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2012.10.19

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ⑥  高知へ帰ってからの十四か月間

 ・一九三一年七月六日、日本共産党の機関紙・赤旗(第四十五号)に「日本帝国主義の戦争準備と斗へ!」を発表しました。
 ・同年七月、吉田はプロレタリア作家同盟に加入します。
 ・同年八月一日、日本共産党は、国際反戦デーに非合法の集会やデモを各地で組織し、「日本軍隊の満州、朝鮮及び台湾からの即時召還」を要求しました。
 ・同年九月十八日、大日本帝国が中国の東北地方に侵略戦争を開始しました。
 ・同月十九日、日本共産党は労働者、農民、兵士にたいする檄を発表、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」と、よびかけました。
 ・同月二十九日、第二無産者新聞が社説で、日本軍の侵略を暴露し、「帝国主義戦争と闘へ!」、「一人の兵士も送るな!」、「武器の輸送製作を中止せよ!」と、主張しました。
 ・同年十月五日、赤旗は「事変の原因」を中国側に求める商業新聞を批判し、中国での日本軍の軍事行動が「精密に計画され、実行された」中国侵略戦争であることを暴露しました。
 ・同年十月、日本プロレタリア作家同盟高知支部を結成します。弘田競が、作家同盟高知支部での吉田の印象を書いています=「会議中でもふと立ち上って部屋の中をグルグル歩いたり」、「謄写版をする手を休めたりして、チラシの裏にへたな字で詩作のメモを書きつけている」、「荒い紺ガスリの着物の肩をいからし、尻切れ草履[ぞうり]を引きずって未定稿の一節を口ずさみながら、西陽のさすイチョウ並木を歩いて行く彼が、鏡川添いの桑畑に腰を降ろしてせせらぎに耳を傾け、じっと瞑想する彼の横顔」 (弘田競「槇村浩は わたしの中に生きている」=近森俊也編集『ダッタン海峡』一号。小路貞次郎。一九六三年七月)。
 ・同年十月二十四日、吉田が槇村浩のペンネームで反戦詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書きます。
 ・同年十二月、高知市で貴司山治らによる「戦旗防衛講演会」を開催。貴司は、講演会の翌日、作家同盟の事務所での懇談会で槇村に会ったといいます。「われ  は、ナルプ(日本プロ作家同盟)委員長江口渙[えぐちかん]、中央常任の池田寿夫と私、他に映画班としてのプロキノの同志一名であった。/この席上で、私ははじめて槇村浩に逢った。/というよりも見掛けた、という方があたっていよう。/支部員の末端に、たしか紺絣筒袖の着物をきたいやに青白い童顔の――それゆえやっと少年から青年になったような男が一人いて一語も発言せず、むっつりとしてただわれ  や他の支部員の語るのをきいていた。/私ははじめ、支部員の事務書記か、それとも学生の傍聴者かと思った。/自己紹介の時には、その男はただ/「吉田です」/とだけいったので/「あれは一体何なのかね」/かたわらにいた佐野[順一郎]だったか、信清[悠久]だったかにきいた。……」(「奇跡の詩人」=近森俊也編集『ダッタン海峡』一号)。
 ・同月、吉田は日本共産青年同盟に加入します。
 ・一九三二年一月二十八日、日本軍が上海でも中国軍への攻撃を開始しました。
 ・同年二月五日、日本軍はハルピンを占領しました。
 ・同月創刊のプロレタリア文化同盟の啓蒙誌『大衆の友』に、槇村の詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が掲載されます。
 ・同年二月から四月二十日まで高知の青年たちは、高知市内や高知市の陸軍歩兵四十四連隊など十回以上反戦ビラを配布しています。
 この「事件」は、同年二月二十三日、第十一師団(香川県善通寺)に緊急動員令が下ったことから始まっています。二月二十八日(日曜日)、同師団に属する陸軍の歩兵第四十四連隊(連隊長・秦雅尚大佐)が、この動員令によって兵営を出発し、中国に行きました。そして、三月三十一日、兵営に帰還し、四月二日、高知市で同部隊の「凱旋祝賀歓迎大宴会」が開かれました。
 反戦ビラ配布を憲兵司令部編集の『日本憲兵昭和史』(憲兵司令部。一九三九年七月)、土陽新聞の記事「高知○隊出征前夜 ○隊並に高知市へ 反戦ビラを配布したもの 憲兵分隊と特高課が活動」(一九三二年三月十五日の号外)、一九三三年四月二十八日の、信清悠久、小松益喜、吉田豊道への治安維持法違反被告事件についての高知地方裁判所刑事部の判決文(『槇村浩全集』。岡村正光、山崎小糸、井上泉。一九八四年一月二十日)に見ます(判決文は現代文にしました)。
 ・「……(高知)市中央に在る播磨屋橋土佐電気株式会社運輸課に『戦争反対ビラ』を投入し……」
 ・「高知○隊に動員下命して、ために全県下は戦争気分が横溢し、召集兵は続々高知市に集まつてゐる際即ち〇隊が出征する前々夜二月○○○日午前二時頃深夜高知市中島町医学博士武田鹿雄氏の門先ならびに其の附近に反戦ビラを散布してあることを夜間警戒中の高知憲兵分隊特務石井上等兵が発見し直に県特高課に通知して共産党員のものを捜査警戒中」(土陽新聞の記事。高知○隊」とは、陸軍歩兵第四十四連隊のこと)。
 ・「更に其の翌日即ち出征前日の午前三時頃高知○隊内を憲兵分隊の特務西原上等兵が巡視中隊内杉垣附近にこれまた反戦ビラを多数撒布されてゐることを発見し直に○隊並に分隊に通知して取調べたが隊内のビラはビラ数十枚を垣外より投げ込んでゐたもので夜間であり何人にも見附らない以前に憲兵隊の手にて発見されたもので憲兵隊にては万一出征当日を慮かり松村分隊長以下之等の不穏分子の警戒に当つた、而して右反戦ビラ配布の犯人はその後憲兵隊並に特高課にて捜査中であるが、右は先に某校に配布したビラ事件と同一系統と見て当局にては更に捜査並に取調を進めてゐる」(土陽新聞の記事)。
 ・「……二月二十七日午前二時に至り、戦争反対のビラを[高知]市内数箇所に貼付したる者あり、石井上等兵は逸早く之を発見、当夜中に全部回収したる為、之を見聞したる者なく従つて何等の反響なきを得たるも、此の種策動益々尖鋭化すべきことを予知せられたるを以て松村分隊長は県警察と連絡の上一段の予防に努力せり。」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「然るに翌二十八日午前二時頃又もや連隊兵器庫裏街路に、日本共産党青年同盟高知地区委員会署名の二種の反戦ビラ数枚投棄しあるを警防巡察中の西原上等兵発見直に収拾すると共に連隊衛兵に連絡営内を検索したる処、同連隊南門及東門附近に約五十部の同ビラの投入しあるを認め直に之を収拾したるを以て其反響なかりき。」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・三月六日ころ、吉田豊道は、高知市農人町・浜田勇方において上海出兵に対する闘争のため、同人らと共に協議の上、「革命的兵士の虐殺云々」と題する共産主義青年同盟高知地区委員会署名の反戦ビラの原稿を作成し、同市小高坂、同盟員・森山正也方において毛利猛夫、池本良三郎らと共に謄写版をもって約八百枚を印刷作成し毛利らをして高知市一円および附近村落に撒布せしめ(判決文)。
 ・三月八日ころ、吉田豊道は、浜田勇方において同人らと協議の上、高知市外の陸軍歩兵第四十四連隊内に軍隊新聞を発行せんことを企て自ら軍隊内における組織ならびに宣伝扇動などにおける全責任者となりて、「兵士の声」と題する新聞を発行することとなし、自ら原稿を書きて原紙に切り、当時同市小高坂、森山正也方において毛利猛夫、池本良三郎などと共に「大衆的に上海出兵に反対せよ」、または「日本共産党の旗の下に全兵士は日本共産青年同盟に入れ」と矯激なる辞句を連ねたる印刷物約四百枚を印刷作成し、これを毛利猛夫に交付し、同人をして右連隊営庭内あるいは射的場などに撒布せしめ、また外出中の多数兵士に交付せしめ(判決文)。
 ・「……三月九日午後一時三十分[高知]市内播磨屋橋土佐電気株式会社運輸課従業員詰所に対し、共青高知地区委員会署名の過激なる反戦ビラを投入したるを以て同社監督某が憲兵に此の旨を連絡せるを以て直に之を押収し其反響を防止し得たり。」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「高知市帯屋町には毎日曜日に日曜市開かるゝ為、非常なる人出あるを以て三月十三日歩兵第四十四連隊外出兵三名新京橋本町筋五丁目付近歩行中同市方面に向ひつゝある時一名の若者が過激なる三種の反戦檄文ニュースをハトロン封筒に入れたるものを該兵士に手交せり、恰度同市雑沓中を警戒せる松岡上等兵之を探知し直に之を押収し犯人を追跡したるに遂に発見せざりし為、此の旨連隊当局に連絡し該三名に就き犯人の人相特徴等を調査したる処、捜査中の毛利一雄と濱田武夫の人相に匹敵しあり、因て先ず之等両名の所在捜査を為すことに全力を注ぎたるが、……」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「又々三月十四日午前三時頃歩四四補充隊営内及射撃場に三種の反戦檄文ニュースをハトロン封筒に入れ投入、又は配布せり、其数三十六袋なるが何れも幸ひ所属隊並憲兵の探知早く、之れを押収したる為何等の反響もなかりしが、執拗なる彼等の行動は憲兵の憎悪極度に達し、憤激の涙を催ほし分隊員中には霊験著しと称せらるゝ[高知市の]藤並神社に参拝祈願せる者さへありて憲兵必至[ママ]の努力は涙を催ほす情況なりき。……」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・「然るに三月二十六日午後一時頃共青高地[ママ]地区委員会署名の反戦闘争基金袋が[高知]市役所前に撒布され全く官憲を嘲弄しあるが如く彼等の行動は極めて大胆不敵なりき、……」(『日本憲兵昭和史』)。
 ・三月末ころ、吉田豊道は、高知市金子橋、毛利猛夫方において同人および浜田勇などと協議の上、四月二日、高知県長岡郡五台山村(いまは高知市です)、招魂社祭当日、反戦ビラを撒布すべきことを協議し、自ら「兵士諸君は皆読め」と題する原稿を作成し、浜田勇と共に約五百枚を印刷作成し、これをカフェー開店広告に模したる封筒に封入し自ら毛利、浜田ほか二名と共に右招魂社付近に到り、通行中の軍人に交付し、あるいは撒布し(判決文)。招魂社というのは、いまの高知県護国神社のことです。四月二日は、いまの春季例大祭の日です(『高知県護国神社百年史』。橋詰延寿・森下臣一。高知県護国神社創立百年記念事業期成会。一九七二年四月一日)。「……四月二日午後零時三十分[高知]市外五台山に於ける招魂祭に参拝せる補充兵が叉銃休憩中[叉銃というのは、野外で軍隊などが休憩するとき、銃を組み合わせて三角錐状に立て合わせることです]、何者かハトロン封筒にカフェーの広告を印刷したるもの五通置きあるを取締中の石井上等兵現認し之を披見するに、何れも四五枚宛封入する過激なる反軍宣伝ビラなりしを発見し直に全部を蒐集したる為軍人は勿論一般客にも何等反響なかりしが……」(『日本憲兵昭和史』)。
 こうした反戦ビラ配布のさ中の、同年三月一日、大日本帝国は間島をふくむ中国東北部に、かいらい国・満州国をつくりました。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、満洲国の建国にいたったのです。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀がつきました。
 ・同月十三日付の東京朝日新聞は「間島また不穏 新国家の成立に 漢族不平抱く」と報じます。
 ・同日、吉田が槇村浩のペンネームで中国の間島の抗日パルチザンの側に身をおいた詩「間島パルチザンの歌」を書きあげます。
 ・同年の『プロレタリア文学』四月増刊号に槇村の詩「間島パルチザンの歌」が掲載されます。
 ・同年四月の反戦詩集『赤い銃火』に槇村の詩「出征」が掲載されます。
 ・同年の『大衆の友』四月号に槇村の詩「一九三二・二・二六 ―白テロに斃された××聯隊の革命的兵士に―」が掲載されました。

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