建設する工事に動員されていた高知市の県立高知城東中学校三年生たちの「合宿飯場小屋」も炎上しました。
 当時、同校三年生だった高橋道久さんは「私もグラマンの一番機に銃撃され、横飛に避けて生まれて初めて赤鬼のような顔の米軍パイロットと相互に目礼しあったしまつでした」と記しています(『高知追手前高校百年史』、発行・高知県立高知追手前高校校友会)。
 南国市は七回、アメリカ軍のB29爆撃機、空母艦載機グラマンの攻撃を受けました。
 高知海軍航空隊には高射砲はありませんでした。七・七ミリ旋回機銃と二五ミリ機銃で応戦しました。
 機関銃を構えるコンクリート製のトーチカは一基でした。
 これは南国市物部の物部川堤防に現存しています。高知高専の南東に当たる場所で、直径一メートルの円筒形。コンクリートの厚さは二十センチです。
 アメリカ軍機三機の撃墜を確認したといいます。
 うち一機のプロペラとエンジンが沖合の海底で見つかり、いまは香美郡吉川村の吉川村天然色劇場で展示されています。
 高知海軍航空隊の当初の目的は偵察搭乗員の養成でしたが、一九四五年春、アメリカが沖縄県に上陸すると、特別攻攻隊員としての訓練が中心となりました。
 同航空隊に特別攻撃隊「菊水部隊白菊隊」が編成されました。「赤トンボ」と呼ばれていた機上作業練習機「白菊」(乗員は、操縦、偵察の二人)に二百五十キロ爆弾二つを搭載して沖縄のアメリカ艦船に体当たりするためでした。機関銃も装備せず、燃料は片道分だけでした。
 五月二十四日から六月二十五日までの間、「白菊」二十六機が鹿児島県の鹿屋(かのや)基地を経由して沖縄に向け出撃。搭乗員五十二人が戦死しました。
 五月二十七日午後六時四十八分から七時三十七分にかけて十五機の「白菊」が鹿屋基地を発進しました。

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アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 四、香南市の呉鎮守府第十一特別陸戦隊の砲台

 昨年十月、ことし四月に平和資料館・草の家研究員・福井康人さんが発見して発表した香南市夜須の二つの手結(てい)砲台跡は、呉鎮守府第十一特別陸戦隊のものです。
 一つは、百四十ミリメートルの平射砲の砲台跡です。
 もう一つは、百二十ミリメートルの平射砲砲台跡です。
 海軍呉鎮守府第十一陸戦隊の「引渡目録」(一九四五年九月三十日)によると、これらの砲台の近くの海軍呉鎮守府第十一陸戦隊手結兵器弾薬集積場には、「化学兵器」もおかれていました。
 それは防御用で、うちわけは以下のとおり。
 軽防毒衣・三十個
 九八式防毒衣・十個
 仮称三式防毒覆・二十五個
 除毒計・四個
 四号除毒剤・八十九個
 五号除毒剤・百八十五個
 六号除毒剤・七十八個
 酸素防毒面改一・十七箱
 斥候検知器・一個
 二型検知器・二個
 三号除毒剤・十五缶
 軽防毒面・十個
 九三式三号防毒面・千九十六個

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アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 五、高知市の浦戸海軍航空隊建設の様子を示す墓石(同隊は、のちに呉鎮守府第十一特別陸戦隊に)

 高知市仁井田の県道14号脇の高知市三里(みさと)墓地公園の右手の角に「納骨塔」があります。
 高知市役所三里出張所長・細川恒久さんが一九四四年十一月に建立したものです。こんな文章が刻まれていました。
 「池及[および]仁井田地域ニ海軍施設ノタメ区域内ノ墓地移転ヲ命セラレタル所工事ノ急速ヲ要セシタメ墓地所有者ヲ精密ニ調査スルノ遑[いとま]ナク当時引取人ナキ墳墓ヲ発掘シ此所[ここ]ニ納骨ス」
 アジア太平洋戦争(大東亜戦争。一九四一年十二月八日~四五年八月十五日)下、日本帝国海軍は、この地域に浦戸海軍航空隊と高知海軍航空隊第二飛行場を建設しました。二つの軍事施設の建設時期からすると、ここにいう「海軍施設」は、一九四四年十一月一日に開隊した浦戸海軍航空隊跡のことのようです。

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アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 六、浦戸海軍航空隊の石碑と横穴壕

 高知市池地区に浦戸海軍航空隊跡の碑があります。一九八五年四月六日に甲種飛行予科練習生第十四期会、第十五期会、第十六期会が建立したものです。
 当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である。予科練とは飛行予科練習生の略稱で旧海軍航空機搭乗員である。この採用制度は昭和五年に設定され全国より選ばれた少年達はよく鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮したが連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊となり、祖国の繁栄と同胞の安泰のみを願いつヽ肉弾となり敵艦に突入し、その八割が若桜で散華したのである。浦戸航空隊は昭和十九年十一月一日開隊されたが、昭和二十年五月に入り愈々本土決戦必至の戦況のもと練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し身を以[もっ]って国難に殉ぜんと決するも(以下、略)
 浦戸海軍航空隊は、途中から陸戦隊に変わり、呉鎮守府(くれちんじゅふ)第十一特別陸戦隊になりました。
 高知の沿岸部の須崎、宇佐、浦戸、長浜、手結、室戸に陣地をつくっていました。
この隊の岡村虎彦さんたちは、三里国民学校の講堂に寝泊まりし、浜で上陸してくるアメリカの軍の上陸用舟艇に爆弾もろとも特別攻撃をしていく訓練をしていました。

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アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 七、アメリカ軍の高知市空襲で四人の子が殺されたという墓碑

高知市種崎の種崎千松公園の種崎共有墓地に「田村 吉尾 霊碑」があります。一九七一年五月に建立されたものです。吉尾弁太郎さんと奥さんの美恵さんが建てたもののようです。
 こんな横面に、こんな俳句が掘り込まれています。
 
 戦争乃[の]
 爪跡残る幾星霜

 裏面に、こんな叙述がありました。

 吉尾 実 弁太郎長男 享年十五才
 吉尾晴子    次女 享年十三才
 吉尾正純    次男 享年十才
 吉尾光司    四男 享年六才
 右四名ハ大東亜戦争中昭和廿[二十]年七月四日米軍ノ無差別爆撃ニ因[よ]り高知市ハ大空襲ヲ受ケ市ノ八割ハ焼野原トナリソノ犠牲トナル

 どういうことだったのでしょうか。吉尾弁太郎さん、妻の美恵さん、長女の純子さんの手記がありました。これらと、ことし五月の純子さんへのインタビューをもとに、「その時」を再現してみました。
 一九四四年三月、兵庫県尼崎市の武庫川に住んでいた吉尾一家は、強制疎開にあいました。
 そして、四月一日に高知市に移住しました。
 帯屋町一丁目に家を借りて住むことになりました。
 弁太郎さんは、美恵さんと、新京橋で写真館を始めました。
 夫婦には子ども七人いました。二女五男でした。
 一番上の子、長女の純子さんは風船爆弾をつくる紙工場に働きに行きました。
 一九四五年の夏。長女・純子さんは十六歳。長男・実さんは十四歳で中学校一年生。 二女・晴子さんは十二歳で国民学校五年生。二男・正純さんは九歳で国民学校三年生、三男・恒久さんは六歳で国民学校一年生、四男・光司さん四歳。五男・邦男さんは一歳。
 弁太郎さんは、アメリカ軍の空襲が激しくなったので、小さい子どもたちを早く疎開させなくてはというので、ひまをつくっては家を探しに歩き回っていました。
やっと、高知市西南部の針木の知人に頼んで間借りをさせてもらうことになりました。
弁太郎さんは、荷造りをしました。
 七月三日、美恵さんは、あすは下の子ども三人を連れて疎開する予定にしていました。
 夜、弁太郎さんは「新京橋の当番」で写真館に詰めていました。
 空襲警報が出ました。
 吉尾さん宅の家族は家の外に出ました。
 しばらくすると空襲警報が解除されました。
 みんな家へ入り、二階に上がり、布団に入りました。
 写真館にいた弁太郎さんはラジオに聴き入っていました。
 四日午前一時前。岡山、高松が空襲を受けたというニュースを聞いて間もなく、徳島に空襲との放送がありました。それから五分とたたないうちに照明弾と焼夷弾(しょういだん)が潮江の天神町方面に落ちたかと思うと空が真っ赤になりました。
 弁太郎さんは、家族のことが気になり、ただちにわが家にけつけました。
 吉尾さん宅では、誰もがまだ眠らないころ、実さんが飛び起きました。
 爆音がしたといいます。
 窓を見て「いかん」。
 美恵さんが「どうした」というと「焼夷弾(しょういだん)が落ちよる」。
 美恵さんは、大声で子どもたちを起こしました。
 同時にトン、トン、トンと家に焼夷弾が落ちてきました。
 空襲警報が鳴りました。
 焼夷弾は、台所の庭に落ちました。
 それを消さなければ二階から降りられません。
 弁太郎さんは、来てくれたおとなりの武村さんと焼夷弾をたたき消しました。
 美恵さんが外へ出ると、南も東も火の海で、空から花火のような焼夷弾が降ってきていました。
 布団を防火用水でぬらし、みんなが一枚ずつかぶって出ることにしました。………

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【ニュース】 震災復興予算を自衛隊の国民監視・記録部隊(情報保全隊) の機材購入に。何なんだ!!

 ここを、ごらんください。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-10-14/2012101401_02_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-10-19/2012101915_01_1.html

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2012.10.21

JOAN BAEZ Donna Donna の歌詞の How the winds are laughing って風のこと? ラッパのこと?

 JOAN BAEZ  Donna Donna は、ここで聴くことができます。

 http://www.youtube.com/watch?v=BqzGZ5AaeSs

 But whoever treasures freedom,
 Like the swallow must learn to fly

 ここが「キメ」のようです。

 バエズが歌っているのを表記すると、こんな歌のようです。

  Donna Donna

 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down
 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down

 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン
 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン

 On a wagon bound for market
 There's a calf with a mournful eye.
 High above him there's a swallow
 Winging swiftly through the sky.

 wagon 荷馬車
 bound for 行き
 calf キャーフ 子牛
 mournful モンフォ 悲しげな
 Winging 飛んでいる
 swiftly さっと

 市場へ向かう荷馬車の上に
 悲しい目をした一匹の子牛が乗っています
 小牛の上の高い空にはツバメが一羽います
 ツバメはスイスイと飛んでいます

 How the winds are laughing
 They laugh with all their might
 Laugh and laugh the whole day through
 And half the summer's night.

 winds ラッパ

 ラッパが鳴っています
 力いっぱい吹いています
 一日中吹いています
 そして、夏の夜にも

 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down
 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down

 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン
 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン

 "Stop complaining," said the farmer,
 "Who told you a calf to be"
 Why don't you have wings to fly away
 Like the swallow so proud and free?"

 「こぼしなさんな」と農夫は、いいます
 「誰が、お前に子牛になれといったんだい?
 なぜ、お前は逃げることのできる翼を持ってないんだい?
 誇り高くて自由なツバメのように」

 How the winds are laughing
 They laugh with all their might
 Laugh and laugh the whole day through
 And half the summer's night.

 ラッパが鳴っています
 力いっぱい吹いています
 一日中吹いています
 そして、夏の夜にも

 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down
 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down

 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン
 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン

 Calves are easily bound and slaughtered
 Never knowing the reason why.
 But whoever treasures freedom,
 Like the swallow must learn to fly

 treasure を大事にする
 
 子牛たちは、やすやすと縛られ殺されます
 そのわけも知らずに
 だが自由を尊ぶ者たちは
 ツバメのように空を飛ぶことを学ぶのです

 How the winds are laughing
 They laugh with all their might
 Laugh and laugh the whole day through
 And half the summer's night.

 ラッパが鳴っています
 力いっぱい吹いています
 一日中吹いています
 そして、夏の夜にも

 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down
 Dona dona dona dona
 Dona dona dona down

 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン
 ドナ ドナ ドナ ドナ 
 ドナ ドナ ドナ ドン

 【追伸】

 「ラッパは誤訳ですね。」という、ご指摘を受けました。

 そこが「争点」です。

 the winds

 と、複数形になっているのでラッパのことと思いましたが、いかがでしょうか。

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2012.10.22

二〇一二年十月十七日 水曜日 高知県における風船爆弾づくりの第一章を発表。

二〇一二年十月十七日 水曜日 高知県における風船爆弾づくりの第一章を発表。

 雨。

 午前、妻は地域の人たちとの昼食会に。

 僕は、不調。

 高知短期大学専攻科の授業で高知県における風船爆弾づくりの第一章を発表。

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二〇一二年十月十八日 木曜日 体調悪し。

二〇一二年十月十八日 木曜日 体調悪し。

 雨、カミナリ。

 体調悪し。
 高知短期大学にも行きませんでした。

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二〇一二年十月十九日 金曜日 槇村浩のことについての調査の進展状況

二〇一二年十月十九日 金曜日 槇村浩のことについての調査の進展状況

 晴れ。

 昼前に平和資料館・草の家へ。
 MAさんと昼食。
 風船爆弾の展示資料探し。
 午後二時から会議。
 カキ、ナシ、アケビが出ました。
 槇村浩のことについての調査の進展状況を報告。

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二〇一二年十月二十日 土曜日 「二日後に手術を受けるけど、もし、私が死んだら、亡くなった恋人の資料を引き継いでほしい」。

二〇一二年十月二十日 土曜日 「二日後に手術を受けるけど、もし、私が死んだら、亡くなった恋人の資料を引き継いでほしい」。

 晴れ。

 体調、いまいち。

 午前十時から午後四時まで戦争遺跡ツアー。青年十一人。ガイドをつとめました。

 ある女性から「二日後に手術を受けるけど、もし、私が死んだら、亡くなった恋人の資料を引き継いでほしい」という電話。
 引きうけました。

 夜、高知短期大学の学友会の理事会に参加。

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二〇一二年十月二十一日 日曜日 高知県での公選制教育委員会の挑戦のについてのリポートを書き直し。

二〇一二年十月二十一日 日曜日 高知県での公選制教育委員会の挑戦のについてのリポートを書き直し。

 晴れ。

 まだ不調。

 妻はSIさんとお見舞いに。

 高知県での公選制教育委員会の挑戦のについてのリポートを書き直しました。

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二〇一二年十月二十二日 月曜日 高知県での風船爆弾づくりの二章を書き上げました。

二〇一二年十月二十二日 月曜日 高知県での風船爆弾づくりの二章を書き上げました。

 晴れ。

 高知県での風船爆弾づくりの二章を書き上げました。
 途中、ワードがいうことをきかなくなって電話でMAさんに「教えて」。おかげで解決しました。

 夜は高知短期大学で税法二科目。
 この間から気になっているのは連結決算という大企業優遇のやり方のことです。

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2012.10.23

ツィッターを始めました。

 @bqv01222

 です。

 よろしく、お願いします。 

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一九六〇年代後半に高知大学で学んだみなさんへ。農学部の村山純さんが那覇市長選に出馬します。

 一九六〇年代後半に高知大学で学んだみなさんへのお知らせ。
 きょう(十月二十三日)になって知ったことですが、当時、農学部の学生だった村山純さんが那覇市長選に出馬します。
 当時、沖縄県はアメリカの占領下で、村山さんは「留学生」。本土に来るのにはパスポートがいりました。
 大学で誠実に学生たちの願いをとりあげて運動していた彼の姿を覚えています。

 ここに略歴などがあります。

 http://peace.moo.jp/kakushin/tableware/pg120.html

 以下、新聞の報道をまとめたものです。

 那覇市長選(十一月十一日投開票)に向け、日本共産党県委員会委員長代理の村山純さん(64)は、十月十九日、沖縄県庁で記者会見し、正式に出馬を表明しました。無所属での出馬で、日本共産党が推薦します。選挙母体となる「市民が主人公の革新市政をつくる会」です。
 村山さんは、(1)日米安保は容認せず、破棄した上で日米対等条約を結ぶ(2)国保税と介護料の引き下げ、久茂地小の統廃合反対、待機児童解消などの暮らしと福祉を守る市政運営(3)民・自・公ではない革新の那覇市政をつくる-などとのべました。
 市長選には四期目を目指す現職の翁長雄志さん(62)と、執筆業の石田辰夫さん(60)が出馬を表明しています。
 村山純(むらやま・じゅん)さん 一九四七年十二月生まれ。那覇市久米出身。那覇高校、高知大学卒。琉球政府職員などを経て一九七五年に日本共産党沖縄県委員会の専従職員となり、二〇〇五年三月から現職。

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【リポート】 公選制教育委員会の実際 高知県に見る 【妻が、はじめて僕の文章を読んで「おもしろい」といってくれたものです。】

「kiyouiku.doc」をダウンロード

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2012.10.24

【ニュース】 「零戦のプロペラ?」 材質はアルミ合金。零戦のものだったかどうか調べています。

 さっき午後二時四十分、ご近所のかたが「零戦のプロペラ」というものを一つ運んできてくれました。

 最近亡くなった男性が持っていたものです。

 材質は何かわかりません。

 爪先ではじくとコン、コンという音がします。

Photo

 縦の一番長い所=百三十・六センチメートル。

 横の一番長い所=二十四・七センチメートル。

 底辺=直径十一センチメートル。

 その中の円部の直径五・三センチメートル。

 金属製のネジの直径=一・二センチメートル。

 重さ=十七 ・三キロ。

Photo_2

 根元にはネジが出ていて、グリースのようなものも残っています。

 実際につかわれていたものかもしれません。

 解明したいと思っています。

 (いまは私の家にありますが、おかえししなくてはなりません。見たいかたは、早めに、ご一報を)

 【追伸】

 ○ 二十五日午前、FUさんが見にきてくれました。

 試してみたら鉄ではありませんでした。

 ○ 二十九日午前九時半、金属の専門家が見にきてくれることになりました。

 ○ 愛媛県護国神社にある零戦のプロペラ。いま、わが家であずかっているものとそっくりです。http://tamutamu2011.kuronowish.com/gokokujinnjyazerosenn.htm

 ○ 二十九日午前、金属の専門家が見てくれました。アルミ合金製でした。周辺のギザギサの所や表面のボソボソしている所は腐食によるものだということです。

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2012.10.25

【ニュース】 日本軍「慰安婦」問題で「吉見さんが強制連行の事実までは認められないと発言」したという橋下大阪市長発言に吉見義明中央大学教授が抗議の会見

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-10-24/2012102404_02_1.html

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2012.10.26

二〇一二年十月二十三日 火曜日 公選制高知県教育委員会のなしとげたことについてリポート。

二〇一二年十月二十三日 火曜日 公選制高知県教育委員会のなしとげたことについてリポート。

 晴れ。

 戦前の教育の目標について勉強しました。

 夜は高知短期大学専攻科の授業、二科目。
 二時間目に、公選制高知県教育委員会のなしとげたことについてリポートしました。

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二〇一二年十月二十四日 水曜日 「零戦のプロペラ」きたる。

二〇一二年十月二十四日 水曜日 「零戦のプロペラ」きたる。

 晴れ。

 地域の女性と妻が、近所の人が持っていた「零戦のプロペラ」を、わが家に運んできてくれました。

 実物感あふれるものです。しかし、その素材が一見はコンクリートのような感じ。しかし、つま先ではじいてみると金属のようです。
 三菱重工の零戦にくわしい部署に電話。写真、データを送ったら鑑定してくれることになりました。

 夜は高知短期大学専攻科の授業、二科目を受講。私は、高知での風船爆弾づくりの第二章を報告しました。

 夜、妻のベッドのうえの白ネコを見ると、天向いて寝ていました。
 カメラでパチパチ。

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二〇一二年十月二十五日 木曜日 高知市の高須山の横穴壕。

二〇一二年十月二十五日 木曜日 高知市の高須山の横穴壕。

 晴れ。

 高知民報の連載「石に刻まれた高知の戦争」の最終回(二十回目)を書きました。第一稿。

 午前、FUさんが、わが家へ。
 「零戦のプロペラ」を見てくれました。彼の判断はコンクリート製でなく金属製。しかし、成分がわかりません。磁石はくっつきませんので、これは鉄ではありません。
 で、ひとっぱしりして金属の専門家に専門家に見てもらえませんかとお願いしました。
 月曜日に見てくれることになりました。やっほー。
 歴史の専門家にも見てもらえることになりました。これは今週の土曜日。
 なお、このプロペラは、松山市の護国神社にある零戦のプロペラとそっくりです(ホームページで見ました)。

 午後、会議。
 この会議で高知市高須に高須山というのがあることを知りました。
 「ここらの山なら、きっと戦争中は陣地になっていただろう」と、思って、いってみました。
 ふもとに横穴壕がありました。入れないようにしてありました。
 近々、この山に登ってみるつもりです。

 午後五時半ころ、高知民報の連載「石に刻まれた高知の戦争」の最終回を書きなおして、メールで送信。

 夜は高知県立図書館へ。風船爆弾についての高知新聞の記事を探しました。
 そのなかの高知新聞の浜田カメラマンが書いた記事のなかに仁井田の飛行場づくりなどに動員されたことが書いてありました。

 高知短期大学へ。

 妻は実家。

 テレビつけ たまった新聞 切り抜いて 書くべきことを しぼりこんでる

 インターネットで、二十三日の橋下大阪市長の会見の映像を見ました。彼のいままでの「暴言」が、ときをへて彼に向かって突き刺さってきているのがよくわかります。

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石碑から読み解く高知の戦争 一 はじめに  【これをあわせて六回になっています】

 二〇一九年四月から十月まで高知県下の戦争についての石碑を訪ね歩いて、そこに刻まれた文字を筆記しました。そのなかのいくつかを建立された年代順に紹介します。①日清戦争以降に地域の人びとがつくった戦争に関連する石碑 ②本土決戦期に高知に駐留した軍隊の残した石碑です。最後に、この調査での私なりの発見を記しました。[]の中は筆者の注です。氏名の敬称は略。

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石碑から読み解く高知の戦争 二 地域の人びとがつくった戦争に関連する石碑・日清戦争、日露戦争関連

【一九〇五年】 香南市香我美町山北の「討清戦勝紀念碑」 「しばしば朝鮮の賊徒と戦う」

 香南市香我美町山北の香南市文化財センターの左手の山の中腹に「討清戦勝紀念碑」があります。日清戦争(一八九四年七月二十五日~一八九五年十一月三十日)で勝利した、その記念碑だというのです。日清戦争後十年たち、日露戦争終結から一か月後の一九〇五年十月に建てられたものです。撰・書は西森真太郎です。
 碑の後ろに刻まれた文章は漢文で私には歯ごたえのあるものでした。写真に撮って、友人たちにも見せて、知恵を借りて読みました。
 内容は題名通り手放しで「勝った。勝った」と誇るものでした。
 要旨を意訳します。

  明治二十七年[一八九四年]四月、日清間の和議が破れ、わが軍は連戦連勝し、向かうところ敵なしであった。
 翌年四月、清は和を請うて七月に凱旋した。
 わが高知県山北村からの従軍者は全部で十一人、貞岡虎次、近森營之進は病にかかり除隊、田所馬次は広島の補給廠[ほきゅうしょう]にあってその任に服し、國吉梶馬は輜重兵[しちょうへい]として服し、黒石浅次は馬関[山口県下関]守備のため、安岡八百馬は衛生隊として清に渡り、吉村武治は馬関守備より韓に渡り、しばしば朝鮮の賊徒と戦う、國吉安次郎、安岡次之助、日和﨑房吉、貞岡富太郎は平壌[ピョンヤン]を攻め落とし清国に進入、転戦各地九連城、黄令子峰、巖牛荘、田荘臺などの要塞大小十余りを破り、みな、たたかいで功があった。
 このたたかいは、わが帝國は維新以来、内政に着手してきたが、天皇陛下の威光が海外において発揚するはじまりとなった。

  「朝鮮の賊徒」というのは何だろうと思って、日清戦争の過程を調べなおしました。
 一八九〇年代の朝鮮では、大日本帝国の経済進出がすすむなか、コメや大豆価格の高騰と地方官の搾取などが農村経済を疲弊させました。
 そんななかの一八九四年二月、全羅道(チョルラド)古阜(コブ)で役人の不正をただす約五百人の農民一揆が起りました。弾圧のなか運動は発展し、一万人以上の勢力に。五月三十一日、農民たちが郡都・全州(チョンジュ)を占領しました。そして、六月十一日、政府が政治をあらためることを約束したので農民たちはひきあげました(甲午農民戦争)。
 そこへ、農民たちをやっつけるという口実で、六月三日に清国軍が出動、十日に大日本帝国軍が朝鮮に攻め込んできました。
 七月、大日本帝国軍は清国艦隊を奇襲攻撃し、戦争は朝鮮を主戦場にした大日本帝国と清国のあらそいになっていきます。
 十月、四十万人の農民たちはふたたびたちあがりました。こんどは大日本帝国軍とのたたかいでした。大日本帝国軍は、皆殺し作戦で鎮圧しました。……
 山北出身者がたたかった「朝鮮の賊徒」というのは、このときの農民たちではなかったでしょうか。

【一九〇五年】 安芸市伊尾木の「明治三十八年 戦勝祈白紀念碑」  「国体尊厳不可忘」

 八月、この原稿のための取材で安芸市伊尾木(いおき)の清岡清さん(一九一六年六月六日生まれ)に出会うことができました。
 お話をうかがったあとで、清さんの本『お別れの挨拶に代えて 私の証(あかし)』(二〇〇九年八月)をいただきました。
 清さんは、この本で、父親の清岡玄之助さんのことを書いています。
 日清戦争(一八九四年七月~一八九五年三月)、日露戦争(一九〇四年二月~一九〇五年九月)に出征したといいます。
 クリスチャンでもありました。
 「父は明治生まれの男の誰でもの様に家族制度の信奉者でして、日本国の家長は天皇と堅く信じていました。」
 「キリスト教の神の国もまたそうで、父なるエホバの神は、天皇であり、これに仕える天使がそのまわりに居り、更にその下には信者が居るという考えでした。」
 「父親の人となりがよく分かるものが村の八幡宮に残されています。」。それが、父親がつくった伊尾木八幡宮の日露戦争戦勝碑だというのです。
 伊尾木八幡宮に行きました。
 それは、鳥居の左手にありました。「明治三十八年 戦勝祈白紀念碑」です。
 つぎの文章が刻まれていました。
 
 国体尊厳不可忘
 神祇尊崇不可怠
 あめつちとかきりもあらぬ
 みよとヽもに
 つらぬきとをせ
 やまとこヽろを
 敬白

 碑文は、国体・天皇支配の世の中の仕組みの尊さを忘れてはならないと説いています。
 「国体尊厳不可忘(国体の尊厳を忘るべからず)」は私にとっては衝撃的な文章でした。
 国体というのは、『古事記』、『日本書紀』などをもとにした、皇室は天照大神の子孫であり、日本は、神によって永遠の統治権が与えられている天皇により統治された政治秩序を持っているという考えかたです。
 一八八九年二月十一日に発布された大日本帝国憲法で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などの形で国体が規定されています。
 一九二五年四月二十二日公布の治安維持法は、その「国体の変革」を目的とした結社を禁止しました。
 国体という考え方は、大日本帝国の侵略政策を批判する日本人を押さえつけ、大日本帝国が侵略戦争を遂行するうえでの旗にもなりました。
 昭和天皇の時代、清岡玄之助さんは伊尾木に、もう一つの戦争推進の碑をつくりました。

【日露戦争後】 野市小学校にあった「忠魂碑」 「旅順攻撃に参じた第四十四聯隊は……」
 
 一九一四年四月二日、香美郡野市村の野市尋常高等小学校に「忠魂碑」が建てられました(野市村は、一九二六年から野市町。いまは香南市)。その碑のことが、『野市読本』(野市尋常高等小学校。一九三六年二月五日)に書かれています。
 校内の東側に「忠魂碑」がありました。朝鮮と中国東北部を戦場に大日本帝国とロシアがたたかった戦争・日露戦争(一九〇四年二月八日~一九〇五年九月五日)に出兵して戦病死した野市出身の二十四人の人の名前などを刻んだ碑です。
 読本は、美文調で、この碑をたたえます。
 「殊[こと]に日露の役、旅順[りょじゅん]攻撃に参[さん]じた第四十四聯隊[れんたい]は乃木[のぎ]将軍の麾下[きか。指揮]に属して二〇三高地占領に、東鶏冠山北方砲䑓[ひがしけいかんざんきたほうほうだい]の激戦に、或[あるい]は名だたる磐龍山[はんりゅうざん]の夜襲に、血染めの聯隊旗[れんたいき]を汚すまいと、肉弾亦[また]肉弾の攻撃に聯隊殆[ほと]んど全滅し、壮絶、悲絶の最後を砲煙弾雨[ほうえんだんう]の中にさらしたのであつた。」
 「私達の心に呼びかける忠魂に向[むか]つて、郷土の為[ため]、国家の為、弛[たゆ]まぬ努力と不抜[ふばつ]の決心を、献身の行[ぎょう]にいそしむ事を盟[ちか]はなければならない。其[そ]の時忠魂の人々も安んじて地下に瞑[めい]されることであらう。」
 碑の裏面に刻まれた戦死者の戦死の様子は、すさまじいものです。
 後備役陸軍歩兵軍曹・岡本銘次さん=「清國盛京省東鶏冠山北砲䑓ニ於テ戦死」 
 現役陸軍歩兵伍長・岩神一郎兵衛さん=「清國盛京省東鶏冠山ニ於テ頭部盲貫銃創戦死」
 陸軍歩兵伍長・眞島徳治さん=「東鶏冠山ニ於テ戦死」
 陸軍歩兵伍長・加藤菊治さん=「清國河城附近戦闘ノ際戦死」
陸軍歩兵一等兵・山本虎吉さん=「清國盛京省鶏冠山東北方高地ニ於テ咽喉部貫通銃創ノ為戦死」
 陸軍歩兵一等兵・西内子之助さん=「北砲台ニ於テ戦死」
 補充兵陸軍歩兵一等兵・野口眞鋤さん=「北砲台ニ於テ戦死」
 ………
 いま、この碑は、野市小学校にはありません。
 探したら香南市役所の近くの橋を渡った所にありました。
右手には大砲の弾のようなものを展示しています。後ろの高台には野市町忠霊塔があります。
 この碑の下のほうは壊れていたらしく補修してくっつけています。
 この「忠魂碑」は「敗戦後駐留軍の命令によってこれを倒して土中に埋めなければならなかった。」。そして、「平和克復後掘り起して復旧し」、野市町忠霊塔下に移したといいます(野市町文化財保護審議会『古里之石碑』。野市町教育委員会。一九九五年十一月一日)。

【一九一七年】 仁淀川町小森の「表忠碑」 「一旦緩急アレハ……」

 五月十八日、石碑の調査で、馴田正満平和資料館・草の家研究員の車に乗せてもらって、吾川郡仁淀川町大崎に行きました。地元の井上輝美さん(一九四四年三月、大崎国民学校卒業)に声をかけたら町立吾川中学校の運動場東側の岡・小森の「表忠碑」に案内してくれました。一九一七年八月設置です(西森真太郎撰・書)。
 碑文は、日清戦争(一八九四年七月~九五年三月)、日露戦争(一九〇四年二月~〇五年九月)に、この地域からも八十五人が従軍し、うち陸海軍の二十四人が戦死したことをのべています。そして、「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ義勇公(こう)ニ奉シ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ。」(もしものときは、勇気を持って公のために奉仕し、永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。)という文書もひきながら、この二つの戦争で、天皇の威光を海外に示すことができたと讃えています。
 「一旦緩急アレハ……」は、大日本帝国の明治天皇が、一八九〇年十月三十日に発布した「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)からの引用です。
 私の父、母の世代は、学校教育のなかで、この勅語をすりこまれました。
 小学校・国民学校の奉安殿には天皇・皇后の写真と、この勅語の写しが入っていました。児童は、毎朝、奉安殿に向かって礼をしました。学校の式典では、校長が、うやうやしく、この勅語をとりだして朗読しました。授業では、この勅語を暗記するようにいわれました。この勅語は、子どもたちを天皇の家来として洗脳していく武器の一つでした。
 私は、「表忠碑」の文章を読みながら戦争中の母を思いました。高知市の旭小学校卒業の母(一九一九年十二月一日生まれ)は、戦後生まれの私に学校の思い出を語るときは、いつもこの勅語のことを語り、その全文をそらんじてみせたからです。母は、旭小学校で同学年だった大工さんと結婚しました。が、夫は、高知市朝倉の陸軍歩兵第四十四連隊に召集され、訓練中の事故で死亡。生まれたばかりの長男は栄養失調で死亡。自身は、ひっぱられて陸軍の風船爆弾の風船用の和紙をすきました……。

【日露戦争後】 香南市野市町土居字宮床の立山神社「日露役戦利品 陸軍省御下附」の石碑

 七月十九日、香南市野市町においでる最近知り合った男性(六十五歳)が、野市町と、その周辺の神社や墓地の戦争にまつわる石造物をいくつも案内してくださいました。
 彼の問題意識は「戦死者の墓や戦争についての碑に鳥の形をした石造物がついている、その鳥は、どんな意味を持っているのだろうか」ということです。
 なるほどたくさんの鳥の石造物がありました。
 私は土佐市宇佐の神社でも、鳥の石造物を見ていました。
 私は、それらの鳥は「金鵄(きんし)」だと思っていました。
日本の神話で、神武天皇が東征のとき、金色の「霊鵄」が弓にとまり、長髄彦(ながすねひこ)の軍勢がそれに目がくらんで降参したという話がありますが、その鳥のことです。
この話は、どこか別の土地からやってきて奈良地方に拠点を築いた軍事勢力が、東のほうを攻めていったことを物語っていると思います。金鵄は、その「武運」の印です。
 鵄というのはトンビ。タカ目タカ科の猛禽類(もうきんるい)です。ほとんど羽ばたかずに尾羽で巧みにカジをとり、上昇気流に乗って輪を描きながら上空へ舞い上がる、「ピーヒョロロロロ…」という鳴き声の鳥です。
よく見てみると猛禽類と思われるものも、優しい感じの鳥のものもあります。これらの鳥は、それぞれ何を意味しているのでしょうか。解決は、持ちこされました。
 ところで、「鳥」を見に行った神社の一つに、野市町土居字宮床の立山神社がありました。
 そこの最後の鳥居を入って右側に「日露役戦利品 陸軍省御下附」の石碑がありました。
 碑のてっぺんに、その戦利品が乗っていたようですが、いまは、それはありません。
 日露戦役というのは、一九〇四年~一九〇五年に朝鮮半島と満洲南部を主戦場としてたたかわれた大日本帝国とロシア帝国との戦争です。
戦利品というのは、戦争や戦闘で勝利したことにより手に入れた品のことです。戦争で奪った兵器、軍艦、美術品などです。神奈川県横須賀市の民家で軍隊の幹部だった男性が戦利品として自宅に持ち帰った立派な家具を見たこともあります。
 下附(下付)というのは、官庁から民間に金や物をさげわたすことです。
 この石碑を見つけたとき、「あわーっ、戦利品か。陸軍省が戦利品を配っていたのか」と、驚きました。
 インターネットのアジア歴史資料センターで陸軍省の資料を探しました。
 日清戦争のときから陸軍省に各地から戦利品を下付してほしいと文書がきていることがわかりました。
 たとえば一九〇七年十月二十三日付の高知市兵事会長・魚角象三の名による「戦利品下付願い」は高知県知事・鈴木定直(すずきさだなお)を経由して陸軍省に届いていました。
 内容は、高知市鷹匠町外柳原に日露戦役の祈念碑を建設しているが、それに備えつけたいので「戦利砲」か「戦利砲丸」を下付してくださいというものでした。
 かくて「戦利品」は神社、学校、博物館に下付され大日本帝国軍隊の強さを宣伝しました。

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石碑から読み解く高知の戦争 三 地域の人びとがつくった戦争に関連する石碑・朝鮮、中国などへの侵略の時期

【一九一三年】 「百度石軍人安全」の碑 同じものが二つの神社に…… 

 一八九〇年十一月二十九日、「大日本帝国憲法」が施行されました。
 日本は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)とされ、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第二条)とされました。
 その天皇は、戦争の最高指揮者・大元帥(だいげんすい)でした。
 「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(第十二条)
 「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第十三条)
 天皇の戦争政策に反対する国民には手痛い仕打ちが待っていました。
 そんななかでも、天皇を批判するのをさけながら戦争政策を批判する文学が生まれました。
 たとえば、日露戦争のとき、雑誌『太陽』一九〇五年一月で大塚楠緒子さん(一八七五年八月九日~一九一〇年十一月九日)が発表した詩「お百度詣(ひゃくどもう)で」です。日露戦争に出征した夫の無事を祈る妻の心情を歌った作品です。

 ひとあし踏(ふ)みて夫(つま)思い
 ふたあし国を思えども
 三足ふたヽび夫思う
 女ごころに咎(とが)ありや

 明日に匂う日(ひ)の本(もと)の
 国は世界に只(ただ)一つ
 妻と呼ばれて契(ちぎ)りてし
 人はこの世に只ひとり

 かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と
 いずれ重しととわれなば
 ただ答えずに泣かんのみ
 お百度詣であヽ咎ありや

 高知市一宮(いっく)の土佐一ノ宮土佐神社の鳥居の左手の「百度石軍人安全」という石碑に出合って、私は、この詩を思い起こしました。
 「軍」という文字は、削られてほとんどわからなくなっています。
  その下に短歌が掘り込まれています。

 君可(が)代の千とせ越(を)神尓(に)百かへりいの留(る)志(し)る之(し)の古(こ)の石はしら

 裏面には「香美郡東川村 末延元吉 大正二年 建之」と、あります。大正二年は、一九一三年です。
百度参りは、願いをかなえてもらうために社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返します。「百度石」は、その目標となる石柱です。何人もの女性や男性が、この「軍人安全」の百度石に向かったことでしょうか。
 五月二十六日、二十七日、香川県善通寺で開かれた第三回戦争遺跡保存ネットワーク四国シンポジウムに参加しました。参加者の一人に、「天皇を批判するのを避けながらも、戦争はいやだという気持ちをこめてつくったものではないか」と、この碑のことを話しました。すると、その人が「香美市香北町のアンパンマンミュージアムの近くの大川上美良布神社(おおかわかみびらふじんじゃ)にも『百度石軍人安全』の碑がある」と、教えてくれました。
 二十七日午後、高知に帰ってから、オートバイで、その神社に向かいました。
 ありました。これも「香美郡東川村 末延元吉 大正二年 建之」です。
 こちらには碑の上に『日本書紀』に登場する金色のトビ・金鵄(きんし)を表現したと思われる鳥が載せてありました。

【一九三四年以降】大砲の弾三つ乗せた「忠魂碑」

 安芸市伊尾木(いおき)に大砲の弾のようなもの三つを頂上につけた「忠魂碑」があります。「海軍大将永野修身書」と刻まれています。
 忠魂碑は、大元帥である天皇を忠義をつくし、雄々しくたたかう、そういう心を讃えたものだったと思います。
 いつ、誰が、これをつくったのでしょうか。
 碑のうしろに説明の文章が刻まれていますが、一部がノミのようなものでつぶされたりしてわからなくされています。
 「■■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■■
 花崗■■■■■■■■■
  建設資金寄贈者
      清岡克己
      井上琴治
      有澤義松
      山下一春
      加納盤城
      山崎悌二郎 
 ■■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■稲
 ■■■■■■■■■■■」
 ■の部分には、おそらく発起人、建立の年月日などが刻まれていたことでしょう。
 永野修身さんは、一九三四年三月一日、海軍大将になっていますので、「海軍大将永野修身書」と刻んだこの碑は、これ以降につくられたものでしょう(一九三六年三月九日には海軍大臣になっています)。
 この地域に住んでいる清岡清さん(一九一六年六月六日生まれ)が、この碑の由来を教えてくれました。
 この地域は、当時は伊尾木村で、清さんの父・清岡玄之助さんが村長をしていました。
 伊尾木村の忠魂墓地は、もとは人気(ひとけ)のあまりない五本松地域にありました。
 玄之助さんの弟の清岡克己さんが、玄之助さんに忠魂墓地をにぎやかな所に移そう、「金がなければ俺が出す。立派なものをつくろう」と提案。そして、引越しが実現しました。
 克己さんは、日清戦争、日露戦争のとき日本軍の通訳をやり、その後、中国の大連で酒屋を経営するなどして金持ちになっていたといいます。
 あらためて「忠魂碑」の裏面を見ると「建設資金寄贈者」の一番初めに「清岡克己」の名前がありました。「忠魂碑」は、軍人墓地の引越しに際して建てられたもののようです。
 大日本帝国憲法第三条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」としていました。キリスト教徒である玄之助さんには受け入れがたい考えでした。しかし、玄之助さんなりに納得して日清戦争、日露戦争にも出征して天皇につくしてきました。
 その玄之助さんの考えが激変したのは一九四五年八月十五日のアジア太平洋戦争終戦の数日後でした。
 玄之助さんは、清さんにこういいました。
 「この戦争の敗因は何か? それは天皇を神としたことだ。国民がみな、天皇を神に仕立てたし、天皇自身も神になろうという野心を持っていたなあ」
 玄之助さんは「天皇みずからも神となって世界征服をくわだてていた」と批判するようになっていったといいます。

【一九三六年】 「元帥[げんすい] 永野海軍大将誕生の地」の碑

 高知市桜井町一丁目に「元帥[げんすい] 永野海軍大将誕生の地」の碑があります。ミカゲ石で、高さ一・六メートル、幅五十センチメートルです。裏面に「新町青年会建立」とあります。
元帥は、大日本帝国軍隊の最上級の階級です。天皇は、その上に立つ大元帥でした。
 碑は新しいものですが、土台やまわりの三方を囲った塀や土台の石造物は、それ以前のもののようです。
 土台の四方の隅には上を向いた石づくりの大砲の弾丸が一つずつすえられていて、正面には錨(いかり)のマークが彫りこまれています。そして、土台の裏面には「昭和十一年[一九三六年]五月」と刻まれています。
 正面の金属製のプレートには、つぎのような文章が掘り込まれています。

 元帥 永野修身[ながのおさみ]海軍大将は 明治十三年六月十五日この地に生まれ海南中学校を経て海軍兵学校、海軍大学校に学び、アメリカ大使館附武官、練習艦隊司令官、海軍兵学校長、軍事参議官、海軍大臣、連合艦隊司令長を歴任。ジュネェブ ロンドン軍縮会議首席代表として活躍 昭和九年海軍大将同十八年[一九四三年]元帥に親補[天皇が、その職につけること]され第二次世界大戦開戦当時は海軍々令部総長の要職にあって歴史的な「眞珠湾奇襲攻撃」の作戦を指導し、戦後海軍の最高責任者として極東国際軍事裁判で審理中 昭和二十二年一月五日 六十八歳で病歿す
 この碑は昭和十一年五月新町青年会が建立したが戦災により亀裂を生じたので、高知県海洋会がこれを修復す。
  昭和五十二年十二月吉日
   高知県知事 中内力謹書

 修復したといっても何かちぐはぐな感じです。碑文には「元帥 永野海軍大将誕生の地」とありますが、はじめにこの碑が建ったとされる一九三六年五月には、永野さんは元帥ではありません。元帥になったのは一九四三年六月二十一日です。元の碑文には「元帥」はなかったはずです。
 この碑は戦後、彼が元帥として「『眞珠湾奇襲攻撃』の作戦を指導」したこともふくめて評価したものに「パワーアップ」されています。
 戦後、これを修復した高知県海洋会とは、旧日本帝国海軍の兵士だった人たちを中心にした団体です。当時の会長は、麻田金光さん。総工費は六十万円でした。
 碑の除幕式は、一九七七年十二月八日でした。
 「除幕式には、会員や来賓の中内知事、自衛隊関係者ら約百人が出席した。この日は、折しもあの『十二月八日』。会員たちは白地に黒線の入った旧海軍の艦内帽をかぶって参加、高らかにラッパが響き、軍艦旗の掲揚もあって、全員が〝敬礼〟。突然の〝帝国海軍〟の出現に道行く人々が目を見張っていた。」(高知新聞 一九七七年十二月八日夕刊)。

【一九三七年】「奉 富国徴兵保険相互会社 社長 根津嘉一郎」

高知市吸江二一三の高知県護国神社を入った所の左右に石塔があります。
 向かって右のものには「奉 富国徴兵保険相互会社 社長 根津嘉一郎」、左側のものには「献 昭和十三年四月」と彫りこまれています。昭和十三年は、一九三七年です。
 「徴兵」という言葉があります。
 徴兵制度は、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度です。武士の世では、兵士は武士だけでしたが明治維新をへて新しい天皇の世になると男性全般が兵士になることを強制されました。
 一八七二年十一月二十八日、「全国徴兵に関する詔(みことのり)」が発せられ、翌年一月十日、太政官布告無号「徴兵令」が布告されました。「徴兵令」は、国民の兵役義務を定めました(一八八九年に改定)。一九二七年四月一日に「徴兵令」は廃止。引き換えに「兵役法」(法第四十七号)が公布され、男性には満二十歳になると徴兵検査を受ける義務が課せられました。
 一八七四年五月六日~六月には、新しい天皇の政府は初めて海外出兵をしました。台湾出兵です。
 そして、日清戦争(一八九四年、九五年)をしかけます。
 こうしたなかで、徴兵保険が生まれます。男子誕生と同時に保険に加入する、その子が徴兵検査の年齢に達したときに甲種合格となったら約定の支払額を受け取れるという保険です。
 最初の徴兵保険会社は、一八九七年五月から営業を開始した徴兵保険株式会社です(後に第一徴兵保険株式会社)。
 そして、日露戦争(一九〇四年、〇五年)が始まります。
 一九一一年九月、日本徴兵保険会社ができました。
 シベリア出兵(一九一八年~二二年)と戦争は続きます。
 一九二二年七月、国華徴兵保険株式会社ができました(後に第百徴兵保険に)。
 そして、満州事変(一九三一年)の後の一九二三年九月、この石碑の会社、富国徴兵保険相互会社が設立されました。
 新しい天皇の政府は、日中戦争(一九三七年~四五年)と戦火を広げます。
 富国徴兵保険相互会社、業績を拡大し一九三七年、業界一位の保険契約高を獲得します。
 この石碑は、その翌年・一九三八年につくられたものです。
 このあとも、新しい天皇の政府は海外に戦火を広げます。
 この碑の周辺には「歩兵第二百三十六連隊(鯨部隊) 戦没慰霊塔」、「フィリッピン戦没 戦友の塔」、「高知県戦没者慰霊之碑 硫黄島」、「独立歩兵第四百十二大隊 慰霊碑」、「シベリア満蒙方面抑留 戦没者慰霊碑」などの石碑がならんでいます。

【一九三九年】 鴨田小学校にあった「川崎伊勢雄」の石碑 終戦後、校庭に埋められていて……

 「あのこんもりした所に、きっと僕の知りたいものがある」。この間、何度も、そんな気がしながら素通りしていました。
 七月二日午前。晴れ。私は、高知市の土佐道路を朝倉に向けてバイクで走りました。左手の「高知市消防団鴨田分団」の近くにバイクをとめました。そして、その手前の「こんもりした所」に行きました。
 軍人墓地でした。
 「あった」
 そこには、下半分がなくなっている石碑が建っていました。
 表は「忠烈 川崎伊勢□□□/陸軍□□□」。そばの解説の石碑(一九八三年九月、建立。建てた人は不明)を見ると、川崎伊勢雄(かわさきいせお)」の碑でした。
 この碑は「かつて鴨田小学校にあり 敗戦の際秘かに校庭に埋没されていた」といいます。
 そして、「先年工事中その[石碑の]大部分が発見され」、ここ軍人墓地の一角に再建されたとのことです。
 校庭に埋めたのはアメリカなどの占領軍を恐れたものでしょう。当事者は、この碑が、子どもたちに侵略戦争熱をあおる役割を果たしていたことを自覚していたのでしょう。
 川崎伊勢雄さんは、一八七三年十月十四日、高知県神田村(いまは高知市)生まれ。その解説の石碑によると、彼は日清戦争のときの「騎馬斥候(きばせっこう)」で「日清戦争のはじめ 大同江の渡河や 中和の血戦で武勇を天下に轟かせ 歌にまで唱われた郷土の偉人です」といいますが、「偉人」という評価でよいのでしょうか。
 日清戦争は、一八九四年七月から九五年三月にかけておこなわれた朝鮮半島(朝鮮王朝)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争です。川崎さんは、この戦争で敵情や地形などをひそかに探る任務についていました。朝鮮の平壌(ピョンヤン)の「敵情」を探ろうとして大同川二千メートルを泳ぎ渡り、「敵」に発見されたが船を奪って帰る……という物語が流布されていました。
 この碑は、日清戦争からかなりあとの、一九三七年からの日中戦争のさなかの一九三九年四月、地元有志によって建立されたもので、題字は川島義之(かわしまよしゆき)・陸軍大将、郷土史家・寺石正路さんだということです。
 解説の碑には、「川崎軍曹の歌」が彫りこまれていました。
日清戦争はじまりて/八月三日の夜とかや/ わが斥候の一隊は/ 大同江を渡らんと/堤に到れば舟はなし/ 折しも霖雨[りんう。長雨]に水まして/ 渡るにかたきこの川の/堤に馬をのりすてヽ/軍服ぬぎすて赤はだか/口に剣をくわえつヽ/ざんぶと水に躍り入り/抜手をきって只[ただ]一人/逆巻く波をなんなくに/渡りし人は高知県/土佐の郡の鴨田村/川﨑伊勢雄という勇士/今は陸軍軍曹で/物見の役をつとめたり………
 「川崎軍曹渡単身大同江」という錦絵も当時売り出されていたようです。
 この連載の八回目で高知市の「高知市消防団鴨田分団」の近くの軍人墓地の日清戦争のときの「英雄」・川崎伊勢雄(かわさきいせお)軍曹の碑のことについて書きました。この碑は、かつては鴨田小学校にあったものでした。その記事では、この碑が「この碑が、子どもたちに侵略戦争熱をあおる役割を果たしていた」と書きました。
 鴨田学校が尋常高等国民学校になった時代に、ここに通っていた岡崎正夫さん(一九三二年五月生まれ)のお話をお聞きすることができました。九月十九日午後のことです。
 岡崎さんたちの学年は男子組三十二人、女子組三十九人でした。
 川崎伊勢雄軍曹の碑は正門を入って右手にあったといいます。「上級生からいわれていたのでしょうか、私たちは毎朝、登校すると、この石碑に丁寧な礼をしました」。
 学校の様子をうかがいました。
 「四年生の終わりころから体操の時間には手榴弾(しゅりゅうだん)を投げる訓練や竹やりの訓練をしました」
 手榴弾訓練の標的は、たてかけた丸い板でした。鉄製の模擬手榴弾を使いました。その底を石にコチンとあててから、男性の先生の「一、二、三」の掛け声の、「三」のとき投げました。「十五メートルが目標でした。達成するとビール瓶のフタのバッジをくれました」。
 竹やりの訓練は、竹の棒にワラをまいたものが標的でした。男性の先生の「走れ―ッ」の号令で、竹やりをもって突進して標的にブスッ。
 一九四五年四月、岡崎さんは同校の高等科に進学しました。
 しばらくして、同校に満州(中国東北部)にいた陸軍部隊が駐屯しました。
 「この部隊は、食糧に困っていたようで、わが家の農耕用の牛も、この部隊が持っていきました」
 同年七月四日、アメリカ軍のB29機の群が高知に襲いかかりました。
 「鴨田尋常高等国民学校は、この空襲で焼かれてしまいました。トイレだけが残っていました」
 岡崎さん宅の牛は、県下春野町秋山の陸軍部隊に連れて行かれていたようです。「戦後、『とりにこい』とい連絡がありました」
岡崎さんは、戦争の時代に、同校で使った鉄製の模擬手榴弾を持っています。
一方の底に、つぎのような刻印がされています。
「体力章検定規格手榴弾 美津濃 謹製」
美津濃は、いまもある美津濃株式会社のことのようです。
一九〇六年四月一日、水野利八さんが創業。いまは、ミズノの名でスポーツ用品を製造販売しています。

【一九四〇年】「祈念 皇紀二千六百年」の石碑 「寄附者芳名」は五十三人

  一九三六年六月三十日、紀元二千六百年祝典事務局の内閣設置が勅令(ちょくれい)第百三十五号で公布されました。大日本帝国の中国東北地方侵略戦争のさなかのことです。神武天皇即位紀元(皇紀)二千六百年は、三年半後の一九四〇年でした(私は、神武天皇は、空想上の人物だと考えていますが……)。
 同事務局の一九三七年三月三十一日付の文書「紀元二千六百年に就[つい]て」は「紀元二千六百年を迎へるに当つては、遠く肇国創業[ちょうこくそうぎょう]の偉業を瞻仰[せんぎょう。あおぎ見る]し歴朝の懿徳[いとく。りっぱな徳]を景慕し奉ると共に、我が国体の精華と肇国創業の大精神とを広く中外に顕揚[けんよう。世間に威光を高める]して、内は愈々[いよいよ]国民精神の振作更張[ゆるみを引きしめ振るいおこさせる]を図り、外は八紘一宇[はっこういちう]、万邦協和、共存共栄の世界平和確立の大理想具現の為に一段の進展を期する所がなければならぬ。茲[ここ]に来るべき紀元二千六百年の意義が存する。」と、のべています(官報付録『週報』第二十四号)。八紘一宇の、八紘は四方と四隅つまり世界・天下、宇は家のこと、全世界を天皇のもとに一つの家とするという意味です。
 この年の出た年、一九三七年七月には日中戦争が全面化します。
 高知県下を歩くと各地に紀元二千六百年の記念碑が残っています。
たとえば、香美市土佐山田町楠目[くずめ]の道路沿いの楠目小学校跡地の近くの「祈念 皇紀二千六百年」と刻まれた石碑。裏面は「寄附者芳名」。数えたら五十三人。なかには大法寺部落常会、談義所上組常会の名もありました。
 一九四〇年二月発売の奉祝国民歌「紀元二千六百年」(紀元二千六百年奉祝会・日本放送協会制定)は「……正義凛[りん]たる旗の下 明朗アジヤうち建てん/力と意氣を示せ今/紀元は二千六百年……」と歌いました。
 同年十一月十日、東京の宮城前広場で内閣主催の「紀元二千六百年式典」が開催されました。同日、高知でも高知公園三の丸広場で式典が開催されました。近くの高知県庁には大きな垂れ幕が二つかかりました。「皇紀二千六百年を祝し」、「益々[ますます]総力を発揮しませう」(寺田正『ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 高知』。国書刊行会。一九七九年)。
 十一月十四日までのポスターは「祝へ! 元気に 朗かに」。そして、同月十五日からのポスターは「祝ひ終つた さあ働かう!」。
 そして、翌年、天皇は大東亜戦争(アジア太平洋戦争)を始めました。
楠目の皇紀二千六百年の石碑の近くにの「忠魂碑」(一九四五年三月十日再建)には大東亜戦争の戦病没者もまつられています。

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石碑から読み解く高知の戦争 四 地域の人びとがつくった戦争に関連する石碑・アジア太平洋戦争の時期

【一九四一年】「皇紀二千六百一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」 「皇威万邦輝」と……

 大日本帝国の大元帥・天皇の侵略戦争の爪跡を、この目で見たい。そう思い立ってパスポートを初めて取ったのは二〇〇一年十二月でした。
台湾、韓国、中国、タイ、マレーシャ、ベトナム、フィリピン、テニアン……と、歩き続けました。各地の戦争博物館に行きました。どの館でも、館の側で私が日本人と気づいて丁寧に案内してくれました。展示を見ていて「日本人が、こんなことを……」と、いたたまれなくなるシーンが各地でありました。
 タイ映画「少年義勇兵」(二〇〇〇年制作)のDVDを何回か見ています。タイ南部の田舎の町・チュンポーンは、雨でした。一九四一年十二月八日午前二時四十分、一群の艦船が、ここに迫っていました。戦闘機が侵入しました。大日本帝国のタイ上陸です。この町の少年義勇兵たちも銃を取りました。彼らを包囲する侵略軍。銃剣での死闘が始まります。つぎからつぎへと侵略軍は上陸してきます……。やがてタイは降伏。この戦闘での日本側死傷者は二百人、タイ側は十人、少年義勇兵の死傷者ありませんでした。
 大日本帝国の軍隊は、その日、まずタイに侵攻、そして、アメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地を攻撃しました。
その後、天皇がアメリカ、イギリスへの宣戦を布告しました。大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の開始です。
ところで、いま私が通っている高知市永国寺町の高知短期大学(専攻科の学生です)の近く、愛宕山(あたごやま)に愛宕神社があります。
 愛宕神社の二百八段の石段を一気に登ります。体重八十五キロですからドス、ドスという感じです。
 上がりきった所の左右に向かい合った二本の石柱があります。
 左手の物には「皇威万邦輝」(大日本帝国の天皇の威光は世界に輝く)、「皇紀二千六百一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」と彫り込まれています。
 左手の碑には、「神徳八紘洽(しんとくはっこうにあまねし。神である大日本国の天皇の徳は世界にゆきわたっている)」と、刻まれています。その裏には「高知市愛宕町二丁目/階段施工 畠中正夫」とあります。
 皇紀二千六百一年十二月八日は、一九四一年のことです。「大東亜戦々捷」とは大東亜戦争戦勝のことです。
 それにしても気が早い。天皇がアメリカ、イギリスに大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の宣戦布告をした日付の碑です。確かに、この戦争は、不意打ちで一時は圧倒していましたが、すぐに敗北に向かいます。
 この碑の「々捷」の所が何かで塗りつぶされているのが奇妙です。
 石段の掃除をしていた男性がいいました。「戦後、アメリカ占領軍がくる、まずいというので塗りつぶしたのかな。残念ながら私は、当時、ここにいなかったから……」。
 ときの流れのなか、愛宕神社の、いまの宮司も、いつ、だれが、どんな理由で、この二字を塗りつぶしたのかを知りませんでした。

【一九四四年】高知市三里墓地公園の「納骨塔」 「海軍施設ノタメ」墓地を移転 
                        
 「あそこに、海軍施設の建設のため墓地の移転を命じられたということを刻んだものがある」――平和資料館・草の家研究員の馴田正満さんに教わって高知市仁井田の県道14号脇の高知市三里(みさと)墓地公園の右手の角に「納骨塔」を訪れました。
 高知市役所三里出張所長・細川恒久さんが一九四四年十一月に建立したものです。こんな文章が刻まれていました。
 「池及[および]仁井田地域ニ海軍施設ノタメ区域内ノ墓地移転ヲ命セラレタル所工事ノ急速ヲ要セシタメ墓地所有者ヲ精密ニ調査スルノ遑[いとま]ナク当時引取人ナキ墳墓ヲ発掘シ此所[ここ]ニ納骨ス」
 アジア太平洋戦争(大東亜戦争。一九四一年十二月八日~四五年八月十五日)下、日本帝国海軍は、この地域に浦戸海軍航空隊と高知海軍航空隊第二飛行場を建設しました。二つの軍事施設の建設時期からすると、ここにいう「海軍施設」は、一九四四年十一月一日に開隊した浦戸海軍航空隊跡のことのようです。
 高知市池地区に浦戸海軍航空隊跡の碑があります。一九八五年四月六日に甲種飛行予科練習生第十四期会、第十五期会、第十六期会が建立したものです。
  「当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である。予科練とは飛行予科練習生の略稱で旧海軍航空機搭乗員である。この採用制度は昭和五年に設定され全国より選ばれた少年達はよく鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮したが連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊となり、祖国の繁栄と同胞の安泰のみを願いつヽ肉弾となり敵艦に突入し、その八割が若桜で散華したのである。浦戸航空隊は昭和十九年十一月一日開隊されたが、昭和二十年五月に入り愈々本土決戦必至の戦況のもと練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し身を以[もっ]って国難に殉ぜんと決するも(以下、略)」
 浦戸海軍航空隊は、途中から陸戦隊に変わり、呉鎮守府(くれちんじゅふ)第十一特別陸戦隊になりました。
 高知の沿岸部の須崎、宇佐、浦戸、長浜、手結、室戸に陣地をつくっていました。
この隊の岡村虎彦さんたちは、三里国民学校の講堂に寝泊まりし、浜で上陸してくるアメリカの上陸用舟艇に爆弾を抱えて体当たりする訓練をしていました。
 二〇一一年十月、ことし四月に平和資料館・草の家研究員・福井康人さんが発見して発表した香南市夜須の二つの手結砲台跡は、この陸戦隊のものです。二つの砲台の弾薬庫には「化学兵器」(防御用)も多数用意されていました。
民間でもアメリカ軍の高知上陸のための備えをしていました。たとえば、長浜国民学校高等科一年生の男子たちは竹やりの訓練をしていました。マトはコメ俵に土を入れたものでしたが、毎日、毎日突くので、俵に穴があいて、ついには竹やりが向こうにまで抜けるようになったといいます。

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石碑から読み解く高知の戦争 五 本土決戦期に高知に駐留した軍隊の残した石碑

【一九四五年】 南国市十市の禅師峰寺の山の第十一師団歩兵第四十三連隊の「屈伸付天地」の碑

 海原治(かいはらおさむ)さんは、一九四〇年二月、陸軍第十一師団歩兵第四十三連隊(編成地・徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、陸軍第十一師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として一九四五年八月十五日の終戦を高知県で迎えました。
 その、海原さんが『戦史に学ぶ 明日の国防を考えるために』(朝雲新聞社。一九七〇年八月十五日)で本土決戦期の高知県のことを書いています。
 一九四五年春、アメリカ軍が高知県に上陸するかもしれない、本土決戦だということで、満州(中国東北部)にいた陸軍第十一師団(錦部隊。約二万二千人)も、高知県の海岸地帯に展開することを命じられました。「米軍の本土攻撃に備えて、八月中旬までにいっさいの準備を完了すべし」というのが軍の作戦命令でした。
 各部隊の受け入れ準備のために高知に来た同師団の海原さんは、驚きます。高知県の海岸には、トーチカも砲座もないのです。
 防御陣地をつくるための木材、セメントの受領に行きました。木材は二十八万六千石必要です。県庁の林業課に行き、どこで木材を受けとればいいかたずねると、この山とこの山から自分たちで切り出してくれといわれます。同師団には、切り出して、運搬して、製材するための輸送力も機械器具もありません。しかたないので各部隊には「その警備区域内でしかるべくやれ」と指示を出しました。軍の指示で浅野セメント土佐工場に千五百トンのセメントを受け取りにいくと、工場長は、軍の要求でもセメントの割当証明書がなければセメントを渡すなという憲兵司令官の通達をたてに渡してくれません……。
 高知県での陣地構築作業は、こうした状態から出発したと、海原はいいます。
 県民も動員しての、がむしゃらな陣地づくりが始まります。
 いま、南国市だけでも三十三の陸軍、海軍のトーチカ跡が残っています(平和資料館・草の家の福井康人研究員調べ)。海岸に、川の土手に、田んぼの中に、山中に……。
 南国市十市の四国八十八箇所霊場第三十二番札所の禅師峰寺(ぜんじぶじ)に登る坂道の右わきにもトーチカ跡があります。黒っぽいコンクリートの四角いかたまりですが、上ってよく見ると砲のための穴、銃眼があいているので、それとわかります。
 参道を登り、山門の向かいの石段を降ります。降り切って少し行くと道が二手に分かれています。左の小道にいくと、アジア太平洋戦争中につくられたと思われるタコツボのような壕(ごう)や陣地と陣地を結ぶ交通壕のようなものがたくさん走っています。
 そうした道脇の右手に石碑があります。
 表面には「屈伸付天地」とあります。裏面には終戦の前日、「昭和二十年八月十四日」の日付。それに、「錦二四三五」の文字。「錦二四三五」は、第十一師団歩兵第四十三連隊のことです。
 「屈伸付天地(くつしんてんちにふす)」は、江戸時代の水戸学派の儒者・藤田東湖の漢詩からとったものでしょうか。屈伸付天地(わが身のなりゆきは天地に任せたものだ)。生きようが死のうが、もはや何の迷いもない。生きてあるならば藩公の冤罪(めんざい)をそそぎ、正気によって世道人倫が再び健全に輝く姿を示さねばならない。もし死を迎えるならば、正気はわが魂にあつまって忠義の鬼となり、天地のつききるまで皇国を護持するのだ。…… 
 天皇の国を守るために部署についていた陸軍部隊幹部の、敗戦を前にした思いを刻み込んだものです。
 なお、海原さんは、戦後、高知県渉外課の初代課長としてアメリカなどの占領軍を受け入れるために働きました。

【一九四五年】 高知市一宮の一宮百々山善楽寺の境内の錦二四八五部隊立町隊の碑

  高知市一宮(いっく)の一宮百々山善楽寺の正面奥に「嗚呼(ああ)立町隊盡忠之地(たてちょうたいじんちゅうのち)」の石碑があります。裏面には「昭和二十年[一九四五年]九月十二日解散ニ際シテ 錦二四八五部隊 立町隊長」とあります。
 「盡忠」は、この場合、天皇に忠義をつくすことだと思います。
この場所が、錦二四八五部隊立町隊が駐屯していた所で、一九四五年八月十五日の終戦後の九月十二日に、この碑を建てたということです。
 その碑の左の「平和之塔」に、この隊のことが刻まれています。題字書、碑文作は同隊の中隊長だった立町芳行さんです。
 「輜重兵[しちょうへい]第十一聯隊[れんたい]第一中隊は 昭和十三年原隊善通寺より旧満州に九三〇部隊で出兵し 錦県 東安 虎林[こりん]一訓に駐屯し零下三十度の酷寒を克服して ソ満国境の警備に当った 昭和二十年四月太平洋戦争苛烈(かれつ)を極めるに至[いた]り 本土防衛の為郷土四国に転進 伊野町 高知市附近に於[おい]て陣地構築 輸送の任務につき士気愈ク旺盛[おうせい]であった しかるに 八月十五日図らずも無念の終戦となり 九月十二日 万斛[ばんこく。多くの]の涙を呑んで解散した。……」
 実は、錦二四八五部隊のことは二年前から調べていました。愛媛県今治市に住む元隊員から体験談も聞いていました。その人たちの隊は、まず、伊野町(いまは、いの町)の伊野国民学校に駐屯し、そして高知市の針木で横穴壕を掘り、そして、高知市の薊野(あぞの)で横穴壕を掘ったということでした。現場に行ったら針木にも薊野にも壕がいくつか残っていました。
 錦部隊(陸軍第十一師団)は、一九四五年春、満州(中国東北部)から移ってきた師団です。主軸を構成する歩兵連隊が高知県の第四十四連隊と徳島の四十三連隊、香川の十二連隊です。長岡郡介良村(いまは、高知市)の鉢伏山(はちぶせやま)に師団司令部を構えていました。
 鉢伏山には、よく登りますが、山中に銃をすえる銃座壕(じゅうざごう)、兵隊が移動する交通壕や攻撃のため身を隠すタコツボなど、戦争の遺跡が残っています。
 高知市の高知県立高知城東中学校(いまは、高知県立高知追手前高校)にも一九四五年四月十六日から錦二四四五部隊の千人が宿泊しました。学校は兵舎に使用され、三年生以下の生徒たちと軍人、軍馬に満ちあふれました。生徒たちは高知市の秦泉寺の山にアメリカ軍上陸時の戦闘用の横穴を掘り、ときには十ミリ野砲の弾丸磨きもやりました(高知追手前高校百年史編集委員会『高知追手前高校百年史』。高知県立高知追手前高校校友会。昭和五十三年十一月十九日)。
 四月に高知市を視察した山岡重厚・善通寺師団管区司令官(中将。高知市旭出身)は市民に「祖先伝来の地を護り抜き、なお力尽きた場合はその地で戦死せよ」と檄をとばしていました(高知市史編纂委員会『高知市史 現代編』。一九八五年三月二十五日)。

【一九八四年】 美香市土佐山田の加茂大明神の兼松砲兵隊の碑

 七月三十日午後、前出の香南市野市町の男性が、美香市土佐山田の二つの神社に案内してくださいました。
 そのうちの一つ、県道257号ぞいの町田の加茂大明神の境内に私が前から追い求めていた本土決戦期に高知に配備されていた部隊の碑がありました。
「懐旧報恩の碑
昭和二十年の晩春より秋にかけ兼松砲兵隊は本土決戦の陣地構築のため町田地区に駐屯し民宿す 時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなしまた当神社に接し軍馬数十頭を繋留し境内を甚だしく汚損せり 吾等昭和五十七年戦後初めてこの地に再会し地区の人々の厚遇を得て懐古の情に浸るその折り往時を偲び報恩を決意す
  時移り風潮変われども昔日の足跡は厳存す
  ここに懐旧の情を石に刻み報恩の寸志を改修の玉垣に具現す
     昭和五十九年仲秋 兼松砲兵隊戦友会
                  木村倭士[きむらしずお]撰」
 裏面には「世話人」の名前が刻みこまれています。
 高知県の人、徳島県の人、愛媛県の人、大阪市の人、兵庫県の人、香川県の人。
 この隊の隊長は高知県の兼松平さんのようです。
 状況から判断すると、この地域にいたのは山砲隊(さんぽうたい)のようです。
 山砲は、分解が可能で、山岳地帯などで、通常の野砲が行動力を発揮できない地形で軽快な機動をおこなうことができる砲です。野砲のように牽引することもでき、分解して馬の背に乗せたり、人力でも搬送できます。
 案内してくれた知人と二人で地域を歩きました。
 当時のことを知っている人がいました。一九三七年二月生まれの男性です。
 「加茂大明神の社殿の向かって右手の竹やぶの所で馬を駆っていました。
 兵隊は民家の蚕屋などに泊まっていました。
 壕をたくさんつくっていました。入ると途中からYの字になっているものもありました。
 神社の南の山、烏ケ森のてっぺんの裏がわに大砲をすえる壕をつくっていました。
 烏ケ森の向こうからアメリカ軍の艦載機が飛んできて高知海軍航空隊のほうに飛んでいきました。私が、そこの兵隊に『敵の飛行機が山の上を飛びゆうに、何で大砲で撃たん』と聞いたら『撃たれん。撃ったら、ここが攻撃される』と、いっていました」
 翌三十一日朝から、その部隊の元隊員たちに電話しました。
 新潟県の曹長だった九十二歳の人、高松市の二等兵だった八十六歳の人……。高知市の人もいました。お話をうかがいに行きました。
 美香市土佐山田町の加茂大明神の「懐旧報恩の碑」に刻みこまれた「兼松砲兵隊」とは、どんな部隊だったでしょうか。当時の隊員たちからのお話でまとめました。
 この隊は香川県善通寺の陸軍第十一師団(大野広一師団長)で編成されています。山砲の第三大隊八中隊。隊員、約二百七十人。
 一九四五年の「晩春」の夜中に非常呼集がかかり、多度津駅から十センチ山砲四門、軍馬数十頭とともに貨物列車で土佐山田駅へ着きました。
 軍馬は加茂大明神境内右手の竹やぶにつなぎ、兵隊は各民家のカイコ部屋の二階などに宿泊しました。
 山砲は、これまでに使ったことのない最新式のものでした。その一つには「昭和十九年 大阪砲兵工廠製造」のプレートがついていました。
 香美郡吉川村(いまは香南市)の港の近くの松林に山砲をすえ、四門それぞれ四発ずつ試射しました。弾丸に装薬を三つ入れて撃つと七千四百メートル飛びました。
 アメリカ軍が香美郡赤岡町(いまは香南市)の海岸に上陸し、高知海軍航空隊の飛行場を占領することを想定して同神社の南の山・烏ケ森の中腹の山の斜面に山砲の陣地づくりを始めました。
 二等兵だった男性は「古参兵は、ごぼう剣を持っていましたが、初年兵には支給されませんでした。金属製の水筒も支給されず、モウソウ竹を切って水筒をつくりました。山砲の壕を掘るときはワラゾウリでということで、つくれない兵隊は地域のおとしよりにつくってもらって買い取りました。雨のなかで工事をしているとワラゾウリの後ろがなくなって前だけになりました。工事の道具は、シャベル、ツルハシ、モッコでした」と、いいます。
 小隊長だった木村倭士(しずお)さんは、戦闘に備えてコメには封印がされ、食料はほとんどない状態、「動物性タンパク質を取りに来い」という軍の知らせに赤岡町まで出向くとマユから糸を取った後のサナギを配給されたと戦後、語っていました(この項、高知新聞、一九八二年九月二十七日付)。
 木村倭士撰の「懐旧報恩の碑」の碑文の「時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなし」の意味するところです。
 近くの土佐山田町楠目にも別の山砲隊がいたようです。
楠目の喫茶店に入ったら客の一人が「神社なんかを歩いている人やねえ。この間、会うたねえ」と話しかけてくれました。「いま、山砲隊のことをしらべゆう」というと別の客が「楠目の家々に兵隊が泊まっていた。のちに貴船神社(香美市土佐山田町楠目字宮ノ谷一三八一)の裏にテントを張って駐屯していた。壕をつくって山砲もすえつけていた」と、教えてくれました。
 貴船神社に行ってみると神社の境内の下の右手に天井のない壕の跡がありました。

【戦後】 香美市土佐山田町逆川の龍河洞の楷第六四八二部隊の石碑 

 香美市土佐山田町逆川の龍河洞の駐車場の所に楷第六四八二部隊の石碑龍河洞の石碑があります。本土決戦の時期に、ここに駐屯していた部隊の碑です。以下、刻まれている内容を紹介します。

 土佐の国は雄々しきくに
 垂乳根(たらちね)の心深き処なり
 詔(みことのり)承(う)けし日の思ひ語り継
 ぐべき術(すべ)のあらむや
 遠き海鳴りは健依別(たけよりわけ)の呻
 きと聴きし
 秋葉の山竝(やまなみ)は白日のもと不徳
 かなしきは武士の道
 かそけくぞ活きむ

   昭和□年二月十五日
   楷第六四八二部隊長内
          壱百九拾五名

 楷第六四八二部隊   部隊 々長  長宗我部 勝

    香川出    三七
    徳島出    四八
    高知出    二七     
    愛媛出    六五
    兵庫出    一八
        計一九五名

       協賛龍河洞保存会
       会長 岡村隆夫

 発企人  佐藤 新平  上田 照馬  井関 一之  西岡 一樹 西岡 常雄  岡林 貞夫  福留 義信  舛谷 豊
 世話人   千頭 寅安  青木輝夫   今岡 与平  新谷 敦夫  大畑 元吉  石本 恒美  浜川 年信  筒井 庄一 山崎  耕作   相原 政夫   二神   満   清水  聖   松井 龍一 村上  輝雄    青木 絹一   倉岡栄太郎   福島 俊雄  岡崎 信快

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石碑から読み解く高知の戦争 六 この調査で私が発見したこと

 この調査で私が発見したことを何点かのべます。
 第一は、高知県下には日清戦争以降のそれぞれの時期についての石碑があり、これを調査し、分析することによって、それぞれの時期に石碑をつくった人々の戦争への考え方を浮きぼりにすることができるということです。
 第二は、これらの石碑のほとんどが侵略戦争を肯定し、促進する立場でつくられているということです(例外は高知市三里墓地公園の「納骨塔」)。
 第三は、本土決戦期に高知に駐屯した軍隊の石碑がいくつかあるということです。これによって、これらの部隊が、どこで、どんなことをしていたのかという一端を知ることができます。
 第四、戦後のアメリカ軍などの占領期に、地域の人たちがつくった戦争の碑が各地で隠された、そして、そのなかのいくつかは、のちに復活して別の所に建立されているということがわかりました。
 これまでに紹介したみもののほかに、以下の事例があります。
 ○ 大野見村の大野見中央国民学校の校庭の一隅の忠霊墓地にあった乃木大将の「義勇奉公」の石碑、東郷元帥筆の「皇国荒廃在此一戦角印一層奮励努力」の石碑も「戦後、進駐軍の命令により撤去を余儀なくされたのであった。」(「」内は大野見村史編纂委員会編『大野見村史』。一九五六年十月三十日)。二つの碑は倒され、そのほとりの地中になかば埋められていました。「戦後十年、学校側[大野見中央小学校]側の強い要望もあって、村教育委員会と民生委員会の共同提案の形で、部落長会にも諮り、招魂社への移転再建の漸く定まり」(『大野見村史』)、中山の招魂社への二つの石碑の移転再建がなり、一九五五年十月三十一日、除幕式がおこなわれました。 
  ○ 須崎町では、一九二六年、須崎八幡宮に日露戦争記念碑が建立されました。須崎町から日露戦争に出征した六十五人の中で生き残った人たちが話し合って建てたものです。しかし、アジア太平洋戦争が終わって、「米軍の進駐に先立ち土台からとれはずされ、[十二年余も]土中にうめられたま人々に忘れ去られていた……」。しかし、「復古調花やかな最近になって神社総代の坂本猛猪氏さんから『埋めた場所を覚えているので掘出しては…』と話が持ち出された。」(高知新聞、一九五七年十二月十四日付の「くろしお」)。さっそく一九五七年十二月十一日朝から十二人の氏子総代が土中から、この石碑を掘り出し元の姿にかえしました。
 第五、戦火で壊れた戦争碑が戦後修復されて、あらたな意味あいを付けくわえられて復活しています(永野修身生誕の地の碑)
 戦後、高知県でも反戦詩人を表彰した石碑、陸海軍の飛行機の追撃や墜落事故をいたむ石碑、アメリカの空襲の犠牲者をいたむ碑、二度と侵略戦争をしないという思いを刻んだ石碑などができていますが、数量的には、侵略戦争を肯定してきた碑をうわまわっているとはいえません。

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2012.10.27

「国際学連の歌」がユーチューブにありました。

http://www.youtube.com/watch?v=SCdlGH6RhBw&feature=related

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「同志は倒れぬ」が、ユーチューブにありました。

http://www.youtube.com/watch?v=fa6BswG-dU8&feature=related

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「バイカル湖のほとり」が、ユーチューブにありました。

http://www.youtube.com/watch?v=NVXZFc-AaqA&feature=related

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「草原情歌」が、ユーチューブにありました。

http://www.youtube.com/watch?v=mKm9vBMSnnQ&feature=related

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「出征兵士を送る歌」が、ユーチューブにありました。

 悲しいうたです。

 http://www.youtube.com/watch?v=xPmQyMLkj_U&feature=related7

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「戦友」が、ユーチューブにありました。

http://www.youtube.com/watch?v=T3GhA0xmecw&feature=related

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「ダイアモンド」が、ユーチューブにありました。

http://www.youtube.com/watch?v=WjKxtLEdEOA

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2012.10.28

二〇一二年十月二十六日 金曜日 生活保護についての新聞記事のスクラップブック。

二〇一二年十月二十六日 金曜日 生活保護についての新聞記事のスクラップブック。

 晴れ。

 昨夜から生活保護についての新聞記事のスクラップブックをつくっています。

 高知の戦争関連の石碑のことをまとめました。

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二〇一二年十月二十七日 土曜日 三十個の三段のカラーボックス。

二〇一二年十月二十七日 土曜日 三十個の三段のカラーボックス。

 晴れ、雨。

 午前五時前、地震。

 FUさん来が来ました。零戦の載っている本を二冊見せてくました。

 注文していた三段のカラーボックス、三十がやってきました。
 二十五個を一階の真ん中に積み上げて積み上げて本棚にしました。
 五個は二階に。

 高知短期大学関係者のあつまりに参加。

 史学会の講演会に参加。
 いい話でした。

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二〇一二年十月二十八日 日曜日 本山町寺家(じけ)を歩きました。

二〇一二年十月二十八日 日曜日 本山町寺家(じけ)を歩きました。

 雨、晴れ。

 午前六時、起床。

 高知短期大学・本山町の公開講座に参加。
 本山町寺家(じけ)を歩きました。

 文学雑誌『文海』三十部をゲット。私の槇村浩についての文章も載っています。

 SIさんに「高知短期大学に入りませんか」とすすめました。

 きょうは電話での会話が多い日。
 高知市のTAさん。
 埼玉のMOさん。
 神奈川のSUさん。
 高知市のKIさん。
 高知市のKIさん。
 妻。

 妻は、実家泊。

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【写真】 天向いて寝るネコ。

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【ニュース】 高知県 驚愕の本山の一揆 こんな一揆もあったんだ!!

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2012.10.29

夜の学び舎、高知短期大学を受験しませんか。

  夜の学び舎、高知短期大学を受験しませんか。

 以下、高知短期大学社会科学科の入試の要綱などです。
 いまの授業の時間割です。
 ・僕がためになった授業、英語(四十年数年やっていなくてもわかるコースもあります)、韓国語、太平洋戦争の歴史、三大革命の歴史、高知の自由民権運動の歴史、国際法、環境論、社会福祉論、ジェンダー論、俳句など。県立大学の授業もいくつかとることができますが、古事記論や日本文学史がよかった。
 ・二十歳代、三十歳代の先生が多いのが特徴です。
 ・社会科学科は十八歳の学生が多く五十歳代、六十歳代は少なくなっていますが、五十歳代、六十歳代は前のほうの席に陣取ってがんばっています。
 ・僕の学年でも六十歳代で社会科学を卒業して、・高知短期大学専攻科に進学した人、・四年制大学に編入し、いま大学院にいっている人、・町会長をやりながら放送大学で勉強し、もうすぐ卒業する人もいます。
 ・二年分の学費で三年、四年で卒業という制度もあります。四年だと週に三日、授業にでるということになります。
 ・夜六時から二時間の授業です。僕の場合は、いまは専攻科ですが、月曜日は税法二科目、火曜日は国際法(竹島、尖閣問題をやっています)と地方政治論(一人ずつ、自分の選んだテーマでリポート。それをもとに議論をしています)、水曜日は土佐和紙の振興についての論文執筆のための授業二時間となっています。家に帰り着いたら午後十時。それから午前零時まで勉強して……というパターンになっています。

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【ニュース】FNNが前原大臣「事務所費」問題を報道。前原大臣、「全く問題ない」。

 http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00234385.html

 前原国家戦略担当相の政治団体が、「主たる事務所」として総務省に届け出ている東京都内のマンションの一室が、前原国家戦略相の秘書の自宅であることがわかった。
 総務省に届け出ている政治資金収支報告書によると、前原国家戦略相の政治団体「まえはら誠司東京後援会」は、事務所の所在地を東京・江東区のマンションの一室としており、2009年に事務所費およそ26万円、人件費255万円、2010年に事務所費5万円、人件費240万円を計上している。
 しかし、事務所として報告書に記載されているマンションの部屋には、政治団体としての看板はなく、収支報告書には、事務担当者の電話番号として、京都市にある前原国家戦略相の事務所の番号が記載されている。
 (後略)
(10/29 14:03)

【ニュース】 事務所費問題 FNN報道 前原大臣、「全く問題ない」。【うーーーん。】

 http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00234392.html

 前原大臣、「事務所費」問題で釈明会見 「全く問題ない」

 前原国家戦略担当相は29日午後、「事務所費」問題について釈明会見をし、「全く問題ないと考える」と述べた。
 前原国家戦略担当相は午後4時すぎ、「きょうの一部報道につきまして、説明させていただきたいと思います。事務所の所在地についてですが、まず、東京後援会というのは、主たる事業というのは、年に1回、政治資金パーティーを行うことでございまして、その企画・立案につきましては、16年来、わたしの秘書をしてくれている秘書が、ずっと、その企画・立案をやってくれています。また、そのパーティー券の販売につきましては、大半が秘書が行ってくれておりまして、従いまして、秘書の自宅に東京後援会の事務所を置くことは、主たる事務所ということで、全く問題ないと考えている。(今回の事務所費や人件費について、使い道をくわしく説明できるか?)その説明は受けました。弁護士とも相談して、何ら問題はないという指摘を受けています。(領収書などを見せられない?)今までの法律に基づいて、21年以降、これについては、どういう形で領収書を出す出さないという取り決めがあったと思いますので、法律にのっとって、対応をさせていただきます」と述べた。
(10/29 17:12)

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二〇一二年十月二十九日 月曜日 九〇CCのバイク。

二〇一二年十月二十九日 月曜日 九〇CCのバイク。

 晴れ。

 午前九時半ころ、金属の専門家にウチにある「零戦のプロペラ」を見てくれました。

 平和資料館・草の家へ。
 午後一時過ぎ、演劇のNISHIMOさん、NISHIMUさんと槇村浩のことを語りました。

 午後三時過ぎ、高知短期大学社会科学科で一緒だったTAさんが九〇CCバイクを持ってきてくれました。譲り受けました。ありがとうございました。

 午後四時半ころ、妻が帰ってきて「いえ(実家)でつくってきたオカズがあるけど、食べていくかえ。えっ、帰ってからにするの」。

 午後五時半ころ、高知短期大学へ。
 待ち人来たらず。
 専攻科の税法二科目を受けました。
 一時間目は減価償却について。

 家に帰って、妻にも手伝ってもらい本の整理。

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2012.10.30

I want to do something for others.

 英語の勉強をしていて、こんな文章に出くわしました。

 僕の今の気持ちです。

 I want to do something for others.

 ほかの人たちのために、なにかをしたい。

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2012.10.31

二0一二年十月三十一日 水曜日 南国市の大森山のふもとの横穴壕。

二0一二年十月三十一日 水曜日 南国市の大森山のふもとの横穴壕。

 晴れ。

 高校の同級生の男性・MOさん(さいたま市在住)の運転で、高知県香美市の、べふ峡にいってきました。
 モミジを見て、野外で昼飯を食べて(彼のオゴリです。手製の漬物も)、温泉に入って、マッサージ機を使って……。
 モミジは次の日曜日くらいが見頃のようです。

 午後、彼の実家の近くの高知県南国市の十市地区の北側にある山・大森山(標高一五九・九メートル)のふもとを半時間ほど歩きました。
 ここには横穴壕の天井が潰れたもの、掘りかけの横穴壕がありました。歩きまわりと、どんどん、そんなものが出てきそうです。
 横穴壕の天井が潰れたものの写真をツイッターにアップ。

 本山町の高知短期大学の先輩に電話で「アジア太平洋戦争下の本山」について調べてほしいと依頼しました。

 妻は実家泊。

 【きょうの短歌】

 「老人は…」 同級生と 話してる 「そういえば、ねえ、僕らも老人」

 
                     

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二0一二年十月三十日 火曜日 戦争中の中国戦線の写真を持っている人がいる。

二0一二年十月三十日 火曜日 戦争中の中国戦線の写真を持っている人がいる。

 晴れ。

 ひたすら尖閣列島の問題についてのリポートを作成。第一原稿ができました。

 大学のときの後輩から電話。戦争中の中国戦線の写真を持っている人がいるとのこと。ありがとう。

 夜は高知短期大学専攻科の国際法、地方政治の授業。

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