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2012.10.26

石碑から読み解く高知の戦争 五 本土決戦期に高知に駐留した軍隊の残した石碑

【一九四五年】 南国市十市の禅師峰寺の山の第十一師団歩兵第四十三連隊の「屈伸付天地」の碑

 海原治(かいはらおさむ)さんは、一九四〇年二月、陸軍第十一師団歩兵第四十三連隊(編成地・徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、陸軍第十一師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として一九四五年八月十五日の終戦を高知県で迎えました。
 その、海原さんが『戦史に学ぶ 明日の国防を考えるために』(朝雲新聞社。一九七〇年八月十五日)で本土決戦期の高知県のことを書いています。
 一九四五年春、アメリカ軍が高知県に上陸するかもしれない、本土決戦だということで、満州(中国東北部)にいた陸軍第十一師団(錦部隊。約二万二千人)も、高知県の海岸地帯に展開することを命じられました。「米軍の本土攻撃に備えて、八月中旬までにいっさいの準備を完了すべし」というのが軍の作戦命令でした。
 各部隊の受け入れ準備のために高知に来た同師団の海原さんは、驚きます。高知県の海岸には、トーチカも砲座もないのです。
 防御陣地をつくるための木材、セメントの受領に行きました。木材は二十八万六千石必要です。県庁の林業課に行き、どこで木材を受けとればいいかたずねると、この山とこの山から自分たちで切り出してくれといわれます。同師団には、切り出して、運搬して、製材するための輸送力も機械器具もありません。しかたないので各部隊には「その警備区域内でしかるべくやれ」と指示を出しました。軍の指示で浅野セメント土佐工場に千五百トンのセメントを受け取りにいくと、工場長は、軍の要求でもセメントの割当証明書がなければセメントを渡すなという憲兵司令官の通達をたてに渡してくれません……。
 高知県での陣地構築作業は、こうした状態から出発したと、海原はいいます。
 県民も動員しての、がむしゃらな陣地づくりが始まります。
 いま、南国市だけでも三十三の陸軍、海軍のトーチカ跡が残っています(平和資料館・草の家の福井康人研究員調べ)。海岸に、川の土手に、田んぼの中に、山中に……。
 南国市十市の四国八十八箇所霊場第三十二番札所の禅師峰寺(ぜんじぶじ)に登る坂道の右わきにもトーチカ跡があります。黒っぽいコンクリートの四角いかたまりですが、上ってよく見ると砲のための穴、銃眼があいているので、それとわかります。
 参道を登り、山門の向かいの石段を降ります。降り切って少し行くと道が二手に分かれています。左の小道にいくと、アジア太平洋戦争中につくられたと思われるタコツボのような壕(ごう)や陣地と陣地を結ぶ交通壕のようなものがたくさん走っています。
 そうした道脇の右手に石碑があります。
 表面には「屈伸付天地」とあります。裏面には終戦の前日、「昭和二十年八月十四日」の日付。それに、「錦二四三五」の文字。「錦二四三五」は、第十一師団歩兵第四十三連隊のことです。
 「屈伸付天地(くつしんてんちにふす)」は、江戸時代の水戸学派の儒者・藤田東湖の漢詩からとったものでしょうか。屈伸付天地(わが身のなりゆきは天地に任せたものだ)。生きようが死のうが、もはや何の迷いもない。生きてあるならば藩公の冤罪(めんざい)をそそぎ、正気によって世道人倫が再び健全に輝く姿を示さねばならない。もし死を迎えるならば、正気はわが魂にあつまって忠義の鬼となり、天地のつききるまで皇国を護持するのだ。…… 
 天皇の国を守るために部署についていた陸軍部隊幹部の、敗戦を前にした思いを刻み込んだものです。
 なお、海原さんは、戦後、高知県渉外課の初代課長としてアメリカなどの占領軍を受け入れるために働きました。

【一九四五年】 高知市一宮の一宮百々山善楽寺の境内の錦二四八五部隊立町隊の碑

  高知市一宮(いっく)の一宮百々山善楽寺の正面奥に「嗚呼(ああ)立町隊盡忠之地(たてちょうたいじんちゅうのち)」の石碑があります。裏面には「昭和二十年[一九四五年]九月十二日解散ニ際シテ 錦二四八五部隊 立町隊長」とあります。
 「盡忠」は、この場合、天皇に忠義をつくすことだと思います。
この場所が、錦二四八五部隊立町隊が駐屯していた所で、一九四五年八月十五日の終戦後の九月十二日に、この碑を建てたということです。
 その碑の左の「平和之塔」に、この隊のことが刻まれています。題字書、碑文作は同隊の中隊長だった立町芳行さんです。
 「輜重兵[しちょうへい]第十一聯隊[れんたい]第一中隊は 昭和十三年原隊善通寺より旧満州に九三〇部隊で出兵し 錦県 東安 虎林[こりん]一訓に駐屯し零下三十度の酷寒を克服して ソ満国境の警備に当った 昭和二十年四月太平洋戦争苛烈(かれつ)を極めるに至[いた]り 本土防衛の為郷土四国に転進 伊野町 高知市附近に於[おい]て陣地構築 輸送の任務につき士気愈ク旺盛[おうせい]であった しかるに 八月十五日図らずも無念の終戦となり 九月十二日 万斛[ばんこく。多くの]の涙を呑んで解散した。……」
 実は、錦二四八五部隊のことは二年前から調べていました。愛媛県今治市に住む元隊員から体験談も聞いていました。その人たちの隊は、まず、伊野町(いまは、いの町)の伊野国民学校に駐屯し、そして高知市の針木で横穴壕を掘り、そして、高知市の薊野(あぞの)で横穴壕を掘ったということでした。現場に行ったら針木にも薊野にも壕がいくつか残っていました。
 錦部隊(陸軍第十一師団)は、一九四五年春、満州(中国東北部)から移ってきた師団です。主軸を構成する歩兵連隊が高知県の第四十四連隊と徳島の四十三連隊、香川の十二連隊です。長岡郡介良村(いまは、高知市)の鉢伏山(はちぶせやま)に師団司令部を構えていました。
 鉢伏山には、よく登りますが、山中に銃をすえる銃座壕(じゅうざごう)、兵隊が移動する交通壕や攻撃のため身を隠すタコツボなど、戦争の遺跡が残っています。
 高知市の高知県立高知城東中学校(いまは、高知県立高知追手前高校)にも一九四五年四月十六日から錦二四四五部隊の千人が宿泊しました。学校は兵舎に使用され、三年生以下の生徒たちと軍人、軍馬に満ちあふれました。生徒たちは高知市の秦泉寺の山にアメリカ軍上陸時の戦闘用の横穴を掘り、ときには十ミリ野砲の弾丸磨きもやりました(高知追手前高校百年史編集委員会『高知追手前高校百年史』。高知県立高知追手前高校校友会。昭和五十三年十一月十九日)。
 四月に高知市を視察した山岡重厚・善通寺師団管区司令官(中将。高知市旭出身)は市民に「祖先伝来の地を護り抜き、なお力尽きた場合はその地で戦死せよ」と檄をとばしていました(高知市史編纂委員会『高知市史 現代編』。一九八五年三月二十五日)。

【一九八四年】 美香市土佐山田の加茂大明神の兼松砲兵隊の碑

 七月三十日午後、前出の香南市野市町の男性が、美香市土佐山田の二つの神社に案内してくださいました。
 そのうちの一つ、県道257号ぞいの町田の加茂大明神の境内に私が前から追い求めていた本土決戦期に高知に配備されていた部隊の碑がありました。
「懐旧報恩の碑
昭和二十年の晩春より秋にかけ兼松砲兵隊は本土決戦の陣地構築のため町田地区に駐屯し民宿す 時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなしまた当神社に接し軍馬数十頭を繋留し境内を甚だしく汚損せり 吾等昭和五十七年戦後初めてこの地に再会し地区の人々の厚遇を得て懐古の情に浸るその折り往時を偲び報恩を決意す
  時移り風潮変われども昔日の足跡は厳存す
  ここに懐旧の情を石に刻み報恩の寸志を改修の玉垣に具現す
     昭和五十九年仲秋 兼松砲兵隊戦友会
                  木村倭士[きむらしずお]撰」
 裏面には「世話人」の名前が刻みこまれています。
 高知県の人、徳島県の人、愛媛県の人、大阪市の人、兵庫県の人、香川県の人。
 この隊の隊長は高知県の兼松平さんのようです。
 状況から判断すると、この地域にいたのは山砲隊(さんぽうたい)のようです。
 山砲は、分解が可能で、山岳地帯などで、通常の野砲が行動力を発揮できない地形で軽快な機動をおこなうことができる砲です。野砲のように牽引することもでき、分解して馬の背に乗せたり、人力でも搬送できます。
 案内してくれた知人と二人で地域を歩きました。
 当時のことを知っている人がいました。一九三七年二月生まれの男性です。
 「加茂大明神の社殿の向かって右手の竹やぶの所で馬を駆っていました。
 兵隊は民家の蚕屋などに泊まっていました。
 壕をたくさんつくっていました。入ると途中からYの字になっているものもありました。
 神社の南の山、烏ケ森のてっぺんの裏がわに大砲をすえる壕をつくっていました。
 烏ケ森の向こうからアメリカ軍の艦載機が飛んできて高知海軍航空隊のほうに飛んでいきました。私が、そこの兵隊に『敵の飛行機が山の上を飛びゆうに、何で大砲で撃たん』と聞いたら『撃たれん。撃ったら、ここが攻撃される』と、いっていました」
 翌三十一日朝から、その部隊の元隊員たちに電話しました。
 新潟県の曹長だった九十二歳の人、高松市の二等兵だった八十六歳の人……。高知市の人もいました。お話をうかがいに行きました。
 美香市土佐山田町の加茂大明神の「懐旧報恩の碑」に刻みこまれた「兼松砲兵隊」とは、どんな部隊だったでしょうか。当時の隊員たちからのお話でまとめました。
 この隊は香川県善通寺の陸軍第十一師団(大野広一師団長)で編成されています。山砲の第三大隊八中隊。隊員、約二百七十人。
 一九四五年の「晩春」の夜中に非常呼集がかかり、多度津駅から十センチ山砲四門、軍馬数十頭とともに貨物列車で土佐山田駅へ着きました。
 軍馬は加茂大明神境内右手の竹やぶにつなぎ、兵隊は各民家のカイコ部屋の二階などに宿泊しました。
 山砲は、これまでに使ったことのない最新式のものでした。その一つには「昭和十九年 大阪砲兵工廠製造」のプレートがついていました。
 香美郡吉川村(いまは香南市)の港の近くの松林に山砲をすえ、四門それぞれ四発ずつ試射しました。弾丸に装薬を三つ入れて撃つと七千四百メートル飛びました。
 アメリカ軍が香美郡赤岡町(いまは香南市)の海岸に上陸し、高知海軍航空隊の飛行場を占領することを想定して同神社の南の山・烏ケ森の中腹の山の斜面に山砲の陣地づくりを始めました。
 二等兵だった男性は「古参兵は、ごぼう剣を持っていましたが、初年兵には支給されませんでした。金属製の水筒も支給されず、モウソウ竹を切って水筒をつくりました。山砲の壕を掘るときはワラゾウリでということで、つくれない兵隊は地域のおとしよりにつくってもらって買い取りました。雨のなかで工事をしているとワラゾウリの後ろがなくなって前だけになりました。工事の道具は、シャベル、ツルハシ、モッコでした」と、いいます。
 小隊長だった木村倭士(しずお)さんは、戦闘に備えてコメには封印がされ、食料はほとんどない状態、「動物性タンパク質を取りに来い」という軍の知らせに赤岡町まで出向くとマユから糸を取った後のサナギを配給されたと戦後、語っていました(この項、高知新聞、一九八二年九月二十七日付)。
 木村倭士撰の「懐旧報恩の碑」の碑文の「時に物資乏しく地区の人々より温情を受くること限りなし」の意味するところです。
 近くの土佐山田町楠目にも別の山砲隊がいたようです。
楠目の喫茶店に入ったら客の一人が「神社なんかを歩いている人やねえ。この間、会うたねえ」と話しかけてくれました。「いま、山砲隊のことをしらべゆう」というと別の客が「楠目の家々に兵隊が泊まっていた。のちに貴船神社(香美市土佐山田町楠目字宮ノ谷一三八一)の裏にテントを張って駐屯していた。壕をつくって山砲もすえつけていた」と、教えてくれました。
 貴船神社に行ってみると神社の境内の下の右手に天井のない壕の跡がありました。

【戦後】 香美市土佐山田町逆川の龍河洞の楷第六四八二部隊の石碑 

 香美市土佐山田町逆川の龍河洞の駐車場の所に楷第六四八二部隊の石碑龍河洞の石碑があります。本土決戦の時期に、ここに駐屯していた部隊の碑です。以下、刻まれている内容を紹介します。

 土佐の国は雄々しきくに
 垂乳根(たらちね)の心深き処なり
 詔(みことのり)承(う)けし日の思ひ語り継
 ぐべき術(すべ)のあらむや
 遠き海鳴りは健依別(たけよりわけ)の呻
 きと聴きし
 秋葉の山竝(やまなみ)は白日のもと不徳
 かなしきは武士の道
 かそけくぞ活きむ

   昭和□年二月十五日
   楷第六四八二部隊長内
          壱百九拾五名

 楷第六四八二部隊   部隊 々長  長宗我部 勝

    香川出    三七
    徳島出    四八
    高知出    二七     
    愛媛出    六五
    兵庫出    一八
        計一九五名

       協賛龍河洞保存会
       会長 岡村隆夫

 発企人  佐藤 新平  上田 照馬  井関 一之  西岡 一樹 西岡 常雄  岡林 貞夫  福留 義信  舛谷 豊
 世話人   千頭 寅安  青木輝夫   今岡 与平  新谷 敦夫  大畑 元吉  石本 恒美  浜川 年信  筒井 庄一 山崎  耕作   相原 政夫   二神   満   清水  聖   松井 龍一 村上  輝雄    青木 絹一   倉岡栄太郎   福島 俊雄  岡崎 信快

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