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2012.10.26

石碑から読み解く高知の戦争 四 地域の人びとがつくった戦争に関連する石碑・アジア太平洋戦争の時期

【一九四一年】「皇紀二千六百一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」 「皇威万邦輝」と……

 大日本帝国の大元帥・天皇の侵略戦争の爪跡を、この目で見たい。そう思い立ってパスポートを初めて取ったのは二〇〇一年十二月でした。
台湾、韓国、中国、タイ、マレーシャ、ベトナム、フィリピン、テニアン……と、歩き続けました。各地の戦争博物館に行きました。どの館でも、館の側で私が日本人と気づいて丁寧に案内してくれました。展示を見ていて「日本人が、こんなことを……」と、いたたまれなくなるシーンが各地でありました。
 タイ映画「少年義勇兵」(二〇〇〇年制作)のDVDを何回か見ています。タイ南部の田舎の町・チュンポーンは、雨でした。一九四一年十二月八日午前二時四十分、一群の艦船が、ここに迫っていました。戦闘機が侵入しました。大日本帝国のタイ上陸です。この町の少年義勇兵たちも銃を取りました。彼らを包囲する侵略軍。銃剣での死闘が始まります。つぎからつぎへと侵略軍は上陸してきます……。やがてタイは降伏。この戦闘での日本側死傷者は二百人、タイ側は十人、少年義勇兵の死傷者ありませんでした。
 大日本帝国の軍隊は、その日、まずタイに侵攻、そして、アメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地を攻撃しました。
その後、天皇がアメリカ、イギリスへの宣戦を布告しました。大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の開始です。
ところで、いま私が通っている高知市永国寺町の高知短期大学(専攻科の学生です)の近く、愛宕山(あたごやま)に愛宕神社があります。
 愛宕神社の二百八段の石段を一気に登ります。体重八十五キロですからドス、ドスという感じです。
 上がりきった所の左右に向かい合った二本の石柱があります。
 左手の物には「皇威万邦輝」(大日本帝国の天皇の威光は世界に輝く)、「皇紀二千六百一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」と彫り込まれています。
 左手の碑には、「神徳八紘洽(しんとくはっこうにあまねし。神である大日本国の天皇の徳は世界にゆきわたっている)」と、刻まれています。その裏には「高知市愛宕町二丁目/階段施工 畠中正夫」とあります。
 皇紀二千六百一年十二月八日は、一九四一年のことです。「大東亜戦々捷」とは大東亜戦争戦勝のことです。
 それにしても気が早い。天皇がアメリカ、イギリスに大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の宣戦布告をした日付の碑です。確かに、この戦争は、不意打ちで一時は圧倒していましたが、すぐに敗北に向かいます。
 この碑の「々捷」の所が何かで塗りつぶされているのが奇妙です。
 石段の掃除をしていた男性がいいました。「戦後、アメリカ占領軍がくる、まずいというので塗りつぶしたのかな。残念ながら私は、当時、ここにいなかったから……」。
 ときの流れのなか、愛宕神社の、いまの宮司も、いつ、だれが、どんな理由で、この二字を塗りつぶしたのかを知りませんでした。

【一九四四年】高知市三里墓地公園の「納骨塔」 「海軍施設ノタメ」墓地を移転 
                        
 「あそこに、海軍施設の建設のため墓地の移転を命じられたということを刻んだものがある」――平和資料館・草の家研究員の馴田正満さんに教わって高知市仁井田の県道14号脇の高知市三里(みさと)墓地公園の右手の角に「納骨塔」を訪れました。
 高知市役所三里出張所長・細川恒久さんが一九四四年十一月に建立したものです。こんな文章が刻まれていました。
 「池及[および]仁井田地域ニ海軍施設ノタメ区域内ノ墓地移転ヲ命セラレタル所工事ノ急速ヲ要セシタメ墓地所有者ヲ精密ニ調査スルノ遑[いとま]ナク当時引取人ナキ墳墓ヲ発掘シ此所[ここ]ニ納骨ス」
 アジア太平洋戦争(大東亜戦争。一九四一年十二月八日~四五年八月十五日)下、日本帝国海軍は、この地域に浦戸海軍航空隊と高知海軍航空隊第二飛行場を建設しました。二つの軍事施設の建設時期からすると、ここにいう「海軍施設」は、一九四四年十一月一日に開隊した浦戸海軍航空隊跡のことのようです。
 高知市池地区に浦戸海軍航空隊跡の碑があります。一九八五年四月六日に甲種飛行予科練習生第十四期会、第十五期会、第十六期会が建立したものです。
  「当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である。予科練とは飛行予科練習生の略稱で旧海軍航空機搭乗員である。この採用制度は昭和五年に設定され全国より選ばれた少年達はよく鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮したが連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊となり、祖国の繁栄と同胞の安泰のみを願いつヽ肉弾となり敵艦に突入し、その八割が若桜で散華したのである。浦戸航空隊は昭和十九年十一月一日開隊されたが、昭和二十年五月に入り愈々本土決戦必至の戦況のもと練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し身を以[もっ]って国難に殉ぜんと決するも(以下、略)」
 浦戸海軍航空隊は、途中から陸戦隊に変わり、呉鎮守府(くれちんじゅふ)第十一特別陸戦隊になりました。
 高知の沿岸部の須崎、宇佐、浦戸、長浜、手結、室戸に陣地をつくっていました。
この隊の岡村虎彦さんたちは、三里国民学校の講堂に寝泊まりし、浜で上陸してくるアメリカの上陸用舟艇に爆弾を抱えて体当たりする訓練をしていました。
 二〇一一年十月、ことし四月に平和資料館・草の家研究員・福井康人さんが発見して発表した香南市夜須の二つの手結砲台跡は、この陸戦隊のものです。二つの砲台の弾薬庫には「化学兵器」(防御用)も多数用意されていました。
民間でもアメリカ軍の高知上陸のための備えをしていました。たとえば、長浜国民学校高等科一年生の男子たちは竹やりの訓練をしていました。マトはコメ俵に土を入れたものでしたが、毎日、毎日突くので、俵に穴があいて、ついには竹やりが向こうにまで抜けるようになったといいます。

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