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2013.04.23

【文学の勉強】 志賀直哉の『焚火(たきび)』のこと。(ふろく・志賀直哉と小林多喜二)

 いま志賀直哉(しがなおや。一八八三年二月二十日~一九七一年十月二十一日)の小説『焚火(たきび)』(一九二〇年=大正九年=発表)を勉強しています。

 志賀直哉は、一九一四年(大正三年十二月)、勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)の長女で直哉よりも六歳下の康子(さだこ)と結婚しました。
 康子が華族女学校中退で、再婚であることなどのために、志賀家はこの結婚に反対し、直哉と父・直温の関係は悪化しました。直哉は、家の反対を逆手にとり、戸主反対の自由結婚をしたという理由で、望んでいた廃嫡をみずから実行し、一九一五年(大正四年)三月一日に自身の志賀家を創設します。
 志賀直哉は、同年五月、京都から鎌倉に移り、同月半ば、群馬県の赤城山大洞に移りました。
 そして、同年九月半ばまでのおよそ四か月間、康子(さだこ)夫人と赤城で過ごしました。
 最初は猪谷旅館に泊まりましたが、夏場は客で混雑すると聞いて、猪谷六合雄(いがやくにお。一八九〇年五月五日~一九八六年一月十日)に近くに山小屋を建ててもらって、九月半ばまで住みました。
 猪谷六合雄は、群馬県赤城山の赤城旅館の長男として誕生。のちに日本の近代スキーの草分け的存在になった人です。
 新婚早々の志賀夫妻が赤城山大洞へ滞在することになった理由は、直哉と父・直温との不和を苦にして妻の康子が神経衰弱になり、転地療養するためだったようです。
 『焚火』はその時の生活を素材にしています。

 主人公夫婦は、旅館の若主人K、画家のSと夜の大沼にボートを漕ぎ出します。
 静かな晩で星空が湖水に映っていました。
 小鳥島に焚火が見え、四人も別の岸で焚火を始めました。
 そこでヘビや山犬、「大入道」などの話がはずんだ後、Kから不思議な話を聞きます。
 前の年の冬、東京の姉の病気を見舞っての帰り、深い雪を踏み分けて鳥居峠を越えたことがありました。体力には自信があり、雪にも慣れていました。月明かりで峠もすぐそこに見えていました。ところが、その手の届きそうな距離が容易ではありませんでした。
 恐怖は感じなませんでしたが、気持ちが少しぼんやりしてきました。
 ようやく峠を越えた時に、提灯の明かりが見えました。Kの呼ぶ声を寝耳に聴いた母が迎えをよこしたのでした。彼の帰る日は未定だったし、呼んだとしても聞こえる距離ではありませんでした。「夢のお告げ」を母が聴いたのは、彼が一番弱っている時でした。そんな不思議が生じたのは、K思いの母、母思いのKの関係だからだろう、と主人公はいます。
 ……

 赤城山大洞の小鳥ケ島にある赤城神社境内に、志賀直哉の文学碑が建っています
 隣には彼の小説『焚火』の末尾が刻まれた石碑があります。
 碑文は次のようです。

 直哉
 船に乗った。蕨取りの焚火は
 もう消えかかって居た。船は小
 鳥島を廻って、神社の森の方へ
 静かに滑って行った。梟の聲が
 段々遠くなった。

 志賀直哉といえば、プロレタリア作家の小林多喜二(一九〇三年十二月一日生まれ)は彼に私淑していました。
 小林多喜二は、一九三〇年(昭和五年)に検挙され、翌年一月に保釈されるまで、東京の奥多摩刑務所で過ごしましたが、獄中から志賀直哉に、こんな手紙を書きました。
 〈今日は十二月十三日です。東京は冬でしょう。然し、私には雪の降らない冬は、とても考えることができません。私が残してきた北の国からの便りだと、そこではもう大吹雪さえあったと書かれています。それだのに、此処では、この太陽の明るさは! それはまるで、北海道の春か十月頃をしか思わせません。私が汽車の窓から二度程見た奈良は、吹きっさらしの北海道に比べては、箱庭をみるように、温かく、思われました。冬には雪が降るのですか、そんな処でも。/私が此処を出るようになったら、必ず一度お訪ねしたいと思い、楽しみにして居ります〉
 志賀直哉は、小林多喜二に、一九三一年(昭和六年)八月七日付で手紙を出しています。
 「東京市外杉並町成宗八八 田口氏方」「奈良市上高畑より」
 〈手紙大変遅れました。
  君の小説、「オルグ」「蟹工船」最近の小品、「三・一五」といふ順で拝見しました。
  「オルグ」は私はそれ程に感心しませんでした。
 「蟹工船」が中で一番念入ってよく書けてゐると思ひ、描写の生々と新しい点感心しました。
  「 三・一五」は一つの事件のいろいろな人の場合をよく集め、よく書いてあると思いました。
  私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。大衆を教へると云ふ事が多少でも目的になってゐる所は芸術としては弱身になってゐるやうに思へます。さういふ所は矢張り一種の小児病のやうに思はれました。里見の「今年竹」といふ小説を見て、ある男がある女の手紙を見て感激する事が書いてあり、私は里見にその部分の不服をいった事がありますが、その女の手紙を見て読者として別に感激させられないのに主人公の男が切に感激するのは馬鹿々々しく、下手な書き方だと思ふといったのです。力を入れるのは女の手紙で、その手紙それ自身が直接読者を感動させれば、男の主人公の感動する事は書かなくていいと思ふと云ったのです。
 君の「蟹工船」の場合にさういふ風に感じたわけではありませんが、プロレタリア小説も大体に於てさういふ行き方の方が芸術作品になり、効果からいっても強いものになると思ひます。
 プロレタリア芸術の理論は何も知りませんが、イデオロギーを意識的に持つ事は如何なる意味でも弱くなり、悪いと思ひます。
 作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角、何かある考へを作品の中で主張する事は芸術としては困難な事で、よくない事だと思ひます。運動の意識から全く独立したプロレタリア芸術が本統のプロレタリア芸術になるものだと思ひます。
 フイリップにしろ、マイケル・ゴールドにしろ、かなり主観的な所はあっても誰れでもがその境遇に置かれればさう感じるだらうと思はれる主観なので素直にうけいれられます。つまり作者はどういう傾向にしろ兎に角純粋に作者である事が第一条件だと思ひます。絵の方でいへばキュビズムは兎に角純粋の絵の上の運動なるが故に生命があり、未来派は不純な要素が多く、その為め、更に物が生ずる事なしに亡んだやうに思ひます。
 トルストイは芸術家であると同時に思想家であるとして、然し作品を見れば完全に芸術家が思想家の頭をおさへて仕事されてある点、矢張り大きい感じがして偉いと思ひます。トルストイの作品でトルストイの思想家が若しもっとのさばってゐたら作品はもっと薄っぺらになり弱くなると思ひます。
 主人持ちの芸術はどうしても希薄になると思ひます。文学の理論は一切見てゐないといっていい位なので、プロレタリア文学論も知りませんが、運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が結果からいっても強い働きをするやうに私は考へます。 前に洋文から「魚河岸」といふ本を貰い、その前、津田青楓にすすめられて「ゴー・ストップ」といふ本を見たきりで所謂プロレタリア小説といふものは他に知らないのですが、前の二つとも作品としては兎に角運動が目的なら、もう少し熱があってもよささうなものだと感じましたが、その点君のものには熱が感じられ愉快でした。それに「ゴー・ストップ」(比較は失礼かもしれませんが)などに出て来る女の関係変に下品に甘ったるいのがいやでしたが、君のものではさういふ甘ったるさなくこれも気持よく思はれました。
 色々な事露骨に書いてある所も不思議に不快な感じがなく大変よく思ひました。態度の真面目さから来るのだと思ひました。 それからこれは余計な事かも知れませんが、ある一つの出来事を知らせたい場合は、却って一つの記事として会話などなしに、小説の形をとらずに書かれた方が強くなると思ひました。かういふ事は削除されて或ひは駄目なのかと思ひますが、さういふ性質の材料のものは会話だけで読んでゐてまどろっこしくなります。〉
 小林多喜二は、一九三三年二月二十日、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案で、東京・赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れました。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡で張り込んでいた特高警察が待機していました。多喜二は、そこから逃走を図りましたが逮捕されました。
 同日、築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を、手塚英孝が『小林多喜二』で紹介しています。
 それによると、警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に、小林を寒中丸裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとあります。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、十九時四十五分に死亡が確認・記録されました。
 志賀直哉は、その日の日記につぎのように記しました。
 〈小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕えられ死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持ちになる〉
 志賀は、多喜二の母に悔やみ状を書き、香奠を送っています。
 〈拝啓 御子息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました〉

 【次の記事を参考にさせていただいています。】

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%A4%9A%E5%96%9C%E4%BA%8C

 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/takizi_ate_naoya_no_shokan.pdf

 http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/120/tayori129.htm

 http://www.geocities.jp/seppa06/0401kyokasyo/9912.htm

 http://www.pref.gunma.jp/01/z0199334.html

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%B0%B7%E5%85%AD%E5%90%88%E9%9B%84

 【この小説に出てくるヨタカの鳴き声】

 http://www.youtube.com/watch?v=8VhRNKZGFIQ

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