« アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 一、高知市の愛宕神社の大東亜戦争戦勝の石碑 | トップページ | アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 三、南国市の高知海軍航空隊跡の七つのコンクリート製の飛行機格納庫 »

2012.10.19

アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 二、南国市の片山の中腹の陸軍陣地

  南国市の片山の中腹に陸軍の陣地跡があります。私が発見し、専門家が調査、平和資料館・草の家として発表しました。
 海原治(かいはらおさむ)さんは、一九四〇年二月、陸軍第十一師団歩兵第四十三連隊(編成地・徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、陸軍第十一師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として一九四五年八月十五日の終戦を高知県で迎えました。
 その、海原さんが『戦史に学ぶ 明日の国防を考えるために』(朝雲新聞社。一九七〇年八月十五日)で本土決戦期の高知県のことを書いています。
 一九四五年春、アメリカ軍が高知県に上陸するかもしれない、本土決戦だということで、満州(中国東北部)にいた陸軍第十一師団(錦部隊。約二万二千人)も、高知県の海岸地帯に展開することを命じられました。「米軍の本土攻撃に備えて、八月中旬までにいっさいの準備を完了すべし」というのが軍の作戦命令でした。
 各部隊の受け入れ準備のために高知に来た同師団の海原さんは、驚きます。高知県の海岸には、トーチカも砲座もないのです。
 防御陣地をつくるための木材、セメントの受領に行きました。木材は二十八万六千石必要です。県庁の林業課に行き、どこで木材を受けとればいいかたずねると、この山とこの山から自分たちで切り出してくれといわれます。同師団には、切り出して、運搬して、製材するための輸送力も機械器具もありません。しかたないので各部隊には「その警備区域内でしかるべくやれ」と指示を出しました。軍の指示で浅野セメント土佐工場に千五百トンのセメントを受け取りにいくと、工場長は、軍の要求でもセメントの割当証明書がなければセメントを渡すなという憲兵司令官の通達をたてに渡してくれません……。
 高知県での陣地構築作業は、こうした状態から出発したと、海原はいいます。
 県民も動員しての、がむしゃらな陣地づくりが始まります。

 記者会見資料 08年6月30日 平和資料館・草の家 館長・岡村正弘

 南国市片山の太平洋戦争中の陣地跡の発見

 1 所在地

 南国市片山(セイレイ工業駐車場西の山)

 2 戦争遺跡の種類と数

 砲兵隊の観測所と交通壕、退避壕がセットになって二箇所(北側を片山1号、南側を片山2号)で確認されました。

 3 立地

 下田川の西側に迫る山塊の山腹部に立地し標高は15m前後。周囲は墓地や雑木林となっています。
 1号は山道のすぐ南側の墓地の中にあります。
 2号は1号の南50mほどの地点にあり1号よりも高い位置にあります。

 4 内容

 (1) 片山1号

 コンクリート作り地下式の構造。
 幅60cmほどの入り口を地下に3mほど入ると左右に小部屋が作られています。
 右側(南側)の部屋は一辺130cmほどの四角形の部屋で、南壁の上に観測用と考えられる30cm前後の穴があけられています。
 左側北の部屋は一辺1m前後でやや小さい。
 また、階段を下りたところの天井には一辺28cmの四角い穴が設けられています。ここでコンクリートの厚さを測ったところ82cmありました。
 この観測所は、交通壕で後の山に掘られた退避壕に繋がっていました。交通壕は現在埋まっていますが痕跡をとどめています。

 (2)片山2号

 山の稜線部分をL字状に削って構築しています。コンクリート製。
 幅75cm、高さ147cmの入り口(扉が設けられていた)を入ると一辺2mほどの四角い部屋があり、南に幅58cmの階段が上に伸びています。
 8段の階段を上ると一辺160cmほどの部屋があり南と東に観測用の窓が設けられています。南の窓は海が見渡せ、東の窓は飛行場(当時・高知海軍航空隊)が望めます。
 この観測所も後に岩盤を掘削した退避壕が作られていて、やはり交通壕で繋がっています。
 1号と同様に、敵の艦砲射撃を壕の中でしのぎ、敵が上陸を始めたらこの観測所に入って味方の砲兵陣地に電話で砲撃の指示を出すために作られました。

 5 どんな部隊がいたのか。

 陸軍第11師団山砲兵11連隊(錦2465部隊)がこの付近に配備されていました。
 連隊長・小幡實大佐。
 1945年8月15日現在の兵力3,148人。

 6 片山にあった、そのほかの軍事施設

 この陣地跡の真下にあった海軍の工作所跡
 その右手にあった海軍の発電所跡

 7 発見と調査の経緯

 昨年夏、戦跡調査中の平和資料館・草の家の会員が発見しました。
 2008年5月、6月に平和資料館・草の家研究員が調査しました。

 8 部隊設置の背景

 大戦末期、本土決戦が現実味を帯びてきた1945年4月には、四国防衛の部隊として第55軍が編成され司令部が香美市土佐山田町新改に置かれ、四国には9万の野戦部隊が投入されました。
 米軍の上陸が想定されていた高知平野にはそのうちの7万の兵隊が配備されました。
 高知平野を中心に海岸線や沿岸に近い山塊には数多くの陣地か構築されました。
 物部川を挟んだ平野部を主戦場として、上陸してくる米軍に東の三宝山と西の片山や金比羅山に陣地を構え、挟み撃ちにして、そこに土佐山田方面から攻撃をして撃退する作戦であったと考えられます。
 もしも米軍が上陸していたら多くの住民を巻き込み沖縄と同じ出来事が高知を襲っていました。
 今回発見された観測所は、戦争末期の高知平野で何が準備され、何が起ころうとしていたのか、ということを具体的に示す戦争遺跡です。
 高知平野は中国・四国で最も多くの陣地が作られた所であり、今でも多くの戦争遺跡が残っています。
 戦争を風化させないためには常に戦争の実相と向き合わなければならないと考えます。
 戦争体験者が少なくなり戦争の悲惨さ愚かさを直接伝えることが難しくなりつつある今、戦争遺跡の存在は大きな意義を持っています。
 (以下、略)

|

« アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 一、高知市の愛宕神社の大東亜戦争戦勝の石碑 | トップページ | アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 三、南国市の高知海軍航空隊跡の七つのコンクリート製の飛行機格納庫 »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/55927018

この記事へのトラックバック一覧です: アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 二、南国市の片山の中腹の陸軍陣地:

« アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 一、高知市の愛宕神社の大東亜戦争戦勝の石碑 | トップページ | アジア太平洋戦争下の高知県 戦跡ツアーのコース例 三、南国市の高知海軍航空隊跡の七つのコンクリート製の飛行機格納庫 »