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2013年1月

2013.01.01

【ニュース】 あの感動の「ヨイトマケの唄」、ここで聴くことができます。

あの年末の感動の「ヨイトマケの唄」、ここで聴くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=p3WTKaaL7nI

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高知市発 あの藤原尋子(ふじはら・ひろこ)の年賀状です。旧姓・矢野。

 二〇一三年が、すこやかに過ごせる年となりますように。
 今年も、よろしくお願いいたします。
 紅白歌合戦での「ヨイトマケの唄」(美輪明宏さん)を聴いて、背筋がシャキッとなりました。私たちが、どこに軸足に置いて生きていくかということを考えさせられました。元日、地域の老人会の「おめでとうニュース」をつくって配布しました(老人会の会長をつとめています)。
 今年の目標=〇週一回の日本語教室(戦中に中国にいて、帰ってきた生徒さんたちとの勉強)で、いっそうわかりやすい授業をつくりたい。〇中国語の勉強では、なめらかな発音、作文ができるように。中国語で歌を、が夢。〇高知県退職婦人教職員連絡会での魅力的なおたよりづくりに励み、踊れる民踊もふやしたい。〇母親運動のすそ野を広げたい。

 (藤原尋子のこと。旧姓・矢野。高知市生まれ。六十五歳。高知市追手前小学校から広島市の天満小学校へ。中学校、高校は私立高知学園。大学は国立高知大学文理学部国文専攻。東京都の台東区、国立市、西東京市、国分寺市で公立中学校の国語教師。いまは、高知市内を自転車でシャキシャキと走り回っています。)

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自由民権運動家の中澤楠弥太の墓

 元日、妻が自由民権運動家の中澤楠弥太(なかざわ・くすやた) の墓が、わが高知市田辺島(たべしま)にあるとの情報をもたらしてくれました。
 近々、行ってみようと思っています。

http://kochi.michikusa.jp/newpage654.html

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高知県土佐清水町越(こえ)のベニア板特攻艇 NHKにデータがありました。

ある人から、資料を渡すからまとめてほしいといわれていた高知県土佐清水町越(こえ)のベニア板特攻艇 NHKにデータがありました。

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100470_00000

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2013.01.02

2013年、いい年にしたいですね。高天ケ原山の戦争、高知短期大学、反戦詩人・槇村浩……。藤原 義一

 みなさん、いい年を迎えられましたか。

  「ヨイトマケ」 聴いて迎えた 新年を エンヤコラ、よいしょと 走りぬけたい

  窓辺から じっと外見る 冬のネコ 「冷い」は苦手 この飼い主も

 わが里に 自由かかげた 人がいた 小山を歩き 足跡探す

  年明けて 近所の神社 歩いたら 戦争壕跡 二つもあったよ

 あすこそは ご近所の山 めぐろうか 戦跡探しを またはじめよう

 民間の小さな資料館、平和資料館・草の家(高知市)の学芸員、高知短期大学専攻科学生の藤原義一(ふじはら・よしかず)です。
 高知市の東の端の農村で妻、ネコ三匹(三毛のメス、白のオス、白だが顔と尾っぽに黒がまじったオス)と住んでいます。

 ☆ 企画展の準備をしながら、年を越しました。こんな企画展です。

 平和資料館・草の家 企画展
 高天ケ原山(たかまがはらやま)の戦争
 本土決戦に向けて山に陣地をつくっていた航空兵たち

 2013年1月10日(木曜日)~2月9日(土曜日)
 会場:平和資料館・草の家ホール(高知市升形9-11)
 時間:午前9時~午後5時
 休館:土・日・祝
 入場無料

 高知市、南国市の境にある高天ケ原山(標高107.0m)。この山に高知海軍航空隊の航空兵たちが、1945年3月から陣地をつくっていました。
 アメリカ軍の空襲などで翼を奪われた航空兵たちの陣地です。
 アメリカ軍が高知県に上陸して来る、そのとき、横穴壕やタコツボに隠れながらたたかおうという構えでした。
 今も、その陣地の様子が残っています。
 中腹にある横穴壕の一つは5つに分かれていて、長さの合計は134メートルです。

 ☆ 高知短期大学存続への運動への、ご協力を訴えながら、年を越しました。こんな、お願いです。

 高知短期大学は、社会科学科、専攻科をあわせて学生二百数十人の夜の学び舎です。
 「学舎(まなびや)のガラス窓から見る星は集う学生(なかま)の生き様に似て」。学友の短歌です。
 高知県知事は、合理的な理由も示さないまま、この大学を廃止しようとしています。いっぽう、「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会が昨年8月19日に結成され、私も入会しました。
 県民の会は、「200字メッセージ」運動をやっています。「高知には夜間の2年制大学が必要です」のメッセージをみなさまからいただき、ブログにも掲載させていただき、知事などにも渡し、夜間2年制短期大学の灯を守り、発展させる力にしたいという趣旨です。みなさまのお気持ちをお寄せいただけませんでしょうか。
 メッセージには【タイトル/お名前/肩書(お仕事、役職名など)/ご住所(市町村名のみ)/メッセージ】をお書きください。
 送り先は【メール】bqv01222@nifty.com か【郵送】780-0051 高知市愛宕町2-23-6 「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会 です。
 くわしくは、 「やっぱり高知には必要、夜間の短期大学」県民の会ブログ をごらんください。

 ☆ 専攻科は二つの論文を仕上げて修了です。
 私は、高知県における風船爆弾の気球づくりの詳細、石に刻まれた高知の戦争の二本を提出することになっています。
 前者は、論文集に載せていただけることになっています。

 ☆ 四月からは高知県立大学大学院人間生活学研究科の学生になります。

 論文のテーマは、高知市出身の、戦勝国日本を誇っていた少年・吉田豊道が、なぜ反戦詩人・槇村浩になっていったのかです。
 自由民権運動以来の高知の思想運動にも注目して勉強していきたいと思っています。

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二〇一三年一月一日 火曜日 夜十時、二十歳代の男性が、わが家に飲みに来てくれました。  

二〇一三年一月一日 火曜日 夜十時、二十歳代の男性が、わが家に飲みに来てくれました。  

 晴れ。

 年賀状をいたただきました。ありがとうございました。

 地域の老人会のニュースづくりを手伝いました。

 妻によると、近くのハイト神社に自由民権運動の活動家の墓があるとのこと。

 年賀状、第二弾を出しました。

 夜十時、二十歳代の男性が、わが家に飲みに来てくれました。ありがとうございました。

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二〇一三年一月二日 水曜日 企画展のパネルの原稿づくり。第一案をつくりあげました。  

二〇一三年一月二日 水曜日 企画展のパネルの原稿づくり。第一案をつくりあげました。  

 晴れ。

 朝から企画展のパネルの原稿づくり。第一案をつくりあげました。

 これに関連した手紙を二通書きました。

 近くの自由民権活動家の墓へ行きました。

 妻の年賀状づくりの手伝い。

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2013.01.03

二〇一三年一月三日 木曜日 高知市の田辺島の隼人(はいと)神社の横穴壕跡。 

二〇一三年一月三日 木曜日 高知市の田辺島の隼人(はいと)神社の横穴壕跡。   

 晴れ。

 妻と近くでやっている、あるマスコミ主催の催しに行きました。おとな一人千に百円也。

 ぐるぐるまわりましたが「なあーだー」という感じ。

 一人用ヘリコプターというのがあるというので楽しみでした。、乗って飛べるかと思ったら、子どもたちを静止した状態で操縦席に座らせるだけ。

 介護ロボットも本物があるのかと思ったのですが………。

 翻訳機がありました。

 妻が「あなたは誰?」と吹き込むと「ハンバーガーは誰」と認識して、それが、英語、中国語、ハングルで出てきました。

 彼女は僕と違って滑舌がいいのですが、機械は聞きとってくれません。あんまりだ。

 なんか「まだ、ここまでしかできないよ」という感じした。

 その後、妻とインド料理の店で食事をしたあと、近くの田辺島の隼人(はいと)神社に。

 小山の上に海軍大尉(たいい)の顕彰碑がありました。

 南側に二つ横穴壕の跡がありました。穴はふさいでいますが……。

Photo

 北側にも一つ横穴壕の跡があります。これも、ふさいでいますが。

 横穴壕は、もっとあったようです。あと二つくらい、それらしいものがあります。

 大津国民学校の陸軍の錦部隊が駐屯していたようですが、それとの関連は??

 年賀状を書きました。

 松山市のIさんに電話。高知海軍航空隊について教えていたただきました。

 彼に教えていただいた東京の男性に電話をして教えをこいました。

 家で弟と飲み会。話題は人類の発生は「一か所」でか、「同時期多発的」か。

 わが家の最年長のネコ・クニョが最年少のネコ・チビサランの毛づくろいをしてやっていました。チビサランの気持ちよさそうな顔!

 妻は、実家伯。

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2013.01.04

二〇一三年一月四日 金曜日 高天ケ原山(高知市、南国市)の高天ヶ原古墳群に行く途中の左手の斜面の二つの「サークル」。   

二〇一三年一月四日 金曜日 高天ケ原山(高知市、南国市)の高天ヶ原古墳群に行く途中の左手の斜面の二つの「サークル」。   

 晴れ。

 午前九時出発で、弟と高知市、南国市の高天ケ原山へ。
 稲荷神社の所から神主さんにあいさつして登りました。
 高天ヶ原古墳群に行く途中の左手の斜面で、こんなものを見つけました。
 石積みです。直径は、約二・七メートルでした。
 
 https://twitter.com/bqv01222/status/287127534582247424/photo/1

 少し行くと、同じく左手の斜面に同じようなものがありました。

 https://twitter.com/bqv01222/status/287127990255632385/photo/1
 https://twitter.com/bqv01222/status/287128499431542784/photo/1

 サークルの中は、枯葉が積もって浅くなっていますが、もっと深かったと思います。
 同じようなものを高知市針木の小山、工石山 、鉢伏山で見ました。
 ここに入って、機関銃などを撃つ所だと思いますが、いかがでしょうか。
 どなたか、これがなんであるかということを示す写真や図面などの資料を、お持ちではないでしょうか。

 高知海軍航空隊の隊員だったかたから、うれしいお電話をいたただきました。
 高知市役所、南国市役所に電話して高天ケ原山の件の調査を続行。
 
 企画展の写真の追加を焼いてもらいました。

 夜も企画展の準備。

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二〇一三年一月四日 つづき やっぱり、これ。百四十八ミリ×二百十ミリの大きさで百枚のノート。

二〇一三年一月四日 つづき やっぱり、これ。百四十八ミリ×二百十ミリの大きさで百枚のノート。

 夕方、高知市葛島のグランフジの二階のキタムラに写真の焼きだしにいったついでに、その階の本屋に寄りました。

 ところが、本屋がなくなって文房具屋になっていました。

 うーんと思いつつも「今年のノート」を探しました。

 やっぱり、ぴったりなのは一種類だけでした。

 百四十八ミリ×二百十ミリの大きさで百枚あるものです。

 十冊買いました。

 「2013 ①」という感じで、どの分野のことも一冊に書いていこうと思っています。

 ところで、妻と話していたら、そこの一階にブックオフが進出しているそうです。

 この街区、目まぐるしく変わっています。

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2013.01.06

二〇一三年一月五日 土曜日 高天ケ原山の戦争遺跡の価値を認めていただいて感激。

二〇一三年一月五日 土曜日 高天ケ原山の戦争遺跡の価値を認めていただいて感激。   

 曇りのち晴れ。

 専門家のDEさん、MAさんと戦争遺跡の調査のために高知市、南国市の高天ケ原山へ。価値を認めていただいて感激。
 DEさんが貴重な資料を貸してくれました。MAさんが調査先を二か所教えてくれました。

 家に帰ってから思い立って花を買いに行きました。

 ニオイツバキを四本買ってきて玄関口の鉢に植えました。

 二月には 来るという息子(こ)ら 迎えんと ニオイツバキを 植え込んでいる

 弟と庭のイチジクやヒメリンゴの木の手入れ。

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二〇一三年一月六日 日曜日 終日、「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備。

二〇一三年一月六日 日曜日 終日、「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備。   

 晴れ。

 高知海軍航空隊の隊員だったKIさんから電話をいたただきました。

 高知城の横穴壕のことについて電話をいたただきました。

 東京都の娘から電話。上の女の子の中学校受験のこと。僕は、地元の公立中学校がいいと思っているのですが……。本人はノホホンとしているのに娘だけが、あれこれと考えている感じ。

 終日、「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備。写真を焼いてもらいに行きました。説明板の文章をねりました。資料づくりをしました。企画展の広報もしました。

 明日は平和資料館・草の家で本格的な企画展の準備を開始します。夜は高知短期大学専攻科の授業が始まります。

 妻は、実家泊。

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2013.01.08

二〇一三年一月七日 月曜日 平和資料館・草の家で「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備。計四人の参加。  

二〇一三年一月七日 月曜日 平和資料館・草の家で「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備。計四人の参加。   

 晴れ。

 午前十時から午後五時過ぎまで、平和資料館・草の家で「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備。計四人の参加。展示のパネルの原稿をつくっていくMAさんの「パソコン力」のすごさ。誠実にていねいにパソコンに原稿を打ちつづけるNIさんのすごさ。勉強になります。

 お昼ごはんは水炊き。草の家の仲間たちと。

 横浜から帰った高知短期大学性のDAさんからシュウマイのお土産をいたただきました。

 夜は高知短期大学専攻科の授業。税法二科目。

 家に帰ってから『高知の戦争 証言と調査』用の原稿を一つ書きました。妻が、かなり手伝ってくれました。

 専攻科の演習の論文の手直しをしました。

 高知海軍航空隊の隊員だったTOさんから、お手紙をいただきました。

 第十三期甲種飛行予科練習生だった東京のNAさんから『高知の戦争 証言と調査』用の原稿をいたただきました。

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2013.01.09

二〇一三年一月八日 火曜日 平和資料館・草の家の「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備完了。   

二〇一三年一月八日 火曜日 平和資料館・草の家の「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備完了。   

 晴れ。

 午前十一時から午後五時過ぎまで、平和資料館・草の家で「高天ケ原山の戦争」の企画展の準備。計四人の参加。MAさん、NIさん、DAさんと一緒。ついに完成!!!

 お昼ごはんは水炊き。草の家の仲間たちと。

 夜は高知短期大学専攻科の授業。二科目。従軍慰安婦の問題でリポートをすることになりました。

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【1月13日午前中11時~午後1までも臨時に開館します】1月10日から平和資料館・草の家(高知市)で、企画展「高知の高天ケ原山(たかまがはらやま)の戦争 本土決戦に向けて山に陣地をつくっていた航空兵たち」。

企画展「高知の高天ケ原山(たかまがはらやま)の戦争 本土決戦に向けて山に陣地をつくっていた航空兵たち」。

 1月10日(木曜日)~2月9日(土曜日)
 会場:平和資料館・草の家ホール(高知市升形9-11)
 時間:午前9時~午後5時
 休館:日・水・祝
 入場無料

 高知市、南国市の境にある高天ケ原山(標高107.0m)。この山に高知海軍航空隊の航空兵たちが、1945年春から陣地をつくっていました。
 高知海軍航空隊の偵察専修の航空兵たち(いまでいえば高校生の歳です)の陸戦のための陣地です。
 アメリカ軍が高知県に上陸して来る、そのとき、横穴壕などに隠れながらたたかおうという構えでした。
 途中からヤリを担いでやってきた飛行予科練習生たちも加わりました(いまでいえば中学生の歳です)。アメリカ軍の戦車に特別攻撃をする訓練をしたといいます。
 今も、その陣地の様子が山のふもとや中腹、尾根に残っています。
 中腹には横穴壕がいくつも残っています。その1つは5つに分かれていて、長さの合計は134メートルです。中に水槽のある横穴壕もあります。この2つには、壁面を支えた丸太が、残っている所もあります。
 航空兵や飛行予科練習生たちは、いまの南国市明見(みょうけん)や高知市介良(けら)の民家や明見の兵舎に住んでいました。
 昨年11月から平和資料館・草の家のメンバーが、この山を調査し、住民たちや元航空兵たちから話を聞き、アメリカ軍の本土上陸を想定した「本土決戦」期の高知の、この地での状況が明かになりました。

  主催・平和資料館・草の家の電話・088-875-1275

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2013.01.11

二〇一三年一月九日 水曜日 高知短期大学の授業で香美市の刃物工場と酒蔵を見学。

二〇一三年一月九日 水曜日 高知短期大学の授業で香美市の刃物工場と酒蔵を見学。   

 晴れ。

 午前九時、高知駅改札前に集合。高知短期大学の授業で香美市の刃物工場と酒蔵を見学。髪を切るハサミを買ってきました。

 それが終わって家に帰って昼寝。

 夜、高知短期大学専攻科の授業。二時間続き。

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二〇一三年一月十日 木曜日 平和資料館・草の家で企画展「高天ケ原山の戦争」 スタート。  

二〇一三年一月十日 木曜日 平和資料館・草の家で企画展「高天ケ原山の戦争」 スタート。   

 晴れ。

 午前九時から高知市の平和資料館・草の家で企画展「高天ケ原山の戦争」がスタート。

 開会直後に、E放送局のスタッフ三人が取材に来てくれました。

 そして、Y新聞社の記者も取材に来てくれました。

 E放送局は、朝、夕、夜とテレビで放送。そして、ラジオでも流してくれました。

 昼過ぎから、お客さんが来始めました。

 夜は、高知短期大学へ。国際法の授業のリポートのための資料をあさりました。

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二〇一三年一月十一日 木曜日 「香川県に真珠湾攻撃に参加した航空兵がいるよ」。   

二〇一三年一月十一日 木曜日 「香川県に真珠湾攻撃に参加した航空兵がいるよ」。   

 晴れ。

 午前中から高知市の平和資料館・草の家に。展示パネルを一枚増やしました。

 K新聞の記者が取材に来てくれました。

 きょうはコアな見学者が目立ちました。

 「香川県に真珠湾攻撃に参加した航空兵がいるよ」

 「軍隊が使っていたシャベルがあるので寄贈しようか」

 「土佐農兵隊については、こんな本があるよ」

 「真珠湾攻撃……」については、さっそく電話し、そのかたから、お話を聞くことができることになりました。 

 朝はコンビニ弁当。昼はスーパーマーケットの弁当。

 夜、ついに妻の手料理。

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いま「灯(ともしび)をつぐもの」 治安維持法下で警察で殺された高知県の筒井泉吉さん、黒原善太郎さん 展示づくりのためのメモ

 人知れず「治安維持法下で警察で殺された筒井泉吉さん、黒原善太郎さん」の展示をやってみたいと思っています。そのための資料がどこにあるか、考えてみました。
 ・一九〇八年(明治四十一年)七月二十五日、黒原善太郎さんは、高知県高岡郡久礼村(いまは中土佐町久礼)で、丑太郎さん、亀雄の長男に生まれました。七人兄弟の長男。父は「仲持ち」の仕事、母は縫い仕事。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』、高知新聞社、一九九九年。治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』、一九九〇年)→戸籍謄本をとる
 ・小さいときから傘づくりのアルバイトをして成長しました。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)
 ・一九一四年(大正三年)一月一日、筒井泉吉さんが、高知県安芸郡芸西村和食に生まれました。父・甚吉さん、母・左馬尾の長男。三歳のとき、両親と中村へ移転。(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』、一九九〇年)→戸籍謄本をとる
 ・黒原善太郎さんは、地元の高等小学校に入りましたが、一年終業でやめました。(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)→成績表をとる
 ・一九二八年(昭和三年)、筒井泉吉さんが中村高等小学校を卒業しました。筒井泉吉さんは中村の四国電力会社の給仕になりました。その後、一時、大阪に出ていましたが、ふたたび中村に帰って野村自動車の切符売りをしました。国見主殿さんや浜田初広さんらと作家同盟高知支部幡多地区を結成し、機関紙「百姓」を出しました。一口一円の出資で消費者組合をつくり、生活必需品を購入して安く利用しました。(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)→成績表をとる、機関紙「百姓」を探す
 ・一九三〇年ころ、黒原善太郎さんは、須崎に出て傘づくりの仕事につきました。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』。治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)
 ・一九三二年(昭和七年)、黒原善太郎さんは、田村乙彦さん、広海太治さんらの指導で須崎で文化サークルの活動を始めます。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)
 ・同年、黒原善太郎さんは、高知市に移住し傘づくり職人として働きます。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)
 ・同年、筒井泉吉さんは日本労働組合全国協議会(全協)に入ります。また、日本プロレタリア作家同盟員となり、『驀進』を発行、数編の詩を渡川専太などのペンネームで掲載しました。(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)→『驀進』を探す
 ・同年九月、黒原善太郎さんは、仙頭清五郎さんらと作家同盟高知支部再建委員会を組織し、その指導部を構成します。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)
 ・同年十月、黒原善太郎さんは、澄宮(三笠宮)の来高にあたり予備検挙されて勾留二十九日ののにちに釈放されます。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)→『特高月報』を見る
 ・同年十一月五日、黒原善太郎さんは、「師団演習絶対反対」などのビラを散布したことで仙頭清五郎さんらとともに逮捕されます。黒原さんは、一か月勾留されます。(高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』、高知民報社、一九七三年。『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)→『特高月報』を見る、新聞を見る
 ・同年暮れごろ、筒井泉吉さんは、高知に出て組織再建の運動をはじめました。治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)
 ・翌一九三三年(昭和八年)二月十一日、日本共産党九州地方委員会委員長の西田信春(のぶはる)が特高警察に殺されます。十日、検挙され、福岡署で殺されました。三十歳でした。
 ・同二月二十日、プロレタリア文学の作家・小林多喜二さんが虐殺されます。
 ・同年三月七日付、土陽新聞に「高知連隊赤化事件」として、高知市江ノ口の松田信次さん(仮名・二十二歳)は、中央と連絡なきグループで五、六人で読書会を持ちマルクス主義の研究をしていたが、入隊後、軍隊内部の赤化思想を図り、善通寺師団の軍法会議へ送られたという記事が掲載されました。(高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』)→新聞を見る
 ・同年三月、黒原善太郎さんは、作家同盟本部と連絡する一方、高知支部機関誌「作同ニュース」、「高知の旗」を発行、組織の拡大をはかります。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)
 ・同年五月、黒原善太郎さんは、仙頭清五郎さん、古味峯次郎さんと文化同盟フラクションを構成。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)
 ・同年四月二十一日、筒井泉吉さんの親友・木原さんが逮捕されました。筒井泉吉さんは、それを受けて、詩「木原よ!」をつくりました。治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』→詩「木原よ!」の原本を探す
 ・同年五月、共産青年同盟高知市委員会結成。古味峯次郎さん、仙頭清五郎さん、筒井泉吉さん、黒原善太郎さん、田村乙彦さんら参加。(高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』)
 ・同年七月七日、黒原善太郎さんは、仙頭清五郎さん、古味峯次郎さん、田村乙彦さん、筒井泉吉さんらとともに共産青年同盟、作家同盟再建グループとして第四次治安維持法事件で検挙されます。七月九日付の土陽新聞に「県下共産党第四次検挙」の記事が載りました。「…市内江ノ口のアジト下田徳幸方に、特高課の命をうけた、中野刑事がはりこんでいると、首脳分子の筒井泉吉がそれとも知らずに入ってきたのを検挙。」(高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』。『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』。治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)→新聞を見る
 ・同年九月二十日朝、筒井泉吉さんが死去。高知県幡多地区の連絡員として出高し日本労働組合全国協議会(全協)オルグとして活動中に検挙され、水上署(いまは高知南署という説もあります)でひん死の拷問を受けました。警察は意識のない彼を刑務所の既決房へ運びましたが翌日の朝、亡くなりました。十九歳でした。高知水上署の監房の壁に筒井泉吉さんの血書「灯(ともしび)をつぐもの」が残されていました。(高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡』。(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)→「灯をつぐもの」についての初出を探す
 「泉吉の逮捕がつたわると有岡の刑事は母親に『ひとつも心配はいらんぜよ、そのうちみんながおんなじくらしをするようにならあよ。』(中略)各警察署をたらいまわさしにされて、ひどい拷問の末、高岡署から高知署(ママ)へまわされてきた時はすでに瀕死の状態にあった。祖母が高知署(ママ)へ面会に行ったが面接は許されなかった。その祖母が中村へ帰りつくと『センキチキトクスグコイ』の電報が来た。祖母はその足で引きかえし午後八時にやっと高知署へ着いた。『会わせろ』というと『落ちつけ、落ちつけ明日は会わす』といってその夜は会わせなかった。(中略)。翌朝祖母が会った時は泉吉は死体となっていた。祖母が泉吉を愛撫しながら話しかけると、鼻や口から、どくどくと黒い血がふき出した。(中略)死亡原因を警察医は『心臓かっけ』と言った。」 (治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)→警察側の資料を探す
 ・同年十月五日、黒原善太郎さんは、高知県長岡郡大篠村(いまは南国市)の大篠警察署で拷問により死去。二十六歳。(『高知県人名事典 新版』刊行委員会『高知県人名事典 新版』)戸籍に「警察で死亡」と書いてあります(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)→警察側の資料を探す
 ・同年十一月二十八日、日本共産党中央委員・野呂栄太郎さんが東京の築地警察署で拷問により死亡します。

 ・一九七六年七月、国民救援会と解放運動旧友会、筒井泉吉墓碑建設幡多地区委員会が筒井泉吉の記念碑を建立しました。(治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『高知県における共産主義運動戦前の思い出』、一九九〇年)→この写真を撮る・碑文と略年譜

 北あきら編著『泥の道は長くとも』、太平洋文学会、一九六九年。 筒井泉吉の書の写真、本人の写真、『驀進』の写真が載っています。→これらのもとのものを探す

 【当時の高知での拷問についての証言】
 証言者・吉永進さん
 「一九三一年(昭和六年)十二月八日の検挙を逃れていた浜田盛春君と私が、[高知市]越前町で集団生活をしていた朝鮮出身の労働者が住んでいた家にかくれ、二人で白滝鉱山へ行って組織活動をすることを計画していたところを深夜襲われ、[高知]県警察部へ連行されたが、そのとき、浜田君は逆さ吊りにされ、数人の刑事達が取り囲んで殴る蹴るの暴行をした。頭は地面のコンクリートへすれすれにして、口々にわめき立て雑言を吐き散らしながら、意識が遠くなると水をぶっかけた。/そして同じような暴行を何度も繰り返した。別室の隙間からながめていた私には、ずいぶん長い時間であったと思われた。 」
 吉永進「黒原善太郎君の死について」=『治安維持法犠牲者国家賠償同盟高知県支部『続・高知県における共産主義運動戦前の思い出』、一九九一年
 
 【参考】
 四万十市中村に筒井家の墓地
 遺族・筒井清太さん
 筒井泉吉の家 中村市山手通り一二番地

 高岡郡中土佐町の丑ケ駄馬に黒原家の墓地
 関係者に川上喜代幾さん 妹・菊枝さん

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2013.01.12

企画展「高天ケ原山の戦争―本土決戦に向けて 山に陣地をつくっていた航空兵たち」 記事にしてくれました。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20130111-OYT8T01329.htm

高天ケ原山横穴壕 知って

 太平洋戦争末期、本土決戦に備えて高知、南国両市にまたがる高天ケ原(たかまがはら)山(標高107メートル)に築かれた横穴壕(ごう)を紹介するパネル展が、高知市升形の平和資料館・草の家で開かれている。高知海軍航空隊に所属する10代後半の若者が建設作業に駆り出され、終戦とともに忘れられた幻の戦争史跡の全容を伝える。(畑矢今日子)
 横穴壕は、同山中腹の岩盤をくりぬいて築かれていた。同館が、県内に住む元航空隊飛行術偵察専修練習生14人、住民らへの聞き取りを元に調査を進め、昨年末に発見した。
 壕の出入り口は10か所以上あり、奥に進むと134メートルに達するものもあった。内部には銃を立てかけたとみられるスペースや、木枠の水槽が確認された。袋小路になっている壕がある一方、別の入り口へとつながり、襲撃を受けても逃げられる構造を採用しているものもあった。
 元練習生によると、1945年3月頃、飛行機の資材不足などを理由に訓練が中止となり、練習生ら300~400人が付近に移住。民家に寝泊まりしながら壕を築いた。作業で使うトロッコを戦車に見立て、爆薬を仕掛ける訓練も行ったという。
 パネル展「高天ケ原山の戦争―本土決戦に向けて 山に陣地をつくっていた航空兵たち」では、写真など約30点のほか、壕を支えていた丸太の留め具、内部に残っていたビール瓶、電線の部品なども並ぶ。
 同館の藤原義一学芸員は「戦局が悪化する中、『1億総玉砕』の掛け声で、航空隊の若者にも陸上戦を敷いていることがわかる史跡」と話す。
 2月9日まで。午前9時~午後5時。入場無料。水、日曜と、祝日は休館。同館(088・875・1275)。
(2013年1月12日  読売新聞)

http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=297656&nwIW=1&nwVt=knd

高天原山の戦争知って 横穴壕資料など展示

2013年01月12日14時30分

 高知市と南国市の境にある高天原山(たかまがはらやま)に残された太平洋戦争時の遺跡を深く知ってもらおうと、高知市升形の平和資料館「草の家」で特別展示「高天原山の戦争」が開かれている。戦争末期、米軍上陸に備えて旧日本軍が掘った横穴壕(ごう)の資料などが展示されている。2月9日まで。

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二〇一三年一月十二日 土曜日 「戦争中の武器についてくわしい若い人」が来てくれました。

二〇一三年一月十二日 土曜日 「戦争中の武器についてくわしい若い人」が来てくれました。

 晴れ。

 午前九時半、高知市の平和資料館・草の家から電話。「戦争中の武器についてくわしい若い人がきちゅうき、きいや」。行きました。陶器製の手りゅう弾などを調べている人でした。草の家にある陶器製の手りゅう弾、地雷などを見てもらって、一緒に陶器製の手りゅう弾のことを知っているかたのお宅を訪問。

 午前十一時から、草の家の新年会。

 前日にNHKの報道があり、朝、読売新聞に記事が出たせいか、次々と見学者が来てくれました。

 新年会のほうは、「戦争」についてコアな人たちが最後まで残り、議論。

 「見たいから、あした、開けて」

 という電話があり、午前十一時から午後一時まであけることになりました。

 夕方、高知海軍航空隊の人で介良(けら)にいた人と連絡がつきました。

 あす午後、お話を聞かせていただけることになりました。

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2013.01.13

二〇一三年一月十三日 日曜日 高知市の平和資料館・草の家を臨時開館。

二〇一三年一月十三日 日曜日 高知市の平和資料館・草の家を臨時開館。

 晴れ。

 午前十時から午後一時まで、高知市の平和資料館・草の家を臨時にあけました。企画展を見ていたただこうというものです。南国市から青年がやってきました。南国市から女性がやってきました。徳島市から数人がやってきました。

 二時過ぎから高知海軍航空隊の隊員だった人から話をうかがいました。

 夜は新しい展示企画を提案するための文書をつくりました。

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2013.01.16

【川柳】 ネコなめた おかず、そのまま 出てる朝

 ネコなめた おかず、そのまま 出てる朝

 と、つぶやいてると、

 「私、そんなこと気にならん人やき」。

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【ニュース】 高知県香南市の上岡山にアジア太平洋戦争中のT字型戦争壕 二十日午後一時半~三時に現地で公開

 高知県香南市野市町上岡の上岡山でアジア太平洋戦争中のT字型の戦争壕(ごう)が見つかりました。同市文化財センターは、二十日午後一時半~三時に現地で公開します。「本土決戦」のいったんを見ることができます。

  この壕の場所は上岡八幡宮の所です。
 http://moromoro.my.coocan.jp/kamiokahachimanguu.html

 同壕は、高さと幅がいずれも約三メートル。内部の壁には、直径約四十センチメートルの柱を立てたとみられるくぼみが九十センチメートル間隔で残っています。長さ約50メートルと約100メートルの2本が奥でつながっているとみられます。
 この地区から物部川をはさんだ対岸には高知海軍航空隊がありました。
 同市文化財センターは、アジア太平洋戦争中に日本帝国海軍が掘ったと推測しています。
 上岡地区は一九四五年五月三日、アメリカ軍機B29の空襲を受け、住民や軍人十人がなくなっています。
 空襲で傷ついた鳥居も残っています。

 説明会では当時を知る住民の話もあります。
 壕は津波避難道整備のため、近く埋め立てられる予定ですが、同センターは当時を知る人の情報提供を呼びかけています。
 担当は松村信博さんです。松村さんは十六日のNHKの取材に「各地域の方々から情報をいたただきながら戦争遺産についてはしっかりと記録に残していきたい。二度と戦争を起こしてはならないという先輩たちからの言葉、それを今に生きる自分たちがしっかりと刻んで、そういう社会をつくっていきたい」とこたえています。

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二〇一三年一月十四日 月曜日 「平和と民主々義の為の戦いのさ中長岡郡大篠警察署に於[おい]て白色テロルの犠牲となった戦士此[ここ]に眠る」。

二〇一三年一月十四日 月曜日 「平和と民主々義の為の戦いのさ中長岡郡大篠警察署に於[おい]て白色テロルの犠牲となった戦士此[ここ]に眠る」。

 雨。

 風が強い。

 午前十時から中土佐町久礼の黒原善太郎さんの墓へ。
 計五人で行きました。

 天皇制の専制支配のしくみを批判した人々を罰した治安維持法。そのもとで権力に虐殺された黒原さん。
 「黒原善太郎墓」
 「平和と民主々義の為の戦いのさ中長岡郡大篠警察署に於[おい]て白色テロルの犠牲となった戦士此[ここ]に眠る」
 「昭和八年[一九三三年]十月五日歿 享年二十六才」
 「昭和四十六年[一九七一年]十月五日 旧友有志建之」
 傘づくり職人として働き、文学運動を組織し、師団演習絶対反対などのビラを配布したという黒原さん。大篠村(今は南国市)の大篠警察署で拷問によって死去しました。

 高知市に帰ってから高速バスで高松市に。雪のため高速道路の一部がダメなので三時間かかりました。
 東京での僕の職場の先輩、妻の職場の教師仲間で、いまは高松市に住んでいる夫婦の家に泊めてもらいました。
 すごい新築の木の家でした。
 水炊きでビールを飲んで、しゃべって、すこやかに寝ました。
 あっ、彼のブログづくりも少し手伝いました。

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二〇一三年一月十五日 火曜日 高松市の真珠湾攻撃に参加した人のお家に。

二〇一三年一月十五日 火曜日 高松市の真珠湾攻撃に参加した人のお家に。

 晴れ。

 午前九時から、高松市の真珠湾攻撃に参加した人のお家に。
 僕と「東京での僕の職場の先輩、妻の職場の教師仲間で、いまは高松市に住んでいる夫婦」の三人。
 その元航空兵と奥さんと話してると「妻の職場の教師仲間」のお母さんと知り合いでした。
 その元航空兵は終戦を徳島海軍航空隊で迎えたといいます。
 そこでの「秘話」もうかがいました。
 いっぱいごちそうになって、昼ごはんまでごちそうになりました。

 帰りに三人で温泉に。
 そして、独りで高知へ。

  高知短期大学専攻科の税法二科目を受けました。

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二〇一三年一月十六日 水曜日 黒原善太郎さんが反対した師団演習とは。

二〇一三年一月十六日 水曜日 黒原善太郎さんが反対した師団演習とは。

 晴れ。

 午前中は病院へ。定期のものです。やっぱり一万円近くいりました。うーーん。

 高知県立図書館、高知市民の図書館を渡り歩き、黒原善太郎さんについて調査。
 彼が反対した師団演習について、少しわかりました。槇村浩が高知県立図書館で『資本論』を読んでいたという証言が書かれた本もありました。調べていて、つぎの企画展のテーマがシャープになってきました。
 それにしても、図書館の「お客さん」は知り合いが多い。
 政治新聞のNAさん、平和資料館・草の家のNIさん、映画運動をしている男性、「憲法が危ないので」と調べに来ている若い男性。

 夜は、高知短期大学専攻科の授業。特別研究の到達点を語り合いました。
 卒業旅行の計画も相談しました。

 上岡山の壕のことが高知新聞の朝刊、NHK総合テレビの夕方の番組で報道されました。

夜十時ころ帰ってメールを見たら、かなり前にあなたたち夫婦の書いた本を注文したのにきていませんというメール。まことにもうしわけございませんでした。

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2013.01.18

ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その一 1945年春

 大東亜戦争(アジア太平洋戦争)中の1945年春、高知県香美郡日章村(いまは南国市)の高知海軍航空隊の隊員たちは、機上作業練習機・白菊での特別攻撃訓練をする者、陸戦のために長岡郡篠原村明見(みょうけん。いまは南国市)、長岡郡介良村(けらむら。いまは高知市)の介良野の民家などに分宿しながら山中に陣地を構築する者などにわかれました。
明見、介良に派遣された明見派遣隊の中心は高知海軍航空隊の第40期飛行術偵察専修練習生たち約430でした。工作兵、主計兵もいました。伊藤平次2分隊分隊長(大尉=だいい)、岡嘉朝12分隊分隊長(中尉)、丸岡義吐22分隊分隊長(大尉)、各分隊の分隊士(兵曹長、少尉)らが指揮していました。
  隊員は民家に分宿しました。そして、近くの山の中で陣地をつくりはじめました。アメリカ軍が高知県に上陸して来る、そのとき、横穴壕などに隠れながらたたかおうという構えでした。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その二 「飛行作業をする」と、いわれて

 高知海軍航空隊の第40期飛行術偵察専修練習生たちの座学は終了していましたが搭乗実習が遅れていました。
 そんななかの1945年2月末ころ、2分隊の北村昭さんたちは教員から「明日から飛行作業をするから早く起きよ」と通告されました。
このころの起床時刻は午前6時でしたが、翌朝5時半ころ、起こされました。
 「駆け足」
 西の裏門から出て、そのまま西に向かいました。
着いた所は明見でした。星神社に集合しました。
その時の分隊長の訓示は以下のようなものでした。
 「物部川の河口が一番地形的に見て、アメリカ軍が上陸するに最適の所だ。あそこにアメリカの艦隊、揚陸艦が来る。前浜で陣地をつくって、まず、そこで防ぐ。そこがやられたら本隊もやられる。それから高知市に来る。それで、ここらの山で順に防いでいく。」
 3月下旬には上海海軍航空隊の隊員たちが、ここに転任してきました。2分隊には20人から30人配属されました。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その三 隊員は、民家に分宿しました

 高知海軍航空隊の飛行術偵察専修練習生たちは、明見、介良野の各民家に分宿しました。
 〇2分隊(明見の西側)
 ○12分隊(介良村の介良野)
 〇22分隊(東の星神社の周辺)
 明見には次々に施設が設定されました。
 明見橋電停の南の明見橋を渡った所の左手の角には歩哨(ほしょう)が立ちました。
 民家が衛兵所や本部になりました。衛兵所には、無線機をおいていました。
 星神社の境内は練兵場として使われていました。
 朝、ここで起床ラッパが鳴りました(起床時間は、冬午前6時、夏5時半)。
 隊員たちは、明見、介良の各宿舎から走って星神社に集まりました。
 そこで朝礼がありました。
 上官の訓示がありました。
 「最敬礼!」の号令で皇居遥拝[ようはい]をしました。
明治天皇の御製(短歌)、「あさみどり 澄みわたりたる 大空の 広きおのが 心ともがな(一点の曇りもなく、浅緑色に澄み渡った大空は、広大無辺、見渡す限りの際涯のないものであるが、そのまま御みずからの心としたいものである)」を節つけて歌いました。
 海軍体操をやりました。
 2分隊の今井直重さんは、星神社で「明見派遣隊の歌」を練習したことがあるといいます。
 いま残っている資料によると歌詞はつぎのようなものでした(以下、4番)。
「雲や海なる 太平洋/暗雲低く 垂れ込めて/正義の剣 振りかざし/神州護持の 大任を/果たすは 我等明見隊」
 近くの高天ケ原山のふもとには兵舎もつくられました。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その四 鉢伏山から高天ケ原山へ

 高知海軍航空隊の航空兵たちは、はじめは近くの介良村の鉢伏山(はちぶせやま。標高213・4m)で陣地をつくっていました(いまの潮見台ニュータウンの所です)。しかし、ここは岩が硬すぎるということで陣地づくりの場所をかえました。
 つぎに、長岡郡大津村(いまは高知市)、大篠村、介良村の高天ケ原山(標高107.0m)に陣地をつくりはじめました。
 中腹には横穴壕がたくさんつくられました。
 横穴壕づくりについて2分隊の北村昭さんは「明見の東から西向けて、その後、山の中ごろから北から南向けに掘りました。介良の若宮八幡宮ほうに突きぬけてT文字型の壕になりました。そして、もう一つ横穴壕を掘りました。坑木を立て、天井には矢板を打ち付け居住区をつくりました。」と、いいます。
 3月から5月ころまでは、24時間、4交替で陣地づくりをしました(5月中ころには完成しました)。
 トンネルを掘ったことのある兵隊たちが指導しました。
 飛行術偵察専修練習生たちは穴を掘り、土を外に出しました。
 横穴壕づくりは、ツルハシなどで掘り、岩にあたると、その先に穴をあけてダイナマイトを入れて爆破しました。
 12分隊の谷合渉さんは、つぎのようにのべています。
 「最初は真っ直ぐに掘り、10~15mくらいから自分たちは左方向に曲げて掘りました。まっすぐだったら、敵が来て撃ちこまれたら全滅ですから。
穴掘りの途中で堅い岩盤に出くわしたときは、岩に穴をあけて、その穴へダイナマイトを取り付け壕の外から導火線で電流をつうじて爆破しました(ダイナマイトの作業は自分がした覚えはなく、たぶん工作兵がやったと思う)。壕の作業中だったものは壕の外に出て休みました。あとで壕へ入ると硝煙のようなにおいがのこっていた。とくに、壕の側面と天井の上面の柱と板を取りつける作業は大変でした。」
 夜中の作業のときは、交替で横穴壕の近くの墓のそばの広場においた上下の寝台にカヤをつって仮眠したといいます。
 22分隊第5班の上杉利則さんが、自著『七つのボタン』(南の風社。2004年)で、その陣地づくりの体験を書いています。
 上杉さんの分隊は、15メートルくらいの間隔で3つの横穴壕(幅2メートルほど)を掘り、20メートルくらい掘りすすめた所で、この3つをつなぐ計画でした。
 「一メートルくらい掘り進めるごとに、両側に浅い穴を掘り、松の丸太を立てます。その二本の丸太の上に、同じような丸太を渡し、カスガイでがっちり固定します。次に、両側面の丸太と丸太の間に分厚い板を積み上げて板壁にしていきます。丸太を渡した天井には、これまた分厚く長い板(矢板といいました)をカケヤ[木づちの大きなもの]で隙間がないように叩き込んでいきます。
土石の崩壊や落盤が起こらないように、横穴内は天井も側壁も板で囲まれた通路のようになっていきます。」
 22分隊第10班の平野開造(かいぞう)さんたちは、真っ直ぐ約15m掘って、そこから左に曲げて掘りました。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その五 丸太の切出しもしました

 22分隊10班の平野開造さんは横穴壕掘りをしながら、2度ずつ10数日間ごと、泊まり込みで丸太の切出し作業をしたといいます。横穴壕の坑木にするためのものです。
 1回目=領石(りょうせき。いまは南国市)の山のふもとで。10数人で作業。
 2回目=秦泉寺(じんぜんじ。高知市)の山で。10数人で作業。
 2分隊の利根正義さんも山の中腹で切り倒した丸太を油をぬった木のレールに木馬(きんま)に積んで降ろす作業をしたと語っています。そのときは、土佐山田の奥の国民学校に泊まり込んでの作業だったといいます。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その六 アメリカ軍との戦闘のための横穴壕でした

 高天ケ原山のふもとに新しい木造の兵舎が建ちました。
2分隊の北村昭さんたちは民家から、ここへ移りました。
そのころ、いくつかの横穴壕が完成しました。
それは、アメリカ軍との戦闘のためのものでした。
できあがった横穴壕には段をつくって、その上に三八式歩兵銃、騎兵銃や手榴弾を入れてありました。(2分隊の北村昭さん)

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その七 いま、高天ケ原山には

 昨年11月から平和資料館・草の家のメーバー6人が高天ケ原山に登って、調査しました。
 ふもとに兵舎があった所(2か所)が、さら地になって残っています。
 最初にできた東側の兵舎には、トンネルを掘ったことのある兵士たちがいたといいます。
 もう一つの西側の兵舎跡には井戸や溝も残っていて、溝をたどっていたった先には薬品のビンが散らばっていました。
 ふもとに壕の跡、塹壕(ざんごう)の跡がたくさん残っています。つぶれた横穴壕の一つの入口付近にはビールびんが数本埋もれていました。
 中腹には横穴壕の跡がたくさん残っています。
 その1つは5つに分かれていて、長さの合計は134メートルです。
 もう1つは3つに分かれていて、木の枠がある水槽があります。
 この2つには、壕の壁を補強していた丸太や丸太の跡が残っている所があります。約90cmごとに丸太の跡があります。
 横穴壕の中にカスガイ、電線のための碍子(がいし)が落ちていました。
驚いたのは横穴壕の中にアメリカのB29が落した焼夷弾(しょういだん)の一部が落ちていたことです。
 尾根には1人用の戦闘のためのタコツボの跡が残っています(22分隊の兵がつくったといいます)。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その八 長崎山で陶器製の手榴弾づくり

 1945年、明見の北側の長岡郡大津村長崎(いまは高知市大津)の長崎山には高知海軍航空隊の火薬庫がありました。
 2分隊の北村昭さんたちが、そこの近くの横穴壕で陶器製の器に火薬をつめて、竹でついて手榴弾(しゅりゅうだん)をつくっていました。
 陶器製の手榴弾を使っていたのは、ここだけではありません。
 平和資料館・草の家に陶器製の手榴弾を展示しています。
 これは高知市池の浦戸海軍航空隊の跡地から出土したものです。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その九 震洋特別攻撃隊員を志願した11人

 高知海軍航空隊の2分隊の北村昭さんたちは、5月1日に2等飛行兵曹(下士官)になりました。
 その後、高天ケ原の陣地づくりが一段落したころ、北村昭さんたち明見の松村薫さん宅に住んでいた11人は、震洋(しんよう)特別攻撃隊員を志願しよう思い立ちました。
 高知市の御畳瀬(みませ)にも基地があったベニア板製のボートの前方に爆弾を載せて敵艦に突っ込む部隊です。
 志願の「血書」を書きました。
 「震洋特攻隊を志願いたします。」
 終りに「散る桜、残る桜も散る桜」と書きました。
 署名して、小指を切って出た血で血判をおしました。
 「小指を切ったとき、母の顔を思い浮かべました」と北村さん。
 松村さんの玄関前広場に11人が整列し、同じ松村宅にいた分隊士たちの出てくるのを待ちました。
 最年長で代表の妹尾幸夫練習生が「お願いがあります。私たちは、震洋特攻隊を志願したいのでお願いします」といい、志願書を玉井分隊士(少尉)に渡しました。
 分隊士たちは少し協議していました。
 玉井分隊士が11人の前に立ち、「おれたちは、どこにいても、何をしていても、ご奉公は同じである。いまの職務を忠実に果たすよう」と、たしなめました。
 「これは、俺がいたただいておく」
 玉井分隊士は、おしいただいて、それを胸のポケットに入れました。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十 陣山へ、野市へ、窪川へ

 高天ケ原山での陣地づくりの見通しがついたころ、明見派遣隊の一部は他の場所にかわっていきました。
 5月、22分隊の一部は高岡郡窪川町(いまは四万十町)の設営に行きました。
 22分隊10班の平野開造さんたちは、国鉄の土佐大津駅から列車に箱入りの機関銃の弾をたくさん積んで西に運びました。弾の重さのためか須崎あたりの坂を列車がなかなか登れなくて何回もスイッチバックしました。土讃線の終点・土佐久礼駅で下車。一晩、土佐久礼で泊まり、弾は翌日、トラックで窪川町宮内の高知海軍航空隊第3飛行場に運びました。すでに飛行場はできていました。
 12分隊の一部の人さんたちは介良から陣山(いまは南国市)の高知海軍航空隊の本部、送信所へ移動します。そこには、大きな坑道がありました。同隊の谷合渉さんも、そこに行きました。
 22分隊第5班の上杉利則さんたちは、中腹で掘っていた3つの横穴を奥で結び合わせるという仕事を未完成のまま、高知海軍航空隊の飛行場の隣の物部川を隔てた香美郡野市町(いまの香美市野市町)に民家に駐留します。
 ここでの上杉さんたちは、高知県に上陸するアメリカ軍の戦車を爆破する訓練をしました。
訓練の場所は、物部川の土手や草原、作物を植えていない田畑や道路でした。
 棒地雷(棒の先端に爆薬を装着したもの)を持って戦車のキャタピラーの下に飛び込む。円錐弾を持って戦車によじ上り、天井の昇降口のフタを開けて投げ込む。破甲(はこう)爆雷を背中に背負って戦車の下に飛び込み、爆破させる。
 「しかし、実際にはいずれの模型すらなく、手ぶらで、あるいは付近に転がっている棒切れなど持って、それらしき真似事をするにすぎませんでした。」
 2分隊の一部も明見を去りました。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十一 ヤリを持った飛行予科練習生たち

 6月ころ、明見に24期乙種飛行予科練習生たち200人くらいが派遣されてきました。数えで14歳~16歳の兵隊でした。イカリのマークがついた帽子、国防色の7つボタンの服とズボンをきて竹の筒でカバーしたヤリを担いでいました。やり先は3つ面がある金属のもので、柄は木でした。
 少年兵たちは、2つの中隊にわかれ、6月にできたばかりの木造の兵舎(井戸の残っている所。木の大きな風呂もありました)に駐屯しました。
 2分隊の北村昭さん(5月1日、2等兵曹に)は、班付下士官として少年兵を指導しました。この班の班長は茨木龍夫さん、もう1人の班付下士官は妹尾幸夫さんでした。
 北村昭さんは、分隊士の指導でアメリカ軍の戦車に肉薄してキャタピラの下に爆弾をしかける訓練をさせたといいます。工事に使っていたトロッコがアメリカの戦車のかわりでした。訓練の場所は、兵舎の近くの平地でした。
 手旗信号や無線も教えました。

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十二 アメリカ軍機の空襲下で

 アメリカ軍機の空襲が激しくなっていました。
 明見の民家に寝泊まりしていた22分隊10班の平野開造さんは、その家の庭先でアメリカ軍の艦上攻撃機・グラマン群の高知海軍航空隊への空襲を見ています。
 「アメリカ軍の75機か80機の飛行機が急降下してダダダダダダと撃つ。アメリカ軍の飛行機を撃った日本軍の2センチ2ミリの機関砲の弾の流れ弾が、庭先の私の足元にビュンビュン落ちてきました。グラマンは浦戸のほうに去っていきました。」 
 グラマンの同航空隊への空襲は、3月19日朝7時ころ~午後零時ころ、5月14日、6月8日とありました。平野さんのいう空襲がいつのものだったのかは<はっきりしません。
 12分隊の谷合渉さんは「壕の外に1人でいたとき、高知海軍航空隊を襲ったグアメリカ軍の艦上攻撃機・グラマン1機が頭上を超低空で東から西の高知方面へ飛び去りました。翼の星印がハッキリ見えて、すごく口惜しかったことを覚えています。」と、いいます。
 3月か5月のことだといいます。
 7月4日のアメリカ軍の爆撃機・B29群の高知空襲を明見で迎えた隊員たちもいます。
明見に残っていた2分隊の約30人、北村昭さん、利根正義さんたちは高知市に向かったといいます。
 「外出していた者が帰ってから、招集がかかり『いまから消しに行く』という命令が出て、高知まで走りました。菜園場(さえんば)で家に水をかけ、トビグチで家の天井をつきやぶり燃えないようにして、火を止めることができました。」(北村昭さん)

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十三 手榴弾の訓練中、頭を直撃されて…

 明見派遣隊の8月1日から16日までの日々については分隊士だった森善輔さんが『痛恨の終戦』で書いています。
 「8月1日
 (中略)陣地も出来上り、我が中隊本部もバラックながら完成。約10坪の室、これが私の最後の住まい。ベッド3つ、私と加藤2飛曹と従兵の3人。室のまわりはすべて実戦につかう実弾、小銃弾、機関銃弾、地雷、手榴弾。地雷ときたらヤキモノ有田焼のまことに立派なもの、(中略)手榴弾はまあまあのもの、5m以内は十分に殺傷力あり、現に訓練中、22分隊において、39m離れていた見学者に信管が飛び頭を直撃され、予科練の1人が死亡した。私もその現場に居て医者の手当の様子を見ていたが、右こめかみに2cmの穴があき、意識不明のまま2時間位で死亡をつぶさに見ていてかなりの衝撃をうけ、それからの訓練に必ず鉄兜をかぶらせ、事故を防ぐべく気をつけたものだった。(中略)
 さらに対戦車用のロケット弾ももらった。長さ60㎝、直径20㎝、発火はうしろの発火点をマッチのヤスリでこするだけ。その弾を松の板、厚さ2cm、長さ2mのもの2枚をはり合わせ、その上にのせ飛ばす。約200m飛ぶ。我々の実験では、50cm位の松の大木をきれいにうちぬいたものだった。
 米軍のМ4戦車に対しどれだけの力があったかは不明。しかし夕弾の力にはおそれいったものだった。(夕弾と言うのは弾の先がおわんのようになっているもので、爆発するとエネルギーが集中して厚い鉄板でもうちぬくものである)(中略)」

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十四 少年兵たちの初めての実弾訓練

 「8月8日
 [8月4日に竹やぶの中の医務室で盲腸の手術を受けたが、この日は]朝より起き上がり、サラシ2反をきりとり腹に巻き、軍刀を腰に差し、竹刀を杖に、我が中隊の陣地を巡視する。数日見なかったのに我が死場所の陣地は格段と強化されている。兵達の士気も旺盛。ゆく先々で兵達がいたわってくれる言葉もうれしい。15、16歳の若き兵達をここで死なせるかと思うと、心は安らかではないが、国のため親兄弟のため、止やむを得ぬと割り切る。その後、毎日昼も夜もなく陣地の補強と実戦訓練。気がたっているので極めて苛酷な訓練をしたものだった。(中略)
 ある時は軍律違反は知っていたが(発砲禁止の命令が出ていた)、少年兵達が銃を撃ったことがないと言うので、これでは実戦になれば烏合の衆ではないかと、中隊長思いきって実弾射撃をやることにした。大隊長に言えば怒られることは確実。中隊全員を他隊にも見つからぬようにちょっと離れた谷間に引率。各人に10発ずつ実弾を渡し、100mに的をおき、小隊長、分隊長に命じて手をとり足をとり新兵に訓練。(中略)兵達はこれで戦争が出来ますと第中隊はもえあがってしまった。あとは米軍の上陸を待つばかり。まさに士気旺盛。さあ来い、来たれの心境である。さらに指揮官としても負けてはおれぬ。200発あまりの拳銃弾をもらったので、21発だけ残し、すべて訓練に使用。それも左手に銃を持ち右手には軍刀を振り回しつつ突進するという、まさに実戦訓練。之[これ]はちょっと行きすぎか?しかしまさに自信満々。又、今までも暇さえあれば加藤正男や茨木龍雄その他を相手に剣道の実戦訓練。おかげで生傷のたえまなし。又[また]、日本刀で居合の訓練。50年経っても手に何ヶ所も傷が残る。又、山から手ごろな竹を切って来ては真向唐竹割、ななめ切り。すっかり上手になり、これ又自信満々?(中略)
 さて、このころ我が中隊本部は約10坪あまりのバラックで竹やぶの中にあり、中にベッド×3と机。私と加藤+徒兵が寝ることにして周りはすべて小銃弾、機関銃弾、手榴弾、地雷等がうず高く積み上げられ、まさに火薬庫の中に寝ていることになる。今思うと身の気もよだつが、中隊長は平然たるものであった。」

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十五 「陸戦隊は之を水際にて殲滅せよ。」

 「そして 8月13日
 我が隊に総攻撃の命下る。『近日中に米軍の上陸は必至であると思われる。敵上陸を開始せば特攻隊は全機出動突入せよ。陸戦隊は之を水際にて殲滅[せんめつ]せよ。』という勇ましいものであった。そして秘密書類、その他余分なもの、さらに私物(とくに写真、手紙等)はすべて焼却せよとのこと。さあ、いよいよ最終の時が来た。13日PMから14日にかけてすべてのものを焼き尽くす。(中略)」

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十六 陛下が「頑張れ!」とおっしゃった

 8月15日、天皇が終戦のラジオ放送をしました。
 森善輔さんは、この放送についてつぎのように書いています。
 「そして8月15日
 12時より天皇陛下より重大放送があるとのことで全員集合。慎んで聞く。しかし全く意味不明。私達は13日に総攻撃の命令を受け、すでに身辺も整理している。あとは戦って死ぬばかりである。よってこの放送は、陛下が勇戦奮闘せよ、しっかり戦え、頑張れ!とおっしゃったと聞いてもおかしくはない。全員がそうだそうだと言い出し大いに盛り上がる。エイ!エイ!オーと言うわけで各人の陣地へ帰って行った。私も中隊本部に帰り、加藤と2人で一杯やりながら思い出などにひたり、加藤に対しても長いこと世話になったな、もし生き残ることがあったら再び剣を交えようと約束。でもそれは夢か?敵陣へ突入する時は決して俺の傍を離れるな。俺が死んだら俺の刀で戦ってくれ。と、戦の前に何となくしんみりとした夜となった。」

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ここまでわかった高知高知海軍航空隊の高天ケ原山の陸戦陣地 その十七 星神社に向かって「棒銃!」 【終わり】

 8月16日午後6時過ぎ、高知海軍航空隊から「土佐湾沖に敵機動部隊見ゆ。総員特攻用意」の指示が出ました。
 森善輔さんも、この日のことを書いています。
 「8月16日
 今日も兵達は張り切っている。中隊長も張り切っている。隊全体がピーンと今にも弦を離れんばかりの矢の感じである。すでに実弾100発も手榴弾も2発渡してある。ロケット弾と地雷数百は私が管理して、米軍が上陸したら陣前に埋めることとする。本日敵機の来襲もなく不気味な静けさ。まさに嵐の前の静けさとはこうゆうことか!その夜半、その静けさは突如破られた。武装のまま仮眠していた私は飛び起きた。南東の海岸の空が赤々と燃え上がっている。そして激しい爆発の音がかすかながら伝わってくる。さあいよいよ米軍の上陸だ!夜明けの冷気か思わず武者地震いが起こる。ぐっと気を落ち着けて加藤に非常呼集を命ぜさせる。しかしその頃は各小隊長(14期の少尉)4人と各分隊長も集まってくる。
 命令
 『いよいよ来たぞ。各小隊長は隊をまとめて、すみやかに星神社の広場に集合せよ!』
 やがて夜は白々と明けた。星神社の広場には完全武装の兵達がぞくぞくと集合してくる。いずれも15,6歳の少年兵が主力である。いずれも眦(マナ)高(ジリ)く顔は引きつっている。無理もない。
 その時の中隊の編成(2002年現在も、中隊名簿は私がもっている。)
  1ケ分隊10人、小銃4、槍5、7ミリ7機関銃1
  4ケ分隊で、1ケ小隊+小隊長1   計41名
  4ケ小隊で、中隊         計164名
        +中隊本部        32名
  (ロケット、地雷担当その他伝令)   37名
        +士官 森中尉以下     5名
                   計201名 
  以上 明見 伊藤大隊 第2中隊 森中隊
  伊藤大隊第1中隊は遠藤中尉201名
  その他 大隊本部付星野中尉以下20名余
  以上 420名
 中隊の整列した様子は正に異様なものであった。半分は小銃、半分は槍と来た付剣を命じたら、少年兵であるため剣先は頭より高く朝日に輝いてキラキラと勇ましいと言うか、あまりに中世的なヤクザの集団みたいでちょっとにやりとする。
 星神社に向かい棒銃!苦しい時の神だのみと言うわけ。その後、森中隊長は咆えた。『最後の戦闘に中隊長は真っ先に突撃する。ついて来れるヤツはついて来い!なお、生き残ったものは高知の山々に立て籠りゲリラとなって戦え。以上。』『あとは時が来るまでゆっくりと休め!』隊員は粛々と配置について行った。しかしAMいたずらに時間は過ぎて行った。敵機も飛ばず物音もない。疑心暗鬼とかぎりない不安につつまれながらじっと待つ。兵も各小隊長が次々にやってくる。中隊長としては「だまって待てという外はない。PM何時頃かジリジリと待つ私のもとに大隊長より命あり。『敵上陸は誤報なり。東南の水上特攻基地が大爆発。今だ炎上中。部隊はそのまま待機せよ。』何たることか!(後略)」

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二〇一三年一月十七日 木曜日 師団演習に反対した黒原善太郎さんについて知りたくて。【写真 空よ】

二〇一三年一月十七日 木曜日 師団演習に反対した黒原善太郎さんについて知りたくて。

 晴れ。

 体調不調で、午後まで寝ました。

 師団演習に反対した黒原善太郎さんについて知りたくて「黒原さん」にアタックしました。

 まずは、午後四時に、高知市内の「黒原さん」宅に。

 このときの空です。

Photo

 うちの親戚ではないといいながら、二人の「黒原さん」を紹介してくれました。

 一人目の「黒原さん」は九州の人。縁続きの人ではありませんでしたが、善太郎さんのことを調べていました。

 二人目の「黒原さん」は高知県の人。このかたも縁続きのかたではありませんでした。しかし、大日本帝国海軍乙種飛行予科練習生二十一期でした。こちらのほうで、お話を聞かせていたただれることになりました。

 明見派遣隊の件、やっと、まとめをブログにアップしました。

 妻は実家泊。

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2013.01.19

二〇一三年一月十八日 金曜日 黒原善太郎さんの展示をやることになりました。ヤッホー。

二〇一三年一月十八日 金曜日 黒原善太郎さんの展示をやることになりました。ヤッホー。

 晴れ。

 午後三時、平和資料館・草の家での会議に参加。

 黒原善太郎さんの展示をやることになりました。ヤッホー。

 高知県立図書館へ黒原善太郎さんのことについての調査。

 きょう、心がうづく問題が生じました。そのこで気をやんでいます。

 

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2013.01.20

二〇一三年一月十九日 土曜日 高知城に落ちたアメリカ軍の爆撃機・B29のこと。

二〇一三年一月十九日 土曜日 高知城に落ちたアメリカ軍の爆撃機・B29のこと。

 晴れ。

 昼食後、平和資料館・草の家へ。

 昼食を、およばれしました。

 ある所へ行って戦争中の資料の寄贈品をもらいうけました。

 三人の入館者に企画展の説明をさせていたただきました。

 その一人は終戦時は、ひろめ屋敷に住んでいて高知市第三小学校の一年生、七月四日のアメリカ軍の空襲のとき高知城に落ちたアメリカ軍の爆撃機・B29の兵隊を見たといいます。「パラシュートが開かないで大きな木に引っかかって亡くなっていました。若い金髪の白人でした。傷ついていなくて顔はきれいでした。消防団(?)、兵隊が来て、その人の遺体の飛行服のジッパーを開けて男性であることを確認しました。兵隊が、遺体を、どこかへつけていきました。」

 高知県立図書館で黒原善太郎さんのことについての調査。

 中古のノートパソコンを手に入れました。

 夜、ある人の祝賀会がありましたが行けませんでした。金欠状態ですので……。

 家で、ひたすら黒原善太郎さんのことについてのメモづくり。

 いつも午前六時ころに起きていた妻が最近は、かなり遅くまで寝ています。このことも「大丈夫かいな」と、気にしています。

 心がうずく問題、まだ、ひきづっています。月曜日に解決をしたいと思いましたが、その日は朝から列車で土佐久礼に向かいます。

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【ニュース】 香南市の上岡山のT字形戦闘壕の見学会 写真リポート。 

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 香南市教育委員会、香南市文化財センターは、二十日午後、同市野市町上岡の上岡山(標高33・9メートル)のアジア太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦闘壕の見学会を開催しました。これには若い母親と子ども、青年など約百二十人が参加しました。高知市の平和資料館・草の家からも館長、事務局長、学芸員、研究員らが見学しました。
 ○…上岡山は物部川の東にあります。同センターの調査では、この壕は、海軍のつくったもので、上岡山の南東から北西にまっすぐ掘られ、途中で山を貫いて掘られた壕と直角にまじわりT字形になっています。壕の総延長は約百二十メートルと推定されます。
 ○…主催者は、駐車場も確保し、A4十四ページの見学者用資料を用意し、壕をライトで明るく照らし出していました。周到な準備に感激しました。見学者は、主催者の用意したヘルメットをかぶり、ライトを持って高さ三メートル、幅三メートル、奥行き三十三メートルの壕に入りました。壁を支えるための丸太を立てる部分は、その形にえぐられていて生なましい印象です。「わー、大きい」、「近くに住んでいるけど、ここにこんなものがあることを知らなかった」の声も。
 ○…解説はセンターの人や地元の人。当時の様子を知る同地区の中屋博明さん(79歳)が「入口には爆風除けの土手がありました。戦後、この壕に入りましたが天井には鉄板がはってありました」、「私の家にも三人の海軍兵が遊びにきていました」と解説してくれました。「鉄板」にはドキッとしました。当時の物資の状況下で、ずいぶん力を入れてつくったもののようです。この山には木と土でつくった小型要塞も二つあったといいます。
 ○…一九四五年五月三日午後三時ころ、上岡地区はB29爆撃機の攻撃を受けます。十人が死亡しました。落とされた約二十の爆弾には時限爆弾もまじっていて当日四発、翌日三発爆発しました。参加者たちは、この空襲の「被爆之[の]碑」、爆弾で壊れた鳥居や狛犬、民家に残った空襲の傷跡、爆弾で爆弾の破片などを見ました。
 ○…時限爆弾の爆発など空襲の被害の実際を語った中屋さんは「こんなことは二度とありたくない。平和な世の中を」と結びました。

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二〇一三年一月二十日 日曜日 窓辺からじっと外見る冬のネコ 哲学してるの「ひやい(つめたい)」だけなの

二〇一三年一月二十日 日曜日 窓辺からじっと外見る冬のネコ 哲学してるの「ひやい(つめたい)」だけなの

 晴れ。

 午前十一時からの高知歌人の歌会。

 僕の歌は、つぎのものでした。

 窓辺からじっと外見る冬のネコ 哲学してるの「ひやい(つめたい)」だけなの

 午後二時半までなのにを正午過ぎに退席。

 そして、平和資料館・草の家の三人で香南市の上岡山の戦争壕の見学会に。

 午後四時ころ、草の家に帰ってきました。

 実は、午後三時に高知市内で短歌作品募集の表彰式があって、「代理」を頼んでありました。

 「代理」さんに「どうでしたか」と電話すると「いけんかった。きちんと約束したわけではなかったし」。「えええっっっ!」。失礼なことをやってしまいました。すみません。

 夜、一つ文章を書きました。

 妻は実家泊。

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2013.01.22

【ニュース】 終末期の医療についての発言 麻生太郎副総理兼財務大臣=いいかげん死にたいと思っても「生きられますから」と生かされたらかなわない。しかも政府の金でやってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうとかいろいろ考えないと、この種の話は解決しない。

 http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2101P_R20C13A1PP8000/

 麻生氏「私はさっさと死ねるように」 終末医療で発言
 2013/1/21 19:30

 麻生太郎副総理兼財務相は21日の社会保障制度改革国民会議で、終末期医療について「私は少なくともそういう必要はないと遺書を書いているが、いいかげんに死にたいと思っても『生きられますから』と生かされたらかなわない。さっさと死ねるようにしてもらわないと」などと語った。
 「政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うとますます寝覚めが悪い」とも述べた。(中略)

 ■麻生氏の発言要旨 (終末期の高額医療について)私は少なくとも遺書を書いて、そういうことをしてもらう必要ない、さっさと死ぬからと書いて渡しているが、そういうことができないと死ねない。死にたいときに死なせてもらわないと困ってしまう。
 いいかげん死にたいと思っても「生きられますから」と生かされたらかなわない。しかも政府の金でやってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうとかいろいろ考えないと、この種の話は解決しない。

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130121/k10014949511000.html

 麻生氏 終末期医療巡る発言で釈明
 1月21日 18時12分 K10049495111_1301211821_1301211833.mp4

 21日に開かれた「社会保障制度改革国民会議」で、麻生副総理兼財務大臣が終末期の医療について、「『生きられるから』といって生かされちゃかなわない。それを政府のお金でやってもらうと思ったら、ますます寝覚めが悪い」などと述べました。(中略)
 「社会保障制度改革国民会議」で、最後に発言を求められた麻生副総理兼財務大臣は、終末期の医療について言及し、「私は遺書に『さっさと死ぬからその必要はない』と書いてあるが、そういうことをしておかないと死ぬことができない。『いい加減、死にたいな』と思っても、とにかく『生きられるから』といって生かされちゃかなわない」と述べました。
 そして、「それを政府のお金でやってもらうと思ったら、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろいろ考えないと、この種の話は解決しない」と述べました。(後略)

 http://sankei.jp.msn.com/life/news/130121/trd13012113100011-n1.htm

 麻生副総理「さっさと死ねるように」 高齢者高額医療で発言
 2013.1.21 13:08 [社会保障]

 麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。(後略)

 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130121-OYT1T01077.htm

 さっさと死ねるよう…麻生氏、終末医療巡り発言

 麻生副総理は21日、首相官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療の患者を「チューブの人間」と表現し、「私はそういう必要はない、さっさと死ぬんだからと(遺書を)書いて渡してある」と語った。
 その上で、「死にたいなと思って、生かされるのはかなわない。政府の金で(延命治療を)やってもらうなんてますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと解決しない」と述べた。(後略)

(2013年1月22日07時31分  読売新聞)

 社会保障制度改革国民会議での、公式の場での発言です。自民党、公明党の安倍内閣の本質を示す発言だと受け取りました。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-01-22/2013012202_01_1.html

 

 2013年1月22日(火)

 風邪薬を保険から外す 介護利用料引き上げ… 社会保障の歳出削減策 財政審分科会 さらなる改悪要求

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二〇一三年一月二十一日 月曜日 乙種飛行予科練習生二十一期の人のお話。

二〇一三年一月二十一日 月曜日 乙種飛行予科練習生二十一期の人のお話。

 曇り、雨。

 午前十時半からOさんの運転で中土佐町久礼へ。

 店先の刺身を料理して定食をつくってくれる店で昼食。

 乙種飛行予科練習生二十一期の人のお話を聞くことができました。鹿児島で横穴壕をつくっていたといいます。

平和資料館・草の家へ。Uさんが企画展を見にきてくれて、コチョウランをプレゼントしてくれたとのこと。

 夜は高知短期大学専攻科の税法二科目。経営学的な内容もあり勉強になりました。この授業は本日で終わり。

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2013.01.23

二〇一三年一月二十二日 火曜日 黒原善太郎さんのことについての調査。

二〇一三年一月二十二日 火曜日 黒原善太郎さんのことについての調査。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。

 四人で昼食。

 黒原善太郎さんの資料入手について行政とやりとり。

 高知県立図書館へ。高知新聞のデータベースで黒原善太郎さんのことについての調査。関連の記事が載っているページがないものが一つありましたが、これで、このデータベース分は終了。

 夜は高知短期大学専攻科の国際法、地方政治を受講。国際法は、あと一回。地方政治は終わり。

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【短歌】 「なんという つまらん人生」 言ってみて…… 

「なんという つまらん人生」 言ってみて そんなふうに 思えてきてる

温子(あつこ)さん 青春ドラマと 同じ顔 「お母さん」役 こなしているよ

  

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二〇一三年一月二十三日 水曜日 「海からあがった弾丸があります。」の電話。すわ、……。

二〇一三年一月二十三日 水曜日 「海からあがった弾丸があります。」の電話。すわ、……。

 晴れ。

 このあいだ平和資料館・草の家の企画展を見てくれた男性から電話。

 「海からあがった弾丸があります。」

 うかがうことにしました。

 その前に、高知新聞データベース部に。一九三二年、三三年の記事のコピーをお願いしました。

 県立図書館へ。郷土のコーナーのイスに座ったら、目の前にいた白人が江戸時代の文献をすらすらと読み、撮影していました。アメリカの大学の先生で江戸時代のことを研究しているとのことでした。

 ここで高知海軍航空隊明見派遣隊にいた人のことを書いた本に出合いました。関係者に電話しました。この人の兄のつれあいに会えることになりました。

 午後から平和資料館・草の家へ。ちょうど、Aさんが来ました。ひとこと、ふたこと話しました。思いは僕と同じようです。

 ここで、FUさんと待ち合わせて「弾丸」の人の所へ。

 戦後、桂浜沖からあがった機関銃のタマなどでした。

 写真は、ここにアップしました。

 https://twitter.com/bqv01222/status/294096545765285888/photo/1

  https://twitter.com/bqv01222/status/294096819229712386/photo/1

  https://twitter.com/bqv01222/status/294097088692756480/photo/1

 夜は高知短期大学専攻科の研究論文発表。

 僕の発表にも、いくつも質問が出ました。うれしい。 

 妻は実家泊。

 実は、昨日、一か月前倒しの「誕生日祝い」をもらいました。

 すごいものでした。

 

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2013.01.25

二〇一三年一月二十四日 木曜日 日本共産党の参院議員選挙高知選挙区の候補者・浜川百合子さんのお話を聞きました。

二〇一三年一月二十四日 木曜日 日本共産党の参院議員選挙高知選挙区の候補者・浜川百合子さんのお話を聞きました。

 晴れ。

 戦争の体験をうかがいにいった先は、たまたま妻の実家のとなりでした。

 日本軍のラッパのマウスピース(?)を買ってきました。平和資料館・草の家の二つのラッパが両方ともなったそうです。

 日本共産党の参院議員選挙高知選挙区の候補者・浜川百合子さんのお話を聞きました。

 「若い」

 「魅力的なお母さん」

 「希望の光」

 話を聞いた人たちの彼女への声です。

 夜は、高知短期大学へ。日本の侵略戦争の歴史についてのメモをつくりはじめました。

 六十五 夜の学生 コンビニで 即席ラーメン 三つ買いこむ

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二〇一三年一月二十五日 金曜日  「もし、三億円が手にはいったら、どうしますか」。

二〇一三年一月二十五日 金曜日  「もし、三億円が手にはいったら、どうしますか」。

 晴れ。

 昨日に続き、会費、雑誌代などをガンガン送金しました。二十万円を突破しました。

 高知新聞データベース部に行ってコピーをいたただいてきました。

 反戦詩人・槇村浩についての雑誌の刊行のための会議に参加しました。

 そのあと、仲間で開いている「四金」のつどいに参加しました。

 指揮者、ピアニストもやってきて「うたごえ」集会になりました。僕の一番好きだったのは「いぬふぐり」。戦争はいやだの心をうたったものです。

 午後八時ころ、Uさん参加。

 「もし、三億円が手にはいったら、どうしますか」の質問についての、みんなの回答がすてきでした。

 「すべて英語教育のために使う」

 「高知市の日曜市の発展のために使いたい」

 「すべて四国のうたごえ運動のセンターをつくるために使う」

 「すべて、いまの資料館の発展のためにつかう」

 NAさんは、一億円は某政党に寄付、一億円は平和団体に寄付、もう一億円で文化のために古本屋をやりたい」

 僕は心が美しい人たちに囲まれて暮らしています。

 家に帰ったら妻は作業中。難しい顔をして一生懸命にとりくんでいました。

 明日は、女性たちのあつまりで高松市に行って一泊してくるとか。

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歌「いぬふぐり」を聴くことができるページがありました。

http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/inufuguri.htm

http://www.utagoekissa.com/inufuguri.html

http://www.youtube.com/watch?v=cREb0bgB2jM

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2013.01.26

【短歌】 軍歌聴き 泣いていますよ この夜は…… 

軍歌聴き 泣いていますよ この夜は 天皇の名で 侵略した人

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自民党が、日本国憲法を根本的に「改正」しようとしています。あなたの、ご意見は。

 一九四一年十二月八日、天皇はアジア太平洋戦争(大東亜戦争)を開戦しました。
 この日、大日本帝国が、イギリス領だったマレー半島のコタバルを攻撃、アメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃、アメリカ、イギリスにに宣戦を布告して、中国との全面戦争に続きアジア太平洋全域に戦線を拡大しました。
 一九三一年九月の中国東北部への侵略(「満州事変」)から終戦までの十五年戦争の結果、三百十万人以上の日本国民と二千万人を超すアジアの人びとが犠牲になりました。
 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」-日本国憲法の前文です。
 これを受け憲法は第九条で、戦争を放棄し、戦力は持たないこと、交戦権は認めないことを決めました。
 再び“殺し殺される”国にならないというのは戦後の再出発にあたっての国民の決意です。
 戦後六十七年、この憲法の下で日本は海外での戦争で一人の外国人も殺さず、日本人が殺されることもありませんでした。
 ところがアジア太平洋戦争の開戦から七十一年にあたる総選挙の中で、安倍晋三総裁のもと自民党が選挙公約で憲法解釈を変更した「集団的自衛権の行使」や憲法そのものを改定して自衛隊を「国防軍」と明記することを持ち出しました。
 集団的自衛権の行使とは、日本が攻撃されていなくても、海外で同盟国であるアメリカの戦争に参加することです。
 自民党は解釈改憲で行使を認めるだけでなく、新憲法案では「自衛権の発動を妨げない」としています。
 これまでの戦争もほとんどが「自衛」が名目でした。
 自衛隊を「国防軍」にするのは名前を変えるだけではありません。
 軍事裁判所などを整備し本格的に戦争する体制を整えます。
 交戦権を否認した条項も削除し、交戦規定など戦争のための法規の準備も狙っています。
 自民党の選挙公約のもとになった「日本国憲法改正草案」は、ここにあります。

 http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf 

 日本が再び“殺し殺される国”になるかどうかの正念場です。
 あなたは、どうお考えでしょうか。

 ●日本共産党は、どうしようとしているのでしょうか

 自民党と対極にある日本共産党は、この問題について、どうしようとしているのでしょうか。

 「2013年党旗びらき 志位委員長のあいさつ」に見ます(しんぶん赤旗、二〇一三年一月十五日付)。

 日本共産党の志位和夫委員長が4日、党本部で開いた「2013年党旗びらき」でおこなったあいさつは次の通りです。
 (中略)
 安倍政権が、憲法改定の野望を実行にうつそうとしていることは、きわめて重大です。
 まず、集団的自衛権の行使にむけた解釈改憲と、憲法96条が定めた憲法改定の発議要件の緩和をおこない、宿願の憲法9条改定にすすむ。これが彼らの改憲スケジュールですが、この道をすすむならば、平和を願う日本国民との激しい矛盾を引き起こすことはもとより、アジア諸国民の強い不信と批判をよびおこさざるをえないでしょう。
 憲法9条問題は、日本の国内問題にとどまるものではありません。この条項は、アジアと世界に甚大な被害をあたえた侵略戦争の反省を踏まえ、日本が二度と再び侵略国とならず、世界平和のための先駆的役割を果たすという「国際公約」であります。これを投げ捨てることは、日本の国際的信頼のはかりしれない失墜となるでしょう。
 さらに、安倍首相は、過去の侵略と植民地支配の誤りを認めた「村山談話」を見直し「安倍談話」なるものに置き換えること、日本軍「慰安婦」問題について軍の関与と強制を認めた「河野談話」を見直すことを公言しています。過去の侵略戦争と植民地支配を美化しようという野望が万が一にも具体化されるならば、日本はアジアと世界で生きていく政治的・道義的地位を失うことになるということを、私は厳しく警告しなければなりません。
 私は、年頭にあたって心からよびかけます。今年を、憲法改悪のあらゆる企てに厳しく反対し、憲法9条を守り生かす国民的運動の新たな発展の年にしていこうではありませんか(拍手)。「9条の会」をはじめとする草の根の運動を大いに発展させる一翼をになって、日本共産党は奮闘するものであります。
 (後略)

 ●衆議院議員選挙の結果を受けての海外のメディアなどの反応

 【中国】

 【北京=小林拓也】衆院選での自民党大勝を受け、17日付の中国各紙には「戻ってきた右翼・安倍晋三」(新京報)、「タカ派の安倍が再び日本の実権を握る」(環球時報)などの見出しが躍りました。
 新京報は「安倍氏の政策・主張が人々を憂慮させている」として、憲法を改悪し国防軍を創設することや日米同盟強化などの政策について危機感を示しました。
 環球時報は「60年以上施行されてきた日本の平和憲法がいまだかつてない挑戦にさらされている」と報じました。
 17日付の中国共産党機関紙・人民日報は、論評記事のなかで、次期首相に対し「正確な歴史観と大局観をもって、アジアの隣国との関係をどう処理するのか、日本にとって特に重要だ」と強調。靖国神社参拝、尖閣諸島(中国名・釣魚島)、平和憲法の三つの問題を挙げ「重大な原則であり、少しもあいまいにすることはできない」と指摘しました。
(しんぶん赤旗、二〇一二年十二月十八日付)

 【韓国】

 【ソウル=面川誠】韓国公営放送KBSは17日、総選挙で自民党と公明党が合わせて3分の2を超える議席を獲得したことで「平和憲法の改定案の発議も可能な絶対安定(多数)議席になった」と報じました。
 安倍氏が改憲による国防軍設置を公約し、領土問題や歴史問題で対外的な強硬姿勢を見せていると指摘し、「右傾化した政策を強行すれば、周辺国との摩擦は避けられない」と懸念を示しました。
 韓国最大紙・朝鮮日報17日付は、慰安婦の強制連行を認めた河野談話(1993年)、植民地支配と侵略の誤りを認めた村山談話(95年)などの「修正」を実行すれば、「韓国、中国、日本の関係に一大波乱を引き起こすだろう」と警戒しています。
(しんぶん赤旗、二〇一二年十二月十八日付)

 【インドネシア】

 インドネシア紙ジャカルタ・ポスト9日付(電子版)は、「日本は安倍首相ではない“明治維新”を必要とする」と題する上級編集委員の論評を掲載し、「右派と超国粋主義の政治家が日本政治を支配し、軍国主義国家の復活の可能性を引き起こすのではないかとの恐れが出ている」と指摘。「安倍政権は日本をより良くするための重要な変化をもたらすことはできないだろう。それをできるのは日本国民だけだ」と述べています。
(しんぶん赤旗、二〇一三年一月十五日付)

 【アメリカ】

 米紙ワシントン・ポスト16日付(電子版)は、2度目の首相就任が確実になった安倍氏の政治方針について、政治アナリストの分析として「優先事項が軍事拡張と平和憲法の改定であることを示すことになる」という点を紹介。憲法改定の動きなどに関心を払っています。
 米紙ニューヨーク・タイムズは、安倍氏が対中タカ派であることを強調。その一方で、「選挙後は、日本にとって最大の貿易相手国である中国との関係を早急に改善することに言及している」と指摘し、安倍氏の特使が緊張緩和のため、北京を訪問したという自民党関係者の話を紹介しました。
(しんぶん赤旗、二〇一二年十二月十八日付)

 「歴史問題について友好的な方法で対話を通じて解決することを望んでいる」―。米国務省のヌーランド報道官は7日、安倍政権の河野談話の見直しについて記者会見で問われ、懸念を示しました。
 ヌーランド氏はまた、「日本の新政権や韓国の新政権、北東アジアのすべての国々が、歴史にしろ領土にしろ、未解決の問題を対話を通じて解決することに注視したい」と述べました。
 同日、2人のニューヨーク州議会議員が、日本軍の「慰安婦」は人道に対する罪だとして日本政府に公式に謝罪を求める決議案を、議会に提出することを明らかにしています。
(しんぶん赤旗、二〇一三年一月十五日付)

 米紙ロサンゼルス・タイムズ11日付(電子版)は、「安倍首相が憲法の平和条項として世界的に有名な9条改定を表明した」と改憲の動きに注目。「自民党は権威主義的で軍国主義的な日本の土台をつくろうと企てている」と指摘しています。
 さらに、2006年に一度政権についた安倍氏が、今回と同様に改憲の野心を持ちながら1年でその政権が崩壊したが、歴史は自動的に繰り返すものではないと指摘。「世界中の人権擁護団体は、自民党の改憲に対して世論を動員しなければならない」と述べています。
(しんぶん赤旗、二〇一三年一月十五日付)

 米紙ワシントン・ポスト同日付(電子版)では、カート・キャンベル東アジア・太平洋担当国務次官補が、日中間の尖閣諸島問題についてアメリカは「懸念と警告」を強めるだろうと述べたことを紹介しました。
 同紙はまた、ビクター・チャ元ホワイトハウス国家安全保障会議アジア部長の解説を示しています。チャ氏は、日韓の敏感な歴史の論争についてアメリカは公的に仲裁すると見なされたくないとし、「(仲裁は)決して成功しないだろう。結局は、日韓に憎まれることになる」と述べています。
(しんぶん赤旗、二〇一三年一月十五日付)

 【イギリス】

 英BBC放送は16日、安倍氏が掲げる政策について、「(大型)公共投資や金融緩和政策に加え、福島の原発事故にもかかわらず原子力エネルギーの容認を約束している」と指摘。これらは「過去の自民党政権が経済再生を果たす上で不成功に終わったもの」であり、新鮮味がないとしています。
(しんぶん赤旗、二〇一二年十二月十八日付)

 【フランス】

 仏紙ルモンド15日付(電子版)は、選挙直前の報道で、「(安倍氏が)日本の戦争放棄の根拠である平和憲法、とりわけ第9条を修正し、(尖閣)諸島に(自衛隊ではなく)“通常の”軍隊を送ろうとしている」と指摘。日本の再武装や靖国神社参拝を掲げる安倍氏の政治姿勢は「日本に何の利益ももたらさないだろう」と論じました。
(しんぶん赤旗、二〇一二年十二月十八日付)

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二〇一三年一月二十六日 土曜日 『高知の戦争 証言と調査』二十号の編集作業。

二〇一三年一月二十六日 土曜日 『高知の戦争 証言と調査』二十号の編集作業。

 晴れ。

 一日中、家で過ごしました。食事は二食、いずれも即席ラーメン。

 夜は『高知の戦争 証言と調査』二十号の編集作業。

 気が付いたらネコのクニョがイスの後ろでたゆたっていました。

 妻は、朝、高松市へ。一泊だとのこと。

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2013.01.28

二〇一三年一月二十七日 日曜日 六十歳で仕事を辞めてからは、休日という概念がなくなってしまっています。

二〇一三年一月二十七日 日曜日 六十歳で仕事を辞めてからは、休日という概念がなくなってしまっています。

 晴れ。

 体調不良です。

 調べていた南国市の大篠警察署のあった場所についてBAさんからファックスをいたただきました。TAさんの父が、戦争中に、大きな木を切るのに反対して、ここにつながれていたそうです。

 昼ご飯を……と外出しました。

 昼食後、「遠征」しようと思ったのですが、胸がパクパクの症状が出たので家に帰って少し寝ました。

 少し動くことをセーブしなくてはと思いました。考えてみれば六十歳で仕事を辞めてからは休みなしに動いています。休日という概念がなくなってしまっているのです。来月二十三日には、なんと六十五歳です。

 夕方、ショッキングな申し入れ。妻も賛同。二月から、いま以上にいそがしくなりそうです。ウ、ウ、ウ……。

 『高知の戦争 証言と調査』二十号、二十一号の編集作業。二つの原稿が生まれました。

 夜、妻が高松市から帰ってきました。

 気が付いたらネコのクニョがイスの後ろでたゆたっていました。

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【ニュース】 あの藤原尋子さん(旧姓・矢野)のブログ「ヒロちゃんと3匹のネコ」ができました。高知、広島、高知、東京で住まい、いまは高知で定住しています。

ここです。

http://hahaoya.cocolog-nifty.com/

彼女のメールアドレスは、ここです。

hfujihara@mbf.nifty.com

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高知海軍航空隊明見派遣隊の航空兵だった大石巖さんのこと。山腹で伐採作業を指揮監督中の事故で……。十九歳の戦病死。

 高知海軍航空隊明見派遣隊の航空兵だった大石巖さんのことをメモしておきたいと思います。
 出典は、広井一夫『甲飛十三期生 大石巖の生涯』(一九八九年)です。筆者は巖さんの実の兄。戦後、高知市の、わが妻の実家の隣に住んでいましたが亡くなっています。

 ● 一九二七年四月二十二日午前六時生まれ。高知市廿代筋七百十三番地(いまは廿代町三番二十四号)で指物師を営む大石秋仲、貞猪の五子、三男。
 ● 一九三四年四月、高知市立第二尋常小学校(跡地の一画・高知病院)に入学。
 ● 一九四〇年三月二十三日、高知市立第二尋常小学校を卒業。
 ● 同年四月、高知市立男子高等小学校に入学。
 ● 一九四一年四月、高知県立高知工業学校土木科に入学。当時の同校は、いまの永国寺の高知県立大学の所。
 ● 一九四三年四月、三年生に進級。
 ● 同年、甲種飛行予科練習生に応募。一次試験は高知、二次試験は鹿児島で。
 ● 同年、甲種飛行予科練習生に合格。
 ● 同年十二月一日、松山海軍航空隊に入隊。第三十二分隊第七班。
 ● その後、二十六分隊を経て、四十一分隊へ。
 ● 一九四四年七月十三日付の高知新聞に高知地方海軍人事部長・伴大佐の対談記事が掲載されました。
 ● 同年九月一日、高知海軍航空隊(偵察教程練習航空団)へ転属。第二十二分隊第四班。
 ● 一九四五年五月十日、陣地構築用の木材切り出しに隊員三十人を引率し、高知県長岡郡久礼田村植田ムカゼ峰に行っていた大石巖二等飛行兵曹は、山腹で伐採作業を指揮監督中、切り倒された松材が一気に急斜面を落下してくるのを認め、直面する部下を突き飛ばし救助した瞬間、その木口が左大腿部に激突、気絶状態に陥りました。
 ● 同年五睦月二十七日、第四十回目の海軍記念日にあたり、明見(いまの高知県南国市明見)の神社で相撲大会と演芸会が開催されました。東方大関の大石巖二等飛行兵曹も相撲大会に出場、一勝しました。「誰っちゃあに負きゃせんがじゃんけど、足が痛うて大腰が掛けれざった」。
 ● 隊付軍医少佐の指示にしたがい民家に滞在して養生していましたが、患部の腫れが増してきました。
 ● 終戦後の一九四五年八月二十一日、海軍病院に指定されていた高知赤十字病院に転送。
 ● 一九四六年四月十二日午後四時二十二分、死去。享年十九歳。戦病死。

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2013.01.29

二〇一三年一月二十八日 月曜日 戦前の平和のための運動にかかわる資料。

二〇一三年一月二十八日 月曜日 戦前の平和のための運動にかかわる資料。

 晴れ。

 KIさん宅へ借りていた資料を返しに行きました。

 NAさん宅に行って戦前の平和のための運動にかかわる資料を三箱借りてきました。

 平和資料館・草の家で、その資料を一生懸命読みました。

 妻のブログをつくる手伝いをしました。

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2013.01.30

二〇一三年一月二十九日 火曜日 あった! 南国市の大篠警察署のあった場所がわかる地図。

二〇一三年一月二十九日 火曜日 あった! 南国市の大篠警察署のあった場所がわかる地図。

 晴れ。

 RIさんの車に乗せてもらってNAさんに資料を返しにいきました。

 ご夫婦で対応していただいて、また別の資料を一箱借りてきました。

 平和資料館・草の家に帰ってきて一生懸命、それを読みました。

 昼食は四人で。

 資料読みを終え、高知県立図書館へ。

 レファレンスをお願いした結果、南国市の大篠警察署のあった場所がわかる地図が見つかりました。調査が、やっと一歩進みました。

 高知短期大学専攻科の一時間目は国際法。これで授業は終わりです。

 あとは、急いで、もう一つの論文を書き上げなければれなりません。

 一時間目が終わってSE先生の退官を祝う会に参加。 

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2013.01.31

漢字の書き順、送り仮名に「これが正しい」という決まりがあるの? 誰が決めたの?

 今夜、テレビで漢字の書き順、送り仮名についてのクイズをやっていました。
 「これが正しい」ということをやっていましたので、疑問がわきました。

 そんなこと、いつ誰が決めたの? 法律でもあるの?
 根拠法を教えてください。

 漢字といっても本家の中国では漢字自体が変わっているので、中国の皇帝か誰かが決めたものを、そのまま守っているのでもなさそうです。
 送り仮名は、もちろん日本のものですが、たとえば江戸時代の文書見ても、それ以降の文書を見てもいろいろありますよね。
 何を根拠に「これが正しい」としているのでしょうか。
 文部科学省関係の何々審議会が「これが正解だ」と決めつけているのでしょうか。

 僕は、書き順はどうでもいい。国民的にはそのような感じの漢字が書ければ「伝わる」と思っています。
 送り仮名も多様であっていいと思っています。伝わればいいと思っています。

 日本語の表記法はいろいろあります。
 日本語は縦書きだったと思いますが、いつの間にか横書きが横行したり、洋数字が使われるようになっています。
 これには僕は「反対」なのですが、まぁ、しかし、いろいろな表現方法があってもいいだろうと渋々容認しています。
 今後、多様に発展していくだろう日本語に変な「これが正しい」は持ち込まないでほしいと思っています。

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二〇一三年一月三十日 水曜日 「福岡県の黒原善太郎さんのことを調べているかたがこられています」。

二〇一三年一月三十日 水曜日 「福岡県の黒原善太郎さんのことを調べているかたがこられています」。

 晴れ。

 「福岡県の黒原善太郎さんのことを調べているがこられています」

 と、いうことで平和資料館・草の家へ。

 黒原さんは、一九三二年ころから戦争反対の運動をしていて、警察につかまって南国市の大篠警察署で殺された人です。

 そのかたと懇談しました。

 そのあと黒原善太郎さんの企画展の説明板つくりの作業。

 BAさんにも、パネル用の地図を描いていたただくようにお願いしました。

 けっきょく、説明板つくりの作業が、いちおう終わったのは午後十時半。

 帰ってからも午前二時半頃まで、その作業をしました。

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【お知らせ】 2月17日(日) 午後1:00~3:00、高知市大津乙の田辺島公民館で「南海大地震に備えた」勉強会

みんなで学びましょう 南海大地震に備えて

 と き:2月17日(日) 午後1:00~3:00
 ところ:田辺島公民館
 おはなし:大村 誠さん(高知県立大学教授)
  
 高知県の「津波浸水予測図」も発表され、近づく南海地震への備え、私たちの具体的なかまえが問われています。東北大震災の研究もされ、防災対策に奔走されている大村先生に、私たちはいま何ができるか、しなくてはならないかをお聞きし、考えるきっかけとしましょう。 
 皆さんお誘い合わせのうえおいで下さい。 

 【田辺島公民館】

 高知市大津乙二二四九の一

 
 【大村誠さんのこと】

 http://www.u-kochi.ac.jp/~bunkagak/staff_omura.html      

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二〇一三年一月三十一日 木曜日 昭和七年~九年の『特高月報』を読みました。

二〇一三年一月三十一日 木曜日 昭和七年~九年の『特高月報』を読みました。

 晴れ。

 平和資料館・草の家へ。
 企画展の準備。

 高知大学図書館へ。
 昭和七年~九年の『特高月報』を読みました。

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