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2012.10.26

石碑から読み解く高知の戦争 三 地域の人びとがつくった戦争に関連する石碑・朝鮮、中国などへの侵略の時期

【一九一三年】 「百度石軍人安全」の碑 同じものが二つの神社に…… 

 一八九〇年十一月二十九日、「大日本帝国憲法」が施行されました。
 日本は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)とされ、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第二条)とされました。
 その天皇は、戦争の最高指揮者・大元帥(だいげんすい)でした。
 「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(第十二条)
 「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第十三条)
 天皇の戦争政策に反対する国民には手痛い仕打ちが待っていました。
 そんななかでも、天皇を批判するのをさけながら戦争政策を批判する文学が生まれました。
 たとえば、日露戦争のとき、雑誌『太陽』一九〇五年一月で大塚楠緒子さん(一八七五年八月九日~一九一〇年十一月九日)が発表した詩「お百度詣(ひゃくどもう)で」です。日露戦争に出征した夫の無事を祈る妻の心情を歌った作品です。

 ひとあし踏(ふ)みて夫(つま)思い
 ふたあし国を思えども
 三足ふたヽび夫思う
 女ごころに咎(とが)ありや

 明日に匂う日(ひ)の本(もと)の
 国は世界に只(ただ)一つ
 妻と呼ばれて契(ちぎ)りてし
 人はこの世に只ひとり

 かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と
 いずれ重しととわれなば
 ただ答えずに泣かんのみ
 お百度詣であヽ咎ありや

 高知市一宮(いっく)の土佐一ノ宮土佐神社の鳥居の左手の「百度石軍人安全」という石碑に出合って、私は、この詩を思い起こしました。
 「軍」という文字は、削られてほとんどわからなくなっています。
  その下に短歌が掘り込まれています。

 君可(が)代の千とせ越(を)神尓(に)百かへりいの留(る)志(し)る之(し)の古(こ)の石はしら

 裏面には「香美郡東川村 末延元吉 大正二年 建之」と、あります。大正二年は、一九一三年です。
百度参りは、願いをかなえてもらうために社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返します。「百度石」は、その目標となる石柱です。何人もの女性や男性が、この「軍人安全」の百度石に向かったことでしょうか。
 五月二十六日、二十七日、香川県善通寺で開かれた第三回戦争遺跡保存ネットワーク四国シンポジウムに参加しました。参加者の一人に、「天皇を批判するのを避けながらも、戦争はいやだという気持ちをこめてつくったものではないか」と、この碑のことを話しました。すると、その人が「香美市香北町のアンパンマンミュージアムの近くの大川上美良布神社(おおかわかみびらふじんじゃ)にも『百度石軍人安全』の碑がある」と、教えてくれました。
 二十七日午後、高知に帰ってから、オートバイで、その神社に向かいました。
 ありました。これも「香美郡東川村 末延元吉 大正二年 建之」です。
 こちらには碑の上に『日本書紀』に登場する金色のトビ・金鵄(きんし)を表現したと思われる鳥が載せてありました。

【一九三四年以降】大砲の弾三つ乗せた「忠魂碑」

 安芸市伊尾木(いおき)に大砲の弾のようなもの三つを頂上につけた「忠魂碑」があります。「海軍大将永野修身書」と刻まれています。
 忠魂碑は、大元帥である天皇を忠義をつくし、雄々しくたたかう、そういう心を讃えたものだったと思います。
 いつ、誰が、これをつくったのでしょうか。
 碑のうしろに説明の文章が刻まれていますが、一部がノミのようなものでつぶされたりしてわからなくされています。
 「■■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■■
 花崗■■■■■■■■■
  建設資金寄贈者
      清岡克己
      井上琴治
      有澤義松
      山下一春
      加納盤城
      山崎悌二郎 
 ■■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■稲
 ■■■■■■■■■■■」
 ■の部分には、おそらく発起人、建立の年月日などが刻まれていたことでしょう。
 永野修身さんは、一九三四年三月一日、海軍大将になっていますので、「海軍大将永野修身書」と刻んだこの碑は、これ以降につくられたものでしょう(一九三六年三月九日には海軍大臣になっています)。
 この地域に住んでいる清岡清さん(一九一六年六月六日生まれ)が、この碑の由来を教えてくれました。
 この地域は、当時は伊尾木村で、清さんの父・清岡玄之助さんが村長をしていました。
 伊尾木村の忠魂墓地は、もとは人気(ひとけ)のあまりない五本松地域にありました。
 玄之助さんの弟の清岡克己さんが、玄之助さんに忠魂墓地をにぎやかな所に移そう、「金がなければ俺が出す。立派なものをつくろう」と提案。そして、引越しが実現しました。
 克己さんは、日清戦争、日露戦争のとき日本軍の通訳をやり、その後、中国の大連で酒屋を経営するなどして金持ちになっていたといいます。
 あらためて「忠魂碑」の裏面を見ると「建設資金寄贈者」の一番初めに「清岡克己」の名前がありました。「忠魂碑」は、軍人墓地の引越しに際して建てられたもののようです。
 大日本帝国憲法第三条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」としていました。キリスト教徒である玄之助さんには受け入れがたい考えでした。しかし、玄之助さんなりに納得して日清戦争、日露戦争にも出征して天皇につくしてきました。
 その玄之助さんの考えが激変したのは一九四五年八月十五日のアジア太平洋戦争終戦の数日後でした。
 玄之助さんは、清さんにこういいました。
 「この戦争の敗因は何か? それは天皇を神としたことだ。国民がみな、天皇を神に仕立てたし、天皇自身も神になろうという野心を持っていたなあ」
 玄之助さんは「天皇みずからも神となって世界征服をくわだてていた」と批判するようになっていったといいます。

【一九三六年】 「元帥[げんすい] 永野海軍大将誕生の地」の碑

 高知市桜井町一丁目に「元帥[げんすい] 永野海軍大将誕生の地」の碑があります。ミカゲ石で、高さ一・六メートル、幅五十センチメートルです。裏面に「新町青年会建立」とあります。
元帥は、大日本帝国軍隊の最上級の階級です。天皇は、その上に立つ大元帥でした。
 碑は新しいものですが、土台やまわりの三方を囲った塀や土台の石造物は、それ以前のもののようです。
 土台の四方の隅には上を向いた石づくりの大砲の弾丸が一つずつすえられていて、正面には錨(いかり)のマークが彫りこまれています。そして、土台の裏面には「昭和十一年[一九三六年]五月」と刻まれています。
 正面の金属製のプレートには、つぎのような文章が掘り込まれています。

 元帥 永野修身[ながのおさみ]海軍大将は 明治十三年六月十五日この地に生まれ海南中学校を経て海軍兵学校、海軍大学校に学び、アメリカ大使館附武官、練習艦隊司令官、海軍兵学校長、軍事参議官、海軍大臣、連合艦隊司令長を歴任。ジュネェブ ロンドン軍縮会議首席代表として活躍 昭和九年海軍大将同十八年[一九四三年]元帥に親補[天皇が、その職につけること]され第二次世界大戦開戦当時は海軍々令部総長の要職にあって歴史的な「眞珠湾奇襲攻撃」の作戦を指導し、戦後海軍の最高責任者として極東国際軍事裁判で審理中 昭和二十二年一月五日 六十八歳で病歿す
 この碑は昭和十一年五月新町青年会が建立したが戦災により亀裂を生じたので、高知県海洋会がこれを修復す。
  昭和五十二年十二月吉日
   高知県知事 中内力謹書

 修復したといっても何かちぐはぐな感じです。碑文には「元帥 永野海軍大将誕生の地」とありますが、はじめにこの碑が建ったとされる一九三六年五月には、永野さんは元帥ではありません。元帥になったのは一九四三年六月二十一日です。元の碑文には「元帥」はなかったはずです。
 この碑は戦後、彼が元帥として「『眞珠湾奇襲攻撃』の作戦を指導」したこともふくめて評価したものに「パワーアップ」されています。
 戦後、これを修復した高知県海洋会とは、旧日本帝国海軍の兵士だった人たちを中心にした団体です。当時の会長は、麻田金光さん。総工費は六十万円でした。
 碑の除幕式は、一九七七年十二月八日でした。
 「除幕式には、会員や来賓の中内知事、自衛隊関係者ら約百人が出席した。この日は、折しもあの『十二月八日』。会員たちは白地に黒線の入った旧海軍の艦内帽をかぶって参加、高らかにラッパが響き、軍艦旗の掲揚もあって、全員が〝敬礼〟。突然の〝帝国海軍〟の出現に道行く人々が目を見張っていた。」(高知新聞 一九七七年十二月八日夕刊)。

【一九三七年】「奉 富国徴兵保険相互会社 社長 根津嘉一郎」

高知市吸江二一三の高知県護国神社を入った所の左右に石塔があります。
 向かって右のものには「奉 富国徴兵保険相互会社 社長 根津嘉一郎」、左側のものには「献 昭和十三年四月」と彫りこまれています。昭和十三年は、一九三七年です。
 「徴兵」という言葉があります。
 徴兵制度は、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度です。武士の世では、兵士は武士だけでしたが明治維新をへて新しい天皇の世になると男性全般が兵士になることを強制されました。
 一八七二年十一月二十八日、「全国徴兵に関する詔(みことのり)」が発せられ、翌年一月十日、太政官布告無号「徴兵令」が布告されました。「徴兵令」は、国民の兵役義務を定めました(一八八九年に改定)。一九二七年四月一日に「徴兵令」は廃止。引き換えに「兵役法」(法第四十七号)が公布され、男性には満二十歳になると徴兵検査を受ける義務が課せられました。
 一八七四年五月六日~六月には、新しい天皇の政府は初めて海外出兵をしました。台湾出兵です。
 そして、日清戦争(一八九四年、九五年)をしかけます。
 こうしたなかで、徴兵保険が生まれます。男子誕生と同時に保険に加入する、その子が徴兵検査の年齢に達したときに甲種合格となったら約定の支払額を受け取れるという保険です。
 最初の徴兵保険会社は、一八九七年五月から営業を開始した徴兵保険株式会社です(後に第一徴兵保険株式会社)。
 そして、日露戦争(一九〇四年、〇五年)が始まります。
 一九一一年九月、日本徴兵保険会社ができました。
 シベリア出兵(一九一八年~二二年)と戦争は続きます。
 一九二二年七月、国華徴兵保険株式会社ができました(後に第百徴兵保険に)。
 そして、満州事変(一九三一年)の後の一九二三年九月、この石碑の会社、富国徴兵保険相互会社が設立されました。
 新しい天皇の政府は、日中戦争(一九三七年~四五年)と戦火を広げます。
 富国徴兵保険相互会社、業績を拡大し一九三七年、業界一位の保険契約高を獲得します。
 この石碑は、その翌年・一九三八年につくられたものです。
 このあとも、新しい天皇の政府は海外に戦火を広げます。
 この碑の周辺には「歩兵第二百三十六連隊(鯨部隊) 戦没慰霊塔」、「フィリッピン戦没 戦友の塔」、「高知県戦没者慰霊之碑 硫黄島」、「独立歩兵第四百十二大隊 慰霊碑」、「シベリア満蒙方面抑留 戦没者慰霊碑」などの石碑がならんでいます。

【一九三九年】 鴨田小学校にあった「川崎伊勢雄」の石碑 終戦後、校庭に埋められていて……

 「あのこんもりした所に、きっと僕の知りたいものがある」。この間、何度も、そんな気がしながら素通りしていました。
 七月二日午前。晴れ。私は、高知市の土佐道路を朝倉に向けてバイクで走りました。左手の「高知市消防団鴨田分団」の近くにバイクをとめました。そして、その手前の「こんもりした所」に行きました。
 軍人墓地でした。
 「あった」
 そこには、下半分がなくなっている石碑が建っていました。
 表は「忠烈 川崎伊勢□□□/陸軍□□□」。そばの解説の石碑(一九八三年九月、建立。建てた人は不明)を見ると、川崎伊勢雄(かわさきいせお)」の碑でした。
 この碑は「かつて鴨田小学校にあり 敗戦の際秘かに校庭に埋没されていた」といいます。
 そして、「先年工事中その[石碑の]大部分が発見され」、ここ軍人墓地の一角に再建されたとのことです。
 校庭に埋めたのはアメリカなどの占領軍を恐れたものでしょう。当事者は、この碑が、子どもたちに侵略戦争熱をあおる役割を果たしていたことを自覚していたのでしょう。
 川崎伊勢雄さんは、一八七三年十月十四日、高知県神田村(いまは高知市)生まれ。その解説の石碑によると、彼は日清戦争のときの「騎馬斥候(きばせっこう)」で「日清戦争のはじめ 大同江の渡河や 中和の血戦で武勇を天下に轟かせ 歌にまで唱われた郷土の偉人です」といいますが、「偉人」という評価でよいのでしょうか。
 日清戦争は、一八九四年七月から九五年三月にかけておこなわれた朝鮮半島(朝鮮王朝)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争です。川崎さんは、この戦争で敵情や地形などをひそかに探る任務についていました。朝鮮の平壌(ピョンヤン)の「敵情」を探ろうとして大同川二千メートルを泳ぎ渡り、「敵」に発見されたが船を奪って帰る……という物語が流布されていました。
 この碑は、日清戦争からかなりあとの、一九三七年からの日中戦争のさなかの一九三九年四月、地元有志によって建立されたもので、題字は川島義之(かわしまよしゆき)・陸軍大将、郷土史家・寺石正路さんだということです。
 解説の碑には、「川崎軍曹の歌」が彫りこまれていました。
日清戦争はじまりて/八月三日の夜とかや/ わが斥候の一隊は/ 大同江を渡らんと/堤に到れば舟はなし/ 折しも霖雨[りんう。長雨]に水まして/ 渡るにかたきこの川の/堤に馬をのりすてヽ/軍服ぬぎすて赤はだか/口に剣をくわえつヽ/ざんぶと水に躍り入り/抜手をきって只[ただ]一人/逆巻く波をなんなくに/渡りし人は高知県/土佐の郡の鴨田村/川﨑伊勢雄という勇士/今は陸軍軍曹で/物見の役をつとめたり………
 「川崎軍曹渡単身大同江」という錦絵も当時売り出されていたようです。
 この連載の八回目で高知市の「高知市消防団鴨田分団」の近くの軍人墓地の日清戦争のときの「英雄」・川崎伊勢雄(かわさきいせお)軍曹の碑のことについて書きました。この碑は、かつては鴨田小学校にあったものでした。その記事では、この碑が「この碑が、子どもたちに侵略戦争熱をあおる役割を果たしていた」と書きました。
 鴨田学校が尋常高等国民学校になった時代に、ここに通っていた岡崎正夫さん(一九三二年五月生まれ)のお話をお聞きすることができました。九月十九日午後のことです。
 岡崎さんたちの学年は男子組三十二人、女子組三十九人でした。
 川崎伊勢雄軍曹の碑は正門を入って右手にあったといいます。「上級生からいわれていたのでしょうか、私たちは毎朝、登校すると、この石碑に丁寧な礼をしました」。
 学校の様子をうかがいました。
 「四年生の終わりころから体操の時間には手榴弾(しゅりゅうだん)を投げる訓練や竹やりの訓練をしました」
 手榴弾訓練の標的は、たてかけた丸い板でした。鉄製の模擬手榴弾を使いました。その底を石にコチンとあててから、男性の先生の「一、二、三」の掛け声の、「三」のとき投げました。「十五メートルが目標でした。達成するとビール瓶のフタのバッジをくれました」。
 竹やりの訓練は、竹の棒にワラをまいたものが標的でした。男性の先生の「走れ―ッ」の号令で、竹やりをもって突進して標的にブスッ。
 一九四五年四月、岡崎さんは同校の高等科に進学しました。
 しばらくして、同校に満州(中国東北部)にいた陸軍部隊が駐屯しました。
 「この部隊は、食糧に困っていたようで、わが家の農耕用の牛も、この部隊が持っていきました」
 同年七月四日、アメリカ軍のB29機の群が高知に襲いかかりました。
 「鴨田尋常高等国民学校は、この空襲で焼かれてしまいました。トイレだけが残っていました」
 岡崎さん宅の牛は、県下春野町秋山の陸軍部隊に連れて行かれていたようです。「戦後、『とりにこい』とい連絡がありました」
岡崎さんは、戦争の時代に、同校で使った鉄製の模擬手榴弾を持っています。
一方の底に、つぎのような刻印がされています。
「体力章検定規格手榴弾 美津濃 謹製」
美津濃は、いまもある美津濃株式会社のことのようです。
一九〇六年四月一日、水野利八さんが創業。いまは、ミズノの名でスポーツ用品を製造販売しています。

【一九四〇年】「祈念 皇紀二千六百年」の石碑 「寄附者芳名」は五十三人

  一九三六年六月三十日、紀元二千六百年祝典事務局の内閣設置が勅令(ちょくれい)第百三十五号で公布されました。大日本帝国の中国東北地方侵略戦争のさなかのことです。神武天皇即位紀元(皇紀)二千六百年は、三年半後の一九四〇年でした(私は、神武天皇は、空想上の人物だと考えていますが……)。
 同事務局の一九三七年三月三十一日付の文書「紀元二千六百年に就[つい]て」は「紀元二千六百年を迎へるに当つては、遠く肇国創業[ちょうこくそうぎょう]の偉業を瞻仰[せんぎょう。あおぎ見る]し歴朝の懿徳[いとく。りっぱな徳]を景慕し奉ると共に、我が国体の精華と肇国創業の大精神とを広く中外に顕揚[けんよう。世間に威光を高める]して、内は愈々[いよいよ]国民精神の振作更張[ゆるみを引きしめ振るいおこさせる]を図り、外は八紘一宇[はっこういちう]、万邦協和、共存共栄の世界平和確立の大理想具現の為に一段の進展を期する所がなければならぬ。茲[ここ]に来るべき紀元二千六百年の意義が存する。」と、のべています(官報付録『週報』第二十四号)。八紘一宇の、八紘は四方と四隅つまり世界・天下、宇は家のこと、全世界を天皇のもとに一つの家とするという意味です。
 この年の出た年、一九三七年七月には日中戦争が全面化します。
 高知県下を歩くと各地に紀元二千六百年の記念碑が残っています。
たとえば、香美市土佐山田町楠目[くずめ]の道路沿いの楠目小学校跡地の近くの「祈念 皇紀二千六百年」と刻まれた石碑。裏面は「寄附者芳名」。数えたら五十三人。なかには大法寺部落常会、談義所上組常会の名もありました。
 一九四〇年二月発売の奉祝国民歌「紀元二千六百年」(紀元二千六百年奉祝会・日本放送協会制定)は「……正義凛[りん]たる旗の下 明朗アジヤうち建てん/力と意氣を示せ今/紀元は二千六百年……」と歌いました。
 同年十一月十日、東京の宮城前広場で内閣主催の「紀元二千六百年式典」が開催されました。同日、高知でも高知公園三の丸広場で式典が開催されました。近くの高知県庁には大きな垂れ幕が二つかかりました。「皇紀二千六百年を祝し」、「益々[ますます]総力を発揮しませう」(寺田正『ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 高知』。国書刊行会。一九七九年)。
 十一月十四日までのポスターは「祝へ! 元気に 朗かに」。そして、同月十五日からのポスターは「祝ひ終つた さあ働かう!」。
 そして、翌年、天皇は大東亜戦争(アジア太平洋戦争)を始めました。
楠目の皇紀二千六百年の石碑の近くにの「忠魂碑」(一九四五年三月十日再建)には大東亜戦争の戦病没者もまつられています。

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