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2013.03.24

二〇一三年三月二十四日 日曜日 【その一】 高知海軍航空隊の隊員だった人の話= 「竹やりと手榴弾二つを持たされて」など。終戦後の山砲隊陣地のことも。

二〇一三年三月二十四日 日曜日 【その一】 高知海軍航空隊の隊員だった人の話= 「竹やりと手榴弾二つを持たされて」など。終戦後の山砲隊陣地のことも。

 曇り。

 オートバイで出発。午前十一時、香南市香我美町下分(しもぶん)に到着。
 高知海軍航空隊の隊員だったKUさんのお話をお聞きしました。

 ・高知農業学校の途中で先生にいわれて甲種飛行予科練習生を受験して合格。
 ・松山市の松山海軍航空隊に。兵科は偵察。
 ・つぎに高知海軍航空隊に。十二分隊所属。
 ・一九四五年になって、アメリカ軍の空襲のときに、タコツボのような塹壕から機関銃で応戦し、少なくても一機のアメリカ軍のグラマン機を撃ち落しました。
 ・特攻に出る練習機・白菊の色を落す作業をやったことがあります。
 ・本隊から明見派遣隊に。介良野(けらの)の民家に住み、近くの山に横穴壕を掘りました。発破係もしました。
 ・七月四日の高知空襲のときは、「破壊隊」としてトラックで出動。はりまや橋の近くの、いまの西鉄インの近くの大きな防空壕のなかで高知海軍航空隊の兵士と若い女性が抱きあって死んでいたのも見ました。
 ・その後、明見から陣山の本隊に異動しました。八月十六日、住吉で爆発があったとき、上官から、偵察に現地に行くように命じられました。そのときは竹やりと手榴弾二つを持たされました。
 ・終戦になってることを知り解散にならないうち家に帰りました。
 ・家に帰ってから自分の家の山に登ったら満州から帰ってきたという陸軍の「護国部隊」がウチの山に山砲を上げていました。

 下分の、その「山砲の場所」に連れて行ってもらいました。
 KUさんの軽快なバイクに二五〇CCのオートバイでついていったのですが、「すべって谷に落ちたら…」とひやひやものでした。
 現場には、大きな横穴壕のくずれたのが二カ所ありました。
 当時の様子は、以下のようだったといいます。
 「山道から山砲を上げていた。頂上が平らにしてあり、そこに山砲を置いた。まわりにはタコツボがいくつかあった。その下の斜面に大きな横穴壕が二つつくられていた。山の松などを切り取って、その壕の支えをつくっていた。」
 雨が降りそうだったので、本日は撤退。また行って調査したいと思っています。

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