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2012.11.17

戦争と平和をテーマにした歌のなかで 好きな歌、苦手な歌

 ● 好きな歌三首

 ①けふこの日汗にしみたる防空着を洗う井戸辺に露草あをし

 宮本百合子さん(一八九九年二月十三日~一九五一年一月二十一日)が一九四五年八月十八日、網走刑務所に入れられていた夫・宮本顕治さん(一九〇八年十月十七日~二〇〇七年七月十八日。松山高等学校、東京帝国大学出身)に出した手紙にしたためられていたものです(『宮本百合子全集』。新日本出版社)。
 この手紙には「八月十五日」のことが書かれています。
 「十五日正午から二時間ほどは日本全土寂(じゃく)として声莫(こえな)しという感じでした。あの静けさはきわめて感銘ふこうございます。生涯忘れることはないでしょう」
 そして、そのあとに、この短歌がしるされていました。
 もうアメリカ軍機の空襲はないでしょう。彼女は、その日、「八カ月ぶり」に自分の「あのおなじみのお古の防空着」を洗いました。
 十月になって治安維持法でとらわれていた人々が釈放されることになりました。九日午後四時、宮本顕治さんは網走刑務所から解き放たれ、東京に向かいました。そして、十四日、東京の駒込林町の弟・国男宅の二階に住んでいた百合子のもとに帰ってきます。
 宮本百合子は、この八月十五日のことを戦後、小説『播州平野』でも書いています。

 十五日は、おそめの御飯が終るか終らないうちにサイレンが鳴った。
「小型機だよ! 小型機だよ!」
 十二歳の伸一が亢奮(こうふん)した眼色になって、駈けだしながら小さい健吉の頭に頭巾をのせ、壕へつれて入った。三日ばかり前この附近の飛行場と軍事施設とが終日空爆をうけたときも、来たのは小型機の大編隊であった。
「母さん、早くってば! 今のうち、今のうち!」
 小枝が病弱な上の女の児を抱いて一番奥に坐り、一家がぎっしりよりかたまっている手掘りの壕の上には夏草が繁っていた。健吉が飽きて泣きたい顔になると、ひろ子はその夏草の小さい花を採って丸い手に持たせ、即席のおはなしをきかせるのであった。この日は、三時間あまりで十一時半になると、急にぴたりと静かになった。
「変だねえ。ほんとにもういないよ」
 望遠鏡をもって、壕のてっぺんからあっちこっちの空を眺めながら、伸一がけげんそうに大声を出した。きのうまでは小型機が来たとなったらいつも西日が傾くまで、くりかえし、くりかえし襲撃されていたのであった。
「珍しいこともあるものねえ」
「昼飯でもたべにかえったんだろう。どうせ又来るさ」
 そんなことを云いながら、それでも軽いこころもちになって、ぞろぞろ壕を出た。そして、みんな茶の間へ戻って来た。
「御飯、どうなさる? 放送をきいてからにしましょうか」
 きょう、正午に重大放送があるから必ず聴くように、と予告されていたのであった。
「それでいいだろう、けさおそかったから。――姉さん、平気かい?」
「わたしは大丈夫だわ」
 伸一が、柱時計を見てラジオのスイッチ係りになった。やがて録音された天皇の声が伝えられて来た。電圧が下っていて、気力に乏しい、文句の難かしいその音声は、いかにも聴きとりにくかった。伸一は、天皇というものの声が珍しくて、よく聴こうとしきりに調節した。一番調子のいいところで、やっと文句がわかる程度である。健吉も、小枝の膝に腰かけておとなしく瞬(まばた)きしている。段々進んで「ポツダム宣言を受諾せざるを得ず」という意味の文句がかすかに聞えた。ひろ子は思わず、縁側よりに居た場所から、ラジオのそばまで、にじりよって行った。耳を圧しつけるようにして聴いた。まわりくどい、すぐに分らないような形式を選んで表現されているが、これは無条件降伏の宣言である。天皇の声が絶えるとすぐ、ひろ子は、
「わかった?」と、弟夫婦を顧みた。
「無条件降伏よ」
 続けて、内閣告諭というのが放送された。そして、それも終った。一人としてものを云うものがない。ややあって一言、行雄があきれはてたように呻いた。
「――おそれいったもんだ」
 そのときになってひろ子は、周囲の寂寞(せきばく)におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。寂(せき)として声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。東北の小さい田舎町までも、暑さとともに凝固させた深い沈黙は、これ迄ひろ子個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間でなくて、何であったろう。ひろ子は、身内が顫(ふる)えるようになって来るのを制しかねた。

 ②送らじなこの身裂くとも教へ児を/理(ことわり)もなき戦(いくさ)のにはに

 竹本源治さん(高知県池川町生まれ。山林地主の三男。一九一八年一月二十八日~一九八〇年五月二十四日)の作品です。高知県教員組合(一九四七年九月二十一日結成)同組合の雑誌『るねさんす』四十二号(一九五一年十一月発行)に掲載されています。
 竹本さんは、高知県の池川青年学校を出て、一九四四年、地元の瓜生野(うりうの)国民学校で教壇に立ちます。
 一九四五年六月、応召し陸軍歩兵二等兵に。幼いときから頭に入った皇国史観のまま「神州不滅」と日本の勝利を信じていました。戦友が「戦艦陸奥が海に爆沈した。この目で見た」といっても「陸奥は、どこかに温存されている」と思っていました。
 そうしたアジア太平洋戦争中のみずからへの反省が、この詩、短歌を生みました。  
 竹本さんは、戦後の一九四七年、教師に復職し、高知県池川町(いまは吾川郡仁淀川町)の池川中学校、弘岡中学校(のち春野町立春野中学校)などで社会科と国語を教えました。
 当時は、の池川中学校の教諭でした。
 竹本さんは、同誌四十四号(五二年一月発行)に詩「戦死せる教え児よ」を発表しています。

 逝いて還らぬ教え児よ
 私の手は血まみれだ!
 君を縊(くび)つたその綱の
 端(はし)を私も持つていた
 しかも人の子の師の名において
 嗚呼!
 「お互いにだまされていた」の言訳が
 なんでできよう
 慚愧(ざんき) 悔恨 懺悔(ざんげ)を重ねても
 それがなんの償いになろう
 逝つた君はもう還らない
 今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
 涙をはらつて君の墓標に誓う
 「繰り返さぬぞ絶対に!」

 竹本さんは、越知町の片岡小学校校長を最後に七八年三月、退職。二年後に死去しました。
 その十年後の一九九〇年六月、高知県管理職教員組合結成二十五周年を記念して、高知市の城西公園の西側に「戦死せる教え児よ」の詩碑(自然石。高さ約二メートル、幅約一・八メートル)が建立されました。
 二〇〇五年十一月三日、仁淀川町用居(もちい)の竹本さんの生家の庭に義弟の竹本嗣夫(たけもと・つぎお)さんが「送らじな‥‥」の石の歌碑(縦八十センチメートル、横一メートル)を建立しました。

 ③徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも

 石井百代(ももよ)さん(一九〇三年一月三日~一九八二年八月七日)が、一九七八年この短歌を詠んだのは七十五歳のときでした(同年九月十八日付朝日新聞「朝日歌壇」に掲載)。
 福田赳夫首相が有事立法の研究を指示した情勢のもとで詠まれました。
 選者の近藤芳美さんは選評で「…『母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも』という結句にかけてなまなましい実感を伝えるものがある。一つの時代を生きて来たもののひそかな怒りの思いであろう」と書きました。
 戦争中は東京都に住み、三男四女の母でした。夫・正(ただし)さんは軍医としてマニラに。病弱だった大学一年生の長男・立(たつ)さんは火薬廠(しょう)に動員されます。二男は陸軍幼年学校、士官学校、航空士官学校を経て外地に。戦後、立さんが出版社に勤め労働組合運動に参加するようになり、その影響もあって夫婦は進歩的な考えを持つようになります。
 一九五一年四月、夫は、静岡県相良町(さがらちょう。現・牧之原市)で耳鼻科の医院を開業。百代さんは、夫と一緒に読書会、映画研究会に入って地元の青年たちと交流。夫婦で日本共産党後援会の世話役もしました。一九六九年八月に夫が亡くなってから、東京都世田谷区に住むようになりました。
 「徴兵は…」の短歌が発表されてから「しんぶん赤旗」記者が百代さんにインタビューしたとき「私は兄、おい、二人のいとこ、義弟を戦死させています。息子は病気で徴兵をまぬがれましたけど…」「でも私はあの戦争を聖戦と思い込んで、息子を戦争に差し出そうとしていたんです」と語っていました。
 罪ほろぼしのつもりで、と百代さんは女性の団体「草の実会」で平和問題などの学習をすすめます。そのなかで知った有事立法の動き。この短歌は体を張ってでも孫たちを戦場には送らないという彼女の決意でした。この歌は草色のスカーフに白く染め抜かれ、人々の口から口へと伝えられました。当時、自民党政府は有事立法に踏み切ることはできませんでした。

 ● 苦手な歌三首

 み戦(いくさ)の詔書の前に涙落つ代(よ)は酷寒に入る師走にて

 水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ

 子が乗れるみ軍船(いくさぶね)のおとなひを待つにもあらず武運あれかし

 一九四一年十二月八日、大元帥・昭和天皇は「米英両国に対する宣戦の詔書」を発表しました。これをラジオで聞いた与謝野晶子さん(一八七八年十二月七日~一九四二年五月二十九日)が、この戦争開始の宣言に「おう」とこたえて詠んだものです。
 一九四二年一月号の『短歌研究』の「宣戦の詔勅を拝して」という特集に載りました。
 「四郎」というのは晶子さんの四男・昱(いく)さん(一九一三年四月二十一日生まれ。元の名は、アウギユスト)のことです。
 これらの短歌は、彼女が明治天皇の侵略戦争・日露戦争のさなか、『明星』第九号(一九〇四年九月一日発行)に発表した詩「君死にたまふこと勿(なか)れ (旅順の攻囲軍の中に在る弟を歎きて)」の立場とはかなり違い

 (前略)
 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出(い)でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣(けもの)の道(みち)に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大(おお)みこヽろの深ければ
 もとよりいかで思(おぼ)されむ
 (後略)

 この与謝野晶子さんの「君死にたまふこと勿(なか)れ」の詩について、高知市出身の詩人・歌人・随筆家・評論家・大町桂月さん(おおまち・けいげつ。一八六九年三月六日生まれ)が、「国家観念を藐視(ないがしろ)にしたる危険なる思想の発現なり」(『太陽』一九〇四年十月号の「雑評録」)と、攻撃します。
 このののしりに与謝野晶子さんは「さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候」「歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。…」と、のべます。『明星』一九〇四年十一月号の「ひらきぶみ」です。
 しかし、これを、よく読むと、彼女が「引きながら」反論していることがわかります。
 わざわざ日露戦争にたいする「非戦論」を展開している週刊社会主義新聞「平民新聞」の人たちとは関係ないんですよとしている点。
 「畏(おそれ)おほき教育御勅語(ごちよくご)」などと書いて、この戦争を推進している明治天皇に逆らっているわけではないのですよという点。
 「御国のために止(や)むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈」っているんですよとしている点。
 「ひらきぶみ」といいながら半ば屈服したものになっているのです。
 これが後々の彼女の弱点になっていきます。
 一九一二六年十二月二十五日、大正天皇が亡くなります。息子の裕仁が天皇に即位し、昭和と改元します。
 このことが彼女に大きな影響を与えます。
 「無題」ですが、こんな詩をつくっています。
 一九二七年の正月をうたった詩です。

 (前略)
 我等は陛下の赤子(せきし)、
 唯だ陛下の尊を知り、
 唯だ陛下の徳を学び、
 唯だ陛下の御心(みこゝろ)に集まる。
 陛下は地上の太陽、
 唯だ光もて被(おほ)ひ給ふ、
 唯だ育み給ふ、
 唯だ我等と共に笑み給ふ。
 (後略)

 「陛下の赤子」ということですから、昭和天皇のやることには何でも賛成ということになります。
 日本が中国東北部の満州に決定的な支配権をうちたてようと画策していた中の一九二八年五月五日から六月十七日まで与謝野晶子さんは、夫・寛さんと満州、モンゴルを旅行します。中国東北部侵略の先兵の役割を果たしていた日本の国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)の招待でした。
 彼女は、一九三二年六月の「日本国民 朝の歌」(『日本国民』別巻「日本女性」)からは、大日本帝国、戦争がんばれの詩や歌をどんどん書くようになります。

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