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2013.03.24

二〇一三年三月二十四日 日曜日 【その二】 雲辺寺ヶ原の大日本帝国陸軍第十一師団の監視哨(かんししょう)=友人が現地から電話をくれました。

二〇一三年三月二十四日 日曜日 【その二】 雲辺寺ヶ原の大日本帝国陸軍第十一師団の監視哨(かんししょう)=友人が現地から電話をくれました。

 曇り。

 午後五時半前、八十八カ所巡礼中の友人・ARIさんから電話。
 「トーチカというたけど、トーチカやのうて監視哨やった。監視哨と看板の写真を撮った。」
 徳島県、香川県の境の雲辺寺周辺からだとのことです。
 同寺は、徳島県三好市池田町白地ノロウチ七六三の二、第六十六番札所です。
 その近くの雲辺寺ヶ原史跡広場にドーム型の監的哨(砲弾が着弾した場所を監視するための建物)が残っているとのことです。
 「ここの看板よむぜ」

 「雲辺寺山(海抜九一一メートル)の北西山麓に広がる丘陵地帯を雲辺寺ヶ原と称している。約四百ヘクタールにおよぶこの台地は約百二十万年前(新生代更新の時代)地殻の大変動によって、山の中腹から削り剥がれた岩礫が堆積してできた洪積層台地である。
  (中略)
 明治二十八年、日清戦争に勝利を得た日本は、富国強兵を国是として陸軍の増強を図った。翌二十九年、善通寺に陸軍第十一師団が設立され初代師団長として乃木希典中将が赴任した。
 明治三十三年には、この雲辺寺ヶ原が第十一師団の山砲射撃場の候補地として挙げられ、住民と再三にわたる交渉の結果、翌三十四年には陸軍用地となり以来四十五年の間、山砲の射撃場として砲声が谷間にこだました。
  (中略)
 かって四十有余年の間砲声の轟いていた台地は今また静寂と平和を取り戻し緑の大地に生まれ変わって、住民の憩いの丘となり、今や観光の拠点となっている。」

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