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2012.10.26

石碑から読み解く高知の戦争 六 この調査で私が発見したこと

 この調査で私が発見したことを何点かのべます。
 第一は、高知県下には日清戦争以降のそれぞれの時期についての石碑があり、これを調査し、分析することによって、それぞれの時期に石碑をつくった人々の戦争への考え方を浮きぼりにすることができるということです。
 第二は、これらの石碑のほとんどが侵略戦争を肯定し、促進する立場でつくられているということです(例外は高知市三里墓地公園の「納骨塔」)。
 第三は、本土決戦期に高知に駐屯した軍隊の石碑がいくつかあるということです。これによって、これらの部隊が、どこで、どんなことをしていたのかという一端を知ることができます。
 第四、戦後のアメリカ軍などの占領期に、地域の人たちがつくった戦争の碑が各地で隠された、そして、そのなかのいくつかは、のちに復活して別の所に建立されているということがわかりました。
 これまでに紹介したみもののほかに、以下の事例があります。
 ○ 大野見村の大野見中央国民学校の校庭の一隅の忠霊墓地にあった乃木大将の「義勇奉公」の石碑、東郷元帥筆の「皇国荒廃在此一戦角印一層奮励努力」の石碑も「戦後、進駐軍の命令により撤去を余儀なくされたのであった。」(「」内は大野見村史編纂委員会編『大野見村史』。一九五六年十月三十日)。二つの碑は倒され、そのほとりの地中になかば埋められていました。「戦後十年、学校側[大野見中央小学校]側の強い要望もあって、村教育委員会と民生委員会の共同提案の形で、部落長会にも諮り、招魂社への移転再建の漸く定まり」(『大野見村史』)、中山の招魂社への二つの石碑の移転再建がなり、一九五五年十月三十一日、除幕式がおこなわれました。 
  ○ 須崎町では、一九二六年、須崎八幡宮に日露戦争記念碑が建立されました。須崎町から日露戦争に出征した六十五人の中で生き残った人たちが話し合って建てたものです。しかし、アジア太平洋戦争が終わって、「米軍の進駐に先立ち土台からとれはずされ、[十二年余も]土中にうめられたま人々に忘れ去られていた……」。しかし、「復古調花やかな最近になって神社総代の坂本猛猪氏さんから『埋めた場所を覚えているので掘出しては…』と話が持ち出された。」(高知新聞、一九五七年十二月十四日付の「くろしお」)。さっそく一九五七年十二月十一日朝から十二人の氏子総代が土中から、この石碑を掘り出し元の姿にかえしました。
 第五、戦火で壊れた戦争碑が戦後修復されて、あらたな意味あいを付けくわえられて復活しています(永野修身生誕の地の碑)
 戦後、高知県でも反戦詩人を表彰した石碑、陸海軍の飛行機の追撃や墜落事故をいたむ石碑、アメリカの空襲の犠牲者をいたむ碑、二度と侵略戦争をしないという思いを刻んだ石碑などができていますが、数量的には、侵略戦争を肯定してきた碑をうわまわっているとはいえません。

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