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2012年12月

2012.12.01

高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山八回目。 【その①】 一号壕は五つの壕でなっています。壁面の丸太も一部残っています。

高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山八回目 【その①】 一号壕は五つの壕でなっています。壁面の丸太も一部残っています。

 午前九時、現地集合でFUさんと行動開始。高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡調査です。僕は七回目の入山です。(午後二時ころまで調査しました。)
 FUさんは俊敏に歩いて横穴壕を見つけていきます。FUさんは、入ることのできるものを新たに二つ見つけました。
 入ることのできるものを、とりあえず東側から一号壕、二号壕、三号壕、四号壕、五号壕と命名して、話をすすめます。

 【一号壕】

 以下の図のようになっていました(赤が横穴壕)。

Img068

 入口からの真っ直ぐの壕は掘り止めになっていますが、堀り止めの所にダイナマイトをれるような穴があいています。

 左の壕は両側の壁面の丸太、丸太の跡がよく残っています。カスガイが刺さった丸太も複数あります。
 中に落ちていたものは以下のとおり。
 ・不明の六各形の金属製品の一部。

Photo_2

 ・カスガイ 左右二十二センチメートルのもの。

Photo_3

 ・カスガイ 左右二十センチのもの。

Photo_4

 ・がい子。

Photo_5

 ・電池のようなもの 二つ。

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高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山八回目。【その②】 二号壕の壕は一つだけで長さ十四メートル。

 【二号壕】

 一号壕の上にあります。
 高さは約二メートル、幅は一・五メートルから一・七メートルです。
 壕は一つだけで長さ十四メートル。
 入口から約十メートルの所を左に掘り進もうとしていたようです。数十センチメートル掘っています。

  

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高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山八回目。【その③】 三号壕の壁面下方に三角形の穴があります。

 【三号壕】

 以前に見つけていたものです。
 大規模な塹壕の右上にあります。

Photo_9

 以下の図のようになっています。

Photo_8

 途中、入口から見て左手の壁面の下に三角形の穴が開いていました。

Photo_10

 高さ二十センチメートル、底辺二十センチメートル、長さ一・一メートル。
 何のためのものか不明です。

 落ちていたもの。
 カスガイ 

Photo_11

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高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山八回目。【その④】 四号壕は居住区か。

 【四号壕】

 以前に見つけていたものです。

 FUさんだけが入りました。
 (僕は、ある事情で動揺していてパス。入口で待ちました)
 FUさんによると木製の水槽があるなど、居住区かも知れないとのこと。
 丸太も、よく残っているそうです。
 次回は僕も入ることにしています。

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高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山八回目。【その⑤】 五号壕があります。

 【五号壕】

 以前に見つけていた、入口もキチンと残っているものです。
 これの計測は次回にまわしました。

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高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山八回目。【その⑥】 ビールびんのあった所が各種のびんが……。

 以前、入口の右手にビールびん四本があった所をFUさんと二人で再点検。
 ごそごろビン類が出てきました。
 ・赤玉ポートワインのびん。
 ・ワカモトのびん。
 など。
 ここはビール捨て場になってたのでしょうか。

 それと新た山中で井戸を三つ見つけました。
 高知海軍航空隊のものか、どうかは不明。

 本日の調査は成果がありました。

 FUさんのおかげです。

 

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二〇一二年十二月一日 土曜日 携帯電話が水にぬれて電源が入らなくなっていました。

二〇一二年十二月一日 土曜日 携帯電話が水にぬれて電源が入らなくなっていました。

 晴れ。

 朝八時半、バイクを飛ばし南国市明見へ。
 途中、「寒い朝」をくちずさんでいました。

 http://www.youtube.com/watch?v=Ts2Lp_dIdSo

 午前九時、待ち合わせ場所にFUさん登場。ぴったしです。午後二時過ぎまで二人で戦跡調査。大成果でした。彼のパワーと技量には頭がさがります。

 僕は、頭から泥をかぶったり……と、食堂にも入れない姿になってしまいました。家に帰ってから、着ていたものリュックサックと、すべてのものを洗いました。

  携帯電話が水にぬれて電源が入らなくなっていました。どうしょう。どうするって、買いかえなければ。妻が言い放ちます。「注意一秒、……。私、お金ないわよ。あなたに借りようと思ってたくらい」。涙。涙。
 
 妻は、行ってしまいました。妻は、きょうは実家泊。

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TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は「例外なき関税ゼロ」が大原則。「そのとおり!! 志位さん、すごい」。まわりくどい議論をする人がいますが、はっきりしたほうがいい。

 〈TPP[環太平洋戦略的経済連携協定]は、2国間のFTA(自由貿易協定)と違い、「守るべきものを守れない」という仕組みになっています。
 これは「例外なき関税ゼロ」というのが大原則です。(そのことは)昨年11月の参加9カ国の会議で確認されています。最近、メキシコやカナダが参加していますが、この原則を丸のみすることが条件になっています。
 ですから、TPPに参加したら「例外なき関税撤廃」となり、農業は壊滅します。「非関税障壁」も撤廃され、医療、雇用、食の安全も危険にさらされます。
 「守るべきものは守る」ということはTPPではありえない。私たちは絶対にこれは許してはならない、絶対反対です。食料主権、経済主権を守ることが大切だと考えております。〉
 日本共産党の志位和夫委員長の発言です。
 そのとおり。

 ここにあります。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-01/2012120103_01_0.html

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えっ、「徴兵制を」の論者が、こんなにいたの!!!

http://matome.naver.jp/odai/2133061857505698401

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日本共産党、東京で六・0 こんな世論調査もあるんだね。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012120102000105.html

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2012.12.03

日本未来の党を考えるデータ

日本未来の党を考えるうえでのデータです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-02/2012120202_05_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-02/2012120202_03_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-03/2012120302_03_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-03/2012120301_01_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-03/2012120304_01_1.html

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日本維新の会を考えるうえでの最新データ

 日本維新の会を考えるうえでの最新データです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-11-27/2012112702_02_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-11-27/2012112702_03_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-11-30/2012113002_01_0.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-11-30/2012113002_04_0.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-01/2012120102_01_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-01/2012120104_04_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-02/2012120202_01_1.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-02/2012120202_04_1.html

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【ニュース】「日本共産党の改革ビジョン」、ここにあります。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-11-27/2012112709_01_0.html

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北千島、南千島、色丹島、歯舞群島の返還のために いま、なすべきことは何か。

「tisima.doc」をダウンロード

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2012.12.04

すごい。本共産党のコマーシャルが進化していました。

  ある人が日本共産党のコマーシャルの内容を教えてくれました。見てみたら、すごい。本共産党のコマーシャルが進化していました。

日本共産党CM 原発:電球編
http://www.youtube.com/embed/wCAI_3LXKKc?rel=0

日本共産党CM 消費税:おでん編
http://www.youtube.com/embed/9QwNlKzmigE?rel=0

日本共産党ネットCM 「米軍基地・シーサー」編
http://www.youtube.com/embed/zJNgsnf5qmU?rel=0

日本共産党CM 消費税:文鳥編
http://www.youtube.com/embed/cgc53zKqobU?rel=0

日本共産党CM TPP:牛肉編
http://www.youtube.com/embed/swnW-MCshSo?rel=0

日本共産党ネットCM TPP:おにぎり編
http://www.youtube.com/embed/hGsqyy2vK68?rel=0

日本共産党ネットCM 「原発・ヤドカリ」編
http://www.youtube.com/embed/9qJy87uPmpI?rel=0

日本共産党ネットCM 「米軍基地・クマノミ」編
http://www.youtube.com/embed/-2Ni344lbyY?rel=0

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「学舎(まなびや)のガラス窓から見る星は……」。夜間2年制短期大学の灯を守り、発展させましょう。「ひがち」になっています。

高知短期大学専攻科の学生・藤原義一(65歳)です。

学舎(まなびや)のガラス窓から見る星は集う学生(なかま)の生き様に似て

映画「窓辺に燃ゆる夕日影-高知短大で学ぶ」の学友の短歌です。「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会ブログに、この映画があります。

http://blog.goo.ne.jp/yaxtupari/e/46a0f357d53288205469f08b13148832

 高知県議会の多数派・自民党などと教育に冷淡な知事が高知短期大学を解体しようとしています。

 8月19日に結成された「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会は、「200字メッセージ」運動を始めました。「高知には夜間の2年制大学が必要です」のメッセージを多くの方々からいただき、ブログにも掲載させていただき、知事などにも渡し、夜間2年制短期大学の灯を守り、発展させる力にしたいという趣旨です。

 みなさまのお気持ちをお寄せいただけませんでしょうか。メッセージは、

 bqv01222@nifty.com

 に、どうぞ。

 タイトル                     

 お名前                      

 肩書(お仕事、役職名など)               

 ご住所(市町村名のみ)               

 メッセージ

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2012.12.05

二〇一二年十二月二日 日曜日 「それは昨日でしたよ」。

二〇一二年十二月二日 日曜日 「それは昨日でしたよ」。

 晴れ、雨。

 高知短期大学の高知知っちゅう会の研修旅行に参加。

 携帯電話の修理のため携帯電話の店に。
 「なおりません。データはとれます。保険にかかっていますので約五千円で前と同じものを四日午後二時以降にお渡しできます」

 午後七時前、親睦会の会場に到着。
 店の女性に「席はどこでしょうか」。
 「えっ、それは昨日でしたよ」

 知人に電話して二人で軽く「親睦会」をして帰りました。

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二〇一二年十二月三日 月曜日 千島問題についてのリポートを執筆。

二〇一二年十二月三日 月曜日 千島問題についてのリポートを執筆。

 晴れ、雨。

 午前十時からの「作業」に参加。みんな仕事が速い。

 午後二時ころから千島問題についてのリポートを執筆。

 夜は高知短期大学専攻科の授業。

 あす朝からの「作業」の準備。

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二〇一二年十二月四日 火曜日 機上作業練習機・白菊の気化器(キャブレター)へ空気を供給するための空気取入れ口でした。

二〇一二年十二月四日 火曜日 機上作業練習機・白菊の気化器(キャブレター)へ空気を供給するための空気取入れ口でした。

 晴れ。

 衆議院議員選挙公示。

 朝から「作業」でバイクで走り回りました。終わって妻と食堂でデート、昼食に近い朝食をとりました。

 午後一時、平和資料館・草の家に高知海軍航空隊の隊員だったIさん(大阪市在住) が来られました。
 草の家にあった飛行機の機体の一部を見てくれました。
 機上作業練習機・白菊の気化器(キャブレター)へ空気を供給するための空気取入れ口だそうです。空気は気化器へ入り、ガソリンと混合させ、過給器装置へ送り込む所です。

 夜は高知短期大学専攻科の授業。

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二〇一二年十二月五日 水曜日 高知県における風船爆弾の気球づくりの論文が、ついに形をなしました。

二〇一二年十二月五日 水曜日 高知県における風船爆弾の気球づくりの論文が、ついに形をなしました。

 晴れ。

 六日の南国市明見の調査のことでメール。
 七日の高知県津野町での調査のことで打ち合わせ。
 八、九両日の松山市での短歌のつどいのことで打ち合わせ。

 懸命な資料集めのすえ、高知県における風船爆弾の気球づくりの論文が、ついに形をなしました。
 これから急いでやること。
 ①写真を一部取り直していいものにし、追加もする。
 ②引用文献に当たりなおして精査する。
 締め切りは十九日、USBで。
 終わるとつぎの論文にかかります。

 六日締切の原稿二本の下書きをしました。

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ポツダム宣言の「八」を読む。

 ポツダム宣言の「八」は、以下のとおりです。
 <八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ>
 このうち、「諸小島」を無視する議論があります。
 要注意。
 注意深く聞く必要があると思いました。

 http://www.youtube.com/watch?v=6CuQs200L7o

 http://www.youtube.com/watch?v=1tXm1lQzp1g
 

 【参考】

 ポツダム宣言

 千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

 一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
 二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
 三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
 四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
 五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
 六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
 七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
 十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
 十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
 十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
 十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

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2012.12.06

高知県南国市の明見(みょうけん)の山の戦争遺跡 入山九回目。四号壕の水槽と坑木の写真です。

 十二月六日午前十時から午後零時半、高知海軍航空隊の隊員だったIさんと高知県南国市の明見(みょうけん)の山に行きました。
 この間入れなかった四号壕に入りました。
 以下、そのなかの水槽と坑木です。

Photo

Photo_2

Img067

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二〇一二年十二月六日 木曜日 原稿を二つ書いてメールで送信。

二〇一二年十二月六日 木曜日 原稿を二つ書いてメールで送信。

 晴れ。

 毎日、日経、高知の各紙が各党の衆院議席獲得数の予想。
 がんばらねば。

 午前十時集合で高知海軍航空隊の隊員だった人と明見の山に登りました。

 大津バイパスのナンコクスーパーのとこの喫茶店で日替わりランチを食べました。
 おいしい。
 ここは二回目ですが、二回ともいい味でした。

 午後二時、会議。

 原稿を二つ書いてメールで送信。

 「作業」。

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2012.12.08

二〇一二年十二月七日 金曜日 墜落した彩雲機の残骸がある所。

二〇一二年十二月七日 金曜日 墜落した彩雲機の残骸がある所。

 晴れ。

 朝からバイクで高知県津野町へ。

  途中、昨日、平和資料館・草の家にメールで送った写真が重すぎて着いてということでUSBで渡しました。

 また、途中、「頼んだ原稿は六百六十字なのに六百字しかない。書き直して。それと、ここも直して」の電話。

 NIさん宅にうかがって松山海軍航空隊の彩雲機の墜落現場周辺にあんないしていただき、「そのとき」を目撃した女性のお話をうかがいました。
 村人が彩雲機の残骸を岩の割れ目に入れたといいます。
 そこを探しあてたい。

 帰り。冷い。
 途中で防寒の上下を買いました。

 帰りに宮城県の地震のニュースを知り、血相を変えて情報収集。

  情報収集先で、前から会いたかった人と会えました。うれしい。

 家に帰ってから原稿を書き直して、送信。

 そして、九日の集い用の原稿の校正作業。うーーーん。

 以下、写真は、ツィッターにアップしました。

 グラマンの 群に向かって 彩雲が 突っ込み落ちた 現場の石碑

 高知県津野町の山中にある「三魂之碑」です。右手の金属のものは松山海軍航空隊の彩雲機の部品です。

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2009/08/post-9fd3.html

 「ストップ!」の 号令受けてか 落ちる水 凝固しており 山道のわき

 高知県津野町の山中のシーンです。

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2012.12.10

二〇一二年十二月八日 土曜日 ネットの南国市明見の映像。

二〇一二年十二月八日 土曜日 ネットの南国市明見の映像。

 晴れ。

 朝、校正したゲラをファクスで届ける。

 午前中、平和資料館・草の家の受付。

 午後、高速バスで松山市へ。

 ネットで南国市明見の戦争遺跡のことを取り上げてくれているそうです。それを見たという高松市のKOさんから、そのうち行きたいとの電話がありました。

 日本歌人クラブの交流会。
 ホテルの同室は徳島の人と。

 ネットの南国市明見の映像です。
 
 http://www.youtube.com/watch?v=uqmhDIP8Gbw

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二〇一二年十二月九日 日曜日 松山市で日本歌人クラブ・四国ブロック主催の第二回短歌セミナー。

二〇一二年十二月九日 日曜日 松山市で日本歌人クラブ・四国ブロック主催の第二回短歌セミナー。

 晴れ。

 ホテル同室の人に「若い人を短歌の仲間に」の努力を聞きました。
 ・『徳島短歌』は、ある高校の文芸部顧問の協力を得て、高校生の短歌作品を集め、歌誌に毎号、作品を載せている。
 ・心の花は、インターネット歌会をやっている。参加するにはパスワードがいる。載った短歌に不特定の人が批評を寄せている。
 ・愛媛の人は公民館の夜の短歌教室の講師をやっている。この時間帯だと働いている人が来る。

 日曜の テレビ討論 十二人 「ようけおつて、わからん」の声

 午前十時半から松山市で日本歌人クラブ・四国ブロック主催の第二回短歌セミナー。
 トークセッションのテーマは「好きな歌・苦手な歌」。パネリスト・三井英美子さん、野村千恵子さん、眞部孝司さんと僕。コーディネーター・川又和志さん。
 女性二人による短歌の朗読がありました。
 バックに音楽も入れて、いい感じ。
 前田夕暮についての長澤ちづさんの講演。
 短歌大会。選評・長澤ちづ、久保田登、吉田みのる、西岡瑠璃子、兵藤なぎさ、京元公子の各氏。

 夜、夜間の短期大学は必要の仲間たちとの交流。

 Uさんに明見の戦争遺跡について話を聞いていただきました。

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2012.12.12

【本土決戦準備】 高知県山北村、山南村の陸軍護土(ごど)部隊

  陸軍護土(ごど)部隊の動きが、高知県の山北小学校昭和二十二年卒業生記念同窓会編集部編『心のふるさと 山北小学校卒業五十周年記念誌』(一九九七年三月)に載っています。
 以下、その記念誌の「『国民学校』時代を振り返る 学校と村とその時代」から。

 山北小学校は一九四一年四月から山北村国民学校となっていました。
 一九四五年五月初めから第百五十五師団(護土部隊)第四百五十二連隊所属の高木中隊(約百二十人)が山北村、山南村に駐屯しました。
 その本部兵舎に山北村国民学校の南校舎東半分があてられ、六十人が宿泊しました。
 二十人が、山北村の民家に寄留しました、
 四十人は、山南村に駐留しました。
 この中隊の主な任務は、本土決戦に備えて、当面、富家の山に陣地を築くこと(壕掘り)でした。
 このため山北村国民学校では教室が大幅に圧縮され、配置替えをしてました。一部の児童は産業組合二階のに出教室で授業を受けました。
 運動場も半分は使えなくなり、足洗い場も兵士の飯盒(はんごう)の洗い場
なりました。
 これとは別に、笠原部落にも長田中隊が駐屯して、その背後の山に防衛壕掘りなどをしていました。
 壕堀り作業の帰路、立ち寄る兵士に、各農家は、乏しい食料事情のなかにも、飲み物、食べ物を供し、しばしの憩いの場を与えていました。
 村の警防団や婦人会も竹やり訓練をふくむ国防教育を実施したりしていましたが、駐屯兵士の壕堀りは延々と続き、その途上の兵士二、三人が赤尾部落でグラマン戦闘機の射撃を受けるということもあった。
 ある日の晩、「岸本に一両日に艦砲射撃がある!」との情報が村中をかけめぐり、大騒ぎになって、大慌てで荷造りをしし多くの子どもは奥地へ緊急疎開した。(じっさいには艦砲射撃はありませんでした。)

 これとは別に、TAさんが、山北の護土部隊にいたときの手帳があります。
 その手帳によるとTAさんの所属していた部隊は「丸亀 中部一四九部隊 護土二二七五部隊 浅野隊本部 幹部候補生部隊」となっています。 

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2012.12.14

従軍慰安婦問題での日本の謝罪と補償を考える その一 従軍慰安婦とは何か

 「従軍慰安婦問題での日本の謝罪と補償を考える」のテーマで書いていきます。
 その一回目に、まず大日本帝国陸海軍の従軍慰安婦とは何だったかを確かめていきたいと思います。
 ネットで見ると「デジタル記念館 慰安婦問題と女性基金」のサイトが「日本軍の慰安所と慰安婦」のテーマで書いているので、それを紹介します。事実関係についての大要だけ紹介しますので、全文と資料などの画像は、そのサイトを見てください。

 ● 慰安婦とは―慰安婦とは

 いわゆる「従軍慰安婦」とは、かっての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-00.html

 ● 慰安婦とは―慰安所の設置

 慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。(中略)
 [1931年(昭和6年)の]翌年第一次上海事変によって[満州事変の]戦火が上海に拡大されると、派遣された海軍陸戦隊の部隊は最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、飛躍的に増加します。
 陸軍では慰安所を推進したのは派遣軍参謀副長岡村寧次と言われています。(中略)

 『岡村寧次大将資料第一 戦場回想編』1970年、302-303頁

 昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
 現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-01.html

 ● 慰安婦とは―軍内部の方針と観察

 http://www.awf.or.jp/1/facts-02.html

 岡村の部下であった岡部直三郎上海派遣軍高級参謀も慰安所の組織化に働いたと言われています。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-03.html

 ● 慰安婦とは―女性たちを集める
 
 慰安所は、このような当時の派遣軍司令部の判断によって設置されました。設置に当たっては、多くの場合、軍が業者を選定し、依頼をして、日本本国から女性たちを集めさせたようです。業者が依頼を受けて、日本に女性の募集に赴くにあたって、現地の領事館警察署長は国内関係当局に便宜提供を直接求めています。
 
 上海総領事館警察署長が長崎水上警察署長に送った依頼文
 1937(昭和12)年12月21日 『資料集成』1巻36-38頁

 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関二於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室、憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ

  記

 領事館

(イ) 営業願出者ニ対スル許否ノ決定
(ロ) 慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
(ハ) 渡航上ニ関スル便宜取計
(ホ) 着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直ニ憲兵隊ニ引継クモノトス

 憲兵隊

(イ) 領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
(ロ) 営業者並稼業慰安婦女ニ対スル保護取締
 
 武官室

(イ) 就業場所及家屋等ノ準備
(ロ) 一般保健並検黴ニ関スル件

 http://www.awf.or.jp/1/facts-04.html

 朝鮮でも、警察が、日本の内地の警察と同じように、軍の依頼を受けた業者の募集を助けるさいに、警保局の1938年2月通達に従っていたかどうかは不明です。それでも最初の段階では、朝鮮からもまず「醜業婦」であった者が動員されたと考えるのが自然です。ついで、貧しい家の娘に「慰安婦」となるように説得して、連れていったのでしょう。就職詐欺もこの段階からはじまっていることは、証言などから知られています。業者らが甘言を弄し、あるいは畏怖させるなど、本人の意向に反して集めるケースがあったことも確認されています。さらに、官憲等が直接これに加担するケースも見られました。資料によれば、朝鮮からは、内地では禁じられていた21歳以下の女性が多く連れて行かれたことが知られています。中には16、7歳の少女も含まれていました。一方で、中国の慰安所には、中国人女性もいました。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-05.html

 ● 慰安婦とは―太平洋戦争と慰安所の拡大

 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争がはじまると、日本軍はシンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシアに攻め込みました。南方に占領地が拡大していくとともに、そこにも軍慰安所が設置されました。この新しい局面での南方占領地の慰安所への女性の確保については、決定的な転換がおこったようです。1942年(昭和17年)1月14日付けの外務大臣の回答によると、「此ノ種渡航者ニ対シテハ{旅券ヲ発給スルコトハ面白カラザルニ付}軍ノ証明書ニ依リ{軍用船ニテ}渡航セシメラレ度シ」とあります。外務省も、内務省と警察も関わらないところで、南方占領地への慰安婦の派遣は完全に軍が直接掌握することになったようです。
 1942年2月末ないし3月はじめに、南方総軍から、ボルネオ行き「慰安土人五〇名為シ得ル限リ派遣方」の要請が台湾軍(台湾駐屯日本軍)司令官に入りました。そこで台湾軍司令官の命令により、憲兵が調査して、3人の経営者を選定しました。3人の経営者は女性を集めて、出発しました。この件では6月に「特種慰安婦五十名」について現地到着後「人員不足」し、また「稼業ニ堪ヘザル者」が出たので、20名を増派することを了承してほしいと台湾軍から陸軍省に報告が出ています。
 同じように南方総軍から朝鮮軍(朝鮮駐屯日本軍)司令部にも朝鮮人女性を慰安婦として派遣するように要請がなされたと考えることができます。米軍の資料によれば、1942年(昭和17年)五月にビルマにおける「慰安サーヴィス」のための女性を募集するために、京城(現在のソウル、以下同じ)の陸軍司令部が業者を選定して打診したのに業者が応じています。最終的にこのとき朝鮮から出発した朝鮮人女性は703名でした。朝鮮軍は業者を選定し、募集を行わせたようです。
 京城で料理店を経営していた朝鮮人夫婦が憲兵司令部の打診に応じて、この仕事を引き受け、20人の朝鮮人女性を勧誘した事例が知られています。彼らは両親に「300円から1000円を払って、買い取った」、娘達は彼らの「単独の財産」になったと言っていますが、これは前渡し金で縛ったということでしょう。女性たちの述べたところでは、募集時の年齢は17歳1名、18歳3名、19歳7名、20歳が1名、23歳以上が8名、つまり20人中の12名が21歳未満です。1938年に日本国内での募集にさいして警保局がつけた条件が守られていないことは明らかです。
 この女性たちに「慰安婦」をもとめているとはっきり説明することはなされていないようです。女性たちの供述には次のようにあります。

 米戦時情報局心理作戦班報告書49号より 『資料集成』5巻、203頁

 「この『役務』の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だとうけとられた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った。」
 これは業者に欺かれたものであり、本人の意志に反して集められた事例にあたります。
 上記の資料からすれば、太平洋戦争期の朝鮮、台湾からの慰安婦の調達は、南方軍からの要請を受けた朝鮮軍、台湾軍が主体となって、憲兵が業者を選定し、業者が募集した女性達を、軍用船で送り出したと考えられます。もとよりこの時期も日本からの慰安婦の調達も従来通りの形でひきつづき行われていました。
 さらにフィリピンとインドネシアなどでは、地元の女性も慰安婦とされました。 インドネシアでは、倉沢愛子氏の研究によれば、居住地の区長や隣組の組長を通じて募集がおこなわれたようです。占領軍の意を受けた村の当局からの要請という形の中には、本人の意志に反して集められた事例も少なくなかったと指摘されています。
 このほかに、インドネシアでは、収容所に入れられていたオランダ人女性を連れ出して慰安所におくりこむことが行われました。その中で純粋に強制的に連行された女性は全体の3分の1から5分の1だといわれています。スマランでのケースは戦犯裁判で裁かれ、1人の日本人将校が処刑されています。
 このように都市部や軍の駐屯地につくられた業者が経営する慰安所に送り込まれ、慰安婦とされた人々のほかに、東南アジアでも、前線の部隊が、農村部の女性たちをレイプして、部隊の宿舎に連行し、屋内に一定期間監禁して、レイプをつづけるケースがあったことが確認されていいます。もっともはげしい暴力にさらされたこの被害者たちも慰安婦被害者と考えることができます。フィリピンではとくにこの形態がひろくみられました。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-06.html

  ● 慰安所と慰安婦の数
 
 慰安所はアジア全域に広がりました。昭和17年(1942年)9月3日の陸軍省恩賞課長の報告では、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ヶ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所」とあります。
 基金の資料委員会の報告書掲載の論文は、政府資料にもとづいて、中国の揚子江ぞいにあった慰安所について、上海約24、杭州4、鎮江8、常州1、揚州1、丹陽1、南京約20、蕪湖6、九江22、南昌11、漢口20、葛店2、華容鎮2、応山1、宜昌2 を数えています。以上で125です。別の資料から、少なくとも蘇州1、安慶2を加えることができます。これだけで、すでに130ヶ所に近付いています。
 さらに同じ論文は、個別のデータを総合して、純粋民間の施設も含めて、フィリピンは30ヶ所、ビルマは50ヶ所以上、インドネシアは40ヶ所以上、この3国で120ヶ所以上になると推測しています。これでも南方100ヶ所をこえています。南海方面ではソロモン島のラバウルだけで海軍の慰安所6があり、他に陸軍の慰安所もあるので、総数は20と推測されています。ラバウルだけで南海10を超えています。
 先の恩賞課長報告にはあげられていませんが、その後沖縄にも慰安所がつくられました。沖縄の研究者は130ヶ所と数えています。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-07.html

 ● 慰安所の生活
 
 慰安所は通常業者が経営管理していましたが、軍はさまざまな面で慰安所の存立、稼動に関与しました。それは現地部隊が定めた各種の管理規定にうかがえます。
 まず慰安所の建物は軍が提供したり、建設したりしました。警備は軍が行い、さらに営業時間、休業、単価も、部隊別の利用日の割り振りも軍が決めていました。慰安婦の性病検査も軍がおこなっていました。軍は管理委員を指名し、慰安所にいく者のためには、軍が利用券を発行する場合が多くみられました。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-09.html

 ● 慰安所の生活
 
 慰安所では、女性たちは多数の将兵に性的な奉仕をさせられ、人間としての尊厳を踏みにじられました。慰安所の営業時間は朝の9時ないし10時から夜おそくまで長時間にわたるものもありました。兵士相手が夕方6時まで、それから下士官相手が7時から9時まで、その他に将校相手と定められているところもありました。
 通常の慰安所の場合は、兵士は代金を直接間接に払っていたのはたしかです。それが経営者と女性の間で、折半されているのが、普通のようですが、慰安婦にされた人々に対してどのように渡されていたかははっきりしません。 
 休日は月に1回、例外的に2回で、無休というところもありました。外出も軍の許可が必要でした。(中略)
 一般に戦況の悪化とともに、生活は悲惨の度を加えました。
 戦地では常時軍とともに行動させられ、まったく自由のない生活でした。日本軍が東南アジアで敗走しはじめると、慰安所の女性たちは現地に置き去りにされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました。玉砕した人もいれば、かろうじて脱出して、連合軍に保護された人もいます。
 1945年(昭和20年)8月15日、日本の降伏で戦争が終わりました。しかし、生き残った慰安婦たちは簡単には帰国できませんでした。この人々の中には自分の置かれた境遇を恥じて、帰国できなかった人も少なくなかったことがすでに知られています。帰国することをあきらめた人々は、異郷に漂い、そこで生涯を終える道を選びました。朝鮮から中国に連れて行かれた慰安婦の人たちの中で中国にとどまった人々が1990年代になってようやく帰国できたという話が知られています。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-12.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-フィリピン

 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。
 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。
 まずマニラ(地図中-2)には、連合軍資料にある警察報告によれば、慰安所12軒、兵下士官用5軒がありました。捕虜の供述では、朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性がいる慰安所が5ないし6軒あったとされています。北部ルソン島では、バヨンボン(1)に慰安所がありました。中部ビサヤ地方では、マスパテ島(3)に軍人倶楽部という慰安所がありました。パナイ島のイロイロ市(4)には二つの慰安所があり、1942年には、第一には12人から16人、第二には10人から11人の慰安婦がいたことが確認されています。セブ島のセブ(5)には、慰安所を経営する日本人業者が一名いました。レイテ島のタクロバン(6)には、フィリピン人が経営する慰安所があり、9名のフィリピン人女性がいました。同島のブラウエン(7)にも慰安所が1944年8月までには開設されました。
 南部ミンダナオ島のブツアン(8)には1942年にフィリピン女性3名の慰安所が開設されました。また同島のカガヤン(9)には、1943年2月に第三慰安所ができたので、三つの慰安所があったことがわかります。同島中央のダンサラン(10)にも慰安所がありました。また同島のダヴァオ(11)にも、慰安所があり、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいました。
 また、フィリピンでは、軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言されています。この被害者達も慰安婦被害者と考えることができます。そのような女性の中には父や夫を目の前で殺された人も少なくありません。
 
 フィリピン政府による医療福祉支援事業の評価報告書より

 多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。
 ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。
 ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。6~7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。
 
 ロサ・ヘンソンさんの場合

 マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。
 ロサ・ヘンソンさんは、兵舎として使われていた病院に連行されました(フィリピン人元慰安婦のための弁護士委員会)。ヘンソンさんとほかの女性6人が、ここで日本兵たちに性行為を強要されたのです。その後3か月してヘンソンさんは、もとは精米所であった別の慰安所に移されました。日本軍に協力していたフィリピン人から、日本兵のために洗濯をしてやれば金を稼げると言われ、ヘンソンさんとほかの何人かの若い女性たちは洗濯をするようになりました。あるときそのフィリピン人の協力者に連れられて、2階建ての家に連れていかれました。そこには3人の日本兵が待ち構えていたのです。そこには約1年間にわたって監禁されていました。昼の間は洗濯をし、夜になるとレイプされたのです。(ロサ・ヘンソンさんの証言記録はこちら)
 ロサ・ヘンソンさんは、1944年1月、ゲリラによって救出されました。連合国の上陸によってフィリピンは日本軍の占領状態から解放されたのです。 
http://www.awf.or.jp/1/philippine-00.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-韓国

 日中戦争の過程で中国に進出した日本軍が設けた慰安所に、日本人の女性に続いて朝鮮人の女性が慰安婦として送り込まれました。戦争が太平洋・東南アジア地域に拡大すると、朝鮮人の女性はそこにも多く送り込まれました。
 朝鮮からは、まず「醜業婦」であった者が動員されたと思われます。ついで、貧しい家の娘たちが、いろいろな方法で連れて行かれたと考えられます。就業詐欺もこの段階から始まっていることは、 知られています。甘言、強圧など、本人の意思に反する方法がとられたケースについても証言があります。内地では禁じられていた21歳以下の女性が多く連れて行かれたことが知られています。中には16、7歳の少女も含まれていました。
 
 金田君子さんの場合

 金田さんはのちに牧師となる朝鮮人の父親と、日本人の母親との間に、東京で生まれました。生後すぐ実母と別れ、韓国へわたってからは一家離散の日々が続くなど生活は苦しく、家族愛にめぐまれない寂しい子ども時代を過ごしたそうです。
 1938年、金田さんが住み込みの女中として働いていた16歳のとき、「よい働き口があるから」と知り合いに勧められ、同じようにだまされ集められた女性たちとともに、中国棗強の慰安所へ送られました。必死に抵抗して日本兵に銃剣で刺された胸の傷や、へし折られた手首の傷は、死ぬまで完全に癒えることはありませんでした。現実から逃避するために吸い始めた阿片の中毒になっていた金田さんは、1945年に治療のために任務を解かれ、生きて終戦を迎えることとなりました。

 http://www.awf.or.jp/1/korea.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-台湾
   
 第二次大戦中、日本の植民地であった台湾から多くの男性が日本軍兵士や軍属として徴集され、同時に女性は「看護」や「炊事」「工場での作業」などの名目で軍や警察に召集されました。当時の台湾の人々にとって、日本軍や警察にさからうことは、生きる道を絶たれるにもひとしかったのです。
 海外では海南島、フィリピン、中国、インドネシア、ビルマなど、台湾内では各地にあった軍港や軍需工場に隣接する施設に送られ、その多くの女性が「慰安婦」として働かされました。夫や婚約者が兵士として軍に徴用されている間に被害にあった女性もすくなくありません。そういった被害者のほとんどが戦地からもどった夫に事実を打ち明けることができず、何十年間も秘密をかかえて暮らすこととなりました。

 柳本通彦著「台湾・タロコ峡谷の閃光―とある先住民夫婦の太平洋戦争」「台湾・霧社に生きる」より
 
 そのとき、わたしの婚約者は日本の兵隊にとられて、南方へ行っていました。わたしは家でお父さんの仕事を手伝っていました。そうしたら日本人の警察が呼びに来て、仕事があるから来なさいって言いました。兵隊にご飯をつくったり、破れた着物を縫ったりする仕事だと。行きたくないと思ったけれど、警察の人が、いまは戦争で男も女も国家総動員法だから来なくてはいけないと言うので、働きに行くことにしました。日本兵がたくさんいました。わたしのほかに女の人も何名かいました。わたしたちは朝起きたら顔を洗って、ご飯をつくって兵隊に食べさせ、それから洗濯して、破れた着物を縫いました。そうしたら、夜になって呼ばれて、部屋に入れられて… 悪い仕事でした。

 http://www.awf.or.jp/1/taiwan.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-オランダ

 旧オランダ領東インドは今日のインドネシアです。太平洋戦争で、日本軍はこの地を1942年に占領し、オランダ人を抑留・捕虜にしました。民間人9万人、軍人4万人が収容所にいれられたのです。
 一部の日本軍関係者は、収容所に抑留されたオランダ人女性と混血女性を慰安所に強制的に連行して、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いました。その代表的な事例がスマラン慰安婦事件です。基金の資料委員会の報告書に収められた論文によれば、1944年初頭中部ジャワのアンバラワとスマランにあったアンバラワ第4または第6収容所、アンバラワ第9収容所、ハルマヘラ収容所、ゲンダンガン収容所からオランダ人と混血女性約35人が連行され慰安婦にされました。これを推進したのは南方軍幹部候補生隊の将校たちでした。
 アンバラワ第4または第6の収容所から連行された女性の証言によると、ここでは、1944年2月23日、収容所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされ、その後1人づつ収容所事務所に出頭させられました。翌24日、20人が事務所に呼び出されました。その上で2月26日、17人が選び出され、スマラン市内の建物に連れて行かれ、同意書に署名を強要されました。同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。ハルマヘラ収容所では、11人が連行されましたが、3名が返されました。ゲンダンガン収容所では、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが選ばれるのを免れたようです。約35人の女性は、2月26日ないしはその2-3日後、スマラン市内の4箇所の慰安所に送り込まれたのです。それは、日の丸、青雲荘(または双葉荘)、スマラン倶楽部、将校倶楽部の4つです。
 これらの収容所以外では、オランダ人側が強く抵抗し、若い女性たちが連行されるのを防いだということが知られています。
 スマランの事件は、東京から収容所を視察に来た将校が、オランダ人から訴えをうけ、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられていることを知って、報告したことで、軍上層部が知るところとなりました。ジャカルタの軍司令部の命令で、慰安所は営業開始2ヶ月で閉鎖され、女性たちは解放されました。しかし、慰安所のいくつかはその後混血女性を使って同じ場所で再開されました。
 これより先、1943年12月ないし44年1月には、同じ中部ジャワのムンティラン女子収容所からも、日本軍関係者はマゲランにある慰安所に女性を集める行動に出ていました。収容所のオランダ人リーダーにバーで働くのにふさわしい若い娘の名簿を作成させました。1月25日、日本人はこの名簿の女性たちを集めて、身体検査をし、15名を選び出し、連行しました。しかし、オランダ人側が強く抵抗したため、日本側は身代わりになる志願者を出すようにいい、その結果、元売春婦であったという評判の女性たちが志願しました。再選考がおこなわれて、13人が慰安所に送られたのです。
 戦後、収容所のオランダ人を強制的に慰安所に連行していった日本軍将校たちはBC級戦犯裁判で裁かれました。1948年2月14日バタビヤ臨時軍法会議はスマラン慰安婦事件の被告13人のうち、岡田陸軍少佐に対して死刑、11人に最高20年、最低2年の禁固刑を言い渡しました。ムンティランの事例は検察側が訴追しようとしましたが、成功せず、不問に付されました。
 オランダ政府は1993年に「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」を出しています。それによると、日本軍の慰安所で働いていたオランダ人女性は200人から300人に上るが、うち65人は売春を強制されたことは「絶対確実である」とのことです。

 http://www.awf.or.jp/1/netherlands.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-インドネシア
 
 インドネシアは1942年日本軍によって占領されました。この地はオランダ領の植民地であったため、インドネシア人の中には日本軍の占領に好意をみせた人もありました。日本軍は、インドネシアにおいても各地に慰安所を設けました。
 まず最大の島スマトラ島では、北部のベラーワンに慰安所があり、インドネシア人2名と中国人6名の女性がいたという供述があります。つづくジャワ島では、バタヴィア市(現在のジャカルタ)に1942年8月第六慰安所が開設されたということが知られています。ここでは朝鮮人慰安婦7名がいました。慰安所は6ヶ所あったということになります。中部のスマランには1944年に4軒の慰安所がつくられたことが知られています。ここがスマラン事件の舞台となったところです。近くのムンティランにも慰安所がありました。西部のスラバヤでは、3軒の慰安所がありました。セレベス島には、1945年にオランダ軍法会議の要請で日本軍が作成した報告書によれば、マカッサル市内に3軒、全島では21軒の慰安所がありました。市内の3軒は、女性の数が20、30、40人であるとされています。のこり18の慰安所はおのおの慰安婦が10人以下ですが、すべてインドネシア人女性のみです。ボルネオ島には、1942年に台湾から70人の慰安婦が送り込まれています。インドネシアでは、これを単純に総計しただけでも、40ヵ所弱の慰安所があることになります。
 このような慰安所にはインドネシア人の女性が多く送り込まれました。倉沢愛子氏の研究によれば、当初は売春を生業としていた女性たちが送り込まれましたが、やがて、一般の女性たちが送り込まれました。多くは、居住地の区長や隣組の組長を通じて募集が行われたようです。当時の権力関係からして、住民は村の役人や長老には逆らえない状況であったため、「ほぼ強制に近いこともなされたのではないかと思われる」、「反強制が行われていたというのが一般的であろう」とあります。
 また倉沢氏の研究によれば、インドネシアでも、部隊が独自に女性を強制的に連行して、自分たちの駐屯地に慰安所のようなものをつくる例が見られました。西ジャワ地区に多くみられると報告されています。村から町へ働きに出ている女性が帰り道を襲われるというケース、両親が仕事で出かけて、一人で留守番をしている間にさらわれるというケースもみられます。こういう「準慰安婦」の場合、健康管理の最低の措置もなく、妊娠をふせぐコンドームの使用もなく、いかなる報酬の支払いもなかったようです。

 ● 慰安婦にされた女性たち-その他の国々

 中国は日本軍の慰安所が最初につくられたところです。その数多くの慰安所には、朝鮮人、台湾人、日本人のほか、中国人の慰安婦も多く集められていました。
 このような都市、駐屯地の慰安所とは、別に、日本軍が占領した中国の農村部において、兵士たちが村の女性をレイプし、一定の建物、場所に監禁し、レイプをつづけるということが行われたという証言があります。山西省孟県では、このような行為の被害者が名乗り出て、日本で訴訟が提起されました。
 北朝鮮でも、慰安婦とされた人々の存在が知られています。ここでは北朝鮮政府の被害調査委員会が1992年5月に発足し、調査活動を行った結果、1年後に131名の慰安婦被害者が申告し、うち34名が公開証言を行いました。2000年になると、申告した被害者の数は218名、公開証言をした者は48名と報告されています。
 この他、ビルマには現地人の慰安婦がいましたし、マレーシアにも慰安所がありました。南のミクロネシアや東チモールにも慰安婦とされた人々がいました。
 
http://www.awf.or.jp/1/othercountries.html

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「ブログ高知」、スタート。

 二〇一二年十二月十四日、このブログのタイトルを「ブログ高知」に変更しました。
 これまでは「短歌の花だより」でしたが、書いていることが、だんだんタイトルと離れていってしまって……。

 記者は、いまのところ僕ひとりです。
 ボランティアの記者募集中。
 ニュースや情報の、ご連絡はプロフィルにあるアドレスにお願いします。

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「ブログ高知」 テスト記事 二〇一三年元日の予定稿

 二〇一三年元日(火曜日)

 お元気ですか。
 明けまして、おめでとうございます。
 
 僕は、ことし二月に六十六歳になります。
 四月からは高知県の大学院に通うことになっています。
 戦争中の高知の反戦詩人のことを研究する予定です。

 この数年、「本土決戦期の高知の戦闘配置」について調べています。
 閉所恐怖症ですが、こわごわ戦争中につくられた真っ暗な横穴壕に入って「その時」を観察しています。

 短歌を詠むことにも挑戦しています。ことしは、いろいろな公募にも出してみようと思っています。

 年末に「ブログ高知」(無料インターネット新聞)を発刊しました。
 当面は「『高知には夜間の2年制大学が必要です』のメッセージ二百字メッセージを世界から」のキャンペーンを展開するつもりです。

 学舎(まなびや)のガラス窓から見る星は
 集う学生(なかま)の生き様に似て

 映画「窓辺に燃ゆる夕日影-高知短大で学ぶ」の学友の短歌です。
 「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会ブログに、この映画があります。

 http://blog.goo.ne.jp/yaxtupari

 高知県議会の多数派・自民党などと教育に冷淡な知事が僕たちが学んでいる社会科学を学ぶ夜の学び舎、高知短期大学を解体しようとしています。

 県民の会ブログによると、2012年8月19日に結成された「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会は、「200字メッセージ」運動を始めました。
 「高知には夜間の2年制大学が必要です」のメッセージを多くの方々からいただき、ブログにも掲載させていただき、知事などにも渡し、夜間2年制短期大学の灯を守り、発展させる力にしたいという趣旨だそうです。
 みなさまのお気持ちをお寄せいただけませんでしょうか。
 メッセージの宛先は、bqv01222@nifty.com です。

 タイトル                     
 お名前                      
 肩書(お仕事、役職名など)               
 ご住所(市町村名のみ)               
 メッセージ

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【短歌】わが日常

 〈学校〉

御隠居と呼ばれる歳の学生で 論文書きも体力勝負

学友の心尽くしのツバキ愛(め)で 土佐和紙語る夜のゼミ室

「ああ、これで、風船爆弾つくったか」 コンリャクのりで加工したやつ

 〈買い物〉

二食分千円以内の買い物で にんまりとして家路をたどる

「腹減った」 おかずをつくる夜のこと リュックサックを降ろしてなかった

 〈横穴壕の調査〉

照らされた壁の坑木そのままで 戦場を見る手掘り壕跡

戦争の壕に残った水槽の意味問いながらカメラにおさめる

 〈墜落機の調査〉

「ストップ!」の号令受けてか落ちる水凝固しており山道の滝

落された 海軍飛行機 残骸が 残っているらし この崖の下

 〈ビラくばり〉

「徴兵を」さけぶ党あり 平和説く ビラを担いで街に出ている

「十八の風切る娘は、どこいった」 六十五歳をしったしている

五時間のビラまき終えて へたりこむ この街中は全戸に伝えた

 〈つぎの行動〉

「この選挙、終わってからね」 いくつかの調査の約束積み上げている

論文を一つ書き上げ 展示物ひと組つくり 年を越したい

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二〇一二年十二月十日 月曜日 うーん、短歌が、短歌が……。

二〇一二年十二月十日 月曜日 うーん、短歌が、短歌が……。

 晴れ。

 月刊『高知歌人』に投稿する短歌を選びました。
 うーん、ぴたっとするものがありません。
 悩んで、やっと五首を選びました。

 夜、高知短期大学専攻科の授業。税法二科目。

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二〇一二年十二月十一日 火曜日 「香南市議会で議員が戦争遺跡保存を、市側も前向き」との報。

二〇一二年十二月十一日 火曜日 「香南市議会で議員が戦争遺跡保存を、市側も前向き」との報。

 晴れ。

 ある男性からの電話で、香南市議会で戦争遺跡保存をとの発言があったことを知りました。
 八月と九月の香南市議会で日本共産党の議員、無所属の議員が市内の砲台跡などの戦争遺跡を保存しようと提案し、市側も前向きの答弁をしているということのようです。
 うれしーーっ。

 午後一時から月刊の短歌雑誌一月号の編集実務に参加。この日は計五人で。
 急に、一月号の選評の執筆を引き受けることになりました。
 うーん。
 
 夜は高知短期大学専攻科の授業。
 一時間目に、千島問題のリポートをしました。
 しかし、おおかたの納得は得られなかったようです。
 いつしかテーマは従軍慰安婦の問題に。
 この問題、僕は勉強不足です。

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二〇一二年十二月十二日 水曜日 短歌の選評は原稿用紙で三枚半、しかし……。

二〇一二年十二月十二日 水曜日 短歌の選評は原稿用紙で三枚半、しかし……。

 晴れ。

 香南市の戦争遺跡のことで、これまで書いたものを集めました。

 短歌の選評の記事は原稿用紙で三枚半。
 しかし、なかなかまとまりません。
 苦しんでいます。

 ビラ配布。

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二〇一二年十二月十三日 木曜日 高知短期大学での地震、津波のさいの障害者やケガ人の搬送の訓練に参加。

二〇一二年十二月十三日 木曜日 高知短期大学での地震、津波のさいの障害者やケガ人の搬送の訓練に参加。

 晴れ。

 会議に参加。

 平和資料館・草の家に行って作業。夕飯の差し入れあり。

 短歌の選評の原稿を届けました。

 高知短期大学存続のための作業。

 午後五時から、高知短期大学での地震、津波のさいの障害者やケガ人の搬送の訓練に参加。参加者二十四人。

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二〇一二年十二月十四日 金曜日 ビラの全戸配布に挑戦。

二〇一二年十二月十四日 金曜日 ビラの全戸配布に挑戦。

 晴れ。

 午前十時半から午後三時半までビラまき。あと百枚あれば、わが地域の全戸に配りきれます。

  東京の六十二歳のOさんに電話。いま歴史を勉強しているとのこと。十一月二十一日に、三十一歳の娘に息子が生まれたといいます。よかったね。

  兵庫の二つ下の友人・KUさんと電話で対話。

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いま、私の好きなインターネットの記事。

 ● 9条を生かした自主自立の平和外交で、世界から信頼される日本を日本共産党の主張

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-12/2012121205_01_0.html

 ● 領土問題 日本共産党の立場

 http://www.jcp.or.jp/web_tokusyu/2012/11/vision04.html

 ● 北朝鮮の「ロケット」発射強行 日本共産党は一貫して反対し、中止のため行動

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-13/2012121301_04_1.html

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従軍慰安婦問題での日本の謝罪と補償を考える その二 「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」の到達点。

 1992年7月6日、宮沢内閣の加藤紘一内閣官房長官が「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」を発表しました。

 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kato.html

 朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表

 朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題については、昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果について配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。調査の具体的内容については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、許しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。
 政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未架に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。
 この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。 

 そして、その翌年1993年8月4日に、宮沢改造内閣の河野洋平内閣官房長官が「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を発表しました。

 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。 

 河野談話は、しっかりしたものだと思います。
 この談話は、同日に内閣官房内閣外政審議室から発表された文書「いわゆる従軍慰安婦問題について」を受けて発表されました。
 ここに全文があります。

 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/pdfs/im_050804.pdf

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2012.12.15

二〇一二年十二月十五日 土曜日 何度もね <もうよそうか>と 思ったよ ビラ数百で 五時間かかった

二〇一二年十二月十五日 土曜日 何度もね <もうよそうか>と 思ったよ ビラ数百で 五時間かかった

 曇り、晴れ、雨。

 高知民報十六日号に書かせていたただいたコラムを見たUさん(元高知海軍航空隊の隊員)から電話をいただきました。近く、お宅にうかがって当時のことをお聞きすることになりました。

 何度もね <もうよそうか>と 思ったよ ビラ数百で 五時間かかった

 「終わるまで帰らないから」 わがつまは 電話がマイク <すごいね、この人>

 午前十一時に家を出て午後四時半に家に帰りつきました。

  夜中、論文「土佐和紙の歴史の一断面 高知県でのアメリカ空爆用の風船爆弾気球づくり」の執筆。うーーーっ、締め切りが十九日に迫っています。

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2012.12.16

二〇一二年十二月十六日 日曜日 「本物を見極めるのは今だ……」の文章  衆議院議員選挙、投票してきました。

二〇一二年十二月十六日 日曜日 「本物を見極めるのは今だ……」の文章 衆議院議員選挙、投票してきました。

 晴れ。

 高知新聞の「高新文芸」の川柳の評(西川富恵さん)の「本物を見極めるのは今だ……」の文章にひきつけられました。「アンパンマンが誰からも愛されるのは、口先の正義ではなく、飢えた人に自分の顔を千切って食べさせる具体的行為、自己犠牲に貫かれているからではないか。」とも。

 朝のうちに衆議院選挙の投票に。

 水シャワー ザンブリ浴びて 急いでる 師走選挙の 投票場へ

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孝岡楚田(たかおかそでん)さんの仕事

 昨夜、香川県にいる孝岡楚田(たかおかそでん)さんと電話で話しました。
 そして、きょう、ふとインターネットを見ていたら彼の記事がいくつか見つかりました。

 アスベスト救済働きかけ
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-01-29/2007012913_01_0.html

 地震に強い学校に
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-28/2006082813_01_0.html

 東京都武蔵野市の「ムーバス」の運行
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-04-05/13_01.html

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2012.12.17

【短歌】 交戦派 四百十四 奪取して 戦後日本 音たてきしむ

交戦派 四百十四 奪取して 戦後日本 音たてきしむ

たっすいが(弱い人)の 支えになる党 一つ減り はらはらはらと 泣いてる夜中

 十七日午後四時十三分、携帯メール到着。高校の同学年で自民党支持の人です。

 「ご無沙汰です。おかげさんで大勝させて貰いました。強かったろう。」

 電話しました。

 「テレビで見ても応援しているのは中高年が多いようだが、よう勝ったのう。なんでや」

 「それは、ふところよ」

 意味深な答えでした。

 それにしても僕には、いい友だちがいっぱいいる。

 「酒なら、おまんに勝てるぜよ」

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東京女子大学の教室での戦闘機に搭載するロータリー・エンジンの流量試験。

 歌人の尾崎左永子さんへのインタビューが、しんぶん赤旗、十七日付に載っていました。

 彼女は、一九二七年、東京生まれ。東京女子大学国語科卒業。

 「勤労動員を避けて女子大に入ったものの、戦況悪化で教室では、戦闘機に搭載するロータリー・エンジンの流量試験をさせられました。」

 うーーん。

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2012.12.19

【短歌】 「憲法を 変えやすくする」 圧勝の 安部軍団の 交戦作戦

「憲法を 変えやすくする」 圧勝の 安部軍団の 交戦作戦

「入れたのにペケだったわね。まあ、食べて」 アンパン一つ差し出す女性(ひと)よ

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【衆院議員選挙の結果】 自民党は、2009年比比例代表選挙で219万票減、公明党は94万票減!!

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-18/2012121801_02_0.html

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二〇一二年十二月十七日 月曜日 忘年会は、うたごえ集会。

二〇一二年十二月十七日 月曜日 忘年会は、うたごえ集会。

 晴れ。

 風船爆弾の原稿の校正書き。

 夜、ある団体の忘年会に飛び入り参加。

 バイオリン、ギターの伴奏が入り、うたごえ集会みたいになりました。

 この間、優しい対応をしてくれたIさんに「ありがとう」の電話。

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二〇一二年十二月十八日 火曜日 高知県香南市の香我美町口西川(くちにしがわ)「のつご」の山の軍旗を焼いた所の碑、野市町上岡(かみおか)公民館の近くの上岡山のT字型の戦闘壕のあった所。

二〇一二年十二月十八日 火曜日 高知県香南市の香我美町口西川(くちにしがわ)「のつご」の山の軍旗を焼いた所の碑、野市町上岡(かみおか)公民館の近くの上岡山のT字型の戦闘壕のあった所。

 晴れ。

 午前中から九〇CCのバイクで香南市へ。

 香南市に着いてから、いつものガーデンのある食堂で食事。

 午後一時から、MAさんに香南市の戦争遺跡について教えていただきました。びっくりするような史料のコピーを三点いたただきました。うれしーーい。

 そのあと、香我美町口西川(くちにしがわ)「のつご」の山の歩兵第四五二連隊の軍旗を焼いた所の碑(山本孝男連隊長書。香我美町史談会)、上岡(かみおか)公民館の近くの上岡山のT字型の戦闘壕のあった所に案内していただきました。

 前者は戦後、しばらくたってからできたものののようです。

Photo

 後者は、岩が固いようで両壁面に縦にあったと思われる丸太の跡がくっきりと、規則的な間隔で残っていました。新年には、ここは、もう入れなくなるようです。見たい人は年内に!!!!!

Photo_2

 そのあと高知県立図書館へ。風船爆弾づくりについての三冊本を見ました。あと二冊は、あすに。

 高知短期大学専攻科の授業、一時間目は間に合いませんでした。先生、みなさん、すみませんでした。

 二時間目に滑り込みセーフ。

  暗い壕 転んでしまい ズボン切り そのまま臨んだ 今夜の授業

  ところで、僕が尊敬してやまない高知県在住の若き看護師・福井康人さんのブログを見ると、彼は、だいぶ前に、前者に到達していました。すごいよね。

http://ameblo.jp/henroisimanjyu/entry-10452109729.html

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【短歌】 万札が 診察、薬で 飛んでいき 「昼飯代は?」と 小銭数える

「立ちくらみ、家で倒れた。ムリせられん」 走り続けて いまがある友

万札が 診察、薬で 飛んでいき 「昼飯代は?」と 小銭数える

「ウオーッッ」「ガオ」 うなり声あげ いいあいこ 仲良くしたいね つれあいなのにね 

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二〇一二年十二月十二月十九日 水曜日 二人の孫娘に計二万円のお年玉、うーん……。【写真、きょうの花】

Photo_3

二〇一二年十二月十二月十九日 水曜日 二人の孫娘に計二万円のお年玉、うーん……。

 晴れ。

 「医者だけど金がない。貸して」

 妻に一万円を借りてバイクで病院へ。

 午前十時到着。

 待合室にMOさん夫婦、母親運動をやっている人、高知女子師範学校を出た人と、いろんな人がいました。

 MOさんが年末に、わが家へ来てくれることになりました。

 診療、薬代で一万円札が飛んで行ってしまいました。

 喫茶店で焼きそば定食。

 午後一時に高知県立図書館に到着。

 TAさんが来ていました。

 すごく熱のある女性職員と出会いました。高知県立図書館、人材豊富。

 数冊見ました。

 成果あり。何冊分かコピーしました。 

 コピーをもとに高知短期大学に行って論文の補強。

 五人ほどの新年会の会場を予約しました。高知市柳町の「卯の花」の二階です。会費は四千円。

 「明見」の調査、二人の男性と、一緒に行く日の約束がとれました。うれしい。

 年下の女性から声がかかりました。「ブログ見ました。で、このことを教えて」。「じゃー、調べますから」。

 一、二時間目の土佐和紙研究の授業に参加。書いた論文のデータを先生にお渡ししました。来年には、論文集が出る予定です。

 授業の途中、先輩の女性・MAさんが、すごい論文を書き上げて登場。

 足でかせいだスクープ的な内容です。

 帰ろうとすると遠くで「×(ペケ)」の身振りをする女性がいました。

 「今回も入れたのに……」

 きつい励ましでした。

 ありがとうございました。

 家に帰り着くと、妻も帰り着いたところ。いつものように年下の女性の軽トラで送ってきてもらったようです。

 妻に、いくつかの相談をもちかけると、つまはカリカリ。

 もう短気な人だねーーっ。

 東京の娘宅に電話すると「年末年始は高知には行かない」。

 孫娘に計二万円のお年玉を送ることになりました。

 妻と一万円ずつかな。

 ブログにアップ。

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2012.12.20

【本土決戦】 「婦女子はなるべく苦痛を与えぬよう、殺すメスを用意してください。」 香川県善通寺の陸軍第十一師団での四国の医師たちの戦時訓練。

 高知市の医師・乾政明(いぬいまさあき)さんの「終戦当時の思い出」という文章を読みました。
 高知県医師会史編纂委員会『高知県医師会史』(高知県医師会。一九九八年)のものです。
 一九四五年夏のことです。
 八月十三日、彼に高知県衛生課から、八月十三日に香川県善通寺の陸軍第十一師団に行って戦時訓練を受けてくるようにという通知がありました。四国全体の四日間の訓練でした。
 高知県医師会を代表して彼と佐藤忠士さん、岡崎菅夫さんが行きました。
 薬剤師会からは高知県衛生課の植田香苗さん、徳直左衛門会長、池上禎純さんが。
 歯科医師会からは島崎直省さん、高知県衛生課の森下さんら三、四人が。
 十五日には講演がありました。
 「某軍医」は、以下のようなことをいいました。
 「敵は九州から四国へと上陸するだろう。
 そのときは、みな、覚悟してください。
 四国へ上陸すれば、まず、高知県か徳島県へ上陸するだろうから、十分に注意して国民をリードしてください。
 そのときは、玉砕を覚悟せねばならん。
 それがためには、第一、婦女子はなるべく苦痛を与えぬよう、殺すメスを用意してください。
 第二、しこうして自分たちは、あとで青酸カリで自殺してください」
 講演中、午後零時に「重大ニュースがありますから……」の知らせがあったといいます。
 その結果、本土決戦はなくなりました。
 しかし、「某軍医」の講演の中身、いま読んでも背筋がゾクゾクとします。

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石に刻まれた高知の戦争 高知市柳原の「忠霊塔」わきの二つの石碑に書いてあること。日露戦争のものは、あの西森真太郎さんの文章でした。

 高知市柳原の「忠霊塔」に行きました。何回か目ですが、きょうは、そのわきの二つの石碑をじっくり読みました。

 その一つは、日露戦争のあとのものです。一部が割れて近くに落ちています。

Photo_5

Photo_6

 うわあああーっ、あの西森真太郎さんの文章でした。

 山北や大崎にも、対外戦争で天皇の威光を世界に示した、すごいぞ、すごいぞという感じの彼の文章の戦争の碑があります。

 もう一つは、大東亜戦争の半年前のものです。

Photo_7

  こんな意味でしょうか。

 あゝ、男として生きては国家を防ぎ守る軍人となり、死んでは国を守る鬼神と化することは、ほんとうに男子の本望(ほんもう)である。
 わが市[高知市]の男性たちは、かつての日露戦争[一九〇四年二月八日~一九〇五年九月五日の大日本帝国とロシア国の戦争。戦場は、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部など]にはじまって、たびかさなる海外への戦争にしたがい、戦死の名誉をえた。
 その本市出身の将校[少尉以上の武官]と兵士のために、おのおのの塋域[えいいき。お墓]をもうけ、とむらいごとをしてきた。
 しかし、それが、あちこちにあって、いまだ純粋な天皇陛下への忠誠にたいして一か所に集めてまつれないのを残念に思っていた。
 今回、支那事変[一九三七年七月からの大日本帝国の中国への戦争]になり、この地、柳原に忠霊塔をつくり、戦没将兵納骨の祭壇[さいだん]とすることになった。
 さらに、さかのぼって幕末の勤王の志士におよぶまでの人々を、ここに合葬し、これらの立派な人々の不滅の功績をずっと表彰する。
 筆山[ひつざん]の緑は青々とし、鏡川の水は豊かに流れているこの地に、すべての人があおぎ見る心がずっとかれないで続くことであろう。
 この思いを石に刻んで、これを後世に伝える。

 昭和十六年[一九四一年]六月
 高知市長 従四位勲三等 川淵洽馬(かわぶち こうま)

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二〇一二年十二月二十日 木曜日 きょうも、「ご飯は、ありますが、おかずはありません」状態。

二〇一二年十二月二十日 木曜日 きょうも、「ご飯は、ありますが、おかずはありません」状態。

 晴れ。

  「あるかえ?」と妻に聞きました。

 「ご飯は、ありますが、おかずはありません」

 僕の朝食は、朝食を食べてから四種類の薬をのむという作業があるため、かかすことができません。

 で、うどん屋に走りました。ぜいたくをして計六百余円なり。

 平和資料館・草の家の企画展のための調査で法務局へ。うーん。うまくいかない。

 草の家に行って「草の家だより」の発送作業の末席に。女性ばかり四人でやっていたところに遅れて参入しました。お茶、カキ、ぼたもちを、ごちそうになりました。

 DAさんと近くの忠霊塔を見に行きました。西森真太郎さんの書いた日露戦争の石碑があって「わおーっ」という感じでした。何度も行っているのに見過ごしていました。

 草の家で、MAさんと二人で企画展のための作業。

 ●企画展の、お知らせのビラ

 ●報道機関へのお知らせの文書

 ●企画展のタイトル。

 ●企画展のための絵図の案つくり

 家に帰りましたが、また「食べるものはなし」。くすん。飢えています。

 「お願いごと」をしていた妻が帰り着いて、いろいろ教えてくれました。

 そして、妻は、いまテレビの前……。

 やっぱり、自分で食材を買い込み、自分でつくって食べるというシステムにしないとだめですね。いそがしすぎる外食派の妻に、うっかり頼ってしまうと、僕は餓死してしまいそうです。とほほ……の、ほ。

 妻と僕の勉強部屋は二階です。

 少しの時間二階にいた妻。

 一階に降りると、妻はテレビに魂を奪われていました。妻は人生をおおらかに楽しむ(楽しみたい)タイプです。「せかせか派」の僕とはあいません。三匹のネコたちはクーラーの「熱気」の下で、たゆたっていました。おい、おい……。

 本日の、まともな食事、うどんのみ。

 これからつくるか。といっても、もう夜中なんだけど……。

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2012.12.21

二〇一二年十二月二十一日 金曜日 高知県立高知追手前高校の同学年生・前田美枝さんが亡くなりました。「ギイチ君、大丈夫?」の声が……。

二〇一二年十二月二十一日 金曜日 高知県立高知追手前高校の同学年生・前田美枝さんが亡くなりました。「ギイチ君、大丈夫?」の声が……。

 曇り、雨。

 午前九時前、FUさんの車に乗せてもらって津野町に向けて出発。

 途中、電話を受けました。関東の前田美枝さんの息子さんからでした。
 「母が十九日の夜、亡くなりました」
 ショックで心臓がパクパク鳴りはじめました。
 高知県立高知追手前高校の同学年生でした。
 音楽部にいて、音楽の苦手な僕とは別世界の存在でした。
 卒業して、しばらくしてから彼女も僕も関東に住むことになり、関東の高知県立高知追手前高校の同学年生の集まりで彼女と交流しました。
 中学校の音楽の先生をしていたといいます。
 音楽に点数はつけられないと、みんなに四を出したといいます。
 そのことで学校をやめさせられたと聞きました。
 その後、ピアノの先生をやっていました。
 写真家と結婚して愛のある暮らしをしていたと聞いていました。彼氏の花の写真は、すばらしいものでした。
 子どもたちもすくすくと、育っていると聞いていました。
 優しい人でした。
 僕が高知に帰ってからも、心も体も弱い僕を気遣って「大丈夫?」と電話をくれました。
 妻によると、彼女から「ギイチ君を大事にしちゃって」と電話をいただいたといいます。
 夫が亡くなったという電話があったあと、いつしか音信がとだえました。
 そして、きょうの息子さんからの電話です。
 もっと、じっくり話しておけばよかった。
 「ギイチ君、大丈夫?」
 その声が耳に残っています。

 げしょっとして、調査中、一緒だったNIさんには迷惑をかけました。

 高知市に帰ってから平和資料館・草の家の会議に。
 そのあと、「うたごえのつどい」。

 香川県のTAさんから電話。

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高知県香南市当局の答弁。「夜須町千切の砲台跡につきましては、測量の方を行いまして史跡指定の方向で取り組んでおります。」。

 アップされた高知県香南市議会の議事録に注目しました。
 二議員が、本会議の一般質問で同市夜須町の呉鎮守府第十一特別陸戦隊の手結(てい)砲台の保存について質問しています。
 市側の答弁は「夜須町千切の砲台跡につきましては、測量の方を行いまして史跡指定の方向で取り組んでおります。」
 うわおおーっ、すごい。
 歴史は前を向いて動いている。

 香南市議会議事録から
 2012.08.09:平成24年第42回定例会(第5日) 山崎朗議員の一般質問から

 ◯山崎朗議員 3点にわたりまして一般質問を行います。
 まず、平和行政への取り組みについてお伺いをいたします。
 ことしも広報の8月号が届けられました。毎年毎年、特に戦争の記憶を風化させないという編集委員会の強い意志を感じております。その努力に敬意を表したいと思います。
  ことしは、赤岡町の公家さん、85歳の方の従軍看護婦としての体験談が述べられておりました。その記事の中で、最後の端にこういう文章があります。「戦争 の悲惨さ、残酷さを知っているからこそ戦争は二度と繰り返してはいけないと伝えたい。今の平和の世の中が後世まで絶えることなく続くことを願ってやみませ ん」、こういうことを語られております。この国の8月には、6日があり、9日があり、15日があります。それぞれ広島、長崎、そして終戦の日であります。
  同時に、県都高知市にも7月4日の大空襲があるように、それぞれの地域ごとに、また、それぞれの各家庭ごとに戦争の傷跡、記念日がございます。先日、野崎 議員の案内をいただきまして、上岡にある被爆の碑の記念碑を見に行きました。あの上岡で昭和20年5月3日、B29による爆撃があったことが記されており ました。地区民7人、地区外1人、軍人2人、計10人が亡くなっておられます。戦後50年を経た1995年8月15日に恒久の平和を祈念して被爆の碑を建 立する旨が記されておりました。
 また、住吉海岸には、旧海軍特攻隊震洋隊の爆発事故の記念碑がございます。昭和20年8月16日6時過ぎに、一 瞬にして111人の命がとびました。毎年行われます慰霊祭も昨年の報道では、2年前からもはや生き残った元隊員の参列者はいないということであります。遺 族もわずか3人の参列であったそうでございます。参列者は減り続けております。
 そして、また昭和21年6月17日には、赤岡海岸での機雷で9人 の幼い命が奪われております。私も遠い昔にそういうことを父親たちから聞かされたような記憶がございました。戦争後、約1年して亡くなられております。5 年前の8月号の広報で、多くの市民に衝撃を与えました垣本一男さんという方の記事が載っております。「肉片が散らばり、どれがどの子かわからなくなってい た。遺族は「この帯ひもはうちの子じゃ」「頭のはげのある子はうちの子だ」と亡がらを持って帰った」ということが記事になっております。そして、また毎年 香南市主催で行われます戦没者追悼式も、昨年は出席者がわずか約250人と激減をいたしております。
 昨年の10月、そしてことし4月と夜須町の 山林の中に旧海軍砲台跡が発見されたという記事が報道をされました。夜須町のこの砲台跡は、非常に戦争遺跡として価値の高いものだと言われております。終 戦間際に米軍の本土決戦に備え旧日本海軍が築いたもので、コンクリート製の砲台跡は、県内で初めてとのことでありました。
 今、全国各地で記憶の 風化を防ぐためにこうした戦争遺跡調査や保存活動に各地の市民レベルで取り組んでおります。この夜須町の大砲の向けられた先には、旧海軍航空基地、高知龍 馬空港があります。この高知県は、土佐湾を望み、あの沖縄に続いて米軍の上陸による地上戦が行われる強い可能性があったということが報道されております。 沖縄の次にこの高知県がねらわれていたわけでございます。この夜須町の砲台跡の地権者の方は、平和教育に利用することはオッケーだという話がございます。 早急に測量も含め、看板設置あるいは保存方法への取り組みを行うべきだと思います。
 そこでお伺いをいたします。
 1点目、2点目関連を いたしておりますので同時にお伺いをいたします。南国市は、あの前浜掩体壕、これを南国市史跡に指定をしております。本市としてもこの夜須町の旧海軍砲台 跡、県内初と言われております。この砲台跡あるいは震洋艇や赤岡町海岸での機雷による子どもたちの悲劇、野市の上岡地区の爆弾投下など戦争遺跡の保存と戦 争体験の継承に取り組む責任が市にあると思います。地元地域での歴史の悲劇を踏まえ、戦争遺跡保存と戦争体験の継承にどう取り組むのか、また、将来に向け て本市の平和行政に取り組むのか、お伺いをいたします。
 また同時に、体験を正しく伝えるためには、時間が急がれております。皆さん高齢化をいたしております。資料整理、遺跡の保存方法、平和行政への取り組みを教育委員会の生涯学習課等で検討する考えはないのか、お伺いをいたします。
 ◯松木雅久教育次長 平和行政の取り組みについてお答えをさせていただきます。
 まず、戦争遺跡の 保存でございますが、本市には、議員も紹介していただきましたように野市町上岡の被爆の碑や夜須町の震洋艇の出撃地の碑を始めまして吉川町の海岸から上げ られましたグラマン戦闘機のエンジンとプロペラ、また、夜須町で最近発見されました旧海軍のコンクリート製の砲台跡など数々の戦争遺跡がございます。ま た、市の文化財センターには、戦争中の生活、また、暮らしを伝える貴重な資料も寄贈され、展示をしているところであります。このような戦争遺跡や貴重な資 料は適切に管理、保存されなければ歳月とともに風化し、戦争の悲劇を後々に残し、また伝えていくことはできなくなることから、この戦争遺跡は、埋蔵文化財 の包蔵地もしくは史跡として指定し、適切な管理のもとで保存し、後世に伝えていくべきと考えております。
 次に、戦争体験の継承でありますが、こ れまでにも8月15日の終戦記念日に合わせまして毎年広報8月号で戦争の記憶を風化させないために平和について考える特集を組みまして、市内で起こった悲 惨な出来事、また体験などを紹介しているところであります。こうした戦争での体験をされました方々もご高齢となりまして、直接語られる方も年を追うごとに 少なくなってきております。こうした方々の戦争体験を後世に伝えるためにも記録映像もしくは冊子として残していきたいと考えております。
 次に、 平和行政の取り組みでありますが、戦争遺跡、これは香南市も数々の戦争遺跡がございますが、戦争遺跡や戦争中の暮らしなどの資料を保存しまして、またそれ らを後世に残すとともに戦争の悲劇、悲惨な出来事などの体験を風化させないようしっかりと後世に伝えていく中で、児童・生徒だけではなく、多くの市民の皆 様にも平和について考えていただき、戦争のない恒久平和を願う平和学習、平和行政を教育委員会だけではなく市を挙げて取り組むことが大切であるとも考えて おるところであります。
 次に、生涯学習等での検討でありますが、これらの戦争遺跡の保存であったり、また戦争の悲惨さ、体験などを後世にしっか りと伝えていくための資料の整理また遺跡の保存、戦争体験の継承、こういった具体的な方法につきまして、またそれらの活用など平和行政への取り組み、これ につきましては生涯学習課を中心に実施してまいりたいと考えております。
 以上です。
 ◯山崎朗 議員 教育委員会のしっかりした答弁をいただきました。ありがとうございます。これが南国市教育委員会の発行している「掩体は語る」というパンフレット で、この中でも吉川村の天然色市場ですか、ここに保存されているプロペラとエンジンとかいうものもあります。また、こういう掩体物語、市民の方々がつくっ たものですけれども、当時の戦争の南国市での記録、こういうものも小冊子として書かれております。またこの掩体壕では、毎年掩体コンサートとして地元の小 学校、中学校あるいは高知センター合唱団とかいう方々が平和を願ってコンサートをやるとか、それから高知市におきましては新京橋の七夕とか、あるいは映画 とか、語りとか、そういうことが約1週間ぐらいにわたって繰り広げられております。
 市長にお伺いをいたしたいと思います。先ほど次長が述べられ ましたように、教育委員会だけの取り組みではなくて教育委員会、そして市長部局、垣根を超えた平和行政への取り組みが大事だろうと思います。この香南市は 合併してすぐに非核平和宣言都市を宣言したまちでもあります。庁舎には大きな垂れ幕が飾っております。市長の強いリーダーシップにおいて香南市として平和 行政にはしっかり取り組んでいくんだということの見解をお伺いをしたいと思います。
 また同時に、市民レベルでも今後いろんな平和行政への取り組 みを私たちは進めていきたいと思っております。ことし12月には、野市9条の会が野市の図書館を借りまして平和を願う文化祭を行います。こうした市民レベ ルでの平和を願う方々へのご支援もお願いをいたしたいと思います。そうしたことにつきましてご答弁いただきたい。
 ◯清藤真司市長 山崎議員の質問にお答えをいたします。
  香南市として平和行政への取り組みということでございますが、我々は、命のとうとさ、そして、平和の大切さということを後世に語り継いでいく、引き継いで いく、そんな義務があるんではないかと思います。そういったことで先ほど市長が申し上げましたが、教育委員会だけでなくいろんな関係機関、市も当然連携を して取り組んでいくことが大切ではないかと思います。
 また、いろんなそういった活動に対しての支援ということでございますが、今後どういった支援ができるかも含めて検討してまいりたいと思います。

 2012.09.24:平成24年第43回定例会(第2日) 野島利英議員の質問から

 ◯野島利英議員 13番 野島です。
 今回は、香南市の文化行政について質問をいたします。
 (中略)

 ◯野島利英議員 
 (中略)
 次に、夜須町千切の山中で旧日本軍の砲台跡が発見をされたと新聞等で大きく報道され、8月議会で山崎議員からも指摘もありましたが、その後、活用の計画は 進んでいるのかお尋ねします。また、吉川町に保管をされている太平洋戦争当時のグラマン戦闘機のプロペラ、エンジン、野市町上岡にある被爆の碑、南国市の 空港付近の掩体など、関連性のあるものと一緒に取り組みが必要だと思いますが、お考えを伺います。
 ◯岡本光広生涯学習課長 戦争のことを後世に語り継ぐということは、非常に意味深いことだと考えております。過日、夜須町千切の砲台跡につきましては、測量の方を行いまして史跡指定の方向で取り組んでおります。具体的には、史跡指定をする場合におきまして は、地権者の方の了解やその範囲指定の問題もございますが、今後、市の文化財保護審議会への諮問を行いまして取り組んでいきたいと考えております。活用方 法につきましては、どういう方向で進めるか、具体的にはもう少し時間をいただけたらと思います。
 また、文化財振興保護係では、毎年テーマを決め まして市内の文化財を循環する文化財めぐりという企画も行っております。吉川町に保存されているグラマンのプロペラ、エンジン、上岡の被曝の碑、また南国 市の掩体壕などの戦争遺跡につきましては、巡回して学習ということも今後企画していきたいと考えております。
 以上でございます。

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高知市の平和資料館・草の家 企画展「高天ケ原山(たかまがはらやま)の戦争 本土決戦に向けて山に陣地をつくっていた航空兵たち」 2013年1月10日(木曜日)~2月9日(土曜日)

  平和資料館・草の家 企画展

  高知の高天ケ原山(たかまがはらやま)の戦争
 本土決戦に向けて山に陣地をつくっていた航空兵たち

 2013年1月10日(木曜日)~2月9日(土曜日)

 会場:平和資料館・草の家ホール(高知市升形9-11)
 時間:午前9時~午後5時
 休館:土・日・祝
 入場無料

 高知市、南国市の境にある高天ケ原山(標高107.0m)。この山に高知海軍航空隊の航空兵たちが、1945年春から陣地をつくっていました。

 高知海軍航空隊の偵察専修の航空兵たち(いまでいえば高校生の歳です)の陸戦のための陣地です。
 アメリカ軍が高知県に上陸して来る、そのとき、横穴壕などに隠れながらたたかおうという構えでした。

 途中からヤリを担いでやってきた飛行予科練習生たちも加わりました(いまでいえば中学生の歳です)。アメリカ軍の戦車に特別攻撃をする訓練をしたといいます。

 今も、その陣地の様子が山のふもとや中腹、尾根に残っています。

 中腹には横穴壕がいくつか残っています。その1つは5つに分かれていて、長さの合計は134メートルです。中に水槽のある横穴壕もあります。この2つには、壁面を支えた丸太が、残っている所もあります。

 航空兵や飛行予科練習生たちは、いまの南国市明見(みょうけん)や高知市介良(けら)の民家や明見の兵舎に住んでいました。

 昨年11月からの平和資料館・草の家の住民たちや元航空兵たちからの聞き取りで、アメリカ軍の本土上陸を想定した「本土決戦」期の高知の、この地での状況が明かになりました。

  平和資料館・草の家の電話・088-875-1275

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2012.12.23

二〇一二年十二月二十二日 土曜日 土佐清水市のプラザパルの近くのクリスマスのイルミネーション。

二〇一二年十二月二十二日 土曜日 土佐清水市のプラザパルの近くのクリスマスのイルミネーション。
 
 晴れ。

 午後から土佐清水市へ向かいました。
 高知海軍航空隊の航空兵だった人にインタビューするためです。
 中村駅から土佐清水方面のバスの運転手は若い女性でした。
 乗客は三人。
 一人降り。
 もう一人が降り。
 プラザパルで僕も降りて……。

 プラザパルの近くのクリスマスのイルミネーションが素敵でした。
 各家々が、競っていました。

 https://twitter.com/bqv01222/status/282842059474354176/photo/1

 港の近くのビジネスホテルに泊まりました。

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二〇一二年十二月二十三日 日曜日 高知海軍航空隊の航空兵だった人にインタビュー。

二〇一二年十二月二十三日 日曜日 高知海軍航空隊の航空兵だった人にインタビュー。
 
 晴れ。

 土佐清水市で。

 港の近くのビジネスホテルで起床。
 午前八時出発。
 喫茶店を探したら、すぐ近くにありました。銭湯の二階です。
 客は中高年の男性ばかり八人。僕と同じく朝飯を食べに来ているようです。
 モーニングを注文したら、コーヒー、乳酸菌飲料、トースト、サラダ、ゆで卵が出てきました。

 プラザパルから歩いて数分の所の畑を見たら、どの畑も囲いをしています。

 https://twitter.com/bqv01222/status/282842651118673921/photo/1

 農作業をしていた女性によると、山にエサがないらしくてイノシシが荒しに来るそうです。

 午前十時前から正午過ぎまで高知海軍航空隊の航空兵だった人にインタビュー。
 ありがとうございました。

 近くのビルに、こんなポスターが張ってありました。

 https://twitter.com/bqv01222/status/282842827996663808/photo/1

 うーーん。

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2012.12.24

石川啄木父子歌碑建立三周年記念短歌大会入選作品 二〇一三年一月十三日~二十日、高知市帯屋町二丁目の商店街アーケード内で展示。

 石川啄木父子歌碑建立三周年記念短歌大会入選作品が、二〇一三年一月十三日(日曜日)から二十日(日曜日)まで高知市帯屋町二丁目の商店街アーケード内で展示されます。

 藤原義一(ふじはらよしかず)の以下の作品も、写真つきで展示されます。
 
 山中の
 戦争壕(ごう)の
 ビールびん
 敗戦知って
 乾杯したか

南国市明見(みょうけん)の山中でうたった作品です。

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二〇一二年十二月二十四日 月曜日 高知海軍航空隊の隊員だった四人とインタビュー。

二〇一二年十二月二十四日 月曜日 高知海軍航空隊の隊員だった四人とインタビュー。

 晴れ。

 『高知の戦争 証言と調査』の第十九号が発行されました

 高知海軍航空隊の隊員だった四人とインタビュー。

 ぐんぐん、わかってきました。

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『高知の戦争 証言と調査』第十九号の内容

 十二月二十四日、研究誌『高知の戦争 証言と調査』 第十九号が発行されました(二百円)。
 以下の記事が載っています。

〇白菊を「自分の棺桶だから」といった特攻兵 高知海軍航空隊の航空機整備兵として
 石田  榮
〇一九四五年夏、西部一五一部隊で戦車に飛び込む訓練をしていました
 伊藤  始
〇高知海軍航空隊の飛行場と同隊の三里と窪川の秘匿飛行場 
 藤原 義一

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【短歌】 「あんたより、もっとしつこい。この文は」…… 

「しんどいねー、生きていくのが」 つぶやけば 「最近、多いね」 妻の警告 

「あんたより、もっとしつこい。この文は」 添削しながら 打っている妻

「おにぎりを 私につくれと、いってるの?」 自分でつくれと いいたげな妻

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2012.12.26

【短歌】  「ヨイトマケ」  聴いて迎える 新年は……

「ヨイトマケ」
 聴いて迎える 新年は
 ギンギラギンで 走りぬけたい


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二〇一二年十二月二十五日 火曜日 高知海軍航空隊の隊員だった四人に電話でインタビュー。

二〇一二年十二月二十五日 火曜日 高知海軍航空隊の隊員だった四人に電話でインタビュー。

 晴れ。

 午前十時集合、午後一時までMAさん、KIさんと「明見の山」の調査。

 高知海軍航空隊の隊員だった四人に電話でインタビューしました。

東のほうのMAさんから電話で「いい知らせ」。

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二〇一二年十二月二十六日 水曜日 携帯用の「旅案内」をゲット。

二〇一二年十二月二十六日 水曜日 携帯用の「旅案内」をゲット。

 晴れ。

 年賀状を書き始めました。

 昨日、電話でインタビューしたうちの一人、TOさんに会って、お話をうかがいました。

 迷いに迷った末、携帯用の「旅案内」を買いました。

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2012.12.29

二〇一二年十二月二十八日 金曜日  「夢に出てきた 父上に 死んで 還(かえ)れと 励まされ」。ギョッ!!

二〇一二年十二月二十八日 金曜日  「夢に出てきた  父上に 死んで  還(かえ)れと  励まされ」。ギョッ!!

 雨。

 朝から黒潮町へ。
 高岡郡窪川町(いまは四万十町)宮内の高知海軍航空隊第三飛行場で一九四五年八月十五日の終戦を迎えた偵察の飛行術練習生(一九二五年一月二日生まれ)の話を聞きました。
 戦争中の話をお聞きしていると「こんな歌もあったぜよ」と、その一節をうたってくれました。
 「夢に出てきた  父上に 死んで  還(かえ)れと  励まされ」
 ギョッとしました。
 「なんぼ鬼みたいな父上でも、死んでかえれというもんが、どこにおるもんか」
 そのとおりだと思います。
 終戦の報を聞いて彼は、「おい、これでウチへ帰れるぞ。よかったねや」と喜び合ったといいます。
 家に帰って、どんな歌だったか調べました。
 一九三七年九月、コロムビアレコードから発売された軍歌「露営の歌」でした。
 この年、日中戦争が始まりました。これにあわせて、東京日日新聞と大阪毎日新聞に題号が分かれていた毎日新聞が戦意高揚のため「進軍の歌」の歌詞を公募し、薮内喜一郎(京都市役所に勤務)が傑作に入選しました。それを、北原白秋や菊池寛らが「露営の歌」と題し、古関裕而が作曲を手がけました。罪深い人たちです。

 露営の歌

 作詞:藪内喜一郎、作曲:古関裕而

 http://www.youtube.com/watch?hl=ja&gl=JP&v=lzpjBdxz5io

 一、勝って  来るぞと  勇ましく
   誓って  国を  出たからにや
   手柄  たてずに  死なれよか
   進軍ラッパ  聞く度に
   まぶたに  浮かぶ  旗の波

 二、土も  草木も  火と燃える
   果てなき曠野(こうや)  踏み分けて
   進む  日の丸  鉄兜
   馬のたてがみ  なでながら
   明日の命を  誰か知る

 三、弾丸(たま)も  タンクも  銃剣も
   しばし  露営の  草枕
   夢に出てきた  父上に
   死んで  還れと  励まされ
   覚めて睨(にら)むは  敵の空

 四、思えば 今日の  戦いに
   朱(あけ)に  染まって  にっこりと
   笑って  死んだ  戦友が
   天皇陛下 万歳と
   残した  声が 忘らりょか

 五、戦争(いくさ)する身  はかねてから
   捨てる  覚悟で  いるものを
   鳴いて  くれるな  草の虫
   東洋平和の ためならば
   なんの命が  惜しかろう

  【追伸】

 窪川駅のホームで高知短期大学に行っていたKOさんに出会いました。

 「KOです。高知に住んでるんですけど、きょうはダンナさんと一緒に窪川へ……」

 ダンナさんって?

 うしろから男性が来て彼女と手をつないで改札方向へ。

 ダンナさんって「つれあい」のことかいな。まだ二十過ぎたばかりなのに……。

 佐川駅で高知短期大学の学生自治会の執行委員だったYAさんに出会いました。

 高知駅まで彼と話して帰ってきました。

 夜、企画展の資料づくりを開始。

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二〇一二年十二月二十九日 土曜日 高知市大津の長崎の長崎山で高知海軍航空隊の隊員が手榴弾をつくっていた場所。  

二〇一二年十二月二十九日 土曜日 高知市大津の長崎の長崎山で高知海軍航空隊の隊員が手榴弾をつくっていた場所。  

 晴れ。

 高知海軍航空隊の隊員だった人と電話がつながりました。

 明見へ。

 ここで住民から貴重な話をうかがいました。高知海軍航空隊の衛兵隊のいた所がわかったのです。

 近くの理髪店へ。半年ぶりの理髪。

 ここの、ご主人から高知市大津の長崎の長崎山で高知海軍航空隊の隊員が手榴弾をつくっていた場所を教えていたただきました。

 行くと、この秋口に行って、「ここには、大きな壕の跡があるけど、何だったんだろう」と、思っていた所でした。

 年末らしい電話がいくつもかかってきました。

 ●戦争遺跡の四時間ビデオの上映について。

 ●借りていた資料を返したい。

 ●高校時代の恩師のお墓に行く件について、二人から。

 妻は実家泊。

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2012.12.30

二〇一二年十二月三十日 日曜日 「高天ケ原の戦争」の企画展の基本になる文章、第一原稿完成。 

二〇一二年十二月三十日 日曜日 「高天ケ原の戦争」の企画展の基本になる文章、第一原稿完成。  

 雨。

  「宅ふぁいる便」をいただきました。こんな便利な機能もあるんですね。

 昨日に続き、朝から「高天ケ原の戦争」の企画展の基本になる文章を作成。

 夜九時に第一原稿ができあがりました。

 妻が、『高知の戦争 証言と調査』二十号の小説の原稿を打ってくれました。感謝。

 

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2012.12.31

二〇一二年十二月三十一日 月曜日 高知県立高知追手前高校の時の恩師・間崎英夫先生のお墓に参りました。  

二〇一二年十二月三十一日 月曜日 高知県立高知追手前高校の時の恩師・間崎英夫先生のお墓に参りました。  

 晴れ。

 アメリカの知人から年賀のメールをいただきました。

 年賀状を出しました。

 高校の時の恩師・間崎英夫先生のお墓に参りました。先生の妹さん、MOさん夫婦、私たち夫婦。

 元高知海軍航空隊の隊員、十二人に手紙を出しました。

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