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2012.10.19

〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ② 吉田の尋常小学校生のころ

 ・一九一九年四月、吉田が高知市第二尋常小学校に入学しました。
 ・同年八月、吉田が母とともに、母の叔父で郵船会社の重役をしていた森田葆先を頼って福岡県門司市に転居しました(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九二〇年六月十五日、高畠素之訳でカール・マルクスの『資本論』刊行(一九二四年完結)。
 ・同年九月、吉田が母と一緒に高知市へ帰ってきます。寄留先は、高知市中島町二八六、山崎産医院。母は、この医院の手伝いとなりました(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・同年十月二十五日、高知市第六尋常小学校の二年生に転入。
 ・一九二一年四月、高知市第六尋常小学校三年生に。主任は、海冶国喜先生。
 ・同年七月、吉田の身長三尺九寸六分(約九十センチメートル)、体重五貫四百二十匁(約二十キログラム)(貴司山冶、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・同年七月二十三日、中国共産党が生まれます。
 ・同年八月、地理歴史の講演で高知入りした参謀本部編纂官・長瀬鳳輔が旅館で吉田と面会。ナポレオン一世のこと、欧州大戦後の新興国の名、西郷隆盛のことなどを質問、吉田は、それに答えました。長瀬は、吉田の地理歴史の記憶力が絶倫であること、数学の理解力も驚くばかりであるところに感心しました。長瀬は、吉田を養子にと母に申し入れました。当時、吉田は病院の看護婦長である母と二人暮らし。長瀬鳳輔「神童 吉田豊道君」=『新青年』三巻十一号。博友社。一九二二年九月一日)。
 ・同年十一月十三日の週刊婦女新聞が「高知の天才児 吉田豊道君」を掲載。「…四歳にして文字を解しその博学多識は人をして舌を巻かしむるもの…」とあります。尋常小学校三年生の吉田が、歴史書五十二冊、地理書三十九冊を所持とあります。
 ・同年十二月、『吉田豊道作 唱歌集』(高知市第六尋常小学校)が出ます。その中の「日本歴史」(一九二一年十一月、高知市本町自宅で)を読むと彼が皇国史観の持ち主で大日本帝国の侵略を是としていたことがわかります。一部を抜粋します。「(一)我が日の本の光輝ある/清き歴史は三千年/動かぬ御代は天つ日の/光と共に限りなし」、「(四)天皇陛下の御先祖の/天の御神の御孫の/にヽぎの尊は日の本の/高千穂峯に降らるヽ」、「(一四)日清日露の戦役に/一躍東洋最強国/大正三年六月に/起こるは世界大戦役」、「(一五)聯合軍は大勝し/我が日の本の帝国は/国威宣揚三強の/列に入つて活動す」、「(一六)建国以来三千年/敗をばとりし事はなく/皇統一系連綿と/眞に世界の大帝国」、「(一七)三強国の列に入り/東洋平和の盟主となり/国威隆々と輝きて/萬世不滅果もなし」。
 ・一九二二年四月、吉田が高知市第六尋常小学校四年生に。
 ・同年五月二十九日、土陽新聞が「“天才児”吉田豊道君」の記事を掲載します。
 ・同年七月八日、吉田が文部省の塚原督学官の提題で「時事論 支那問題」を書きます(『大正十一年八月 吉田豊道創作 童謡と童話』。高知市第六尋常小学校。一九二二年八月)。「……あヽ此[こ]の国に統一の使命をもたらして次に出づる大英雄はそも誰ぞ支邦四億の人民其[そ]の人を待つ事や久し」と、結ばれています。
 ・同年七月十五日、日本共産党が創立されました。
 ・同年七月、『吉田豊道創作 童謡と童話』(高知市第六・尋常小学校お伽会)が出ます。
 ・同年八月、『吉田豊道創作 童謡と童話』(高知市第六尋常小学校お伽会)が出ます。
 ・同年九月、雑誌『新青年』九月号に長瀬鳳輔の「神童吉田豊道君」掲載。
 ・同年十一月、吉田が、高知を訪問した皇族・久邇宮邦彦に進講します。久邇宮からアレキサンダーについてのべよといわれて「アレキサンダーといっても何人もいる。どのアレキサンダーか」とききかえしました(貴司山冶・中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九二三年ころ、高知市第四尋常小学校で吉田のおとぎ話を聞く催し。吉田は教員にともなわれて出席。聴衆は同校の教師と千人近い児童。同校の児童だった永吉すヽむのそのときの吉田の印象=「……小さな身体で、ひどく頭のデッカイ、ぱっちりと開いた瞳が美しく澄みきっていた吉田君は、ぐるりと異校の教員達に囲まれ、千人近い学童の前で話をするのに、いささかのおくする気配も無く、子供とも思えぬタイゼンたる姿であった……」(吉永すヽむ「あの頃の思い出」=近森俊也編集『ダッタン海峡』二・三合併号。小路貞次郎。一九六四年十一月)。
 ・一九二三年三月初め、吉田が高知市の私立土佐中学校の入学試験を受けます。同じ教室で試験を受けた下司順吉の、その日の吉田の印象=「吉田は小柄で、青白い顔をした、頭の大きい少年で、縞[しま]の袴[はかま]をはいていました。黒い大きな瞳がぬれたように輝いて、かしこさがにじみでている感じでした」(下司順吉「吉田豊道の思い出」=『ダッタン海峡』第五号。一九七九年三月十五日)。その日の夕方、十五人ほどの合格者が発表されます。吉田、下司、山本大和、川島哲郎らが合格しました。
 ・同月、吉田が、高知市第六尋常小学校四年生を修了しました。

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