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2012.10.19

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ③ 私立土佐中学校生徒のころ

 ・一九二三年四月、吉田は、高知市の私立土佐中学校本科一年生に入学します(二年飛級)。
 ・同五日、日本共産青年同盟が創立されました。
 ・同年二学期、吉田は、私立土佐中学校予科一年生に戻され元の仲間と一緒になります。下司順吉の、このころの吉田の印象=「予科のとき、清少納言の『枕の草子』を読んでいるのをみておどろきました。この本は少年たちにはまったく難解な古文です。おもしろいかと私がたずねると、おもしろいというのです。かれは日本文学、外国文学を手あたりしだい読みあさっていました。かれは、もの静かで、ひかえめな人柄で、口に手をあててはずかしそうにものをいう癖がありましたが、ときには文学についての博識をとうとうとのべて、私たちを敬服させました」(下司順吉「吉田豊道の思い出」)。「……『十歳で神童、十五で秀才、二十すぎればただの人』といった調子で教師の虐待をうけ、これをみかねて、当時海南中学校の教師をしていた寺石正路先生(郷土歴史学者)が特別に可愛がった。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九二四年一月二十一日、ウラジーミル・レーニンが死去しました。レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは、反対派の人々を殺し、経済の面でも政治の面でも社会主義とは無縁の政策を実行し、他の国々を侵略していきました。
 ・同年一月二十四日に『高知市第六小学校児童文集 蕾』が出ます。吉田の八つの文章が載りました。
 ・同年四月、吉田は私立土佐中学校予科二年生に。同級だった川島哲郎の話=「私は当時[高知市]小高坂におりまして親父に自転車をかってもらいまして、自転車で通学しておりましたけれど吉田は歩いて通学していたと思います。それで帰り道に吉田と話をする為に帰り道は吉田の家の前まで自転車をついて歩きながら、毎日そうやって通ったことでした。なぜそれほど吉田と一緒に歩くのが楽しみだったかといいますと、毎日毎日ルパンの話を続きものでやってくれるわけですね。(中略)それで吉田の家にも何回か寄ったことがあるんですが、(中略)薄暗い長屋のようになっていまして、二階が吉田の部屋でしたが、第一に驚いたことは膨大な書物があるということですね。(中略)大鏡や増鏡の本があったのを覚えています。大正十二~三年の頃です。」、「吉田の話の中で一つだけ印象に残っているのは雄略天皇の話なんです。雄略天皇が暴虐の限りをつくしたという話なんです。(中略)天皇がそういう非道なことをするということは実に青天の霹靂[へきれき]でしたね」、「彼の知識は非常にアンバラだったですね。数学というのは駄目、英語が駄目、もっと駄目なのが体育、これは全然駄目でした。反対に国語や歴史の知識とか読書のスピードというものはすごいもので、あれよあれよというようなものだったという記憶がございます。」(槇村浩生誕七十周年記念の集い 『槇村浩(吉田豊道)と同時代を語る』=『ダッタン海峡』第七号。槇村浩の会。一九八三年五月二十五日)。
 ・同年十二月三日、吉田の母・丑恵(高知病院勤務)が郷土史家・寺石正路と面会します。「豊道勉学之[の]件」です(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡』第九号。槇村浩の会。二〇〇四年一月二十六日)。寺石は、吉田が高知市の私立土佐中学校に進学するさいの橋渡しをしています。
 ・一九二五年四月、吉田は私立土佐中学校本科一年生となります。下司順吉の、このころの吉田の印象=「吉田は中学の本科一、二年のころには、クラスの文学サークルのリーダーになり『しかばね』というガリ版ずりの同人雑誌風のものを発行していました。当時、吉田は探偵小説にこり、江戸川乱歩などを読んでいましたが、『しかばね』という風変わりな題名もその影響でしょう。この雑誌は、やがて『モダン・マガジン』と改題しました。/吉田は雑誌の編集長格であり、中心的な執筆者でもありました。毎号、かなり長い探偵小説風なものを書いていました。(中略)吉田がペン軸の根もとをにぎって、指先をインクでよごしながら、かれの泉のような空想力のままに、長い小説を書きとばしていくのは、おどろきでした。この雑誌のガリ版切りや印刷などの製作工程は山本が引きうけていました。」(下司順吉「吉田豊道の思い出」)。寺石は、吉田の母に「川島家」からの「吉田豊道学資金」を定期的に渡しています。また、吉田は、週三回程度、寺石家を訪れ寺石の四男・忠弘に修学していました(「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」)。
 ・同年四月十一日、陸軍現役将校学校配属令(勅令第百三十五号)が公布されました。同令によって、一定の官立、または公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属されました。各学校は配属将校に学校教練(軍事教練)を実施させました。これを履修した者は陸軍では一年現役兵を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられました。学校教練教材要目としては、各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、手旗信号、距離測量、測図学、軍事講話、戦史などで、教材の配当は学校の程度に応じて差異がありました。吉田の通っていた私立土佐中学校でも教練が実施されます。
 ・同年四月二十二日、治安維持法を公布。
 ・同年九月二十六日、無産者新聞が創刊されました。
 ・同年十月一日、無産者新聞(第二号)が「支邦から手をひけ」、「支邦の解放運動を熱烈に応援せよ」と訴えました。
 ・一九二六年四月、吉田は私立土佐中学校本科二年生となります。
 ・同年秋、吉田は、腸チフスにかかって長期療養、休学となりました。
 ・一九二七年一月十五日、無産者新聞が「対支非干渉運動を全国に起こせ!」と訴えました。
 ・同年二月二十六日、無産者新聞が「即時撤兵を要求せよ――対支非干渉同盟を組織せよ」の社説を発表します。
 ・同年三月二十三日の吉田の私立土佐中学校本科二年生の「成績証明証」によると彼の席次は二十八人中二十八位でした。教練は丙、修身は丁です。

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