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2012.10.19

〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ①  「神聖にして侵すべからず」の人の支配のもとで

 高知の生んだ反戦詩人・槇村浩(本名・吉田豊道)の歩みを年表風にまとめました。その意図は、大元帥である天皇の御代、軍事強国の日本を賛美する唱歌をつくる少年だった吉田が、いつ、どういうことを契機に、その考えを変えて天皇の戦争に反対する、反戦をうたう青年詩人になったのか。その足取りをたどりたいということです。(引用文の中の[]のなかは引用者のつけた読み仮名です)。

 ・一八八九年二月十一日、大日本帝国憲法発布。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬[そうらん]シ此[こ]ノ憲法ノ条規ニ依[よ]リ之ヲ行フ」(第四条)、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(第五条)、「天皇ハ法律ヲ裁可シ其[そ]ノ公布及執行ヲ命ス 」(第六条)、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第十一条)、「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(第十二条)、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第十三条)。
 ・同年十月二十四日、朝鮮が、凶作のためコメの輸出を禁止する防穀令を出します。日本が武力を背景に撤回させます。
 ・一八九〇年十月三十日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)を渙発(天皇が詔書・勅語などを発すること)。絶対主義的天皇制のもとでの「皇民教育」の基本原理を示したもので、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」と説いています。
 ・一八九四年二月十五日、朝鮮で甲午農民戦争が始まります。
 ・同年七月二十三日、日本軍が朝鮮王宮を占領(ソウル)、朝鮮軍を武装解除しました。
 ・同月二十五日、日本軍、豊島沖で清の軍艦を攻撃しました。
 ・同年八月一日、大日本帝国が清に宣戦布告しました(日清戦争)。
 ・一八九五年一月、大日本帝国が尖閣列島の魚釣島、久場島を沖縄県の管轄とすることを決めます。
 ・同年四月十七日、日清講和条約調印。遼東半島、台湾、澎湖列島の大日本帝国への割譲。
 ・同年十月八日、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、李氏朝鮮の第二十六代国王・高宗の王妃であった閔妃を殺害しました。
 ・一八九六年三月三十一日、台湾総督府条例公布。
 ・同年四月、大日本帝国が、尖閣列島を八重山郡に編入します。
 ・一九〇四年二月八日、日露戦争がはじまりました。朝鮮半島と満洲南部を主戦場とした大日本帝国とロシア帝国との戦争です。
 ・同月二十三日、日韓議定書を調印。日本の朝鮮への内戦干渉を認めさせました。
 ・同年八月二十二日、第一次日韓協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなりました。
 ・一九〇五年一月二十八日、大日本帝国は閣議で竹島を日本領とし、島根県所属にすることに決定しました。
 ・同年九月五日、日露講和条約調印。日本が遼東半島租借権、南満州鉄道権益、サハリン南部などを獲得。
 ・同年九月、日本軍が龍井三合の対岸の会寧(いまは北朝鮮)に進入しました。
 ・同年十月、会寧に日本軍守備隊が進駐しました。
 ・同年十一月十七日、第二次日韓協約調印。これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となりました。
 ・同年十二月二十一日、第二次日韓協約にもとづいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国は漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府を設置しました。韓国統監は韓国に駐剳する軍(韓国守備軍)の司令官に対する指揮権を有していました。初代総監は伊藤博文です。
 ・一九〇六年八月二十七日、大日本帝国が、朝鮮での植民地事業をすすめるための国策会社をつくる東洋拓殖株式会社法を公布しました。
 ・同年十月、イ・サンソンが朝鮮族の後代教育のために龍井に瑞旬書塾という学校をつくりました。その後、ここには、たくさんの学校ができました。
 ・同年八月、龍井に日本人会を設立。
 ・同年十一月二十六日、大日本帝国は南満州鉄道株式会社を設立しました。
 ・一九〇七年七月二十四日、第三次日韓協約締結。大日本帝国が朝鮮の内政権を奪い、軍隊を解散させました。
 ・同年八月十九日、朝鮮人保護を名目に斉藤中佐率いる日本軍が龍井に進駐。日本は、龍井村に韓国総監府臨時間島派出所を設置しました。
 ・一九〇九年九月四日、大日本帝国と清が間島協定を結びます。この協定で、大日本帝国は清の間島領有権を認めます。いっぽう、朝鮮人の間島での居住権、間島総領事館を龍井に開設し警察官を駐在させる権利、吉林と朝鮮の会寧を結ぶ鉄道の施設権を入手します。
 ・同年十月二十六日午前、大朝鮮国黄海道海州生まれのキリスト教徒で「大韓義軍」の組織者の安重根(一八七九年九月二日生まれ)が、ハルビン駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤博文・韓国統監に近づき発砲、銃弾三発が伊藤に命中し、伊藤は半時間後に死亡しました。狙撃後、安重根は ロシア語で「コレヤ ウラー!(韓国万歳)」と叫びました。
 ・同年十一月二日、大日本帝国は、龍井に間島日本総領事館を設置しました。代表総領事に鈴木要太郎。局子街(いまは延吉)に間島日本領事館分室を置きます。
 ・一九一〇年八月二十二日、日本軍の圧力のもとで韓国併合条約の調印。八月二十九日、大日本帝国は、韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するための官庁・朝鮮総督府をつくりました。庁舎は京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮敷地内に設置しました。韓国統監府を前身とし、旧大韓帝国の政府組織を改組・統合したため朝鮮人職員を多く抱えていましたが、枢要なポストは、ほぼ日本人が握っていました。初代総督は寺内正毅。朝鮮総督は天皇によって勅任され、委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権や王公族および朝鮮貴族に関する権限を持っていました。
 ・一九一一年二月、会寧に日本風の町名・本町、銀座通り、大川町、明治村、栄町、若松町、旭町、敷島町、六和町、祝町、北新地。日本人の数は八百五十余人(一九一三年四月現在)。
 ・一九一二年六月一日、吉田豊道が、高知市廿代町八十九番屋敷に生まれました。本籍・高知市比島町七十八番地(のち比島七百三十八番地)。父・才松、母・丑恵。「父才松は三重県の出身、九星学を専攻し周易を業とする。母は高知市弘岡町一三〇番地屋敷の野村束稲、熊の長女として生まれる。野村家は土佐藩の下級武士、三人扶持六石、束稲は戊辰の役に出征、のち近衛連隊の下士官を経て高知県営林局の官吏となる。丑恵は産婆を業としている。豊道は出産予定日より二八日早く生まれたため、牛乳を五倍にうすめて母乳の不足を補った。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』。新日本出版社。一九六四年十月十日 初版)。
 ・同年八月七日、朝鮮総督府が土地調査令を制定。
 ・一九一三年、「誕生日前後、言葉のまだいえない頃から字にたいする感覚がすぐれていた。たとえば自分の名豊道とかいた団扇[うちわ]を使っていた。カルタなどの人物の名前もよく判じた。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九一四年、「母に背負われて街筋の看板の字をよんだりした。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・同年八月一日、ドイツがロシアに宣戦布告。八月三日、ドイツがフランスに宣戦。八月四日、イギリスがドイツに宣戦。八月六日、ロシア、オーストリア開戦。八月十一日~十二日、フランス、イギリスがオーストリアに宣戦。
 ・同年八月二十三日、日本が世界大戦に参戦。九月二日、山東半島に上陸、十一月七日、青島占領。十月、赤道以北のドイツ領南洋群島を占領。
 ・一九一五年~一九一六年、「高知市楠病院で待合室においてある医学雑誌を音読していたのを医師の横山鉄太郎(耳鼻咽喉科医)がみて驚いた。」(貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌 槇村浩詩集』)。
 ・一九一七年十一月七日、ロシアで十月社会主義革命がおこりました。第二回全ロシア・ソビエト大会で「平和についての布告」(無併合、無賠償の平和提案をふくむ)、「土地にかんする布告」を可決し、人民委員会議(議長・ウラジーミル・レーニン)を組織。
 ・同年月十一月十五日、ソビエト人民委員会議が「ロシア諸民族の権利宣言」を発表(分離と自決権をふくむロシア諸民族の平等と主権を宣言)。
 ・同月、ソビエト・ロシアがポーランドの独立を承認。
 ・同年十二月、ソビエト・ロシアがフィンランドの独立を承認。
 ・一九一八年八月二日、大日本帝国政府がシベリア出兵を宣言。
 ・同年十一月四日、吉田の父が胃がんで死亡。
 ・一九一九年三月一日、朝鮮で三・一運動がおこります。この日午後、仁寺洞の泰和館に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げ、万歳三唱をしました。参加者は、三十三人。この三十三人は逮捕されたものの、本来、独立宣言を読み上げるはずだったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後、市内をデモ行進しました。道々、「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったといいます。以降、運動は朝鮮半島全体に広がり、数か月にわたって示威行動が展開されました。これに対し、朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たりました。
 ・同月十三日、龍井では三・一三デモがおこなわれました(延辺の龍井市に「三・一三反日義士陵」(龍井市三・一三殉難義士悼念整備委員会。一九九〇年五月十九日建立)があります。裏側につぎのような意味の文章が刻み込まれ、犠牲者十七人の名前が続いていました。「一九一九年三月十三日、延辺地区の朝鮮人民が、日本帝国主義の朝鮮、中国への侵略政策に抵抗して反日デモに立ちあがった。民族独立の民衆の最初の革命闘争である。」)

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