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2012.12.14

従軍慰安婦問題での日本の謝罪と補償を考える その一 従軍慰安婦とは何か

 「従軍慰安婦問題での日本の謝罪と補償を考える」のテーマで書いていきます。
 その一回目に、まず大日本帝国陸海軍の従軍慰安婦とは何だったかを確かめていきたいと思います。
 ネットで見ると「デジタル記念館 慰安婦問題と女性基金」のサイトが「日本軍の慰安所と慰安婦」のテーマで書いているので、それを紹介します。事実関係についての大要だけ紹介しますので、全文と資料などの画像は、そのサイトを見てください。

 ● 慰安婦とは―慰安婦とは

 いわゆる「従軍慰安婦」とは、かっての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-00.html

 ● 慰安婦とは―慰安所の設置

 慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。(中略)
 [1931年(昭和6年)の]翌年第一次上海事変によって[満州事変の]戦火が上海に拡大されると、派遣された海軍陸戦隊の部隊は最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、飛躍的に増加します。
 陸軍では慰安所を推進したのは派遣軍参謀副長岡村寧次と言われています。(中略)

 『岡村寧次大将資料第一 戦場回想編』1970年、302-303頁

 昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
 現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-01.html

 ● 慰安婦とは―軍内部の方針と観察

 http://www.awf.or.jp/1/facts-02.html

 岡村の部下であった岡部直三郎上海派遣軍高級参謀も慰安所の組織化に働いたと言われています。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-03.html

 ● 慰安婦とは―女性たちを集める
 
 慰安所は、このような当時の派遣軍司令部の判断によって設置されました。設置に当たっては、多くの場合、軍が業者を選定し、依頼をして、日本本国から女性たちを集めさせたようです。業者が依頼を受けて、日本に女性の募集に赴くにあたって、現地の領事館警察署長は国内関係当局に便宜提供を直接求めています。
 
 上海総領事館警察署長が長崎水上警察署長に送った依頼文
 1937(昭和12)年12月21日 『資料集成』1巻36-38頁

 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関二於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室、憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ

  記

 領事館

(イ) 営業願出者ニ対スル許否ノ決定
(ロ) 慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
(ハ) 渡航上ニ関スル便宜取計
(ホ) 着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直ニ憲兵隊ニ引継クモノトス

 憲兵隊

(イ) 領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
(ロ) 営業者並稼業慰安婦女ニ対スル保護取締
 
 武官室

(イ) 就業場所及家屋等ノ準備
(ロ) 一般保健並検黴ニ関スル件

 http://www.awf.or.jp/1/facts-04.html

 朝鮮でも、警察が、日本の内地の警察と同じように、軍の依頼を受けた業者の募集を助けるさいに、警保局の1938年2月通達に従っていたかどうかは不明です。それでも最初の段階では、朝鮮からもまず「醜業婦」であった者が動員されたと考えるのが自然です。ついで、貧しい家の娘に「慰安婦」となるように説得して、連れていったのでしょう。就職詐欺もこの段階からはじまっていることは、証言などから知られています。業者らが甘言を弄し、あるいは畏怖させるなど、本人の意向に反して集めるケースがあったことも確認されています。さらに、官憲等が直接これに加担するケースも見られました。資料によれば、朝鮮からは、内地では禁じられていた21歳以下の女性が多く連れて行かれたことが知られています。中には16、7歳の少女も含まれていました。一方で、中国の慰安所には、中国人女性もいました。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-05.html

 ● 慰安婦とは―太平洋戦争と慰安所の拡大

 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争がはじまると、日本軍はシンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシアに攻め込みました。南方に占領地が拡大していくとともに、そこにも軍慰安所が設置されました。この新しい局面での南方占領地の慰安所への女性の確保については、決定的な転換がおこったようです。1942年(昭和17年)1月14日付けの外務大臣の回答によると、「此ノ種渡航者ニ対シテハ{旅券ヲ発給スルコトハ面白カラザルニ付}軍ノ証明書ニ依リ{軍用船ニテ}渡航セシメラレ度シ」とあります。外務省も、内務省と警察も関わらないところで、南方占領地への慰安婦の派遣は完全に軍が直接掌握することになったようです。
 1942年2月末ないし3月はじめに、南方総軍から、ボルネオ行き「慰安土人五〇名為シ得ル限リ派遣方」の要請が台湾軍(台湾駐屯日本軍)司令官に入りました。そこで台湾軍司令官の命令により、憲兵が調査して、3人の経営者を選定しました。3人の経営者は女性を集めて、出発しました。この件では6月に「特種慰安婦五十名」について現地到着後「人員不足」し、また「稼業ニ堪ヘザル者」が出たので、20名を増派することを了承してほしいと台湾軍から陸軍省に報告が出ています。
 同じように南方総軍から朝鮮軍(朝鮮駐屯日本軍)司令部にも朝鮮人女性を慰安婦として派遣するように要請がなされたと考えることができます。米軍の資料によれば、1942年(昭和17年)五月にビルマにおける「慰安サーヴィス」のための女性を募集するために、京城(現在のソウル、以下同じ)の陸軍司令部が業者を選定して打診したのに業者が応じています。最終的にこのとき朝鮮から出発した朝鮮人女性は703名でした。朝鮮軍は業者を選定し、募集を行わせたようです。
 京城で料理店を経営していた朝鮮人夫婦が憲兵司令部の打診に応じて、この仕事を引き受け、20人の朝鮮人女性を勧誘した事例が知られています。彼らは両親に「300円から1000円を払って、買い取った」、娘達は彼らの「単独の財産」になったと言っていますが、これは前渡し金で縛ったということでしょう。女性たちの述べたところでは、募集時の年齢は17歳1名、18歳3名、19歳7名、20歳が1名、23歳以上が8名、つまり20人中の12名が21歳未満です。1938年に日本国内での募集にさいして警保局がつけた条件が守られていないことは明らかです。
 この女性たちに「慰安婦」をもとめているとはっきり説明することはなされていないようです。女性たちの供述には次のようにあります。

 米戦時情報局心理作戦班報告書49号より 『資料集成』5巻、203頁

 「この『役務』の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だとうけとられた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った。」
 これは業者に欺かれたものであり、本人の意志に反して集められた事例にあたります。
 上記の資料からすれば、太平洋戦争期の朝鮮、台湾からの慰安婦の調達は、南方軍からの要請を受けた朝鮮軍、台湾軍が主体となって、憲兵が業者を選定し、業者が募集した女性達を、軍用船で送り出したと考えられます。もとよりこの時期も日本からの慰安婦の調達も従来通りの形でひきつづき行われていました。
 さらにフィリピンとインドネシアなどでは、地元の女性も慰安婦とされました。 インドネシアでは、倉沢愛子氏の研究によれば、居住地の区長や隣組の組長を通じて募集がおこなわれたようです。占領軍の意を受けた村の当局からの要請という形の中には、本人の意志に反して集められた事例も少なくなかったと指摘されています。
 このほかに、インドネシアでは、収容所に入れられていたオランダ人女性を連れ出して慰安所におくりこむことが行われました。その中で純粋に強制的に連行された女性は全体の3分の1から5分の1だといわれています。スマランでのケースは戦犯裁判で裁かれ、1人の日本人将校が処刑されています。
 このように都市部や軍の駐屯地につくられた業者が経営する慰安所に送り込まれ、慰安婦とされた人々のほかに、東南アジアでも、前線の部隊が、農村部の女性たちをレイプして、部隊の宿舎に連行し、屋内に一定期間監禁して、レイプをつづけるケースがあったことが確認されていいます。もっともはげしい暴力にさらされたこの被害者たちも慰安婦被害者と考えることができます。フィリピンではとくにこの形態がひろくみられました。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-06.html

  ● 慰安所と慰安婦の数
 
 慰安所はアジア全域に広がりました。昭和17年(1942年)9月3日の陸軍省恩賞課長の報告では、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ヶ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所」とあります。
 基金の資料委員会の報告書掲載の論文は、政府資料にもとづいて、中国の揚子江ぞいにあった慰安所について、上海約24、杭州4、鎮江8、常州1、揚州1、丹陽1、南京約20、蕪湖6、九江22、南昌11、漢口20、葛店2、華容鎮2、応山1、宜昌2 を数えています。以上で125です。別の資料から、少なくとも蘇州1、安慶2を加えることができます。これだけで、すでに130ヶ所に近付いています。
 さらに同じ論文は、個別のデータを総合して、純粋民間の施設も含めて、フィリピンは30ヶ所、ビルマは50ヶ所以上、インドネシアは40ヶ所以上、この3国で120ヶ所以上になると推測しています。これでも南方100ヶ所をこえています。南海方面ではソロモン島のラバウルだけで海軍の慰安所6があり、他に陸軍の慰安所もあるので、総数は20と推測されています。ラバウルだけで南海10を超えています。
 先の恩賞課長報告にはあげられていませんが、その後沖縄にも慰安所がつくられました。沖縄の研究者は130ヶ所と数えています。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-07.html

 ● 慰安所の生活
 
 慰安所は通常業者が経営管理していましたが、軍はさまざまな面で慰安所の存立、稼動に関与しました。それは現地部隊が定めた各種の管理規定にうかがえます。
 まず慰安所の建物は軍が提供したり、建設したりしました。警備は軍が行い、さらに営業時間、休業、単価も、部隊別の利用日の割り振りも軍が決めていました。慰安婦の性病検査も軍がおこなっていました。軍は管理委員を指名し、慰安所にいく者のためには、軍が利用券を発行する場合が多くみられました。

 http://www.awf.or.jp/1/facts-09.html

 ● 慰安所の生活
 
 慰安所では、女性たちは多数の将兵に性的な奉仕をさせられ、人間としての尊厳を踏みにじられました。慰安所の営業時間は朝の9時ないし10時から夜おそくまで長時間にわたるものもありました。兵士相手が夕方6時まで、それから下士官相手が7時から9時まで、その他に将校相手と定められているところもありました。
 通常の慰安所の場合は、兵士は代金を直接間接に払っていたのはたしかです。それが経営者と女性の間で、折半されているのが、普通のようですが、慰安婦にされた人々に対してどのように渡されていたかははっきりしません。 
 休日は月に1回、例外的に2回で、無休というところもありました。外出も軍の許可が必要でした。(中略)
 一般に戦況の悪化とともに、生活は悲惨の度を加えました。
 戦地では常時軍とともに行動させられ、まったく自由のない生活でした。日本軍が東南アジアで敗走しはじめると、慰安所の女性たちは現地に置き去りにされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました。玉砕した人もいれば、かろうじて脱出して、連合軍に保護された人もいます。
 1945年(昭和20年)8月15日、日本の降伏で戦争が終わりました。しかし、生き残った慰安婦たちは簡単には帰国できませんでした。この人々の中には自分の置かれた境遇を恥じて、帰国できなかった人も少なくなかったことがすでに知られています。帰国することをあきらめた人々は、異郷に漂い、そこで生涯を終える道を選びました。朝鮮から中国に連れて行かれた慰安婦の人たちの中で中国にとどまった人々が1990年代になってようやく帰国できたという話が知られています。(後略)

 http://www.awf.or.jp/1/facts-12.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-フィリピン

 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。
 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。
 まずマニラ(地図中-2)には、連合軍資料にある警察報告によれば、慰安所12軒、兵下士官用5軒がありました。捕虜の供述では、朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性がいる慰安所が5ないし6軒あったとされています。北部ルソン島では、バヨンボン(1)に慰安所がありました。中部ビサヤ地方では、マスパテ島(3)に軍人倶楽部という慰安所がありました。パナイ島のイロイロ市(4)には二つの慰安所があり、1942年には、第一には12人から16人、第二には10人から11人の慰安婦がいたことが確認されています。セブ島のセブ(5)には、慰安所を経営する日本人業者が一名いました。レイテ島のタクロバン(6)には、フィリピン人が経営する慰安所があり、9名のフィリピン人女性がいました。同島のブラウエン(7)にも慰安所が1944年8月までには開設されました。
 南部ミンダナオ島のブツアン(8)には1942年にフィリピン女性3名の慰安所が開設されました。また同島のカガヤン(9)には、1943年2月に第三慰安所ができたので、三つの慰安所があったことがわかります。同島中央のダンサラン(10)にも慰安所がありました。また同島のダヴァオ(11)にも、慰安所があり、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいました。
 また、フィリピンでは、軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言されています。この被害者達も慰安婦被害者と考えることができます。そのような女性の中には父や夫を目の前で殺された人も少なくありません。
 
 フィリピン政府による医療福祉支援事業の評価報告書より

 多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。
 ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。
 ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。6~7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。
 
 ロサ・ヘンソンさんの場合

 マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。
 ロサ・ヘンソンさんは、兵舎として使われていた病院に連行されました(フィリピン人元慰安婦のための弁護士委員会)。ヘンソンさんとほかの女性6人が、ここで日本兵たちに性行為を強要されたのです。その後3か月してヘンソンさんは、もとは精米所であった別の慰安所に移されました。日本軍に協力していたフィリピン人から、日本兵のために洗濯をしてやれば金を稼げると言われ、ヘンソンさんとほかの何人かの若い女性たちは洗濯をするようになりました。あるときそのフィリピン人の協力者に連れられて、2階建ての家に連れていかれました。そこには3人の日本兵が待ち構えていたのです。そこには約1年間にわたって監禁されていました。昼の間は洗濯をし、夜になるとレイプされたのです。(ロサ・ヘンソンさんの証言記録はこちら)
 ロサ・ヘンソンさんは、1944年1月、ゲリラによって救出されました。連合国の上陸によってフィリピンは日本軍の占領状態から解放されたのです。 
http://www.awf.or.jp/1/philippine-00.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-韓国

 日中戦争の過程で中国に進出した日本軍が設けた慰安所に、日本人の女性に続いて朝鮮人の女性が慰安婦として送り込まれました。戦争が太平洋・東南アジア地域に拡大すると、朝鮮人の女性はそこにも多く送り込まれました。
 朝鮮からは、まず「醜業婦」であった者が動員されたと思われます。ついで、貧しい家の娘たちが、いろいろな方法で連れて行かれたと考えられます。就業詐欺もこの段階から始まっていることは、 知られています。甘言、強圧など、本人の意思に反する方法がとられたケースについても証言があります。内地では禁じられていた21歳以下の女性が多く連れて行かれたことが知られています。中には16、7歳の少女も含まれていました。
 
 金田君子さんの場合

 金田さんはのちに牧師となる朝鮮人の父親と、日本人の母親との間に、東京で生まれました。生後すぐ実母と別れ、韓国へわたってからは一家離散の日々が続くなど生活は苦しく、家族愛にめぐまれない寂しい子ども時代を過ごしたそうです。
 1938年、金田さんが住み込みの女中として働いていた16歳のとき、「よい働き口があるから」と知り合いに勧められ、同じようにだまされ集められた女性たちとともに、中国棗強の慰安所へ送られました。必死に抵抗して日本兵に銃剣で刺された胸の傷や、へし折られた手首の傷は、死ぬまで完全に癒えることはありませんでした。現実から逃避するために吸い始めた阿片の中毒になっていた金田さんは、1945年に治療のために任務を解かれ、生きて終戦を迎えることとなりました。

 http://www.awf.or.jp/1/korea.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-台湾
   
 第二次大戦中、日本の植民地であった台湾から多くの男性が日本軍兵士や軍属として徴集され、同時に女性は「看護」や「炊事」「工場での作業」などの名目で軍や警察に召集されました。当時の台湾の人々にとって、日本軍や警察にさからうことは、生きる道を絶たれるにもひとしかったのです。
 海外では海南島、フィリピン、中国、インドネシア、ビルマなど、台湾内では各地にあった軍港や軍需工場に隣接する施設に送られ、その多くの女性が「慰安婦」として働かされました。夫や婚約者が兵士として軍に徴用されている間に被害にあった女性もすくなくありません。そういった被害者のほとんどが戦地からもどった夫に事実を打ち明けることができず、何十年間も秘密をかかえて暮らすこととなりました。

 柳本通彦著「台湾・タロコ峡谷の閃光―とある先住民夫婦の太平洋戦争」「台湾・霧社に生きる」より
 
 そのとき、わたしの婚約者は日本の兵隊にとられて、南方へ行っていました。わたしは家でお父さんの仕事を手伝っていました。そうしたら日本人の警察が呼びに来て、仕事があるから来なさいって言いました。兵隊にご飯をつくったり、破れた着物を縫ったりする仕事だと。行きたくないと思ったけれど、警察の人が、いまは戦争で男も女も国家総動員法だから来なくてはいけないと言うので、働きに行くことにしました。日本兵がたくさんいました。わたしのほかに女の人も何名かいました。わたしたちは朝起きたら顔を洗って、ご飯をつくって兵隊に食べさせ、それから洗濯して、破れた着物を縫いました。そうしたら、夜になって呼ばれて、部屋に入れられて… 悪い仕事でした。

 http://www.awf.or.jp/1/taiwan.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-オランダ

 旧オランダ領東インドは今日のインドネシアです。太平洋戦争で、日本軍はこの地を1942年に占領し、オランダ人を抑留・捕虜にしました。民間人9万人、軍人4万人が収容所にいれられたのです。
 一部の日本軍関係者は、収容所に抑留されたオランダ人女性と混血女性を慰安所に強制的に連行して、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いました。その代表的な事例がスマラン慰安婦事件です。基金の資料委員会の報告書に収められた論文によれば、1944年初頭中部ジャワのアンバラワとスマランにあったアンバラワ第4または第6収容所、アンバラワ第9収容所、ハルマヘラ収容所、ゲンダンガン収容所からオランダ人と混血女性約35人が連行され慰安婦にされました。これを推進したのは南方軍幹部候補生隊の将校たちでした。
 アンバラワ第4または第6の収容所から連行された女性の証言によると、ここでは、1944年2月23日、収容所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされ、その後1人づつ収容所事務所に出頭させられました。翌24日、20人が事務所に呼び出されました。その上で2月26日、17人が選び出され、スマラン市内の建物に連れて行かれ、同意書に署名を強要されました。同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。ハルマヘラ収容所では、11人が連行されましたが、3名が返されました。ゲンダンガン収容所では、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが選ばれるのを免れたようです。約35人の女性は、2月26日ないしはその2-3日後、スマラン市内の4箇所の慰安所に送り込まれたのです。それは、日の丸、青雲荘(または双葉荘)、スマラン倶楽部、将校倶楽部の4つです。
 これらの収容所以外では、オランダ人側が強く抵抗し、若い女性たちが連行されるのを防いだということが知られています。
 スマランの事件は、東京から収容所を視察に来た将校が、オランダ人から訴えをうけ、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられていることを知って、報告したことで、軍上層部が知るところとなりました。ジャカルタの軍司令部の命令で、慰安所は営業開始2ヶ月で閉鎖され、女性たちは解放されました。しかし、慰安所のいくつかはその後混血女性を使って同じ場所で再開されました。
 これより先、1943年12月ないし44年1月には、同じ中部ジャワのムンティラン女子収容所からも、日本軍関係者はマゲランにある慰安所に女性を集める行動に出ていました。収容所のオランダ人リーダーにバーで働くのにふさわしい若い娘の名簿を作成させました。1月25日、日本人はこの名簿の女性たちを集めて、身体検査をし、15名を選び出し、連行しました。しかし、オランダ人側が強く抵抗したため、日本側は身代わりになる志願者を出すようにいい、その結果、元売春婦であったという評判の女性たちが志願しました。再選考がおこなわれて、13人が慰安所に送られたのです。
 戦後、収容所のオランダ人を強制的に慰安所に連行していった日本軍将校たちはBC級戦犯裁判で裁かれました。1948年2月14日バタビヤ臨時軍法会議はスマラン慰安婦事件の被告13人のうち、岡田陸軍少佐に対して死刑、11人に最高20年、最低2年の禁固刑を言い渡しました。ムンティランの事例は検察側が訴追しようとしましたが、成功せず、不問に付されました。
 オランダ政府は1993年に「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」を出しています。それによると、日本軍の慰安所で働いていたオランダ人女性は200人から300人に上るが、うち65人は売春を強制されたことは「絶対確実である」とのことです。

 http://www.awf.or.jp/1/netherlands.html

 ● 慰安婦にされた女性たち-インドネシア
 
 インドネシアは1942年日本軍によって占領されました。この地はオランダ領の植民地であったため、インドネシア人の中には日本軍の占領に好意をみせた人もありました。日本軍は、インドネシアにおいても各地に慰安所を設けました。
 まず最大の島スマトラ島では、北部のベラーワンに慰安所があり、インドネシア人2名と中国人6名の女性がいたという供述があります。つづくジャワ島では、バタヴィア市(現在のジャカルタ)に1942年8月第六慰安所が開設されたということが知られています。ここでは朝鮮人慰安婦7名がいました。慰安所は6ヶ所あったということになります。中部のスマランには1944年に4軒の慰安所がつくられたことが知られています。ここがスマラン事件の舞台となったところです。近くのムンティランにも慰安所がありました。西部のスラバヤでは、3軒の慰安所がありました。セレベス島には、1945年にオランダ軍法会議の要請で日本軍が作成した報告書によれば、マカッサル市内に3軒、全島では21軒の慰安所がありました。市内の3軒は、女性の数が20、30、40人であるとされています。のこり18の慰安所はおのおの慰安婦が10人以下ですが、すべてインドネシア人女性のみです。ボルネオ島には、1942年に台湾から70人の慰安婦が送り込まれています。インドネシアでは、これを単純に総計しただけでも、40ヵ所弱の慰安所があることになります。
 このような慰安所にはインドネシア人の女性が多く送り込まれました。倉沢愛子氏の研究によれば、当初は売春を生業としていた女性たちが送り込まれましたが、やがて、一般の女性たちが送り込まれました。多くは、居住地の区長や隣組の組長を通じて募集が行われたようです。当時の権力関係からして、住民は村の役人や長老には逆らえない状況であったため、「ほぼ強制に近いこともなされたのではないかと思われる」、「反強制が行われていたというのが一般的であろう」とあります。
 また倉沢氏の研究によれば、インドネシアでも、部隊が独自に女性を強制的に連行して、自分たちの駐屯地に慰安所のようなものをつくる例が見られました。西ジャワ地区に多くみられると報告されています。村から町へ働きに出ている女性が帰り道を襲われるというケース、両親が仕事で出かけて、一人で留守番をしている間にさらわれるというケースもみられます。こういう「準慰安婦」の場合、健康管理の最低の措置もなく、妊娠をふせぐコンドームの使用もなく、いかなる報酬の支払いもなかったようです。

 ● 慰安婦にされた女性たち-その他の国々

 中国は日本軍の慰安所が最初につくられたところです。その数多くの慰安所には、朝鮮人、台湾人、日本人のほか、中国人の慰安婦も多く集められていました。
 このような都市、駐屯地の慰安所とは、別に、日本軍が占領した中国の農村部において、兵士たちが村の女性をレイプし、一定の建物、場所に監禁し、レイプをつづけるということが行われたという証言があります。山西省孟県では、このような行為の被害者が名乗り出て、日本で訴訟が提起されました。
 北朝鮮でも、慰安婦とされた人々の存在が知られています。ここでは北朝鮮政府の被害調査委員会が1992年5月に発足し、調査活動を行った結果、1年後に131名の慰安婦被害者が申告し、うち34名が公開証言を行いました。2000年になると、申告した被害者の数は218名、公開証言をした者は48名と報告されています。
 この他、ビルマには現地人の慰安婦がいましたし、マレーシアにも慰安所がありました。南のミクロネシアや東チモールにも慰安婦とされた人々がいました。
 
http://www.awf.or.jp/1/othercountries.html

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