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2013年4月

2013.04.02

【短歌】 iPadの音声での答え

 かけ参じ 映写機回す 魔術師は わが友である ほこらしいこと

  「憲法の 記念日は、いつ?」 iPad 日にち答えて 「休みたい」とか

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二〇一三年四月一日 月曜日 高知短期大学の学生論集をゲット。僕の高知県における風船爆弾づくりの論文も載っています。 

二〇一三年四月一日 月曜日 高知短期大学の学生論集をゲット。僕の高知県における風船爆弾づくりの論文も載っています。 

 晴れ。

 高知市鴨田で女性に、アメリカ軍の艦載機・グラマンが来襲した時のこと、アメリカ軍のB29が墜落したときのこと、B29の高知空襲のときのこと、鷲尾山の頂上の監視哨(かんししょう)のことなどの話を聴きました。高知短期大学を卒業した女性の紹介です。彼女は、この日も、お話を聴かせていただけるかたのお宅に案内してくれました。ありがとうございました。

 B29の高知空襲のとき逃げ込んだ町内の共同の防空壕が、つえていますが面影を残していました。

 その近くの小山に上ると、ここも横穴壕がたくさんありました。

 高知というのは、ものすごと所だと実感しました。

 出ました。高知短期大学の学生論集。ゲットしてきました。僕の高知県における風船爆弾づくりの論文も載っています。

 つ、ついに ipad mini を購入。

 夜中に小学校六年生の孫娘と音声指示を試しました。まだ、うまくいきません。 

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2013.04.03

二〇一三年四月二日 火曜日 入学式用の「それらしく見える靴」。 

二〇一三年四月二日 火曜日 入学式用の「それらしく見える靴」。 

 雨。

 妻、娘、娘の二人の娘は食べ放題のレストランへ。

 僕は雨のなか、妻の代行などでバイクで駆けめぐりました。

 ・二五〇CCのオートバイの保険の手続きに。

 ・僕の口座への入金(ほとんど〇円になっていたので…)。

 ・平和資料館・草の家へ資料の返還。

 ・高知県立図書館に行って震洋などの資料調べ。

 ・靴を買いました。入学式用の「それらしく見えるやつ」です。いつもは後ろを踏みつけたやつか登山靴か、どちらかをはいて行動しています。

 家に帰ってしばらくすると娘、娘の娘たちが帰ってきました。

 ちょっとした珍事があったそうです(当事者から執筆を禁じられています。なんかモーレツに食べ過ぎたことによる出来事だったようですが……)。

 娘の娘たちは、僕の弟、妻、娘とトランプ遊び。

 僕は『高知の戦争 証言と調査』の編集作業。

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【短歌】 ぴゅんと出た 胸張って見せ 誇らしげ……

 ぴゅんと出た 胸張って見せ 誇らしげ

 アニメファンの

 小六の孫

 

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iPad マニュアル これが、わかりやすかった。

http://www.youtube.com/watch?v=-soEjApSBvI

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二〇一三年四月三日 水曜日 娘の長女(小学校六年生)は、朝から東京へ向かいました。列車の一人旅です。

二〇一三年四月三日 水曜日 娘の長女(小学校六年生)は、朝から東京へ向かいました。列車の一人旅です。

 晴れ。

 娘の長女(小学校六年生)は、朝から東京へ向かいました。列車の一人旅です。

 東京の家で夜のアニメ「イナズマイレブン」が見たいというのが理由です。

 無事についたようです。

 「旅行は」

 「楽しかった。うん」

 「アニメは」

 「楽しかった。うん」

 僕は、FUさんと高知城の、ある場所に入れてもらって見学しました。

 そして、二人で高知県立図書館へ。

 彼は、いっぱい収穫を抱えて帰りました。

 僕も、ひとつだけ収穫がありました。

 夜は『高知の戦争 証言と調査』の編集作業。

 あすは入学式。楽しみです。

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2013.04.04

二〇一三年四月四日 木曜日 バイクで香南市夜須の住吉の震洋隊の爆発事故の現場へ。

二〇一三年四月四日 木曜日 バイクで香南市夜須の住吉の震洋隊の爆発事故の現場へ。

 晴れ。

 高知県立大学、同大学院の入学式に行きました。
 午前十時開始。高知県立県民文化センターオレンジホールで。
 われらが大学院人間生活学研究科は女性七人、男性七人。
 指定されて座った席の右どなりは牧師さん。話がはずみました。
 終わってから彼と、その右の彼と「よろしく」と握手。
 帰りに、男性一人、女性一人とも顔合わせをしました。
 
 平和資料館・草の家へ。
 
 そして、バイクで香南市夜須の住吉の震洋隊の爆発事故の現場へ。
 地元の男性から、お話をお聞きしました。
 通りすがりの女性に聞くと、当時のことを本にしようとしている女性もいるとのことでした。

 そのことは、ここにアップしました。

 https://twitter.com/bqv01222/status/319815698668986370/photo/1

 https://twitter.com/bqv01222/status/319816521436233728/photo/1

 https://twitter.com/bqv01222/status/319817420242030594/photo/1

 https://twitter.com/bqv01222/status/319818153578356736/photo/1

 MAさんから、この事故の調査について電話をいただきました。ありがとうございます。

 首都圏にいる、この特攻基地の隊員だった人のお話を聞くことができるようになりました。
 あす夜、夜行の高速バスで出発する予定です。

 高知文学学校へ。二科目受講。

 家に帰って妻、娘、娘の娘と対話。
 妻の病気の原因が分かったとのこと。

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2013.04.05

高知新聞の「社説」、「【高知短大廃止】学ぶ意欲を受け止めねば」が提起したこと。

  高知新聞の四月四日朝刊の「社説」は「【高知短大廃止】学ぶ意欲を受け止めねば」。

 ぜひ、お読みください。

 http://www.kochinews.co.jp/Voice?&nwSrl=300886&nwIW=1&nwVt=knd

 

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2013.04.07

二〇一三年四月五日 金曜日 夜の高知、新宿の高速バスで川口市に。

二〇一三年四月五日 金曜日 夜の高知、新宿の高速バスで川口市に。

 晴れ。

 夜の高知、新宿の高速バスで川口市に向かいました。

 夜を駆けて朝、東京に着くというバスを待ってる青年の群れ

 新宿まで十一時間です。

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二〇一三年四月六日 土曜日 「高知の十三番」と呼ばれていた男性。

二〇一三年四月六日 土曜日 「高知の十三番」と呼ばれていた男性。

 雨。

 早朝、新宿駅西口着。

 山手線
 人身事故の アナウンス
 いつものような 東京の朝

 十両に いっばい人が 乗りこんで 土曜の朝の 東京電車

 川口駅の三百九十円朝食を楽しみました。

 午前中、高知の住吉の震洋隊にいた人からお話を聞かせていただきました。特殊任務についていて、伝令のときは「高知の十三番」と呼ばれていたそうです。特攻の訓練もしていたといいます。
 そのかたの紹介で、この関係の本を書いている人と電話で話しました。

 新宿でiPadのキーボードを買いました。

 新宿駅西口
 そのホームレス君は
 歩道わきで
 布をかぶって
 寝はじめました。
 午後五時のことだ
 誰も声をかけようとしません。
 そう、僕もです
 高知駅前にホームレスが寝ていたら。
 僕は、きっと声をかけます。
 「だいじょうぶかい。僕でなんか役にたつかい」
 何か、数年前まで住んでいた東京の心のあり方に戦慄しました。
 だいじょぶかい。

 夜、新宿駅西口から高知行きのバスに。

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2013.04.08

二〇一三年四月七日 日曜日 高知県立大学のオリエンテーション。

二〇一三年四月七日 日曜日 高知県立大学のオリエンテーション。

 晴れ。

 午前中から高知県立大学のオリエンテーション。

 僕と同じ分野を専攻するのは男性四人、女性一人でした。

 夜、原稿づくりの作業をはじめましたが、作業がはかどりません。車中泊二日で三日の関東行がこたえているようです。

 

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【耳より】 『日本海軍須知(すち)』(日本海事調査会編)が、ここになりました。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845257

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二〇一三年四月八日 月曜日 高知県立大学大学院の前期授業料、関連費用を支払いました。

二〇一三年四月八日 月曜日 高知県立大学大学院の前期授業料、関連費用を支払いました。

 晴れ。

 高知県立大学大学院の前期授業料、関連費用を支払いました。やっとです。

 他から見れば少し安いと思いますが、私にはヘビーな額です。

 妻のやっかい(一部負担)にならなかったので妻は喜んでいます。

 支払いのさい、S銀行で、また「お子様のですか」の質問。

 ………

 高知県立大学で健康診断を受けてきました。

 家に帰って長い記事を一本書き上げました。

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iPadからアップ

アイパットからアップできるようにしました。

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ネコ疥癬 人にもうつるよ。


ネコ疥癬にご用心。
人間にもうつります。

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【ニュース】「“米軍駐留は9条違反”の伊達判決 安保改定遅らせた」の記事。

 しんぶん赤旗 2013年4月8日(月)

 「“米軍駐留は9条違反”の伊達判決 安保改定遅らせた」の記事と関連記事が、ここにあります。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-08/2013040801_01_1.html

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-08/2013040802_03_1.html

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2013.04.10

二〇一三年四月九日 火曜日 一九四五年八月十六日の高知県夜須町住吉の震洋艇事故についての展示のことで相談。

二〇一三年四月九日 火曜日 一九四五年八月十六日の高知県夜須町住吉の震洋艇事故についての展示のことで相談。

 晴れ。

 高知県立大学へ。聴講の件。

 平和資料館・草の家へ。一九四五年八月十六日の高知県夜須町住吉の震洋艇事故についての展示のことでNAさんと相談。

 名刺を注文しました。三百枚。

 高知市長浜のMAさん宅へ。震洋艇事故の展示のことで知恵をお借りしました。帰りにタケノコをいただきました。

 自分の入学祝に、あるモノを買いました。

 『高知の戦争 証言と調査』の編集作業。

 もう午前二時十分です。寝なければ……。

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【ニュース】 平和資料館・草の家が、「憲法とわたし 憲法が好きやき。こじゃんとほめちゃって!」のメッセージを募集中です。

 平和資料館・草の家が、「憲法とわたし 憲法が好きやき。こじゃんとほめちゃって!」のメッセージを募集しています。
 以下、呼びかけ文から。
 〈今ある日本国憲法へのあなたの思いを短文(詩、短歌、俳句含む)、書、写真、イラストで表現してみませんか? 短文のみの場合は200字以内でお願いします。
 その作品を平和資料館・草の家にお寄せいただけませんか?
 みなさまの憲法への思いをあつめて、「草の家だより」や「草の家主催の企画展」、夏の「戦争と平和を考える資料展」内で掲載、展示をさせていただきたいと企画しています。
 展示の場合は、最大A3サイズでラミネート加工させていただきます。
 なお、作品の返却はできませんのでご了承ください。
 *1次締め切り 4月20日(土)
 *2次締め切り 5月11日(土)
 日本国憲法は1947年5月3日に施行されました。
 日本国憲法は、それまでの国のありかたを改め、国民に主権があること、戦争を放棄し戦力を保持しないこと、基本的人権を尊重することなど、国(政府)が国民を守ることを求めました。
 しかし、今、主権を国民から取りあげる、交戦権を認める、基本的人権を制限する日本国憲法に変えようという動きが出ています。18歳から20歳までは全員自衛隊に入れようなどの議論も起こっています。〉
 平和資料館・草の家の連絡先は、以下の所です。
 〒780-0861
  高知市升形9-11
 平和資料館・草の家
 電話 (088)875-1275 FAX(088)821-0586
 Eメール  GRH@ma1.seikyou.ne.jp 

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2013.04.11

【短歌】 新しい年度の始まり 藤原 義一

つんつんと ふくらんでいる 胸さらし 自慢げである 中学になる

小六で 英検五級 合格か 僕もそろそろ 孫を追おうか

「教育費、かかるもんねえ」 妻がいう 僕の院での 授業料かね

「専攻は 文学なんです」 あらためて 明治の小説、線引いて読む

牧師さん、社長さんも 同級で 大学院の 日々が始まる

忘れてた カードから出た 金加え 授業料を 払った良き日

深夜バス 高知、新宿駆け抜けて 特務兵士の 体験を聴く

街中の 丘の小穴に ずりこめば パッと広がる 兵のいた壕
 
「憲法の 記念日は、いつ?」 タブレット 日にち答えて 「休みたい」とか

「憲法の ここが好きです」 メッセージ 募集してる 平和の館

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二〇一三年四月十日 水曜日 香南市の三宝山の長い交通壕。

二〇一三年四月十日 水曜日 香南市の三宝山の長い交通壕。

 曇り。

 四時間しか眠っていません。やはり調子がでません。

 午前九時から正午まで、FUさんと香南市の三宝山へ。

 ロープのついている岩がありました。FUさんは、するすると登りました。「僕は無理……」。しかし、FUさんの励ましでやっと登りきりました。

 タコツボのようなもの、砲をおいたような壕の跡、交通壕のついて壕の跡……。この地域も陣地だったようです。

 下りは幅一メートル以内の山道を下りました。

 途中から交通壕になります。私の背丈ほども掘り込んだものです。これがふもとまでずっと続いていました。

  https://twitter.com/bqv01222/status/322175768794918914/photo/1

 行き止まりになった所の石垣をよじ登ると、作業場があり男性が二人いました。

 「ここはどこですか?」

 「○○寺の境内だよ」

 近くに「防空壕」や終戦の時、兵隊が銃をたくさん埋めたという場所もあると教えてくれました。

 

 高知県立図書館にいって資料探し。

 いくつかの成果がありました。

 夜は短歌関係の原稿を二本書き上げました。

 あした見直して提出することとしましょう。

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二〇一三年四月十一日 木曜日 住吉の震洋隊についての文献。

二〇一三年四月十一日 木曜日 住吉の震洋隊についての文献。

 晴れ、少し雨。

 うっふふふ、新しいデジタルカメラを注文しました。
 画素数が多くて、小さくて、レンズのフタがしまるやつ。

 午後一時から短歌雑誌の編集に参加。

 平和資料館・草の家に行って作業。

 夜は高知文学学校の授業を受けました。

 家に帰ってからOさんと電話。
 住吉の震洋隊についての文献を教えていただきました。

 妻は実家泊。

 買ってきた 「一刻者(いっこもん)」を 飲んでいる 頑固者って いい響きだね

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2013.04.13

二〇一三年四月十二日 高知県の西部の市の二つの山で、それぞれ一つのトーチカ跡を見学。

二〇一三年四月十二日 高知県の西部の市の二つの山で、それぞれ一つのトーチカ跡を見学。

 晴れ。

 午前九時前からFUさんと高知県の西部の市へ。

 二つの山で、それぞれ一つのトーチカ跡を見学しました。

 平和資料館・草の家で作業。

 槇村浩さんのことを書いて本にしたいとという埼玉からこられた男性と会食。

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二〇一三年四月十三日 うっ、地震。

二〇一三年四月十三日 うっ、地震。

 晴れ。

 うっ、地震。

 震度3くらいか。

 午前五時三十三分ころでした。

 また寝てしまいました。

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2013.04.14

二〇一三年四月十四日 日曜日 いの町天王、高知市針木の山々のふもとの横穴壕。

二〇一三年四月十四日 日曜日 いの町天王、高知市針木の山々のふもとの横穴壕。

 晴れ。

 産卵を 終えて静かに 逝くという チョウの切なさ 子らの格闘

 テレビの秋吉台のチョウの生態を見て。

 いの町天王へ。

 YAさんに会いました。

 「この近くのアジア太平洋戦争のころの陣地を調査したいので協力してほしい」

 当面、「ひとこま」だけ時間をいただけることになりました。

 帰りに天王、高知市針木の山々のふもとを観察すると、大きな横穴壕のくずれたものなどがいっぱいありました。

https://twitter.com/bqv01222/status/323422729766326275/photo/1

https://twitter.com/bqv01222/status/323423809350819840/photo/1 

 「夜間の二年制」の大学をつくろうというつどいに参加しました。

 高知市の布師田(ぬのしだ)に戦争のときの交通壕らしいものがあると連絡をいただいたKUさんと連絡がつきました。

 うれしい。

 高知ペンクラブの文芸展に出すパネルを仕上げました。乱調の見る人によっては「おもしろい」ものができました。

 なんか、外は雨と雷のような音。……

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【ニュース】 第四十三回総合文芸展。四月十六日(火曜日)~二十一日(日曜日)、高知市九反田の、かるぽーと七階第五展示室。

 第四十三回総合文芸展(高知ペンクラブ)

 四月十六日(火曜日)~二十一日(日曜日)

 高知市九反田の、かるぽーと七階第五展示室

 藤原義一は短歌を出品します。

 「はしゃいでる 動物園の 子らの声 聞きつつ歩く 決戦陣地」

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2013.04.15

二〇一三年四月十五日 月曜日 高知市布師田(ぬのしだ)側から石渕山へ登りました。

二〇一三年四月十五日 月曜日 高知市布師田(ぬのしだ)側から石渕山へ登りました。

 晴れ。

 高知ペンクラブの文芸展に出品。

 KUさんに案内していただいて高知市布師田(ぬのしだ)側から石渕山(標高八五・三メートル)に登りました。このことは、ツィッターにアップしました。

 https://twitter.com/bqv01222

 高知駅前の古本屋へ。

 「百五円 戦争ものが 出ているよ」 からのバッグを 持っていってる

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【ニュース】 日本国憲法96条改定問題 いくつかのサイト

 ○ 日本共産党の態度

 http://www.youtube.com/watch?v=NuroHJ4Ov-E
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-12/2013041201_02_1.html

 〇 高知新聞の社説

 http://www.kochinews.co.jp/Voice?&nwSrl=301328&nwIW=1&nwVt=knd

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2013.04.16

二〇一三年四月十六日 火曜日 学部の授業に出ました。

二〇一三年四月十六日 火曜日 学部の授業に出ました。

 晴れ。

 二時間目、三時間目、四時間目、五時間目と学部の授業に出ました。

 帰ってから英作文の予習。

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2013.04.17

二〇一三年四月十七日 水曜日 持っていくバッグを曜日別にわけましたが……。

二〇一三年四月十七日 水曜日 持っていくバッグを曜日別にわけましたが……。

 雨、曇り

 雨のためYAさんと約束していた、いの町の山の戦跡調査は中止。

 ひたすら『高知の戦争 証言と調査』の編集作業。

 やっと校正段階にこぎつけました。

 ある人から紹介していただいた大阪府の戦争体験者宅に電話しました。奥さんが出てきて「夫は痴呆になって……」。

 高知県立図書館へ。二冊返して八冊借りてきました。すべて小学校の記念誌です。

 授業のノートの整理。

 バッグを、曜日別などに、いくつかにわけました。

 ● 大学院の授業に持っていくもの。

 ● 学部の授業に持っていくもの。

 ● 図書館に行くときに持っていくもの。

 ● 普通の日と調査のときに持っていくもの。

 これとは別に共通の小物入れをつくりました。

 うまくいくかな?

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【文学】 志賀直哉さんの『焚火(たきび)』の評価。

 志賀直哉さんの『焚火(たきび)』を勉強したいと思っています。
 データがあれば教えていただけませんでしょう。

 【僕が、いままで見たサイト】

 ● 朗読があります

 http://www.ohanashipod.jp/podcast/fujii/2011/11/post_17.html

 http://www.ohanashipod.jp/podcast/fujii/2011/11/post_18.html

 ● 志賀直哉

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89

 ● 志賀直哉『焚火』――教科書の風景 21

 http://www.geocities.jp/seppa06/0401kyokasyo/9912.htm
 
 ● 心を打つ情景 (「焚火」 志賀直哉)

 http://ameblo.jp/isadat/entry-10002894213.html

 ● 「焚火」「或る朝」「城の崎にて」を読む

 http://salu.at.webry.info/201009/article_5.html

 ● [Review]「焚火」志賀直哉

 http://d.hatena.ne.jp/a_hacy/20081225/1230147023

 ● 志賀直哉の世界

 http://mten.ifdef.jp/121113.html

 ● 焚火、描写の妙

 http://kiyu-10.jugem.jp/?eid=444

 ● 映像にしたい場面

 http://bookbookbookish.blog.eonet.jp/default/2010/11/post-c69c.html
 
 ● 『真鶴』

 http://elsur88.blog77.fc2.com/blog-entry-649.html

 ● 三 「『話』らしい話のない小説」の実践

 http://www16.tok2.com/home/michiko/hanasi.htm

 ● 志賀直哉の初期作品の表現論的考察

 http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/nonami/2004shuuron/takada.html

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2013.04.18

二〇一三年四月十八日 木曜日 〈『プロレタリア文学』の反戦詩と槇村浩〉について書きたいと思い立ちました。

二〇一三年四月十八日 木曜日 〈『プロレタリア文学』の反戦詩と槇村浩〉について書きたいと思い立ちました。

 晴れ。

  平和資料館・草の家で、西森遼子事務局長と一緒に草の家の本の整理をしました(主に戦前のもの)。
 高知県における風船爆弾づくりについての僕の記事がほしいということで来てくれたOさんが本棚の移動などを手伝ってくれました。
 感謝。
 草の家に『プロレタリア文学』が全巻そろっていることがわかりました(復刻版をふくめて)。
 〈雑誌『プロレタリア文学』の反戦詩と槇村浩〉について書きたいと思い立ちました。

 SAさんから高知県における風船爆弾づくりについての問い合わせの電話。高知県における風船爆弾づくりについての僕の記事を、お送りすることにしました。

 草の家で、DAさんの料理を、ごちそうになりました。
 僕より一歳下の彼女は、「また」ダウンしていたようです。
 心配した彼女の「つれあいさん」が、横浜からやってきていました。
 少し落ち着いたころ、突然、DAさんは、僕を批判し始めました。
 MAさんが、DAさんの、その様子を見ていて「元気になって良かった」。DAさんの、しみじみといった言葉に感激しました。この人、いい人という感じです。
 僕も、ほんとうに良かったと思っています。
 人を批判する気力が出てくればグーです。
 公平に評価すると、僕の価値は、「サンドバック人間」です。
 もっとも、かなり「性格の悪い人」だから、しかたないですが……。
 
 午後一時半、KAさんと高知市永国寺の高知県立大学の大学院生の部屋へ。
 先輩のSIさんがいました。
 彼は、僕の息子の世代です。
 彼に、いろいろ教えてもらいました。
 感謝。

 平和資料館・草の家で、MAさんと新しい企画展の準備作業。

 夜は高知文学学校へ。
 はつらつとした女性の先生の「能」についての講義に触発されました。

 夜、『高知の戦争 証言と調査』の編集作業を始めましたが、途中でダウン。
 「エストレ ガンサド(私は、疲れている。スペイン語)」

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【ニュース】「明日の自由を守る若手弁護士の会」が、できていました。

 http://www.asuno-jiyuu.com/

 心強いね。

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2013.04.19

【エッセイ】 たった一つの論文。 

 「CiNii NII論文情報ナビゲータ」を検索中に、ふと、「僕の書いたものは載っているかな?」。で「藤原義一」で検索しました。
 結果は、「ダバオ、バリックパパン海軍航空基地第二設営班慰安所の資料 戦争責任研究 戦争責任研究 -(75), 63-66, 2012 日本の戦争責任資料センター」のみ。
 うーん、二十歳から毎日のように文章を発表してきましたが、このサイトで論文として認められているのは、これっきりかよ。
 ………

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二〇一三年四月十九日 金曜日 原著論文を検索。

二〇一三年四月十九日 金曜日 原著論文を検索。

 晴れ。

 「CiNii NII論文情報ナビゲータ」で「健康と生活習慣や環境」をテーマにした原著論文を検索しました。

 大学院の授業の課題です。 

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2013.04.21

【ニュースエッセイ】 政経部長部長の「TPPには反対だ」。

  四月二十一日の高知新聞朝刊三十面の「喫水線」は同社政経部長・野本裕之さんの「TPPには反対だ」。
 なぜかとという「高知が好きで、住んでいる人も好きだから」。
 七段分のこらむです。
 じっくりその理由をといています。組筋のとおった話になっています。
 ときどきこうした記事を出すので、この新聞は県紙として大きな位置をしめていられるのだとと思います。

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【研究】 吉田豊道の反戦詩人・槇村浩への飛躍 はじめに 藤原 義一

吉田豊道の反戦詩人・槇村浩への飛躍 はじめに 藤原 義一
 
 槇村浩(まきむらこう)は戦中の一九三二年からに「お上」に弓を引き「お上」の侵略戦争を詩で批判した高知の青年です。
 東京で発表された雑誌などに数編の反戦詩が掲載されました。
 高知の男女青年たちが高知市内や高知市朝倉の大日本帝国陸軍歩兵四十四連隊などに配布された反戦ビラの原稿も書きました。
 その後、治安維持法違反で逮捕され、投獄されました。
 獄中で精神に異常をきたし、それがもとで二十六歳の生涯を終えました。
 しかし、彼の詩は中国にも渡り、その地の朝鮮民族の子どもにも教えられました。
 戦後、彼がふたたび世に出たのは一九六〇年代でした。
 ある作家のもとに保管されていた彼の原稿が出版され始めました。
 私は、その時期に高知で大学生活を送り(三年間でしたが…)、先輩たちとの交流のなかで彼の作品と出合い、心をゆすぶられました。
 いま、槇村浩をめぐる高知市の状況を見ると、いろんな資料館で彼のことが評価されています。
 民間の資料館、平和資料館・草の家は専門的に彼の表彰をしています。城西公園には彼の反戦詩「間島(かんとう)パルチザンの歌」の碑があります。高知県立文学館には彼のコーナーがあります。旧土佐藩主山内家下屋敷長屋資料館の展示では高知の代表的な文学者の一人として彼についてのパネルを飾っています。高知県立図書館は彼の著作の原稿を収蔵しています。土佐山内家宝物館は彼の小学生時代の文集を所蔵しています(「土佐国」の判子がおされたものです)。高知市立自由民権記念館は彼の書簡を収蔵しています。
 高知県で出された出版物で槇村浩について書かれたものを読むと革新的な人も保守的な人も彼に一目をおく文章を書いています。彼と彼の作品を批判する文章は見当たりません。
 彼の生涯については土佐文雄『人間の骨』(東邦出版社。一九七四年)、大原富枝『ひとつの青春』(講談社。一九六八年)と二つ小説がでました。映画「人間の骨」(脚本・監督・木之下晃明。劇場公開日・一九七八年五月十一日)もできました。演劇にもなりました。いままた、新しい演劇の上演が準備されています。
 私は、この数年、彼の作品や、彼についての文章をあらためて読んできました。
 そのなかで解明したいテーマが生まれました。
 「小学生のころは、比較的体制に順応な内容の文章を書いてきた吉田豊通さんが、中学校を卒業して何か月後かには反戦詩人・槇村浩してたちあらわれますが、彼が、どこで、どう考え方を変えたのかがわからない。そのことを知りたい」
 小学校のころの文章はかなり残っています。
 詩人としての彼の文章は、あります。
 しかし、中学生のころのものはありません(中学校時代に同人誌を出していたという記述はありますが、現物は不明です)。
 そこで、私は、彼が残した文章を読みなおすとともに、彼の同級生などが彼について書いた文章を探して読みながら、そのテーマを解決しようと思い立ちました。
 その試みは、二〇一二年春に始まったばかりです。

 この原稿は、いろいろ寄り道をしながら、ゆっくりとゴールに向かっていきます。

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【研究】 吉田豊道の反戦詩人・槇村浩への飛躍 総集編

 ● はじめに

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2013/04/post-f4c0.html

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ①  「神聖にして侵すべからず」の人の支配のもとで

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-ea12.html

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ② 吉田の尋常小学校生のころ

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-69b5.html

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ③ 私立土佐中学校生徒のころ

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-2c17.html

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ④ 高知県立中学海南学校の二年生に

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-712f.html

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ⑤ 岡山市の関西中学校五年生に

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-432e.html

 〈読む年表〉 皇国の唱歌をつくる吉田豊道から反戦詩人・槇村浩へ転機は何か ⑥  高知へ帰ってからの十四か月間

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2012/10/post-9556.html

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2013.04.22

高知の澤田智恵さんの誌「一筆啓上 母上様」をツィッターにアップさせていたただきました。

【一】
https://twitter.com/bqv01222/status/325997533061074944/photo/1
【二】
https://twitter.com/bqv01222/status/325998022578274304/photo/1
【三】
https://twitter.com/bqv01222/status/325998469829492736/photo/1
【四】
https://twitter.com/bqv01222/status/325998775292268544/photo/1
【五】
https://twitter.com/bqv01222/status/325999777047273475/photo/1 
【六】
https://twitter.com/bqv01222/status/326000184175775746/photo/1
【七】
https://twitter.com/bqv01222/status/326000577022672896/photo/1 
【八】
https://twitter.com/bqv01222/status/326001477053186048/photo/1

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【槇村浩研究のために】 雑誌『プロレタリア文学』の反戦詩 注・どんどん書き入れていきます。

【槇村浩研究のために】 雑誌『プロレタリア文学』の反戦詩

 一九三一年九月十八日、満州事変がぼっ発しました。
 大日本帝国の中国侵略戦争がエスカレートし、日本の文学にも大日本帝国の侵略と対峙する作品が求められていました。
 そんななか、一九三二年一月、雑誌『プロレタリア文学』が創刊されました。
 一九二九年二月に結成された日本プロレタリア作家同盟の機関誌です。
 翌年、一九三三年十月号で終刊となりました。
 これらの号に、反戦の詩は発表されたのか、その内容はどうだったのかということで、その各号を読んでいきたいと思います。

 〈一九三二年一月号〉

 森山啓、上野壮夫、伊藤信吉(二編)、伊藤信二、山田清三郎、多田泰夫、木原豹、一田アキが詩を寄せています。「職場の歌」も七編載っています。ここでは反戦詩はみられません。
  この号の「日本プロレタリア作家同盟活動報告」には、前年の同同盟の高知での講演会の記録も載っています。
 講師は、江口渙、貴司山治、池田寿夫で、十二月三十日は高知市の高知座(約五百人)、十二日一日は「高知県下廣町」(約二百人)、二日は「同 山田市」(二百人)。
 同誌には『レーニン研究 一月号 レーニン追悼特別号』の広告も載っています。

 <一九三二年二月号>

  巻頭は「諸情勢とわが同盟緊急の任務」。いまこそ、良質の反戦文学作品をという呼びかけです。
 これは、つぎに資料としてアップしました。

「ninmu_2.pdf」をダウンロード

  詩は四編、「職場の歌」は七編載っています。
 このうち、今野大力の詩「凍土を噛む」は北満に送られた日本軍の負傷兵、「おれ」「おまえ」を「おれたちは××場へ送られたきた/馬/豚/牛だ!/いつ××るかも知らない/おれたちは今××れかけてゐる」とうたっています。伏字が多くて意味がとれない所がありますが、この戦争をやめること、中国、ソブェート・ロシアの「仲間」と共同することを呼びかけているようです。
 「編集後記」では、原稿量の関係で勝本清一郎の「満蒙事変と日本プロレタリア作家」、池田寿夫の「過去の反×文学と今後の方向」などを「割愛」したことがのべられています。
 この号には『レーニン研究 二月号』、『レーニン選集』の広告も載っています。

  <一九三二年三月号>

 詩の欄に五編、「職場の歌」に七編の作品が載っています。
 「職場の歌」に九州の田村武の詩「時計」があります。「入営する」俺の決意を歌ったもので「俺は軍服をつけた俺たちの仲間が/一ヶ連隊もゐる 新しい重要な職場にはいる/俺は銃の手入れをしながら/俺は俺の隣に眠る者に/×は誰であるかを教へなければならない」とうたっています。

 この号には『レーニン研究 三月号』などの広告が載っています。

 <一九三二年四月号>

 これを読んでみると、プロレタリア文学の批評者たちが満足するような、当時の事態に応じた反戦文学は、まだ生まれていなかったようです。

 佐野嶽夫という詩人が「詩に関する断片」という文章を書いています。

 彼は、そのなかの「反戦詩」という項目で「サトーハチロー、北原白秋、西條八十等のブルジョア詩人が好戦的な小唄を次々と発表してゐるのに対して、我々プロレタリア詩人の立ち遅れは厳重に批判する必要がある。」としています。

 この論考で彼が反戦詩と唯一評価しているのが『大衆の友』創刊号に載った槇村浩の「生ける銃架」です。<……「生ける銃架」には部分的な欠点はあるが全体として、相当高く評価されるべき詩だと思ふ。>としています。

なお、佐野嶽夫の詩は、ここに紹介されています。

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/06/0706j1217-00004.htm

 <一九三二年六月発行の臨時増刊>

 これは、別項に掲載。

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2013.04.23

【文学の勉強】 「川津鳴 吉野河之 瀧上乃 馬酔木之花會 置末勿勤」の解釈。

 『万葉集』の「川津鳴 吉野河之 瀧上乃 馬酔木之花會 置末勿勤」を解釈したいと思って調べはじめました。
 これは手元にある村木清一郎『復刻 譯萬葉』(無明舎出版。二〇〇七年一月二十日)からのものです。
 それによると読みは「かはづなく よしののかはの たぎのうへえの あしびのはなぞ つちにおくなゆめ」。
 仮名まじりの文にすると、「河鹿啼く 吉野の川の 激流(たぎ)の邊の 馬酔木の花だ 土に散らすな」。
 しかし、この解釈はしっくりしません。

 インターネット上の説をみてみました。

 http://image02.wiki.livedoor.jp/d/o/dokatakayo/6612ec1bd356a79c.pdf

 川津鳴吉野河之 瀧上乃 馬酔之花會 置末勿動
 訓読 かはづ鳴く吉野し川し瀧(たぎし)上(へ)の馬酔木(あしび)し花ぞ末(はし)し置くなゆめ
 私訳 この花は、カジカ蛙が鳴く吉野の川の急流のほとりに咲く馬酔木の花です。粗末にしないでください。決して。

 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/ten/m1868.html

 原文: 川津鳴 吉野河之 瀧上乃 馬酔之花會 置末勿動

 作者: 不明

 よみ: かはづ鳴(な)く、吉野(よしの)の川の、滝(たき)の上の、馬酔木(あしび)の花ぞ、はしに置くなゆめ

 意味: 蛙(かえる)の鳴いている吉野(よしの)の川の滝(たき)の上の馬酔木(あしび)の花ですよ。決してはしっこに置いたりしてはいけませんよ。

 これも、しっくりきません。
 さて、困った。

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【文学の勉強】 志賀直哉の『焚火(たきび)』のこと。(ふろく・志賀直哉と小林多喜二)

 いま志賀直哉(しがなおや。一八八三年二月二十日~一九七一年十月二十一日)の小説『焚火(たきび)』(一九二〇年=大正九年=発表)を勉強しています。

 志賀直哉は、一九一四年(大正三年十二月)、勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)の長女で直哉よりも六歳下の康子(さだこ)と結婚しました。
 康子が華族女学校中退で、再婚であることなどのために、志賀家はこの結婚に反対し、直哉と父・直温の関係は悪化しました。直哉は、家の反対を逆手にとり、戸主反対の自由結婚をしたという理由で、望んでいた廃嫡をみずから実行し、一九一五年(大正四年)三月一日に自身の志賀家を創設します。
 志賀直哉は、同年五月、京都から鎌倉に移り、同月半ば、群馬県の赤城山大洞に移りました。
 そして、同年九月半ばまでのおよそ四か月間、康子(さだこ)夫人と赤城で過ごしました。
 最初は猪谷旅館に泊まりましたが、夏場は客で混雑すると聞いて、猪谷六合雄(いがやくにお。一八九〇年五月五日~一九八六年一月十日)に近くに山小屋を建ててもらって、九月半ばまで住みました。
 猪谷六合雄は、群馬県赤城山の赤城旅館の長男として誕生。のちに日本の近代スキーの草分け的存在になった人です。
 新婚早々の志賀夫妻が赤城山大洞へ滞在することになった理由は、直哉と父・直温との不和を苦にして妻の康子が神経衰弱になり、転地療養するためだったようです。
 『焚火』はその時の生活を素材にしています。

 主人公夫婦は、旅館の若主人K、画家のSと夜の大沼にボートを漕ぎ出します。
 静かな晩で星空が湖水に映っていました。
 小鳥島に焚火が見え、四人も別の岸で焚火を始めました。
 そこでヘビや山犬、「大入道」などの話がはずんだ後、Kから不思議な話を聞きます。
 前の年の冬、東京の姉の病気を見舞っての帰り、深い雪を踏み分けて鳥居峠を越えたことがありました。体力には自信があり、雪にも慣れていました。月明かりで峠もすぐそこに見えていました。ところが、その手の届きそうな距離が容易ではありませんでした。
 恐怖は感じなませんでしたが、気持ちが少しぼんやりしてきました。
 ようやく峠を越えた時に、提灯の明かりが見えました。Kの呼ぶ声を寝耳に聴いた母が迎えをよこしたのでした。彼の帰る日は未定だったし、呼んだとしても聞こえる距離ではありませんでした。「夢のお告げ」を母が聴いたのは、彼が一番弱っている時でした。そんな不思議が生じたのは、K思いの母、母思いのKの関係だからだろう、と主人公はいます。
 ……

 赤城山大洞の小鳥ケ島にある赤城神社境内に、志賀直哉の文学碑が建っています
 隣には彼の小説『焚火』の末尾が刻まれた石碑があります。
 碑文は次のようです。

 直哉
 船に乗った。蕨取りの焚火は
 もう消えかかって居た。船は小
 鳥島を廻って、神社の森の方へ
 静かに滑って行った。梟の聲が
 段々遠くなった。

 志賀直哉といえば、プロレタリア作家の小林多喜二(一九〇三年十二月一日生まれ)は彼に私淑していました。
 小林多喜二は、一九三〇年(昭和五年)に検挙され、翌年一月に保釈されるまで、東京の奥多摩刑務所で過ごしましたが、獄中から志賀直哉に、こんな手紙を書きました。
 〈今日は十二月十三日です。東京は冬でしょう。然し、私には雪の降らない冬は、とても考えることができません。私が残してきた北の国からの便りだと、そこではもう大吹雪さえあったと書かれています。それだのに、此処では、この太陽の明るさは! それはまるで、北海道の春か十月頃をしか思わせません。私が汽車の窓から二度程見た奈良は、吹きっさらしの北海道に比べては、箱庭をみるように、温かく、思われました。冬には雪が降るのですか、そんな処でも。/私が此処を出るようになったら、必ず一度お訪ねしたいと思い、楽しみにして居ります〉
 志賀直哉は、小林多喜二に、一九三一年(昭和六年)八月七日付で手紙を出しています。
 「東京市外杉並町成宗八八 田口氏方」「奈良市上高畑より」
 〈手紙大変遅れました。
  君の小説、「オルグ」「蟹工船」最近の小品、「三・一五」といふ順で拝見しました。
  「オルグ」は私はそれ程に感心しませんでした。
 「蟹工船」が中で一番念入ってよく書けてゐると思ひ、描写の生々と新しい点感心しました。
  「 三・一五」は一つの事件のいろいろな人の場合をよく集め、よく書いてあると思いました。
  私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。大衆を教へると云ふ事が多少でも目的になってゐる所は芸術としては弱身になってゐるやうに思へます。さういふ所は矢張り一種の小児病のやうに思はれました。里見の「今年竹」といふ小説を見て、ある男がある女の手紙を見て感激する事が書いてあり、私は里見にその部分の不服をいった事がありますが、その女の手紙を見て読者として別に感激させられないのに主人公の男が切に感激するのは馬鹿々々しく、下手な書き方だと思ふといったのです。力を入れるのは女の手紙で、その手紙それ自身が直接読者を感動させれば、男の主人公の感動する事は書かなくていいと思ふと云ったのです。
 君の「蟹工船」の場合にさういふ風に感じたわけではありませんが、プロレタリア小説も大体に於てさういふ行き方の方が芸術作品になり、効果からいっても強いものになると思ひます。
 プロレタリア芸術の理論は何も知りませんが、イデオロギーを意識的に持つ事は如何なる意味でも弱くなり、悪いと思ひます。
 作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角、何かある考へを作品の中で主張する事は芸術としては困難な事で、よくない事だと思ひます。運動の意識から全く独立したプロレタリア芸術が本統のプロレタリア芸術になるものだと思ひます。
 フイリップにしろ、マイケル・ゴールドにしろ、かなり主観的な所はあっても誰れでもがその境遇に置かれればさう感じるだらうと思はれる主観なので素直にうけいれられます。つまり作者はどういう傾向にしろ兎に角純粋に作者である事が第一条件だと思ひます。絵の方でいへばキュビズムは兎に角純粋の絵の上の運動なるが故に生命があり、未来派は不純な要素が多く、その為め、更に物が生ずる事なしに亡んだやうに思ひます。
 トルストイは芸術家であると同時に思想家であるとして、然し作品を見れば完全に芸術家が思想家の頭をおさへて仕事されてある点、矢張り大きい感じがして偉いと思ひます。トルストイの作品でトルストイの思想家が若しもっとのさばってゐたら作品はもっと薄っぺらになり弱くなると思ひます。
 主人持ちの芸術はどうしても希薄になると思ひます。文学の理論は一切見てゐないといっていい位なので、プロレタリア文学論も知りませんが、運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が結果からいっても強い働きをするやうに私は考へます。 前に洋文から「魚河岸」といふ本を貰い、その前、津田青楓にすすめられて「ゴー・ストップ」といふ本を見たきりで所謂プロレタリア小説といふものは他に知らないのですが、前の二つとも作品としては兎に角運動が目的なら、もう少し熱があってもよささうなものだと感じましたが、その点君のものには熱が感じられ愉快でした。それに「ゴー・ストップ」(比較は失礼かもしれませんが)などに出て来る女の関係変に下品に甘ったるいのがいやでしたが、君のものではさういふ甘ったるさなくこれも気持よく思はれました。
 色々な事露骨に書いてある所も不思議に不快な感じがなく大変よく思ひました。態度の真面目さから来るのだと思ひました。 それからこれは余計な事かも知れませんが、ある一つの出来事を知らせたい場合は、却って一つの記事として会話などなしに、小説の形をとらずに書かれた方が強くなると思ひました。かういふ事は削除されて或ひは駄目なのかと思ひますが、さういふ性質の材料のものは会話だけで読んでゐてまどろっこしくなります。〉
 小林多喜二は、一九三三年二月二十日、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案で、東京・赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れました。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡で張り込んでいた特高警察が待機していました。多喜二は、そこから逃走を図りましたが逮捕されました。
 同日、築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を、手塚英孝が『小林多喜二』で紹介しています。
 それによると、警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に、小林を寒中丸裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとあります。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、十九時四十五分に死亡が確認・記録されました。
 志賀直哉は、その日の日記につぎのように記しました。
 〈小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕えられ死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持ちになる〉
 志賀は、多喜二の母に悔やみ状を書き、香奠を送っています。
 〈拝啓 御子息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました〉

 【次の記事を参考にさせていただいています。】

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%A4%9A%E5%96%9C%E4%BA%8C

 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/takizi_ate_naoya_no_shokan.pdf

 http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/120/tayori129.htm

 http://www.geocities.jp/seppa06/0401kyokasyo/9912.htm

 http://www.pref.gunma.jp/01/z0199334.html

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%B0%B7%E5%85%AD%E5%90%88%E9%9B%84

 【この小説に出てくるヨタカの鳴き声】

 http://www.youtube.com/watch?v=8VhRNKZGFIQ

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2013.04.24

【文学の勉強】 国木田独歩の書いた戦争。

 小説家の国木田独歩(くにきだどっぽ。一八七一年八月三十日~一九〇八年六月二十三日。満三十六歳没)は、いつくつか小説に「戦争と庶民」を描いています。

 きょうまでに読んだものではつぎのようなものです。

 『置土産』

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/42198_34793.html

 『号外』

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1055_15939.html

 『酒中日記』

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/332_43412.html

 ちなみに国木田独歩と戦争との関係ではウィキペディアにはつぎのようにあります。
 〈1894年、『青年文学』に参加。民友社に入り徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となる。この年起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加し、弟・収二に宛てた文体の「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となる。
 帰国後、日清戦争従軍記者・招待晩餐会で、日本キリスト教婦人矯風会の幹事 佐々城豊寿の娘・信子と知りあう。熱烈な恋に落ちるが、信子の両親から猛烈な反対を受けてしまう。信子は、母・豊寿から監禁されたり他の男との結婚を強要されたという。独歩は、信子との生活を夢見て単身で北海道に渡り、僻地の田園地帯に土地の購入計画をする。〉
 〈1904年、日露戦争が開戦すると、月1回の発行を月3回にし、『戦時画報』と誌名を変更。戦況をいち早く知らせるために、リアルな写真の掲載や紙面大判化を打ち出すなど有能な編集者ぶりを発揮し、また派遣記者の小杉未醒の漫画的なユニークな絵も好評で、最盛期の部数は、月間10万部をこえた。また、戦争終結後のポーツマス条約に不満な民衆が「日比谷焼き打ち事件」を起こすと、わずか13日後には、その様子を克明に伝える特別号『東京騒擾画報』を出版した。
 1905年5月の日本海海戦で、日露戦争の勝利がほぼ確実になると、独歩は戦後にそなえ、培ったグラフ誌のノウハウを生かし、翌1906年初頭にかけて、新しい雑誌を次々と企画・創刊する。 子供向けの『少年知識画報』『少女知識画報』、男性向けの芸妓の写真を集めたグラビア誌『美観画報』、ビジネス雑誌の『実業画報』、女性向けの『婦人画報』、西洋の名画を紹介する『西洋近世名画集』、スポーツと娯楽の雑誌『遊楽画報』など。多数の雑誌を企画し、12誌もの雑誌の編集長を兼任した。 だが、日露戦争の終結後、『近事画報』の部数は激減。新発行の雑誌は売れ行きのよいものもあったが、社全体としては赤字であり、1906年、近事画報社の社長の矢野龍渓は社の解散を決意した。
そこで独歩は、自ら独歩社を創立し、『近事画報』など5誌の発行を続ける。独歩のもとには、小杉未醒をはじめ、窪田空穂、坂本紅蓮洞、武林無想庵ら、友情で結ばれた画家や作家たちが集い、日本初の女性報道カメラマンも加わった。また、当時人気の漫画雑誌『東京パック』にヒントを得て、漫画雑誌『上等ポンチ』なども刊行。単行本としては、沢田撫松編集で、当時話題となった猟奇事件・臀肉事件の犯人・野口男三郎の『獄中の手記』なども発売した。〉

 『相弟通信』は、ここにあります。

 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888943/1

 黒島傳治『明治の戦争文学』が参考になります。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000037/files/45454_35421.html

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二〇一三年四月二十一日 日曜日 槇村浩についての勉強を再開しました。

二〇一三年四月二十一日 日曜日 槇村浩についての勉強を再開しました。

 晴れ。

 高知県立大学へ。
 大学院人間生活研究科の二年生の論文の中間発表会。
 先輩たちの研究内容を知って刺激を受けました。
 僕も、きょうから研究を開始します。

 高知市の、かるぽーとへ。高知ペンクラブの文芸展を見ました。
 展示されていたある詩集に感動しました。了承を得てブログにアップさせていただきました。

 本用の貯金の残額を点検。夏休み前までは間に合いそうです。

 この間、高知でお会いした埼玉の男性が自著を二冊送ってくれました。

 槇村浩についての勉強を再開しました。
 当面、当時の雑誌『プロレタリア文学』をぜんぶ読んでみることにしました。

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二〇一三年四月二十二日 平和資料館・草の家での一人語りの木津川計さんを迎えての懇親会に参加。

二〇一三年四月二十二日 平和資料館・草の家での一人語りの木津川計さんを迎えての懇親会に参加。

 晴れ。

 受診に。一万数千円いりました。
 午後一時過ぎに終わりました。

 平和資料館・草の家へ。MAさんにビラを一枚つくってもらいました。

 夜、草の家での木津川計さんを迎えての懇親会に参加。妻も参加していました。

 ハプニングがありばたばたしました。
 車に乗せていただいた女性が、戦前、留置所で殺された中村の筒井泉吉さんの家族のことを知っていました。
 そのあと、市議のSIさんに車で家まで送っていただきました。

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二〇一三年四月二十三日 火曜日 香南市野市のある山に横穴壕があるとのこと。

二〇一三年四月二十三日 火曜日 香南市野市のある山に横穴壕があるとのこと。

 晴れ。

 学部の授業を聴講。二時間目から六時間目まで。
 二時間目の授業のあとに聴講の男性と話していたら、香南市野市のある山に横穴壕があるとのこと。未知の所でした。案内してもらうことにしました。

本日の授業の復讐、予習、テスト準備。午前様になりました。

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二〇一三年四月二十四日 水曜日 七月七日の女性たちの戦跡めぐりの打ちあわせ。

二〇一三年四月二十四日 水曜日 七月七日の女性たちの戦跡めぐりの打ちあわせ。
 
 雨のち曇り。

 文学の授業の復習。

 平和資料館・草の家で七月七日の女性たちの戦跡めぐりの打ちあわせ。

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二〇一三年四月二十日 土曜日 大学院の授業、四課目。

二〇一三年四月二十日 土曜日 大学院の授業、四課目。

 晴れ。

 大学院の授業、四課目。
 「情報」が難しい。

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2013.04.25

【資料】 一九三〇年四月二十五日の福島での軍隊への反戦ビラ配布。

 四月二十五日の「しんぶん赤旗」のコラム「潮流」に福島での軍隊への反戦ビラ配布のことが載っていました。以下のような内容です。

 鶴ケ城の近くの陸軍歩兵連隊が軍旗祭を開いていたさなかに反戦ビラが配布されました。ビラは「戦争の危機が迫っている」「あなた達自身もこの戦争に反対せざるをえない」というものでした。日本共産党員・相良(さがら)新一さんによると、十数人がいっせいに正門から入り、整理箱や寝台、トイレなど兵舎のさまざまな場所に四百枚のビラを入れたといいます。当時の地元紙は「若松憲兵及び若松警察特高課は俄然(がぜん)色めきたち」と伝えています。

ここに記事があります。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-25/2013042501_06_0.html

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【資料集】 高知県の各小学校の記念誌にみるアジア太平洋戦争 注・順次書き入れています。最終更新・二〇一三年五月四日。

 西から東へ、記念誌が手に入り次第書き込んでいきます。

 【いの町立伊野小学校】

 伊野小学校創立百周年記念事業実行委員会『伊野小学・開校百年記念史』(伊野町立伊野小学校内事務局。昭和五十三年三月二十日)

 ・昭和十七年三月卒業の石川康道さんの文章から

 <『気をつけ!!頭(かしら)、中(なか)!!』

 昭和十六年、戦時中の朝礼である。小笠原校長が真中の壇の上で戦闘帽をきりりとかぶり私達に答礼の為[ため]、挙手の礼をしながら、眼鏡の奥で眼光が鋭く光っていた。

 冬の寒い朝、窓ガラスを一杯に開け、上半身裸になり、タオル又[また]はタワシで体中を赤くなる程の冷水摩擦で体を鍛えたものです。

 国民服の下はランニングシャツ一枚で、靴下などは無かった。素足に下駄、階下は階段は素足のまま、それが当然の事で贅沢[ぜいたく]は敵だったのです。>

 【香南市立岸本小学校】

 岸本小学校創立百二十周年記念誌編集委員会『宇多の松原 岸本小学校創立百二十周年記念誌』(岸本小学校創立百二十周年記念事業実行委員会。平成七年十二月九日)

 ・年表から

 一九四三年

 「干し草・桑の皮はぎなどの奉仕活動をする」

 「この頃、宇多の松原を切って輸送船を作り、飛行機用の松根油を取る」

 ・「前庭の忠魂碑」の写真が載っています。

 ・昭和九年元日に校庭の「国旗掲揚台落成式」をやったときの写真と解説が載っています。

 「校長先生が壇上で児童に訓示を行っています。来賓席には紋付の羽織・袴姿のいかめしい、町の有志の方々が並んでいます。」

 「戦前、戦中の軍国主義教育の基盤をなす皇国史観の高揚に日の丸、君が代の果たした役割は大きかったといえます。そういう意味から国旗掲揚台は必須の施設だったのです。」

 ・昭和十七年度卒業の門脇若夫さんの文章から

 <昭和十六・十二・八・大本営陸海軍部発表「本八日未明、西太平洋上において……」真珠湾攻撃です。小学生[国民学校生]でも、こりゃえいやろか?とショックでした。(中略)流れるは軍艦マーチ。マレー沖海戦・・プリンス・オブ・ウェールスとレパルスを海の藻屑に。緒戦の勝利にわれら小国民は有頂天になりました。>

 ・昭和十七年度卒業の畠中治水さんの文章から

 <私は「欲しがりません。勝つまでは」の合言葉の中で戦時教育を受けた一人であります。今想い出すと、待ちに待った修学旅行も中止となり学校生活と家庭生活も段々と厳しさを増す時期の事だったと思います。>

 ・昭和十九年度卒業の足立秀茂さんの文章から

 <当時の先生方は随分とご苦労された事と思います。授業に、食糧増産と、空襲対策に、又進学補習は夜間、灯火管制下で電球に丸い傘を付け重い布を巻き空襲警報に耳を澄ましての学習でした。>

 ・昭和十九年度卒業の濱田弘英さんの文章から

 <(前略)戦争中に在学した私達は出征兵士を送り、英霊となられた父や兄を迎え激動の中の国民学校の生活でした。>

 ・昭和二十二年度卒業の瀬川武彦さん(旧姓・近森)さんの文章から

 <授業中に突然鳴り出すサイレンの音、「ブウー、ブウー………」。空襲警報発令であります。机の上はそのままにして、いつもは走ると叱られる板張りの廊下も、この時だけは只[ただ]無我夢中で走り、土間でわら草履[ぞうり]をはくやいなや石の階段を一気に駆け下り、運動場西隣りの芋畑に飛び込む。やがて上空をアメリカのB29爆撃機が物凄[ものすご]い爆音を響かせながら西の方へ飛んで行きます。しばらくすると「ブワー」とサイレンの音、空襲警報解除です。胸をなで下ろしながら再び教室へ……。この様な状態を毎日繰り返し、それも次第に回数が多くなりました。

 学校から帰ると萱[かや]刈取りに香宗川の堤防へ、また桑畑に行き切ってある桑の木を集めてその木の皮はぎ、萱は軍馬の飼料とし、桑の木の皮は軍服の材料にするとのことでした。課せられた量を学校に持って行くのが宿題の代わりのようなものでありました。

 夜は夜で黒い布で囲った電燈の下で過ごしていましたが、度々の警報発令で、防空ごうの中で夜を明かしたこともあります。次第に状況が悪化し、ついに隣近所の人達と夜中に山奥へ疎開いたしました。煙を出してはいけないという事でご飯を炊く事が出来ず、炭火で煎[い]った米を食べた事は今でも忘れません。

 三月十五日、父戦死の報。(後略)>

 【奈半利小学校】

 奈半利小学校創立百周年記念事業実行委員会『那波の里』(昭和五十五年九月十八日)。

 ・奈半利小学校創立百周年記念座談会での昭和十九年度卒業生の西野撰さんの発言から。

 <昭和十四年入学で、個人的には一年、二年はあまり記憶にないですが、三年生の時、戦争が始まりました。高等一年の担任の信清先生は世界情勢をよく話してくださった。戦争が始まって三時間位した時、生徒は運動場へ出てラジオを聞き、アメリカの軍艦を二隻イギリスの軍艦を一隻沈めたという事を聞いた。又、戦争もきびしくなった時は、家で食べている御飯を検査され、白米は禁止、麦とイモを混ぜたものを食べるようにと言われた事、又、新校舎のあたりへ防空壕を掘った事等が思い出される。勤労奉仕、戦争型運動会、空襲、疎開先での終戦、その後、進駐軍が来たこと等、激動の少年時代でした。>

 ・「昭和十七年度体操風景」の写真に二枚掲載されていますが、下のものはほふく前進の訓練のようです。

 ・「昭和十九年度手旗信号練習風景」の写真も掲載されています。

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【音楽】「赤い靴」の女の子は、なぜ、白人に連れられて行ってしまったの?

 今夜、バイクで家に帰るときに、いつしか「赤い靴」を歌っていました。
 で、考えました。「これは、どんな状況を歌っているのだろうか?」

 まず聴いてみましょう。

 http://www.youtube.com/watch?v=cnVjNDsVQ2w

 赤い靴(くつ) はいてた 女の子
 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
 異人さんに つれられて 行っちゃった
 今では 青い目に なっちゃって
 異人さんの お国に いるんだろう
 赤い靴 見るたび 考える
 異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 この歌は一九二二年、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡です。

 ネットを見ると、いろんな説があります。
 自分でも調べてみたいと思っています。

 http://www.green.dti.ne.jp/seiun-dousoukai2/akaikutu&kimichanzou.html

 http://www5.ocn.ne.jp/~takazi/akaikustu.html

 http://homepage1.nifty.com/cats/music/akai.html

 http://www.youtube.com/watch?v=7KOsfKrd46s

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4

 http://matome.naver.jp/odai/2129125592086415901

 「これは異人さん(外国の人)に連れ去られる(拉致される)歌。
 赤い靴を履いてた女の子を外国人がさらって売り飛ばす歌だそうです。」

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2013.04.27

【ニュース】 「安倍総理は正気か?」、「美味しんぼ」の雁屋哲さんの発言。

http://kariyatetsu.com/blog/1577.php

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【槇村浩研究】 こんな論文がネットにありました。

http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/107174/1/18804314-61-08.pdf

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2013.04.29

【随筆】 都々逸(どどいつ)を勉強したいという女子学生。

 江戸時代の都々逸(どどいつ)を勉強したいという女子学生に出会ってカルチャーショックを受けました。
 「都々逸ってよくわからないけど、がんばって」。研究成果、楽しみにしています。
 ウィキペディアを読んでみました。
 都々逸は、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(一八〇四~一八五二年)によって大成された口語による定型詩です。 七・七・七・五の音数律に従うのが基本ですが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もあります。
 三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物でした。おもに男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれます。
 都々逸が広まったのは、扇歌自身が優れた演じ手であっただけでなく、その節回しが比較的簡単であったことが大きい。扇歌の時代の江戸の人々は生来の唄好きであったため、誰でも歌える都々逸が江戸庶民に受け入れられ、大衆娯楽として広まりました。
 定席の寄席でも一日に一度も都々逸が歌われないことも珍しくありませんでした。
昭和の中頃までは、寄席では欠かせないものでした。

 ●「ボクのお気に入り都々逸」から。

 http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/asobi/dodo1.htm

 あきらめましたよどう諦めた あきらめられぬとあきらめた

 逢うたその日の心になって 逢わぬその日も暮らしたい

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす

 猪口々々(チョクチョク)逢う夜をひとつにまとめ 徳利(トックリ)話がしてみたい

 ながい話をつづめていへば 光源氏が生きて死ぬ

 日常、よく聞く歌の数々です。

 都々逸って、落語によく出てきますよねー。

 さがしたら都々逸と落語についてのサイトもありました。

  http://www.j-texts.com/dodo/rakudodo.html

 そういえば、高知の自由民権運動のなかで生まれた歌も都々逸だったようです。

 ●ツィッターでも都々逸のサイトがありました。

 https://twitter.com/dodoitubot

 で、僕の初都々逸。

 学びたいこと いっぱいあって 忙しそうな 若い人

 短歌なら。

 あれこれと まなびたいこと いっぱいで 忙しそうな 青年に会う

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二〇一三年四月二十五日 木曜日 「高知県の小学校記念誌にみるアジア太平洋戦争」の執筆を開始。

二〇一三年四月二十五日 木曜日 「高知県の小学校記念誌にみるアジア太平洋戦争」の執筆を開始。

 晴れ。

 昨夜からFUさんへの写真、資料をメールで送りました。

 郵便物、二つ送りました。

 しんぶん赤旗の「潮流」の内容に注目。一九三〇年四月二十五日の福島の歩兵連隊への反戦ビラ配布について。

 「高知県の小学校記念誌にみるアジア太平洋戦争」の執筆を開始。

 午後二時前に食堂で「日替わり定食」を注文。ひょっと見たら近くの席で中年の男性が少し若い女性と食事中。男性は生ビールをのんでいます。「昼からかよ。仕事ができんなって困らんろうか」。

 会議に出席。
 高知市の子どもの医療費無料化は三歳未満児までとか。遅れすぎ。

 高知県立図書館、高知市民の図書館、平和資料館・草の家へ。

 夜六時から、高知文学学校の講義に参加。

 本日は、いただきものがありました。
 岩手の人が「南部せんべい」を送ってくれました。ありがとうございました。会議でわけて食べました。

 MOさんから図書券をいただきました。

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二〇一三年四月二十六日 金曜日 国民学校で竹やりをつくらされてい男性の話。

二〇一三年四月二十六日 金曜日 国民学校で竹やりをつくらされてい男性の話。

 晴れ。

 午前九時前にFUさんの車で香南市へ。
 Iさんの案内で平井山に登りました。
 ここで作業していた男性によると、アジア太平洋戦争中に、この山の太平洋側の斜面に高射砲が三台おかれていた、その下の段に七つか八つ横穴壕があったということです。一か所、地面が崩れている所があります。壕のあった所だそうです。

 ところで、この人は戦争中は香我美町に住んでいたそうです。
 一九四五年四月に西川国民学校の二年生に。同学年性は約十五人。
 学校で「竹やりづくりを強制的にやらされた」ということでした。二メートルくらいに切った竹の先を「ケンツにする」。火をたいて、その先をあぶります。そうして竹の油をジーッと出します。
 できた竹やりは、馬で引っ張る荷車の所までもっていったといいます。
 みんなで「何千本もつくった」といいます。

 午後一時、MAさん宅へ。
 彼女が三十年かけて書き続けている原稿を『高知の戦争 証言と調査』にいただくという件の打ち合わせです。

 午後四時、論文執筆のための一対一の授業。勉強になりました。
 そのあと、二十八日の研修についての打ち合わせに参加。

 写真のデータの整理。なかなか終わりません。

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二 一三年四月二十七日 土曜日 つぎつぎと「課題」が出されて押され気味。

二 一三年四月二十七日 土曜日 つぎつぎと「課題」が出されて押され気味。

 晴れ。

 午後から大学院の授業三科目。
 つぎつぎと「課題」が出されて押され気味。

 夜、高知短期大学経済学クラブの勉強会に参加。
 ことし勉強するのは『スウェーデン・パラドックス 高福祉、高競争力経済の真実』と決まりました。

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二〇一三年四月二十八日 日曜日 「古代日本・和歌と土佐を考える」南国市の旅。

二〇一三年四月二十八日 日曜日 「古代日本・和歌と土佐を考える」南国市の旅。

 晴れ。

 学部の授業のフィールド研修「古代日本・和歌と土佐を考える」に参加しました。
 行先は南国市。
 高知県歴史民俗博物館→国分寺→国衙(こくが)跡→「古今集の庭」→韓国料理の店。
 一番良かったのは「古今集の庭」。落ち着く所です。
 いいものをつくってくれました。
 つぎつぎといろんな発見をして楽しそうな若い学生たち。驚きと発見と感激の少ない老学生の僕。うーーん。

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【槇村浩研究】 英語世界の槇村浩。

 英語世界で槇村浩について書かれているものはないだろうかとネットサーフィンしてみました。

 Kou Makimura  anti-war poem

 で検索したら、つぎのものがありました。

 http://www.tokyo-sensai.net/muse/muse_PDF_en/muse10en.pdf

 http://www.tokyo-sensai.net/muse/muse_PDF_en/muse12en.pdf

 http://www.psaj.org/html/psajnle15.pdf

 http://www.tokyo-sensai.net/muse/muse_PDF_en/muse15en.pdf

 http://www.tokyo-sensai.net/muse/muse_PDF_en/muse22en.pdf

 http://www.tokyo-sensai.net/muse/muse_PDF_en/muse23en.pdf

 Japanese anti-war poem

 も検索しました。

 以下のものがありました。

 http://leahinjapan.wordpress.com/2012/09/16/japanese-anti-war-poet/

 http://www001.upp.so-net.ne.jp/richmond/Archives/65th_anniversary_of_WWII.pdf

 http://www.antiwarsongs.org/canzone.php?id=9038&lang=en

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2013.04.30

そして反戦詩人が誕生した 槇村浩の場合  藤原 義一

 四月から大学院(修士)に通っています。研究のテーマは高知の反戦詩人・槇村浩(まきむらこう。本名・吉田豊道。一九一二年六月一日、吉田豊道が、高知市廿代町八十九番屋敷に生まれ)についてです。
 「大日本帝国の偉業を評価していた吉田豊道少年が、槇村浩と名乗り反戦の詩を書くようになった訳」です。
 おもに考え方が、いつの時点から、どうして、どう変わったのかということをのべる予定です。
 いまは、まず吉田、槇村の書いた文献のリストづくりから始めています。
 研究の出発点に、このテーマを、いまの時点で、どのように考えているのかについて書いておきたいと思いパソコンに向かいました。
 一年半後の論文が仕上がるころには、ずいぶん違ったことを書いているかもしれませんが……。
 (引用文の中の[]のなかは引用者のつけた読み仮名です)。

 大日本帝国の天皇の海外派兵

 当時の日本の絶対主義的天皇制は、どのようなものだったでしょうか。
 明治、大正、昭和の天皇の政府は、一八七四年の台湾への海外派兵以来、海外派兵を繰りかえしていきました。
 一八八九年二月十一日、大日本帝国憲法発布されました。
 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬[そうらん]シ此[こ]ノ憲法ノ条規ニ依[よ]リ之ヲ行フ」(第四条)、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(第五条)、「天皇ハ法律ヲ裁可シ其[そ]ノ公布及執行ヲ命ス 」(第六条)。
 この憲法で戦争における天皇の位置がはっきりしました。
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第十一条)、「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(第十二条)、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第十三条)。
 一八九〇年十月三十日、天皇は、教育ニ関スル勅語(教育勅語)を渙発(天皇が詔書・勅語などを発すること)。絶対主義的天皇制のもとでの「皇民教育」の基本原理を示したもので、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」と説いています。
 天皇を「万世一系」で「神聖ニシテ侵スヘカラス」と国民に宣伝するうえで政府は『古事記』(七一二年に太朝臣安萬侶=おほのあそみやすまろ=によって献上されたとされています)、『日本書紀』(舎人親王らの撰で七二〇ねんに完成したといわれます)の内容の一部を神話として宣伝しましたが、よく読むと、それらに描かれた天皇の姿は残虐非道なケースが多く、この宣伝は矛盾に満ちたものでした。
 たとえば、『古事記』ではどうか。
 それについては、雁屋哲作・シュガー佐藤画『マンガ 日本人と天皇』(いそっぷ社。二〇〇〇年一二月二十日)が登場人物の東拓大学理事長に語らせていますので引用させていたただきます。
 〈「日本書紀」は天皇家自身が編纂した史書であるにもかかわらず 天皇家代々の残虐な行いや醜聞が多く記録されている〉
 〈たとえば第二〇代の安康(あんこう)天皇は大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺し その妻を自分の皇后とする ところが大草香皇子と皇后の子どもである眉輪王(まゆわおう)は後に安康天皇が酒に酔って自分の母である皇后の膝を枕にして寝ているところを殺してしまう すると後の第二一代の雄略(ゆうりゃく)天皇になる安康天皇の弟がその眉輪王を殺してしまう〉
 〈さらに雄略天皇は自分の兄たちを何人も殺す わがまま勝手に部下を斬り殺す 自分の求めに背いて他の男と通じた婦人とその夫を焼き殺すなど 人を殺すことが多かったので人々は天皇を「大悪の天皇」と誹謗(ひぼう)したとある〉
 〈凄(すご)いのは第二五台の武烈(ぶれつ)天皇だ 天皇は妊婦の腹を割き 人の生爪をはいでその手で芋を掘らせ 人を池の樋(とい)に入らせて流れ出てくるところを矛で突き殺して遊び 人の髪の毛を抜いて木に登らせてその木を倒して殺すのを楽しみにし いつも酒に酔いしれて遊びほうけて贅沢(ぜいたく)をし人々が飢えているのも気にしなかったち書記には書いてある〉
 〈継体天皇以降も大変だ 天智(てんじ)天皇の息子大友皇子(おおともおうじ)を叔父の天武(てんむ)天皇が殺す すると 天智天皇の娘である天武天皇の后になりその亡き後女帝となる持統(じとう)天皇が 叔父で夫である天武天皇の息子・大津皇子(おおつのおうじ)を殺す 近親相姦・親子兄弟伯父甥の殺し合い 何でもありだ〉
 このことは、のちにのべる吉田の変化にも関係してきます。

 皇国史観だった尋常小学生のころ

 吉田豊道は、高知市第六尋常小学校の児童のころ、多くの文章を書きます。
 世界や日本の状況について書いたものはそんなに多くはありませんが、一つだけ紹介します。
 一九二一年十二月に出た『吉田豊道作 唱歌集』(高知市第六尋常小学校)の中の「日本歴史」(一九二一年十一月、高知市本町自宅で)です。
 〈(一)我が日の本の光輝ある/清き歴史は三千年/動かぬ御代は天つ日の/光と共に限りなし〉
 〈(四)天皇陛下の御先祖の/天の御神の御孫の/にヽぎの尊は日の本の/高千穂峯に降らるヽ〉
 〈(一四)日清日露の戦役に/一躍東洋最強国/大正三年六月に/起こるは世界大戦役〉
 〈(一五)聯合軍は大勝し/我が日の本の帝国は/国威宣揚三強の/列に入つて活動す〉
 〈(一六)建国以来三千年/敗をばとりし事はなく/皇統一系連綿と/眞に世界の大帝国〉
 〈(一七)三強国の列に入り/東洋平和の盟主となり/国威隆々と輝きて/萬世不滅果もなし〉
 これを読むと彼が皇国史観の持ち主で大日本帝国の侵略を是としていたことがわかります。

 中学校生徒のころからの変化

 こうした吉田の考え方が変化していったのは中学校の生徒になってからです。

 (一) 「万世一系の」天皇への見方の変化

 第一にあげたいのが、当時、大日本帝国の支配者であり、侵略戦争推進の責任者であった天皇についての見方が変わったことです。
 一九二三年四月、吉田は、高知市の私立土佐中学校本科一年生に入学します(二年飛級)。
 そして、同年二学期、吉田は、同校予科一年生に戻されます。
 このころの吉田についての同級生の下司順吉の文章があります。
 「予科のとき、清少納言の『枕の草子』を読んでいるのをみておどろきました。この本は少年たちにはまったく難解な古文です。おもしろいかと私がたずねると、おもしろいというのです。かれは日本文学、外国文学を手あたりしだい読みあさっていました。かれは、もの静かで、ひかえめな人柄で、口に手をあててはずかしそうにものをいう癖がありましたが、ときには文学についての博識をとうとうとのべて、私たちを敬服させました」(下司順吉「吉田豊道の思い出」=『ダッタン海峡 第五号』。槇村浩の会。一九七二年八月十五日)。
 その日本文学の古典を読んだことが彼の天皇観を変えたようです。
 一九二四年四月、吉田は私立土佐中学校予科二年生に。
 同級だった川島哲郎が、そのころのことを語っています。
 「私は当時[高知市]小高坂におりまして親父に自転車をかってもらいまして、自転車で通学しておりましたけれど吉田は歩いて通学していたと思います。それで帰り道に吉田と話をする為に帰り道は吉田の家の前まで自転車をついて歩きながら、毎日そうやって通ったことでした。なぜそれほど吉田と一緒に歩くのが楽しみだったかといいますと、毎日毎日ルパンの話を続きものでやってくれるわけですね。(中略)それで吉田の家にも何回か寄ったことがあるんですが、(中略)薄暗い長屋のようになっていまして、二階が吉田の部屋でしたが、第一に驚いたことは膨大な書物があるということですね。(中略)大鏡や増鏡の本があったのを覚えています。大正十二~三年の頃です。」、「吉田の話の中で一つだけ印象に残っているのは雄略天皇の話なんです。雄略天皇が暴虐の限りをつくしたという話なんです。(中略)天皇がそういう非道なことをするということは実に青天の霹靂[へきれき]でしたね」(槇村浩生誕七十周年記念の集い 『槇村浩(吉田豊道)と同時代を語る』=『ダッタン海峡 第七号』。槇村浩の会。一九八三年五月二十五日)。
 この時点で吉田は大元帥である当時の天皇への忠君愛国という観念から脱出していたと思います。
 吉田について、この考えは思いつきのようなものではありませんでした。
 彼は反戦詩を書き出したあと『日本詩歌史』(槇村浩の会。平和資料館・草の家。一九九五年十月二十一日)という評論を書きましたが、そこでも、つぎのようにのべています。
 〈そして圧政の時代がきた。記紀はじめすべての文書は、一せいに歴史はじまって以来の最大の暴君について、特筆大書している。惨殺、クーデター、侵略戦争、共同倉庫の掠奪、女性と奴隷に対するはてしなき悪行--これが大悪天皇と呼ばれた雄略天皇の治政だった。〉

 (二)天皇のために人を殺す軍事教練への嫌悪

 第二にあげたいのは、中学校で大元帥・天皇のために海外に攻め込んで人を殺す訓練、軍事教練が始まり、吉田も、その訓練を受けることを強要されたこと、吉田がそのことを嫌ったということです。
 吉田が、私立土佐中学校本科一年生のころの一九二五年四月十一日、陸軍現役将校学校配属令(勅令第百三十五号)が公布されました。
 同令によって、一定の官立、または公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属されました。各学校は配属将校に学校教練(軍事教練)を実施させました。これを履修した者は陸軍では一年現役兵を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられました。学校教練教材要目としては、各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、手旗信号、距離測量、測図学、軍事講話、戦史などで、教材の配当は学校の程度に応じて差異がありました。
 吉田の通っていた私立土佐中学校でも教練が実施されます。
 吉田は、軍事訓練をしなければならないという現実に反発しています。
 一九二七年三月二十三日の吉田の同校本科二年生の「成績証明証」によると教練は丙、修身は丁です。
 一九二七年四月、吉田は高知県立中学海南学校(高知市九反田)の二年生に編入しました。
 そして、一九二八年四月、同校の三年生となります。
 一九二八年の二学期、学校で吉田の読む書物のなかに「赤い表紙のもの」が見えはじめます。
 始めは階段式の教室でやっていた化学の時間だけでしたが、そのうち、すべての教科を放棄し、授業中にカール・マルクスの著作を読みはじめます(富永三雄『ひとつの出合い』。「ひとつの出合い」刊行委員会。一九九二年二月二十六日)。
 カール・マルクス(一八一八年五月五日~一八八三年三月十四日)はドイツ人で科学的社会主義をうちたてめました。それは、人民大衆の力こそが歴史をつくり社会進歩をおしすすめるという考え方です。
 「きわめて批判的であった彼がマルクスに屈服した瞬間、軍事訓練反対の『のろし』があがることになる。彼の徹底抗戦がT大尉を目標に始まる。ゲートルをろくにまかない。銃をななめにかつぐ、銃の掃除は放棄する。手旗を無茶苦茶にふる。なぐりたいだけ、なぐらせる、彼の配属将校に対する愚弄的態度は止まらない」(富永三雄「『槇村浩』の思い出」。近森俊也編集『ダッタン海峡 二・三号合併号』。小路貞次郎。一九六四年十一月)。
 一九二九年四月、吉田は高知県立中学海南学校四年生となります。
 同年、高知市の高知県立中学海南学校四年生の吉田は奴田原三郎、富永三雄らの同級生と語らい、軍事教練反対運動を組織します。
 「[吉田が]全四年生を集合さして大演説をぶった。『真理は軍事教練にはない。天皇制絶対君主制こそ打倒すべきもの、陸士[陸軍士官学校]を止めよ、海兵[海軍兵学校]に行くな、筆記試験を書くな。』」(富永三雄「『槇村浩』の思い出」)。
 四年生の二クラス全員が白紙答案を提出します。
 同年十月二十二日午後、高知県立中学海南学校の職員会で「白紙問題」で吉田などの「諭退」が決定します(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡 第九号』。槇村浩の会。二〇〇四年一月二十六日)。
 一九三〇年四月、吉田は、岡山市の私立関西中学校五年生に編入します。
 一九三一年三月五日、吉田は私立関西中学校を卒業しますが、そのさいの成績を見ると、歴史(一学期)、地理(一学期)、法経(三学期)が百点であるいっぽう、教練は二十点、十点、三十点です。
 吉田の教練への嫌悪は続いていたのです。

 (三) マルクスの著作や研究運動との出合い

 三つ目は、吉田が科学的社会主義の古典に触れ、人民大衆の力こそが歴史をつくり社会進歩をおしすすめるという考え方から多くを学んだということです。
 一九二八年四月、吉田は高知県立中学海南学校三年生となります。
 始業式の朝、吉田は、級友の富永三雄に治安維持法のことを話しました(富永三雄『ひとつの出合い』。「ひとつの出合い」刊行委員会。一九九二年二月二十六日)。
 「富やん、治安維持法という名の法律を知っているのか?」
 「そういう名前の法律は聞いたことがある。それがどうした?」
 「一九二五年三月成立。国民[ママ]の変革、私有財産制度を否認するものを罰する最高懲役を十年とするもの。そうした目的の結社への加入、その未遂、扇動をも対象とする、行動のみでなく、国民の思想をも対象とするもの。普通選挙を実現することの引きかえに、日ソ国交回復に備えて共産主義思想の流入を防ごうとするもの。この法律は絶対的官僚的勢力が、政党と妥協した、国体を守るための、天皇制擁護、革命防止の弾圧体制を整えたもので、世界でも比を見ない思想弾圧立法である」
 「ソ連の共産主義とはどんなもんか?」
 「これから勉強するよ」
 同年の二学期から吉田が授業中にカール・マルクスの著作を読みはじめたことは、前節でもふれました。
 一九二二年七月十五日、科学的社会主義の党、日本共産党が創立されていました。
 治安維持法は、一九二五年四月二十二日に公布されていました。
 槇村自身は、自筆の年表で「懸賞論文の金でやっと長いことの憧れだった資本論を購入し、直ちにマルクスに傾倒する。」と書いています(「槇村浩(吉田豊道)の年譜」=貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌』。新日本出版社。一九六四年十月十日)。
 この懸賞論文については、どういうものだったか分かっていません。
 吉田は、岡山市で科学的社会主義の研究運動にも参加していたようです。
 高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡編集委員会』(高知民報社。一九七三年四月十五日)には、こうあります。
 〈一九三一年(昭和六年)四月、岡山から帰った槇村は〝プロレタリア科学者同盟〟中央との連絡の線を持って帰ってきた。そして友人の毛利孟夫、奴田原三郎らをメンバーとしてプロ科高知支局を確立した。〉
 ここにいうプロレタリア科学者同盟は、プロレタリア科学研究所だと思います。
 一九二九年十月十三日に設立され、現実社会の科学的社会主義的分析や啓蒙活動をした科学者の民間学術研究団体です。同年十一月五日、月刊機関誌『プロレタリア科学』創刊しました。
 岡山市で、吉田がどんな勉学、生活、活動をしていたのか知りたいと思っています。

 吉田が、どのようにして科学的社会主義に接近していったかは、のちに高知刑務所の獄中にいたとき書いた「入所時感想録」の記述を見るとわかります。
〈自分ハ最初世上ノ俗論ニ迷ハサレテ、マルクス主義ハ一箇ノユートピアニ過ギナイト信ジテ居タ。シカモ世上ノ反マルクス主義論ハ矛盾百出迷理錯雑一モ理論トシテ取ルニ足ルベキモノハナイ。ヨッテ自分ハマルクス主義ノ正シクナイ事ヲ完全ニ理論的ニ証明セント研究ヲ始メタガ、ソノ結果ハ却[かえ]ッテ同主義ハアクマデ正当デアリ、且[か]つ無産階級解放ノ唯一ノ途デアル事ヲ認メルニ至ッタ。心理デアル以上ハ実践スルノハ当然デアル。自分ハカク信ジテコレヲ行動ニ移シタノデアル。〉
 ところで、一時、社会主義に向かっていたソ連では、一九二四年一月二十一日のウラジーミル・レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンによって、経済の面でも政治の面でも社会主義とは無縁の政策を実行しはじめていました。
 一九二九年七月ころ、スターリンは国内で農業の強制集団化を開始、階級としての富農の絶滅政策を強行しました。同じ七月、ソ連は満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破ると同年十二月二十二日にハバロフスク議定書を締結し満州における影響力を強めました。
 その後も、その状態は悪化しました。
 〈(前略)30年代のなかば、ソ連国内では、革命と社会主義のために身をささげた何万何十万、さらにはそれを超える人たちが「外国帝国主義の手先」という無実の罪を着せられてテロの犠牲になりました。コミンテルンで活動していたわが党の山本懸蔵などの同志を含め、多くの外国の共産党員もそれに巻き込まれました。
 その嵐が過ぎたあと、ソ連は、スターリンがすべての重要政策を1人で決定する、だれもがそれに無条件に従うという専制国家にすっかり変わっていたのです。
 スターリンは、この体制をつくりあげると、ソ連の領土と勢力圏の拡大を国家の至上目的とする大国主義、覇権主義の道に乗り出しました。まず、ヨーロッパで大戦が始まる直前、それまで掲げていたファシズム反対の旗を捨てて、ヒトラー・ドイツと手を結び、秘密条約(39年8月)で東ポーランド、バルト3国などを併合してしまったのです。(後略)〉(不破哲三「日本共産党創立90周年記念講演会 日本共産党の九十年をふりかえる」。しんぶん赤旗。二〇一二年七月二十一日)。
 それが、このころのと、その後の「ソ連の共産主義」の現実でした。
 こうした「ソ連の共産主義」の現状を吉田が認識していたかどうかは、不明です。

 反戦運動の高まりのなかで

 こうして軍事教練が嫌い、天皇にたいして批判的、科学的社会主義の文献や研究運動に親しんだ吉田が反戦詩人として登場するには中学校を卒業してからの高知での日々が必要だったようです。
 すでに日本共産党などによる反戦運動の高まり、反戦文学を書こうという日本共産党などの呼びかけが始まっていました。
 当時の動きを年表的にふれます。
 一九二五年年九月二十六日、無産者新聞が創刊されました。
 同年十月一日、無産者新聞(第二号)が「支邦から手をひけ」、「支邦の解放運動を熱烈に応援せよ」と訴えました。
 一九二七年一月十五日、無産者新聞が「対支非干渉運動を全国に起こせ!」と訴えました。
 同年二月二十六日、無産者新聞が「即時撤兵を要求せよ――対支非干渉同盟を組織せよ」の社説を発表します。
 同月三十一日、日本で対支非干渉全国同盟が結成されます(一九二八年には戦争反対同盟に発展します)。
 一九二七年五月二十八日、大日本帝国の第一次山東出兵が始まりました(~九月八日)。
 同日の無産者新聞は、第一次山東出兵のねらいを暴露し、「支邦から手を引け」、「出兵に断固反対せよ」と主張しました。
 一九二八年五月、全日本無産者芸術連盟が文芸雑誌『戦旗』を創刊しました(~一九三一年十二月)。
 同年五月、日本共産党、中国共産党が天皇制政府の中国侵略に反対するたたかいで共同声明を発表しました。
 同年六月四日、大日本帝国の関東軍が張作霖の乗った列車を爆破して彼を殺害します。
 同年六月二十九日、治安維持法を緊急勅令によって改悪。最高刑を死刑に、目的遂行罪を新設。
 一九二八年一月一日、前衛芸術家同盟機関誌『前衛』の一月創刊号に蔵原惟人が「無産階級芸術運動の新段階 芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦線へ」を発表しました。
 同年二月一日、日本共産党の機関紙「赤旗」が創刊されました。
 一九二九年二月十日、日本プロレタリア作家同盟が結成されました。
 一九三〇年四月二十五日、福島県会津若松市の鶴ケ城の近くの陸軍第二師団歩兵第二十九歩兵連隊が軍旗祭を開いていたさなかに反戦ビラが配布されました。ビラは「戦争の危機が迫っている」「あなた達自身もこの戦争に反対せざるをえない」というものでした。日本共産党員・相良(さがら)新一さんによると、十数人がいっせいに正門から入り、整理箱や寝台、トイレなど兵舎のさまざまな場所に四百枚のビラを入れたといいます。当時の地元紙「新会津新聞」は「軍旗際の人出を利用/或種の文書撒布/犯人及出所不明未だ模様」の見出しで、これを報じ、「若松憲兵及び若松警察特高課は俄然(がぜん)色めきたち」と伝えています。(しんぶん赤旗、二〇一三年四月二十五日付の「潮流」など)。
 一九三一年七月六日、日本共産党の機関紙・赤旗(第四十五号)に「日本帝国主義の戦争準備と斗へ!」を発表しました。
 同年八月一日、日本共産党は、国際反戦デーに非合法の集会やデモを各地で組織し、「日本軍隊の満州、朝鮮及び台湾からの即時召還」を要求しました。
 同年九月十八日、大日本帝国が中国の東北地方に侵略戦争を開始しました。
 同月十九日、日本共産党は労働者、農民、兵士にたいする檄を発表、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」と、よびかけました。
 同月二十九日、第二無産者新聞が社説で、日本軍の侵略を暴露し、「帝国主義戦争と闘へ!」、「一人の兵士も送るな!」、「武器の輸送製作を中止せよ!」と、主張しました。
 同年十月五日、赤旗は「事変の原因」を中国側に求める商業新聞を批判し、中国での日本軍の軍事行動が「精密に計画され、実行された」中国侵略戦争であることを暴露しました。
 こうしたなかの一九三一年七月、吉田は、プロレタリア作家同盟高知支部に加入します。
 七月上旬、高知市松淵のプロレタリア作家同盟高知支部準備会の事務所ができました。
 弘田競(きそう)が、当時のことを書いています(「誇り高き青春群像(一)」=『高知県における共産主義運動戦前の思い出』。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部。一九九〇年七月一日)。
 〈(前略)支部準備会発足のニュースが新聞に出て数日後の日暮れどき、紺かすりの単衣に草履ばきの男が訪ねてきて、「ぼくを作家同盟に入れてください。きっと期待を裏切りませんから」とたのむのである。
 男は二十歳前後か、背丈は佐野と同様一メートル五十程度、頭髪は天然パーマで、ニキビだらけの白い顔だったが、その青いまでに澄んだ瞳に、弘田は、純粋で、しかも、退くことを知らない強固な意志を感じとった。これが弘田と吉田豊道(槇村浩)の初対面であり、支部準備会は槇村の加入を認めたうえ、九月はじめ、全員を同盟員に推薦することを決議した。〉
 槇村自身は自筆の年表で「蔵原惟人[くらはらこれひと]の論文に感動して、ついにプロレタリア政治と=経済=文化運動に身を投じ」と書いています(「槇村浩(吉田豊道)の年譜」=貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌』。新日本出版社。一九六四年十月十日)。
 蔵原惟人(一九〇二年一月二十六日~一九九一年一月二十五日)は、評論家。ペンネームは古川荘一郎。
 つぎのような文章を書いています。
 一九二八年一月  「無産階級芸術運動の新段階」(『前衛』)
 同年五月        「プロレタリア・リアリズムへの道」(『戦旗』)
 同年八月        「芸術運動の緊急問題」(『戦旗』)
 同年十月        「芸術運動に於ける左翼清算主義」(『戦旗』)
 同年十一月      「理論的な三、四の問題」(東京朝日新聞、二十八日)
 一九二九年八月   「マルクス主義文芸批評の下に」(『近代生活』)
 同年十二月       「新芸術形式の探求へ」(『改造』)
 一九三〇年六月   「芸術大衆化の問題」(『中央公論』)
 一九三一年十一月 (古川荘一郎)「芸術理論に於けるレーニン主義のための闘争」(『ナップ』)
 吉田が、蔵原のどの論文を、いつ読んだのか不明ですが、この点も今後追究したいと思っています。

 槇村浩の反戦詩の誕生

 こうしたなかで吉田が槇村浩のペンネームで反戦詩を書きはじめます。
 プロレタリア作家同盟高知市支部員だった弘田競(きそう)書いています(「誇り高き青春群像(四)」=『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)。
 〈一九三一年十月(昭和六年)中旬のある日、弘田が[プロレタリア作家同盟高知市支部の]事務所へ帰ると押し入れから、「オオ、セマリクルカクメイノドトウ、アムールノ……」といっているような低い声がもれてきた。押し入れをあけると、吉田がひる寝をしていて、寝言をいったのである。
 吉田はこのごろ詩作に没頭していた。当時、作家同盟本部では中央委員や有名同盟員が、党員またはシンパの嫌疑で次々と検挙されたり、地下に潜入したりして、機関紙『ナップ』誌上の文学作品の質が低下しつつあり、地方支部から新鋭作家と詩人の台頭を期待する声が高かったので、これに応えようとして弘田は一市民の反戦闘争記を、佐野は漁民騒動記を、また、吉田も負けじと長編詩の構想をねっていたのであり、その詩の一節を夢にみていたのかも知れなかった。吉田が押し入れから寝ぼけ眼で出てきた。そして、ふところ手をして部屋をぐるぐる歩きはじめ、しばらくして立ち止まると、たもとから広告のチラシを取りだして、その裏になにかを書きつけては、また、ゆっくり歩きはじめた。これが吉田が詩作にふけるときの癖であるが、そうかと思うと、彼は暇を見つけては図書館へゆき、参考資料をあさり読んだが、それに疲れると、ほこりっぽい街を乗り出し(グランド通り)から柳原の堤へ出て、すぐに西にそびえるチャンピオン碑の礎石の上に横たわり胸に刻みつけた未完成詩の一節一節を口ずさむのであった。それから堤をおりて桑畑の日当たりで、チラシの裏に新しい一節を書きくわえ、もう一度声高く冒頭から読みあげて、推敲に推敲をかさねるのである。
 ある日、弘田が新京橋を通りかかると、彼の前を一台の荷車が映画の絵看板を積んでゆくのにあった。車をひくのは南栄喜(この直後結成した日本プロレタリア美術家同盟―PP高知支部の中心人物)であり、あとを押すのが吉田であった。吉田は尻からげで鉢巻き姿であった。南が世界館の看板書きを請負っていて、その顔で吉田はときどきロハで映画をみせてもらっていたのだが、それがあまり度かさなるので、その日は看板運びを手伝って、切符切りのおっさんの機嫌をとろうとの考えでこの姿かもしれなかった。彼にはそんな茶目っ気な面もあった。
 弘田も車を押してやろうとしたとき、吉田が車から手を放して、ふところから二つに折った原稿用紙をとりだして「目を通してから意見をきかしとうぜよ」といった。
 弘田はその原稿を受け取ると、使者屋橋をこえて南へまっすぐに歩いた。彼がその原稿をよんだのは、引き潮に干あがった鏡川原であり、それが、「生ける銃架」の原稿だったが、作者名は未記入のままであり、その最後の一節に「おお、迫りくる革命の怒涛、遠くアムールの岸をかむ波の響きは……」とあるところで、弘田は先日の吉田の寝言が、やはりこの一節を生むための苦心だったことを思いあたって胸をうたれた。
 弘田はその詩を二度三度と読み返しながら、これは日本帝国主義者の強盗的大陸侵略に対する告発状であるとの感銘をおぼえた。
 それはプロ文学者のすべてが、いまこそ取りあげるべき緊急課題でありながら、誰もが卑怯にも避けているテーマであり、吉田はそれをこの詩の中で大胆に取り上げて、日本帝国主義に挑戦状をたたきつけたわが国最初の反戦長編詩だと評価した。しかし、詩の本質が読者大衆の意識の底に潜在する、かすかな記憶の世界に呼びかけて新しい心理的経験と感動を与える言葉の暗示力だとすれば、その影響力をより効果的に果たすため、作詩上の技術面での不満がないでもなかった。それはこの詩で呼びかける対象によって、主体となる人物―「おれ」と「おれ達」が日中両国人に分裂していることであり、これを日中人いずれかに統一することによって、読者により激しい衝撃を与えることに役だち、完ぺきな傑作となりうるからである。弘田が批判すべき箇所をこの一点にしぼったとき、吉田が川原へおりてきた。「どうじゃったぞのう?」とはにかみ顔であった。弘田が率直に右の一点を指摘すると、吉田はうなずいてきいていたが、「ありがとう……」と一言いって原稿をふところに入れ、さっさと川原を歩いていった。そして、道路にあがると,落陽のなかにたたずみ、弘田を振り返ってほほえみながら手を振ってみせた。〉
 一九三一年十月二十四日、吉田は、「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書あげます。
 同月、吉田は日本共産青年同盟に加入します。
 そして、一九三二年一月二十八日、日本軍が上海でも中国軍への攻撃を開始しました。
 同年二月五日、日本軍はハルピンを占領しました。
 同月創刊のプロレタリア文化同盟の啓蒙誌『大衆の友』に、槇村の詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が掲載されます。
 二月二十三日、第十一師団(香川県善通寺)に緊急動員令が下りました。二月二十八日(日曜日)、同師団に属する陸軍の歩兵第四十四連隊(連隊長・秦雅尚大佐)が、この動員令によって兵営を出発し、中国に行きました。そして、三月三十一日、兵営に帰還し、四月二日、高知市で同部隊の「凱旋祝賀歓迎大宴会」が開かれました。
 これに関連して同年二月から四月二十日まで高知の青年たちは、高知市内や高知市の陸軍歩兵四十四連隊など十回以上反戦ビラを配布しています。
 槇村は、配布されたビラの原稿の一部を書いています。
 同年の『プロレタリア文学』四月増刊号に槇村の詩「間島パルチザンの歌」が掲載されます。
 四月の反戦詩集『赤い銃火』に槇村の詩「出征」が掲載されます。
 『大衆の友』四月号に槇村の詩「一九三二・二・二六 ―白テロに斃された××聯隊の革命的兵士に―」が掲載されました。

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