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2013.04.30

そして反戦詩人が誕生した 槇村浩の場合  藤原 義一

 四月から大学院(修士)に通っています。研究のテーマは高知の反戦詩人・槇村浩(まきむらこう。本名・吉田豊道。一九一二年六月一日、吉田豊道が、高知市廿代町八十九番屋敷に生まれ)についてです。
 「大日本帝国の偉業を評価していた吉田豊道少年が、槇村浩と名乗り反戦の詩を書くようになった訳」です。
 おもに考え方が、いつの時点から、どうして、どう変わったのかということをのべる予定です。
 いまは、まず吉田、槇村の書いた文献のリストづくりから始めています。
 研究の出発点に、このテーマを、いまの時点で、どのように考えているのかについて書いておきたいと思いパソコンに向かいました。
 一年半後の論文が仕上がるころには、ずいぶん違ったことを書いているかもしれませんが……。
 (引用文の中の[]のなかは引用者のつけた読み仮名です)。

 大日本帝国の天皇の海外派兵

 当時の日本の絶対主義的天皇制は、どのようなものだったでしょうか。
 明治、大正、昭和の天皇の政府は、一八七四年の台湾への海外派兵以来、海外派兵を繰りかえしていきました。
 一八八九年二月十一日、大日本帝国憲法発布されました。
 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬[そうらん]シ此[こ]ノ憲法ノ条規ニ依[よ]リ之ヲ行フ」(第四条)、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(第五条)、「天皇ハ法律ヲ裁可シ其[そ]ノ公布及執行ヲ命ス 」(第六条)。
 この憲法で戦争における天皇の位置がはっきりしました。
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第十一条)、「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(第十二条)、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第十三条)。
 一八九〇年十月三十日、天皇は、教育ニ関スル勅語(教育勅語)を渙発(天皇が詔書・勅語などを発すること)。絶対主義的天皇制のもとでの「皇民教育」の基本原理を示したもので、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」と説いています。
 天皇を「万世一系」で「神聖ニシテ侵スヘカラス」と国民に宣伝するうえで政府は『古事記』(七一二年に太朝臣安萬侶=おほのあそみやすまろ=によって献上されたとされています)、『日本書紀』(舎人親王らの撰で七二〇ねんに完成したといわれます)の内容の一部を神話として宣伝しましたが、よく読むと、それらに描かれた天皇の姿は残虐非道なケースが多く、この宣伝は矛盾に満ちたものでした。
 たとえば、『古事記』ではどうか。
 それについては、雁屋哲作・シュガー佐藤画『マンガ 日本人と天皇』(いそっぷ社。二〇〇〇年一二月二十日)が登場人物の東拓大学理事長に語らせていますので引用させていたただきます。
 〈「日本書紀」は天皇家自身が編纂した史書であるにもかかわらず 天皇家代々の残虐な行いや醜聞が多く記録されている〉
 〈たとえば第二〇代の安康(あんこう)天皇は大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺し その妻を自分の皇后とする ところが大草香皇子と皇后の子どもである眉輪王(まゆわおう)は後に安康天皇が酒に酔って自分の母である皇后の膝を枕にして寝ているところを殺してしまう すると後の第二一代の雄略(ゆうりゃく)天皇になる安康天皇の弟がその眉輪王を殺してしまう〉
 〈さらに雄略天皇は自分の兄たちを何人も殺す わがまま勝手に部下を斬り殺す 自分の求めに背いて他の男と通じた婦人とその夫を焼き殺すなど 人を殺すことが多かったので人々は天皇を「大悪の天皇」と誹謗(ひぼう)したとある〉
 〈凄(すご)いのは第二五台の武烈(ぶれつ)天皇だ 天皇は妊婦の腹を割き 人の生爪をはいでその手で芋を掘らせ 人を池の樋(とい)に入らせて流れ出てくるところを矛で突き殺して遊び 人の髪の毛を抜いて木に登らせてその木を倒して殺すのを楽しみにし いつも酒に酔いしれて遊びほうけて贅沢(ぜいたく)をし人々が飢えているのも気にしなかったち書記には書いてある〉
 〈継体天皇以降も大変だ 天智(てんじ)天皇の息子大友皇子(おおともおうじ)を叔父の天武(てんむ)天皇が殺す すると 天智天皇の娘である天武天皇の后になりその亡き後女帝となる持統(じとう)天皇が 叔父で夫である天武天皇の息子・大津皇子(おおつのおうじ)を殺す 近親相姦・親子兄弟伯父甥の殺し合い 何でもありだ〉
 このことは、のちにのべる吉田の変化にも関係してきます。

 皇国史観だった尋常小学生のころ

 吉田豊道は、高知市第六尋常小学校の児童のころ、多くの文章を書きます。
 世界や日本の状況について書いたものはそんなに多くはありませんが、一つだけ紹介します。
 一九二一年十二月に出た『吉田豊道作 唱歌集』(高知市第六尋常小学校)の中の「日本歴史」(一九二一年十一月、高知市本町自宅で)です。
 〈(一)我が日の本の光輝ある/清き歴史は三千年/動かぬ御代は天つ日の/光と共に限りなし〉
 〈(四)天皇陛下の御先祖の/天の御神の御孫の/にヽぎの尊は日の本の/高千穂峯に降らるヽ〉
 〈(一四)日清日露の戦役に/一躍東洋最強国/大正三年六月に/起こるは世界大戦役〉
 〈(一五)聯合軍は大勝し/我が日の本の帝国は/国威宣揚三強の/列に入つて活動す〉
 〈(一六)建国以来三千年/敗をばとりし事はなく/皇統一系連綿と/眞に世界の大帝国〉
 〈(一七)三強国の列に入り/東洋平和の盟主となり/国威隆々と輝きて/萬世不滅果もなし〉
 これを読むと彼が皇国史観の持ち主で大日本帝国の侵略を是としていたことがわかります。

 中学校生徒のころからの変化

 こうした吉田の考え方が変化していったのは中学校の生徒になってからです。

 (一) 「万世一系の」天皇への見方の変化

 第一にあげたいのが、当時、大日本帝国の支配者であり、侵略戦争推進の責任者であった天皇についての見方が変わったことです。
 一九二三年四月、吉田は、高知市の私立土佐中学校本科一年生に入学します(二年飛級)。
 そして、同年二学期、吉田は、同校予科一年生に戻されます。
 このころの吉田についての同級生の下司順吉の文章があります。
 「予科のとき、清少納言の『枕の草子』を読んでいるのをみておどろきました。この本は少年たちにはまったく難解な古文です。おもしろいかと私がたずねると、おもしろいというのです。かれは日本文学、外国文学を手あたりしだい読みあさっていました。かれは、もの静かで、ひかえめな人柄で、口に手をあててはずかしそうにものをいう癖がありましたが、ときには文学についての博識をとうとうとのべて、私たちを敬服させました」(下司順吉「吉田豊道の思い出」=『ダッタン海峡 第五号』。槇村浩の会。一九七二年八月十五日)。
 その日本文学の古典を読んだことが彼の天皇観を変えたようです。
 一九二四年四月、吉田は私立土佐中学校予科二年生に。
 同級だった川島哲郎が、そのころのことを語っています。
 「私は当時[高知市]小高坂におりまして親父に自転車をかってもらいまして、自転車で通学しておりましたけれど吉田は歩いて通学していたと思います。それで帰り道に吉田と話をする為に帰り道は吉田の家の前まで自転車をついて歩きながら、毎日そうやって通ったことでした。なぜそれほど吉田と一緒に歩くのが楽しみだったかといいますと、毎日毎日ルパンの話を続きものでやってくれるわけですね。(中略)それで吉田の家にも何回か寄ったことがあるんですが、(中略)薄暗い長屋のようになっていまして、二階が吉田の部屋でしたが、第一に驚いたことは膨大な書物があるということですね。(中略)大鏡や増鏡の本があったのを覚えています。大正十二~三年の頃です。」、「吉田の話の中で一つだけ印象に残っているのは雄略天皇の話なんです。雄略天皇が暴虐の限りをつくしたという話なんです。(中略)天皇がそういう非道なことをするということは実に青天の霹靂[へきれき]でしたね」(槇村浩生誕七十周年記念の集い 『槇村浩(吉田豊道)と同時代を語る』=『ダッタン海峡 第七号』。槇村浩の会。一九八三年五月二十五日)。
 この時点で吉田は大元帥である当時の天皇への忠君愛国という観念から脱出していたと思います。
 吉田について、この考えは思いつきのようなものではありませんでした。
 彼は反戦詩を書き出したあと『日本詩歌史』(槇村浩の会。平和資料館・草の家。一九九五年十月二十一日)という評論を書きましたが、そこでも、つぎのようにのべています。
 〈そして圧政の時代がきた。記紀はじめすべての文書は、一せいに歴史はじまって以来の最大の暴君について、特筆大書している。惨殺、クーデター、侵略戦争、共同倉庫の掠奪、女性と奴隷に対するはてしなき悪行--これが大悪天皇と呼ばれた雄略天皇の治政だった。〉

 (二)天皇のために人を殺す軍事教練への嫌悪

 第二にあげたいのは、中学校で大元帥・天皇のために海外に攻め込んで人を殺す訓練、軍事教練が始まり、吉田も、その訓練を受けることを強要されたこと、吉田がそのことを嫌ったということです。
 吉田が、私立土佐中学校本科一年生のころの一九二五年四月十一日、陸軍現役将校学校配属令(勅令第百三十五号)が公布されました。
 同令によって、一定の官立、または公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属されました。各学校は配属将校に学校教練(軍事教練)を実施させました。これを履修した者は陸軍では一年現役兵を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられました。学校教練教材要目としては、各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、手旗信号、距離測量、測図学、軍事講話、戦史などで、教材の配当は学校の程度に応じて差異がありました。
 吉田の通っていた私立土佐中学校でも教練が実施されます。
 吉田は、軍事訓練をしなければならないという現実に反発しています。
 一九二七年三月二十三日の吉田の同校本科二年生の「成績証明証」によると教練は丙、修身は丁です。
 一九二七年四月、吉田は高知県立中学海南学校(高知市九反田)の二年生に編入しました。
 そして、一九二八年四月、同校の三年生となります。
 一九二八年の二学期、学校で吉田の読む書物のなかに「赤い表紙のもの」が見えはじめます。
 始めは階段式の教室でやっていた化学の時間だけでしたが、そのうち、すべての教科を放棄し、授業中にカール・マルクスの著作を読みはじめます(富永三雄『ひとつの出合い』。「ひとつの出合い」刊行委員会。一九九二年二月二十六日)。
 カール・マルクス(一八一八年五月五日~一八八三年三月十四日)はドイツ人で科学的社会主義をうちたてめました。それは、人民大衆の力こそが歴史をつくり社会進歩をおしすすめるという考え方です。
 「きわめて批判的であった彼がマルクスに屈服した瞬間、軍事訓練反対の『のろし』があがることになる。彼の徹底抗戦がT大尉を目標に始まる。ゲートルをろくにまかない。銃をななめにかつぐ、銃の掃除は放棄する。手旗を無茶苦茶にふる。なぐりたいだけ、なぐらせる、彼の配属将校に対する愚弄的態度は止まらない」(富永三雄「『槇村浩』の思い出」。近森俊也編集『ダッタン海峡 二・三号合併号』。小路貞次郎。一九六四年十一月)。
 一九二九年四月、吉田は高知県立中学海南学校四年生となります。
 同年、高知市の高知県立中学海南学校四年生の吉田は奴田原三郎、富永三雄らの同級生と語らい、軍事教練反対運動を組織します。
 「[吉田が]全四年生を集合さして大演説をぶった。『真理は軍事教練にはない。天皇制絶対君主制こそ打倒すべきもの、陸士[陸軍士官学校]を止めよ、海兵[海軍兵学校]に行くな、筆記試験を書くな。』」(富永三雄「『槇村浩』の思い出」)。
 四年生の二クラス全員が白紙答案を提出します。
 同年十月二十二日午後、高知県立中学海南学校の職員会で「白紙問題」で吉田などの「諭退」が決定します(野本亮「海南学校の名物教師 寺石正路と吉田豊道」=『ダッタン海峡 第九号』。槇村浩の会。二〇〇四年一月二十六日)。
 一九三〇年四月、吉田は、岡山市の私立関西中学校五年生に編入します。
 一九三一年三月五日、吉田は私立関西中学校を卒業しますが、そのさいの成績を見ると、歴史(一学期)、地理(一学期)、法経(三学期)が百点であるいっぽう、教練は二十点、十点、三十点です。
 吉田の教練への嫌悪は続いていたのです。

 (三) マルクスの著作や研究運動との出合い

 三つ目は、吉田が科学的社会主義の古典に触れ、人民大衆の力こそが歴史をつくり社会進歩をおしすすめるという考え方から多くを学んだということです。
 一九二八年四月、吉田は高知県立中学海南学校三年生となります。
 始業式の朝、吉田は、級友の富永三雄に治安維持法のことを話しました(富永三雄『ひとつの出合い』。「ひとつの出合い」刊行委員会。一九九二年二月二十六日)。
 「富やん、治安維持法という名の法律を知っているのか?」
 「そういう名前の法律は聞いたことがある。それがどうした?」
 「一九二五年三月成立。国民[ママ]の変革、私有財産制度を否認するものを罰する最高懲役を十年とするもの。そうした目的の結社への加入、その未遂、扇動をも対象とする、行動のみでなく、国民の思想をも対象とするもの。普通選挙を実現することの引きかえに、日ソ国交回復に備えて共産主義思想の流入を防ごうとするもの。この法律は絶対的官僚的勢力が、政党と妥協した、国体を守るための、天皇制擁護、革命防止の弾圧体制を整えたもので、世界でも比を見ない思想弾圧立法である」
 「ソ連の共産主義とはどんなもんか?」
 「これから勉強するよ」
 同年の二学期から吉田が授業中にカール・マルクスの著作を読みはじめたことは、前節でもふれました。
 一九二二年七月十五日、科学的社会主義の党、日本共産党が創立されていました。
 治安維持法は、一九二五年四月二十二日に公布されていました。
 槇村自身は、自筆の年表で「懸賞論文の金でやっと長いことの憧れだった資本論を購入し、直ちにマルクスに傾倒する。」と書いています(「槇村浩(吉田豊道)の年譜」=貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌』。新日本出版社。一九六四年十月十日)。
 この懸賞論文については、どういうものだったか分かっていません。
 吉田は、岡山市で科学的社会主義の研究運動にも参加していたようです。
 高知県における共産主義運動の足跡編集委員会『高知県における共産主義運動の足跡編集委員会』(高知民報社。一九七三年四月十五日)には、こうあります。
 〈一九三一年(昭和六年)四月、岡山から帰った槇村は〝プロレタリア科学者同盟〟中央との連絡の線を持って帰ってきた。そして友人の毛利孟夫、奴田原三郎らをメンバーとしてプロ科高知支局を確立した。〉
 ここにいうプロレタリア科学者同盟は、プロレタリア科学研究所だと思います。
 一九二九年十月十三日に設立され、現実社会の科学的社会主義的分析や啓蒙活動をした科学者の民間学術研究団体です。同年十一月五日、月刊機関誌『プロレタリア科学』創刊しました。
 岡山市で、吉田がどんな勉学、生活、活動をしていたのか知りたいと思っています。

 吉田が、どのようにして科学的社会主義に接近していったかは、のちに高知刑務所の獄中にいたとき書いた「入所時感想録」の記述を見るとわかります。
〈自分ハ最初世上ノ俗論ニ迷ハサレテ、マルクス主義ハ一箇ノユートピアニ過ギナイト信ジテ居タ。シカモ世上ノ反マルクス主義論ハ矛盾百出迷理錯雑一モ理論トシテ取ルニ足ルベキモノハナイ。ヨッテ自分ハマルクス主義ノ正シクナイ事ヲ完全ニ理論的ニ証明セント研究ヲ始メタガ、ソノ結果ハ却[かえ]ッテ同主義ハアクマデ正当デアリ、且[か]つ無産階級解放ノ唯一ノ途デアル事ヲ認メルニ至ッタ。心理デアル以上ハ実践スルノハ当然デアル。自分ハカク信ジテコレヲ行動ニ移シタノデアル。〉
 ところで、一時、社会主義に向かっていたソ連では、一九二四年一月二十一日のウラジーミル・レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンによって、経済の面でも政治の面でも社会主義とは無縁の政策を実行しはじめていました。
 一九二九年七月ころ、スターリンは国内で農業の強制集団化を開始、階級としての富農の絶滅政策を強行しました。同じ七月、ソ連は満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破ると同年十二月二十二日にハバロフスク議定書を締結し満州における影響力を強めました。
 その後も、その状態は悪化しました。
 〈(前略)30年代のなかば、ソ連国内では、革命と社会主義のために身をささげた何万何十万、さらにはそれを超える人たちが「外国帝国主義の手先」という無実の罪を着せられてテロの犠牲になりました。コミンテルンで活動していたわが党の山本懸蔵などの同志を含め、多くの外国の共産党員もそれに巻き込まれました。
 その嵐が過ぎたあと、ソ連は、スターリンがすべての重要政策を1人で決定する、だれもがそれに無条件に従うという専制国家にすっかり変わっていたのです。
 スターリンは、この体制をつくりあげると、ソ連の領土と勢力圏の拡大を国家の至上目的とする大国主義、覇権主義の道に乗り出しました。まず、ヨーロッパで大戦が始まる直前、それまで掲げていたファシズム反対の旗を捨てて、ヒトラー・ドイツと手を結び、秘密条約(39年8月)で東ポーランド、バルト3国などを併合してしまったのです。(後略)〉(不破哲三「日本共産党創立90周年記念講演会 日本共産党の九十年をふりかえる」。しんぶん赤旗。二〇一二年七月二十一日)。
 それが、このころのと、その後の「ソ連の共産主義」の現実でした。
 こうした「ソ連の共産主義」の現状を吉田が認識していたかどうかは、不明です。

 反戦運動の高まりのなかで

 こうして軍事教練が嫌い、天皇にたいして批判的、科学的社会主義の文献や研究運動に親しんだ吉田が反戦詩人として登場するには中学校を卒業してからの高知での日々が必要だったようです。
 すでに日本共産党などによる反戦運動の高まり、反戦文学を書こうという日本共産党などの呼びかけが始まっていました。
 当時の動きを年表的にふれます。
 一九二五年年九月二十六日、無産者新聞が創刊されました。
 同年十月一日、無産者新聞(第二号)が「支邦から手をひけ」、「支邦の解放運動を熱烈に応援せよ」と訴えました。
 一九二七年一月十五日、無産者新聞が「対支非干渉運動を全国に起こせ!」と訴えました。
 同年二月二十六日、無産者新聞が「即時撤兵を要求せよ――対支非干渉同盟を組織せよ」の社説を発表します。
 同月三十一日、日本で対支非干渉全国同盟が結成されます(一九二八年には戦争反対同盟に発展します)。
 一九二七年五月二十八日、大日本帝国の第一次山東出兵が始まりました(~九月八日)。
 同日の無産者新聞は、第一次山東出兵のねらいを暴露し、「支邦から手を引け」、「出兵に断固反対せよ」と主張しました。
 一九二八年五月、全日本無産者芸術連盟が文芸雑誌『戦旗』を創刊しました(~一九三一年十二月)。
 同年五月、日本共産党、中国共産党が天皇制政府の中国侵略に反対するたたかいで共同声明を発表しました。
 同年六月四日、大日本帝国の関東軍が張作霖の乗った列車を爆破して彼を殺害します。
 同年六月二十九日、治安維持法を緊急勅令によって改悪。最高刑を死刑に、目的遂行罪を新設。
 一九二八年一月一日、前衛芸術家同盟機関誌『前衛』の一月創刊号に蔵原惟人が「無産階級芸術運動の新段階 芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦線へ」を発表しました。
 同年二月一日、日本共産党の機関紙「赤旗」が創刊されました。
 一九二九年二月十日、日本プロレタリア作家同盟が結成されました。
 一九三〇年四月二十五日、福島県会津若松市の鶴ケ城の近くの陸軍第二師団歩兵第二十九歩兵連隊が軍旗祭を開いていたさなかに反戦ビラが配布されました。ビラは「戦争の危機が迫っている」「あなた達自身もこの戦争に反対せざるをえない」というものでした。日本共産党員・相良(さがら)新一さんによると、十数人がいっせいに正門から入り、整理箱や寝台、トイレなど兵舎のさまざまな場所に四百枚のビラを入れたといいます。当時の地元紙「新会津新聞」は「軍旗際の人出を利用/或種の文書撒布/犯人及出所不明未だ模様」の見出しで、これを報じ、「若松憲兵及び若松警察特高課は俄然(がぜん)色めきたち」と伝えています。(しんぶん赤旗、二〇一三年四月二十五日付の「潮流」など)。
 一九三一年七月六日、日本共産党の機関紙・赤旗(第四十五号)に「日本帝国主義の戦争準備と斗へ!」を発表しました。
 同年八月一日、日本共産党は、国際反戦デーに非合法の集会やデモを各地で組織し、「日本軍隊の満州、朝鮮及び台湾からの即時召還」を要求しました。
 同年九月十八日、大日本帝国が中国の東北地方に侵略戦争を開始しました。
 同月十九日、日本共産党は労働者、農民、兵士にたいする檄を発表、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」と、よびかけました。
 同月二十九日、第二無産者新聞が社説で、日本軍の侵略を暴露し、「帝国主義戦争と闘へ!」、「一人の兵士も送るな!」、「武器の輸送製作を中止せよ!」と、主張しました。
 同年十月五日、赤旗は「事変の原因」を中国側に求める商業新聞を批判し、中国での日本軍の軍事行動が「精密に計画され、実行された」中国侵略戦争であることを暴露しました。
 こうしたなかの一九三一年七月、吉田は、プロレタリア作家同盟高知支部に加入します。
 七月上旬、高知市松淵のプロレタリア作家同盟高知支部準備会の事務所ができました。
 弘田競(きそう)が、当時のことを書いています(「誇り高き青春群像(一)」=『高知県における共産主義運動戦前の思い出』。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県支部。一九九〇年七月一日)。
 〈(前略)支部準備会発足のニュースが新聞に出て数日後の日暮れどき、紺かすりの単衣に草履ばきの男が訪ねてきて、「ぼくを作家同盟に入れてください。きっと期待を裏切りませんから」とたのむのである。
 男は二十歳前後か、背丈は佐野と同様一メートル五十程度、頭髪は天然パーマで、ニキビだらけの白い顔だったが、その青いまでに澄んだ瞳に、弘田は、純粋で、しかも、退くことを知らない強固な意志を感じとった。これが弘田と吉田豊道(槇村浩)の初対面であり、支部準備会は槇村の加入を認めたうえ、九月はじめ、全員を同盟員に推薦することを決議した。〉
 槇村自身は自筆の年表で「蔵原惟人[くらはらこれひと]の論文に感動して、ついにプロレタリア政治と=経済=文化運動に身を投じ」と書いています(「槇村浩(吉田豊道)の年譜」=貴司山治、中沢啓作編『間島パルチザンの歌』。新日本出版社。一九六四年十月十日)。
 蔵原惟人(一九〇二年一月二十六日~一九九一年一月二十五日)は、評論家。ペンネームは古川荘一郎。
 つぎのような文章を書いています。
 一九二八年一月  「無産階級芸術運動の新段階」(『前衛』)
 同年五月        「プロレタリア・リアリズムへの道」(『戦旗』)
 同年八月        「芸術運動の緊急問題」(『戦旗』)
 同年十月        「芸術運動に於ける左翼清算主義」(『戦旗』)
 同年十一月      「理論的な三、四の問題」(東京朝日新聞、二十八日)
 一九二九年八月   「マルクス主義文芸批評の下に」(『近代生活』)
 同年十二月       「新芸術形式の探求へ」(『改造』)
 一九三〇年六月   「芸術大衆化の問題」(『中央公論』)
 一九三一年十一月 (古川荘一郎)「芸術理論に於けるレーニン主義のための闘争」(『ナップ』)
 吉田が、蔵原のどの論文を、いつ読んだのか不明ですが、この点も今後追究したいと思っています。

 槇村浩の反戦詩の誕生

 こうしたなかで吉田が槇村浩のペンネームで反戦詩を書きはじめます。
 プロレタリア作家同盟高知市支部員だった弘田競(きそう)書いています(「誇り高き青春群像(四)」=『高知県における共産主義運動戦前の思い出』)。
 〈一九三一年十月(昭和六年)中旬のある日、弘田が[プロレタリア作家同盟高知市支部の]事務所へ帰ると押し入れから、「オオ、セマリクルカクメイノドトウ、アムールノ……」といっているような低い声がもれてきた。押し入れをあけると、吉田がひる寝をしていて、寝言をいったのである。
 吉田はこのごろ詩作に没頭していた。当時、作家同盟本部では中央委員や有名同盟員が、党員またはシンパの嫌疑で次々と検挙されたり、地下に潜入したりして、機関紙『ナップ』誌上の文学作品の質が低下しつつあり、地方支部から新鋭作家と詩人の台頭を期待する声が高かったので、これに応えようとして弘田は一市民の反戦闘争記を、佐野は漁民騒動記を、また、吉田も負けじと長編詩の構想をねっていたのであり、その詩の一節を夢にみていたのかも知れなかった。吉田が押し入れから寝ぼけ眼で出てきた。そして、ふところ手をして部屋をぐるぐる歩きはじめ、しばらくして立ち止まると、たもとから広告のチラシを取りだして、その裏になにかを書きつけては、また、ゆっくり歩きはじめた。これが吉田が詩作にふけるときの癖であるが、そうかと思うと、彼は暇を見つけては図書館へゆき、参考資料をあさり読んだが、それに疲れると、ほこりっぽい街を乗り出し(グランド通り)から柳原の堤へ出て、すぐに西にそびえるチャンピオン碑の礎石の上に横たわり胸に刻みつけた未完成詩の一節一節を口ずさむのであった。それから堤をおりて桑畑の日当たりで、チラシの裏に新しい一節を書きくわえ、もう一度声高く冒頭から読みあげて、推敲に推敲をかさねるのである。
 ある日、弘田が新京橋を通りかかると、彼の前を一台の荷車が映画の絵看板を積んでゆくのにあった。車をひくのは南栄喜(この直後結成した日本プロレタリア美術家同盟―PP高知支部の中心人物)であり、あとを押すのが吉田であった。吉田は尻からげで鉢巻き姿であった。南が世界館の看板書きを請負っていて、その顔で吉田はときどきロハで映画をみせてもらっていたのだが、それがあまり度かさなるので、その日は看板運びを手伝って、切符切りのおっさんの機嫌をとろうとの考えでこの姿かもしれなかった。彼にはそんな茶目っ気な面もあった。
 弘田も車を押してやろうとしたとき、吉田が車から手を放して、ふところから二つに折った原稿用紙をとりだして「目を通してから意見をきかしとうぜよ」といった。
 弘田はその原稿を受け取ると、使者屋橋をこえて南へまっすぐに歩いた。彼がその原稿をよんだのは、引き潮に干あがった鏡川原であり、それが、「生ける銃架」の原稿だったが、作者名は未記入のままであり、その最後の一節に「おお、迫りくる革命の怒涛、遠くアムールの岸をかむ波の響きは……」とあるところで、弘田は先日の吉田の寝言が、やはりこの一節を生むための苦心だったことを思いあたって胸をうたれた。
 弘田はその詩を二度三度と読み返しながら、これは日本帝国主義者の強盗的大陸侵略に対する告発状であるとの感銘をおぼえた。
 それはプロ文学者のすべてが、いまこそ取りあげるべき緊急課題でありながら、誰もが卑怯にも避けているテーマであり、吉田はそれをこの詩の中で大胆に取り上げて、日本帝国主義に挑戦状をたたきつけたわが国最初の反戦長編詩だと評価した。しかし、詩の本質が読者大衆の意識の底に潜在する、かすかな記憶の世界に呼びかけて新しい心理的経験と感動を与える言葉の暗示力だとすれば、その影響力をより効果的に果たすため、作詩上の技術面での不満がないでもなかった。それはこの詩で呼びかける対象によって、主体となる人物―「おれ」と「おれ達」が日中両国人に分裂していることであり、これを日中人いずれかに統一することによって、読者により激しい衝撃を与えることに役だち、完ぺきな傑作となりうるからである。弘田が批判すべき箇所をこの一点にしぼったとき、吉田が川原へおりてきた。「どうじゃったぞのう?」とはにかみ顔であった。弘田が率直に右の一点を指摘すると、吉田はうなずいてきいていたが、「ありがとう……」と一言いって原稿をふところに入れ、さっさと川原を歩いていった。そして、道路にあがると,落陽のなかにたたずみ、弘田を振り返ってほほえみながら手を振ってみせた。〉
 一九三一年十月二十四日、吉田は、「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」を書あげます。
 同月、吉田は日本共産青年同盟に加入します。
 そして、一九三二年一月二十八日、日本軍が上海でも中国軍への攻撃を開始しました。
 同年二月五日、日本軍はハルピンを占領しました。
 同月創刊のプロレタリア文化同盟の啓蒙誌『大衆の友』に、槇村の詩「生ける銃架 ― 満州駐屯軍兵卒に ―」が掲載されます。
 二月二十三日、第十一師団(香川県善通寺)に緊急動員令が下りました。二月二十八日(日曜日)、同師団に属する陸軍の歩兵第四十四連隊(連隊長・秦雅尚大佐)が、この動員令によって兵営を出発し、中国に行きました。そして、三月三十一日、兵営に帰還し、四月二日、高知市で同部隊の「凱旋祝賀歓迎大宴会」が開かれました。
 これに関連して同年二月から四月二十日まで高知の青年たちは、高知市内や高知市の陸軍歩兵四十四連隊など十回以上反戦ビラを配布しています。
 槇村は、配布されたビラの原稿の一部を書いています。
 同年の『プロレタリア文学』四月増刊号に槇村の詩「間島パルチザンの歌」が掲載されます。
 四月の反戦詩集『赤い銃火』に槇村の詩「出征」が掲載されます。
 『大衆の友』四月号に槇村の詩「一九三二・二・二六 ―白テロに斃された××聯隊の革命的兵士に―」が掲載されました。

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