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2012.10.26

石碑から読み解く高知の戦争 二 地域の人びとがつくった戦争に関連する石碑・日清戦争、日露戦争関連

【一九〇五年】 香南市香我美町山北の「討清戦勝紀念碑」 「しばしば朝鮮の賊徒と戦う」

 香南市香我美町山北の香南市文化財センターの左手の山の中腹に「討清戦勝紀念碑」があります。日清戦争(一八九四年七月二十五日~一八九五年十一月三十日)で勝利した、その記念碑だというのです。日清戦争後十年たち、日露戦争終結から一か月後の一九〇五年十月に建てられたものです。撰・書は西森真太郎です。
 碑の後ろに刻まれた文章は漢文で私には歯ごたえのあるものでした。写真に撮って、友人たちにも見せて、知恵を借りて読みました。
 内容は題名通り手放しで「勝った。勝った」と誇るものでした。
 要旨を意訳します。

  明治二十七年[一八九四年]四月、日清間の和議が破れ、わが軍は連戦連勝し、向かうところ敵なしであった。
 翌年四月、清は和を請うて七月に凱旋した。
 わが高知県山北村からの従軍者は全部で十一人、貞岡虎次、近森營之進は病にかかり除隊、田所馬次は広島の補給廠[ほきゅうしょう]にあってその任に服し、國吉梶馬は輜重兵[しちょうへい]として服し、黒石浅次は馬関[山口県下関]守備のため、安岡八百馬は衛生隊として清に渡り、吉村武治は馬関守備より韓に渡り、しばしば朝鮮の賊徒と戦う、國吉安次郎、安岡次之助、日和﨑房吉、貞岡富太郎は平壌[ピョンヤン]を攻め落とし清国に進入、転戦各地九連城、黄令子峰、巖牛荘、田荘臺などの要塞大小十余りを破り、みな、たたかいで功があった。
 このたたかいは、わが帝國は維新以来、内政に着手してきたが、天皇陛下の威光が海外において発揚するはじまりとなった。

  「朝鮮の賊徒」というのは何だろうと思って、日清戦争の過程を調べなおしました。
 一八九〇年代の朝鮮では、大日本帝国の経済進出がすすむなか、コメや大豆価格の高騰と地方官の搾取などが農村経済を疲弊させました。
 そんななかの一八九四年二月、全羅道(チョルラド)古阜(コブ)で役人の不正をただす約五百人の農民一揆が起りました。弾圧のなか運動は発展し、一万人以上の勢力に。五月三十一日、農民たちが郡都・全州(チョンジュ)を占領しました。そして、六月十一日、政府が政治をあらためることを約束したので農民たちはひきあげました(甲午農民戦争)。
 そこへ、農民たちをやっつけるという口実で、六月三日に清国軍が出動、十日に大日本帝国軍が朝鮮に攻め込んできました。
 七月、大日本帝国軍は清国艦隊を奇襲攻撃し、戦争は朝鮮を主戦場にした大日本帝国と清国のあらそいになっていきます。
 十月、四十万人の農民たちはふたたびたちあがりました。こんどは大日本帝国軍とのたたかいでした。大日本帝国軍は、皆殺し作戦で鎮圧しました。……
 山北出身者がたたかった「朝鮮の賊徒」というのは、このときの農民たちではなかったでしょうか。

【一九〇五年】 安芸市伊尾木の「明治三十八年 戦勝祈白紀念碑」  「国体尊厳不可忘」

 八月、この原稿のための取材で安芸市伊尾木(いおき)の清岡清さん(一九一六年六月六日生まれ)に出会うことができました。
 お話をうかがったあとで、清さんの本『お別れの挨拶に代えて 私の証(あかし)』(二〇〇九年八月)をいただきました。
 清さんは、この本で、父親の清岡玄之助さんのことを書いています。
 日清戦争(一八九四年七月~一八九五年三月)、日露戦争(一九〇四年二月~一九〇五年九月)に出征したといいます。
 クリスチャンでもありました。
 「父は明治生まれの男の誰でもの様に家族制度の信奉者でして、日本国の家長は天皇と堅く信じていました。」
 「キリスト教の神の国もまたそうで、父なるエホバの神は、天皇であり、これに仕える天使がそのまわりに居り、更にその下には信者が居るという考えでした。」
 「父親の人となりがよく分かるものが村の八幡宮に残されています。」。それが、父親がつくった伊尾木八幡宮の日露戦争戦勝碑だというのです。
 伊尾木八幡宮に行きました。
 それは、鳥居の左手にありました。「明治三十八年 戦勝祈白紀念碑」です。
 つぎの文章が刻まれていました。
 
 国体尊厳不可忘
 神祇尊崇不可怠
 あめつちとかきりもあらぬ
 みよとヽもに
 つらぬきとをせ
 やまとこヽろを
 敬白

 碑文は、国体・天皇支配の世の中の仕組みの尊さを忘れてはならないと説いています。
 「国体尊厳不可忘(国体の尊厳を忘るべからず)」は私にとっては衝撃的な文章でした。
 国体というのは、『古事記』、『日本書紀』などをもとにした、皇室は天照大神の子孫であり、日本は、神によって永遠の統治権が与えられている天皇により統治された政治秩序を持っているという考えかたです。
 一八八九年二月十一日に発布された大日本帝国憲法で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などの形で国体が規定されています。
 一九二五年四月二十二日公布の治安維持法は、その「国体の変革」を目的とした結社を禁止しました。
 国体という考え方は、大日本帝国の侵略政策を批判する日本人を押さえつけ、大日本帝国が侵略戦争を遂行するうえでの旗にもなりました。
 昭和天皇の時代、清岡玄之助さんは伊尾木に、もう一つの戦争推進の碑をつくりました。

【日露戦争後】 野市小学校にあった「忠魂碑」 「旅順攻撃に参じた第四十四聯隊は……」
 
 一九一四年四月二日、香美郡野市村の野市尋常高等小学校に「忠魂碑」が建てられました(野市村は、一九二六年から野市町。いまは香南市)。その碑のことが、『野市読本』(野市尋常高等小学校。一九三六年二月五日)に書かれています。
 校内の東側に「忠魂碑」がありました。朝鮮と中国東北部を戦場に大日本帝国とロシアがたたかった戦争・日露戦争(一九〇四年二月八日~一九〇五年九月五日)に出兵して戦病死した野市出身の二十四人の人の名前などを刻んだ碑です。
 読本は、美文調で、この碑をたたえます。
 「殊[こと]に日露の役、旅順[りょじゅん]攻撃に参[さん]じた第四十四聯隊[れんたい]は乃木[のぎ]将軍の麾下[きか。指揮]に属して二〇三高地占領に、東鶏冠山北方砲䑓[ひがしけいかんざんきたほうほうだい]の激戦に、或[あるい]は名だたる磐龍山[はんりゅうざん]の夜襲に、血染めの聯隊旗[れんたいき]を汚すまいと、肉弾亦[また]肉弾の攻撃に聯隊殆[ほと]んど全滅し、壮絶、悲絶の最後を砲煙弾雨[ほうえんだんう]の中にさらしたのであつた。」
 「私達の心に呼びかける忠魂に向[むか]つて、郷土の為[ため]、国家の為、弛[たゆ]まぬ努力と不抜[ふばつ]の決心を、献身の行[ぎょう]にいそしむ事を盟[ちか]はなければならない。其[そ]の時忠魂の人々も安んじて地下に瞑[めい]されることであらう。」
 碑の裏面に刻まれた戦死者の戦死の様子は、すさまじいものです。
 後備役陸軍歩兵軍曹・岡本銘次さん=「清國盛京省東鶏冠山北砲䑓ニ於テ戦死」 
 現役陸軍歩兵伍長・岩神一郎兵衛さん=「清國盛京省東鶏冠山ニ於テ頭部盲貫銃創戦死」
 陸軍歩兵伍長・眞島徳治さん=「東鶏冠山ニ於テ戦死」
 陸軍歩兵伍長・加藤菊治さん=「清國河城附近戦闘ノ際戦死」
陸軍歩兵一等兵・山本虎吉さん=「清國盛京省鶏冠山東北方高地ニ於テ咽喉部貫通銃創ノ為戦死」
 陸軍歩兵一等兵・西内子之助さん=「北砲台ニ於テ戦死」
 補充兵陸軍歩兵一等兵・野口眞鋤さん=「北砲台ニ於テ戦死」
 ………
 いま、この碑は、野市小学校にはありません。
 探したら香南市役所の近くの橋を渡った所にありました。
右手には大砲の弾のようなものを展示しています。後ろの高台には野市町忠霊塔があります。
 この碑の下のほうは壊れていたらしく補修してくっつけています。
 この「忠魂碑」は「敗戦後駐留軍の命令によってこれを倒して土中に埋めなければならなかった。」。そして、「平和克復後掘り起して復旧し」、野市町忠霊塔下に移したといいます(野市町文化財保護審議会『古里之石碑』。野市町教育委員会。一九九五年十一月一日)。

【一九一七年】 仁淀川町小森の「表忠碑」 「一旦緩急アレハ……」

 五月十八日、石碑の調査で、馴田正満平和資料館・草の家研究員の車に乗せてもらって、吾川郡仁淀川町大崎に行きました。地元の井上輝美さん(一九四四年三月、大崎国民学校卒業)に声をかけたら町立吾川中学校の運動場東側の岡・小森の「表忠碑」に案内してくれました。一九一七年八月設置です(西森真太郎撰・書)。
 碑文は、日清戦争(一八九四年七月~九五年三月)、日露戦争(一九〇四年二月~〇五年九月)に、この地域からも八十五人が従軍し、うち陸海軍の二十四人が戦死したことをのべています。そして、「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ義勇公(こう)ニ奉シ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ。」(もしものときは、勇気を持って公のために奉仕し、永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。)という文書もひきながら、この二つの戦争で、天皇の威光を海外に示すことができたと讃えています。
 「一旦緩急アレハ……」は、大日本帝国の明治天皇が、一八九〇年十月三十日に発布した「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)からの引用です。
 私の父、母の世代は、学校教育のなかで、この勅語をすりこまれました。
 小学校・国民学校の奉安殿には天皇・皇后の写真と、この勅語の写しが入っていました。児童は、毎朝、奉安殿に向かって礼をしました。学校の式典では、校長が、うやうやしく、この勅語をとりだして朗読しました。授業では、この勅語を暗記するようにいわれました。この勅語は、子どもたちを天皇の家来として洗脳していく武器の一つでした。
 私は、「表忠碑」の文章を読みながら戦争中の母を思いました。高知市の旭小学校卒業の母(一九一九年十二月一日生まれ)は、戦後生まれの私に学校の思い出を語るときは、いつもこの勅語のことを語り、その全文をそらんじてみせたからです。母は、旭小学校で同学年だった大工さんと結婚しました。が、夫は、高知市朝倉の陸軍歩兵第四十四連隊に召集され、訓練中の事故で死亡。生まれたばかりの長男は栄養失調で死亡。自身は、ひっぱられて陸軍の風船爆弾の風船用の和紙をすきました……。

【日露戦争後】 香南市野市町土居字宮床の立山神社「日露役戦利品 陸軍省御下附」の石碑

 七月十九日、香南市野市町においでる最近知り合った男性(六十五歳)が、野市町と、その周辺の神社や墓地の戦争にまつわる石造物をいくつも案内してくださいました。
 彼の問題意識は「戦死者の墓や戦争についての碑に鳥の形をした石造物がついている、その鳥は、どんな意味を持っているのだろうか」ということです。
 なるほどたくさんの鳥の石造物がありました。
 私は土佐市宇佐の神社でも、鳥の石造物を見ていました。
 私は、それらの鳥は「金鵄(きんし)」だと思っていました。
日本の神話で、神武天皇が東征のとき、金色の「霊鵄」が弓にとまり、長髄彦(ながすねひこ)の軍勢がそれに目がくらんで降参したという話がありますが、その鳥のことです。
この話は、どこか別の土地からやってきて奈良地方に拠点を築いた軍事勢力が、東のほうを攻めていったことを物語っていると思います。金鵄は、その「武運」の印です。
 鵄というのはトンビ。タカ目タカ科の猛禽類(もうきんるい)です。ほとんど羽ばたかずに尾羽で巧みにカジをとり、上昇気流に乗って輪を描きながら上空へ舞い上がる、「ピーヒョロロロロ…」という鳴き声の鳥です。
よく見てみると猛禽類と思われるものも、優しい感じの鳥のものもあります。これらの鳥は、それぞれ何を意味しているのでしょうか。解決は、持ちこされました。
 ところで、「鳥」を見に行った神社の一つに、野市町土居字宮床の立山神社がありました。
 そこの最後の鳥居を入って右側に「日露役戦利品 陸軍省御下附」の石碑がありました。
 碑のてっぺんに、その戦利品が乗っていたようですが、いまは、それはありません。
 日露戦役というのは、一九〇四年~一九〇五年に朝鮮半島と満洲南部を主戦場としてたたかわれた大日本帝国とロシア帝国との戦争です。
戦利品というのは、戦争や戦闘で勝利したことにより手に入れた品のことです。戦争で奪った兵器、軍艦、美術品などです。神奈川県横須賀市の民家で軍隊の幹部だった男性が戦利品として自宅に持ち帰った立派な家具を見たこともあります。
 下附(下付)というのは、官庁から民間に金や物をさげわたすことです。
 この石碑を見つけたとき、「あわーっ、戦利品か。陸軍省が戦利品を配っていたのか」と、驚きました。
 インターネットのアジア歴史資料センターで陸軍省の資料を探しました。
 日清戦争のときから陸軍省に各地から戦利品を下付してほしいと文書がきていることがわかりました。
 たとえば一九〇七年十月二十三日付の高知市兵事会長・魚角象三の名による「戦利品下付願い」は高知県知事・鈴木定直(すずきさだなお)を経由して陸軍省に届いていました。
 内容は、高知市鷹匠町外柳原に日露戦役の祈念碑を建設しているが、それに備えつけたいので「戦利砲」か「戦利砲丸」を下付してくださいというものでした。
 かくて「戦利品」は神社、学校、博物館に下付され大日本帝国軍隊の強さを宣伝しました。

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