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2012.11.13

高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山四回目、五回目【写真一枚】。近所の女性の話も。

 十一月十二日午後、三十代の男性と二人で南国市の明見の山へ。
 新しいものは二つ目の兵舎あとの上のタコツボだけでした。

 十一月十三日午後、左手の入山口から登りました。
 すぐ右に壕の潰れた跡。
 もっと登ると左手にごっそり掘りこんだ跡。その上のはずれた所に横穴壕がありました。

Photo

 降りてきてから、もっと左手の神社の所から登りました。
 三つ潰れた壕がありました。

 この日は地域の女性から戦争中の、ここいらの話を聞くことができました。
 一九三一年十二月生まれで、一九四五年四月からは土佐高等女学校の二年生でした
 <私の家は、明見公民館の近くでした。
 その私の家の離れの六畳二間に高知海軍航空隊の二十二分隊の若い兵隊が二十六人寝起きしていました。
 星神社で兵隊が起床ラッパを吹いていました。
 ラッパが鳴ると私の母が、兵隊たちを「起きないかん」と、起に行っていました。
 食事は、どこからか持ってきていました。
 しかし、量が少なくて兵隊は腹をすかしていたので、母が、いろいろ食べ物をつくって、こっそり上げていました。
 そんなこともあり、兵隊たちは、うちの母を「お母さん、お母さん」と慕っていました。
 兵隊たちの日常は、朝食をとって山に壕を掘りに行って夕方、わが家に帰ってくるというくりかえしでした。
 山のすそのところで若い兵隊が下士官に腰を殴られていました。太い棒をつかっていました。
 父が、「もう、そればあたたいたら上等や。もうやめないかん」と、とめにはいっていました。
 二十二分隊は、途中で佐川へ行きました。
 そのあと、わが家には二分隊がやってきました。
 高知市の播磨屋橋の近くの、いまのパチンコビルの東に南海ホテルがあり、二分隊の下士官たちが、休暇のとき、そこに泊まっていました。
 七月四日のアメリカ軍の高知空襲のとき、私は、いま駐車場の上にある壕に入りました。そこは、うちらに木を使っていました。
 焼け出された南海ホテルのおかみさんと家族十人くらいが二分隊の下士官の縁で、うちに泊まることになりました。
 それで二分隊の兵隊は、私の家から出て行きました。>

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